本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





白畑よし

没年月日:2006/06/02

読み:しらはたよし、 Shirahata, Yoshi*  大和絵研究者であり、女性美術史家の草分け的存在であった白畑よしは、6月2日午後6時35分、心筋梗塞のため埼玉県川口市で死去した。享年99。1906(明治39)年10月29日、山形県酒田市に生まれ、9歳で指物師であった父が上京するのに同行して上京。1926(大正15)年4月文部省専門学校入学者検定試験に合格。黒田清輝の遺言によって設立されることになり、東京美術学校の矢代幸雄研究室で準備作業が行われていた美術研究所に、1928(昭和3)年8月に入所。図版資料の作成、中川忠順文庫の整理にあたる。1930年6月帝国美術院附属美術研究所雇に就任。当時の研究所員であった田中喜作に図版解説執筆を勧められ、その指導によって、「仲津姫像(図版解説)」(『美術研究』39号、1935年)、「板絵神像 奈良薬師寺蔵(図版解説)」(『美術研究』45号、1935年)を発表。35年、論文執筆を勧められて「勧修寺繡帳の技法について」(『美術研究』48号)を発表する。以後、「人麿像の像容について」(『美術研究』66号、1937年)、「佐竹侯爵家蔵三十六歌仙絵雑考」(『美術研究』77号、1938年)、「女絵考」(『美術研究』132号、1943年)、「截金文様の研究 平安朝仏画を中心として」(『美術研究』139号、1946年)など中世絵画を中心とする論考を発表する。戦中は美術研究所の資料の疎開に伴って酒田に滞在。戦後は同研究所資料部、資料部主任を経て、49年6月文部技官に任官し、「歌仙絵の変遷」(『国華』688号、1949年)を執筆するなど、文化財の調査研究と指導につとめた。52年8月に京都国立博物館学芸課に転任。62年8月資料室長となり、研究図書、関係資料の充実に努力する。この間、「源氏物語白描絵雑考」(『大和文華』12号、1953年)、「寝覚物語絵巻雑考」(『大和文華』14号、1954年)等、大和絵の絵巻を中心に調査研究を行い、また、同館の東洋美術品の収集に尽力した。68年3月に京都国立博物館を停年退職。その後も京都市伏見桃山町に住んで、大和絵に関する論考を発表。最晩年は川口市に住む甥のもとに転居し、同地で死去した。白畑の作品研究は、作品を観察し、画中の人物の着衣や文様などの細部に注目するとともに、文学との関わりから描かれた主題や作家の考察におよび、広範な知識と鋭い洞察によって、多くの新知見がもたらされた。女性研究者の少ない時代にあって、第一線で認められる論考を発表し、後進に指針を示し続けた。著作には以下がある。 「仲津姫像 図版解説」(『美術研究』39号、1935年)「板絵神像 奈良薬師寺蔵 図版解説」(『美術研究』45号、1935年)「勧修寺繡帳の技法について」(『美術研究』48号、1935年)「人麿像の像容について」(『美術研究』66号、1937年)「佐竹侯爵家蔵三十六歌仙絵雑考」(『美術研究』77号、1938年)「歌絵と芦手」(『美術研究』125号、1942年)「女絵考」(『美術研究』132号、1943年)「法華経歌絵について」(『美術史学』88号、1943年)「上畳歌仙敦忠図解説」(『国華』641号、1944年)「松平伯爵家蔵法華経見返に就いて」(『美術研究』137号、1944年)「截金文様の研究 平安朝仏画を中心として」(『美術研究』139号、1946年)「歌仙藤原信明朝臣図解説」(『国華』696号、1945年)「やまと絵と女絵」(『三彩』3号、1946年)「白描源氏歌合絵について」(『古美術』193号、1948年)「歌仙絵の変遷」(『国華』688号、1949年)「隆能源氏の季節の題材について」(『美術研究』158号、1951年)「人麿像解説」(『国華』722号、1952年)「隆能源氏「柏木」の表現について」(『美術研究』165号、1952年)「あしでとやまと絵」(『墨美』18号、1952年)「歌仙重之像」(『国華』730号、1953年)「源氏物語白描絵雑考」(『大和文華』12号、1953年)「やまと絵の松」(『艸美』16号、1954年)「寝覚物語絵巻雑考」(『大和文華』14号、1954年)「歌仙斎宮女御図解説」(『国華』755号、1955年)「法然上人像解説」(『国華』781号、1957年)「藤田本紫式部日記絵巻について」(『大和文華』22号、1957年)「女絵補考」(『仏教芸術』35号、1958年)「法界寺壁画(飛天)の製造期に関する推察」(『美術史』32号、1959年)「牛絵四点」(『淡交』158号、1961年)「平家納経と檜扇」(『仏教芸術』52号、1963年)「青蓮院本准胝観音像に就いての私見」(『国華』865号、1964年)「仏鬼軍絵巻について」(『大和文華』72号、1964年)「扇面写経」(『仏教芸術』56号、1965年)「平家の美意識」(『美術工芸』337号、1967年) 著書 『紅白梅図燕子花図』(共著、美術出版社、1955年)『古美術ガイド 京都』(共著、美術出版社、1964年)『やまと絵(日本の美と教養)』(河出書房、1967年)『王朝の絵巻』(鹿島研究所出版会、1968年)『京のうちそと』(京都文庫、1971年)『貝あわせ(日本の遊戯具1)』(共著、フジアート出版、1974年)

林宗毅

没年月日:2006/04/03

読み:はやしむねたけ  実業家で、中国書画の収集家としても知られる林宗毅は、病気療養中のところ、4月3日、東京にて死去した。享年83。林宗毅は、台湾三大名家の第一に挙げられる板橋林本源家の嫡流として、1923(中華民国12)年4月22日、台北の板橋鎮に生まれた。字を志超といい、定静堂と号した。原籍は福建省漳州府龍渓県。1778(乾隆43)年、五代の祖である林應寅の代に台湾に移り、のちに應寅の子林平侯が居を台北県新荘鎮に定め、土地の開墾・塩の専売・貿易等によって財を築いた。1846(道光26)年から1853(咸豊3)年の間に、平侯の二人の子、林國華・林國芳が板橋鎮に移居し、林國華・林國芳それぞれの屋号である本記・源記を合わせて、林家は林本源と総称するようになった。福建の造園技術の粋を集めて築造した林本源園邸は、現在も台北県の古跡として一般に公開されている。定静堂をはじめ、来青閣、方鑑斎、汲古書屋等の別号は、いずれも林本源園邸の楼亭や書斎の名称に由来している。1944(中華民国33)年、台北帝国大学医学部に入学するも、翌年終戦のため退学。1948(中華民国37)年、国立台湾大学文学院外国文学系を卒業。1953(昭和28)年、東京大学大学院(旧制)文学部英文学科を修了。1973(昭和48)年、日本に帰化した。長らく、台湾・日本・アメリカなどで実業家として活躍するかたわら、30歳の頃から中国書画の収集に心を砕き、約1000件のコレクションを形成した。それらの収蔵品は、一般に公開して研究に役立てたいとの考えから、『定静堂中国明清書画図録』(求龍堂、1968年)・『定静東方美術館開館記念展目録』(凸版印刷、1970年)・『近代中国書画集』(中央公論事業出版、1974年)を編修発行、一方では林家にまつわる貴重な文献を『定静堂叢書』として刊行した。収蔵品は、台北の国立故宮博物院(1983・1984・1986・2002年)、東京国立博物館(1983・1990・2001・2003年)、和泉市久保惣記念美術館(2000年)に寄贈し、それにより紺綬褒章を受章(複数回)、中華民国教育部文化奨章(1984)、国立故宮博物院栄誉章(1986年)、中華民国総統奨状扁額(1986年)、中華民国行政院文化建設委員会「第6回文馨奨」の「金奨特別奨章」(2003年)を受章した。『定静堂清賞』(東京国立博物館、1991年)、『林宗毅先生捐贈書画目録』(国立故宮博物院、1986年)、『近代百年中国絵画』(和泉市久保惣記念美術館、2000年)等があり、三館に寄贈した収蔵品から名品を選んだ『定静堂中国書画名品選』(財団法人林宗毅博士文教基金会・国立故宮博物院、2004年)がある。1983(中華民国72)年、中華学術院名誉哲士。1987(中華民国76)年、中国文化大学名誉文学博士。

吉田清

没年月日:2006/01/26

読み:よしだきよし  東京美術倶楽部代表取締役の吉田清は1月26日、肺炎のため死去した。享年78。1927(昭和2)年2月11日、東京都に中村嵩山の四男として生まれ、吉田家養子となる。44年電機高校を中退。古美術商水戸幸に入店し、56年有限会社赤坂吉田を設立して同社代表取締役となる。58年、同社を有限会社赤坂水戸幸と改称。61年から63年まで東京美術倶楽部青年会理事長をつとめ、この間、第二次大戦で行方や消息が不明であった佐竹本三十六歌仙絵を一堂に集めた「佐竹本三十六歌仙展」を開催して注目された。東京美術倶楽部にあっては、81年に監査役、83年に取締役、1995(平成7)年に取締役副社長、97年に代表取締役となった。また、東京美術商協同組合にあっては、66年に理事、77年に専務理事、91年に理事長となり、99年全国美術商連合会会長となった。宗翠と号して茶の湯をよくし、79年財団法人小堀遠州顕彰会理事、84年光悦会役員、86年財団法人MOA美術館光琳茶会役員、2000年大師会理事となり、東都茶道界の重鎮であった。著書に『佐竹本三十六歌仙図録』(共著、東京美術青年会、1962年)、『古筆手鑑梅の露』(書芸文化院、1964年)、『写経手鑑紫の水』などがある。

川上涇

没年月日:2006/01/18

読み:かわかみけい  東洋絵画史研究者の川上涇は1月18日、老衰のため東京都品川区上大崎の自宅で死去した。享年85。1920(大正9)年3月19日、京都市上京区河原町通荒神口に生まれる。1932(昭和7)年3月東京府立第一中学校を卒業。39年旧制第一高等学校を卒業し、同年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学する。瀧精一に師事し、41年12月に同科を卒業。42年4月応召して第一補充兵として近衛歩兵第一連隊に入隊し、42年12月陸軍少尉、45年8月陸軍中尉となり応召を解除される。45年10月より東京女子大学講師として日本美術史を講じ、46年2月より美術研究所嘱託となった。47年6月に東京帝国大学大学院を中退し、同年7月に美術研究所職員となる。48年12月東京女子大学を退職。52年4月に美術研究所が東京文化財研究所となると、同所美術部資料室に配属された。54年7月、東京国立文化財研究所の改組により同所美術部第一研究室に配属され、67年第一研究室長となり、76年4月美術部長となった。この間、1950年10月より成蹊大学講師、64年から67年3月まで横浜国立大学講師、67年からは埼玉大学講師をつとめたほか、東京大学、京都大学、東北大学の講師としても教鞭を取った。明代清代の絵画史を主な研究対象とし、作品に即した実証的な調査研究を行い、60年米沢嘉圃、鈴木敬とともに、台湾に渡り、当時台中にあった故宮博物院の所蔵になる絵画2800点あまりのうち約1000点を調査して、中国絵画の主要な優品の調査に基づく、新たな中国絵画史研究に一石を投じた。82年3月、停年により東京国立文化財研究所を退官する。その後も沖縄県立芸術大学などで講師として教鞭を取った。著書に『東洋美術 絵画Ⅰ』(共著、朝日新聞社、1967年)、『日本絵画館 12 渡来絵画』(講談社、1971年)、『東洋美術全史』(共著、東京美術、1972年)、『大阪市立美術館蔵中国絵画』(共編、朝日新聞社、1975年)、『水墨美術大系 4 梁楷・因陀羅』(共著、講談社、1977年)などがあり、個別作家の研究としては明代の宮廷画家王諤に関する論考「送源永春還図詩画巻と王諤」(『美術研究』221号、1962年)、「王諤筆山水図」(同232号、1964年)、および揚州八怪のひとりともされる華嵒に関する論考「新羅山人早期の作品 付華嵒略年譜」(『MUSEUM』174号、1965年)、「華嵒の秋声賦意図」(『美術研究』236号、1965年)、「研究資料 張四教筆新羅山人肖像―華嵒伝記の一資料」(同256号、1969年)がある。美術史学会、東方学会等に所属し、東方学会においては1987年から1999(平成11)年まで、秋山光和とともに同学会内に部会を組織し、同会内の美術史部会への道を開くなど、後進のために尽力し、長年の功績により2005年同会より功労者特別表彰を受けた。 『原色版美術ライブラリー0104 中国』(共著、みすず書房、1959年)『世界の美術10カルチュア版 中国の名画』(世界文化社、1977年)「邵宝題扁舟帰闕図私考」(『美術研究』248号、1967年)「研究資料 張四教筆新羅山人肖像―華嵒伝記の一資料―」(『美術研究』256号、1969年)「東洋館開館 宋元名画の数々」(『MUSEUM』212号、1968年)「研究資料 祁豸佳の生年」(『美術研究』269号、1970年)「祁豸佳の画蹟 上」(『美術研究』279号、1972年)「王鑑の画蹟(一)」(『美術研究』304号、1977年)

林巳奈夫

没年月日:2006/01/01

読み:はやしみなお、 Hayashi, Minao*  東洋考古学者で、京都大学名誉教授、日本学士院会員の林巳奈夫は、1月1日、急性心不全のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年80。1925(大正14)年5月9日、神奈川県に生まれる。1950(昭和25)年京都大学文学部史学科考古学専攻を卒業し、平凡社編集部を経て、57年京都大学人文科学研究所助手として赴任。68年助教授となり、75年同研究所教授となる。同年に京都大学より文学博士学位を取得した。1989(平成元)年定年退官、京都大学名誉教授となり、2005年に学士院会員に選定された。86年からは泉屋博古館理事の職にあった。林は、青銅器、玉器の考古学的研究、漢代の画像石の図像学的研究などを中心に、中国新石器時代から漢時代までの文化について、幅広く論究した。資料観察を徹底する実証主義的な考古学と、広範な資史料の精緻な解読の双方の成果を総合させることにより、中国古代社会の諸相を浮かび上がらせた。まず林は、青銅器の考古学的研究に取り組んだ。初期の著作である『中国殷周時代の武器』(京都大学人文科学研究所、1972年)をはじめ、とりわけ『殷周時代青銅器の研究 殷周青銅器綜覧一』(吉川弘文館、1984年)、『殷周時代青銅器紋様の研究 殷周青銅器綜覧二』(同、1986年)、『春秋戦国時代青銅器の研究 殷周青銅器綜覧三』(同、1988年)の三部作は、中国青銅器研究が依拠すべき基本図書として、国内外で広く受け入れられている。『殷周時代青銅器の研究』(1984年)により、翌年学士院賞を受賞した。これらの研究では資料の網羅性が徹底されており、膨大な資料の形態分析と機能分析、そしてそれにもとづいた精緻な編年が行われている。こうした研究手法は、玉器の研究においても遺憾なく発揮されており、『中国古玉の研究』(吉川弘文館、1991年)、『中国古玉器総説』(同、1999年)に結実している。また、学部生の頃に興味を抱いたという画像石の研究に新しい方法を切り開いた。すなわち、拓本や写真図版では確認しづらい図像を線画に描き起こし、そのかたちや配置を分析するもので、その成果の一端は、『漢代の文物』(京都大学人文科学研究所、1976年)にまとめられている。これは、1970年より5年間、京都大学人文科学研究所で行われた「漢代文物の研究」という共同研究を基にしたものである。後世の範とされる漢時代の文化的諸相について、金石、古文書など、伝統的な文献史料以外の文字資料の解読と、遺物、図像資料の考証の双方から体系的に捉えたもので、考古学ばかりではなく多くの学問分野が依拠すべき重要な業績としてよく知られている。定年退官後も、次々と論考、著作を発表し、林の学術的探究は亡くなるまでとどまることはなかった。机の上には書きかけの原稿があり、近年発表されていた論文をもとに出版の準備を進めていたという。先述の著作のほか、『三代吉金文存器影参照目録 附小校経閣金文拓本目録』(大安、1967年)、『漢代の神神』(臨川書店、1989年)、『中国古代の生活史』(吉川弘文館、1992年)、『中国文明の誕生』(吉川弘文館、1995年)、『神と獣の紋様学 中国古代の神がみ』(吉川弘文館、2004年)などがある。

三谷敬三

没年月日:2005/12/18

読み:みたにけいぞう  元株式会社東京美術倶楽部社長の三谷敬三は、12月18日午前6時56分、心不全のため川崎市内の病院で死去した。享年89。1916(大正5)年11月20日に生まれ、1934(昭和9)年3月に東京府立工芸学校を卒業後、自動車製造株式会社(現在の日産自動車株式会社)に入社。戦後同社を退社、戦時中休業していた家業の美術商三渓洞を継ぎ、営業を再開した。47年には株式会社三渓洞に組織変更し、代表取締役に就任。一方、51年には東京美術商協同組合の専務理事になり、59年には同組合の理事長、75年には顧問に就任した。また、53年に株式会社東京美術倶楽部の鑑査役、57年に同社常務取締役、69年に代表取締役社長、87年から1995(平成7)年まで代表取締役会長を勤めた。その間、77年から82年まで東京美術倶楽部鑑定委員会委員長を務め、また69年から87年まで五都美術商連合会の代表を務め、斯界において長年にわたり取りまとめ役に精励した。その業績に対して、80年11月に藍綬褒章を受章、87年11月には勲四等旭日小綬章を叙勲した。 

柳生不二雄

没年月日:2005/12/17

読み:やぎゅうふじお  美術評論家の柳生不二雄は12月17日、死去した。享年80。1925(大正14)年8月10日、東京府豊多摩郡大久保町に生まれる。1948(昭和23)年学習院高等科文科を卒業。50年慶応義塾大学法学部を卒業。平凡社での『世界美術全集』編集を機に知り合った美術評論家の土方定一に誘われ、51年日本で最初の公立近代美術館として新設をひかえた神奈川県立近代美術館に勤務、副館長の土方らと開館に尽力し、59年まで在職。その後彫刻家の関敏の紹介で、63年から70年まで日本橋で開廊していた秋山画廊の運営に中川杏子と携わり、当時画廊で扱われることの稀だった彫刻(立体造形)、とりわけ抽象彫刻を主体とした展覧会を企画、土谷武、若林奮、堀内正和、江口週、最上寿之といった作家を取り上げた。74年から85年まで神奈川県立県民ホールでギャラリー課長として勤務。持ち前のバランス感覚を発揮し、絵画や版画、彫刻の領域で活躍する中堅から大家クラスの個展を集めて行う「現代作家シリーズ」や、県在住の版画家を母体に無審査、無償制度の「神奈川版画アンデパンダン展」、工芸の中でも美術的な傾向の強い工芸家と地元の工芸家による作品展にギャラリー側の企画を組み合わせる「日本現代工芸美術展」を三本柱に展覧会を開催。特に彫刻に関しては開館5周年記念「現代彫刻の歩み」展を企画、彫刻の県民ホール・ギャラリーという美術界の評判を印象づけた。また秦野や小田原、平塚で県市共催の野外彫刻展の運営や審査に携わった。83年から1993(平成5)年まで美術雑誌『三彩』に「彫刻のあるまちづくり」を連載、大企業や自治体、再開発地域や商店街などが彫刻・立体造形を屋内外に盛んに設置するようになる中で、全国を歩き野外彫刻の試みを伝えた。85年から87年まで横浜市市民文化室、87年から財団法人横浜美術振興財団に勤務。その傍ら86年から2005年まで『神奈川新聞』の「美術展評」を担当。97年に発足した屋外彫刻調査保存研究会にはその準備段階から参加し、04年まで初代会長を務めて研究会の方向性を作り上げた。著書に『ルネ・ラリック』(PARCO出版 1983年)がある。 

村越伸

没年月日:2005/12/17

読み:むらこしのぶる  村越画廊社長の村越伸は12月17日午後6時26分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年83。1922(大正11)年1月1日、横浜市に生まれる。父は商船の機関長。横浜の本町尋常高小卒業後、母の知己を頼り14歳で古物商の芝・本山幽篁堂に丁稚奉公に入り、主人の本山豊実のもと古美術の基礎を身につける。また本山の知人だった吉田幸三郎の知遇を得、その義弟である速水御舟や、村上華岳、横山大観らの作品に惹かれ、日本画を中心とした新画商の道を志す。1943(昭和18)年に兵役につき、復員後の48年に銀座で画商として再出発。51年旧友の山本孝、志水楠男とともに東京画廊を拠点として営業、サム・フランシス、フンデルトワッサー等、現代美術をも扱う。56年銀座8丁目の並木通りに村越画廊を開設。59年横山操、加山又造、石本正の三作家による日本画のグループ展轟会(後に平山郁夫が参加)をスタートさせ、74年まで16回開催し、美術界に新風を吹き込んだ。71年日本画商相互会の会長(82年再選)、83年東京美術商協同組合理事長に就任。78年には評論家吉村貞司の提案により、多摩美術大学で横山操、加山又造の教えを受けた小泉智英、中野嘉之、松下宣廉、米谷清和によるグループ野火を発足させ、88年まで毎年開催した。1990(平成2)年藍綬褒章を受章。92年パリのギメ美術館に対する尽力を評価され、フランス政府からシュバリエ勲章を授与される。95年勲四等瑞宝章受章。著書に自叙伝『眼・一筋』(実業之日本社、1986年)がある。 

徳川義宣

没年月日:2005/11/23

読み:とくがわよしのぶ、 Tokugawa, Yoshinobu*  徳川美術館館長で尾張徳川家21代当主の徳川義宣は11月23日午前5時5分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。享年71。1933(昭和8)年12月24日、伯爵堀田正恒の六男正祥として東京都渋谷区上智町に生まれる。尾張徳川家20代当主義知の長女三千子と結婚して徳川家の養子となり、義宣と改名した。56年、学習院大学政経学部経済学科を卒業し、東京銀行に就職。57年からは財団法人徳川黎明会の評議員、60年から同会理事を歴任。61年には東京銀行を退職し、62年から徳川黎明会徳川美術館担当理事、67年から同会専務理事をつとめた。この間東京大学農学部林学科研究生として林業を学ぶかたわら、東京国立博物館研究生となって美術史を学んで学芸員資格を取得した。76年からは徳川美術館館長を兼務、93年からは没した義父にかわって徳川黎明会会長をつとめた。そのほか日本工芸会顧問、東京都重要文化財所有者連絡協議会会長、全国美術館会議副会長、漆工史学会副会長、日本博物館協会理事、愛知県博物館協会理事、日本陶磁協会理事、茶の湯文化学会理事、東洋陶磁学会常任委員などをつとめた。徳川美術館に伝えられた尾張徳川家コレクションの保存に尽力するにとどまらず、研究を美術館活動の中心に据え、旧大名家コレクションを収集して館蔵品を増強し、87年には地元政財界の協力のもと展示室と研究室を充実させる美術館の増改築を実現させるなど、徳川美術館を個性の際立つ日本有数の私立美術館に育てあげた手腕と実績は特筆される。私立美術館博物館の地位向上ひいては日本の博物館活動の振興に寄与するところが多く、91年には博物館法制定40周年文部大臣表彰と日本博物館協会顕彰を、2002年には文化庁長官表彰をうけた。美術史学や歴史学など幅広い分野に造詣が深く、とくに源氏物語絵巻と徳川家康文書の研究で第一人者として知られた。なお、93年までの履歴と著作は『徳川義宣氏略歴 著作目録』(徳川義宣氏の還暦に集う会編集発行、1994年)に詳しい。 

東野芳明

没年月日:2005/11/19

読み:とうのよしあき、 Tono, Yoshiaki*  美術評論家で、多摩美術大学名誉教授の東野芳明は、1990(平成2)年に病に倒れて永らく療養していたが、11月19日午後0時15分、東京都杉並区の病院で急性心不全のため死去した。享年75。1930(昭和5)年9月28日東京に生まれ、54年東京大学文学部を卒業、同年「パウル・クレー論」により第1回『美術評論』新人賞を受賞。57年には、『グロッタの画家』(美術出版社)を刊行。58年、60年にヴェネツィア・ビエンナーレのアシスタントとして渡欧、その折の欧米での見聞をもとに『パスポート No.328309 アヴァンギャルドスキャンダルアラカルト』(三彩社、1962年)を刊行した。60年代には、既成の表現をはなれた現代美術の動向を「反芸術」と名づけ、議論をまきおこした。抽象表現主義以後のアメリカ現代美術を中心とする紹介と旺盛な美術評論活動のかたわら、67年から多摩美術大学において教鞭をとり、同大学において新しい芸術の受容層の育成のために芸術学科創設に尽力し、それは81年に開講した。その間、78年から80年にかけて、マルセル・デュシャン本人の許可のもと、彼の代表作である「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも」(1915-23年、フィラデルフィア美術館蔵)のレプリカ制作を東京大学と共同で行うプロジェクトの中心として、「東京ヴァージョン」(東京大学教養学部美術博物館蔵)として完成させた。60年代から80年代にかけて、その評論活動は、同時代の欧米美術の紹介にとどまらず、混迷する現代美術の状況を音楽、演劇等広く文化史的な視野からとらえつつ思索をつづけ、つねに今日的な問題を提起しつづけたことは特筆に値するものであった。翻訳、画集等の編集は数多く、また評論集等の主な著作は下記のとおりである。『現代美術―ポロック以後』(美術出版社、1965年)、『ジャスパー・ジョーンズ そして/あるいは』(美術出版社、1979年)、『裏切られた眼差:レオナルドからウォーホールへ』(朝日出版社、1980年)、『曖昧な水 レオナルド・アリス・ビートルズ』(現代企画室、1982年)、『ロビンソン夫人と現代美術』(美術出版社、1986年)、『ジャスパー・ジョーンズ アメリカ美術の原基』(美術出版社、1986年)、『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』(美術出版社、1990年) 

下山肇

没年月日:2005/09/22

読み:しもやまはじめ  静岡県立美術館館長の下山肇は9月22日午後4時58分、静岡市内の病院で死去した。享年59。1945(昭和20)年東京都に生まれ、70年京都大学文学部美学美術史学科を卒業。兵庫県立近代美術館学芸員となり、76年京都大学大学院修士課程美学美術史学科を修了、79年同博士課程を修了。同年京都市美術館学芸員となり、84年5月から静岡県教育委員会美術博物館設立準備室に勤務して、コレクション形成や1994(平成6)年設立のロダン館の設置などに尽力した。静岡県立美術館開館後は、86年度から88年度まで静岡県立美術館学芸課長をつとめ、89年4月より同課長と部長を兼務、96年4月同部長となった。この間、「エルミタージュ美術館名作展―ヨーロッパの風俗画」(91年)、「ロダンと日本」(2001年)などを企画。2001年4月に尾道大学芸術文化学部教授となった。05年6月1日、静岡県立美術館館長に就任。同年2月、現職のまま死去した吉岡健二郎前館長の後任として赴任したばかりであった。ノルウェーの画家エドワルド・ムンク、京都で活躍した日本の洋画家須田国太郎についての論考がある。著書に『ムンク』(日経ポケットギャラリー、1993年)、『巨匠たちの自画像』(マヌエル・ガッサー著、桑原住雄と共訳、新潮選書、1977年)がある。 

濱中真治

没年月日:2005/09/18

読み:はまなかしんじ、 Hamanaka, Shinji*  美術史家で川越市立美術館学芸員の濱中真治は9月18日、自宅で急逝した。享年43。1962(昭和37)年4月10日、熊本県玉名市で生まれる。81年熊本県立玉名高校を卒業して佐賀大学教育学部特設美術科に入学。82年同大学を中退して翌年東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。1990(平成2)年同大学大学院美術研究科芸術学科日本東洋美術史専攻を修了し、山種美術館に学芸員として就職する。それまで感覚的な言葉で語られがちだった近代日本画の実証的研究に努め、典拠となる美術資料の収集・編纂に力を入れた。その成果は本業の傍ら助力を惜しまなかった『日本美術院百年史』の編纂、速水御舟をはじめとする作家展カタログの文献目録や年譜に反映された。また「三人の巨匠たち―御舟・古径・土牛」展(96年)や「美人画の誕生」展(97年)の図録テキストでは、「新古典主義」や「美人画」といった近代日本画を語る上で当為とされる概念の問い直しを試みている。2002年川越市立美術館準備室に転職し、同館の立ち上げに尽力。同館開館後は小茂田青樹ら川越ゆかりの作家展を手がけた。97年から99年まで恵泉女学園大学で非常勤講師を勤める。遺稿集として、濱中真治論文集刊行会編『日本画 酔夢抄』(2006年)がある。 

内田昭人

没年月日:2005/08/16

読み:うちだあきと  東京文化財研究所修復技術部応用技術研究室長の内田昭人は8月16日午後11時6分、肺炎のため東京都西東京市の病院で死去した。享年55。1949(昭和24)年11月1日、埼玉県に生まれる。75年早稲田大学大学院理工学研究科(建設工学専攻)修士課程修了。81年東京大学大学院工学系研究科(建築学専攻)博士課程修了。工学博士、一級建築士。80年2月1日、奈良国立文化財研究所に採用。埋蔵文化センター研究指導部保存工学研究室研究官、平城京宮跡発掘調査部計測修景調査室研究官を歴任した後、埋蔵文化財センター研究指導部主任研究官に昇任、2000(平成12)年には保存工学研究室長に就任した。その間、史跡藤ノ木古墳の整備、史跡手宮洞窟や史跡フゴッペ洞窟の保存に従事するなど、構造力学の専門家として史跡の保存整備に貢献した。また、特別史跡平城宮跡朱雀門の復原など古代建物の復原にも力を注いだ。さらに、伝統的木造建築物の耐震性能に関する研究では、多くの五重塔にて常時微動測定を実施し、五重塔の構造と固有振動数の相関について解析を行った。特に五重塔の耐震性能では多くの研究成果を発表しており、99年にNHK教育テレビの「視点・論点」に出演、「五重塔の耐震性」について解説を行っている。02年4月、東京文化財研究所修復技術部応用技術研究室長に異動になった後は、五重塔の耐震性能に関する研究を継続するとともに、「文化財の防災計画に関する調査研究」の主担として文化財建造物の防災情報システムの構築などを行った。奈良国立文化財研究所および東京文化財研究所在任中は、精力的に論文執筆・講演等を行うとともに、古建築の鑑賞方法に関する随筆を執筆するなど、文化財の活用にも大きく貢献した。主な著書としては、「フレッシュを化学する」(「11建築物の保存」、大日本図書、1991年)、「発掘を科学する」(「建築や石室の健康診断」、岩波新書、1994年)、平尾良光・松本修自編「文化財を探る科学の眼-第六巻 古代住居・寺社・城郭を探る」(「五重塔の構造と揺れ」、国土社、1999年)、「奈良の寺-世界遺産を歩く」(岩波新書、2003年)などが挙げられる。 

田中穣

没年月日:2005/04/25

読み:たなかじょう、 Tanaka, Jo*  美術評論家の田中穣は、4月25日午前4時57分、胃がんのため東京都文京区の病院で死去した。享年80。1925(大正14)年3月25日、神奈川県平塚市に生まれる。1949(昭和24)年3月、早稲田大学文学部英文科を卒業、同年読売新聞社に入社、社会部、文化部を経て、主に美術関係の記事を多く執筆するようになる。同社在職中に『藤田嗣治』(新潮社、1969年)を刊行、同年の直木賞候補となった。また、78年12月には、同紙掲載の「日本の四季」の企画執筆に対して同社長賞を受けた。81年に同社を退社、文筆活動に入ることとなった。広範な調査にもとづく画家の評伝等の執筆が多く、業績には単行書に『三岸好太郎』(日動出版、1969年)、『日本洋画の人脈』(新潮社、1972年)、『近代日本画の人脈』(新潮社、1975年)、『心淋しき巨人 東郷青児』(新潮社、1983年)、『一水会五十年史』(1989年)、『評伝 奥村土牛』(芸術新聞社、1989年)、『評伝 山本丘人』(芸術新聞社、1991年)等数多くあり、ほかに旅行記、随筆等も多く執筆した。 

中村敬治

没年月日:2005/03/24

読み:なかむらけいじ、 Nakamura, Keiji*  美術批評家の中村敬治は、東京都北区の病院で、3月24日胃癌のため死去した。遺志により、同26日、家族のみで密葬。享年68。1936(昭和11)年5月10日、山口市に生まれる。55年同志社大学文学部文化学科美学芸術学専攻に入学。59年同大学を卒業後、同大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程に入学、62年同課程修了。同大学文学部助手を経て、66年より86年まで専任講師を務めた。その間、72年アメリカ国務省の招聘によりアメリカの現代美術を視察、76年~78年フランス政府給費研修員としてパリに留学、82年ドイツ学術交流会(DAAD)によりドイツで滞在研修。同志社大学の助手、専任講師時代から、恒常的に同時代の美術動向に触れながら、新聞や雑誌に現代美術や実験映画の批評を執筆するかたわら、京都市内の画廊で現代美術の企画展を開くなどの活動を開始、フランスから帰国後の78年以降は、読売新聞夕刊に継続的に展評を執筆した(86年まで)ほか、『美術手帖』を中心に現代美術の批評やアンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ等の作家論を執筆、精力的に評論活動を展開した。86年4月に、大阪の万博公園にあった国立国際美術館(2004年に、大阪・中之島に移転)に主任研究官(一時期、学芸課長)として転出してからは、「近作展2-野村仁」(87年7月)、「近作展7-今村源/松井知惠」(89年11月)、「芸術と日常-反芸術/汎芸術」展(90年10月)、「パナマレンコ展」(92年8月)、「彫刻の遠心力-この十年の展開」(92年10月)等を担当したほか、パリ留学時代から親交の深かった工藤哲巳の仕事を振り返る「工藤哲巳回顧展-異議と創造」(94年10月)を開いた後、95年3月に同館を退職。同年4月に、新設準備段階にあったNTTインターコミュニケーション・センターに転出、97年4月に開館後は、同センター副館長・学芸部長として、「ビル・ヴィオラ ヴィデオ・ワークス」展(97年11月)、「荒川修作/マドリン・ギンズ展」(98年1月)、「『バベルの図書館』-文字/書物/メディア」展(98年9月)、「『針の女』-キム・スージャのヴィデオ・インスタレーション」展(2000年5月)等を企画した。01年3月に同センターを退職後は、特定の組織に属さず、より自由な立場で批評活動を続けた。01年の8月から03年3月まで『新美術新聞』に連載した「新美術時評」では、意表をつく見出しと奥の深い諧謔に溢れた批評で読者を楽しませた。大学教員から美術館を去るまでの関西での30年、そして「芸術の方が技術に盲従している場合がやたら多い」(「メディア・アートのあやうさ」『読売新聞』2001年4月11日夕刊)ことを百も承知で勤めたメディア・アートの現場(ICC)を拠点とした東京での10年。その間、国内外の美術の現場を飽くことなく(というより飽き果てるまで)渉猟し、独自の嗅覚で特異な資質の美術家たちを発掘すると同時に、洞察に富んだ鋭い批評を残した。実験映画やヴィデオ・アートについては、その草創期から詳しく、関連の上映会に足しげく通って丁寧な分析を行った。最晩年は、関東圏の若手の画家たちと自由闊達な勉強会をしばしば開いて互いを刺激しあい、亡くなる直前には「横浜のデュシャン-展示について」(『新美術新聞』2005年3月1日)と題した展評を病床で執筆、最後までその厳しい筆鋒は衰えなかった。著書として、『現代美術/パラダイム・ロスト』(書肆風の薔薇、のち水声社に改名、1988年8月)、『現代美術/パラダイム・ロストⅡ』(水声社、1997年8月)、『現代美術巷談』(水声社、2004年7月)がある。これら三冊に、70年代半ば以降の著述のほとんどが網羅されている。

吉岡健二郎

没年月日:2005/02/02

読み:よしおかけんじろう、 Yoshioka, Kenjiro*  美学者で静岡県立美術館館長、京都大学名誉教授の吉岡健二郎は、2月2日、心不全のため枚方市の自宅で死去した。享年78。1926(大正15)年5月3日東京(現在の品川区大崎)に生まれる。1944(昭和19)年、松本高等学校(旧制、理科甲類)入学、46年同校中途退学、47年京都大学文学部選科(旧制、哲学科)に入学、井島勉のもとで美学美術史を学び50年卒業、51年同本科(哲学科美学美術史専攻)を卒業、卒業論文はカント『判断力批判』の天才論に関するものであった。同年、同大学大学院(旧制)に進学し、55年4月まで在籍、同年5月から60年4月まで同大学文学部助手を勤めた。61年同志社大学文学部専任講師、62年同助教授、67年同教授となり、68年4月京都大学文学部助教授に就任、73年3月同教授(美学美術史学第一講座担任)に昇任、その間、72年5月に京都大学より文学博士学位を授与された。同大学では79年1月から80年1月まで評議員、80年1月から81年1月まで文学部長を勤め、1990(平成2)年3月に定年退官、同年4月、京都大学名誉教授の称号をおくられた。同年京都芸術短期大学教授、91年京都造形芸術大学教授(95年3月まで芸術学部長、92年6月から95年3月まで学長代行)、96年から98年まで同大学大学院芸術研究科長を勤め、また、94年1月からは静岡県立美術館館長の任にあった。2004年11月には、永年にわたって教育・研究・大学行政およびわが国の美術の発展に尽くした功績に対し瑞宝中綬章を授与された。吉岡の研究業績は、芸術学の確立者とされるK.フィードラーや、A.リーグル、D.フライらウィーン学派の美術史家の芸術思想などを足掛かりとしつつ、近代芸術学の成立事情・過程の検証と現代におけるその意義をめぐって、じつに幅広い分野にわたっており、比較的初期の成果は学位論文である著書『近代芸術学の成立と課題』(創文社、1975年)にまとめられている。「近代芸術学は人間とは何であるかという問に芸術の研究を通じて迫って行こうとする形で成立し、且つかかる問に答えることをその課題としている」(同書)といわれるように、その学風は一貫して、理論のための理論に陥ることなく、あくまでも具体的な美の現象、芸術の感動に即して芸術への学問的思索を深め、もって人間性の本質に迫ろうとするものであった。美や芸術をめぐる理論的反省と芸術作品の歴史的研究の一体性を重んじるこの姿勢は、吉岡が30年余にわたって指導に当たった京都大学文学部美学美術史学科の基調ともなった。共編著に『美学を学ぶ人のために』(世界思想社、1981年)、『La Scuola di Kyoto, Kyoto-ha(京都学派)』(Rubbettino Editore、1996年)、共著に『現代芸術 七つの提言』(やしま書房、1962年)、『芸術的世界の論理』(創文社、1972年)、『比較芸術学研究』第4巻(美術出版社、1980年)、『講座美学』第3巻(東京大学出版会、1984年)、訳著にダゴベルト・フライ『比較芸術学』(創文社、1961年)、ドニ・ユイスマン『美学』(共訳、白水社、1992年)、グザヴィエ・バラル・イ・アルテ『美術史入門』(共訳、白水社、1999年)、ヘルマン・ゼルゲル『建築美学』(中央公論美術出版、2003年)などがあり、その主要な論文は『美学』、『哲学研究』等に発表された。また吉岡の略年譜と著作目録は、『研究紀要』第11号(吉岡健二郎教授退官記念号、京都大学文学部美学美術史学研究室、1990年)、および『吉岡健二郎先生 略年譜・業績一覧(講演録)』(京都大学文学部美学美術史学研究室、2005年)に収録されている。 

山辺知行

没年月日:2004/10/01

読み:やまのべともゆき、 Yamanobe, Tomoyuki*  染織史研究者の山辺知行は、10月1日、肺炎のため死去した。享年97。1906(明治39)年10月27日東京市麹町区(現東京都千代田区)に旧華族の家に生まれる。1931(昭和6)年3月に京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業、35年8月に東京帝室博物館研究員に就任。徴兵から復員後、47年より東京国立博物館初代染織室長に就任し、従来、風俗史研究の中に取り込まれてきた服飾・染織を、初めて美術工芸あるいは服飾文化という観点から美術史の中に位置づけた。処女論文「辻が花染に対する一考察」(『美術史』第12号、1957年3月)では明治期以降、古美術市場で人気急騰した日本中世染模様である「辻が花染」を初めて学術的な立場から定義し、以後の文化財指定の基準ともなった。68年3月に同博物館を退任後は、共立女子大学教授に就任、73年3月に同大学教授を退任、同年4月に多摩美術大学教授に就任。77年3月に同大学教授を退任、同大学客員教授に就任する。78年4月に財団法人遠山記念館館長に就任、88年3月に多摩美術大学客員教授を退任し、同大学附属美術館館長に就任。1991(平成3)年には遠山記念館館長を退任し、同館の顧問に就任した。その他、美枝きもの資料館名誉館長、都留市博物館館長を歴任した。東京国立博物館に就任中から、伝統工芸に携わる職人と連携し、人形を含む同館所蔵の染織の修理や復元にも指導力を発揮した。また、東京国立博物館を退任後は、染織美術の蒐集に力を注ぎ、日本染織のみならず、近世日本の人形、アジア・ヨーロッパ・南アメリカ各国の染織にまでおよんだ膨大なコレクションは遠山記念館に寄贈された。その全容は『山辺知行コレクション』第1巻 インドの染織、第2~3巻 世界の染織、第4~5巻 日本の染織、第6巻 日本の人形、第7巻 別冊 補遺編(源流社、1984~1985年)に詳しい。国際的にも活躍し、ドイツやフランスで開催された国際学会での藍染めに関する口頭発表、インドで開催されたシンポジウムの講演記録などは『ひわのさえずり 山辺知行染織と私のエッセー』(源流社、2004年)に収録されている。その他、主著を以下にあげる。『染織』(大日本雄弁会講談社、1956年)、『日本の人形』(西沢笛畝と共著、河出書房、1954年)、‘Textiles’, Arts & Crafts of Japan, no.2, C.E.Tuttle, 1957. 『日本染織文様集』Ⅰ~Ⅲ・英文版(日本繊維意匠センター、1959~1960年)、『小袖』(北村哲郎・田畑喜八と共同編集、三一書房、1963年)、『能装束(徳川美術館所蔵品)』1・2巻(東京中日新聞社、1963年)、『能衣裳文様』上・下(中島泰之助と共同編集、芸艸堂、1963年)、『辻ヶ花』(京都書院、1964年)、『小袖 続』(北村哲郎と共著、三一書房、1966年)、『日本の美術7 染』(至文堂、1966年)、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(鈴木 尚・矢島恭介と共著、東京大学出版会、1967年)、『小袖文様』上下巻(北村哲郎と共著、三一書房、1968年)、『紬』(光風社書店、1968年)、『能装束文様集』(檜書店、1969年)、『上杉家伝来衣裳』日本伝統衣裳 第1巻(神谷栄子と共著、講談社、1969年)、『染織・漆工・金工』小学館原色日本の美術20(岡田譲・蔵田蔵と共著、小学館、1969年)、『日本服飾史』(駸々堂出版、1969年)、『縞』日本染織芸術叢書(芸艸堂、1970年)、『能装束文様集 続』(檜書店、1972年)、『日本染織実物帖』(衣生活研究会、1972年)、『傳統工芸染織篇』全18冊(衣生活研究会、1973~1975年)、『絣』日本染織芸術叢書(芸艸堂、1974年)、『細川家伝来能装束』永青文庫美術叢書(監修、主婦の友社、1974年)、『ペルシャ錦』(染織と生活社、1975年)、『日本の染織』(毎日新聞社、1975年)、『人形―坂口真佐子コレクション―』(監修、講談社、1976年)、『日本の美術;127 紅型』(至文堂、1976年)、『人形集成』全11冊(西沢笛畝と共著、芸艸堂、1977年)、『キャリコ染織博物館 更紗』(染織と生活社、1978年)、『染織』(角山幸洋と共著、世界文化社、1978年)、『シルクロードの染織 スタイン・コレクション ニューデリー国立博物館所蔵』(紫紅社、1979年)、『瑞鳳殿 伊達政宗の墓とその遺品』(共著、瑞鳳殿再建期成会、1979年)、『日本の染織』第2巻 武家/舶載裂(小笠原小枝と共同責任編集、中央公論社、1980年)、『琉球王朝秘蔵紅型』(日本経済新聞社、1980年)、『日本の染織』第3巻 武家の染織(責任編集、中央公論社、1982年)、『日本の染織』第9巻 庶民の染織・第10巻 近代の染織(責任編集、中央公論社、1983年)、『染織』世界の美術:カルチュア版;19(共著、世界文化社、1983年)、『染織・服飾』文化財講座日本の美術;11工芸(文化庁監修、岡田譲と共著、第一法規出版、1983年)、『一竹辻が花 OPULENCE オピュレンス』(編集解説、講談社、1984年)、『印度ロイヤル錦 キャリコ染織博物館コレクション;2』(染織と生活社、1988年)、‘Ein blaues Wunder: Blaudruck in Europe und Japan’, Berlin: Akademie Verlag, 1993. ‘Kyoto modern textiles, 1868-1940’, Joint author; Kenzo Fujii, Kyoto Textile Wholesalers Association, 1996.英語に堪能で広範な関心を終生離さず、染織に携わる職人と親交を深めて制作側の立場からも染織工芸を語る独特の視点が、近世武家女性の夏の衣料である茶屋辻を藍の浸染で復元するという壮大な実験や、世界各国の染織蒐集という大きな成果を残す原動力となった。

矢口國夫

没年月日:2004/08/20

読み:やぐちくにお  元東京都現代美術館学芸部長で、美術評論家の矢口國夫は、8月20日脳出血のため東京都小平市の病院で死去した。享年57。1947(昭和22)年7月11日に栃木県宇都宮市に生まれる。66年に栃木県立宇都宮高校を卒業し、同志社大学文学部に入学。71年に同大学を卒業し、同年西武百貨店に入社。翌年4月、栃木県教育委員会に転出し、同年11月開館の栃木県立美術館開設準備にあたった。同美術館開館後、「清水登之」展(1973年2月)、「青木繁福田たねのロマン」展(1974年8月)、「阿以田治修」展(1976年2月)、「川島理一郎」展(1976年9月)、「小杉放菴」展(1978年2月)等、近代日本美術を中心にした企画展を担当した。79年1月に国際国流基金に転任、同基金において日本の近現代美術を海外に紹介する展覧会等を企画担当し、またヴェネツィア・ビエンナーレも担当し、日本の現代美術紹介にも積極的に参画した。1992(平成4)年4月には、東京都現代美術館開設準備に学芸部長として転任、95年3月の同美術館開館後からは、「アンディ・ウォーホル展」、「ポンピドー・コレクション展」等の企画展を担当した。98年、同美術館在勤中、病に倒れ自宅療養中であった。美術史研究ばかりではなく、国内外の美術の動向にも視野を広げ、活動した美術館人であった。没後、『矢口國夫美術論集―美術の内と外』(「矢口國夫美術論集」刊行委員会編、美術出版社、2006年3月)が刊行され、同書によって生前の研究及び評論等がまとめられた。

山川武

没年月日:2004/06/01

読み:やまかわたけし、 Yamakawa, Takeshi*  東京芸術大学名誉教授で、美術史研究者の山川武は、6月1日、肺がんのため死去した。享年77。葬儀は近親者のみで行われ、同年7月3日に「山川武先生を偲ぶ会」(東京上野、精養軒)が行われた。1926(大正15)年11月22日、兵庫県神戸市に生まれる。1949(昭和24)年7月、東京芸術大学美術学部芸術学科に入学、53年3月に卒業、4月に同学部専攻科に入学するが翌年病気のために退学。59年1月に東京芸術大学美術学部助手となり、翌年9月から同大学同学部附属奈良研究室に事務主任事務取扱として赴任し、63年6月、同研究室講師となる。67年4月、同研究室勤務を解かれ、同大学美術学部芸術学科講師となる。69年4月、同大学美術学部助教授となる。78年4月、同大学同学部教授となる。1993(平成5)年9月、東京芸術大学芸術資料館において「退官記念山川武教授が選ぶ近世絵画」展を開催。翌年3月、同大学を退官。同年4月、女子美術大学教授に就任、同月、東京芸術大学名誉教授となる。97年7月、東京銀座にて「山川武写真展―行旅余情―」展開催。翌年、女子美術大学を退職。2002年10月、『山川武写真集』(私家版)を刊行する。本項末にあげる著述目録で了解されるように、山川の研究者としての対象は、近世日本絵画が有する独特の美しさと豊かさの探求であった。研究歴の初めにあげられる業績は、『国華』誌上で特集された長沢蘆雪に関する研究である。これは、従来の近世絵画史から見逃されていた画家と作品を位置づけるものとして、斯界から注目された研究であり、いわゆる「奇想」と目されることとなった画家群をも網羅するその後の絵画史研究に刺激を与え、特筆すべきものであった。その後、円山応挙、呉春等を中心とする近世写生画の研究、さらに光悦、宗達、光琳、抱一等の琳派研究へと展開していった。また、田能村竹田、与謝蕪村、浦上玉堂等の南画研究、宋紫石の長崎派、さらに西郷孤月、長井雲坪、狩野芳崖、高橋由一にいたる幕末明治期の画家研究に領域をひろげていった。ここで一貫していた研究姿勢は、作品に直に接することからの知見をもとに深められるものであり、同時にその折の豊かな感性に裏づけられた経験をもとに論考されていた点である。美術史研究の基本である誠実に「見る」ことを通していた点は、趣味でもあった写真にも生かされ、晩年に刊行した写真集に収められたアジア、欧米各地での調査研究旅行の折に撮られた写真の数々には、人間や自然への暖かい眼差しが感じられる。巨躯ながら、眼鏡に手を添えつつ訥々とした語りで近世絵画の「面白さ」を講義する時、その姿には温和ながら美術への熱い想いが常にこめられていたことを記憶する。 著述目録は、下記の通りである。(本目録は、「山川武先生を偲ぶ会」編によるものである。) 「山姥図」と長沢蘆雪(『仏教芸術』52号、1963年11月) 長沢蘆雪筆 雀図(『国華』860号、1963年11月) 長沢蘆雪とその南紀における作品(同前) 長沢蘆雪伝歴と年譜(同前) 西光寺の蘆雪画(『仏教芸術』60号、1966年4月) 大覚寺と渡辺始興(『障壁画全集 大覚寺』、美術出版社、1967年3月) 正木家 利休居士像(『国華』901号、1967年4月) 表千家 利休居士像(同前) 三玄院 大宝円鑑国師像(同前) 東大寺大仏の鋳造及び補修に関する技術的研究 その一(共同研究)(『東京芸術大学美術学部紀要』4号、1968年3月) 良正院の障壁画(『障壁画全集 知恩院』、美術出版社、1969年1月) 写生画(『原色日本の美術19 南画と写生画』、小学館、1969年2月) 円山応挙について―「写生画」の意味の検討―(『美学』79号、1969年12月) 長沢蘆雪襖絵(『奈良六大寺大観 第6巻 薬師寺 全』、岩波書店、1970年8月) 結城素明作 鶏図杉戸(『昭和45年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1971年9月) 長沢蘆雪筆 墨龍図(『国華』942号、1972年1月) 長沢蘆雪筆 汝陽逢麹車図(同前) 絵画 第5章 江戸時代(『奈良市史 美術編』、奈良市、1974年4月) 円山応挙についての二三の問題(『国華』945号、1972年4月) 呉春筆 群山露頂図(同前) 呉春筆 耕作図(同前) 長沢蘆雪筆 群猿図(同前) 呉春筆 渓間雨意・池辺雪景図(『国華』948号、1972年8月) 光琳―創造的装飾『みづゑ』812号、1972年10月) 長沢蘆雪筆 仁山智水図(『国華』953号、1972年12月) 屈曲初知用―光琳屏風展雑感(『芸術新潮』277号、1973年1月) 早春の画家―渡辺始興展(『みづゑ』818号、1973年5月) 『日本の名画 6 円山応挙』(講談社、1973年6月) 応挙と蘆雪(『水墨美術大系 第14巻 若冲・蕭白・蘆雪』、講談社、1973年9月) 二つの「槇楓図」屏風(『日本美術』102号、1973年11月) 尾形光琳「槇楓図」(『昭和48年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1974年12月) 松屋耳鳥斎筆 花見の酔客図(『国華』976号、1975年1月) 森狙仙筆 猿図(同前) 森徹山筆 翁図(同前) 源琦筆 四十雀図(同前) 円山応挙筆「牡丹図」他12幅(『昭和49年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1975年12月) 呉春筆「寒木図」、「山水図」、呉春、岸駒合作「山水図」(同前) (作品解説)(『東京芸術大学蔵品図録 絵画Ⅱ』、東京芸術大学、1976年3月) 円山応挙筆 四季山水図(『国華』997号、1977年1月) 『日本美術絵画全集 第22巻 応挙/呉春』(集英社、1977年4月) 円山応挙筆 春秋鮎図(『国華』1002号、1977年7月) 長沢蘆雪筆 岩上小禽図、長沢蘆雪筆 狐鶴図(『国華』1003号、1977年8月) (作品解説)(『東京芸術大学所蔵名品展―創立90周年記念―』(東京芸術大学、1977年9月) 円山四条派(『文化財講座 日本の美術3 絵画(桃山・江戸)』、第一法規出版、1977年11月) 円山応挙筆 蟹図屏風(『国華』1008号、1978年2月) 円山・四条派と花鳥・山水(『日本屏風絵集成 第8巻 花鳥画―花鳥・山水』、講談社、1978年5月) 円山応挙筆 螃蟹図(『国華』1017号、1978年11月) 浦上玉堂筆 青松丹壑図(『昭和52年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1979年3月) 近世市民芸術の黎明『日本美術全集 第21巻 琳派 光悦/宗達/光琳』(学習研究社、1979年8月) 本阿弥光悦(同前) 俵屋宗達(同前) 尾形光琳と乾山(同前) (作品解説)(『東京芸術大学蔵品図録 絵画Ⅰ』、東京芸術大学、1980年3月) 上方の町人芸術(『週刊朝日百科 世界の美術129 江戸時代後期の絵画Ⅱ 円山・四条派と若冲・蕭白』(朝日新聞社、1980年9月) 若冲と蕭白(同前) 蕪村の寒山拾得(『日本美術工芸』512号、1981年5月) 1980年の歴史学界―回顧と展望―日本近世〔絵画〕〔工芸〕(『史学雑誌』90編5号、1981年5月) 「江戸琳派」開眼―抱一・其一について―(『三彩』406号、1981年7月) 長沢蘆雪筆 瀧に鶴亀図屏風 同 赤壁図屏風(『国華』1047号、1981年12月) 呉春筆 白梅図屏風(『国華』1053号、1982年7月) 日本美術史上での南画の位置づけ(『田能村竹田展』、大分県立芸術会館、1982年10月) 彷徨の画家西郷孤月(『西郷孤月画集』、信濃毎日新聞社、1983年10月) (作品解説)(『英一蝶展』、板橋区立美術館、1984年2月) (作品解説)(『東京芸術大学所蔵名品展』、京都新聞社、1984年10月) 一旅絵師の生涯―雲坪小伝―(『長井雲坪』、信濃毎日新聞社、1985年4月) 光琳の生涯(『芸術公論』10号、1985年11月) 宋紫石とその時代(『宋紫石とその時代』、板橋区立美術館、1986年4月) 宋紫石の画業とその時代(『宋紫石画集』、宋紫石顕彰会、1986年9月) 第2章 絵画(『深大寺学術総合調査報告書 第1分冊・彫刻 絵画 工芸』、深大寺、1987年11月) (解題)(『東京芸術大学 創立百周年記念 貴重図書展』、東京芸術大学附属図書館、1987年11月) 化政期の江戸絵画(『東京芸術大学芸術資料館所蔵品による 化政期の江戸絵画』、東京芸術大学美術学部・芸術資料館、1988年11月) 狩野芳崖と、その「悲母観音」について(『特別展観 重要文化財 悲母観音 狩野芳崖筆』、東京芸術大学芸術資料館、1989年10月) 円山応挙筆 秋月雪峽図(『国華』1132号、1990年3月) 近世、伊那谷が生んだ二画人(『佐竹蓬平と鈴木芙蓉』、信濃毎日新聞社、1990年7月) 高橋由一の「鮭」を考える(『特別展観 重要文化財 鮭 高橋由一作』、東京芸術大学芸術資料館、1990年10月) 佐竹蓬平、その生涯と芸術(『佐竹蓬平展』、飯田市美術博物館 1990年10月) 長崎派(『古美術』100号、1991年10月) 円山・四条派における「写生画」の意味について(『美術京都』11号、1993年1月) 「退官記念 山川武教授の選ぶ近世絵画」展列品解説(『退官記念 山川武教授』、東京芸術大学美術学部、1994年1月)

三山進

没年月日:2004/05/11

読み:みやますすむ  美術史学者・推理小説家の三山進は5月11日、神奈川県逗子市内の病院にて病没した。享年74。 1929(昭和4)年6月22日、兵庫県神戸市に生まれる。49年3月に甲南高等学校卒業。52年3月に東京大学文学部美学美術史学科を卒業し、東京大学大学院人文科学研究科美学美術史学専攻に進学、同修士課程修了のち52年から65年まで鎌倉国宝館学芸員を務める。71年から1991(平成3)年まで跡見学園女子大学教授、同年から94年まで青山学院大学教授を歴任。この間に、川崎市、横浜市、横須賀市、大和市、平塚市等の文化財委員(彫刻)を兼任した。その人柄は温厚篤実で、学生をはじめ研究者の誰からも好かれた。また、こよなく酒を愛し、教壇あるいは講演の壇上にあがる前には、緊張を緩和させるために少量のウイスキーを口にしたことはよく知られている。美術史学会、美学会、密教図像学会会員。なお「久能恵二」のペンネームで推理小説作家でもあったことは斯界ではあまり知られていない。本人もそのことに触れることを好まなかったようである。推理小説作家としてのデビューは59年、30歳の時に『宝石』『週刊朝日』の共同募集に「玩具の果てに」を応募、二等に入選し『宝石』同年10月号に掲載されたことにはじまる。翌年には『暗い波紋』(東都書房、1960年12月)を発表。以後、「土の誘い」(『別冊週刊朝日』1961年7月号)、『手は汚れない』(東都書房、1961年10月)、『日没の航跡』(東都書房、1962年4月)、『偽りの風景』(角川書店、1962年11月)、「愛の歪み」(『推理ストーリー』1962年5月号)、「殺人案内」(『宝石』1964年1月号)、「崩れる女」(『推理ストーリー』1964年4月号)「死者の旅路」(『推理ストーリー』1968年3月号)を著す。このほか本名で鮎川哲也の『蝶を盗んだ女』(角川文庫、1979年)の解説を書いている。なお、「死者の旅路」以後、推理小説を書かなかった理由について、その著『鎌倉と運慶』の「おわりに」のなかで「止めてしまったのはあまり注文がこなく、嫌気がさしてきた、という単純な理由からでしかないが…」と自嘲を込めて述べているが、真意は本人も告白している通り、66年夏の推理作家協会の『会報』に寄せた文のなかで「円覚寺の国宝舎利殿が従来、考えられていたように、鎌倉時代の建物ではなく、室町時代、尼五山第一位太平寺から移されたものであることが証明されるにいたった話である。そして、この経過を親しく見聞しながら私は、推理小説を読む以上の面白さ、興奮を覚えたことであった」と結んだところに求められるであろう。このことは以後、著作の軸足が美術史研究に移行していることからもうかがえる。単著に『日本の神話』(宝文館、1959年)、『称名寺(美術文化シリーズ113)』(中央公論美術出版、1959年)、『鎌倉(美術文化シリーズ103)』(中央公論美術出版、1963年)、『極楽寺(美術文化シリーズ114)』(中央公論美術出版、1966年)、『鎌倉の彫刻』(東京中日新聞出版局、1966年)、『日本神話の口承』(鷺の宮書房、1968年)、『三千院(美術文化シリーズ)』(中央公論美術出版、1970年)、『鎌倉』(学生社、1971年)、『京の寺』(山と渓谷社、1971年)、『名品流転』(読売新聞社、1975年)、『太平寺滅亡』(有隣堂、1976年)、『鎌倉―山渓カラーデラックス―』(山と渓谷社、1978年)、『鎌倉―花と緑とみ仏と―』(佼成出版社、1979年)、『鎌倉古寺巡礼』(実業之日本社、1979年)、『鎌倉と運慶』(有隣堂、1979年)『鎌倉彫刻論考』(有隣堂、1981年)、『鎌倉の禅宗美術(鎌倉叢書第17巻)』(かまくら春秋社、1983年)、『鎌倉みほとけ紀行』(PHP研究所、1986年)、『仏教彫刻-仏像と肖像-(かわさき叢書)』(財団法人川崎市文化財団、1989年)。編著・共著に『鎌倉の肖像彫刻(渋江二郎編)』(鎌倉国宝館図録第8集、1961年)、『石のかまくら』(東京中日新聞出版局、1966年)『鎌倉の仏像(改訂版・貫達人編)』鎌倉国宝館図録第12集、1974年)、『鎌倉むさしのの佛たち』(佼成出版、1976年)『日本古寺美術全集17鎌倉と東国の古寺』(集英社、1981年)、『全集日本の古寺2鎌倉と東国の古寺』(集英社、1984年)、『横須賀市文化財総合調査報告書』第4・5集(横須賀市教育委員会、1984年)、『川崎市彫刻・絵画緊急調査報告書』(川崎市教育委員会、1986年)、『円空巡礼(とんぼの本)』(新潮社、1986年)、『図説日本の仏教4・鎌倉仏教』(新潮社、1988年)、『横浜の文化財-横浜市文化財綜合調査概報(1~15)-』(横浜市教育委員会、1977~2002年)、『鎌倉市史』近世通史編(鎌倉市、1990年)、『平塚の仏像(平塚市文化財研究叢書4)』(平塚市教育委員会、1991年)『川崎市史通史遍1』(川崎市、1993年)、『鎌倉郡の仏像』(横浜市教育委員会、1995年)、『鎌倉の文化財』第15~20集・鎌倉市指定編(鎌倉市教育委員会、1990~2000年)などがある。このほか鎌倉国宝館の学芸員時代に責任編集にあたった『鎌倉地方造像関係史料』全8巻(『鎌倉国宝館論集』11~18、1968~75年)は鎌倉地方の仏師研究には欠くことのできない資料といえる。主要論文のいくつかが『鎌倉彫刻論考』(上掲)に収録されるが、そのほかの代表的論文に「伽藍神像考―鎌倉地方の作品を中心に―」(『MUSEUM』200号、1967年)、「妙高庵観音菩薩坐像について」(『鎌倉』16号、1967年)、「頂相彫刻について―禅宗彫刻論の中―」(『同』17号、1968年)、「幕末の鎌倉仏師後藤真慶」(『同』20号、1971年)、「鎌倉禅刹文殊菩薩像試考」(『同』44号、1983年)、「大慶寺の寺史と彫刻」(『同』52号、1986年)、「禅刹観音菩薩彫像をめぐって―鎌倉の禅刹を中心に―」(『同』60・61号、1989年)、「英勝寺と鎌倉近世造仏界」(『同』70・71号、1993年)、「『仏師職慎申堅メ控』と京仏師林如水」(『同』78号、1995年)、「近世七条仏所の幕府御用をめぐって―新出の史料を中心に―」(『同』80号、1996年)、「十劫寺不動明王像と仏師泉円」(『金沢文庫研究』151号、1968年)、「『沙石集』から見た鎌倉地方仏師」(『同』163号、1969年)、「東国の宅磨派―十四・五世紀を中心に―」(『同』180号、1971年)、「中世塑造像に就ての一考察―大休正念の語録を中心に―」(『同』210号、1973年)、「浄智寺本尊像考」(『同』278号、1987年)、「宝冠釈迦如来像考―円覚寺仏殿本尊を中心に―」(『国華』927号、1970年)、「東国における運慶―浄楽寺諸像を中心に―」(『同』940号、1971年)、「神武寺の彫刻と絵画」(『三浦古文化』10号、1971年)、「禅刹仏殿本尊像小考」(『同』16号、1974年)、「金龍禅院の歴史と彫刻」(『同』37号、1985年)、「光明寺の諸像(薄井和男と共著)」(『同』39号、1986年)、「仏師快円考」(『史迹と美術』388輯、1968年)、「寿閑寺の近世日蓮宗彫刻」(『同』538輯、1983年)、「仏師弘円について」(『美学』71号、1967年)、「仏師弘円考」(『跡見学園女子大学紀要』1号、1968年)、「運慶と東国―下向非下向の問題」(『同』3号、1970年)、「«異相なる僧像»をめぐって―跋陀婆羅尊者彫像小考―」(『跡見学園女子大学美学美術史学科報』4号、1976年)、「仏師弘円考」補遺」(『同』17号、1989年)、「大和市の彫刻」(『大和市研究』1・2号、1975・76年)「正統院木造仏国国師坐像について(清水眞澄と共著)」(『仏教芸術』107号、1976年)などがある。

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