本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,961 件)





遠藤幸一

没年月日:2011/12/07

読み:えんどうこういち  美術史研究者で、高岡市美術館長であった遠藤幸一は12月7日肝不全のため、東京都内の病院で死去した。亨年61。 1950(昭和25)年東京に生まれる。本名宮野幸一。69年3月、東京都立日比谷高等学校を卒業。74年3月、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。77年3月、同大学大学院美術研究科修士課程(日本東洋美術史専攻)を修了。同年4月から9月まで同大学院研究生、翌10月から78年3月まで同大学非常勤講師を務める。78年4月から富山大学教育学部講師(美学・美術史担当)となる。82年12月、同大学同学部助教授となり、1995(平成7)年3月まで勤務。教育活動としては、他に金沢美術工芸大学、山野美容芸術短期大学、群馬県立女子大学、東京理科大学等で非常勤講師を務めた。93年6月から2002年3月まで、高岡市美術館収集美術品選考委員を務め、02年4月から同美術館長となり、長らく館長として勤務していたところ現職で急逝した。 大学では教育にあたりながら、専門とする長谷川等伯研究では、生誕地である能登の地域と時代背景を検証考察するために、作品と文献資料を丹念に渉猟し、下記の諸論文等において春信時代の実像に迫り、斯界の研究の進展に寄与した。また、高岡市美術館の館長に就任してからは、美術館人として、近世から現代美術まで多岐にわたる企画展を担当しながら、同美術館「友の会」をはじめ、市民の視線にたちながら美術の普及事業に熱心にあたった。没後の平成24年2月5日に高岡市内で開かれた「遠藤幸一館長を偲ぶ会」には、個人の明るく温厚な人柄と美術館における幅広い活動を偲んで、300人をこえる参加者があった。主要論文・評論等「長谷川信春と能登(一) 信春の出自及び能登の政治的文化的宗教的状況」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』28号、1980年3月)「長谷川信春と能登(二)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』29号、1981年3月)「長谷川信春と能登(三)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』30号、1982年3月)「新出「信春」印・「法印日禛」銘高僧図について」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』31号、1983年3月)「長谷川信春筆大法寺仏画攷-日蓮宗十界曼荼羅の伝統と信春作品」(久保尋二編『芸術における伝統と変革』、多賀出版、1983年12月)「第四章 戦国期の越中 第五節 戦国期の社会と文化」(分担執筆)(『富山県史 通史編Ⅱ 中世』、富山県、1984年)「長谷川信春と能登(四)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』36号、1988年3月)「第一章 御細工所の沿革」(分担執筆)(『加賀藩御細工所の研究』(一)、金沢美術工芸大学 美術工芸研究所、1989年)「批評 洋画 四人から洋画の問題を考える」(『展』2号、能登印刷・出版部、1991年12月)「展評 洋画 『完成度』の上に求めるもの」(『展』3号、能登印刷・出版部、1992年6月)「展評 洋画 芸術家の才気とは」(『展』4号、能登印刷・出版部、1993年3月)「第五章 御細工所と加賀の工芸 第二節「御用内留帳」に見る工芸職種 四 象眼細工、六 塗物細工、七 絵細工」(分担執筆)(『加賀藩御細工所の研究』(二)、金沢美術工芸大学 美術工芸研究所、1993年)分野別専門委員(美術・工芸)(『富山大百科事典』上、下巻、北日本新聞社、1994年)「結城正明の画業と大観」(『富山県水墨美術館開館記念特別展 横山大観展』図録、富山県水墨美術館、1999年4月)「大角勲芸術の歩み」(『大角勲 天・地・生・命』展図録、高岡市美術館、2004年6月)「沿革と十年の総括・展望」(『高岡市美術館年報 2004年』、高岡市美術館、2005年)座談会「第三十七回日展-新たなる歩み」(『日展ニュース』119号、2005年12月)「『若き日の長谷川等伯』展によせて」(『若き日の長谷川等伯』展記録集、2006年10月)「富山県俊英作家にみる日本画の最前線」(『日本画の最前線―富山・俊英作家たちの軌跡』展図録、高岡市美術館、2007年2月)シンポジウム「日本画の最前線―富山・俊英作家たちの軌跡-シンポジウム『日本画の可能性』」(『PATIO』25号、2007年5月)「左右は展示のポイント」(『PATIO』26号、2008年3月)「嶋田しづの作品とあゆみ」(『嶋田しづ 第15回井上靖文化賞受賞記念-画業60年の歩み』展図録、高岡市美術館、2008年6月)編集委員『ふるさと美術館 愛蔵版』(北國新聞社、2009年8月)「~鳳凰鳴き文化の華ひらく~『高岡の名宝展』によせて」(『高岡の名宝展~鳳凰鳴き文化の華ひらく~-前田家と瑞龍寺・勝興寺を中心に-』図録、高岡市美術館、2009年9月)「池田太一さんの画業」(『池田太一展』図録、滑川市立博物館、2009年10月)「(コラム)能登畠山家の文化と盛衰」(『別冊太陽 日本のこころ166 長谷川等伯 桃山画壇の変革者』、2010年2月)「東山庵グループコレクションの精華」(『安土桃山・江戸の美~知られざる日本美術の名品~東山庵グループコレクション』展、高岡市美術館、2010年9月)「日本美術のススメ 今月の逸品『桜下遊楽風俗図』」(『美術の窓』325号、2010年10月)

杉山二郎

没年月日:2011/11/30

読み:すぎやまじろう、 Sugiyama, Jiro*  美術史家の杉山二郎は11月30日、膵臓がんのために死去した。享年83。 昭和3(1928)年9月14日、東京府に生まれる。54年東京大学美学美術史学科を卒業し、55年奈良国立文化財研究所美術工芸室に勤務した。この時期は、天平時代の美術を中心に研究していたが、一方で、正倉院御物などを通じて東西交渉史に強い関心を覚え、中央アジアの発掘、イランのサーサーン朝やパルティア朝の美術、ヘレニズムの東漸などに関わる種々の書物を読みふけり、これがその後の学問的関心の素地を作った。 60年東京国立博物館学芸部に転じ、東洋課の東洋考古室長、西アジア・エジプト室長などを勤めた。『東京国立博物館図版目録 大谷探検隊将来品篇』の編集刊行(1971年)、『特別展観 東洋の古代ガラス―東西交渉史の視点から―』の開催(1978年)及び図録刊行(1980年)など、東洋美術や東洋考古に関する陳列品の収集、保管、展示、種々の展覧会の企画、運営に関わった。68年の東洋館開館に関わる諸事業にも携わった。 この時期に、西アジアやシルクロード、中国などにおける現地調査を数多く行ったが、とくに東京大学のイラク・イラン遺跡調査団に参加し、現地の発掘調査を行ったことは貴重な経験となった。江上波夫を団長とする第一次遺跡調査では、65年とその翌年のテル・サラート遺跡第1号丘と第5号丘の発掘、タル・イ・ムシュキの発掘、ターク・イ・ブスターンの測量調査などに参加、深井晋司を団長とする第二次遺跡調査では、76年のハリメジャン遺跡の発掘、テル・サラート遺跡第1号丘、第2号丘の発掘に、78年のラメ・ザミーンの発掘調査、ターク・イ・ブスターンの測量調査に参加した。 彼は多くの著作を残した。68年に刊行した『大仏建立』により、69年に毎日出版文化賞を受賞した。彼の関心は美術や考古にとどまらず、日本における人間性(ユマニテ)の育成の歴史、芸術よりみた日本精神史の研究にまで及んでおり、それに関わる多くの著作がこの時期に成っている。もともと医科志望であったためか、木下杢太郎や森鴎外など、医者であり、かつ文化や芸術の探究者に対して強い親和力をもつ。木下杢太郎を対象として、近代における日本人の人格形成のプロセスを追った『木下杢太郎 ユマニテの系譜』(1974年)はまさにその傾向を強く映している。 博物館を退いた後、88年に長岡技術科学大学工学部教授、1991(平成3)年に佛教大学文学部教授、96年に国際仏教学大学院大学教授を勤め、2002年に退任した。主な著書『天平彫刻』日本の美術15(至文堂、1967年)『大仏建立』(学生社、1968年)『鑑真』東洋美術選書(三彩社、1971年)『カラー大和路の魅力 寧楽』(写真:入江泰吉)(淡交社、1972年)『木下杢太郎 ユマニテの系譜』(平凡社、1974年)『正倉院 流沙と潮の香の秘密をさぐる』(ブレーン出版、1975年)『西アジア南北記 沙漠の思想と造形』(瑠璃書房、1978年)『オリエント考古美術誌 中東文化と日本』NHKブックス(日本放送出版協会、1981年)『オリエントへの情熱 自叙伝的試み』(福武書店、1983年)『仏像 仏教美術の源流』(柏書房、1984年)『極楽浄土の起源 祖型としてのターク・イ・ブスターン洞』(筑摩書房、1984年)『風鐸 歳時風物誌』(瑠璃書房、1985年)『大仏以後』(学生社、1987年)『遊民の系譜 ユーラシアの漂泊者たち』(青土社、1988年)『真贋往来 文化論的視点から』(瑠璃書房、1990年)『日本彫刻史研究法』(東京美術、1991年)『遊牧と農耕の峡にて ユーラシア精神史考』(学生社、1993年)『天平のペルシア人』(青土社、1998年)『仏教文化の回廊』(青土社、1994年)『大仏再興』(学生社、1999年)『善光寺建立の謎 日本文化史の探究』(信濃毎日新聞社、2006年)『仏像がきた道』(青土社、2010年)『山紫水明綺譚 京洛の文学散歩』(冨山房インターナショナル、2010年)共編著 『批評日本史 政治的人間の系譜1 藤原鎌足』(梅原猛、田辺昭三と共著)(思索社、1972年)『批評日本史 政治的人間の系譜4 織田信長』(会田雄次、原田伴彦と共著)(思索社、1972年)『毒の文化史 新しきユマニテを求めて』(山崎幹夫と共著)(講談社、1981年)『世界の大遺跡7 シルクロードの残映』(共著)(講談社、1988年)翻訳『考古学探検家スタイン伝』(J.ミルスキー著、共訳)(六興出版、1984年)『長春眞人西遊記 王観堂静安先生校注本』(李志常、校註)(国際仏教学大学院大学、2002年)

田中千秋

没年月日:2011/09/30

読み:たなかちあき  兵庫県立美術館保存・修復グループリーダーの田中千秋は9月30日に死去した。享年54。 1957(昭和32)年7月5日、鳥取県米子市に生まれる。76年大阪府立千里高等学校を卒業後、77年に早稲田大学第二文学部美術科に入学、西洋美術史を専攻し82年に同大学を卒業。81~83年に老舗額縁店である古径、83~84年に八咫家での勤務を経て、85年に山領絵画修復工房に入り、油彩画修復に携わる。88年からはブリヂストン美術館学芸部で保存修復を担当。2001(平成13)年に兵庫県立美術館に移り、保存修復グループのリーダーとして活躍した。93~98年に女子美術大学、2000年より東北芸術工科大学で非常勤講師を務めている。 ブリヂストン美術館では、86年より進められていた同館所蔵のレンブラント「聖書あるいは物語に取材した夜の情景」(旧題「ペテロの否認」)共同研究プロジェクトに参加。93年には特集展示「隠された肖像―美術品の科学的調査」を担当し、東京国立文化財研究所の協力のもと科学的調査に基づいた油彩画の展観を行なった。95年1月17日に発生した阪神大震災に際しては、全国美術館会議に働きかけて被災地の美術館・博物館への救援隊を結成、所蔵品の救援活動や被害調査を率先して行なう。その後の同会議による被害の総合調査でも保存担当学芸員として中心的な役割を果たし、同年9月と翌96年5月に報告書を刊行。所属するブリヂストン美術館の館報でも、被害調査をふまえた具体的な地震対策を講じている。一方で「日本の美術館、ここが悪い」(『あいだ』53号、2000年)からうかがえるように、その言動は日本の美術館を取り巻く現状への批判的な眼差しに貫かれたものだった。 01年に兵庫県立美術館へ移った後も、所蔵品の保存修復や本多錦吉郎「羽衣天女」(同館蔵)等の光学調査を実施。また11年3月11日に発生した東日本大震災に際しても、全国美術館会議の文化財レスキュー活動に参加、4月には津波の被害を受けた石巻文化センターの絵画・彫刻約200件を移送、応急処置を始める。同じく津波で甚大な被害を受けた陸前高田市立博物館のレスキューでも、救出した作品の応急処置を行なう旧岩手県衛生研究所の環境整備を検討するなど貢献するが、その最中での突然の死は関係者に大きな衝撃を与えた。

町田章

没年月日:2011/07/31

読み:まちだ あきら、 Machida, Akira*  考古学者の町田章は7月31日、肺がんのため死去した。享年72。 1939(昭和14)年2月5日、香川県善通寺市に生まれる。62年に関西大学文学部史学科東洋史専攻を卒業後、立命館大学大学院文学研究科に進学。64年4月に奈良国立文化財研究所に入所する。86年平城宮跡発掘調査部長に就任、1994(平成6)年からは京都大学大学院人間・環境学研究科文部教官を四年間併任。98年に文化庁文化財保護部文化財監査官となり、翌年4月から奈良国立文化財研究所長、独立行政法人文化財研究所理事・奈良文化財研究所長(2001年)、文化財審議会専門委員、同法人理事長(2004年)をへて、2005年3月に同理事長・所長を退任する。 立命館大学大学院在学中には、白川静に師事して東洋史、東洋思想史を学び、中国古代墓葬の研究をおこなった。一方、奈良国立文化財研究所の榧本亀治郎の指導のもと『楽浪漢墓』の報告書作成に関わったことで、榧本に推挙され64年に奈良国立文化財研究所に入所する。前年に設立したばかりの平城宮発掘調査部に配属されるが、65年から二年間、文化財保護委員会事務局記念物課に出向し、全国的な開発に伴う埋蔵文化財保護行政の基礎づくりに携わった。研究所に戻ってからは平城京の発掘調査に従事した。発掘調査報告書では、平城宮の東北に位置するウワナベ古墳と平城京条坊との関係を明らかにし(『平城宮跡発掘調査報告書Ⅵ』、奈良国立文化財研究所、1974年)、平城宮の中枢部である第一次大極殿地区の発掘成果をまとめ、その変遷と歴史的意義を世に問うた(『平城宮跡発掘調査報告書Ⅺ』、同所、1981年)。86年『平城京』(ニューサイエンス社)では、三十年ちかい平城京調査の全容をまとめ、専門家だけでなく一般読者にむけて平城京の重要性を紹介した。 高松塚古墳の壁画が発見された72年に「唐代壁画墓と高松塚古墳」(『日本美術工芸』405号)を発表し、この壁画が唐の影響を強く受けていたことをいち早く指摘した。この研究は、のちに東アジアにおける装飾墓を総括した86年『古代東アジアの装飾墓』(同朋舎)に結実する。95年「胡服東漸」(『文化財論叢Ⅲ』、奈良国立文化財研究所)は高松塚古墳の人物像に代表される日本古代の服装を東アジアの服制に位置づけたものである。 研究所で金属器・木器を中心とする遺物整理を担当したことから、日本古代の装飾具や武器へと関心を広げる。70年「古代帯金具考」(『考古学雑誌』第56巻第1号)では、古墳出土の帯金具の系譜を中国、朝鮮にもとめた。帯金具に端を発した研究は古墳時代の装身具全般におよび、97年『日本の美術 第371号 古墳時代の装身具』(至文堂)を刊行した。姫路市宮山古墳出土の鉄器類を整理する過程で環刀を発見し、76年「環刀の系譜」(『研究論集Ⅲ』、奈良国立文化財研究所)では、中国における環刀の変遷を明らかにした。 平城京の調査研究に従事する傍ら、70年代には漢墓を中心とする論考もいくつか発表する。文化大革命終結後間もない78年には、関西の文化財行政に携わる考古学者を率いて北京、安陽、洛陽、西安、広州の遺跡・遺物を調査した。81年「隋唐都城論」(『東アジア世界における日本古代史講座』第5巻、学生社)は、文献史料と発掘成果から隋唐都城の構造を明らかにしたもので、日本古代都城との構造比較を見据えた論考である。 91年には奈良国立文化財研究所と中国社会科学院考古研究所との間で「友好共同研究議定書」を取り交わし、「日中古代都城の考古学的比較研究」を課題とする本格的な日中共同研究を実現した。今日にいたるまで二十数年におよぶ共同研究の礎となった。98年『北魏洛陽永寧寺』(奈良国立文化財研究所)は共同調査の最初の成果報告である。また、ユネスコ世界文化遺産保護機構の参与として、唐長安城大明宮含元殿や中国新疆ウイグル自治区の交河故城の保護に尽力した。所長就任後は、漢長安城桂宮、唐長安城大明宮の発掘調査、唐三彩、三燕時代金属器の調査を指揮し、共同研究を推進した。こうした業績が評価され、03年には外国人として初の中国社会科学院栄誉教授となる。 所長の重責を負いつつも研究への情熱は衰えず、職務の合間をぬって完成させたのが、02年『中国古代の葬玉』と06年『中国古代の銅剣』の単著である。2つの大著は90年代以降の共同研究、70年代の刀剣研究に源を発し、それらを集大成したものといえよう。 町田の研究は中国考古学を基軸としている。平城京の調査、古墳時代から古代に至る遺物の研究では、その淵源を中国、朝鮮にもとめ、東アジア全体のなかに遺跡や遺物の歴史的意義を見出そうとする視点が常にあった。この背景には、文化大革命によって中国の遺跡や遺物を実見できない時期が長く続いたという不運な境遇もあっただろう。しかし、そうした逆境のなか、眼前にある日本の遺跡や遺物を中国考古学の知見と結びつけ評価する努力をつづけ、最終的に中国との共同研究を実現するまでに至ったのである。これら一連の業績により、09年には勲三等瑞宝中綬章を受章した。

藤田慎一郎

没年月日:2011/05/20

読み:ふじたしんいちろう、 Fujita, Shin’ichiro*  岡山県倉敷市の大原美術館の館長を30年以上にわたり務めた藤田慎一郎は、5月20日に呼吸不全のため亡くなった。享年91。 大正9(1920)年4月19日に東京都に生まれる。昭和13(1938)年3月、旧制広島県立福山誠之館中学校を卒業。その後結核を患い、療養生活後の47年8月に、親戚にあたる大原総一郎のすすめにより大原美術館に就職。大原美術館は、倉敷紡績株式会社などを経営する実業家大原孫三郎(1880-1943)によって30年11月に開館し、孫三郎の長男総一郎(1909-1968)によって継承発展した。50年11月、同美術館20周年記念行事を開催、梅原龍三郎、安井曾太郎、浜田庄司、河井寛次郎、武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦等を東京から招き、公開の座談会等が行われ、学芸員として諸行事の進行に務めた。以後、大原総一郎の片腕として、展覧会の企画実施、コレクションの拡充のための作品購入にあたった。51年2月、「現代フランス美術展(サロン・ド・メ日本展)」(日本橋高島屋)が開催、戦後のフランス美術が紹介されたことから、その出品作6点を購入したのをはじめとして、以後国内外の現代美術の収集に力を入れるようになり、藤田はその選定と購入につとめた。この現代美術収集は、戦後から現代につらなる国内美術館における先駆的な活動として特筆されるものである。61年7月、同美術館の副館長となり、64年に館長に就任。在職中は、近現代絵画をはじめ、民芸、工芸、古美術等にわたる広範な領域のコレクションの充実につとめるかたわら、展示室の拡大にも積極的にあたり、新館(現在の分館、1961年5月完成)、陶器館(現在の工芸館、同年11月完成)にはじまり、本館増設(現在の本館新展示室、1991年9月完成)まで、現在の同美術館のほぼ全体の施設作りを担当した。1998(平成10)年4月に館長を退任、相談役に就任。2002年に相談役を退任。 91年7月から97年6月まで全国美術館会議の会長を務め、また、ひろしま美術館、財団法人成羽町美術振興財団、倉敷民藝館等の理事などを歴任した。褒賞については、80年11月、フランス政府よりシュヴァリエ芸術文化勲章を受章。翌年11月に文部大臣表彰。88年に第46回山陽新聞賞(文化部門)受賞。89年、平成元年度倉敷市文化連盟賞、91年には文化の向上に貢献したことで第44回岡山県文化賞を受賞。98年10月、公共奉仕の精神をもって地域社会に貢献した者を顕彰する岡山県の第31回三木記念賞を受賞。 編著には、『大原美術館 岡山文庫10』(日本文教出版、1966年)をはじめ、同美術館、ならびにコレクションに関する刊行物についての著述が多い。その中で『大原美術館と私―50年のパサージュ―』(松岡智子編、山陽新聞社、2000年)は、長時間にわたるインタビューをまとめたものであるが、内容は同美術館の戦後からの歴史と同時にコレクションの形成史になっており貴重な証言である。

有光教一

没年月日:2011/05/11

読み:ありみつきょういち、 Arimitsu, Kyoichi*  朝鮮考古学者で京都大学名誉教授の有光教一博士は5月11日、膿胸のため死去した。享年103。 1907(明治40)年11月10日、山口県豊浦郡長府村(現、下関市)に生まれた。1925(大正14)年3月大分県中津中学校卒業、同年4月福岡高等学校入学、1928(昭和3)年4月京都帝国大学文学部史学科入学。翌年、当時日本で唯一同大に開設されていた考古学専攻に進学し、31年3月に卒業する。専攻進学以降、大学に在籍した三年半にわたり主任教授の濱田耕作、また梅原末治から指導を受けたことが朝鮮考古学に傾倒する大きなきっかけとなった。 31年4月、引き続き京都帝国大学大学院に入学するとともに副手として考古学研究室に勤務するが、同年8月には濱田の斡旋により朝鮮古蹟研究会助手として採用され、朝鮮半島に赴く。さらに9月には慶州勤務の朝鮮総督府古蹟調査事務嘱託となり、二年ほどの間、慶州皇南里82・83号墳、金仁問墓碑、忠孝里古墳群、南山仏蹟、皇吾里16・54号墳、路西里215番地古墳などの調査・整理作業を実施する。33年1月に京城の総督府博物館勤務指示を受け3月にソウルに転出した後は、半島各地での調査のほか、遺跡遺物の文化財指定に関する準備作業、博物館の展示などを担当する。37年10月に朝鮮総督府学務局技手嘱任、41年6月には藤田亮策の後を受け、朝鮮総督府学務局社会教育課古蹟係主任および朝鮮総督府博物館主任兼務となり、実質的な総督府博物館長として戦時下の博物館運営管理を担った。さらに戦況の悪化により館に被害が及ぶ危険性が高まると、総督府の協力が得られない中、わずかな人数の館員で手持ち、列車輸送による収蔵品の扶餘・慶州分館疎開を行った。 日本敗戦直後の45年9月、米軍政庁統治下で氏以外の日本人博物館職員はすべて罷免され、韓国側担当となった金載元博士を補佐して疎開品の回収や国立博物館への引継ぎと再開館準備を行った。12月に軍政期国立博物館は無事開館したものの、その後も博物館運営および発掘調査指導のため米軍政庁文教部顧問として残留を余儀なくされ、この間には混乱下にあった民間所在文化財の散逸拡散防止に腐心し、また好太王の銘が鋳出された青銅椀が出土したことで知られる路西里140号墳(壺 塚)の発掘を国立博物館メンバーと行い、調査を終えた46年6月にようやく帰国を果たした。 引揚後の同年10月にG・H・Q九州地区軍政司令部顧問(民間教育課文化財担当)、また49年10月に福岡県教育委員会事務局嘱託となり九州各県の文化財調査を実施、50年3月に京都大学講師、また同年9月にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校東洋語学部講師として渡米、帰国後の52年12月に京都大学文学部助教授、56年8月に京都大学文学博士学位を授与され(学位論文「鉄器時代初期の朝鮮文化:石剣を中心とした考察」)、57年3月京都大学文学部教授就任、71年3月に京都大学を定年退官する。73年6月に奈良県立橿原考古学研究所副所長に迎えられ、80年11月に同研究所所長就任(1984年3月まで)、また1989(平成元)年11月には創設者である鄭詔文たっての希望により高麗美術館研究所所長となり、以降亡くなるまでの二十二年間、同研究所所長を務めた。 氏は、戦前は現地において、戦後は梅原考古資料(朝鮮之部)の整理などによって、新石器時代から青銅器時代を中心に、朝鮮半島各時代の幅広い遺跡遺物について調査研究を精力的に進められ、単著には『朝鮮磨製石剣の研究』(京都大学文学部、1959年)、『朝鮮櫛目文土器の研究』(京都大学文学部、1962年)、『有光教一著作集』第1~3巻(同朋舎出版、1990~99年)、『朝鮮考古学七十五年』(昭和堂、2007年)などが、また多数の共著や論文がある。発刊に携わった発掘調査報告には、氏が戦前の発掘時に勤務地の異動や戦前戦後の混乱といった事情のため報告できずにいた慶州皇吾里16号墳他の発掘調査記録を、齢90歳を超えてから韓国語を主語として発刊した『朝鮮古蹟研究会遺稿』Ⅰ~Ⅲ(東洋文庫、2000~03年)を始め、戦前に朝鮮総督府や朝鮮古蹟研究会から出版された多くの報告書類等がある。 これら一連の業績により、78年に勲三等旭日中綬章、2000年に京都新聞大賞文化学術賞が授与された。 氏は一般に、朝鮮考古学者として標榜されることが多いが、その活動は上述のように、朝鮮半島における戦前の総督府博物館の維持管理から戦後の国立博物館の成立に至る博物館業務、さらに大学退官後の橿原考古学研究所所長・副所長、高麗美術館研究所所長としての長年の活動など、様々な文化財の保全や博物館・美術館の維持発展に尽力された博物館人でもあった。 自身の半生を回顧した「私の朝鮮考古学」(1984-87年、『季刊三千里』に連載)の最後で氏は、「「私の朝鮮考古学」のすべてが現代史である」と述懐されている。日本と大韓民国にとって最も困難な時代をその中心で生き抜き、そして終生両国の人々からの信頼と敬愛を保ち続けたその生き方は、学問業績に勝るとも劣らない大きな価値を放っている。

多木浩二

没年月日:2011/04/13

読み:たきこうじ、 Taki, Koji*  評論家の多木浩二は4月13日、神奈川県平塚市の病院で肺炎のため死去した。享年82。 1928(昭和3)年12月27日、兵庫県神戸市に生まれる。57年東京大学文学部美学美術史学科卒業。名取洋之助のスタッフとして『岩波写真文庫』の制作、編集に携わる。59年博報堂に入社。61年編集デザイン事務所ARBO(アルボ)を設立、旭硝子の広報誌『ガラス』の企画、編集、執筆、撮影を行なう。同誌関連での60年代におけるヨーロッパの建築体験が後に建築を考察する基盤となる。 美術評論では、55年第2回美術出版社芸術評論で「井上長三郎論」で佳作入選(『みづゑ』1955年8月号掲載)。その後、『美術手帖』、『デザイン』などに執筆をするようになる。60年代末の活動としては、日本写真家協会が主催した「写真100年展」(『日本写真史1840-1945』平凡社1971年に結実)の仕事を経て、中平卓馬、高梨豊らと68年に刊行した同人誌『PROVOKE―思想のための挑発的資料』(季刊、プロヴォーク社、3号まで)がある。彼らのブレボケ写真は既成のリアリズム写真を批判した。しかし90年代後半からの同誌への過大評価に対して、晩年多木は嫌悪に近い感慨をもっていた。 多木が扱う領域は建築、写真、美術、デザイン、都市と幅がひろい。主に関わった作家たちには、篠原一男、坂本一成、磯崎新、倉俣史朗、桑山忠明、楠本正明、大橋晃朗らの名があがってくるが、ミニマル系の系譜がみえてくる。彼の方向はジャンルを重層的に捉えているが、物と空間、そして社会との関係を深層の域から意識化していくことであった。初期の重要な著作『生きられた家』(田畑書店、1976年)は、初出は篠山紀信の写真集『家』に掲載されたテキストだが、単行本化、改訂を4度行ない、記号論的な思考を深化させていった。さらに『天皇の肖像』(岩波新書、1988年)、『写真の誘惑』(岩波書店、1990年)は、写真の芸術性よりも社会のなかに写真メディアが位置づけられる過程を問い、ベンヤミンを援用して論じていく。80年代に到り、モチーフは広がり、『絵で見るフランス革命』(岩波新書、1989年)で歴史論へと向かい、「やっとここまできた」と述懐していた。40数冊の書籍の多くが、青土社と岩波書店から上梓されており、身体論やキャプテン・クックなどへの広がりは、編集者三浦雅士との信頼関係によるところがある。1994(平成6)年からは八束はじめと季刊誌『10+1』(INAX出版)の編集を始める。美術論では、『神話なき世界の芸術家―バーネット・ニューマンの探究』(岩波書店、1994年)でアメリカ抽象表現主義の絵画を、『シジフォスの笑い―アンセルム・キーファーの芸術』(同、1997年、芸術選奨文部大臣賞)で歴史と絵画について考察した。さらに、60年代からモチーフとしていたデ・ステイルのなかから身体論(例えばリートフェルトの椅子)を含め、20世紀の特異な表象「抽象」について、モンドリアンの絵画をとおして考察していくことが晩年の課題であったが、形にはならなかった。日本近代絵画についての論考としては、靉光論「絵画というものの探求」(『靉光』展図録、練馬区立美術館他、1998年)などがある。教育者としては、67年和光大学助教授就任をはじめ、東京造形大学教授、千葉大学教授などを歴任した。著作目録については『建築と日常・別冊(多木浩二と建築)』(2013年)が参考となる。

鷹見明彦

没年月日:2011/03/23

読み:たかみあきひこ  美術評論家の鷹見明彦は3月23日、群馬県前橋市の病院で肝臓がんのため死去した。享年55。 1955(昭和30)年7月19日、北海道富良野市に生まれる。幼少時は広島で過ごし、10歳頃に東京都立川市に転居。絵を描くのが好きな少年だった。74年桐朋学園高校卒業。80年中央大学文学部哲学科卒業。20代後半から、音楽雑誌『中南米音楽』(後に『ラティーナ』と改称)に音楽、本、美術などの評論を執筆するようになる。84年同人誌『砂洲』を刊行。題字は中央大学在学中に交流をもった小川国夫が書いた。87年、作家の蔡國強と知り合い、『砂洲』に彼のテキスト「硝煙の彼方より」(山口守訳)を掲載する。90年代から、ギャラリー美遊、ガレリアラセンなどの企画に参加し、王新平、渡辺好明らの評論を執筆。90年頃から『美術手帖』に展覧会評を始め、評論活動が活発化する。1997(平成9)年から2000年まで、岩手芸術祭の現代美術部門の審査員を務める。98年、第3回アート公募’99企画作家選出展(天野一夫、西村智弘とともに)の審査に関わり、第6回まで務める。99年から東京藝術大学美術学部の油画科、以後同大先端芸術表現学科、彫刻科などで、また2000年からは茨城大学教育学部の非常勤講師を務める。03年から、表参道画廊の企画に関わり、水野圭介、坂田峰夫らの展覧会を企画する。同年、アートプログラム青梅の企画に参加。04年から07まで、武蔵野美術大学日本画学科の非常勤講師を務める。05年から『ホルベイン アーティスト ナビ』に毎月書評と映画評の連載を始める。鷹見は、環境、自然、神秘といったモチーフをもとに文明論を構想していた。書籍のかたちには至らなかったが、美術評論の数々は、彼と並走していた若い作家たちへのエールであり、その活動は病によって突然切断されてしまった。残された資料の一部は、東京文化財研究所に所蔵された。

瀬木慎一

没年月日:2011/03/15

読み:せぎしんいち、 Segi, Shin’ichi*  美術評論家の瀬木慎一は3月15日、肺炎のため死去した。享年80。 1931(昭和6)年1月6日、東京市京橋区(現、中央区)銀座に生まれ、豊島区目白台で育つ。生家は銀座で飲食店を営み、父が骨董収集を趣味としたため、近所の骨董屋によく同行した。幼少のころより教会に通い、初歩的な英語を習得する。10歳の時に父が戦死。44年から王子区(現、北区)十条の東京第一陸軍造兵廠で働く。このころ文学書、教養書を多読、特に万葉集や古今和歌集、世界名詩選のようなものに惹かれる。詩作もし、戦後は同人誌などに発表する。47年中央工業専門学校に入学、学制改革に伴い翌々年中央大学法学部に入学する。東宝の契約社員としてアニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)に派遣され、脚本の翻訳、音楽の訳詩などの仕事に携わる。劇場の横にあったCIE(民間情報局)図書館で数年間アメリカの映画雑誌や美術書を読み、特にニューヨーク近代美術館の叢書などで西洋美術の勉強をする。一方自作の詩を見てもらったことを契機に小説家野間宏の知遇を得、野間の紹介で花田清輝、安部公房らを知る。岡本太郎、花田清輝らの前衛芸術運動「夜の会」に参加。49年「世紀」管理人となり、桂川寛とともにガリ版刷りパンフレット『世紀群』の制作責任者を担う。50年『世紀群』第3号でピート・モンドリアンの著述を翻訳した「アメリカの抽象芸術―新しいリアリズム」を発表。51年「世紀」が解散したのちに結核を患い、2年間秦野で療養生活を送る。大学を中退し、53年から『読売新聞』の展覧会評を執筆、のちに他紙でも執筆する。同年『美術批評』に初めての美術批評論文「絵画における人間の問題」を発表。54年「現代芸術の会」に参加。このころから養清堂画廊、東京画廊などの展覧会企画に携わる。57年渡仏、ミシェル・ラゴン、ハンス・アルプ、ジャン・デュビュッフェらと交友、同年イタリアで開催された国際美術評論家連盟会議に日本代表として参加。75年「現代美術のパイオニア」を『古沢岩美美術館月報』に連載開始、この連載を軸に翌々年東京セントラル美術館で「現代美術のパイオニア展」が開催される。77年東京美術研究所を西新橋・東京美術倶楽部内に創設し(1980年に総美社と社名変更)、『東京美術市場史』(東京美術倶楽部、1979年)の編纂にあたる。1990(平成2)年から『新美術新聞』で「美術市場レーダー」連載を開始(2011年まで)。この他に「今日の新人1955年」展(神奈川県立近代美術館、1955年、作家選出)、「世界・今日の美術」展(日本橋高島屋、1956年、展覧会委員)、シャガール展(国立西洋美術館ほか、1963年、実行委員)、ピカソ展(国立近代美術館、1964年、展覧会委員)、現代日本美術展(1964年から1971年まで、選考委員)、日本国際美術展(1959年から1965年まで、選考委員)、選抜秀作美術展(1966年まで、作品選定委員)、東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1964年まで、展覧会委員)、東京野外彫刻展(1986年から1995年まで、選考委員)などの展覧会に携わる。また和光大学、女子美術大学、多摩美術大学、東京藝術大学で教鞭をとった。国際美術評論家連盟会長、ジャポニスム学会常任理事、国際浮世絵学会理事などを歴任。おもな著書に『現代美術の三十年』(美術公論社、1978年)、『戦後空白期の美術』(思潮社、1996年)、『国際/日本 美術市場総観』(藤原書店、2010年)など、総合美術研究所での編書に『全国美術界便利帳』(総美社、1983年10月)、『日本アンデパンダン展全記録1945-1963』(総美社、1993年6月)などがある。現代美術やデザインを論じる一方、社会的・経済的な視点から美術品取引の実態や、美術商・オークションの動向など美術市場を実証的に研究した。2009年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

中原佑介

没年月日:2011/03/03

読み:なかはらゆうすけ、 Nakahara, Yusuke*  美術評論家の中原佑介は3月3日、死去した。享年79。 1931(昭和6)年8月22日、兵庫県神戸市に生まれる。本名江戸頌昌(えどのぶよし)。神戸市立成徳国民学校、兵庫県立神戸第一中学校を卒業。中学校時代に相対性理論の解説書を読み理論物理学に惹かれる。48年旧制第三高等学校理科に入学、学制改革に伴い翌年京都大学理学部に入学。このころ理論物理学研究のためにロシア語を学び、エイゼンシュタインの映画論やマヤコフスキーの詩に傾倒。また当時「まやこうすけ」というペンネームで詩作もした。53年同物理学科を卒業、同大学院理学研究科に進学、湯川秀樹研究室で理論物理学を専攻。55年修士論文と並行して書いた「創造のための批評」が美術出版社主催第2回美術評論募集第一席に入選、雑誌『美術批評』に掲載される。湯川の紹介で平凡社に就職、『世界大百科事典』嘱託編集部員となるが、一年ほどで退職。上京してまもなく、安部公房に誘われ「現在の会」に参加、のちに「記録芸術の会」に参加。56年から『読売新聞』の展覧会週評を担当。63年「不在の部屋」展(内科画廊)を企画。このころから内科画廊、東京画廊、サトウ画廊、おぎくぼ画廊などの展覧会企画に携わる。66年「空間から環境へ」展(銀座松屋)に参加。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(東京画廊・村松画廊)を石子順造と、「現代の空間’68光と環境」展(神戸そごう)を赤根和生と共同企画。70年に第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)「人間と物質」のコミッショナーを務める。75年から草月流機関誌『草月』に「現代美術入門」を執筆。82年から伊奈ギャラリー企画委員会に参加、その中心となり作家選定、会場構成、リーフレット『INA-ART NEWS』(1985年社名変更に伴い『INAX ART NEWS』と改題)への作家解説の執筆を行う。その他東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1979年まで、展覧会委員、実行委員、組織委員)、長岡現代美術館賞(1964年から1968年まで、出品者選考審査員、受賞者選考審査員)、現代日本美術展(1966年から2000年まで、選考委員、ただし12回は除く)、パリ青年ビエンナーレ(1967年、コミッショナー)、サンパウロ・ビエンナーレ(1973年と1975年、日本館コミッショナー)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1976年と1978年、日本館コミッショナー)、現代日本彫刻展(1977年から2011年まで、選考委員、運営委員長、選考委員長)、富山国際現代美術展(1993年と1996年、日本セクションコミッショナー)、越後妻有アートトリエンナーレ(2000年から2009年まで、アートアドバイザー)など現代美術の展覧会にさまざまなかたちで携わる。京都精華大学学長、水戸芸術館美術部門芸術総監督、兵庫県立美術館館長、国際美術評論家連盟会長などを歴任。おもな著書に『ナンセンスの美学』(現代思潮社、1962年)、『現代彫刻』(角川書店、1965年)、『見ることの神話』(フィルムアート社、1972年)、『人間と物質のあいだ』(田畑書店、1972年)、『大発明物語』(美術出版社、1975年)、『80年代美術100のかたち』(INAX、1991年)などがある。2011(平成23)年大地の芸術祭における企画「中原佑介のコスモロジー」として、旧蔵書約3万冊が川俣正によってインスタレーションとして展示された。また同年から現代企画室とBankARTにより『中原佑介美術批評選集』が全13巻の予定で刊行されている。前出の「創造のための批評」では、批評は作家の創作の秘密を説明するにとどまらず、それを変革するためのものであると説き、戦後の美術批評の地平をひらいた。針生一郎、東野芳明と並んで美術批評の「御三家」と称され、若い世代の作家たちを大いに刺激し、晩年まで日本の現代美術界を牽引した。

小野寺久幸

没年月日:2011/03/01

読み:おのでらひさゆき  文化財(仏像)修理技師で、財団法人美術院常務理事であった小野寺久幸は3月1日、肝不全のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年5月18日に宮城県本吉郡本吉町(現、気仙沼市)に生まれる。同県本吉郡小泉高等尋常小学卒業。小野寺の文化財(仏像)修理技師としての力量発揮を知らしめたのは、51年、神奈川県鎌倉市覚園寺における重要文化財の木造薬師如来および日光菩薩、月光菩薩の各坐像の保存修理からとみられる。54年には、東京国立博物館内の文化財修理室に勤務。翌年、美術院国宝修理所に就職した。以後、国宝・重要文化財の彫刻作品の修理に専従するとともに、現場において後進の育成に努めた。75年、財団法人美術院国宝修理所所長・常務理事に就任。79年、岐阜県文化財保護審議会委員に、1989(平成元)年には、財団法人川合芳次郎記念京都仏教美術保存財団理事に、91年には、東京藝術大学美術学部保存技術客員教授に、97年には、財団法人仏教美術協会理事に就任する。2000年、財団法人美術院国宝修理所所長を退き、常務理事専務に就任する。この間、88年から5年の歳月をかけて東大寺南大門の国宝金剛力士像二軀の本格解体修理に当って陣頭指揮を行う。その功績により、93年には、東大寺から「東大寺大仏師」の称号が授与された。また、文化庁長官表彰、および、第11回京都府文化功労賞を受ける。翌94年には、宮城県本吉郡本吉町名誉町民となる。95年には、第44回河北文化賞を受賞。96年には、長年にわたる文化財(仏像)修理と後進の育成の功績を認められて紫綬褒章を、03年には、勲四等旭日小綬章の栄誉を受ける。 この間の主な仏像修理は以下の通り。京都・妙法院三十三間堂・重要文化財木造千手観音立像1001軀(昭和48~61、平成2~12年度)、同・国宝木造千手観音坐像(湛慶作、昭和62年~平成元年度)、大分・国宝臼杵磨崖仏(昭和53・55~61、63~平成5年度、同10~12年度)、奈良・法隆寺国宝木造観音菩薩立像(百済観音、昭和55年度)、同・国宝木造観音菩薩立像(救世観音、昭和62年度)、同・国宝銅造薬師三尊像(金堂所在、平成2~3年度)、京都・教王護国寺講堂の国宝を含む諸尊像20軀(平成9~11年度)の本格修理を行う。また、大阪・観心寺如意輪観音像の模造(昭和49~56年度)、京都・寂光院地蔵菩薩立像の模造(平成13~17年度)をはじめ、兵庫・清澄寺大日如来坐像(平成2年度)、東京・長仙寺金剛力士像(同6~9年度)、愛知・鳳来寺薬師如来立像(同10年度)、奈良・桜本坊木造天武天皇坐像(平成19~21年度)の製作を手がけた。仏像修理を通じての知見については、「文化財の保存修理」(『美術院紀要』創刊号、1969年)、「「明月院塑造北条時頼像」の修理について」(『同』2号、1971年)、「群馬県・不動寺の石仏修理について」(『同』3号、1973年)、「文化財の損傷と修理について」(『同』5号、1980年)。「THE REPAIR OF THE WOODEN SCULPTURES」(『International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property』東京文化財研究所編、1983年)、「文化財の保存修理」(『日本藝術の創跡2010』世界文藝社、2010年)などがある。

門倉武夫

没年月日:2010/12/26

読み:かどくらたけお  保存科学分野の研究者である門倉武夫は12月26日、自宅にて急逝した。享年76。 1934(昭和9)年8月27日、東京都八王子市に生まれる。57年工学院大学を卒業後、同年、東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)保存科学部化学研究室に就職。その後、78年以降、保存科学部主任研究官を経て、1993(平成5)年から保存科学部生物研究室室長を務める。また、東京国立文化財研究所を退官後は、東京国立文化財研究所名誉研究員となり、東京都埋蔵文化財センター嘱託研究員として研究を続けた。またその間、明治大学、和光大学、女子美術大学、東京学芸大学等で講師として文化財の保存科学について教鞭をとった。一貫して文化財の保存科学に生涯を捧げた。とくに、文化財を取り巻く大気環境調査や、大気汚染や酸性雨が文化財に及ぼす影響などについて調査を行い、大理石やブロンズ彫刻など、屋外の文化財の保存環境の研究に取り組んだ。また、ひたちなか市(旧勝田市)の虎塚古墳については、71年から文化財保存対策委員を務め、発掘の際の古墳の環境調査を担当するとともに、その後も毎年の点検に欠かさず参加し、その保存対策に終生貢献した。文化財の保存科学や人間に向き合う真摯な姿勢と、その温かい人柄から、年齢を問わず、多くの親交があり慕われた。 主要な研究業績は以下の通りである。  「上野公園内の大気汚染」(『古文化財の科学』17 1953年) 「大気汚染が文化財の及ぼす影響」(江本と共著、『分析化学』12,11 1963年) 「古文化財と空気汚染の諸問題」(『産業環境工学』31 1964年) “Exhibition of the wall-paintings on the tumulus Torazuka;The7th International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property and Analytical Chemistry,1966) 「如庵(国宝)及び旧正伝院(重文)の被覆燻蒸」(森八郎と共著、『古文化財の科学』20-21 1967年) 「ガスクロマトグラフィーによる収蔵庫内外の文化財環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「奈良国立博物館における正倉院展展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「万国博覧会美術館の展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』9 1972年) 『虎塚古墳「保存整備報告書」』(共著、茨城県勝田市(現、ひたちなか市)、1977年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-奈良国立博物館における収蔵庫、展示室、ケース内塵埃調査-」(『保存科学』12、1979年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-走査電子顕微鏡、X線マイクロアナライザーによる銅版葺屋根の汚染物質の測定-」(『保存科学』18、1975年) 「緑青成分による大気汚染解析」(加藤、秋山と共著、『古文化財の科学』27 1982年) 「高松塚古墳壁画修理用剤蒸気除去対策」(『国宝高松塚古墳壁画-保存と修理-』文化庁、第一法規出版、1987年) “Concentration of nitrogen dioxide in the museum environment and its effects on the fading of dyed fabrics”(Kadokura,Yoshizumi,Kashiwagi and Saito,Preprints of the contributions to the Kyoto congress,19-23September,The Conservation of Far Eastern Art,987-89,The International Institute for Conservation of Historic and Artistic Works,1988) 「非破壊式蛍光X線分析法による蒔絵柱の分析」(共著、『国宝中尊寺金色堂附旧組高欄・附古材保存修理工事報告書』(財)文化財建造物保存協会、中尊寺、1990年) 「文化財環境と汚染因子の挙動」(『環境技術』20-8、1991年) 「建築装飾金具の耐久性の研究」(青木・斉藤・鈴木・木下と共著、『保存科学』31、1992年) 「文化財の保存環境と汚染因子」(『環境と測定技術』19-10 1992年) 「遺跡保存と公害による影響」(『地理・歴史』62、帝国書院、1992年) 『「酸性雨の科学と対策」文化財への影響』(共著、(財)日本環境測定協会、環境庁大気保存局大気規制課、監修、溝口次男、1994年) 「文化財と環境問題」(『産業と環境誌』23-10 1994年) 「東アジヤ地域を対象とした酸性大気汚染物質の文化財および材料への国際共同影響調査」(辻野らと共著、『全国公害研究誌』20-1 1994年) “Acidic mist in the surrounding of cultural property and its effect on restoration of cultural property -Cultural property and environment-(Tokyo National Research Institute for Cultural Properties,p53-66,1995) “Study on the influence of environmental pollution on the cultural properties.- Researching test on copper and bronze test plates by acid rain-(Kadokura,Ninomiya,Ono and Udagawa,Proceedings of the36th International Seminar on the Environmental Acidification,2Dec1997,National Institute of Public Health,1995) 「文化財への影響」(共著、『「酸性雨」-地球環境の行方-』環境庁地球環境部監修、中央法規出版、1997年)

武者小路穣

没年月日:2010/11/11

読み:むしゃこうじみのる、 Mushakoji, Minoru*  和光大学名誉教授で、日本古代・中世文化史の研究者であった武者小路穣は、11月11日、心不全のため死去した。享年89。1921(大正10)年3月27日、奈良県奈良市に生まれる。東京府立一中、第一高等学校(文科甲類)を経て、1941(昭和16)年に東京帝国大学文学部入学し、国史学を専攻する。卒業半年前に、第二次大戦末期の兵力不足をおぎなうため、舞鶴海軍機関学校に教官として入隊、敗戦後復員。翌年の46年から48年まで日本読書講読利用組合に勤務。その後、明星学園高等学校教諭を経て、70年に和光大学文学部に赴任。以後、1991(平成3)年に定年退職するまで後進の育成に取り組んだ。文学、絵巻、襖絵、仏像など、実に幅広い対象を扱い、そこから歴史を説き起こそうとする独自の研究スタイルを追求した。こうしたスタイルの確立には、とりわけ次の3人の研究者に影響を受けたことを述懐している。まず、実証史学のありようや史料の扱いの基本を学んだのは学生時代の恩師坂本太郎からであった。また46~48年の出版関係の仕事を通じて、戦後歴史学に大きな影響を与えた石母田正との知遇を得たが、このことが歴史を考える上で非常に大きかったという。戦後に出版された石母田の一連の論考に、武者小路自身も大きな衝撃を受けており、その石母田から文学・美術分野での古代中世を掘り下げるように励まされたことがその後の研究の方向性を決定したようだ。石母田との共著『物語による日本の歴史』(学生社、1957年初版、ちくま学芸文庫、講談社学術文庫版として再刊)の出版準備過程で、自宅にほど近かった石母田宅に毎晩のように通い、薫陶を受けたという。さらに、美術史学者の宮川寅雄、日本史学者の川崎庸之の誘いを受け、さまざまな分野の研究者がつどった研究会である文化史懇談会に参加。そこで美術史学者の田中一松に出会い、作品を幅広く徹底的によく見るという氏の姿勢に大いに感銘を受ける。後に和光大学赴任後、現地で見ること、記述することを徹底する教育へとつながった。またこの懇談会に参加したことを直接のきっかけとして、川崎のすすめにより絵巻研究に従事し、文学のジャンルから美術史のジャンルへと視野を広げることとなる。その研究成果は『原色版美術ライブラリー 絵巻物』(みすず書房、1957年)、『絵巻―プレパラートにのせた中世』(美術出版社、1963年)等に結実。こうした学術研究のかたわら、『日本歴史物語』(河出書房新社、1955~1962年)、『少年少女人物日本百年史』(盛光社、1965~1966年)、『新しい日本』(盛光社、1967年)等、児童向けの歴史書の共同執筆や監修を手がけた。上記以外の主な著作に、『ものと人間の文化史 地方仏Ⅰ・Ⅱ』(法政大学出版局、1980年・1997年)、『ものと人間の文化史 絵師』(同、1990年)、『絵巻の歴史』(吉川弘文館、1990年)、『ものと人間の文化史 襖』(法政大学出版局、2002年)などがある。なお、妻は作家の武者小路実篤の三女辰子。85年に開館した調布市武者小路実篤記念館の顧問を務めた。

岡畏三郎

没年月日:2010/09/17

読み:おかいさぶろう、 Oka, Isaburo*  美術史家の岡畏三郎は9月17日午前1時35分、老衰のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年96。 1914(大正3)年1月18日、演劇評論家岡鬼太郎(本名、嘉太郎)の次男として東京に生まれる。兄は洋画家の岡鹿之助。1931(昭和6)年私立麻布中学校を卒業。32年東京の都立高等学校理科乙類に入学し、35年に同校を卒業する。36年4月に東京帝国大学農学部農学科に入学し39年3月に同科を卒業。同年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。41年12月に同科を卒業し、42年1月に財団法人国際文化振興会(現、国際交流基金)に勤務する。45年5月15日、同会を退職して美術研究所に助手として入所する。当時、同所助手であった河北倫明が応召するのに伴い、補充採用となったもの。隈元謙次郎、河北倫明らとともに日本近代美術の調査研究事業に従事し、大正期の洋画と18世紀以降の浮世絵・木版画を研究対象とした。51年3月「明治末期に於ける『新傾向』に就て」(『美術研究』160号)を発表して以来、専門分野に関する著作、講演を多数行う。手堅い史料調査による作家研究を行い、日本美術の近代化の中で江戸時代までの造形の蓄積を表現に取り入れた作家たちを積極的に評価した。戦後、美術研究所は東京国立文化財研究所となったが、同所美術部第二研究室長を長く務め、72年4月から同部長となった。76年4月1日、同所を退官。76年から86年まで群馬県立近代美術館館長を務めた。主な著作に以下のようなものがある。 「明治末期に於ける「新傾向」に就て」(『美術研究』160 1951年3月) 「フュウザン会」(『美術研究』185 1956年3月) 「大正・昭和期の洋画史」(『日本文化史大系12』 1957年9月) 『広重』(平凡社、1957年6月) 『近代の洋画人・岡田三郎助』(中央公論、1959年) 「近代洋画の展開と版画芸術の復興」(『世界名画全集』23、平凡社、1960年1月) 「大正期洋画史」(『世界美術全集』11、角川書店、1961年9月) 「奥村・石川派を中心とする美人画の開拓」(『日本版画全集』2、講談社、1961年12月) 「小出楢重・岸田劉生」(『世界名画全集続編』5(共著)、平凡社、1962年3月) 「橋口五葉伝」(『浮世絵芸術』2 1962年8月) 「小出楢重の美術学校時代と初期作品」(『美術研究』223 1963年3月) 「大正期版画」(『浮世絵芸術』4 1963年12月) 「小出楢重の初期作品について」(『美術研究』228 1964年3月) 『浮世絵(平木コレクション)』編集・解説(毎日新聞社、1964-66年) 「小絲源太郎年譜」『小絲源太郎』(美術出版社、1965年10月) 『広重(Ⅱ)』(山田書院、1967年7月) 『北斎(Ⅱ)』(山田書院、1967年10月) 「明治・大正・昭和の版画」(『現代の眼』151 1967年6月) 「岸田劉生と小出楢重」(『近代洋画名作展図録』、中日新聞社、1967年10月) 「近代美術年譜」『現代の日本画(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)』(三彩社、1967年11月・68年1月・68年6月) 「山下りん筆『十二大祭図』について」(『美術研究』258 1969年3月) 「橋口五葉と大正版画」(『三彩』243 1969年6月) 「末期美人画」(『浮世絵』、日本経済新聞社、1969年3月) 「近代洋画の抬頭と展開」(『日本絵画館・明治』、講談社、1970年1月) 『浮世絵』(1-12巻)(共著)(毎日新聞社、1970年1月-71年3月) 「創作版画の抬頭」(『日本絵画館・大正』、講談社、1971年6月) 「小出楢重」(『現代の眼』201 1971年11月) 『風景版画』(至文堂、1972年1月) 「山下りんの伝記と作品」(『美術研究』279 1972年1月) 『在外秘宝・清長』(共著)(学習研究社、1972年7月) 「岸田劉生」(『現代日本美術全集』、集英社、1972年12月) 『藤島武二』(日本の名画31)(講談社、1973年7月) 『歌川広重』(日本の名画12)(講談社、1974年1月) 『北斎読み本挿絵集成』2巻・5巻(共著)(美術出版社、1973年3月・11月) 「フュウザン会について」(『絵』126 日動出版 1974年8月) 『浮世絵版画大系 8北斎』(集英社、1974年11月) 「草土社の創立について」(『美術研究』297 1975年3月) 「内国勧業博覧会について」(『明治美術基礎資料集』、東京国立文化財研究所、1975年3月) 『高橋コレクション』(第1巻・第2巻・第5巻)(共同編集、解説)(中央公論社、1975年6-12月) 『山下りん-黎明期の聖像画家』(共著)(鹿島出版会、1976年12月) 『原色浮世絵大百科事典』(大修館書店、1981年) 『劉生日記』1-4(岩波書店、1984年) 

鷲塚泰光

没年月日:2010/09/16

読み:わしづかひろみつ、 Washizuka, Hiromitsu*  美術史家(日本彫刻史)の鷲塚泰光は、下咽頭癌のため東京都新宿区信濃町の慶應義塾病院で9月16日午前4時51分に死去した。享年72。葬儀・告別式は21日午後3時から夫人の葬儀の時と同様に国柱会本部(東京都江戸川区一之江6の19の18)で行われた。鷲塚は1938(昭和13)年8月30日に東京に生まれた。62年慶應義塾大学文学部哲学科(美学美術史学専攻)を卒業し、64年には慶応義塾大学大学院文学研究科哲学専攻(美術史)の修士課程を修了する。65年に文化財保護委員会事務局美術工芸課に任用、68年には文化庁文化財保護部美術工芸課に配属。75年5月より同課文化財調査官(彫刻部門)、83年12月より主任文化財調査官(同)を歴任。この間に唐招提寺国宝鑑真和上像のはじめての海外展観(77年パリ・プチパレ美術館、80年中国・揚州と北京)の実現に尽力した。86年より東京国立博物館企画課長、美術課長を歴任。1992(平成4)年には文化庁文化財保護部美術工芸課長、94年には東京国立博物館学芸部長、96年に同館次長、2000年から05年まで奈良国立博物館館長を勤めた。長年の文化財行政ならびに博物館勤務における実績を高く評価され、08年には瑞寶中綬章の叙勲を受けた。鷲塚は非常に後進思いであり、誰もが鷲塚を敬い慕った。また、文化庁時代以来、社寺関係の信頼が非常に厚かった。後者の一端は、奈良国立博物館長の職にあった02年に同館で開催された特別展「大仏開眼1250年東大寺のすべて」において、門外不出の同寺法華堂の国宝塑像である日光・月光菩薩像の出展を実現したのも、ひとえに鷲塚に対する信頼によるところが大きい。当時、東大寺別当だった橋本聖圓長老が「像の移動では、リハーサルの時も含めていつも立ち会っておられた姿が印象に残っている。頭が下がる思いだった」というコメントが『毎日新聞』9月17日付朝刊の鷲塚の物故記事(花澤茂人執筆)に見える。寺社との信頼関係と文化財に対する責任感の一端をよく伝えていよう。鷲塚は文章を多く残し、文化財保護委員会以来の彫刻の現地調査、重要文化財指定後の修理時の知見等については一端が「文化財集中地区特別総合調査報告―滋賀県湖東地区―」『月刊文化財』119(1973年)、「彫刻の修理について」『佛教藝術』139(1981年)に述べられている。また、現場での文化財の扱いを踏まえて「美術工芸品の保存と公開1~5」『博物館研究』140~147(1980年、この論文で日本博物館協会の棚橋賞を受賞)、「美術工芸品の保存と公開」『MUSEOLOGY』4(1985年)が執筆されており、このほか文化財行政に関わっての「文化財保護百年」『博物館研究』354(1997年)がある。活躍の場が東京国立博物館に移った90年代以降は、博物館のあり方について積極的に発言し、「日本美術系博物館への一考察」『博物館研究』277(1991年)、「随筆 『博物館』は生涯学習社会に本当に役立っているのか」『博物館研究』350(1997年)、「歴史の焦点 東京国立博物館『平成館』」『歴史と地理』537(2000年)、「独立行政法人国立博物館」『国立博物館ニュース』647(2001年)などの文章を執筆するとともに、博物館のあり方について求めに応じて国立博物館の責任ある立場として講演者あるいはパネラーとして壇上に立ち、発話内容は「座談会 全国博物館大会を振り返って」『博物館研究』344(97年)、「第44回全国博物館大会報告 シンポジウム 今博物館に求められているもの―博物館相互の連携 特に相互信頼の醸成について」『博物館研究』346(1997年)、「アート・マネジメント研究フォーラム シンポジウム美術館の21世紀をひらく」『慶応義塾大学アート・センター年報』4(1997年)に窺うことが出来る。ことに国立博物館が独立行政法人へと移行する前後の時期が東京国立博物館、奈良国立博物館の要職にあたり、指導力を発揮して博物館改革に尽力し、その時期の発言は「緊急特集 美術史学会東支部シンポジウム 国立博物館、美術館、文化財研究所などの独立行政法人化問題について(ドキュメント)」『ドーム』41(1998年)に収められている。主要編著として『石仏(日本の美術147)』(1978年)、『金銅仏(同223)』(1987年)、『丹後・若狭の仏像(日本の美術251)』(1984年)、『仏像を旅する・山陰線-ふるさとの自然・文学・民俗-』(1989年)、『室生寺』(保育社、1991年)、がある。論文・解説等は70年代から80年代に精力的になされており、「中山寺と相応峯寺の十一観音像」『MUSEUM』248(1971年)、「円応寺の閻魔十王像について」『佛教藝術』89(1972年)、「北陸・越後に遺る金銅仏」『同』91(1973年)、「伊豆善名寺の仏像」『三浦古文化』14(1973年)、「千葉県君津市と富津市の彫刻」(松島健と共著)『同』16(1974年)、「十二神将像(亥神) 静嘉堂」/「快成作 愛染明王像 文化庁」『國華』1000(1977年)、「地蔵菩薩像 東福寺」『同』1001(1977年)、「伊豆南禅寺の平安仏」『三浦古文化』29(1981年)、「山梨県・福光園寺蔵の木造吉祥天及び二天像について」『佛教藝術』149(1983年)、「瀬戸神社の彫刻」『三浦古文化』35(1984年)、「東光寺の薬師如来像」『同』40(1986年)、「『公余探勝図』解説」『同』46(1989年)、「源頼朝ゆかりの造像―滝山寺聖観音・梵天・帝釈天立像―」『同』50(1992年)、「康尚・定朝への道 寄木造りを生み出した時代」『日本の国宝(週刊朝日百科)』74(1998年)などがある。90年以降になると執筆は専ら展覧会図録に移行する。すなわち、「仏像内に納入された仏様」『仏教版画入門展』(町田市立国際版画美術館、1990年)、「南禅寺の仏像」『伊豆国の遺宝MOA美術館開館10周年記念展』(MOA美術館、1992年)、「美術に表現された花」『花展』(東京国立博物館、1995年)、「神々の国の仏たち」『古代出雲文化展神々の国 悠久の遺産』(東武美術館、1997年)、「室生寺の建築と彫刻」『女人高野室生寺のみ仏たち国宝・五重塔復興支援展』(東京国立博物館、1999年)、「東大寺の文化財」『東大寺の至宝展』(東武美術館、1999年)、「唐招提寺の美術と歴史」『国宝鑑真和上唐招提寺金堂平成大修理記念展』(東京都美術館、2001年)、「宝物寸描-紫檀小架の使い方-」『第53回正倉院展』(奈良国立博物館、2001年)、「東大寺の美術」『大仏開眼1250年東大寺のすべて』(同館、2002年)、「黎明期法隆寺の美術」『法隆寺日本仏教美術の黎明』(同館、2004年)、「興福寺鎌倉復興期の彫刻」『興福寺国宝展鎌倉復興期のみほとけ』(東京藝術大学大学美術館、2004年)、「唐招提寺の美術と歴史」『国宝鑑真和上唐招提寺金堂平成大修理記念』(奈良国立博物館、2009年)など。公職を辞してからも、文化庁・国立博物館時代の実績と手腕を買われ、奈良を中心とする寺社関係の展覧会のプロデュースに尽力した。ことに平成の大改修にともなう唐招提寺10年プロジェクトによる国宝鑑真和上展の東京、愛知、宮城、北海道、静岡などの各地での実現は鷲塚の信用と尽力なくしては実現しなかったであろう。なお、鷲塚といえば日本彫刻史の研究者としてのイメージが強いが、慶應義塾大学大学院時代には松下隆章に師事し、文化財保護委員会へは絵画部門での採用であり、この頃の論文・解説類の執筆が専ら絵画作例であったことは意外と知られていない。この時期に執筆されたものとして「住吉具慶筆徒然草絵詞」『古美術』12(1966年)、「新指定重要文化財紹介 祇園祭礼図・慶長遣欧使節関係資料」『MUSEUM』185(1966年)、「古美術用語解説絵画篇Ⅰ~Ⅲ」『古美術』15~17(1966年~67年)、「月の絵画の歴史」『三彩』220(1967年)、「吉野山花見図屏風」『古美術』20(1967年)、「日吉山王祭礼図(京都檀王法林寺蔵)」『哲学』53(1968年)がある。ちなみに、日本彫刻史に本格的な言及がなされるようになるのは「静岡県の彫刻」『月刊文化財』86(1970年)以降である。

井村彰

没年月日:2010/09/13

読み:いむらあきら、 Imura, Akira*  美学研究者で、東京藝術大学美術学部准教授の井村彰は、2008年より病気療養中であったが、9月13日脳梗塞のため死去した。享年54。1956(昭和31)年2月16日、広島県竹原市に生まれる。74年3月広島県立呉三津田高校を卒業、翌年4月東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。79年3月同大学卒業、4月同大学大学院修士課程に入学。82年3月、同大学院修了、4月同大学美術学部美学研究室非常勤講師となる。84年から86年まで、ドイツ学術交流会留学生としてミュンヘン大学に学ぶ。帰国後、芝浦工業大学、法政大学、文化学院芸術専門学校にて非常勤講師を務める。88年7月、三村尚子と結婚。1990(平成2)年4月、大分大学教育学部専任講師となる。92年4月、同大学同学部助教授となる。97年4月、東京藝術大学美術学部芸術学科専任講師となる。98年同大学同学部助教授となる(2007年から准教授)。2002年9月、「東京藝術大学美術学部+ワイマール・バウハウス大学造形学部 現代美術交流展」に運営委員として参加。翌年7月、「アーティスト・ガーデン・ワイマール」のプロジェクト事業に参加、ワイマール・バウハウス大学にて講演。2004年6月、東京藝術大学美術学部副学部長となる(2007年11月まで在任)。井村の美学研究は、学生時代のヘーゲル、ヘルベルト・マルクーゼの美学理論にはじまり、テオドール・アドルノの美学へと進み、そこから個人がもつ「趣味」(hobbyとtaste)の問題、また芸術と社会、現代美術、あるいは近現代の構築物と社会の関係を「環境美学」として研究領域を広げ、考察を深めていった。こうした研究のなか生みだされた成果として、「モニュメントにおける文化と野蛮―宮崎市の『平和の塔』を事例にして―」(科学研究費補助金研究成果報告書「メタ環境としての都市芸術―環境美学研究―」、2000年3月)では、野外のモニュメントの芸術性と政治性の関係を、その関係に含まれる諸問題を基点に考察し、美学の視点で論じていた。また、「趣味の領分―雑誌『趣味』における坪内逍遥・西本翠蔭・下田歌子―」(科学研究費補助金研究成果報告書「日本の近代美学(明治・大正期)」、2004年3月)では、上記の「趣味」の問題を、近代日本における翻訳を通した文化受容の問題として論じている。さらに、モニュメントに端を発して考察された課題では、「モニュメント・文化財・芸術作品」(科学研究費補助金研究成果報告書「芸術における公共性」、2005年3月)において、近代、現代における文化生産、文化消費の問題を歴史的に俯瞰しようと試みていた。このように井村の美学研究は、現代における芸術の諸問題を、その背後にある歴史、社会を念頭に考察を深めていこうとするものであり、そこに現代に息づく美学の可能性を見いだいしていたといえる。数多くの論文、報告の他に主要な翻訳書に、下記のものがある。ヨハネス・パウリーク著『色彩の実践―絵画造形のための色彩―』(美術出版社、1988年)、ゲルノート・ベーメ著『感覚学としての美学』(共訳であるが訳者代表、勁草書房、2005年)。なお、『カリスタ』第17号(美学・藝術論研究会編集発行、2010年12月)において、追悼記事が掲載された。謙虚で温和な人柄ながら、研究者としては、ドイツの学問的土壌を敬愛し、つねに時代と社会を視野に入れつつ、美学という位置から確固たる識見のもと真摯に研究をつづけるとともに、後進の指導にあたっていた。

藤本強

没年月日:2010/09/10

読み:ふじもとつよし、 Fujimoto, Tsuyoshi*  考古学者で東京大学名誉教授の藤本強は9月10日、旅行先のドイツ、ローテンブルクで死去した。享年74。1936(昭和11)年5月20日に東京都に生まれる。59年東京大学文学部考古学科卒業。61年東京大学大学院人文科学研究科考古学専門課程修士修了、65年東京大学大学院人文科学研究科考古学専門課程博士課程満期退学。専門は先史考古学で、農耕が開始されるころの西アジアの石器文化を研究した。65年東京大学文学部助手。73年からは東京大学文学部附属北海文化研究常呂実習施設助教授として、オホーツク海沿岸の常呂町に赴任し、北海道の独特の文化的特性を持つ遺跡の発掘に従事した。この時の成果が、『北辺の遺跡』(教育社歴史新書、1979年)、『擦文文化』(教育社歴史新書、1982年)などとして刊行されている。さらに、日本列島の文化の多様性を評価する態度につながり、『もう二つの日本文化 北海道と南島の文化』(東京大学出版会、1988年)などの著書として結実した。85年には東京大学文学部教授として東京に戻る。83年以来、東京大学本郷キャンパスでは、創立100周年事業の一環として御殿下記念館、山上会館などの建設が計画されていた。キャンパス地下の加賀藩本郷邸の発掘のため、遺跡調査室(現、埋蔵文化財調査室)が組織され、藤本は構内の発掘にも尽力することになる。この調査は、江戸遺跡の大規模な調査として、その後の江戸考古学に与えた影響が大きい。藤本は発掘・報告のみならず、研究成果を『埋もれた江戸 東大の地下の大名屋敷』(平凡社、1990年)などの形で刊行し、普及にも努めた。このように、藤本の研究範囲は多くの地域、時代におよんだ。研究の基本を記した『考古学を考える 方法論的展望と課題』(雄山閣、1985年)、『考古学の方法 調査と分析』(東京大学出版会、2000年)などを刊行したほか、幅広い知見を活かした『モノが語る日本列島史 旧石器から江戸時代まで』(同成社、1994年)、『東は東、西は西 文化の考古学』(平凡社、1994年)が刊行されている。研究・教育とともに、人望と指導力を買われて1994(平成6)年から96年まで東京大学文学部長・大学院人文社会系研究科長となり、大学改革の波を乗り切った。97年に東京大学文学部を定年退官、名誉教授となった。同年、新潟大学人文学部教授。2002年、國學院大学文学部教授。國學院大學では03年から大学院委員長も務めた。07年には國學院大學を退職し、教育の最前線から退く。一方、00年から日本学術会議会員、06年からは文化審議会世界文化遺産特別委員会委員長を務めた。08年には文化庁の古墳壁画保存活用検討会の座長となり、キトラ古墳の石室壁画の解体保存の決断など、文化財保護にかかわる重要な案件にかかわる。そうした経歴の一方で、大学時代ハンドボール部に所属するスポーツマンであった藤本は、大先生として祭り上げられることを嫌った。東京大学の退官に際しては、一般にありがちな献呈論文集という形を嫌い、自らの編集による特定テーマの論文集を逆提案。研究仲間や後輩・弟子たちの執筆した『住の考古学』(同成社、1997年)を刊行した。古稀を迎えたときも、東大退官の際と同様、自らの編集による『生業の考古学』(同成社、2006年)を刊行した。01年に福島県文化財センター白河館「まほろん」の館長に就任すると、館長講演会などの形で一般への文化財の普及に尽力した。『ごはんとパンの考古学』(同成社、2007年)や、没後に刊行された『日本の世界文化遺産を歩く』(同成社、2010年)も、そのような講演内容をまとめたものである。最期の地であったドイツも、世界遺産に関する新たな講演や著作の準備のための滞在であった。

鈴木重三

没年月日:2010/09/01

読み:すずきじゅうぞう、 Suzuki, Juzo*  近世国文学・浮世絵研究者の鈴木重三は9月1日午後6時23分、東京都目黒区の病院で死去した。享年91。1919(大正8)年3月30日東京市麻布区霞町(現、東京都港区西麻布)に生まれる。幼少の頃より芝居を好み、合巻(江戸時代後期に流行した草双紙、作者では山東京伝、曲亭馬琴など、絵師では豊国、国貞、国芳などが手がけた)など文芸に親しみ、その後の研究の素地を形成した。1939(昭和14)年、東京帝国大学に入学するが3年で戦時中の繰り上げ卒業となり、陸軍に応召されて出征、46年復員、翌年から浦和市立高等学校に勤務した。51年より国立国会図書館に奉職、84年に司書監で退官ののち、白百合女子大学文学部教授として教鞭をとった。生涯にわたって戯作など江戸時代の絵入版本と、関連する浮世絵との考察を数多く手がけたが、研究に着手した頃、こうした分野は、文学史からも美術史からも考察の対象外とされていた感があり、鈴木の業績は先駆的な研究となり、その後の研究の礎となった。70年刊行の『広重』(日本経済新聞社)は、多種多様な作品と資料を網羅し、広重の人物像に迫る大著である。また企画・編集を行った全集・画集類も多く、『浮世絵大系』(集英社)、『浮世絵聚花』(小学館)などがある。一方、絵本や合巻の底本の吟味、校閲、解説などを数多く手がけ、企画・編集に携わった主な書籍には『近世日本風俗絵本集成』(臨川書店)、『北斎読本挿絵集成』(美術出版社)、『山東京伝全集』(ぺりかん社)、『馬琴中編読本集成』(汲古書院)、『偐紫田舎源氏』(岩波書店)、『葛飾北斎伝』(岩波文庫)などがあり、いずれも幅広い研究の基礎資料となっている。また79年刊行の『絵本と浮世絵 江戸出版文化の考察』(美術出版社)は近世文学についての研鑽と浮世絵に対する鋭い観察眼によってなされた著作集である。85年刊行の『近世子どもの絵本集』(岩波書店)では毎日出版文化賞特別賞を受賞している。また1992(平成4)年の『国芳』(平凡社)は近世文学研究の豊富な蓄積を骨子に、国芳作品の集大成として結実させた。さらに2004年刊行の『保永堂版 広重東海道五拾三次』(岩波書店)では、周到なる調査をもとに、可能な限りの初期の摺を厳密に選定して資料とともに掲載している。同書は著名な同作品の図版の決定版であるとともに、この作品が広重の上洛を契機としたものではなく、従来から知られていた『東海道名所図会』に加え十返舎一九の『続膝栗毛』を参考に制作されたことを、詳細な挿図とともに明らかにしている。最晩年に至っても研究意欲は衰えることなく、既発表の論文による『絵本と浮世絵』の改訂版のために、最後までその訂正加筆に努められていた(ぺりかん社より刊行予定)。鈴木は、片岡球子(第73回院展出品作、1988年、北海道立近代美術館蔵)にその姿が描かれており、シリーズに唯一とりあげられた当世人物である。その縦2m、横3.7mを超える大画面には、国芳の三枚物「七浦大漁繁昌之図」の図様を背景として、国芳と背広姿の鈴木が配されている。76年頃から鈴木は片岡の浮世絵研究の相談役として交流があり、画中の「七浦大漁繁昌之図」も鈴木の所蔵作品を参考にしたという(土岐美由紀「インタビュー 鈴木重三=片岡球子先生との交流について」『氷華(北海道立旭川美術館だより)』82、2010年、および『片岡球子展』図録、札幌芸術の森美術館・北海道立旭川美術館、2010年)。没後「鈴木重三先生を偲ぶ会」が国際浮世絵学会の主催で行われ、その際の配布物の表紙に、片岡による鈴木の写生が載せられている。

陰里鉄郎

没年月日:2010/08/07

読み:かげさとてつろう、 Kagesato, Tetsuro*  美術史研究者で美術評論家の陰里鉄郎は8月7日、心不全ため横浜市の病院で死去した。享年79。1931(昭和6)1月1日、長崎県南松浦郡岐宿村川原(現、五島市)に医師であった父陰里壽茂、母せいの次男として生まれる。小学校低学年の時、同県南松浦郡生月島に転校。長崎県立猶興館中学に入学、終戦後同学校は高等学校となり、49年3月に卒業。50年4月、日本大学教養学部医学進学コースに入学。52年3月、同大学教養学部修了。同年4月東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。56年3月、同大学同学部を卒業、同年4月より芸術学科副手となる。59年4月、同大学美術学部助手となる。62年7月、神奈川県立近代美術館学芸員となる。同美術館採用後、当時副館長であった土方定一の命により同年7月開催の「萬鉄五郎展」を担当、以後土方より薫陶を受けることになり、本格的に日本近代美術史研究をはじめる。65年1月、同美術館の「司馬江漢とその時代」展を担当し、同年4月より東京国立博物館学芸部美術課絵画室に研究員として転出。66年4月、東京国立文化財研究所美術部第二研究室に異動。研究所在職中は、はじめに上記の美術館において担当した萬鉄五郎研究に傾注し、実証的な作家研究の成果として『美術研究』に「萬鉄五郎―生涯と芸術」(一)(255号、1968年1月)~(五)(290号、1973年11月)を連載。並行してその研究領域は、司馬江漢、石川大浪、亜欧堂田善、川原慶賀等の江戸洋風画から、明治、大正期の美術まで広範囲になっていった。個別な論文等の他に画集等の編著も数多く、主要なものに下記のものがある。『近代の美術29 萬鉄五郎』(至文堂、1975年1月)、『日本の名画5 黒田清輝』(中央公論社、1975年)、『巨匠の名画10 青木繁』(学研、1976年)、『原色現代日本の美術5 日本の印象派』(小学館、1977年)、『近代の美術50 村山槐多と関根正二』(至文堂、1979年1月)、『夏目漱石・美術批評』(講談社、1980年)、東京国立文化財研究所編『黒田清輝素描集』(日動出版部、1982年)。こうした作家等の研究のなかでも、『原色現代日本の美術5 日本の印象派』は、研究所が近代美術研究の根幹とする黒田清輝を中心に、同時代のヨーロッパ美術まで視野に入れながら考察した代表的な研究成果であった。82年5月、三重県立美術館館長に就任。同美術館には、設立準備から関わっていたことから、要請にもとづく転出であった。同美術館では、運営を主導して作品収集の基本方針の策定にあたり、それは、下記のようにそれまでの研究者としての専門性を反映した方針であった。(1)江戸時代以降の作品で三重県出身ないし三重にゆかりの深い作家の作品、(2)明治時代以降の近代洋画の流れをたどることのできる作品、また日本の近代美術に深い影響を与えた外国の作品、(3)作家の創作活動の背景を知ることのできる素描、下絵、水彩画等。この方針は、企画展の方向にもなっており、82年開館記念展として9月「三重の美術・現代」、10月「日本近代の洋画家たち展」開催をはじめ、館長在任中は展覧会の企画に積極的にあたり、日本近代美術、それに関連した海外展、また現代美術展を順次開催していった。とりわけ日本の近代美術では、「藤島武二」展(1983年4月)、「萬鉄五郎展」(1985年6月)、「橋本平八と円空展」(1985年9月)、「黒田清輝 生誕120年記念」展(1986年5月)、「関根正二とその時代展」(1986年9月)、「石井鶴三展」(1987年6月)、「鹿子木孟郎展」(1990年9月)等、いずれも今日にいたるまで基礎的、基本的な研究となっている。また、特色ある企画展として、「井上武吉展」(1987年1月)、「飯田善国展」(1988年1月)、「湯原和夫展」(1988年9月)、「向井良吉展」(1989年5月)、「多田美波展」(1991年8月)、「清水九兵衛展」(1992年5月)、「佐藤忠良展」(1994年4月)等を開催したが、これらは60年代に頭角を現した陰里とほぼ同世代の彫刻家の個展であり、戦後から現代美術における彫刻、立体表現を検証する点でも、他館にみられない意義ある企画であった。こうした数々の企画展の中で、「アーティストとクリティック 批評家・土方定一と戦後美術展」(1992年8月)は、かつて薫陶をうけた土方定一の批評的な視線をとおして戦後美術を跡づける、当時としてはユニークな試みであり、同時に土方へのオマージュでもあった。同美術館を退職後の1994(平成6)年4月、名古屋芸術大学美術学部教授となり、また同月横浜美術館館長に就任。98年4月、女子美術大学大学院美術研究科教授となる。2007年同大学を退職。陰里は、江戸洋風画から近代美術まで広範囲にわたる美術史研究のかたわら、美術評論においても現代美術を対象に積極的に執筆活動を行った。そうしたなかで培われた美術に関する高い見識と時代に対する深い洞察力、さらに何事にも平衡であろうとする姿勢は、美術館運営に如何なく発揮された。1980年代以降に誕生した多くの地方美術館のなかでも、三重県立美術館をひとつの成功したかたちにまで育て上げた「美術館人」としての功績は多とすべきである。その主要な著述は、『陰里鉄郎著作集』全3巻(一艸堂、2007年)に収録されている。

両角かほる

没年月日:2010/07/16

読み:もろずみかほる  泉屋博古館分館学芸員の両角かほるは7月16日、癌のため急逝した。享年39。1970(昭和45)年7月22日、横浜市に生まれる。1989(平成元)年、学習院大学文学部哲学科に入学。93年、学習院大学大学院人文学研究科哲学専攻博士前期課程(指導教官 小林忠教授)に進み95年に修了。その後、学習院大学研究生、共立女子大学家政学部科目等履修生となり、日本染織史などを学ぶ。この間、93年より96年まで東京国立博物館学芸部工芸課染織室に事務補佐員として勤務。長崎巌(現共立女子大学教授)の指導を受け、主に能装束を研究。併せて、実践的な作品の扱いを体得する。97年「摺匹田の発生と流行に関する一考察」(『日本風俗史学会会誌』35号)を発表。98年泉屋博古館分館開設準備室に勤務。建物、収蔵庫などの設計・設備の打ち合わせに勤しむ。2002年の開館以降、工芸担当として活躍し多くの展覧会を手掛ける。主なものに「特別展 共立女子大学コレクション 華麗なる装いの世界 江戸・明治・大正」(2005年)、「特別展 金箔のあやなす彩りとロマン 人間国宝 江里佐代子・截金の世界」(2005年)、「大名から公爵へ―鍋島家の華―」(2007年)「近代工芸の華 明治の七宝―世界を魅了した技と美―」(2008年)、「板谷波山をめぐる近代陶磁」(2009年)などがあげられる。一方、国内外において調査、研究も精力的に行い、「翻刻『御茶會記』(上)・(下)」を『泉屋博古館紀要』第19巻・20巻(2003年、2004年)に発表。04年から2年間にわたり『茶道の研究』三徳庵、名品シリーズを担当。05年、「黒綸子地蝶捻花模樣小袖」(『國華』(特輯寛文小袖)110巻9号、掲載通号1314)を発表。06年「風景をまとう」(『『KIMONO』小袖にみる華 デザインの世界』展図録)を執筆。09年には「東京瓢池園小史」(『幻の京焼 京都瓢池園』展図録)を執筆。同年より服飾文化共同拠点において共同研究「三井家伝来小袖服飾類に関する服飾文化史的研究:現存遺品と円山派衣裳下絵との関係を中心に」(植木淑子、長崎巌、福田博美、両☆かほる、菊池理予)を開始。これらの成果は『服飾文化共同研究最終報告書』(文化ファッション研究機構、2011年)にまとめられている。10年、「泉屋博古館創立50周年記念 住友コレクションの茶道具」展開催に向け、自宅にてカタログ編集、展示配置予定図などの作業を進める。このカタログが遺著となる。教育面では、非常勤講師として実践女子大学では博物館実習を、共立女子大学では博物館各論と博物館実習を担当していた。泉屋博古館分館の川口直宜館長による「追悼・両角かほるさん」(『泉屋博古館紀要』第27巻、2011年)には、生前の活躍の様子や人となりがまとめられている。

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