本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,961 件)





佐藤慶太郎

没年月日:1940/01/13

読み:サトウ, ケイタロウ*、 Sato, Keitaro*  佐藤慶太郎は1月13日別府の自宅に於て逝去した。享年73。佐藤新興生活館の創立者であり、又大正9年東京府美術館建設費として百万円を寄付する等美術界に貢献するところあつた。

泉鏡花

没年月日:1939/09/07

読み:イズミ, キョウカ*、 Izumi, Kyoka*  帝国芸術院会員泉鏡花は9月7日逝去した。本名鏡太郎、明治6年に金沢に生れ小説家として聞えてゐた。

橘糸重

没年月日:1939/08/31

読み:タチバナ, イトエ*、 Tachibana, Itoe*  帝国芸術院会員橘糸重は8月31日病気の為逝去した。享年67歳。女史はピアニストとして令名あり明治25年以来東京音楽学校の教職に在り、30余年勤続してゐた。

喜田貞吉

没年月日:1939/07/03

読み:キタ, サダキチ*、 Kita, Sadakichi*  東北帝国大学講師文学博士喜田貞吉は病気の為7月3日逝去した。享年69歳。博士は法隆寺再建論を持してさきには故関野貞博士、最近は足立康博士と論争を交へて、夙に学会にその令名が喧伝して居た。しかし博士は唯に法隆寺問題のみではなく、歴史一般に就いても博覧強記を以て聞え、著書には「帝都」「国史の教育」その他数種があり、関係雑誌に発表された研究論文等は無慮一千余に達し、又自ら「民族と歴史」「社会史研究」「東北文化研究」の刊行を主宰してゐた。尚この間教職にあつて後進の誘掖にあたり、文部編修官となつて教科書の編纂等に尽す処があつた。左にその略歴を掲げる。 明治4年徳島県に生れ、明治29年東京帝国大学文科大学国史科を卒業、同治33年早稲田専門校講師、同34年国学院大学講師を嘱託され、同年文部図書審査官に、36年には文部編修官に転じ44年退官した。この間に39年には東京帝大、41年には京都帝大文科大学講師を嘱託され、42年文学博士を授けられた。大正9年京都帝国大学教授に任ぜられ、13年退官同年東北帝大、京都帝大講師となつて現在に至つた。

小野玄妙

没年月日:1939/06/27

読み:オノ, ゲンミョウ*、 Ono, Genmyo*  仏教芸術史の権威、文学博士小野玄妙は脳溢血のため6月27日逝去した。享年57歳。本名金次郎、明治16年2月28日横浜に生る。同29年鎌倉光明寺に入つて浄土宗僧侶となり、名を玄妙と改めた。大正7年宗教大学教授となり、同12年に大正新脩大蔵経の編纂主任となり、その完成に力を注いだ。昭和3年高野山大学教授、又翌年東洋大学教授となり、同7年文学博士の学位を授けられた。同9年以後文部省国宝調査会委員となり、諸寺所蔵の蔵経の調査に従つた。その著述は「仏教之美術及歴史」「大乗仏教芸術史の研究」「仏教経典総論」其他十余種に上り、就中粉本図像の研究に於て業績を残した。主なる著作を掲げる。「仏教年代考」(明治38年)「大日本仏教全書」(同45年望月信亨博士の下に於て編纂)「仏教之美術及歴史」(大正5年)「仏教美術概論」(同6年)「仏像ノ研究」(同7年)「画図解説仏教美術講話」(同10年)「大分の石仏に就て」(同11年)「健駄邏ノ仏教美術」(同12年)「極東の三大芸術」「五台山写真集」(同13年)「仏教文学概論」(同14年)「仏教美術」(同15年)「大乗仏教芸術史の研究」(昭和2年)「仏教概説」(同3年)「仏教神話」(同8年)「仏教経典総論」(同11年)「仏教ノ美術ト歴史」(同12年)

三上参次

没年月日:1939/06/07

読み:ミカミ, サンジ*、 Mikami, Sanji*  帝大名誉教授文学博士三上参次は病気の為6月7日逝去した。享年75歳。兵庫県に生れ、明治22年東京帝大文科を卒業、引続き母校の助教授、教授を経て文学部長となつた。同32年博士を授けられ、大学を退職後は名誉教授、学士院会員、貴族員議員の地位に就いた。この間傍ら史料編纂の事業を主宰し、大日本史料大日本古文書の編纂等に貢献する処があつた。又保存事業に於ても、明治33年帝国古蹟取調会の創立に当り、学事顧問、次いで調査委員に挙げられ、又大正8年史蹟名勝天然紀念物調査会官制の施行に際しその委員となつた。而してこの官制の廃止後昭和8年、明治天皇聖蹟に関する調査保存事業が始められ、文部省に史蹟名勝天然紀念物調査委員会が設立されるに及び、その会長に推挙された。歴史学会に於ける業績は多大であるが就中特記すべきは、御歴代天皇聖蹟を調査、保存し奉るべきを提唱し、これが実施を誘導したことであつた。(史蹟名勝天然記念物14ノ7による)

内藤藤一郎

没年月日:1939/05/13

読み:ナイトウ, トウイチロウ*、 Naito, Toichiro*  仏教美術史の研究家内藤藤一郎は5月13日病気の為逝去した。明治29年大阪に生れ、早稲田大学を卒業、夙にその研究を関係雑誌等に寄稿してゐた。「法隆寺壁画の研究」ほか数種の著述がある。

平野千惠子

没年月日:1939/04/04

読み:ヒラノ, チエコ*、 Hirano, Chieko*  米国ボストン美術館東洋部勤務の平野千惠子は賜暇を得て帰国中急逝した。享年64歳。新潟県出身で、東京女高師、津田英学塾を経て米国シーモーカレツヂに入り、英文学と図書館学を学び、明治29年ボストン美術館に勤務した。爾来同館東洋部にあつて蔵品及び図書の整備に従つたが、大正9年以来浮世絵師清長の研究に専念し、英文の著述「清長」が米国で公刊されてゐる。

関衛

没年月日:1939/03/06

読み:セキ, マモル*、 Seki, Mamoru*  東亜美術協会顧問関衛は3月6日逝去した。明治23年長崎県に生る。心理学及美術史を専攻し、数種の著作を残した。

岡本綺堂

没年月日:1939/03/01

読み:オカモト, キドウ*、 Okamoto, Kido*  帝国芸術院会員岡本綺堂は3月1日病気のため逝去した。享年68歳、本名敬二、東京の生れで、戯曲、小説、随筆に多数の著作がある。

長尾建吉

没年月日:1938/12/03

 磯谷額縁店主、嶽陽長尾建吉は、郷里静岡に於て静養中の処12月3日逝去した。行年79歳、高輪泉岳寺に葬られた。額縁製造業の創始者として、又数多の作家の恩人として、多年我が洋画壇の為に尽した功労者であつた。 万延元年2月10日、静岡市磯谷利右衛門三男として生る。15歳の時東京日木橋斎藤商会店員となり、明治11年19歳にして、巴里万国博覧会へ松方総裁随行員として渡欧、翌年静岡県嘱託として濠洲シドニー博覧会へ出張、同年帰朝した。同13年3月渡米、5月小村侯等と英国に渡り、更に巴里に於て洋風家具を学んで、翌年帰朝、長尾家の養嗣子となつた。同22年上京し、山本芳翠と共に洋風家具及額縁の研究に従ひ、同25年芝愛宕町に洋画専門の額縁製造業を始めた。其後京都、大阪博覧会の洋画陳列を依託され、又同36年には、東京音楽学校に於ける日本最初の歌劇「オルフオイス」の背景を山本芳翠を援けて製作した。同37年常設展覧会場を京橋区竹川町に設け、翌38年工場及び店を芝区に移し、磯谷商店となし、美術雑誌「L・S」を創刊した。同41年文展の陳列を命ぜられ、現在に及ぶ。大正3年大正博覧会に出品、金賞受領、同13年東京日日新聞社より美術界功労者として、金賞を受く。明治37年の有栖川宮家に於ける室内装飾金箔工事をはじめ、赤坂御所、聖徳記念絵画館等の額縁工事を承つて居た。昭和4年知友主催で鶴見花月園に於て、古稀生別会を催した。故人の伝記には、「嶽陽長尾健吉」(長尾一平編纂)がある。

アンリ・ユルリツク・オダン

没年月日:1938/11/08

 日本美術の研究家として知られた仏人アンリ・ユルリツク・オダンは11月8日東京杉並区の自宅で逝去した。 安政6年11月30日、デイジヨン市に生れ、明治15年巴里法科大学に入学、傍ら美術の研究に従事し、其後絵画研究視察のため西班牙、伊太利、白耳義、和蘭、独逸、墺太利諸国の美術館を訪ねた。明治32年初めて日本に来り同年帰国せるも、翌33年再度来朝、京都に居住、日本絵画の研究に従ひ、同40年に短期間帰国をなしたる外同44年迄滞在。大正9年4度来朝し、同11年帰国。昭和8年仏国文部省の美術囑託を兼ね、5度来朝し、東京に定住した。同11年文化に関する勲功により勲5等瑞宝章を授けられた。著述に「オダン蒐集画集」がある。

浜田耕作

没年月日:1938/07/25

読み:ハマダ, コウサク*、 Hamada, Kosaku*  京都帝国大学総長正3位勲2等浜田耕作は7月25日薨去した。享年58歳。京都帝国大学に於て学葬が行はれた。 明治14年2月22日、大阪府南河内郡に於て、浜田源十郎の長男として生る。明治38年東京帝国大学文科大学史学科を卒業、引続き大学院に入学し、又暫く雑誌「国華」の編輯に従つたが、同42年京都帝国大学文科大学講師を嘱託され、次で大正元年考古学研究の為、英、仏、伊に満3箇年留学を命ぜられた。同2年同文科大学助教授に、同6年教授となり、考古学講座を担当し、翌7年文学博士の学位を授けられた。同14年京大評議員を命ぜられ、昭和2年欧米へ出張、翌年帰国した。同4年東方文化学院理事に就任、また国宝保存会委員を仰せ付けられ、翌5年同大学文学部長に補せられ、同7年辞任した。尚同6年に帝国学士院会員を仰付けらる。同8年重要美術品等調査委員会委員、又朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然記念物保存会委員、同9年法隆寺国宝修理協議会委員、同10年宮内省臨時陵墓調査委員等の任に就いた。同12年6月京都帝国大学総長に任ぜられ、爾来満1ヶ年間全学の輿望を担つて同大学の粛学に尽瘁して現在に及んだものである。博士は本邦考古学界の耆宿であり、斯学を科学的学問として樹立せしめたその功績は大きく、国内は勿論朝鮮満洲等の発掘調査には殆ど悉く関与して居り、尚斯学関係全般に亙る要職にあつた。博学多趣味の人で東西の美術に造詣深く、著書随筆も多数に上り、且つ青陵と号して、書に絵に巧みであつたことは有名であり、人格的に徳望頗る高かつた。(考古学雑誌に依る)編著目録京都帝国大学文科大学考古学研究報告第1冊(梅原末治と共著) 大正6年京都帝国大学文科大学考古学研究報告第2冊 大正7年希臘紀行 大正7年京都帝国大学文科大学考古学研究報告第3冊(梅原末治、島田貞彦と共著) 大正8年南欧遊記 大正8年京都帝国大学文学部考古学研究報告第4冊、第5冊(榊原政職と共著) 大正9年京都帝国大学文学部考古学研究報告第6冊(長谷部言人、島田貞彦と共著) 大正10年「泉屋清賞」?器部 大正11年慶尚北道慶尚南道古墳調査報告(梅原末治と共著) 大正11年通論考古学 大正11年「陳氏旧蔵十鐘」鐘概説及図版解説 大正11年金海貝塚発掘調査報告(梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部考古学研究報告第7冊(新村出、梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部考古学研究報告第8冊(梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部陳列館考古図録 大正12年慶州金冠塚と其遺宝上冊(梅原末治と共著) 大正13年支那古明器泥象図説 大正14年京都帝国大学文学部考古学研究報告第9冊 大正14年有竹斎古玉譜(古玉概説) 大正14年百済観音 大正15年橋と塔 大正15年ミハエリス氏美術考古学発見史 昭和2年京都帝国大学文学部考古学研究報告第10冊(梅原末治、島田貞彦と共著) 昭和2年有喜貝塚調査報告 昭和2年「泉屋清賞」続篇上冊 昭和2年慶州金冠塚と其遺宝図版下冊(梅原末治と共著) 昭和3年博物館 昭和4年貔子窩 昭和4年天正年間遣欧使節関係文書(新村出と共著) 昭和4年考古遊記 昭和4年東亜文明の黎明 昭和5年東亜考古学研究 昭和5年天正遣欧使節記 昭和6年モンテリウス氏考古学研究法 昭和7年慶州の金冠塚 昭和7年南山裡(島田貞彦と共著) 昭和8年刪訂泉屋清賞(梅原末治と共編) 昭和9年京都帝国大学文学部考古学研究報告第13冊(梅原末治と共著) 昭和9年京都帝国大学文学部陳列館考古図録(続篇) 昭和10年楽浪彩篋塚遣物聚英(梅原末治と共編) 昭和11年京都帝国大学文学部考古学研究報告第14冊 昭和12年サンデ帥遣欧日本使節対話録(全訳校閲) 昭和12年仏国寺と石窟庵(藤田亮策、梅原末治と共編) 昭和13年赤峯紅山後(水野清一と共著) 昭和13年

水木要太郎

没年月日:1938/06/01

読み:ミズキ, ヨウタロウ*、 Mizuki, Yotaro*  奈良帝室博物館学芸委員水木要太郎は6月1日逝去した。享年70歳。十五堂と号す。 慶応元年愛媛県に生る。明治42年より昭和2年迄奈良女子高等師範学校教授として在職し、大正4年以降奈良帝室博物館に勤務してゐた。

美澄政博

没年月日:1938/03/24

 美術研究所嘱託美澄政博は3月24日逝去した。享年30歳。 山口県の生れで、昭和10年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同年美術研究所の嘱託となり、同所の明治大正美術史編纂に従事してゐたものである。

和田不二男

没年月日:1938/03/06

 恩賜京都博物館長正6位勲5等和田不二男は脳溢血の為3月6日逝去した。享年70歳。 明治26年岐阜師範学校卒業後小学校教員、視学を経て大正6年京都府知事官房主事となつた、退職後同15年恩賜京都博物館長に任ぜられ、爾後美術界の為に尽すところが多かつた。

関如来

没年月日:1938/02/20

読み:セキ, ニョライ*、 Seki, Nyorai*  美術評論家関如来は動脈硬化症の為、東京府立大塚病院に於て逝去した。享年73歳。 本名巌二郎、慶応2年11月16日大和櫛羅藩永井信濃守の家臣関祐忠の四男として葛城山下の藩地に生る。明治10年大阪府立大阪英語学校に入学、ついで東京大学予備門に転じ、同18年同校を退き、同27年読売新聞社に入社、文学及美術を担当した。同30年、一時帝国博物館の帝国美術略史編纂を嘱託され、又同年臨時博覧会事務局の事務を嘱託され、同32年には臨時博覧会鑑査官を仰付けられた。同31年日本美術院創立に参画し依つて天心よりその正員たらんことを求められたが受けなかつた。同35年読売を退社、美術史の著作に従事し、傍ら「ステユデイオ」社の日本通信員となつた。同43年読売に復社し美術部主任となつたが、大正3年退社した。昭和4年京都日出新聞社より聘せられてその発行人となり爾後京都に寓居した。読売入社当時訪問記事「当世名家蓄音器」を連載、その後31年の美術学校紛擾の際も美術記者として筆を揮つた。又29年より美術評論の執筆に生涯を終始した。「美術」「書画之研究」「関」等の雑誌を発行したことがあり、著者としては「当世名家蓄音機-文禄堂発行」、「五色の酒-春陽堂発行」があり、其他「日本靖献帖」の解説編輯、「霊華追悼画集」の編纂等がある。

武田五一

没年月日:1938/02/05

読み:タケダ, ゴイチ*、 Takeda, Goichi*  正3位勲2等工学博士武田五一は急性肺炎のため2月5日京都の自宅で薨去した。享年67歳。 明治5年11月15日広島県福山市に生る。同30年東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、同32年、同工科大学助教授に任ぜらる。翌33年文部省留学生として図案学研究のため英独仏に留学を命ぜられ、翌年3月出発、同36年帰朝した。同年京都高等工芸学校の教授に任ぜられ、同校図案科主任として大正7年迄在職した。この間京都工芸界に大なる貢献をなすと共に建築界に於ても指導的地位を保ち、即ち古建築方面に於ては同37年京都府技師を兼任して京都地方古社寺の修理保存に従事し、新建築界に於ては大蔵省臨時建築部技師を兼任して帝国議会議院建築に当初より参画し、諸官衙建築調査等のために欧米へ前後3回に亙つて出張して居る。大正4年工学博士の学位を受く。同5年法隆寺壁画保存法調査委員、翌年古社寺保存会委員となる。同7年名古屋高等工業学校長に転任し、兼ねて臨時議院建築局技師の任にあつた。当時京都帝国大学工学部の建築学科創立の事あり、その委員として尽力し、同9年同科の設置を見るや勅任教授に任ぜられ、主として建築計画法を講じ同科の今日の基礎を築いた。京都帝国大学に於ては教授たるに止らず、同11年其の建築顧問、同14年に大蔵省営繕管財局技師を兼ね、昭和4年より6年迄は営繕課長事務取扱として学内建築物造営に関与した。尚この時代は博士の建築活動の高潮期で幾多の作品を残して居る。工芸界に於ては大正元年農商務省第1回図案及応用作品展以来今日迄商工省工芸審査委員会の委員として、又各博覧会等の審査官として力を尽し、更に都市計画の方面に於ても京都、大阪、名古屋等の顧問として多大の貢献をなした。昭和6年欧米に出張し、同7年長年の教授の職を辞したが、建築界に於ける活動は毫も衰へず、最近の大作としては日本赤十字社京都支部病院、京都電燈株式会社等が挙げられる。晩年特記すべきは昭和9年4月法隆寺国宝保存工事事務所長及び同協議会委員に就任して、爾来4ヶ年国家的事業たる同寺国宝建造物保存事業に傾倒したことで、その大事業の半ばにして急逝し、学界の痛惜するところとなつたものである。多年京都に居住したため、関西方面の重要公共建築には殆んど関与せざるものなく、我国建築界の重鎮であつた。左に主なる建築作品の目録を掲載する。(以上「建築雑誌」52の639記事に依る)作品略年表明治32年 日本勧業銀行(旧)(東京市)明治32年 台湾神社明治38年 福島邸(旧)(東京市)明治40年 清野邸(京都市)明治42年 京都府記念図書館明治42年 富山県県会議事堂明治43年 京都商品陳列所(旧)明治44年 同志社女学校静和館(京都市)明治44年 伊藤博文公銅像台座(神戸市)明治45年 芝川邸(兵庫県)大正2年 同志社女学校ゼームス寮(京都市)大正2年 京都市二条橋大正3年 京都帝国大学文学部陳列館大正3年 京阪電鉄株式会社本社(大阪市)大正4年 桑港博覧会日本政府館迎賓館大正4年 京都商工会議所大正4年 佐久間象山先生遭難之碑(京都市)大正4年 求道会館(東京市)大正5年 稲畑邸(京都市)大正5年 兵庫県立農工銀行大正5年 山口県庁及県会議事堂大正5年 大阪朝日新聞社大正5年 御大典記念京都博覧会大正6年 龍安寺鳳凰閣(大阪府)大正6年 清水寺根本中堂・大講堂・本坊・客殿(兵庫県)大正6年 大阪電燈株式会社心斎橋陳列場大正8年 山王荘(東京市)大正8年 那覇市役所大正9年 清水寺山門・鐘楼(兵庫県)大正10年 北村本邸(奈良県)大正10年 京華社(京都市)大正10年 山口仏教会館(京都市)大正11年 勝田邸(神戸市)大正11年 京都帝国大学工学部建築学教室大正11年 浅沼銀行(大垣市)大正11年 阿部伊勢守正弘公銅像台座(福山市)大正1年 青柳邸(京都市)大正11年 小川邸(京都市)大正12年 東本願寺内侍所(京都市)大正12年 清水寺大塔(兵庫県)大正12年 藤本ビルブローカー門司支店大正12年 武道専門学校(京都市)大正13年 北村邸(和歌山市)大正13年 京都帝国大学本館大正13年 京都市医師会館大正13年 尼港遭難記念碑(東京市)大正13年 中之島公園音楽堂(大阪市)大正13年 京都銀行集会所大正13年 岐阜商工会議所大正14年 大阪工業試験所研究室大正14年 村瀬西洋料理店(京都市)大正14年 光明寺根本本堂(兵庫県)大正15年 星野邸(京都市)大正15年 藤井美術館(有隣館)(京都市)大正15年 中田商店(京都市)大正15年 電気大博覧会(大阪市)大正15年 持宝院大師堂(兵庫県)大正15年 田中別邸(京都市)大正15年 大阪市伏見橋大正15年 石黒ビルデイング(金沢市)昭和2年 奈良信託株式会社昭和2年 大平邸(京都市)昭和2年 阿部伯爵邸(東京市)昭和2年 島津製作所(京都市)昭和2年 大阪市渡辺橋昭和3年 天王寺公園音楽堂(大阪市)昭和3年 商工省京都陶磁器試験所本館昭和3年 岩倉文庫(京都府)昭和3年 大阪鉱業監督局昭和3年 大阪毎日新聞社京都支局昭和3年 岐阜市公会堂昭和3年 高野山大学図書館(和歌山県)昭和3年 三井相続会館(京都市)昭和3年 御大礼京都博覧会昭和3年 御大礼京都市街路装飾昭和3年 華頂会館(京都市)昭和3年 京都日出新聞社昭和3年 大阪市四ツ橋昭和3年 六鹿邸(京都市)昭和3年 春田文化集合住宅(名古屋市)昭和4年 大阪市浪速江橋昭和4年 山代温泉共同浴場(石川県)昭和4年 三宅清次郎商店(京都市)昭和4年 永平寺大光明蔵(福井県)昭和4年 学士会京都支部会館昭和5年 河野邸(兵庫県)昭和5年 福山市役所昭和5年 伊谷邸(京都市)昭和5年 高野山癸亥震災霊碑堂昭和5年 大阪市桜宮大橋昭和5年 中山邸(兵庫県)昭和5年 東方文化学院京都研究所昭和5年 石黒邸(金沢市)昭和5年 山中町共営浴場(石川県)昭和6年 熊本医科大学山崎博士記念図書館昭和6年 高知県立城東中学校昭和7年 同志社女学校栄光館(京都市)昭和7年 藤山邸(東京市)昭和7年 京都薬学専門学校昭和8年 円教寺摩尼殿(兵庫県)昭和9年 高野山金剛峯寺金堂及根本大塔昭和9年 日本赤十字社京都支部病院昭和10年 新大阪ホテル昭和10年 沢田邸(神戸市)昭和11年 黒谷金戒光明寺大方丈併附属建物(京都市)昭和11年 山中観光ホテル(石川県)昭和11年 法隆寺鵤文庫(奈良県)昭和11年 杉山邸(兵庫県)昭和12年 京都電燈株式会社工事中 法隆寺宝蔵

山桝儀重

没年月日:1937/12/25

読み:ヤママス, ノリシゲ*、 Yamamasu, Norishige*  日本美術学校長山桝儀重は、腎臓病の為12月25日逝去した。享年49。鳥取県の出身で、京都帝大文科を卒業後師範学校教諭、大阪視学に歴任、現在は鳥取新聞社長で、大正13年以来代議士に選出されて民政党に属し、岡田内閣当時は松田文相の下に文部参与官に任ぜられた。昭和11年故紀淑雄の後を承けて日本美術学校長に就任してゐた。

高橋箒庵

没年月日:1937/12/12

読み:タカハシ, ソウアン*、 Takahashi, Soan*  茶人として又研究家として聞えた高橋箒庵は、豫て病気の処12月12日赤坂の自邸で逝去した。享年77。本名義雄。文久元年水戸に生る。明治15年慶応義塾卒業時事新報記者となり同24年三井銀行に転じ、それより三越理事、三井鉱山理事、王子製紙会社々長等を歴任、昭和10年三越取締役に選ばれ今日に至つた。茶道、花道に造詣深く、50歳にして身を著作界に投じ、「東都茶会記」を始め「大正名器鑑」、「水戸学」、「近世道具移動史」、「箒のあと」等著作頗る多い。

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