本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





和田英松(ヒデマツ)

没年月日:1937/08/20

読み:ワダ, ヒデマツ*、 Wada, Hidematsu*  国宝保存会委員文学博士和田英松は8月20日腎臓病のため帝大病院に於て逝去した。慶応元年広島県に生れ、明治21年東京帝国大学文科大学古典講習科図書課卒業、同28年同大学史料編纂掛に入り、32年学習院教授、40年東大史料編纂官に任ぜられ、大正7年帝国学士院恩賜賞を授与され、同10年文学博士の学位を授けられた。昭和8年依願免官となり、従3位勲2等に叙せらる。尚最近は帝国学士院会員の外史料編纂所嘱託、内閣嘱託、国宝保存会委員、重要美術調査委員会委員、国学院大学教授等の要職にあつた。

塚本靖

没年月日:1937/08/09

読み:ツカモト, ヤスシ*、 Tsukamoto, Yasushi*  東京帝国大学名誉教授、帝国芸術院会員(正3位勲2等)工学博士塚本靖は豫て胃癌の為病臥中の処8月9日小石川の自邸で逝去した。享年69。我国建築及美術工芸界の耆宿であり、教育者として又実際家として幾多の功績を貽し、人格的にも徳望篤く、其の長逝は各方面の惜む処であつた。 略歴―明治2年京都に生れ、同26年東京帝国大学造家学科を卒業後大学院に於て建築装飾法の研究に従事、31年東京帝国大学工科大学講師を嘱託せられ、翌32年助教授に任命、同年より35年迄建築学研究の為、英仏独3ヶ国に留学、帰朝するや直ちに教授に陞任、翌36年工学博士の学位を授けられた。38年特許局審査員を命ぜられ、翌39年、貿易工芸品の意匠調査の為清国に差遣、翌年帰朝、41年再び差遣さる。42年日英博覧会の用務の為英国へ出張を命ぜられ、翌43年1月出発、同10月帰朝した。同43年議院建築準備委員会臨時委員を仰付られ、又特許局技師に任命。大正4年明治神宮造営局評議員を仰付られ、同5年帝室技芸員撰択委員、翌年、古社寺保存会委員を仰付らる。同7年明治神宮造営局参与、又臨時議院建築局常務顧問を仰付らる。8年東京帝国大学工学部講堂並教室及実験室新築工事設計を嘱託さる。翌9年宮内省内匠寮御用掛を仰付られ、同年東京帝国大学工学部長に補せらる。11年特許局審判官を命ぜられ、同年勲2等に叙せられ瑞宝章を授けられた。12年工学部長を免ぜられ、同大学評議員、旅順工科大学商議員の任に就いた。14年営繕管財局顧問を仰付られ、翌15年より昭和4年迄再度東京帝国大学工学部長に補せらる。昭和4年同大学教授を免ぜられ、同時に正3位に叙せられ、東京帝国大学名誉教授の称号を授けられた。昭和10年、同大学より工芸史に関する調査を嘱託さる。同12年、紀元二千六百年記念日本万国博覧会々場計画委員会委員を嘱託され、同年6月帝国芸術院創設さるるや会員を仰付られた。逝去に際しては、畏き辺より生前の建築界に致せる功績顕著なるを思召され特に金杯1個を下賜あらせられる旨の御沙汰があつた。上記の他に明治40年より連年7回に亙り文展審査員を命ぜられたのを始め、幾多の工芸展及博覧会等の鑑査、審査に鞅掌し、工芸美術界に貢献せる処多大であつた。又、博士の東西古美術に関する著作は多数に上るが、略歴年表と共に其の目録は建築雑誌(第51輯、第631号)に紹介されてある。

ジヨン・スチユワート・ハツパー

没年月日:1936/12/19

 早稲田大学講師米国人ジヨン・スチユワート・ハツパー(John Stewart Happer)は12月19日夜渋谷区の自宅で心臓麻痺の為急逝した。享年73歳。同氏は最初スタンダード石油会社支配人として明治24年来朝、同37年から数年間ロンドンに在勤したが、同42年再び渡日し、晩年は早稲田大学に教鞭を執つてゐた。浮世絵に終生の愛着を有し、其の蒐集及び研究家として令名あり、殊に広重ハツパーと称ばれた程広重に傾倒することが深かつた。在留長く、日本を永住の地と定め、人格的にも人々の敬愛を集め、我が国浮世絵及び浮世絵界の為めに貢献した所甚だ多かつた。

山中定次郎

没年月日:1936/11/01

読み:ヤマナカ, サダジロウ*、 Yamanaka, Sadajiro*  株式会社山中商会社長山中定次郎は10月30日午前胃潰瘍の為大阪市東区の自邸で逝去した。享年71。慶応2年7月11日堺市に生る。少時より家業たる美術骨董商に従ひ、同27年日清役の際渡米して紐育市に山中商会を設立。後ボストン、倫敦等に支店を設置し、大正7年株式組織に改め社長となつた。爾来東洋新古美術品の輸出紹介の事業に依り世界に名を知られ、美術界に貢献するところ多大であつた。昭和3年11月緑綬褒章を下賜され、又仏独政府からも勲章を贈られてゐる。

中尾万三

没年月日:1936/07/30

読み:ナカオ, マンゾウ*、 Nakao, Manzo*  東洋陶磁研究所同人、上海自然科学研究所顧問、京都薬学専門学校講師、薬学博士中尾万三は去る5月北支那方面の古陶磁研究調査をとげて帰朝、爾来健康すぐれず、6月末以来病臥中であつたが7月30日午後7時逝去した。享年55。「支那陶磁源流図考」「西域系支那古陶磁に就ての考察」「朝鮮高麗陶磁考」等の著書の外、発表された陶磁に関する研究は頗る多く斯学に寄与した功績は大きかつた。

紀淑雄

没年月日:1936/04/15

 早稲田大学教授、日本美術学校長紀淑雄は4月4日卒倒し爾来淀橋区の自邸で加療中同15日午後逝去した。享年65。明治5年東京に生る。同26年元東京専門学校(現早稲田大学)文学科卒業、同29年同校の講師となり、同30年、帝国博物館より帝国美術略史編纂掛を嘱託せられ、同33年同編纂常務委員となつた。 同34年より40年まで国華社発行「国華」の解説起草主任を嘱託され、同44年早稲田大学教授に就任、爾後東洋並西洋美術の講座を担当した。同年並翌年及大正2年には美術審査委員会委員を仰付られ、同45年更めて東京帝室博物館より美術部編輯委員を嘱託され、大正13年迄勤務した。大正6年4月、美術研究所を設立し翌年4月、日本美術学校と改称、校長に就任し現在に至る。彼は我が国美術批評の先覚者として明治大正の美術界に貢献せる所多大であつた。左に著書目録を掲げる。書名 発行所小山田興清伝日本帝国美術略史 帝室博物館 故福地復一郎編日本美術集成 帝室博物館Japanese Art Folio(日本美術帖) 小川一真真美大観 日本真美協会 第3輯ヨリ第12輯迄解説起草日本精華 第1輯より第8輯迄編輯其の他「開国五十年史」(大隈重信侯編輯)中、美術に関する事項を起草。「日本百科大辞典」(三省堂発行)中、東洋美術に関する項目を起草。「文芸百科全書」(早稲田文学社発行)に日本絵画史、支那絵画史を起草す。

尾崎夏彦

没年月日:1936/04/11

読み:オザキ, ナツヒコ*、 Ozaki, Natsuhiko*  元美術研究所嘱託尾崎夏彦は病気の為昭和9年以来職を退き、平塚海岸で療養中であつたが、4月11日逝去した。享年36。尾崎紅葉の長男として明治34年東京に生れ、昭和2年東京帝国大学文学部美術史科を卒へ、国際聨盟協会学芸協力委員会の嘱託となつて英文日本美術年鑑編纂に従事、昭和7年美術研究所に入つて明治大正美術史編纂に着手したが途中病を得て遂に起たなかつたものである。

坪井九馬三

没年月日:1936/01/21

読み:ツボイ, クメゾウ*、 Tsuboi, Kumezo*  考古学の権威、元東大文学部教授文学博士坪井九馬三は豫て病気療養中であつたが1月21日午後逝去した。享年78。岐阜県の出身。彼の専門は西洋史学にあつたが、凡そ朝鮮史にあれ蒙古史にあれ、史学各分野に於てその啓発せるところ少くなく、又補助学として古文書学、金石学、歴史地理学、言語学、考古学に対しても多大の関心を寄せ、或は本邦銅鐸及支那鏡鑑の研究に、或は東西文化の交渉に関する研究に新機運を促す等、考古学界に対して史学者の立場から多大の示唆と鞭撻を与へた。昭和5年三宅博士の後を承けて考古学会の会長に就任し逝去の日に及んだ。

関野貞

没年月日:1935/07/29

読み:セキノ, タダシ*、 Sekino, Tadashi*  工学博士、東京帝国大学名誉教授。慶応3年12月15日旧高田藩士の家に生れ明治28年工科大学造家学科を卒業、翌29年東京美術学校講師となり、爾来東洋及び日本建築史を講じて今日に及び、又同年内務省嘱託として古社寺保存計画に参与し、次いで奈良県技師として古社寺の修理を担当し傍大阪に於ける日本生命保険会社本社の設計に従事した。右は博士の設計に掛る唯一の洋式建築である。 明治34年工科大学助教授に任ぜられ内務省文部省並に造神宮技師を兼任し翌明治35年6月韓国へ出張を命ぜられ、初めて同国建築の調査研究に手を染めた。次いで法隆寺金堂塔婆及中門非再建論、平城京及大内裏考等を発表し、41年工学博士の学位を授けらる。同年韓国度支部より古建築調査に関する調査を嘱託せられ、大正4年始めて朝鮮古蹟図譜第1冊を編纂し爾来引続き15冊を公刊した。大正6年の之が功績に対し、仏国学士院金石学及美文学院よりスタニスラスジユリアン賞金を贈らる。大正7年建築史研究の為支那、印度、英、仏、伊の諸国に留学を命ぜられ、同9年帰朝、直ちに教授となり、従前の通り内務、文部両技師を兼任し、古社寺(現今の国宝)保存会委員、史蹟名勝天然紀年物調査会臨時委員、学術研究会議員等被仰付、昭和3年依願本官を免ぜられ、次いで東京帝国大学名誉教授の称号を授けられた。 昭和4年4月東方文化学院東京研究所の設立せらるるや其評議員となり併せて研究員として支那歴代帝王陵の研究に従事し、同8年其の研究を完了し、引続き遼金時代の建築の研究に当り、既に遼金時代の建築と其仏像図版上下2冊を公刊し之と同時に熱河の諸建築の研究を遂げ図版4冊を公表し、更に日満文化協会評議員として幾多の研究問題其他重要なる提案をなし着々其の功を収めつつあつた。 博士の我美術史界の先覚として今日に至る迄の業績は到底一旦にして数ふべからず、今その訃に接して唯茫然たるものがあるが、就中その直前に最も力を注いで居た大陸半島美術に関する研究が凡て半途に終れるの痛嘆に余りあるを思ふのである。享年69。 次に博士の今日迄に公表せられたる最も主要なる著作を挙げてその迹を偲ぶ。一、天平創立の東大寺大仏殿及其仏像 建築雑誌第182、183号(明治35年2、3月)一、韓国建築調査報告、東京帝国大学工科大学学術報告第6号(明治37年8月)一、法隆寺金堂、塔婆及中門非再建論 建築雑誌第218号(明治38年2月)一、平城京及大内裏考 東京帝国大学紀要工科第3冊(明治40年6月)一、朝鮮古蹟図譜 既刊15冊解説第4冊迄 朝鮮総督府(大正4年ヨリ)一、支那山東省に於ける漢代墳墓表飾 図版1冊本文1冊 東京帝国大学紀要工科第8冊第1号(大正5年)一、支那仏教史蹟 常盤大定博士共著、図版5冊解説5冊 仏教史蹟研究会(大正14年ヨリ昭和4年迄)一、楽浪郡時代之遺蹟 図版上下2冊本文1冊朝鮮総督府(大正15年)一、瓦 雄山閣(昭和3年)一、高句麗時代之遺蹟 図版上下2冊本文未完朝鮮総督府(昭和3、4年)一、支那建築 塚本、伊東両博士ト共著 図版2冊解説2冊 建築学会(昭和4年ヨリ7年迄)一、朝鮮美術史 朝鮮史学会(昭和7年)一、支那工芸図鑑 瓦磚編及玉石工雑工編 帝国工芸会(昭和8年)一、熱河 図版4冊本文未刊 座右宝刊行会(昭和9年)一、遼金時代の建築と其仏像 図版上下2冊本文未刊 東方文化学院東京研究所(昭和9、10年)(以上美術研究昭和10年8月号より転載)

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