本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





森浩一

没年月日:2013/08/06

読み:もりこういち、 Mori, Koichi*  考古学者で同志社大学名誉教授の森浩一は8月6日、急性心不全のため死去した。享年85。 1928(昭和3)年7月17日大阪市に生まれる。45年3月大阪府立堺中学校卒業、46年4月同志社大学予科入学。考古学を専攻できないことと日英の地理的共通性への関心などから49年4月同志社大学英文科三年に編入し、51年3月同科卒業。同年4月大阪府立泉大津高等学校教諭となる。55年4月同志社大学大学院文学研究科修士課程に入学し、57年同課程修了。同年4月同博士課程に入学するが翌58年中退。65年8月泉大津高等学校教諭を退職し、同志社大学文学部専任講師となる。67年4月に助教授となり、72年4月教授就任。1999(平成11)年3月同志社大学を退職し、同名誉教授となる。 氏は小中学生時代に目にした遺物や遺跡を通じて考古学に目覚め、その情熱は生涯変わらずに続いたが、研究に対するその姿勢は、自身の純粋学問的好奇心から調査・研究に取り組むのであって金銭や社会的な見返りを求めるものでない、というものであった。方法論として遺構遺物の観察に基づく実証主義に依りつつ、考古学はもちろんのこと、文献史学・民俗学・人類学・神話学など様々な関連諸学に精通した幅広い視野を背景とした既成の権威や学説にとらわれない自由な発想によって、古墳時代を中心とした古代史の総合的理解に精力的に取り組んだ。遺物や遺構研究の先に遺跡や地域の歴史解明という明確な方向性が設定されていたために、関西を拠点としながらも地域史の視点を重視し、「東海学」、「関東学」といった歴史研究のための地理的な枠組みを提唱して様々な研究や成果の普及活動にも努めた。 大学に教員として勤務する頃までに携わった発掘調査には、大阪府和泉黄金塚古墳や奈良市大和6号墳、また大阪府黒姫山古墳など、戦前戦後の行政的遺跡保護体制が極めて不十分な中での手弁当による緊急発掘調査が多く、後に取り組む、いたすけ古墳保存運動などを含め、遺跡遺物の記録や保護にも多大な功績がある。主導した数多くの重要な発掘調査記録以外の主要な業績としては、窯跡出土須恵器編年の構築、三角縁神獣鏡国内産説の提示、陵墓被葬者の探求とその公開運動などがあり、幅広い学問的関心と視野の広さから生み出されたその著作物とその内容は多様で、監修・編著を含む著書264冊、論文292編、新聞寄稿118編に上る。また交流した研究者・文化人は多岐にわたり、その研究姿勢に影響を受けた考古学者も多い。熱心な教育活動によって数多の若手研究者を育成したことは、死去後に刊行された追悼論集や特集に寄せられた寄稿の数が如実に示している。この他、若手や在野研究者の成果発表の場としての古代学研究会と機関誌『古代学研究』の創設でも功績が高い。 民間の研究者、すなわち氏の自称する「町人学者」としての人生哲学から、生涯叙勲褒章を受けなかったが、同じ姿勢を貫いた人物を顕彰した賞であるとして、2012年、唯一第22回南方熊楠賞(人文の部)を受賞している。

斎藤忠

没年月日:2013/07/21

読み:さいとうただし、 Saito, Tadashi*  考古学者で元東京大学教授、大正大学名誉教授の斎藤忠博士は7月21日、老衰のため死去した。享年104。 1908(明治41)年8月28日生まれ。生後ほどなく仙台市に移る。1926(大正15)年3月宮城県仙台第二中学校卒業、同年4月第二高等学校文科甲類入学、1929(昭和4)年4月東京帝国大学文学部国史学科入学、32年3月卒業。卒業論文題名は「本邦古代に於ける葬制の研究」。考古学を学ぶため、同年6月黒板勝美の紹介で京都帝国大学文学部考古学研究室に移り、濱田耕作の斡旋で同大学文学部副手に就任。33年年6月、奈良県史蹟名勝天然記念物調査嘱託となり県内の遺跡調査に従事、12月には朝鮮古蹟研究会研究員として有光教一とともに慶州の古墳調査に参加する。京都帝国大学文学部副手併任のまま34年5月に朝鮮総督府古蹟調査及び博物館嘱託の辞令を受け、慶州博物館陳列主任となる。慶州では皇吾里109号墳・14号墳などの調査を、また石田茂作とともに扶餘軍守里廃寺の調査に参加する。37年12月には京城の総督府博物館勤務となり、引き続き軍守里廃寺や平壌の上五里廃寺調査などを行った。 40年5月、文部省史蹟調査嘱託として東京に戻り、47年9月には文部技官に任命される。戦時中から戦後にかけては全国各地の史蹟調査やその現状変更要望への対応等を行ったが、この頃保護に尽力した史蹟には北海道モヨロ貝塚、福山城、福岡県王塚古墳といった重要遺跡がある。48年4月に設立された日本考古学協会では幹事に選任され、50年8月の文化財保護法施行に伴う文化財保護委員会の設置に従い保存部記念物課に初代の文化財調査官として任命された。この時期には国営調査の責任者あるいは地方自治体調査の団長や顧問などとして、愛知県吉胡貝塚・秋田県大湯環状列石・岩手県無量光院跡・日光男体山頂遺跡・信濃国分寺遺跡・下野薬師寺跡・静岡県賤機山古墳・平城宮跡・山口県見島ジーコンボ古墳群・福岡県志登支石墓など多くの発掘調査を行っている。 55年5月に戦前の半島での遺跡研究の成果などにより東京大学文学博士学位を授与された(学位論文「新羅文化の考古学的研究」)。また53年以降には文化財調査官のまま東京国立博物館学芸部考古課、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部長を歴任し、各地の大学にて教鞭を取った。さらに65年4月には文化財調査官との兼務で(1966年3月まで)、東京大学文学部教授に就任した。69年3月に東京大学を退官し、翌70年4月大正大学教授就任、83年3月に定年退職した。大学勤務以降は国(宮内庁書陵部委員会委員ほか)や地方自治体委員など多くの役職に就くが、大正大学退職前年の82年4月に就任した静岡県埋蔵文化財調査研究所所長の職は、2008(平成20)年3月に100歳で退任するまでの26年もの間務めることとなった。 これら一連の業績により、78年に勳三等瑞宝章を授与され、また死去により天皇・皇后両陛下より祭粢料を賜った。 氏の学問的足跡は中学生時代の遺跡調査に始まり、大学での文献史学専攻を挟んで、その後再び考古学へと至る80年を優に超える長きにわたる。またそのフィールドは戦前の朝鮮半島各地での調査から、帰国後の日本全国に活動の場を広げた数多くの遺跡に及んでいる。こうした経歴や多くの人々との交流を基にした氏の研究成果は幅広く、それに裏付けられた著作物は700編を凌駕し、単著の単行本は90冊を数える。こうした氏の業績について簡潔にまとめるのは困難であるが、美術史に関連するものを上げれば、日朝壁画古墳についての研究や、半島の古代および高麗時代寺院や文様〓などの仏教美術研究、また中国の寺院史研究といった、日中韓の文化交流に関する研究などが注目される。さらに生涯を通じた文化財の保全活動や日本考古学史に関する多くの著作も重要な事績である。

村瀬雅夫

没年月日:2013/06/20

読み:むらせまさお  美術評論家、日本画家の村瀬雅夫は6月20日死去した。享年74。 1939(昭和14)年1月16日、東京市世田谷区(現、東京都世田谷区)経堂に生まれる。間もなく、千葉県に移住し、幼年期、少年期を千葉市で過ごす。千葉県立第一高等学校を卒業後、59年、東京大学文学部入学。在学中に横山操、石崎昭三に師事して日本画を学ぶ。61年、62年に青龍社展に出品したという。63年東京大学文学部東洋史学科卒業、読売新聞社に入社。福島支局勤務を経て、長く本社文化部で美術担当記者として務める。85年から読売新聞夕刊で連載「美の工房」(全50回)を担当。在職中から無所属の日本画家として、銀座・飯田画廊、ニューヨーク・日本クラブギャラリー、東京セントラル画廊などで生涯18回の個展を開催した。1989(平成元)年、50歳の年に、読売新聞社の文化次長で定年退職を迎える。明治大学講師、福井県立美術館館長、渋谷区立松濤美術館館長を歴任。著書に『野のアトリエ』(桃源家、1989年)、『美の工房―絵画制作現場からの報告』(日貿出版社、1988年)、『横山操』(芸術新聞社、1992年)、『「芭蕉翁月一夜十五句」のミステリー 『おくのほそ道』最終路の謎』(日貿出版社、2011年)、『庶民の画家南風』(南風記念館、1977年)、編著書に『川端龍子 現代日本の美術13』(集英社、1976年)、『川端龍子 現代日本の美術4』解説(集英社、1977年)、『現代日本画全集 第14巻 奥田元宋』(集英社、1983年)、『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 5 平山郁夫/前田青邨』(瀧悌三と責任編集、集英社、1986年)がある。

大屋美那

没年月日:2013/06/18

読み:おおやみな  フランス近代美術史研究者であり、国立西洋美術館主任研究員の大屋美那は、松方コレクション研究のため訪れたフランス・パリで急性骨髄性白血病を発症し、6月18日聖ルイ病院で急逝した。享年50。 1962(昭和37)年7月27日、中央公論社の編集者尾島政雄の長女として神奈川県藤沢市に生まれる。81年4月学習院大学文学部哲学科(美学美術史専攻)に入学、88年3月同大学大学院人文科学研究所(哲学専攻)修士課程を修了。同年11月静岡県立美術館学芸員となり、「ピカソ展」(1990年)、「栗原忠二展」(1991年)などを担当、鈴木敬初代館長のもと学芸員としての活動の素地を固める。1992(平成4)年美術館連絡協議会の海外研修派遣制度によりテキサス大学オースティン校モダニズム研究所へ派遣され、セザンヌ研究の大家リチャード・シフ所長のもと研鑽を積む。帰国後の93年、同館の別館・ロダン館の設立準備に参加する一方、ロダン研究の第一人者ジョン・L.タンコックと共同で国際シンポジウム「ロダン芸術におけるモダニティ」を企画し、94年10月、静岡県立美術館を会場にヨーロッパ・アメリカ両大陸のロダン研究者を一堂に集める稀有な機会を実現した。このときに出会ったオルセー美術館彫刻部門学芸員アンヌ・パンジョーやロダン美術館学芸員アントワネット・ル・ノルマン=ロマン、マサチューセッツ工科大学名誉教授ルース・バトラー(所属はいずれも当時)らとは終生親交を深めることになる。1995年、全国美術館会議により組織された阪神・淡路大震災被災美術館支援活動では訪問調査の一員として活躍した。1996年静岡県立美術館退職。1997年国立西洋美術館客員研究員となり、松方コレクションにおけるロダン彫刻作品調査に取り組み、その成果を「松方コレクションのロダン彫刻に関する調査報告」(『国立西洋美術館研究紀要』4号所収、2000年)として発表した。 2001年4月国立西洋美術館に主任研究官として採用され(2006年度以降は主任研究員)、学芸課絵画・彫刻第二室を経て、07年同課版画素描室長、2010年より同課研究企画室長を務めた。その間、06年3月にロダン美術館とオルセー美術館の協力を得て「ロダンとカリエール」展を実現、国立西洋美術館での開催後に巡回したオルセー美術館で国際的評価を得た。08年から09年まで国立西洋美術館在外研究制度により上述のル・ノルマン=ロマンが所長を務めるフランス国立美術史研究所(INHA)の客員研究員としてパリに滞在し、松方コレクション形成に関与したリュクサンブール美術館長(後にロダン美術館初代館長)レオンス・ベネディットの資料調査など、フランス国立美術館資料室、ロダン美術館資料室ほかで精力的な調査活動を行った。帰国後の10年2月、松方幸次郎と交友しコレクションの指南役ともなった英国の画家に焦点を当てた「フランク・ブラングィン」展を実現、それまで殆ど顧みられることがなかった画家ブラングィンを近代美術史に明確に位置づけたと同時に、松方幸次郎との交友関係を実証的に検証した功績により、11年第6回西洋美術振興財団賞学術賞を受賞した。 展覧会企画を手がける一方、美術館のコレクションの充実にも力を注ぎ、ジョヴァンニ・セガンティーニ「羊の剪毛」(旧松方コレクション)、ポール・セザンヌ「ポントワーズの橋と堰」(ともに油彩作品)、フランク・ブラングィン「共楽美術館構想俯瞰図、東京」(水彩素描作品)をはじめとする数々の作品購入を担当した。また彫刻コレクションの収蔵展示環境の刷新にも取り組み、近年展示される機会の稀であったロダンやブールデルの作品を一堂に集めた「手の痕跡」展(2012年)に結実させるなど、美術館の現場で働く学芸員としての本領も発揮した。11年頃より担当した個人コレクター橋本貫志の大規模な指輪コレクションの一括寄贈に際しては、国立西洋美術館にとって新分野となる装飾美術の作品収蔵・管理体制の構築に尽力した。 美術館での公務の傍ら、12年から他界するまでジャポニスム学会理事を務め、また学習院大学、日本大学、東京大学、慶應義塾大学、日本女子大学、放送大学で講師を務めるなど、学会活動・教育活動に従事した。一貫してフランス近代彫刻、松方コレクション研究に取り組み、急逝する直前にはフランス近代の彫刻家カルポーについての研究論文を脱稿している(「ジャン=バティスト・カルポーと1850-60年代のローマ」『ローマ──外国人芸術家たちの都』所収、没後の2013年10月に刊行)。また静岡県立美術館時代以来親交の深かったバトラーによるロダンの評伝の翻訳にも着手していた(出版計画は共訳者らに引き継がれることになり、翻訳・刊行作業が今も続けられている)。なお、13年6月22日発行のフランスの主要紙『ル・モンド』に訃報記事が掲載され、フランス側の美術関係者からも追悼の意が寄せられた。 論文集として『大屋美那論文選集──印象派、ロダン、松方コレクション』(2014年)、また主要業績をまとめたものに『国立西洋美術館研究』18号(2014年)所収「大屋美那・国立西洋美術館主任研究員 業績目録」(『大屋美那論文選集』に再録)がある。

森郁夫

没年月日:2013/05/30

読み:もりいくお、 Mori, Ikuo*  帝塚山大学名誉教授で歴史考古学を研究し、特に瓦研究の第一人者でもあった森郁夫は胃癌のため5月30日に死去した。享年75。 1938(昭和13)年2月25日、名古屋市に生まれる。60年3月、國學院大学文学部史学科卒業後、64年4月、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部、71年には飛鳥藤原宮跡調査室に着任。85年4月 京都国立博物館に転出、学芸課考古室長として着任し、1995(平成7)年3月まで勤務した。同年4月、帝塚山大学教養学部(現、人文学部)教授として着任、97年4月に帝塚山大学考古学研究所長を兼務。98年1月 「古代寺院造営の研究」で國學院大學より博士(歴史学)の学位を取得した。2004年4月には自ら設立に尽力した帝塚山大学附属博物館の初代館長に就任。10年3月、帝塚山大学名誉教授に就任した。和歌山県文化財センター理事長、三河国分寺整備委員会委員長、日本宗教文化史学会評議員などを務めた。 國學院大学では大場磐雄に師事し、当初は地鎮や鎮壇具に関する研究を始め、処女論文「密教による地鎮・鎮壇具の埋納について」(『佛教藝術』84号)を発表。66年、出土遺物のうち瓦を担当する奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部考古第三調査室に着任したことを受け、本格的に瓦の研究を始めた。平城京や飛鳥宮・藤原京、その寺院跡等での豊富な調査経験を踏まえ、瓦に留まらず、京内の土器の研究も進めた。84年には三都土器研究会を立ち上げ、99年には古代の土器研究会として発展、会長に就任している。京都国立博物館に在任中は「畿内と東国」展(1988年)、「平城京」展(1989年)、「倭国」展(1993年)など精力的に考古分野の特別展を企画、開催した。特に「畿内と東国」展は全国及び朝鮮半島までの瓦を概観した古代瓦に関する初めての大規模な展覧会であり、古代瓦の持つ歴史的価値を多くの人に知らしめた。古代における瓦生産は当時の最先端の技術であり、寺院造営を表象するとの主張は『瓦と古代寺院』(六興出版、1983年)、論文集『日本の古代瓦』(雄山閣出版。1991年)などの著書にまとめられ、その後の瓦研究ひいては古代史研究に大きな影響を与えた。晩年、その集大成として『日本古代寺院造営の研究』(法政大学出版局、1998年)を出版。没後も遺稿を纏めた『一瓦一説』(淡交社、2014年)が出版されている。 帝塚山大学に移ってからは、同考古学研究所、同附属博物館の設立に奔走。研究所を拠点として歴史考古学研究会などを主宰し、ここから多くの瓦研究者が育っていった。さらに同研究所においては市民大学講座も定期的に開催したほか、一般向けの著作も多く、法隆寺夏季講座の講師を長年務めるなど一般市民への文化財理解の普及にも努め、多くの古代史ファンに慕われた。

鳥山健

没年月日:2013/05/05

読み:とりやまたけし  大阪市にギャラリー白(はく)を開廊し代表取締役を務めた鳥山健は5月5日17時30分、大阪市内の病院で死去した。享年90。 1922(大正11)年11月1日、福岡県筑紫郡那珂村(現、福岡県福岡市博多区)に生まれた。関西学院大学社会学部卒業。大阪市内の自宅で出版社を立ち上げ、高校の国語のサブテキストの製作・販売に携わる一方、1967(昭和42)年、大阪市中央区今橋に開設された今橋画廊の企画責任者となる。今橋画廊では、現代美術家を若手、ベテランを問わず紹介するとともに、デザインや陶芸、染織、書などの分野で新しい表現を模索する作家にも積極的に門戸を開くなど、古くから「ものづくり」が盛んで、美術の概念的枠組みが緩やかな関西の風土に根ざした独自の企画を展開した。 79年10月、有志5名で有限会社ギャラリー白を設立して代表取締役となり、大阪市北区西天満の千福ビル2階に同名の画廊を開設、今橋画廊時代の運営方針をより明確に打ち出す。また、80年代初頭に関西の若い作家の間で台頭しつつあった絵画復権の動き、表現主義的への回帰を敏感に察知し、YES ARTなどの企画展を開催して、ミニマル、コンセプチュアルな方向性に行き詰まり活路を模索していた東京の現代美術界に衝撃を与え、全国的に注目される存在となる。以後、80年代から90年代にかけて、関西の最先端の美術動向のよき理解者、支援者として、多くの才能を東京のみならず国際的な舞台へと送り出した。企画展のテキストの書き手に関西の若い学芸員や研究者を登用し、批評家の育成に心を配ったことも特筆される。 2002(平成14)年2月、ギャラリー白をいったん閉廊するが、同年9月に同じ西天満の星光ビル2階で再開廊。03年9月には3階にギャラリー白3を増設し、最晩年まで関西の現代美術に関わり続けた。逝去した年の11月17日には、大阪キャッスルホテルで「鳥山健さんを偲ぶ会」が催され、関係者約200名が参集して、故人の業績や人柄に思いをはせた。

山口昌男

没年月日:2013/03/10

読み:やまぐちまさお、 Yamaguchi, Masao*  文化人類学者の山口昌男は3月10日午前2時24分、急性肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年81。 1931(昭和6)年8月20日北海道美幌町に生まれる。美幌尋常小学校、旧制網走中学校を経て、新制網走高校(現、北海道網走南が丘高等学校)を50年3月に卒業。同年4月から青山学院大学文学部第二部に入学し、在学中に展覧会と古書店に頻繁に訪れる。51年、東京大学文学部に入学。同学年に作曲家となる三好晃、美学者となる宇波彰らがいた。在学中は展覧会や演奏会に通い、毎週日曜日に黒田清輝の甥で光風会の画家であった黒田頼綱にデッサンを学ぶ。また、東京大学駒場美術研究会で磯崎新らと交遊する。55年坂本太郎の指導のもと、卒業論文「大江国房」を提出して同国史学科を卒業。同年4月から61年3月まで麻布学園で日本史を教える。同学園での教え子に川本三郎、山下洋輔らがいる。57年に東京都立大学大学院に入学し、社会人類学を専攻。60年、修士論文「アフリカ王権研究序説」を提出して同学大学院社会研究科社会人類学専攻修士課程を修了し、博士課程に進学。63年10月からナイジェリアのイバダン大学社会学講師となる。66年東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所講師、翌年助教授となり、通称「AA研」と呼ばれた同研究所を拠点に、69年に「文化と狂気」を『中央公論』に、「道化の民族学」を『文学』に連載、「王権の象徴性」(『伝統と現代』)、「失われた世界の復権」(『現代人の思想 第15巻 未開と文明』解説)を執筆して注目される。70年6月から「本の神話学」を『中央公論』に連載。71年に『アフリカの神話的世界』(岩波新書)、『人類学的思考』(せりか書房)、『本の神話学』(中央公論社)を出版。同年9月にパリ高等研究院客員教授となり、レヴィ・ストロースのゼミで「ジュクン族の王権と二元的世界観」と題して発表する。73年、「歴史・祝祭・神話」を『歴史と人物』に、「道化的世界」を『展望』に掲載。74年、『トリックスター』(ポール・ラディンほか著、晶文社)に解説「今日のトリックスター」を掲載。77年「文化における中心と周縁」を『世界』に掲載し、また、同年、『知の祝祭』(青土社)を刊行する。これらの著作で述べられた「中心と周縁」理論や、道化に社会秩序をかく乱する役割を見出す「トリックスター論」などは、70年代以降の思想界を牽引するものとなり、山口と同じく青土社刊行の『現代思想』や『ユリイカ』で活躍し、構造主義や記号論なども紹介した中村雄二郎とともに、西洋近代的知の体系への懐疑を促す大きな力となった。1989(平成元)年、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長となり、94年に同研究所を定年退職。この間の92年、電通総研で「経営の精神文化史研究会」発足に尽力。94年静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授および中央大学総合政策学部客員教授となる。また、同年、フランスのパルム・アカデミック賞受賞。95年、晩年の大著となる『「挫折」の昭和史』、『「敗者」の精神史』を岩波書店から刊行。97年に札幌大学文化学部長、99年同学長となった。同年2月、銀座の画廊「巷房」で「越境の人 山口昌男ドローイング展」、10月丸善京都河原町店ギャラリーで「山口昌男ドローイング展」を開催。同年、山口の描いたスケッチ1500点から100点を掲載した『踊る大地球 フィールドワーク・スケッチ』(晶文社)を刊行。2011年文化功労者となった。幼少期から漫画をはじめ、視覚芸術に強い興味を抱いていた山口は、60年代からアフリカ彫刻に関する論考を行い、70年代以降は学際的研究が盛んになる中、周縁や祝祭といった自説の観点から美術に関して多くの考察を残している。日本の思想界全体に西洋的な知的枠組みの再考を促し、既成の学問領域の横断から生まれる新たな思考を提起し、美術についても狭義の「美術」の枠組みにとらわれず、また、美術史学とは異なる方法によって美術や視覚芸術に関わった人々についての調査・論考を行った。大著、『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995年)は、日本人の全員が「敗者」となった45年に次いで日本に多くの「敗者」をもたらした明治維新に着目し、久保田米僊ら美術家も含む「敗者」、すなわち佐幕派に属する個々人が、新たな体制がつくられていく中でどのように生きたかを丹念に記し、日本近代の精神の複層性を浮き彫りにするとともに、日本近代美術史に新たな視点を提示した。死去の約二ヵ月後、『ユリイカ』2013年6月号で「山口昌男-道化・王権・敗者」と題する特集が組まれ、山口の弟子である高山宏と中沢新一による追悼対談ほか、多くの関係者による追悼の論考が掲載された。年譜と著作目録は同誌に詳しい。

和多利志津子

没年月日:2012/12/01

読み:わたりしづこ、 Watari, Shizuko*  現代美術をはじめ多彩な展覧会活動をつづけているワタリウム美術館長の和多利志津子は、12月1日心不全のため死去した。享年80。 1932(昭和7)年9月23日、現在の富山県小矢部市に生まれる。服飾デザインの仕事を経て、自宅を改装して72年12月、ギャラリーワタリ(現、渋谷区神宮前)を開く。以後、88年10月まで、国内外のアーティストの個展を開催。とりわけ、ドナルド・ジャッド(1978年2月)、ナム・ジュン・パイク(同年5月)、ソル・ルウィット(1980年3月)、ロバート・ラウシェンバーグ(1981年1月)、アンディ・ウォーホル(1982年3月)、ヨーゼフ・ボイス(1984年5月、同展はナム・ジュン・パイクとの二人展)、ジョナサン・ボロフスキー(1986年9月)等、70年代から80年代の欧米の先端的なアーティストを日本に招聘しながら積極的に、また先駆的に紹介した。そうした海外のアーティスト達との交友の一端については、『アイ ラブ アート 現代美術の旗手12人』(日本放送出版協会、1989年)のなかで記されている。なかでも、ビデオ・アートの先駆者であったナム・ジュン・パイク(1932-2006)とは、パイクの生涯にわたり個人的にも深く交友し、現代美術から思想、哲学にわたり語り合うことがあったという。 1990(平成2)年5月、同画廊の敷地にワタリウム美術館が竣工(設計は、スイス人建築家マリオ・ボッタ)。以後、ここを拠点に活動をつづけ、現代美術ばかりでなく、建築家、詩人、写真家等の多彩な人物をとりあげて展覧会を開催した。美術館建設にあたっての経緯や、その後の活動については、和多利恵津子、浩一共著『夢見る美術館計画 ワタリウム美術館の仕事術』(日東書院、2012年)で詳細につづられている。美術館の運営では、創設当初は国際展のキューレターの経験をもつハラルド・ゼーマン、ヤン・フート、ジャン=ユベール・マルタン等をゲストキューレターとして依頼し展覧会を開催して注目され、その後から逝去するまでジャンルを問わず様々な企画を展覧会として開催した。 画廊経営から私設美術館の運営にわたる和多利の一貫した姿勢は、アーティスト等注目した人物その人に直接会って交渉し、話し合いを通じて理解を深めることから始めている点に特色がある。その姿勢は、日本文化への関心から歴史上の人物をとりあげる際にも発揮され、研究者等の助力を得ながらも、長年にわたって独自に調査を重ねながらその人物への理解と共感を深めることで展覧会を開催している。そうしてとりあげたなかには、岡倉天心(「岡倉天心展 日本文化と世界戦略」、2005年2月-6月)、南方熊楠(「クマグスの森 南方熊楠の見た夢」、会期:2007年10月-08年2月)、ブルーノ・タウト(「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」、会期:2007年2月-5月)等がある。特に岡倉天心については、研究者ばかりではなく、他分野の専門家を招いて独自に研究会を10年間にわたり主宰して準備にあたった。この岡倉天心展にあわせて、同美術館監修により『岡倉天心 日本文化と世界戦略』(平凡社、2005年)が刊行されたが、同書の「あとがき」の冒頭で「もし、今も生きているならば、私は、きっと岡倉天心に恋している、そんな架空な夢をみています」と率直に記していることからも、その人物像を、従来の学術研究とはことなった情熱的な視点から独自に形づくろうとした。既成の評価にこだわることなく、つねに新しいアートとアーティストをはじめとするクリエイティヴな人間に関心を抱きつづけ、自らの美術館という場で紹介したことは評価される。 没後の13年1月23日に同美術館でお別れ会「夢みる 和多利志津子」が開かれ、交友のあった各界から多数の参加者があった。さらに、『アートへの組曲―追悼・和多利志津子』(同美術館企画・発行、2013年9月)が刊行された。なお同書には、国内外の交友のあったアーティストをはじめとする多数の追悼文の他に、ギャラリーワタリ並びにワタリウム美術館の展覧会記録が収録されている。

田中淡

没年月日:2012/11/18

読み:たなかたん、 Tanaka, Tan*  建築史家で京都大学名誉教授の田中淡は11月18日午前2時49分、多発性骨髄腫のため死去した。享年66。 1946(昭和21)年7月23日、神奈川県に生まれる。65年私立武蔵高等学校を卒業後、横浜国立大学工学部建築学科に入学。69年に卒業後、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻に入学。71年に修了後、博士課程に進むが、同年に中退して文化庁文化財保護部建造物課文部技官に任官。74年に退官し、京都大学人文科学研究所助手として本格的な学究の道に入る。85年京都大学人文科学研究所助教授。1994(平成6)年同教授。2010年同定年退官、同大学名誉教授。 81年から1年間、南京工学院建築研究所客員研究員。また、京都大学にて教鞭を執る傍ら、ハイデルベルク大学、国立台湾大学の研究所の客員教授をはじめ、他大学での非常勤講師、研究機関での客員研究員等も務めた。 戦前の関野貞や伊東忠太らによる現地踏査によって開始された日本人専門家による中国建築史研究は、戦中にかけての村田治郎、竹島卓一らによる研究をもって久しく中断していた。田中自身の言葉を借りれば、以後「絶学というに等しい情況」にあったわが国での中国建築史研究を単独で切り開き、戦後におけるその第一人者として学界の誰もが認める存在であり続けたのが田中淡であった。彼は、1930年代に梁思成らが設立した中国営造学社以来の中国人研究者たちが伝統としてきた現地での遺構調査を主体とする研究手法が不可能に近いという、外国人研究者に課された大きな制約条件を、文献史料の博捜・活用と、急増する考古学的新知見の積極的参照という新たな方法論をもって克服していった。そして、その方法論ゆえに、建築実物遺構が現存しない唐代初期より以前の時代を主な研究の対象とし、「中国建築史のすでに佚われて伝わらない本流の歩みと、その強固な伝統が形成されたさまざまな背景的要因」を蘇生させることに力を注いだ。 87年に、それまでの研究成果をまとめた「中国建築史の基礎的研究」で東京大学より工学博士号を取得。1989(平成元)年には、学位論文の主要部分をなす各論文を収録した『中国建築史の研究』(弘文堂)を刊行する。これより以後は、庭園史に関する論考が次第に多くなるが、建築史においても庭園史においても、中国の大きな歴史の全体像の中に各時代や各地域にみられる表現を定置しようとする視点が貫かれていた。そのような巨視的思考態度は、日本の中世新様式の一つである大仏様の源流に関する考察や、先史以来の日本固有とされる建築技法を中国南方に残る「干闌式」と呼ばれる建築との関連でとらえた論においても共通するが、各論文や訳書に付された詳細な注釈にも表れる精緻さをもって提示されるところに田中の面目躍如たるものがあった。 平城宮跡をはじめとする史跡における古代建築復元に検討委員として助言したほか、西安での大明宮含元殿遺址保存修復事業にもユネスココンサルタントとして参加した。 81年、「先秦時代宮室建築序説」で第10回北川桃雄基金賞、92年、「中国建築史の研究」で第5回濱田青陵賞受賞。 上記以外の主な著作に、『中国古代科学史論続篇』(共編著、京都大学人文科学研究所、1991年)、『中国技術史の研究』(編著、京都大学人文科学研究所、1998年)、『世界美術大全集 東洋編 第二巻~第九巻』(共著、小学館、1997-2000年)、『中国古代造園史料集成-増補 哲匠録 畳山篇 秦漢-六朝』(共編、中央公論美術出版、2003年)などがあり、主著の中国語訳である「中国建築史之研究」(南天書局、2011年)も台湾で出版されている。また、アンドリュー・ボイド『中国の建築と都市』(鹿島出版会、1979年)、中国建築史編集委員会編『中国建築の歴史』(平凡社、1981年)、劉敦楨『中国の名庭-蘇州古典園林』(小学館、1982年)など訳書も多い。

宇佐美直八

没年月日:2012/10/25

読み:うさみなおはち  江戸時代より続く表具所である宇佐美松鶴堂八代目当主の宇佐美直八は10月25日、肺炎のため死去した。享年86。 宇佐美家は天明年間(1781~88)に初代直八が西本願寺前において同寺直属の表具所として創業。以来、西本願寺御用達として展開した。代々当主は「直八」の名跡を名乗る。その宇佐美家の二男として1926(大正15)年1月27日に誕生、「直行」と命名。立命館大学工学部卒業。七代目「直八」のもとで装潢技術の研鑽に励んだ。1946(昭和21)年、西本願寺国宝襖絵の修理に従事。59年3月、国指定の文化財(絵画)を修復していた7工房が結集し、装〓技術の向上をはかると共にそれらに付帯する事業を行うことを目的として「国宝修理装潢師連盟」が設立された際、これに「宇佐美松鶴堂」として加盟。74年には宇佐美松鶴堂を個人商店から株式会社に移行させて代表取締役に就任。80年には京都国立博物館内に設置された文化財保存修理所の開設にともない、その一角を工房として使用するとともに、運営委員を委嘱される。翌年には桂離宮解体修理工事のうちの表具工事を担当する。この年10月には75年の先代死去のち空き名跡となっていた「直八」を八代目として襲名。82年には京都国立博物館文化財保存修理所修理者協議会会長に就任する(~1993年)。1990(平成2)年3月には(財)京都府文化財保護基金より永年の文化財修理に対して功労賞を受賞。同年11月には地方の文化振興に対する功労で文部大臣賞を受賞する。95年5月、国宝修理装潢師連盟理事長に就任(~1999年5月)。96年4月29日春の叙勲に際し、勲五等双光旭日章の栄誉を受ける。代表的な文化財修理として西本願寺飛雲閣壁画、厳島神社平家納経、建仁寺風神雷神図屏風がある。著書に『京表具のすすめ』(法蔵館、1991年)。

今道友信

没年月日:2012/10/13

読み:いまみちとものぶ、 Imamichi, Tomonobu*  東京大学名誉教授で哲学者・美学者の今道友信は10月13日、大腸がんのため死去した。享年89。 1922(大正11)年11月19日、東京に生まれる。41年、旧制成城高等学校入学。安部公房、小野信彌、河竹登志夫らと知り合い、校友会誌『城』に「タルソの明るい星―聖パウロの神学―」(1941年)「アウグスチヌスの認識論」(1942年)を寄稿する。42年、教員たちと衝突し退学処分となる。43年、旧制第一高等学校入学。当時の校長安倍能成による自由な校風のもとで学ぶ。また、学外では上智大学のイエズス会修道院に通いカトリックについて勉強を続ける。45年、法学部への進学を望む父を説得し、東京大学文学部哲学科に入学。出隆に師事。同時期には、後に哲学者となる平林康之、山本信、茅野良男、熊谷直男、大森荘蔵、所雄章のほか、渡邉恒雄や森本哲郎が在籍していた。戦争がはげしくなる中、今道は戦時特別受業学生に選ばれて徴兵を免除され、大学に残って勉学に没頭する。48年、東京大学文学部卒業。53年、東京大学大学院特別研究生修了。55年、ヨーロッパに渡り、ヴュルツブルグ大学やパリ大学で講師を務める。56年9月、ヴェネツィアで行われた戦後最初の国際美学会で「美学の現代的課題」と題した発表を行い、国際的な評価を得る。58年に帰国し、九州大学文学部助教授に着任。62年、東京大学文学部助教授。68年、ドイツの大学での講義をもとに『Betrachtungen uber das Eine』を執筆。中国哲学史を体系的に論じた本書は、原稿段階でシュルティエ賞による出版助成を得て、東京大学文学部より刊行された。同年には『美の位相と芸術』も刊行しており、これらを以て教授に任ぜられる。また、この年には国際美学会副会長にも選出されている。73年、ヴァルナで行われた第14回世界哲学大会の基調講演で、民族や国家単位の倫理ではなく、人類全体の生圏(エコ)全体に及ぶ普遍的な倫理体系を目指す新しい倫理学「エコエティカ」を提唱。これは今道のライフワークのひとつとなる。82年、哲学美学比較研究国際センター設立。83年に東京大学を退官する際には、これを記念して『美学史論叢』が刊行された。その後も、放送大学、清泉女子大学、英知大学(のちに聖トマス大学と改称)などで教鞭をとるかたわら、精力的に研究・執筆をつづける。86年、紫綬褒章。1993(平成5)年、勲三等旭日中綬章。2003年、『ダンテ『神曲』講義』でマルコ・ポーロ賞。30年以上前の『美の位相と芸術』の続編として刊行された『美の存立と生成』で、07年に和辻哲郎文化賞。 確かな文献学的研究に裏打ちされた広範な知識は、古代ギリシア・ラテンから現代におよぶ西洋哲学のみならず東洋の思想にまで及び、その知識に基づいた独自の形而上学的思索による体系的研究によって多大な業績を残した。欧米での知名度が日本のそれを上回るとさえ言われるほどに国際的な哲学研究の舞台でも活躍し、国際美学会副会長、パリ哲学国際研究所所長、国際形而上学会会長などを歴任した。教育者としては、古典の文献学的研究の重要性を徹底し、現在の日本の美学界を牽引する優れた研究者たちを輩出した。また、『美学史研究叢書』(全7輯、1971~82年)、『講座美学』(全5巻、1984~85年)の編纂によって美学および美学史の研究状況の全体像を示し、その後の美学研究者にとっての礎石となる仕事を成した。上記以外の主な著作『同一性の自己塑性』(東京大学出版会、1971年)『美について』(講談社現代新書、1973年)『アリストテレス』(講談社、1980年)『東洋の美学』(TBSブリタニカ、1980年)『現代の思想 二十世紀後半の哲学』(日本放送出版協会、1985年)『西洋哲学史』(講談社学術文庫、1987年)『エコエティカ 生圏倫理学入門』(講談社学術文庫、1990年)『知の光を求めて 一哲学者の歩んだ道』(中央公論新社、2000年)『出会いの輝き』(女子パウロ会、2005年)『超越への指標』(ピナケス出版、2008年)『中世の哲学』(岩波書店、2010年)『今道友信わが哲学を語る』(かまくら春秋社、2010年)

上平貢

没年月日:2012/09/30

読み:うえひらみつぎ、 Uehira, Mitsugi*  京都工芸繊維大学名誉教授で元京都市美術館長の上平貢は9月30日、鳥取県内の病院で死去した。享年87。 1925(大正14)年8月20日、広島県呉市に生まれる。1951(昭和26)年に京都大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業し、同大学文学部の助手を務める。元々日本美術史を志望していたが、美学の理論研究を進めるうちにイタリア美術、とくにルネサンス美術を研究の対象とする。その一方で子供の頃から書を本格的に学び、また京都大学在籍中には森田子龍ら前衛的な書家が同大学の井島勉や久松真一に書の理論を求めて出入りしていたこともあり、書の評論も手がけている。57年から京都市立美術大学で専任講師、66年より助教授を務め、その間65・66年度イタリア政府留学生としてフィレンツェ大学文科哲学部美術史研究室で、とくに彫刻家ティーノ・ディ・カマーノについて研究。68年から京都工芸繊維大学工芸学部で助教授、73年より教授を務め、1989(平成元)年に退官し名誉教授となる。その間84~86年には同大学附属図書館長も務める。退官後の89年に京都市美術館館長となり2004年まで奉職、同館の別館開館(2000年)にも尽力した。一方で89~94年に宝塚造形芸術大学教授、94~01年嵯峨美術短期大学(現、京都嵯峨芸術大学)の学長を務め、01年の嵯峨美術短期大学退職とともに同大学名誉教授となる。また91年より意匠学会会長、96年より財団法人京都市芸術文化協会理事長、02年より特定非営利活動法人文字文化研究所副理事長(05年より理事長)、04年より京都市文化芸術振興条令策定協議会会長を歴任。この間、03年には京都市文化功労者の表彰を受け、04年には京都で社会貢献活動をし、顕著な功績のあった個人を顕彰する第19回ヒューマン大賞を受賞している。主要著書に『フィレンツェの壁画 保存と発見』(岩崎美術社、1973年)、『レオナルドと彫刻』(岩崎美術社、1977年)がある。

清水善三

没年月日:2012/07/16

読み:しみずぜんぞう  京都大学名誉教授で、日本彫刻史研究者の清水善三は、7月16日、虚血性心疾患のため京都市内の自宅で死去した。享年81。 1931(昭和6)年5月13日、静岡県浜名郡鷲津町(現、湖西市)に生まれる。50年愛知県立豊橋時習館高等学校卒業、同年京都大学文学部に入学。大学2年の時に結核にかかり、4年間の休学を余儀なくされた。その病床で出会ったのが仏像であったという(「ひと 新世紀 仏の顔」『京都新聞』1985年12月19日)。京大教養部で教鞭をとっていた、インド美術史を専門とする上野照夫の「美学はやるな。飯が食えんぞ」という口癖を乗り越えて、58年に同大学院文学研究科修士課程(美学専攻)に進学。芸術の自律的原理および芸術の自律的研究方法を追求した植田寿蔵を師とする井島勉、文化財保護委員会や奈良国立博物館等を歴任し、平安初期彫刻と室町水墨画など多ジャンルにわたる研究をおこなった蓮實重康のもとで、仏教美術を学んだ。くわえて学生時代には、当時、京都国立博物館学芸課に勤めていた毛利久に調査手法を学び、また京大文学部で「平安初期密教美術」を講義していた佐和隆研の授業に出席し、佐和のお伴で醍醐寺をはじめとする全国各地の調査に加わったという。 63年京大大学院文学研究科博士課程(美学専攻)単位取得満期退学、68年4月京都精華短期大学助教授に着任。71年4月に京大文学部助教授、79年11月学位論文『平安彫刻史の研究』を提出。翌年に教授となり、着任より24年間にわたって後進の指導に従事した。1995(平成7)年3月に定年退官。退官後は、さらに東海女子大学文学部教授(2002年まで)、文化庁文化財保護審議会第一専門調査会専門委員(2000年まで)を務めた。 清水の彫刻史研究は、彫刻様式の発展過程を跡づける様式論と史料読解にもとづく仏師論に大別され、またいち早く「場」の問題(仏像と空間の関係)に言及したことも特筆される。清水の様式論は、当時、優美性や情緒性などの印象批評的な評言で語られることの多かった彫刻史への批判に発し、彫刻の様式の概念を明確に規定して、その様式概念にもとづいて彫刻史全体を体系化しようとするものであった。作品のもつ固有の特質・視覚的造形的な本質・内的な形式を見極め、美術の固有の歴史を解明しようとする京大美学の学風を色濃く受け継ぐもので、様式論を完全に美学的に昇華させた点に特色がある。一方、様式史の対象とならないとみなされた、個々の彫刻がもつ特殊性(尊格や図像の相違、作者の違い等)にも目配りをしており、仏師と仏師組織に関する研究が、様式論を補完する役割として展開されることになったと想像される。 立体物としての彫刻がもつ「物理的量」と、それに独自な彫刻的手法をほどこすことによって造形化される「視覚的量」の関係を彫刻の「様式」と規定し、時代様式として完成しているものについては両者の一致がみられ、過渡期においては両者に齟齬が生じるという独特の彫刻史観は、仏像の美的価値の構造を客観的に真摯に追究しようとした清水の到達点であった。 主著に『平安彫刻史の研究』(中央公論美術出版、1996年)、『仏教美術史の研究』(同、1997年)があるほか、解説・書評等多数。大宮康男による追悼文「清水先生の思い出」(京都大学以文会『以文』57、2014年)より、誠実温厚な人となりがうかがわれる。

赤澤英二

没年月日:2012/05/23

読み:あかざわえいじ  美術史家の赤澤英二は5月23日、心不全のため死去した。享年82。 1929(昭和4)年6月22日東京府に生まれる。54年東京大学農学部水産学科卒業後、57年3月東京大学文学部美学美術史学科卒業、同年4月東京大学大学院人文科学研究科(美学美術史専攻)修士課程に入り、翌58年6月中退。同年7月東京学芸大学教育学部助手、65年4月講師、68年4月同大学大学院教育学研究科造形芸術学担当、同年6月助教授、76年4月教授。93年3月東京学芸大学を定年退官、5月同大学名誉教授号授与。この間、84年4月から88年3月まで同大学学部主事(第4部長)、1991(平成3)年4月から93年3月まで同大学教育学部附属野外教育実習施設長を務める。95年4月実践女子大学文学部教授に就き、2000年3月同大学を定年退職。 日本中世美術史、ことに室町時代水墨画史、とりわけ雪村周継の研究で多くの業績を残した。また各地の寺院所在中世絵画の調査を精力的に行ったことも特筆される。 60年に「応永詩画軸研究1応永詩画軸の前提」(『東京学芸大学研究報告』1巻11号)、「詩軸と詩画軸」(『美術史』40号)を発表。室町時代水墨画研究の基本問題を追及する姿勢を明らかにした。「応永詩画軸研究」は、「2詩画軸画題考」(1961年)、「3山水画構図論」(1963年)と続けて基本問題を追及する一方、「「李朝実録」の美術史料抄録(一)~(五)」(『国華』882~898号、1965~67年)を発表して中世美術史の分野ではじめて朝鮮美術史料をとりあげ、今日では当然となった東アジアを視野に収めた中世絵画史研究の必要性を提起するなど、後年の幅広い研究姿勢を早くから表している。最晩年の論文も「室町水墨画と李朝画の関係」(『大和文華』117号、2008年)である。 赤澤の業績の視野は広かったが、特筆される業績のひとつは、室町の代表的な画人である雪村周継の研究を一貫して進めたことにあった。「雪村の人物画における様式展開の一つのケース―用墨法の問題に関連して」(1975年)を初めとして多くの論文を発表し、85年『国華』の雪村特集号では編集と執筆の中心となるなど研究を進め、2003年にはその集大成である『雪村研究』(中央公論美術出版)を刊行した。これは、生没年など不確定な要素の多かった雪村の伝記について有力な仮説を提示し、模作などを含む百点に及ぶ作品を精査して、様式や落款印章の形式の比較検討を経た編年を試みた大著である。さらに2008年には人物評伝『雪村周継―多年雪舟に学ぶといへども』(ミネルヴァ日本評伝選)を著した。 また大きな業績のひとつは「地方寺院伝来の中世絵画調査」をテーマとして精力的な実地調査を行い、多くの資料の発掘・顕彰を行ったことである。調査は71年から95年までで北海道を除く全国44府県の350ヵ寺、調査作品は1,100点以上に及んだ。調査により発見された優れた作品を「海西人良詮筆仏涅槃図について」、「徳報寺蔵宗祇像について」、「室町時代の絵師「土蔵」詩論」などとして数多く発表。さらに長年にわたるこれらの成果は、その中から279点155ヵ寺1神社2博物館の作品を選択し収録した大著『日本中世絵画の新資料とその研究』(中央公論美術出版、1995年)、及び数多くの涅槃図の作例を通観することによってその図像の展開を論じた『涅槃図の図像学―仏陀を囲む悲哀の聖と俗千年の展開』(中央公論美術出版、2011年)に多くの図版とともにまとめられた。幅広い実作品を互いに連関させながら学術的に紹介したこれらの成果は、今なお日本美術研究上貴重な資料である。『新資料とその研究』の後序「模倣から引用へ」では、仏画と漢画の「模倣性」と「引用性」によってその展開をみる赤澤の日本絵画史観が記されている。他方、その精力的な実地調査は文化財行政に寄与し、結果として、赤澤によって見出された多くの文化財が各自治体や国の指定となった。福井・本覚寺蔵仏涅槃図や愛知・冨賀寺蔵三千仏名宝塔図などが国指定重要文化財となったのも赤澤の学術論文によって世に知られたことによる。 共著、報告書を含む著書に上述のほか『日本美術史』(共著、美術出版社、1977年)、『日本美術全集16室町の水墨画』(共著、学習研究社、1980年)に始まる11本、主要論文は室町水墨画、雪村に関するものはもとより「縄文前期筒型土器・口付土器」(『国華』854号、1963年)や「十五世紀における金屏風」(『国華』849号、1962年)などをも含む69編におよぶ。 他方、東京学芸大学の教育学部という場にあって、教育活動にも力を注いだ。とくに4年間にわたる学部主事の時代には、88年からの新課程の設置に伴う学部再編に尽力し、この結果、既成の教員養成課程に加えて環境、国際、情報などをふまえて学校教育以外の分野でも社会貢献できる人材養成の過程が造られ、これは広く基本モデルとなった。 小金井市文化財専門委員、同専門委員会副議長、小金井市文化財審議会会長、国華賞選考委員、文化庁文化財買取協議会委員等を務めた。小金井市市政功労表彰(1983年)、東京都功労者表彰(1996年)、正四位叙位・瑞宝中綬章受章(死亡叙位叙勲)。美術史学会、美学会に所属。道子夫人との間の3男の父。

成瀬不二雄

没年月日:2012/04/26

読み:なるせふじお、 Naruse, Fujio*  日本の洋風画研究者成瀬不二雄は4月26日、死去した。享年80。 1931(昭和6)年10月16日、福岡県福岡市に九州帝国大学仏文科教授成瀬正一の長男として生まれる。東京の森村学園小学校を卒業して、神戸甲南学園中学に学び、同高校を1年にて修了し神戸大学文学部に入学。53年3月神戸大学文学部芸術学を卒業し、翌54年3月同大学文学専攻科を終了。同年5月から神戸市立神戸美術館(後の神戸市立南蛮美術館)の嘱託となるが、同年11月に退職して神戸大学文学部芸術学助手となる。61年4月大和文華館学芸員となり、学芸係長、同課長、学芸部長を経て、同館次長となった。神戸大学在職中は、「ボードレールの詩的世界の成立とアングル及びドラクロアの影響について」(『近代』14号、1956年4月)、「ボードレールの詩「灯台」についての序説」(『近代』17号、1956年12月)、「ルーベンスとボードレール」(『近代』18号、1958年1月)、「レンブラントとボードレール」(『近代』19号、1957年5月)、「ゴヤとボードレール」『神戸大学文学会研究』(18号、1959年2月)に見られるように、ボードレールとそれに関わる美術家について研究を行っていたが、大和文華館に入った後、日本における西欧美術の受容を対象とするようになり、「桃山時代童子肖像画の一資料」(『大和文華』44号、1966年12月)、「日本洋画のあけぼの・秋田蘭画」『(美術手帖』283号、1967年6月)など、その後のライフワークとなる洋風画に関する論考が発表されるようになった。秋田蘭画における西洋的な空間表現の受容を論じ、近景を画面の前面に大きく描き、中景を水面などのモティーフとして、遠景を小さく描く特色ある構図を「近像型構図」と名づけてその系譜を跡づけ、また富士山が描かれた洋風画を悉皆的に調査し、実景と比較することによって、司馬江漢ら近世の洋風画の絵師たちが西洋風の写実を学びながらも、絵になる構図を求めて富士山を実景とは異なる位置に描いていることを実証するなど、洋風画史に大きな足跡を残した。それと並行して、従来、日本文化の近代化という文化史的側面から見られる傾向の強かった洋風画の美術的価値への理解を広めることに寄与した。1993(平成5)年、『国華』1170号掲載の「司馬江漢の肖像画制作を中心として-西洋画法による肖像画の系譜」によって第5回国華賞を受賞。97年3月に大和文華館次長を退職し2年間同館嘱託として在職、99年4月に九州産業大学大学院芸術研究科教授となり、洋風画史を講じた。晩年の著作となった『司馬江漢-生涯と画業』本文篇・資料篇(八坂書房、1995年)、『日本絵画の風景表現 原始から幕末まで』(中央公論美術出版、1998年)、『江戸時代洋風画史』(中央公論美術出版、2002年)、『日本肖像画史 奈良時代から幕末まで、特に近世の女性・幼童像を中心として』(中央公論美術出版、2004年)、『富士山の絵画史』(中央公論美術出版、2005年)は半世紀近い調査研究の集大成となっている。主要著書『東洋美術選書 曙山・直武』(三彩社、1969年)『原色日本の美術25 南蛮美術と洋風画』(坂本満・菅瀬正と共著、小学館、1970年)『日本美術絵画全集25 司馬江漢』(集英社、1977年)『江戸の洋風画』(小学館、1977年)『百富士』(毎日新聞社、1982年)『司馬江漢-生涯と画業』本文篇・資料篇(八坂書房、1995年)『日本絵画の風景表現 原始から幕末まで』(中央公論美術出版、1998年)『江戸時代洋風画史』(中央公論美術出版、2002年)『日本肖像画史 奈良時代から幕末まで、特に近世の女性・幼童像を中心として』(中央公論美術出版、2004年)『富士山の絵画史』(中央公論美術出版、2005年)

中川幸夫

没年月日:2012/03/30

読み:なかがわゆきお、 Nakagawa, Yukio*  生け花作家の中川幸夫は3月30日、老衰のため香川県坂出市内の介護施設で死去した。享年93。 1918(大正7)年7月25日、香川県丸亀市に生まれる。幼名は恒太郎。生家は代々土地持ちの農家で、母方の隅家も裕福な農家であり、祖父隅鷹三郎は樟蔭亭芳薫と号し、池坊生花の讃岐支部長を務めた。幼くして脊椎カリエスを患う。1932(昭和7)年、大阪の石版画工房へ入社、ここで映画、文学、文楽などに眼を開く。同社を6年ほどで退職したのち、大阪の印刷会社2社に務め、雑誌、映画ポスター制作などに従事。41年、身体を壊し帰郷、翌年伯母隅ひさの勧めにより本格的に池坊を習い始める。終戦後から53年にかけて、印刷会社に勤務。このころ、池坊・後藤春庭に立華を学び、草月流・岡野月香を知り草月の花に感銘を受ける。49年、丸亀市の大松屋で初個展「花個展 中川幸夫」を開催、出品作品が『いけばな芸術』第2号に掲載される。50年、「白東社」に参加。この年、池坊全国選抜展(東京都美術館)に出品。52年、第2回日本花道展(大阪・松坂屋、主催は文部省)に出品するが落選、池坊を脱退。以後、流派に属さず、個人の生け花作家となる。同年、第1回白東社展(大阪・三越)に出品(55年第3回展まで出品)。54年、モダンアートフェア(大阪・大丸、主催は朝日新聞社、第1回展)に招待出品(第2回、第3回も出品)。55年、自費出版で『中川幸夫作品集』を刊行。56年、東京都中野区江古田へ転居、半田唄子(白東社同人、元千家古儀家元)との結婚挨拶状を友人・知人に送る。六畳一間のアパートに暮し、喫茶店、バーなどに花を活けて生計を立てたという。58年集団オブジェ結成に参加。61年第13回読売アンデパンダン展に出品(第14回、第15回も出品)。68年東京での初個展を銀座・いとう画廊で開催。84年銀座・自由ケ丘画廊で個展を開催、花液を海綿を介して和紙にしみこませる手法を用いた作品をはじめて発表。この年、半田唄子死去。93年、大野一雄舞踏公演「御殿、空を飛ぶ」(横浜・赤レンガ倉庫)の舞台装置を制作。98年、1年間、山口県立萩美術館・浦上記念館で茶室のインスタレーション«鏡の中の鏡の鏡»を展示。同年、「Etre Nature」展(カルティエ現代美術財団)に写真作品15点を出品。2002年、大地の芸術祭において新潟県十日町市信濃川河川敷でパフォーマンス「天空散華 中川幸夫『花狂い』」を実施。2003年ころから郷里丸亀に転居、故郷に拠点を移していた。ザ・ギンザ・アートスペース(2000年)、鹿児島県霧島アートの森(2002年)、大原美術館(2003年)、宮城県美術館、丸亀市猪熊弦一郎美術館(ともに2005年)などで個展を開催した。作品集に上記のほか『中川幸夫の花』(求龍堂、1989年)、『魔の山 中川幸夫作品集』(求龍堂、2003年)など、評伝に森山明子『まっしぐらの花 中川幸夫』(美術出版社、2005年)、早坂暁『君は歩いて行くらん 中川幸夫狂伝』(求龍堂、2010年)、また中川幸夫をモデルとした小説に、芝木好子「幻華」(『文学界』1970年11月号)などがある。『華 中川幸夫作品集』(求龍堂、1977年)で「世界で最も美しい本」国際コンクールに入賞。1999年織部賞グランプリ受賞、丸亀市文化功労者となる。2004年、第20回東川賞(北海道東川町)を受賞。2014年にはドキュメンタリー映画「華いのち 中川幸夫」(企画、監督、編集=谷光章)が公開、各地で上映される。花の生命力そのものを鮮やかに浮かび上がらせた作品の数々で美術界からも高い評価を受けた。

川上貢

没年月日:2012/03/20

読み:かわかみみつぐ、 Kawakami, Mitsugu*  建築史家で京都大学名誉教授の川上貢は3月20日午前10時45分、大阪府高槻市内の病院で肺炎のため死去した。享年87。 1924(大正13)年9月6日大阪府に生まれる。1946(昭和21)年京都帝国大学工学部建築学科に入学。49年に卒業後、同大学院の特別研究生として村田治郎に師事、53年に京都大学工学部講師、55年に助教授、66年に同教授となる。88年に定年退官し、同大学名誉教授。同年より1990(平成2)年まで福井大学工学部教授、同年より95年まで大阪産業大学工学部教授を歴任。 京大助教授時代の58年に、「日本中世住宅の研究」にて同大より工学博士号授与、翌59年には同論文に対して日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 近世の書院造より以前の、実物遺構が現存しない鎌倉・室町時代の住宅建築の平面形式とその空間の具体的使われ方を歴史史料に現れる記述の分析を通じて解明するとともに、寝殿造から書院造に至る支配階級の住宅の変遷過程を初めて提示した学位論文は、『日本中世住宅の研究』(墨水書房、1967年)として公刊され、建築史学にとどまらず関連学会からも基本文献として評価されることとなった。実物遺構の調査に基づく研究としては、学部生当時から禅宗寺院の塔頭建築の意義と構成の考究に力を注ぎ、その成果は『禅院の建築』(河原書店、1968年)として刊行されている。 後年には、近世や近代の建築調査を主導することを通じて、多くの建造物の文化財指定、保存に貢献したほか、教育や学会活動の面でも大いに活躍した。76年から94年まで文化庁文化財保護審議会の専門委員を務めたほか、京都府をはじめとする地方自治体でも文化財保護審議会委員として文化財保護行政に助言した。さらに、日本建築学会の理事、監事や、87年より89年の間は建築史学会会長を務め、学会の発展に貢献した。94年より財団法人京都市埋蔵文化財研究所所長として、また98年より2006年まで財団法人建築研究協会理事長として、考古学調査や文化財建造物の保存修理にも指導的役割を果たした。これらの業績により03年に旭日中綬章を受章、10年には「日本建築史に関する研究・教育と建築文化遺産保存活動の功績」にて日本建築学会大賞を受賞した。 上記以外の主な著作に、『室町建築』(日本の美術199 至文堂、1982年)、『近世建築の生産組織と技術』(編著 中央公論美術出版、1984年)、『建築指図を読む』(中央公論美術出版、1988年)、『近世上方大工の組・仲間』(思文閣出版、1997年)などがあり、調査報告書の執筆や編集も数多く担当している。

田中三蔵

没年月日:2012/02/27

読み:たなかさんぞう  ながらく朝日新聞東京本社にて、同紙の美術記事を担当したジャーナリスト田中三蔵は、膵臓がんのため2月27日死去した。享年63。 1948(昭和23)年8月2日、神奈川県川崎市に生まれ、幼少期を東京ですごす。67年3月、東京教育大学附属高等学校を卒業。74年、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、日本彫刻史を専攻した。同年4月、朝日新聞社に入社、高松支局に配属される。79年5月、同社大阪本社学芸部に異動。同社では、家庭面を担当した後、主に娯楽面で落語、漫才を中心とする大衆芸能を担当した。88年10月に東京本社に異動するまでの間、寄席から小さな落語会まで取材にまわり、やがて関西の落語家桂米朝、その一門の落語家たちをはじめ、多くの落語家、漫才師とも親しく交友しながら記事を執筆し、やがて落語家からも一目を置かれるようになった。 東京本社異動後は、はじめ家庭面を担当し、1990(平成2)年1月に雑誌『アエラ』編集部に勤務。91年5月、東京本社学芸部に戻り、文化面にて美術を担当することになる。95年7月に美術担当の編集委員となる。2008年8月2日に定年退職し、引き続き同本社専門シニア・スタッフとなる。病気療養中の10年12月、在職中に執筆した数多くの記事の中から107件を選定してまとめた『駆けぬける現代美術』(岩波書店)を刊行。また、日本大学芸術学部大学院(2002年4月から)、女子美術大学大学院で非常勤講師として教育にあたった。 田中は在職中、とりわけ美術担当記者として同紙に展覧会評、時評、論説等にわたる記事を1500件以上執筆した。90年代から2000年初頭の在職中に執筆した記事の中には、日本の近代美術の見直しと並行して「日本画」概念の再検討と新しい表現の出現のレポート、国立博物館、美術館の独立行政法人化の問題に関する連載、アジア諸地域の経済的な台頭を背景にしたアジアの現代美術のレポート等々、いずれも問題提起をこめた内容であり、現在でも印象に残る。美術ジャーナリストとしての視点は、上記の著作の「後書きにかえて」中で記されているとおり、「美術は進歩しない。拡大する」という認識と「美術の歴史は作家だけではなく、享受者がともに作る」という確信に基づくものであった。その確信は、田中自身「愚直に」を念頭に書いているが、地道な取材をもとに思考しながら書き続けたことから築きあげたものであった。つねに広い視野からの平衡感覚と、目まぐるしく変転する同時代の美術を見ながらも歴史意識をわすれていないために、田中の執筆した多くの記事は、今後も同時代の証言として残ることであろう。没後の12年4月12日、関係者により東京中央区銀座にて「田中三蔵さん お別れの会」が開催され、多くの美術関係者が集まった。

山口桂三郎

没年月日:2012/01/17

読み:やまぐちけいざぶろう、 Yamaguchi, Keizaburo*  浮世絵研究者で国際浮世絵学会会長の山口桂三郎は1月6日、東京国立博物館での中国故宮博物院展開会式出席の後に転倒して救急治療を受けたが、1月17日未明に心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年11月3日、東京千代田区に生まれる。生家は駿河台ホテルを営んでいた。本名は昭三郎。桂三郎は自らの好む桂の字を入れた筆名である。明治大学史学科で神道美術を中心に学び、57年、明治大学大学院史学専攻修士課程を修了。59年に「雪舟」(『駿台史学』9号)を発表。60年、同博士課程を修了。59年12月「垂迹画の特長」(『美学』43号)を、61年には「拝殿と能舞台-万祥殿の建築について-」(『風俗』1巻2・3号)、62年には「板絵春日曼荼羅・仏涅槃図解説」(『国華』840号)、「風俗資料としての神道絵画」(『風俗』2巻2・3号)を発表するが、藤懸静也と出会って浮世絵の研究に進む。日本浮世絵協会に所属して、研究者のみならず、浮世絵版画の工房や技術者、愛好家や美術商をも含む浮世絵界全体を盛り立てるべく尽力し、会誌『浮世絵芸術』の編集発行に長く携わった。61年より日本大学、戸板女子短期大学、東洋大学、明治大学等にて非常勤講師をつとめて浮世絵について教授し、76年に立正大学教養学部助教授となり、80年に同教授となった。1991(平成3)年に日本浮世絵協会理事長となり、また同年から10年間、櫛形町春仙美術館館長をつとめた。98年日本浮世絵協会が国際浮世絵学会に改組されるにあたり、同会会長となり、国際浮世絵大会の実施、平成の浮世絵事典の編集刊行、学会企画の浮世絵展の実施を目標に掲げ、国際学会の開催や2008年に学会編による『浮世絵大事典』(東京堂出版)の刊行を実現させた。一方、衰退していく浮世絵制作技術を残し、次代に継承しようと、日本の伝統工芸品としての浮世絵の評価の確立に尽力。浮世絵の支持体である和紙製造、木版画の版木作成、摺りの技術の伝承のために、92年の東京伝統木版画協会の発足に参加し、「江戸木版画」が東京都伝統工芸品の指定を受けるのに寄与した。また、98年から04年まで安藤広重の「名所江戸百景」120景の復刻事業に参加し、それらの復刻作品の展覧会開催にも尽力して浮世絵作成技術の伝承と作品の普及につとめた。07年に「江戸木版画」が経済産業省の「伝統的工芸品」に指定される際にも、同省への説明に出向いている。99年3月に立正大学を定年退職して同名誉教授となり、長年の研究をまとめた「浮世絵における美人・役者絵の史的研究」で04年、立正大学より文学博士号を取得した。能楽にも造詣が深く、特権階級の文化や信仰にまつわる造形への理解を踏まえて、市井の人々の生活と深く結びついた浮世絵について考究し、その普及につとめた。著作には以下のようなものがある。『浮世絵名作選集19 江戸名所』(日本浮世絵協会編、山田書院、1968年)『東洋美術選書 広重』(三彩社、1969年)『浮世絵大系7 写楽』(編集製作:座右宝刊行会、集英社、1973年)『浮世絵大系11 広重』(同上、1974年)『浮世絵概論』(言論社、1978年)『浮世絵聚花4 シカゴ美術館 1』(鈴木重三と共著、小学館、1979年)『浮世絵聚花11 大英博物館』(楢崎宗重と共著、小学館、1979年)『浮世絵聚花12 ギメ東洋美術館・パリ国立図書館』(小学館、1980年)『原色浮世絵大百科事典6-9巻』(浅野秀剛と共著、大修館書店、1980-82年)『肉筆浮世絵 清長 重政』(集英社、1983年)『写楽の全貌』(東京書籍、1994年)『東洲斎写楽』(浅野秀剛・諏訪春雄と共著、小学館、2002年)

辻佐保子

没年月日:2011/12/24

読み:つじさほこ、 Tsuji, Sahoko*  西洋美術史研究者で、初期・中世のキリスト教美術研究において多大な功績を残した辻佐保子は、12月24日東京都港区高輪の自宅で死去した。享年81。 1930(昭和5)年11月21日愛知県名古屋市に生まれる。50年3月愛知県立女子専門学校英文科卒業、同年4月東京大学文学部美学美術史学科に入学。吉川逸治に師事する。 54年4月、同大学大学院人文科学研究科修士課程(美術史学専攻)に入学、57年4月同博士課程に進学する。同年10月、フランス政府給費留学生としてパリ大学高等学術研究所(エコール・デ・オート・ゼチュード)に留学、アンドレ・グラバアルに師事。1961(昭和36)年10月、パリ大学に博士論文(Etude iconographique des reliefs des portes de Sainte-Sabine a Rome,Paris,1961)を提出し、博士号を取得。同年12月に帰国し、62年より日仏学院(~66年)、64年より武蔵野美術大学(~66年)で講師を勤める。1966(昭和41)年4月、フランス政府招聘研究員として再度渡仏。パリ大学高等学術研究所に在籍し、『コトン・ゲネシス』(ブリティッシュ・ライブラリー所蔵)の研究にあたった。同年12月の帰国後は、東京教育大学、聖心女子大学、広島大学、武蔵野美術大学、日本女子大学の非常勤講師を歴任。1971年11月より名古屋大学文学部美学美術史学科助教授、77年5月に同教授となる。1989(平成元)年4月、お茶の水女子大学文教育学部哲学科教授に転任、96年3月に退官。 95年、イタリア政府より国家功労賞カヴァリエーレ・ウフィツィアーレ(上級騎士勲位章)、2003年、フランス政府より教育功労賞オフィシエ勲位章を受章。名古屋大学およびお茶の水女子大学名誉教授。 東西初期キリスト教美術、ビザンティン美術、西欧初期中世美術、ロマネスク美術を主な研究対象とし、なかでも、古代から中世の転換期におけるキリスト教美術の図像成立について、誕生の契機や主題の解明に心血を注いだ。聖書、外典、教父の説教集などのテキストに密着した図像の成立を自ら「イコノゲネシス」(図像生成)と命名、写本挿絵、石棺、カタコンベ、教会堂装飾、象牙浮彫などを綿密に比較検討し、時に複雑に絡み合い発展していくキリスト教美術成立期の様を明らかにした。それらは、主著5冊、日本語論文50点、欧文論文11点等に発表されている。 『古典世界からキリスト教世界へ―舗床モザイクをめぐる試論―』(岩波書店、1982年)では、床面モザイク装飾を対象に、初期キリスト教美術が、古典古代からあるいはユダヤ教を通じて取り入れた図像を詳細に検討し、図像解釈やプログラムの解明にあたるとともに、「上下の投影」「90度の投影」という独自の視点を用いて、床面装飾と壁面及び天井装飾が相互に及ぼす影響関係を明らかにし、同年のサントリー学芸賞を受賞した。 また、仏語の博士論文は、半世紀にわたる追記の末、2003年に日本語版として『ローマ サンタ・サビーナ教会木彫扉の研究』(中央公論美術出版)を出版、2004年度の地中海学会賞を受賞している。主要な研究書はほかに『ビザンティン美術の表象世界』(岩波書店、1993年)『中世写本の彩飾と挿絵―言葉と画像の研究』(岩波書店、1995年)『ロマネスク美術とその周辺』(岩波書店、2007年)。このほか美術全集などの執筆にも数多く携わり、名も無き画家たちに時に温かなまなざしを向けながら、その魅力を世に広めた。 また、作家辻邦生の妻として公私にわたり夫を支え、『辻邦生のために』(新潮社、2002年)『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(中央公論新社、2008年)などを刊行している。 2012年、故人の遺志により、遺産の一部が美術史学会に寄付された。同学会は辻佐保子美術史学振興基金運営委員会を設立。2013年度よりこの基金を用いて、日本における美術史学の振興のため、毎年1回、高名な外国人研究者等を招聘し、Sahoko Tsuji Memorial Conferenceが企画、実施されることとなった。

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