本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,961 件)





岡行蔵

没年月日:1990/07/12

 装潢師岡行蔵(2代目岩太郎)は、7月12日午後零時16分、心不全のため京都市東山区の京都専売病院で死去した。享年80。初代岩太郎の三男として、明治43(1910)年3月9日京都市で生まれる。昭和10年三重県伊賀上野の重藤芙美と結婚。昭和12年2代目岩太郎を襲名した。昭和22年頃から国宝、重要文化財などの国指定文化財を中心に古文化財の保存修理に従事、多くの名品の修復を手掛けて、昭和58年岩太郎の名跡を長男興造に譲るまで、工房全体の運営を監督していた。その功績は、職人の手技と伝統的美意識を守る一方で、素材の復元開発や美術品の調査記録を積極的に取入れ、伝統的表具師を近代的な絵画修復の専門職として発展させた事である。行蔵の父、初代岩太郎は、新画の表装に携り多くの日本画家と親交を結び、彼らの美意識を吸収することに熱心であったが、昭和5年に開かれたイタリア展のための表装には特別に裂を誂えたり、同年に西本願寺から売り出された三十六人歌集(石山切)の多くを表装し掛軸に仕立て、そのために桐材で太巻添え軸を工夫したり、伊勢集の二頁続きの料紙には両面装丁を工夫するなど、装潢技術の応用に早くから進取の態度を見せるかたわら、前田家から売り出された古裂を求めるなど古画や古裂にも積極的な興味を寄せていた。このような初代岩太郎の、新技術に対する積極性、表装に取り合わせる裂に対する執念に感化された行蔵は、戦後古画の修復を主にするようになってその技量を開花させて行く。まず、絵が描かれた時代に近い雰囲気を持つ裂の復元に取り組む。描かれた時代にはなかった金欄で表具された平安、鎌倉絵画に対する反省から、修理に際しては、長年収集の古裂の中から絵画の製作時に近いと思われる裂を取り合わせ、いわゆる名物裂一辺倒の取り合わせを控え、それぞれの時代に近い装丁を心掛けることを念願としていたのを、いま一歩進めて裂を復元してより理想的な取り合わせを実現し使用した。幸い西陣の広瀬敏夫の協力を得て、綾地綾文の応夢衣、欄地綾文の大燈国師墨蹟関山字号の中廻し裂から始め、昭和58年までには、数十種類の裂を復元し使用している。裏打ちなどに不可欠な手漉和紙についても、吉野や近江の紙漉と協力して、古法による製造の復活や雁皮と楮の混抄紙の開発を行う一方、古画の修復に不可欠な材料についても、絹本絵画の欠失部補修に使用する絵絹の復元を行うかたわら、あたらしい補絹の人工劣化法を開発するため当研究所に支援を求め、その成果として絵絹を原子力研究所の電子線によって人工劣化させる方法を完成した。伝統的素材の科学技術による加工と言う点で画期的な出来事であった。また。絵画や書跡・文書などの修復に、早くからエックス線透過写真、赤外線反射写真、紫外線蛍光および反射写真による調査法を取入れ、美術史研究者と共に修理中しか見ることの出来ない本紙の状態を観察することによって(例えば、来振寺蔵五大尊像の裏面)、赤外線写真でのみ半読可能な銘記が発見されるなど、貴重な発見をしてきた。昭和22年から58年までに修復をした主な美術品天球院方丈障壁画 昭和25年度、真珠庵方丈障壁画 昭和26年度、平家納経 昭和31~34、45~46年度、信貴山縁起絵巻 昭和34年、47~48年度、大燈国師画像 昭和38年度、紫式部日記絵詞 昭和41年度、瓢ねん図 昭和42年度、両部大経感得図 昭和44~46年度、伴大納言絵詞 昭和44~46年度、粉河寺縁起 昭和46~47年度、五大尊像 昭和51~53年度、伝源頼朝像 昭和54~55年度、伝平重盛像 昭和54~55年度、王昭君図 昭和56年度昭和24年から25年まで京都表装文化協会会長昭和33年から39年まで京都表装文化協会副会長昭和38年から昭和47年までと、昭和54年から58年まで国宝修理装潢師連盟理事長昭和51年11月紫綬褒章受章昭和55年から昭和58年まで、京都国立博物館文化財保存修理所 修理者協議会会長昭和56年IIC(国際文化財保存学会)フェロー会員昭和58年勲四等瑞宝章昭和58年京都府文化財保護基金から第1回功労賞

橋本兵藏

没年月日:1990/06/23

読み:ハシモト, ヒョウゾウ*、 Hashimoto, Hyozo*  画材店「月光荘」の創業者橋本兵蔵は、6月23日冠不全のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去した。享年96。明治27(1894)年6月10日、富山県中新川郡に生まれた。大正6年、東京・銀座で画材店を創業、店名の「月光荘」は与謝野鉄幹・昌子の名付けによるもので、ヴェルレーヌの詩の一節「大空の月の中より君来しや ひるも光りぬ 夜も光りぬ」に由来するという。以来、自ら本名をすて「月光荘おじさん」と自称し続けた。昭和15年、コバルト・ブルーの製作技法を発見し純国産絵具を誕生させたのをはじめ、戦後の同46年には世界油絵具コンクールにおいて、自家製のコバルト・バイオレット・ピンクで一位になり、ル・モンド紙に「フランス以外の国で生まれた奇跡」との評を得るなど、生涯にわたり画材の創案工夫につとめ特許製品も数多い。一方、梅原龍三郎、藤田嗣治、猪熊弦一郎、脇田和など多彩な画家たちが「月光荘」に出入し親しんだことでも知られる。

粟津慈朗

没年月日:1989/12/10

 粟津画廊社長、元東京美術商協同組合理事の粟津慈朗は12月10日午後零時24分、肝硬変のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年76。大正2(1923)年に北海道札幌市に生まれ、昭和5(1930)年、京都市山内春静堂美術店に入る。翌年同店東京店に移り、同15年独立。19年応召し、20年に復員して下北沢で開業。同22年日本橋で営業を始め、41年株式会社粟津画廊として組織改革を行ないその社長となった。二朗とも号す。戦後間もない時期から現代日本画を中心に作家に活動の場を提供しその振興に寄与した。

松岡清次郎

没年月日:1989/03/20

 松岡美術館館長で美術蒐集家の松岡清次郎は、3月20日午後4時31分、呼吸不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年95。明治27(1894)年1月8日、東京都京橋区に生まれる。同45年中央商業学校を卒業して銀座の貿易商に勤務し、数年後に独立。雑貨輸出入業に従事し、第一次世界大戦時に不動産業、冷蔵倉庫業、ホテル業など多角的に事業を拡大。昭和7(1932)年、松岡創業を開設する。一方、古美術品蒐集を始め、初期には日本画を、戦後は中国陶磁を中心に蒐集。昭和49年6月「青花双鳳草虫図八角瓶」を落札して注目されたほか、「青花龍唐草文天球瓶」の入手、昭和55年シャガールの「婚約者」、同61年「釉裏紅牡丹蓮花文大盤」の落札などで話題となった。同50年11月、コレクションの公開のために東京都港区新橋5-22-10の自社ビル内に松岡美術館を設立。中国陶磁、日本画、西欧絵画、インド仏教彫刻など幅広いコレクションが展観されている。

平野政吉

没年月日:1989/03/13

読み:ヒラノ, マサキチ*、 Hirano, Masakichi*  美術品蒐集家、平野政吉美術館館長の平野政吉は、3月13日午後7時2分、心筋こうそくのため秋田市の中通病院で死去した。享年93。明治28(1895)年12月5日秋田県秋田市に生まれる。米穀商から広大な田畑を所有する大地主となった初代政吉を祖父に、家業を継ぐ一方金融業をもとにした「平野商会」を設立した二代政吉を父に、その長男として生まれ、幼名精一。明徳小学校卒業後、秋田中学に入学するが中退。20歳頃から飛行機に興味を持ち、日本帝国飛行協会の小栗常太郎の主宰する小栗飛行学校に5年間ほど学ぶなど、新奇なものに逸早く傾倒。一時、画家を志すなど美術にも興味を持ち、昭和4(1929)年、洋画家藤田嗣治の帰国展を見、同9年の二科展で藤田の知遇を得、その作品に強くひかれ蒐集を始める。同12年には藤田を秋田に招き大壁画「秋田の行事」の制作を依頼するなど、藤田嗣治のコレクターとして知られるようになる。同13年、私立美術館設立に着手するが、第二次世界大戦下の資材不足のため頓坐し、戦後の42年5月5日、財団法人平野政吉美術館を開館してその館長となった。藤田嗣治のコレクションのほか、郷里に関連する秋田蘭画を中心とした初期洋風画、西洋絵画など幅広く蒐集、公開を行ない、豪胆放逸な人柄とともに広く世に知られた。

鄭詔文

没年月日:1989/02/23

読み:チョン, チョムン*、 Chon, Chomun*  美術品蒐集家、財団法人高麗美術館理事長の鄭詔文は、2月23日午後2時、肝不全のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年70。大正7(1918)年11月2日、朝鮮半島慶尚北道に生まれる。同14年、両親と共に来日。働きながら小学校を卒業し、戦後、飲食店などを経営する一方、朝鮮半島の美術品を蒐集。また、昭和44年から56年まで朝鮮文化社から季刊雑誌「日本の中の朝鮮文化」を刊行した。同63年10月25日、蒐集した高麗青磁、李朝白磁などの陶磁器、仏像、書画、家具など1700点あまりを所蔵する高麗美術館を自宅のあった京都市北区紫竹上ノ岸町15に設立し、財団法人とした。在日韓国人一世としての自己の体験から、美術品を通して故国の文化を理解、顕彰し広く共感を分かとうとしたもので、朝鮮考古・美術の調査、研究もあわせて行ないたいとの遺志を汲んで、現在は「高麗美術研究所」があわせて設立されている。

山本孝

没年月日:1988/06/09

 東京画廊を設立し日本の現代美術の展開に寄与した山本孝は6月9日午後6時35分、肺しゅようのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年68。大正9(1920)年3月12日、新潟県村上市に生まれる。昭和4(1929)年上京。東京市池袋第二小学校高等科を卒業し、8年、骨董商平山堂商店につとめる。戦後、同20年再び平山堂商店に入り、23年独立して数寄屋橋画廊を設立。25年に同画廊を解散し翌26年東京画廊を設立する。33年斎藤義重展を開催し、その後前衛的な現代作家の作品を次々と紹介。桂ゆき、白髪一雄、高松次郎、前田常作、豊福知徳、川端実、李禹煥などの個展を開き、また、フンデルト・ワッサー、イブ・クラインなど海外の作家の紹介にもつとめた。33年日本洋画商協同組合の創立に参加し、53年より60年までその理事長を務める。数寄屋橋画廊時代の同僚、志水楠男らとともに現代美術を対象とする画廊の創成期をになった。

安達健二

没年月日:1988/03/12

 元文化庁長官、前東京国立近代美術館館長、文化庁顧問の安達健二は、3月12日肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年69。文化行政全般に多大の功績のあった安達は、大正7(1918)年12月22日愛知県春日井市に生まれ、昭和20年東京大学法学部政治学科を卒業、同年文部省に入省した。終戦直後の同省で教育基本法、文化財保護法などの制定を手がけた。同28年文化財保護委員会無形文化課長となり、国指定重要無形文化財、いわゆる「人間国宝」制度をつくった。以後、初等中等教育局教科書課長、大臣官房人事課長、社会教育局審議官、文化局審議官、文化局長等を歴任し、同43年文化庁次長となり、同47年今日出海に継ぐ第二代文化庁長官に就任、同50年9月まで在任した。同51年1月東京国立近代美術館館長となり、61年3月退官、4月文化庁顧問となった。東京国立近代美術館館長在任10年の間、極めて精力的に同館の運営にあたった。同52年旧近衛師団司令部庁舎跡利用に関し、室内の改装を施し東京国立近代美術館工芸館として開館したのをはじめ、本館の収蔵庫増築を行い、同61年には東京国立近代美術館フィルムセンター相模原分館の竣工をみた。さらに、京橋の同館フィルムセンター建て替え計画も軌道にのせた。一方、同館は開館以来日本近代美術作品の収集を基本としていたが、今世紀の海外作品を含む国際的コレクションとする収蔵方針を打ちたて、ピカソ、ベーコン等の作品を在任中収蔵した。これに関連し海外展の開催にあたっても自ら尽力し、シャガール展(同51年)、マチス展(同56年)、ピカソ展(同58年)、退官後の展観となったゴーギャン展(同62年)等、国内で行われたこれらの作家の展覧会としては最も充実した内容に富む企画展に関与した。また、同52年にはアメリカから日本人画家による戦争画の一括返還を受け、これらを美術作品として部分的に公開する途を開いた。この間、大英勲章(同51年)、フランス芸術文化勲章(同52年)、イタリア共和国勲章(同53年)、世田谷区制55周年特別文化功労章(同62年)等を受章する。没後勲一等瑞宝章受章。著述に『教育基本法の解説』『中等教育の基本問題』『文化庁事始』『悠々閑々 画家の素懐』(日本画家編)などがある。

菱田春夫

没年月日:1987/01/14

読み:ヒシダ, ハルオ*、 Hishida, Haruo*  菱田春草の長男で日本美術院理事・前事務局長の菱田春夫は、1月14日午後3時39分、心不全のため東京都目黒区の東京国立第2病院で死去した。享年84。明治35(1902)年1月17日東京府下谷区に、日本画家菱田春草の長男として生まれる。春草が明治44年36歳で死去したのち、大正8年横山大観に師事して日本画を学び、のち日本美術院研究会員となる。大正14年日本美術院の事務を委嘱され、昭和17年財団法人岡倉天心偉績顕彰会の設立に伴い、その事務も兼任した(27年まで)。以後、日本美術院の運営の任にあたり、33年日本美術院が財団法人となるに際し主事(54年3月まで)となった。また、36年日本美術院評議員、54年同理事となるなど、斎藤隆三を継いで日本美術院運営の大任にあたった。春草の画集『菱田春草』(大日本絵画巧芸美術、昭和51年)の編集などのほか、「父春草の思い出」(『ゆうびん』3-10、昭和26年10月)や、数々の春草の図書、展覧会図録の序文などを書いている。春草の作品の鑑定家としても知られた。

北原義雄

没年月日:1985/11/11

読み:キタハラ, ヨシオ*、 Kitahara, Yoshio*  雑誌『アトリエ』を創刊し、アトリエ出版社長として美術図書の刊行に尽力した北原義雄は、11月11日午前3時7分心不全のため東京都中野区の小原病院で死去した。享年89。明治29(1896)年1月31日福岡県柳川市に生まれる。詩人北原白秋の実弟。旧制麻布中学校卒業。義兄山本鼎と美術雑誌『アトリエ』を企画し大正13年にアトリエ社を創立。月刊誌『アトリエ』のほかゴッホ、ルノアール、セザンヌらの画集を翌14年に刊行して以来、西洋美術画集、油絵、水彩、パステルなどの各種技法書、個人作家画集など多くの美術書を編集、出版する。戦時中、雑誌統合のため実兄北原鉄雄が社主となっていたアルス社と合併し北原出版株式会社とするが、戦後の昭和26年アトリエ社を復活し月刊『アトリエ』を復刊。同誌は『みづゑ』『中央美術』とならぶ美術専門雑誌として作家を啓発するところが大きく、また、同社は美術書を専門とする出版社として確かな位置を占めた。

杉山司七

没年月日:1985/09/02

読み:スギヤマ, シシチ*、 Sugiyama, Shishichi*  元東京都美術館館長の美術教育家杉山司七は9月2日午前9時30分、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去した。享年90。明治28(1895)年7月28日富山市に生まれ、大正4(1915)年同県師範学校本科を卒業。同8年東京美術学校師範科を卒業して、郷里の神通中学校、県立商業学校図画教師となり、以後、和歌山県立中学、山口県師範学校、同高等学校、高等女学校、帝国美術学校等で教鞭をとる。この間の昭和12(1937)年国際美術教育会議出席のため渡欧し、1年間欧米の美術教育を視察。同15年には朝鮮、満州の美術教育を視察する。同20年美術教育奨励事業、美術教科書編纂に携わる。同25年より30年まで東京都美術館館長を務め、同52年には太平洋美術学校校長となった。教育者の立場から美術関係の著述にも力を注ぎ『クレヨン画の描き方』『綜合美術史要』『現代特選図案集』などを刊行して制作およびその鑑賞の指導に尽力した。

久保惣太郎

没年月日:1984/06/09

 東洋古美術品のコレクションで知られる大阪府の和泉市久保惣記念美術館の名誉館長久保惣太郎は、6月9日午前6時10分頃、大阪府和泉市の自宅で縊死しているのを家人に発見された。享年57。7年前より脳血栓により入退院を繰り返していた。大正15(1926)年8月26日和泉市に生まれ本名英夫。昭和19年、織物の特産地大阪・泉州で織物業を営んできた老舗久保惣株式会社の三代目として取締役社長に就任する。久保惣は明治17年初代久保惣太郎(文久3~昭和3)が創業した地場繊維業のトップクラスで、初代の蒐集になる富岡鉄斎の泉州滞在期の三幅が久保惣コレクションの嚆矢であった。その後、茶を好んだ二代目(明治23~昭和19)と三代目を中心に昭和初期から戦後にかけて意欲的な蒐集を行ない、国宝2点、重要文化財28点を含む絵画、書跡、陶磁、金工、漆工など約500点の東洋古美術品を蒐集した。会社は昭和53年政府の構造不況業種に対する転廃業指導に則り転廃業の止むなきに至ったが、52年8月郷土への感謝と文化振興のためコレクションを和泉市に寄贈、美術館用地と建物の寄贈も行ない、57年10月和泉市久保惣記念美術館が発足した。発足と同時に同美術館名誉館長に就任、没後60年11月和泉市名誉市民に推称された。

西脇順三郎

没年月日:1982/06/05

読み:ニシワキ, ジュンザブロウ*、 Nishiwaki, Junzaburo*  現代詩人の最長老、慶應義塾大学名誉教授の西脇順三郎は、6月5日急性心不全のため新潟県小千谷市の小千谷総合病院で死去した。享年88。昭和初年以来現代美術の動向にも大きな影響を与えた西脇は、明治27(1894)年1月20日新潟県北魚沼郡に生まれた。少年時代から英語と絵を好み、同44年中学卒業後画家を志して上京、藤島武二の内弟子となり、また、黒田清輝に許されて白馬会に入りデッサンを学び、洋画研究を目的にフランス留学を望むが、父の死などによりやがて画家志望を断念する。大正6年慶應義塾大学理財科を卒業。同9年荻原朔太郎の『月に吠える』に接し衝撃を受け、自らも口語自由詩をつくることを決意する。同11年から14年まで英国に留学、オックスフォード大学で古代中世英語・英文学を学び、この間、芸術家との交友でモダニズムの洗礼を受け、印象派絵画に接し、また、イギリス人画家マジョリ・ビットルと結婚(のち離婚)する。同15年慶大文学部教授に就任、当時の文科の学生、佐藤朔、滝口修造らと親交をはじめ、日本におけるキュビスム、ダダ、シュール・レアリスム、イマジスムなど、新芸術運動の中心となり、「三田文学」を執筆の拠点とする。昭和2年、日本最初のシュール・レアリスム・アンソロジー「馥郁タル火夫ヨ」を刊行、その後、詩論を次々に発表して芸術革命の実践に入った。同4年『超現実主義詩論』を刊行、同8年には第二詩集『Ambarvalia,あむばるわりあ』を刊行し評価を決定づけ、新詩運動の中心的存在となる。戦後は、膨大な作品を発表し詩人の真面目を発揮、同31年の『第三の神話』で翌年度第8回読売文学賞を受賞、同36年日本芸術院会員(第二部文学)となり、同46年には文化功労者に選ばれる。この間、はやくから美術論も執筆したが、晩年は飯田善国との合作詩画展(「クロマトポイエ」南天子画廊、同47年)の開催、池田満寿夫との合作詩画集、(『Gennaio A Kyoto』『traveller’s joy』同47年)の刊行などのほか、同43年には文芸春秋画廊で「西脇順三郎展」(南天子画廊主催)を、同56年には草月美術館で回顧展「西脇順三郎の絵画」展を開催し、「詩人の余技」の域をこえた本格的な絵画作品として話題となった。詩画集に『籜』(同47年)、画集に『西脇順三郎の絵画』(同57年)がある。

高橋誠一郎

没年月日:1982/02/09

読み:タカハシ, セイイチロウ*、 Takahashi, Seiichiro*  文化勲章受章者で、昭和23年以来30年間日本芸術院長をつとめた経済学者高橋誠一郎は、2月9日肺炎のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年97。芸術への造詣が深く、とくに浮世絵の個人コレクターとしては第一人者であり、浮世絵研究家でもあった高橋は、明治17(1884)年5月9日新潟の廻船問屋の一人息子として生まれた。横浜での少年時代から、すでに絵草紙屋で清親や芳年の錦絵を見とれていたという。同41年慶応義塾大学政治科を卒業、英国留学後、大正3年母校の理財科教授に就任、経済学部長などを経て、昭和19年名誉教授となった。戦後間もなく、慶応義塾長事務取扱いとして難局を処理したのち、同22年の第一次吉田内閣の文相に就任、戦後教育の骨格づくりに尽力した。その後、東京国立博物館長(同23-25年)、日本芸術院長(同23-54年)、文化財保護委員会委員長(同25-31年)、映倫管理委員長(同32-53年)、国立劇場会長(同41-52年)など文化・学術面の要職を歴任、また、同37年から没年まで日本浮世絵協会会長もつとめる。同37年文化功労者に選ばれ、同48年勲一等旭日大綬章を受章、同54年には文化勲章を受けた。この間、情熱を注いで収集した浮世絵は、写楽の「市川鰕蔵の竹村定之進」、北斎の「凱風快晴」、歌麿の「高島おひさ」など多くの逸品を含む総計六千三百余点にのぼり、これらは一括して没後慶応大学図書館へ入った。『浮世絵講話』(昭和23)、『浮世絵と経済学』『新修浮世絵二百五十年』(同35)、『浮世絵随想』(同41)などの浮世絵に関する著述があり、また、同50年から52年にかけて、『高橋誠一郎コレクション・浮世絵』(全七巻)を刊行した。

松田義之

没年月日:1981/09/09

読み:マツダ, ヨシユキ*、 Matsuda, Yoshiyuki*  東京芸術大学名誉教授の版画家、図画教育家の松田義之は、9月9日老衰のため千葉県市川市の自宅で死去した。享年90。号芳雪。1891年(明治24)年11月9日愛知県北設楽郡に生まれ、愛知県師範学校第二部を経て、1917(大正6)年東京美術学校師範科を卒業した。卒業の年から青森県立青森高等女学校、ついで20年から三重県神戸中学校で教鞭をとったのち、21年東京美術学校助教授に就任、40年同校教授となる。戦後、51年新制大学設置により東京芸術大学教授となり、59年定年退官、62年同大学名誉教授の称号を受けた。この間、29年以後文部省中等教員検定試験委員、40年以後文部省教科書編集委員をつとめるなど、戦前から図画教育界で大きな功績を果した。また、エッチングの草分け的存在でもあり、新文展、日本版画協会展などに出品した。銅版画の主要作品に「樹蔭」「ベービルの田舎屋」「橋」「詩人の家」「村の工房」「船大工の家」「花と時計」などがあり、著書に『美術の話』(1950年、広島図書)『手と道具』(1955年 河出書房)などがある。

栗本和夫

没年月日:1980/04/14

読み:クリモト, カズオ*、 Kurimoto, Kazuo*  中央公論美術出版社長の栗本和夫は、4月14日国立がんセンターで肺炎のため死去した。享年69。1911(明治44)年2月5日奈良県生駒郡に生まれ、東洋大学に学んだ。1935年中央公論社に入社し、1946年同社専務取締役となった。同56年4月同社ビルを丸ビルより京橋に移転し、中央公論建物株式会社々長となり、同社取締役をも兼ねた。同年10月中央公論美術出版を創立、同出版の社長になった。またこの年中央公論事業出版を創立し、同出版の社長に就任した。1958年日ソ文化交流で岩波雄二郎、下中弥三郎とともにソ連に招かれ、ソ連各地を歴訪、翌年「ソ連瞥見」を出版した。1978年には長野県諏訪郡富士見町に、私財を投じて財団法人栗本図書館を建設し、収蔵図書の全てを同館に納めた。1980年著書「一図書館の由来記」を刊行し、その直後の4月13日逝去した。翌81年には上記図書により明治村土川元夫賞を受けた。

吉田幸三郎

没年月日:1980/03/07

 古典芸能界に権威ある存在として、また速水御舟の著作権管理者であり、御舟作品の鑑定を専らにすることにより知られた吉田幸三郎は、3月7日腎不全のため北品川総合病院で死去した。享年93。1887(明治20)年2月27日東京市芝区に、天保年間創業の呉服商豊田屋の三男として出生した。父弥一郎。母★う。父弥一郎はのち現在の品川区、目黒区において、貸地業をも兼ね営んだ。1892年同所に移居し、翌年3月芝区白金小学校に入学、1905年私立麻布中学校を卒業した。1907年1月早稲田大学史学科本科に入学、同年4月英文学科に転科した。同年10月坪内逍遥の推挙により文芸協会研究所に入り、1910年5月同所を卒業した。研究所入所後は坪内逍遥、島村抱月、松井松葉の舞台監督助手を勤めたが、協会の業務繁忙のため、大学は1909年11月本科3年の折中退した。12年春研究生出身代表として、文芸協会幹事に推挙された。13年同協会解散後は第1期研究生等の結成した舞台協会の主事となり、約3ヶ年同劇団の演出監督を勤めた。14年12月には今村紫紅を中心に速水御舟、小茂田青樹ら新鋭日本画家と赤曜会を起し、新日本画運動に意欲的に参画、15年秋には舞台協会のことは小宮豊隆、山本有三に托して新劇運動を離れた。この間日本美術院再興に関与し、また原三渓、中村房次郎後援のもとに青年画家育成のため尽力した。1919年より約15年間、七條憲三と協同して芝区西久保広町に印刷所を経営し、主として美術出版に従事した。同年2月、中川忠順、上野直昭、福井利吉郎、田中親美、小堀鞆音、安田靫彦、七條憲三等と大和絵同好会を企画し、絵巻物複製の刊行に当り、また古典保存会の出版にも関与、三十六人家集その他数多くの水準高い複製類の出版を行い、また別に22年、高見沢遠治、上村益郎とともに浮世絵保存刊行会を結成、会員組織による浮世絵複製の版行に当った。24年1月26日、父弥一郎死亡し兄2人早逝のため家督を相続。第2次世界大戦勃発後は、片山博道、武智鉄二、鴻池幸武等との交誼を得て、関西における芸能運動である断弦会に参画し、東京においては同会の姉妹団体として花友会を起し、戦時中も活発なる芸能発表を催行した。一方田中啓文の主宰した長唄国光会に関与、同人没後はその会の継存に努力した。また古曲鑑賞会を再興し、73年まで、その理事長の任に在った。そのほか関与した芸能団体には、山城会、温心会、声韻会、河東節十寸見会、荻江節荻江会等がある。文部省の外局として文化財保護委員会が設置されてから、51・2年度、専門審議会専門委員(無形文化財)を勤め、50年度より60年度まで芸術祭執行委員に在任、そのほか文部省芸術選賞選考委員、国立劇場建設準備委員、日本文楽協会専門審議会委員、能楽協会三役養成委員を勤めた。55年、古典芸能の保存と育成に対し、文部大臣芸術選賞を、60年、文化財保護委員会より文化財功績者表彰を、昭和61年、日本文学振興会より菊池寛賞を、62年、紫綬褒賞を、65年、日本舞踊協会より功績表彰状を受けた。なお速水御舟に関する執筆つぎの通り。速水御舟論 中央美術 5-8 大正8年8月速水御舟逝く 美術評論 4-3 昭和10年4月御舟のことども 阿々土別巻2 昭和10年4月速水御舟特輯号 美之國 11-5 昭和10年5月追悼速水御舟氏 アトリエ 12-5 昭和10年5月速水御舟のえらさ 美術評論 4-8 昭和10年11月人間御舟を語る 産業経済新聞 昭和29年3月1日速水御舟の偽作談義 画集紫朱-便利堂 昭和51年10月刊。非売品速水御舟の鑑定 芸術新潮336 昭和52年2月美しい心の人 速水御舟作品と素描 光村図書刊。昭和56年3月

清水澄

没年月日:1980/02/03

読み:シミズ, トオル*、 Shimizu, Tooru*  美術鑑定家として知られる清水澄は、2月3日脳軟化症のため東京都台東区の自宅で死去した。享年86。号不濁。1894(明治27)年1月5日長野県上田市に生まれ、早稲田大学政経学部を中退した。大正時代、報知新聞記者をつとめ、1931年同社を退社し、美術倶楽部出版部、鑑定部社長に就任した。書画、刀剣等の鑑定を専らにし、また名鑑、書画家番附、辞典、印譜等の多くを出版した。

志水楠男

没年月日:1979/03/20

読み:シミズ, クスオ*、 Shimizu, Kusuo*  南画廊主の志水楠男は、3月20日心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年52。1926(大正15)年4月29日東京都に生まれる。44年自由学園高等科を中退、翌年応召する。48年数寄屋橋画廊につとめ、50年山本孝と共同で東京画廊を設立、翌年日本橋に南画廊を創設する。その後海外の前衛美術を積極的に紹介し、サム・フランシス、ジャスパー・ジョーンズ、アンドレ・デュシャンなどの作品を輸入する一方、山口長男、オノサト・トシノブ、堂本尚郎、飯田善国らの業績を紹介した。また、日本洋画商協同組合理事をつとめ、のち同組合から分離し東京相互会理事となった。

田内靜三

没年月日:1978/09/11

読み:タウチ, セイゾウ*、 Tauchi, Seizo*  旧東京国立博物館次長の田内靜三は、9月11日胃がんのため、東京新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。明治33年12月31日高知市に生まれ、昭和4年東北帝国大学法文学部を卒業、同年9月文部省専門学務局学芸課に勤務した。その後、昭和11年北海道帝国大学予科教授、同14年中央気象台人事課長、同20年大阪大学事務局長等を歴任し、昭和26年東京國立博物館次長となった。同37年停年退職したがこの間、フランス政府よりレジヨン・ドヌール五等勲章を受賞した。退職の翌年共立女子大学教授となり、昭和40年には財団法人明治村副館長となった。また同43年には社団法人日本工芸会理事長となった。大学では独逸文学を専攻し、街国文学一般に通じていた。詩作をつづけ、晩年には友人片山敏彦と共訳によりフランツ・ヴェルフェル『ベルナデットの歌』を出版した。

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