本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,961 件)





林宗毅

没年月日:2006/04/03

読み:はやしむねたけ  実業家で、中国書画の収集家としても知られる林宗毅は、病気療養中のところ、4月3日、東京にて死去した。享年83。林宗毅は、台湾三大名家の第一に挙げられる板橋林本源家の嫡流として、1923(中華民国12)年4月22日、台北の板橋鎮に生まれた。字を志超といい、定静堂と号した。原籍は福建省漳州府龍渓県。1778(乾隆43)年、五代の祖である林應寅の代に台湾に移り、のちに應寅の子林平侯が居を台北県新荘鎮に定め、土地の開墾・塩の専売・貿易等によって財を築いた。1846(道光26)年から1853(咸豊3)年の間に、平侯の二人の子、林國華・林國芳が板橋鎮に移居し、林國華・林國芳それぞれの屋号である本記・源記を合わせて、林家は林本源と総称するようになった。福建の造園技術の粋を集めて築造した林本源園邸は、現在も台北県の古跡として一般に公開されている。定静堂をはじめ、来青閣、方鑑斎、汲古書屋等の別号は、いずれも林本源園邸の楼亭や書斎の名称に由来している。1944(中華民国33)年、台北帝国大学医学部に入学するも、翌年終戦のため退学。1948(中華民国37)年、国立台湾大学文学院外国文学系を卒業。1953(昭和28)年、東京大学大学院(旧制)文学部英文学科を修了。1973(昭和48)年、日本に帰化した。長らく、台湾・日本・アメリカなどで実業家として活躍するかたわら、30歳の頃から中国書画の収集に心を砕き、約1000件のコレクションを形成した。それらの収蔵品は、一般に公開して研究に役立てたいとの考えから、『定静堂中国明清書画図録』(求龍堂、1968年)・『定静東方美術館開館記念展目録』(凸版印刷、1970年)・『近代中国書画集』(中央公論事業出版、1974年)を編修発行、一方では林家にまつわる貴重な文献を『定静堂叢書』として刊行した。収蔵品は、台北の国立故宮博物院(1983・1984・1986・2002年)、東京国立博物館(1983・1990・2001・2003年)、和泉市久保惣記念美術館(2000年)に寄贈し、それにより紺綬褒章を受章(複数回)、中華民国教育部文化奨章(1984)、国立故宮博物院栄誉章(1986年)、中華民国総統奨状扁額(1986年)、中華民国行政院文化建設委員会「第6回文馨奨」の「金奨特別奨章」(2003年)を受章した。『定静堂清賞』(東京国立博物館、1991年)、『林宗毅先生捐贈書画目録』(国立故宮博物院、1986年)、『近代百年中国絵画』(和泉市久保惣記念美術館、2000年)等があり、三館に寄贈した収蔵品から名品を選んだ『定静堂中国書画名品選』(財団法人林宗毅博士文教基金会・国立故宮博物院、2004年)がある。1983(中華民国72)年、中華学術院名誉哲士。1987(中華民国76)年、中国文化大学名誉文学博士。

吉田清

没年月日:2006/01/26

読み:よしだきよし  東京美術倶楽部代表取締役の吉田清は1月26日、肺炎のため死去した。享年78。1927(昭和2)年2月11日、東京都に中村嵩山の四男として生まれ、吉田家養子となる。44年電機高校を中退。古美術商水戸幸に入店し、56年有限会社赤坂吉田を設立して同社代表取締役となる。58年、同社を有限会社赤坂水戸幸と改称。61年から63年まで東京美術倶楽部青年会理事長をつとめ、この間、第二次大戦で行方や消息が不明であった佐竹本三十六歌仙絵を一堂に集めた「佐竹本三十六歌仙展」を開催して注目された。東京美術倶楽部にあっては、81年に監査役、83年に取締役、1995(平成7)年に取締役副社長、97年に代表取締役となった。また、東京美術商協同組合にあっては、66年に理事、77年に専務理事、91年に理事長となり、99年全国美術商連合会会長となった。宗翠と号して茶の湯をよくし、79年財団法人小堀遠州顕彰会理事、84年光悦会役員、86年財団法人MOA美術館光琳茶会役員、2000年大師会理事となり、東都茶道界の重鎮であった。著書に『佐竹本三十六歌仙図録』(共著、東京美術青年会、1962年)、『古筆手鑑梅の露』(書芸文化院、1964年)、『写経手鑑紫の水』などがある。

三谷敬三

没年月日:2005/12/18

読み:みたにけいぞう  元株式会社東京美術倶楽部社長の三谷敬三は、12月18日午前6時56分、心不全のため川崎市内の病院で死去した。享年89。1916(大正5)年11月20日に生まれ、1934(昭和9)年3月に東京府立工芸学校を卒業後、自動車製造株式会社(現在の日産自動車株式会社)に入社。戦後同社を退社、戦時中休業していた家業の美術商三渓洞を継ぎ、営業を再開した。47年には株式会社三渓洞に組織変更し、代表取締役に就任。一方、51年には東京美術商協同組合の専務理事になり、59年には同組合の理事長、75年には顧問に就任した。また、53年に株式会社東京美術倶楽部の鑑査役、57年に同社常務取締役、69年に代表取締役社長、87年から1995(平成7)年まで代表取締役会長を勤めた。その間、77年から82年まで東京美術倶楽部鑑定委員会委員長を務め、また69年から87年まで五都美術商連合会の代表を務め、斯界において長年にわたり取りまとめ役に精励した。その業績に対して、80年11月に藍綬褒章を受章、87年11月には勲四等旭日小綬章を叙勲した。 

村越伸

没年月日:2005/12/17

読み:むらこしのぶる  村越画廊社長の村越伸は12月17日午後6時26分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年83。1922(大正11)年1月1日、横浜市に生まれる。父は商船の機関長。横浜の本町尋常高小卒業後、母の知己を頼り14歳で古物商の芝・本山幽篁堂に丁稚奉公に入り、主人の本山豊実のもと古美術の基礎を身につける。また本山の知人だった吉田幸三郎の知遇を得、その義弟である速水御舟や、村上華岳、横山大観らの作品に惹かれ、日本画を中心とした新画商の道を志す。1943(昭和18)年に兵役につき、復員後の48年に銀座で画商として再出発。51年旧友の山本孝、志水楠男とともに東京画廊を拠点として営業、サム・フランシス、フンデルトワッサー等、現代美術をも扱う。56年銀座8丁目の並木通りに村越画廊を開設。59年横山操、加山又造、石本正の三作家による日本画のグループ展轟会(後に平山郁夫が参加)をスタートさせ、74年まで16回開催し、美術界に新風を吹き込んだ。71年日本画商相互会の会長(82年再選)、83年東京美術商協同組合理事長に就任。78年には評論家吉村貞司の提案により、多摩美術大学で横山操、加山又造の教えを受けた小泉智英、中野嘉之、松下宣廉、米谷清和によるグループ野火を発足させ、88年まで毎年開催した。1990(平成2)年藍綬褒章を受章。92年パリのギメ美術館に対する尽力を評価され、フランス政府からシュバリエ勲章を授与される。95年勲四等瑞宝章受章。著書に自叙伝『眼・一筋』(実業之日本社、1986年)がある。 

徳川義宣

没年月日:2005/11/23

読み:とくがわよしのぶ、 Tokugawa, Yoshinobu*  徳川美術館館長で尾張徳川家21代当主の徳川義宣は11月23日午前5時5分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。享年71。1933(昭和8)年12月24日、伯爵堀田正恒の六男正祥として東京都渋谷区上智町に生まれる。尾張徳川家20代当主義知の長女三千子と結婚して徳川家の養子となり、義宣と改名した。56年、学習院大学政経学部経済学科を卒業し、東京銀行に就職。57年からは財団法人徳川黎明会の評議員、60年から同会理事を歴任。61年には東京銀行を退職し、62年から徳川黎明会徳川美術館担当理事、67年から同会専務理事をつとめた。この間東京大学農学部林学科研究生として林業を学ぶかたわら、東京国立博物館研究生となって美術史を学んで学芸員資格を取得した。76年からは徳川美術館館長を兼務、93年からは没した義父にかわって徳川黎明会会長をつとめた。そのほか日本工芸会顧問、東京都重要文化財所有者連絡協議会会長、全国美術館会議副会長、漆工史学会副会長、日本博物館協会理事、愛知県博物館協会理事、日本陶磁協会理事、茶の湯文化学会理事、東洋陶磁学会常任委員などをつとめた。徳川美術館に伝えられた尾張徳川家コレクションの保存に尽力するにとどまらず、研究を美術館活動の中心に据え、旧大名家コレクションを収集して館蔵品を増強し、87年には地元政財界の協力のもと展示室と研究室を充実させる美術館の増改築を実現させるなど、徳川美術館を個性の際立つ日本有数の私立美術館に育てあげた手腕と実績は特筆される。私立美術館博物館の地位向上ひいては日本の博物館活動の振興に寄与するところが多く、91年には博物館法制定40周年文部大臣表彰と日本博物館協会顕彰を、2002年には文化庁長官表彰をうけた。美術史学や歴史学など幅広い分野に造詣が深く、とくに源氏物語絵巻と徳川家康文書の研究で第一人者として知られた。なお、93年までの履歴と著作は『徳川義宣氏略歴 著作目録』(徳川義宣氏の還暦に集う会編集発行、1994年)に詳しい。 

木村定三

没年月日:2003/01/21

読み:きむらていぞう  美術品収集家の木村定三は1月21日午前7時7分、肺炎のため名古屋市中区の病院で死去した。享年89。1913(大正2)年3月1日、名古屋の肥料米殻仲買を生業とする家に生まれる。1929(昭和4)年、旧制熱田中学校を卒業、第八高等学校文科甲類に入学し、32年同校を卒業、東京帝国大学法学部に進む。同大学在学中の35年に高級官僚への道が約束される高等文官試験行政科に合格するも、翌年法学部政治学科を卒業すると直ちに名古屋に戻り家業に従事する。66年には新納屋橋ビルを建設し、大名古屋建物株式会社の社長に就任した。その美術好きは書画骨董に関心を寄せた父と兄の影響とみられ、コレクションの幅は中国北魏の彫刻から現代の作品にまで及んだが、とりわけ38年に名古屋丸善の画廊で開かれた熊谷守一の日本画の個展で強い感銘を受け、以後熊谷の芸術を賞揚し続けた。“法悦感”と“厳粛感”を第一義とする独特の芸術観を持ち、両者を兼ね備えた画家として熊谷を、また前者を代表する画家として小川芋銭、次いで池大雅を、後者の画家として浦上玉堂を第一とし、与謝蕪村がそれに続くとした。晩年には与謝蕪村「富嶽列松図」、浦上玉堂「山紅於染図」等の重要文化財、また熊谷守一、小川芋銭の作品を含む近世・近代の作品140点、北魏石仏等古美術品16点、考古工芸資料177件を愛知県美術館に寄託、さらには寄贈することを決め、これを記念し同館にて2003(平成15)年「時の贈りもの―収蔵記念 木村定三コレクション特別公開」展が行なわれるが、その開催を目前にしての逝去であった。同館では展覧会開催後も木村定三コレクション室を設け、寄贈品を常時公開している。

浅尾丁策

没年月日:2000/01/29

読み:アサオ, テイサク*、 Asao, Teisaku*  額縁制作、絵画修復家の浅尾丁策は、1月29日午前9時55分老衰のため自宅で死去した。享年92。1907(明治40)年9月27日、東京市下谷区に生まれる。家業は、浅尾払雲堂として、父の代からはじめた洋画用の筆を製造。1924(大正13)年、東京商業学校を卒業後、一時保険会社に勤務するが、その後神田神保町の画材店竹見屋に勤める。1927(昭和2)年、独立して画材一般を扱う浅尾払雲堂を経営する。42年、戦中の物資不足を補うために、洋画家たちの賛同を得て油彩材料研究会を設立。49年には、プールヴーモデル紹介所を設立。83年労働大臣表彰。1996(平成8)年、油彩画修復家として台東区より指定無形文化財となる。生涯にわたり、額縁制作、絵画修復などによって美術界に貢献した。父祖の代からの自叙伝として、『金四郎三代記 谷中人物叢話』(86年)、『続 金四郎三代記〔戦後篇〕 昭和の若き芸術家たち』(芸術新聞社 96年)がある。

萬野裕昭

没年月日:1998/03/04

読み:マンノ, ヤスアキ*、 Manno, Yasuaki*  萬野美術館館長の萬野裕昭は3月4日午前3時55分、肺炎のため兵庫県西宮市の病因で死去した。享年91。明治39(1906)年8月17日大阪府泉北郡忠岡村(現・忠岡町)で生まれる。父は土木建築請負業の萬野組を経営していた。大正14(1925)年父より萬野組を引き継ぎ、昭和6(1931)年には合名会社南海鉄筋混凝土(コンクリート)工務店を設立、煙突建設請負業を始める。同15年株式会社萬野組を設立。戦後は不動産業を志し、その他にも船舶、運輸、外食産業、レジャーと多くの事業を手がける。その古美術収集については、青年時代に骨董類に興味を持ち、茶碗、香炉、徳利などを収集。戦時中は一時途絶えるものの、戦後しばらくして財閥・富豪が所持していた伝世品が流出しだすと、中国陶磁と茶道具を主に収集を再開し、琳派・肉筆浮世絵等の絵画、書蹟、さらには金工、刀剣・甲冑から染織へと範囲を拡大、東洋古美術に関しては仏像等直接信仰の対象となるもの以外は全てコレクションとして網羅されていると自負するまでに至る。その収集方法についても、美術館の展覧会を企画するかのようだともいわれるほど、各ジャンルにわたり系統的だったものであった。また収集を通じて細見良ら関西のコレクターや山根有三ら美術史家とも親交が深かった。もっともそのコレクションが国宝・重要文化財を含み一千点を超える屈指の収集家になっても表に出ず、好事家の間で「謎のコレクター」といわれたが、同57年所蔵する「佐竹本三十六歌仙斷簡 源公忠」がテレビで放映され、収集家としての存在が世間に知られるようになる。この頃にはすでに美術館建設の構想を固め、同62年財団法人萬野記念文化財団の設立が文化庁より認可、翌年大阪御堂筋沿いに萬野美術館を開館させた。平成元(1989)年文化芸術関係功労者として大阪府知事表彰を、また地域文化功労者として文部大臣賞を受ける。同6年には自伝『事業と美術と』を出版した。

岡村辰雄

没年月日:1997/08/20

読み:オカムラ, タツオ*、 Okamura, Tatsuo*  額装店岡村多聞堂の創業者で全国額縁組合連合会初代会長の岡村辰雄は8月20日午後4時36分、前立せんガンのため東京都新宿区の病院で死去した。享年92。明治37年10月31日長野県上田市に生まれる。大正元(1912)年、一家で上田から上京、深川門前仲町で時計屋を営むが、書画の売買を業としていた伯父の影響もあって表具師の仕事に惹かれていき、同6年伯父の仲介で表具店の原清廣堂に入門。昭和5(1930)年5月、多門堂を港区南佐久間町に創業。同11年、表装について記した『表装備考』を上梓、これを機に多く聞くことの尊さを知り従来の堂号“多門堂”を“多聞堂”に改める。同25年、表具の仕事を一切放棄し額装の製作に専念、とくに日本画額装の嚆矢となり、ステンレスなど新素材を積極的に取り入れ、建築様式の変化に対応した展示方法を開拓した。27年有限会社岡村多聞堂を設立。以後、東宮御所、新宮殿、吹上御所、国立劇場の装飾画の額装を手がける。30年、額に関する記録をまとめた『額装の話』を出版し、同年にブリヂストン美術館で「多聞堂額装展覧会」を開催、また全国額縁組合を創立。同42年より法隆寺金堂壁画再現に従事。同57年、自らの回想を綴った『如是多聞』を出版。同63年、額縁研究と製作による建築、美術界に対する功績に対し、第13回吉田五十八賞特別賞を受賞した。

内山正

没年月日:1996/09/29

 元国立西洋美術館長、元文化庁次長の内山正は、9月29日午後10時28分、肺炎のため川崎市宮前区の病院で死去した。享年79。大正6(1917)年4月1日、佐賀県に生まれる。東京大学を卒業後、昭和25(1950)年大分県教育委員会、同29年岡山県教育委員会を経て、同35年文化財保護委員会無形文化課長、同38年文部省調査局国語課長となる。同42年に同省文化局審議官、同43年文化庁文化財保護部長、同47年奈良文化財研究所長、同49年文化庁次長、同51年国立劇場理事となる。同54年には国立西洋美術館長に就任、同57年まで務めた。同62年勲二等瑞宝章受章。

坂本光聡

没年月日:1995/10/22

 真言三宝宗管長、清荒神清澄寺法王で鉄斎研究家の坂本光聡は10月22日午前9時15分、心不全のため自宅である兵庫県宝塚市米谷清シIの清荒神清澄寺で死去した。享年68。昭和2(1927)年10月22日清澄寺内に藤本元一の長男として生まれる。本名清一。同15年12月清澄寺第37世法主、坂本光浄に随い得度し、坂本家に入籍して坂本光聡と改名する。同22年種智院大学を卒業。同27年真言三宝宗宗務長・清澄寺副住職に就任する。先代法主が傾倒した富岡鉄斎の研究と作品収集を続け、同40年『世界の鉄斎』を刊行。同44年12月研究誌「鉄斎研究」を創刊した。同45年清澄寺境内に鉄斎作品の収蔵庫「蓬莱庫」を築造し、同50年4月には同じく境内に鉄斎美術館「聖光殿」を開館。同45年より、日本各地で鉄斎展を開催し、その作品紹介に努め、同61年には中国巡回「鉄斎展」を開催するのに伴い、上海、北京に赴いた。また、同63年ベルギーで開催された「ユーロパリアジャパン ’89」に参加して鉄斎展を開くなど、圏内にとどまらず、国際的に鉄斎作品の紹介を行った。陶芸にも造詣深く、荒川豊蔵の作品収集でも知られる。

中根金作

没年月日:1995/03/01

読み:ナカネ, キンサク*、 Nakane, Kinsaku*  大阪芸術大学長、浪速短大学長を務めた造園学者の中根金作は3月1日午後6時5分、心室粗動のため、京都府城陽市の病院で死去した。享年77。大正6(1917)年8月28日、静岡県磐田市下岡田170番地に生まれる。昭和10(1935)年静岡県立浜松工業学校図案科を卒業。同13年旧制東京高等造園学校(現・東京農業大学)造園学科に入学し、同17年11月戦時特令により同校を卒業する。同18年8月より京都府園芸技手として勤務するが同19年6月より21年2月まで戦地に赴く。同21年11月より技師として京都府に勤務。同27年10月京都府文化財保護課記念物係長となる。同37年同府教育委員会文化財保護課課長補佐となるが、同40年4月に依願退職し、京都大学工学部建築協会内日本建築庭園研究室主幹となる。翌41年9月中根庭園研究所を開設して日本庭園研究に従事するとともに、同44年4月より大阪芸術大学建築科教授として教鞭を取った。同46年4月より同大学環境計画学科長、同62年12月より同大学学長となり、翌63年5月からは浪速短期大学学長を兼務した。主要作品に京都の城南宮楽水苑庭園他神苑、足立美術館庭園、シンガポールのジュロン日本庭園、アメリカのジミー・カーター大統領センター内日本庭園、アメリカのボストン美術館日本庭園天心園などがあり、昭和49年に開催されたウィーン万博やドイツ連邦庭園博覧会などに日本庭園を出品した。日本造園学会評議員、日本造園修景協会理事、京都府文化財保護基金調査委員等をもっとめ、伝統的日本庭園の研究、保存に尽力した。

有光次郎

没年月日:1995/02/22

読み:アリミツ, ジロウ*、 Arimitsu, Jiro*  元文部次官、前日本芸術院長の有光次郎は2月22日午後O時10分、脳こうそくのため東京都東久留米市の老人ホームで死去した。享年91。明治36(1903)年12月15日高知県高知市に生まれる。東京大学法学部を卒業して昭和27年に文部省に入り、戦後の混乱期に教科書局長、47年に文部事務次官に就任。6・3制を定めた教育基本法、学校教育法の起草をめぐりアメリカ側との折衝にあたるなど日本の教育・文化の振興に尽力した。同48年に退官したのち、社会教育協会理事長、映倫委員長、国語審議会会長、日本棋院理事長などを歴任したほか、東京家政大学長、武蔵野美術大学長などもつとめ、同54年から平成2年まで10年余にわたり日本芸術院院長として日本の芸術・文化の振興に尽くした。著書に『宗教行政』『戦後教育と私』『有光次郎日記」などがある。

廣田熙

没年月日:1995/02/06

 古美術販売業壷中居店主の廣田熙は2月6日午前7時40分心不全のため東京都目黒区碑文谷の自宅で死去した。享年85。明治43年6月11日富山県富山市に生まれる。富山県立富山商業学校を卒業し、昭和13(1938)年叔父広田不孤斎が合資会社壷中居を設立するとその代表社員となった。同24年株式会社壷中居を設立して代表取締役社長に就任。古陶磁を主な対象とし、同25年日本陶磁協会理事となるなど、陶磁器研究にも寄与するところがあった。同52年壷中居取締役店主となる。同24年東京美術倶楽部取締役、東京美術商組合理事となり、同組合顧問をもつとめた。

安宅英一

没年月日:1994/05/07

 元安宅産業会長で、世界有数の東洋陶磁コレクション「安宅コレクション」を収集した安宅英ーは、5月7日午後1時、老衰のため東京都港区の病院で死去した。享年93。明治34(1901)年1月1日、安宅産業の前身である安宅商会の創立者弥吉の長男として香港に生まれる。大正13(1924)年、神戸高等商業学校を卒業して翌年安宅商会に入社し、向年より昭和9(1934)年まで同商会取締役をつとめる。戦後、同20年より22年まで安宅産業株式会社取締役会長をつとめた後、同30年より40年まで再び同役にあり、同40年相談役社賓に退く。この問、同26年に安宅産業株式会社が美術品収集を開始した際、その収集責任者となり、以後、同社が経営危機に陥り美術品収集を停止する同50年までの聞に東洋陶磁を中心とする総数約1000点、うち国宝、重要文化財十数点を含む「安宅コレクション」を築ぎ上げた。同コレクションの東洋陶磁は同52年、安宅産業株式会社が伊藤忠商事株式会社に合併されるのに伴い、エーシー産業株式会社に移管されたが、同57年に住友グループ21社によって大阪市に寄贈され、これを受けて大阪市立東洋陶磁美術館が設立された。美術の他、音楽活動の支援も行い、同12年以降、東京芸術大学音楽学部に奨学金「安宅賞」を拠出して現在に至っている。

油井一二

没年月日:1992/07/21

読み:ユイ, イチジ*、 Yui, Ichiji*  美術年鑑社社長で美術品蒐集家でもあった油井一二は、7月21日午後7月18分、肝不全のため東京都渋谷区の東海大学病院で死去した。享年82。明治42(1909)年10月30日、長野県北佐久郡に生まれる。大正13(1924)年三井尋常小学校高等科を卒業し、家業の自作農を継ぐが、昭和3(1928)年肋膜炎を患い、療養中に上京を決意。同年5月に上京して神東電業社を経営する義兄のもとで働きつつ、電気学校の夜間部で学んだ。同6年末、東亜美術協会に絵画の出張販売員として入社。同7年釜山、京城などに出張するが、同年4月、仕事に行き詰りを感じて東亜美術協会を退社する。その後、証券会社等へ転職を試みたのち、同8年1月、東洋美術協会に外交員として入社し再び絵画販売に従事する。同9年6月、荒井辰之助、清水栄一郎と共同出資し、日東美術協会を創立。以後、中国東北部、朝鮮半島、台湾等まで販路を広めた。同12年より14年まで、日中戦争に従軍し、同14年10月、日東美術協会を独力で再開。同16年11月、東京・上野広小路に美術店を開いた。戦後、同22年、肖像画の制作依頼を業務の一環として始めた。同23年、山田正道から「美術年鑑」復刊の相談を受け出資。同25年鉄販売、同28年人造米製造などを試みるが、同29年武者小路実篤の助言を得て再び絵画販売を始め、現代日本画を中心に販路を開いて成功をおさめた。同40年「美術年鑑」の権利を創刊者山田正道から買いとり、同年株式会社美術年鑑社を設立してその代表取締役社長となった。同46年「新美術新聞」を創刊。出版、絵画販売の一方で蒐集した作品の一部は郷里佐久市に寄贈し、同58年に開館した佐久市立近代美術館は、約780点の油井コレクションを母体としている。同館には平成2年に油井一二記念館が併設され、没後の同5年7月、同館で「開館10周年記念展「近代日本美術の流れと油井コレクション」が開催された。著書に『美の宝庫』(昭和51年、美術年鑑社)、自伝『風呂敷画商一代記』(同63年)、続風呂敷画商一代記『片目の達磨』(平成2年)等がある。

木村東介

没年月日:1992/03/11

読み:キムラ, トウスケ*、 Kimura, Tosuke*  美術品蒐集家で古美術店「羽黒洞」の創立者であった木村東介は3月11日午前0時50分、心不全のため東京都文京区の自宅で死去した。享年90。明治34(1901)年4月8日、山形県米沢市に生まれる。米沢商業学校を中退して上京し、一時憲政公論社に入社して侠客となったが、のち美術商を志し、昭和7(1932)年、美術商「羽黒洞」を創立する。同11年東京・湯島に店舗を開く。柳宗悦、吉川英治ら広く文化人と交流し、肉筆浮世絵、大津絵、泥絵のほか、幕末、明治初期の洋画を蒐集。また、長谷川利行、斎藤真一ら異色の画家たちを無名時代から支援した。著書に『奥州げてとランカイ屋』『女坂界隈』『浮世絵渡世』等がある。

石黒孝次郎

没年月日:1992/03/02

読み:イシグロ, コウジロウ*、 Ishiguro, Kojiro*  古美術品蒐集家で古美術商でもあった石黒孝次郎は3月2日午前6時14分、心筋こうそくのため東京都港区の東京都済生会中央病院で死去した。享年75。大正5(1916)年3月28日東京に生まれる。昭和16(1941)年京都帝国大学法学部を卒業して三井物産に入社。応召を経て戦後の同21年西洋古美術商「三日月」を創立した。同33年高級フランス料理店「クレッセント」を東京芝に開き、同店5階の陳列室で自らの蒐集品を公開した。中近東、オリエントの古美術品を中心に蒐集し、『古く美しきもの2-石黒夫妻コレクション』(昭和62年)等の著書がある。

井口安弘

没年月日:1990/11/12

 20数年間にわたってアメリカ・マサチューセッツ州ボストンのボストン美術館で美術品の保存修復に携わってきた同美術館東洋部保存修復室長井口安弘は、現地時間の11月12日午前4時、心臓マヒのため、マサチューセッツ州ブルックラインの自宅で死去した。享年59。昭和6(1931)年3月6日兵庫県尼崎市に生まれる。14才で京都に出て、おじの山川文吾に表具と文化財修理を学ぶ。15年の修業ののち、昭和36年独立。この間、平泉中尊寺の中尊寺経をはじめ、高山寺、南禅寺、本願寺、知恩院、三井寺、高野山、宗像神社、太宰府天満宮など多くの社寺の国宝、重文級の絵画、書籍類の修復に携わり、表装装潢師連盟に所属した。昭和38年ボストン美術館東洋部長の富田幸次郎、ロバート・トリート・ペイン・ジュニアの招請により、同美術館東洋部の保存修復室に室長(conservator)として就任。以後、没時まで20数年にわたって、ボストン美術館の東洋美術品の保存修理にすぐれた手腕を発揮した。昭和47年、ボストン美術館がその所蔵品を日本でも公開するようになって以降、それら優品に施された完璧ともいえる保存の手腕は、広く日本でも知られるようになり、63年宇野宗佑外務大臣から外務大臣表彰を受けている。この間、49年には、アメリカ芸術奨励基金The National Endowment for Artsの許可を得て、台湾の故宮博物院で絵画の伝統的な修復と表装の技術を研究した。近年では、同美術館に収蔵されていた北斎や広重の浮世絵版木の確認と、その日本での展覧会開催にも大きく貢献した。自己に妥協を許さない厳しい仕事と経験に基づく幅広いアドバイスは、多くの人々の尊敬を集め、彼が好んだ民謡とユーモアのセンスは、多くの友人を生んだ。当研究所の研究員をはじめ、アメリカに渡った日本の研究者で彼の厚誼を受けた者も多い。ボストン美術館では平成2年秋、東洋部創設100周年を迎えて大規模な記念展が開催され、また、翌3年には日本でボストン美術館やフェノロサらを紹介するテレビ番組が数度にわたって放映された。その中で彼の仕事もたびたび紹介されたが、そうした海を渡った優品を支えてきた彼の急逝に、多くの人々の哀悼が寄せられた。

大河内信威

没年月日:1990/07/12

 日本陶磁協会理事長、茶の湯同好会・古今サロン会副会長の大河内信威は、7月12日心不全のため東京都渋谷区のセントラル病院で死去した。享年87。明治35(1902)年7月24日東京・下谷区に生まれる。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。父正敏は旧大多喜藩主大河内正質の長男で、東京帝国大学工学部教授ののち、戦前に新興コンツェルン理研産業団を主宰した実業家でもあり、また陶磁器への造詣が深く『柿右衛門と色鍋島』などの著書でも知られる。旧制浦和高等学校卒。戦前は大多喜天然瓦斯を経て、理研産業団各社の専務などをつとめ、戦後は理研科学映画専務ののち、東邦物産嘱託となった。この間。陶磁史、茶道史の研究を深め、なかでも楽茶碗に関しては父子代々のコレクターでもあり、論考、著書を通じ楽焼研究に大きく寄与した。また、実験茶会、陶芸教室などをおこし、自ら作陶もした。その交遊も多彩で、美術家では岩田藤七、近藤悠三、荒川豊蔵、中川一政らがあった。著書に『茶碗百選』(平凡社)、『古九谷』(日本陶磁協会)、『楽茶碗』(河原書店)、『茶の湯古今春秋』等がある。

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