本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,961 件)





宮野秋彦

没年月日:2016/12/07

読み:みやのあきひこ、 Miyano, Akihiko*  名古屋工業大学名誉教授で建築研究者の宮野秋彦は12月7日に死去した。享年93。 1923(大正12)年10月15日に名古屋で生まれ、1945(昭和22)年に東京工業大学工学部建築学科を卒業した。東京工業大学の助手、助教授をつとめた後、名古屋工業大学に異動し、助教授、教授をつとめた。この間、建築材料中の熱や湿気の移動に関する研究を行い、「建築物に於ける温度変動に関する研究」で62年2月12日に東京工業大学から工学博士の学位を受けた。また83年~84年には日本建築学会の副会長をつとめた。名古屋工業大学退官後は福山大学の教授となり、その後、名古屋工業大学名誉教授、日本建築学会名誉会員、中国文物学会名誉理事となる。 宮野は名古屋工業大学在職中に、多くの文化財が伝統的な倉の中で保存されてきたことに着目して、文化庁文化財保護部建造物課(当時)の文化財調査官であった半澤重信とともに全国の倉の環境調査を行い、成果を日本建築学会の大会などで長年発表し続けた。やがて研究対象を屋台蔵や遺構などにまで広げ、斉藤平蔵亡き後、建築環境工学の第一人者として、文化財における温湿度環境の整備に欠かせない専門家となった。特に86年から1990(平成2)年にかけて行われた中尊寺金色堂覆堂の改修工事では、金色堂が入るガラスケース内の新しい空調システム設計について中心的な役割を果たした。それまでの空調システムは、空調空気を金色堂のある室内に吹き出す方法であったが、風が表面の境界層を吹き飛ばして金色堂の表面を乾燥させることを避けるため、宮野は空気を強制的に動かさないで湿度を一定に保つことを提唱した。宮野の提言を受けて、改修工事ではガラスケース全体の断熱を高め、ガラス以外の壁面には調湿ボードを用い、湿度が一定値を越えた時だけ入り口に置いた除湿器が作動するシステムを採用した。除湿器だけを用いて加湿器を用いないことにしたのは、ガラスケース内で測定された長年の記録を宮野が解析して、中尊寺の環境ではガラスケース内の湿度が上がることはあっても、乾燥しすぎることはないことがわかったからである。修理委員会に於ける宮野の献身的な協力もあって、改修工事後は67%RH前後の相対湿度に、金色堂のあるガラスケース内は保たれている。 宮野はその後も、多くの文化財の保存について協力を続けた。岩手県立博物館におけるコンクリート屋根スラブ内の水分挙動を丹念に調べ、長期にわたり館内がアルカリ性性状になっていた原因を突き止め解決した。また木質系調湿材、石質系調湿材に加え土質系調湿材を対象に、調湿建材によって環境湿度の調節を図る取り組みは、博物館に加えて、対象を社寺(薬師寺玄奘三蔵院伽藍大唐西域壁画殿、静岡県指定文化財可睡斎護国塔ほか)、城郭(熊本城「細川家舟屋形」)、歴史的近代建造物(神山復生記念館)、整備事業の復原建物(富山市北代縄文広場)にも広げ、文化財の保存環境制御に多大な功績を残した。 主な著書として『建物の断熱と防湿』(学芸出版社、1981年)、『生きている地下住居』(彰国社、1988年、共著)、『屋根の知識』(日本屋根経済新聞社、1994年、共著・監修)、『屋根の物理学』(日本屋根経済新聞社、2000年)、『新版 屋根の知識』(日本屋根経済新聞社、2003年、共著・監修)がある。1972年日本建築学会賞(論文)「建築物における熱ならびに湿気伝播に関する一連の研究」、2001年勲三等瑞宝章。

三笠宮崇仁親王

没年月日:2016/10/27

読み:みかさのみやたかひとしんのう  オリエント学者で、日本オリエント学会名誉会長、中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁、日本赤十字社名誉副総裁、日本フォークダンス連盟名誉総裁などを務めた三笠宮崇仁親王は、東京都中央区の聖路加国際病院にて、10月27日に心不全のため薨去した。享年100。 1915(大正4)年12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇子として、東京の青山御所に生まれる。昭和天皇の末弟にあたる。学習院初等科・中等科、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校、陸軍大学校卒業後、1943(昭和18)年に支那派遣軍参謀として南京に派遣された。44年には大本営参謀となり、陸軍少佐として終戦を迎えた。 終戦後の47年、戦争への反省から歴史を学ぶことを決意し、東京大学文学部史学科の研究生になる。古代オリエント史を専攻し、その後、歴史学者として活躍し、数多くの論文や著書、翻訳書などを発表した。 54年には日本オリエント学会の創設に尽力し、54年から76年までは初代会長、76年から1996(平成8)年までは名誉会長を務め、日本の古代オリエント史研究をながらく牽引した。 55年には、皇族としてはじめて大学の講師になり、東京女子大学の教壇に立つ。大学への通勤は国鉄を利用し、昼食は必ず学生たちにまじり学生食堂で一杯20円のキツネうどんを食べるなど、三笠宮崇仁親王の庶民的で気さくな人柄を伝える逸話が数多く残されている。東京女子大学のほか、北海道大学や静岡大学、青山学院大学や天理大学、拓殖大学、東京芸術大学でも、古代オリエント史の講義を担当した。また、テレビやラジオにも積極的に出演し、古代オリエント史の普及と啓蒙につとめた。 56年に上梓した処女作『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社)は、石原慎太郎の『太陽の季節』(新潮社)とともに56年を代表するベストセラーとなった。 また同年、戦後初の本格的な海外調査団の1つである『東京大学イラク・イラン遺跡調査団』の立ち上げに関与し、イラクのテル・サラサート遺跡において同調査団による発掘調査開始を記念した鋤入れ式にも参加している。 日本オリエント学会創立10周年の記念事業として、64年から66年にかけて行われたイスラエルのテル・ゼロ―ル遺跡の発掘調査に関しても、オリエント学会の会長として寄付金集めなどに尽力した。 79年には、三笠宮崇仁親王の発意のもと、出光佐三や佐藤栄作、石坂泰三が協力をし、日本最初の古代オリエント研究機関として中近東文化センターが東京の三鷹に創設された。三笠宮崇仁親王殿下が総裁、名誉総裁を務めた中近東文化センターは、86年以降、トルコのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を実施し、現在では、世界的な研究機関となっている。 著作には、『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社、1956年)、『乾燥の国―イラン・イラクの旅―』(平凡社、1957年)、『日本のあけぼの―建国と紀元をめぐって―』(光文社、1959年)、『ここに歴史はじまる(大世界史第一巻)』(文藝春秋、1967年)、『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)、『古代エジプトの神々―その誕生と発展―』(日本放送出版協会、1988年)、『文明のあけぼの―古代オリエントの世界―』(集英社、2002年)、『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)など多数。

井出洋一郎

没年月日:2016/10/19

読み:いでよういちろう、 Ide, Yoichiro*  19世紀フランス絵画を専門とする美術史研究者で、美術評論家の井出洋一郎は、10月19日に胆管がんのため死去した。享年67。 1949(昭和24)年5月8日、群馬県高崎市昭和町に生まれる。上智大学外国語学部フランス語学科を卒業後、早稲田大学大学院文学研究科に進学し、78年に同大学院博士課程を満期退学(西洋美術史専攻)。同年、山梨県立美術館学芸員に採用される。在職中、同美術館のミレー・レクションを担当した。87年に退職し、私立の村内美術館(東京都八王子市)の顧問を務めるかたわら美術評論家として活動した。また、教育面では、非常勤講師として上智大学で西洋美術史を担当し、跡見学園女子大学、武蔵野美術大学、実践女子大学で博物館学等を担当した。1992(平成4)年に東京都青梅市に開設された明星大学日本文化学部生活芸術学科の助教授として勤務。その後、東京都八王子市の東京純心女子大学芸術文化学科教授となる。2009年に府中市美術館長、15年から翌年まで群馬県立近代美術館長を務めた。 その生涯において数多くの西洋美術史、欧米の美術館をめぐる啓蒙書、ガイドブックを執筆したが、本領は山梨県立美術館学芸員の時代から取り組んでいたジャン・フランソア・ミレーに関する研究であった。その成果は、ミレーを中心とする各種展覧会の企画監修に生かされたと同時に、長年にわたり取り組んでいたアルフレッド・サンスィエ著『ミレーの生涯』(角川ソフィア文庫、2014年)の翻訳監修と、『「農民画家」ミレーの真実』(NHK出版新書、2014年)に結実した。なお、主要な著作は下記のとおりである。主要著書:『西洋名画の謎-ミステリー・ギャラリー』(小学館、1991年)『美術館学入門』(明星大学出版部、1993年)(新版、2005年)『バルビゾン派』(世界美術双書)(東信堂、1993年)『美術の森の散歩道-マイ・ギャラリートーク』(小学館ライブラリー、1994年)『マイ・ギャラリートーク 美楽極楽のこころ』(小学館ライブラリー、1998年)『フランス美術鑑賞紀行パリ編(美術の旅ガイド)』(美術出版社、1998年)『フランス美術鑑賞紀行パリ近郊と南仏編(美術の旅ガイド)』(美術出版社、1998年)『世界の博物館 謎の収集』(プレイブックス・インテリジェンス)(青春出版社、2005年)『カラー版 聖書の名画を楽しく読む』(中経出版、2007年)『カラー版 ギリシャ神話の名画を楽しく読む』(中経出版、2007年)『絵画の見方・楽しみ方-巨匠の代表作でわかる』(日本文芸社、2008年)『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)『ギリシャ神話の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2011年)『印象派の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2012年)『ルネサンスの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2013年)『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2014年)『「農民画家」ミレーの真実』(NHK出版新書、2014年)アルフレッド・サンスィエ著、井出洋一郎監訳『ミレーの生涯』(角川ソフィア文庫、2014年)『名画のネコはなんでも知っている』(エクスナレッジ、2015年)『知れば知るほど面白い聖書の“名画”』(KADOKAWA、2016年)

加藤九祚

没年月日:2016/09/11

読み:かとうきゅうぞう  国立民族学博物館名誉教授で人類学者の加藤九祚は、仏教遺跡の発掘調査で滞在していたウズベキスタンの病院で9月11日(日本時間9月12日)死去した。享年94。シルクロードに憧れ、シルクロードを遊歴し、ついに生涯発掘の場をアムダリヤ河畔に見いだし、その現場で生涯を終えた学究の歩みは、波瀾の歴史を背負う苦難の道そのものであった。 1922(大正11)年5月18日、韓国、慶尚北道漆谷(テルコク)郡若木面(ヤンモクミヨン)に生まれる。1932(昭和7)年、宇部で働く兄をたよって来日。山口県宇部市立宇部小学校に入学、韓国姓李を加藤に改称。その後、乙種長門工業学校を経て39年に宇部鉄工所に入社する。太平洋戦争が始まった41年に横浜に移住、横浜第一中学校で高等学校入学者検定試験を受け合格。42年、上智大学予科に入学し、ドイツ語を学び、翌43年に予科を仮卒業する。44年、仙台の工兵第二連隊に志願入隊し、陸軍工兵学校(松戸)を経て工兵見習士官となり、関東軍の第101連隊に配属され、ついで第139師団の工兵連隊に転属する。45年、満州東南部敦化飛行場で武装解除を受け、ソ連軍の捕虜としてシベリアの収容所を転々とする。50年に明優丸で舞鶴に上陸、帰国をはたす。翌51年に上智大学文学部ドイツ文学科に復学し、『リルケ詩論』を学ぶ。53年、卒論『ロシアにおけるゲーテ像』(ドイツ語)を書き上げ卒業。恩師で神学者の小林珍雄の紹介によって平凡社に入社し、『世界百科辞典』などの編集に関わる一方で『シベリアの歴史』(紀伊國屋新書、1963年)や訳書『西域の秘宝を求めて』(新時代社、1969年)を出版した。71年に平凡社を退職するが、その直前に出版された岡正雄の編になるネフスキーの論集『月と不死』(東洋文庫・185)の末尾に「ニコライ・ネフスキーの生涯」という長大な解説を付した。この解説が5年後熟成し、『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』(河出書房、1976年)として結実し、大佛次郎賞に輝いた。退職したあと念願のシルクロードの旅にでる。旅の模様は『ユーラシア文明の旅』(新潮選書、1974年)に記された。この旅の途次に出合った梅棹忠夫に招かれて75年に国立民俗博物館教授に就任し、ソ連とモンゴルの民俗学標本収集と研究に従事する。83年に論考「北東アジア民族学史の研究―江戸時代日本人の観察記録を中心として」によって大阪大学学術博士号を取得する。86年、国立民族博物館を定年退職した後、相愛大学人文学部教授に就任し、ついで88年、創価大学文学部教授となり、創価大学シルクロード学術調査団を組織し、同学シルクロード研究センター長に就任する。その間にウズベキスタンとキルギスで発掘調査をおこない、日本の中央アジアにおける発掘調査活動の基盤をつくる。1995(平成7)年に『中央アジア歴史群像』(岩波新書)を上梓。98年に創価大学を退職すると、自費でウズベキスタン科学アカデミー考古学研究所と共同でテルメズ郊外のカラテパの仏教遺跡の発掘に着手する。意気に賛同した奈良薬師寺が「テルメズ仏教跡発掘基金」を創設して支援をした。この支援は逝去の日を迎えるまでつづけられた。 99年、南方熊楠賞を受賞。2001年、加藤九祚が一人で編み上げる年報『アイハヌム』(東海大学出版)を創刊する。ロシアや中央アジアに関する発掘活動の成果や活躍する考古学者の自伝、希少な論文・書籍を自在に翻訳紹介するこの活動は編集者の退職によって幕を下ろす12年までつづいた。その間09年に、この活動は「アカデミズムの外で達成された学問的業績」として高く評価されパピルス賞が贈られた。加藤九祚が古曳正夫・前田耕作とともに「オクサス学会」を創設したのもこの年である。「自由な発想と囚われない言葉、憶見や仮説の交錯からこれまでにはないなにものかが泡立ち始める思考の活動の場を生みだす」ことが狙いであった。10年、国際シンポジウム「ウズベキスタンの古代文明及び仏教―日本文化の源流を尋ねて」を東洋大学と奈良大学の協力をえて東京と奈良で開催する。同年、「ウズベキスタンにおける考古学を通じた学術交流の促進」によって外務大臣表彰を受けた。11年にはエドヴァルド・ルトヴェラゼの雄作『考古学が語るシルクロード史』(原題:中央アジアの文明・国家・文化)を翻訳出版(平凡社)、同年、瑞宝小綬章を受ける。書き下ろし『シルクロードの古代都市―アムダリヤ遺跡の旅』(岩波新書、2013年)が最後の著作となった。 16年9月3日、立正大学ウズベキスタン学術調査隊とともに終生愛してやまなかったカラテパへ入ったのが最後の旅となった。「オクサス学会紀要」3号(2017年6月)はその冒頭に、「労働者であり、学究であり、思索の人であり、行動の人であり、夢見る人であり、文筆の人であり、大地を掘り下げる人であり、人間をこよなく愛する人であり、酒盃に詩の言葉を浮かべた人であり、ひたすら人びとに愛された人」加藤九祚に追悼の言葉を捧げている。

朝日晃

没年月日:2016/08/31

読み:あさひあきら、 Asahi, Akira*  佐伯祐三、松本竣介研究で知られた美術評論家で、広島市現代美術館副館長だった朝日晃は、8月31日に肺炎のため、東京都内の病院で死去した。享年88。 1928(昭和3)年2月11日に広島市に生まれる。広島市の旧制修道中学校を卒業後、広島県立師範学校に進学して49年3月に卒業。翌年、早稲田大学文学部芸術専修美術科に学び、52年3月に同大学を卒業。54年に神奈川県立近代美術館嘱託に採用される。61年に同美術館学芸員となり、69年に主任学芸員となる。75年より新築された東京都美術館の事業課長に転ずる。同美術館では、「戦前の前衛 二科賞、樗牛賞の作家とその周辺」(1976年)、「靉光・松本竣介そして戦後美術の出発展」(77年)、「写真と絵画 その相似と相異」(1978年)など、日本の近現代美術に関して問題提起するような意欲的な自主企画展を指導する一方、「描かれたニューヨーク展 20世紀のアメリカ美術」(1981年)、「今日のイギリス美術展」(1982年)などの国際展も率先して開催した。85年、広島市現代美術館開設準備事務局長となり、88年より同美術館開設準備室長となる。1989(平成元)年5月開館の同美術館の副館長に就任、翌年3月に退職した。以後、美術評論家として活動した。 監修にあたった佐伯祐三、松本竣介に関する画集等が多くあるが、他に主要な編著作は下記の通りである。『松本竣介』(日動出版部、1977年)『永遠の画家 佐伯祐三』(講談社、1978年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料1』(東出版、1979年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料2』(東出版、1980年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料3』(東出版、1980年)『佐伯祐三-パリに燃えた青春』(NHKブックス、1980年)編集解説松本竣介文集『人間風景』(中央公論美術出版、1982年)『絵を読む 人間風景の画家たち』(大日本絵画、1989年)『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画、1994年)野見山暁治共著『佐伯祐三のパリ』(新潮社、1998年)『そして、佐伯祐三のパリ』(大日本絵画、2001年)

林紀一郎

没年月日:2016/08/25

読み:はやしきいちろう  美術評論家で、新潟市美術館長、池田20世紀美術館長を歴任した林紀一郎は、心不全のため8月25日死去した。享年86。 1930(昭和5)年4月23日、鹿児島県出水群三笠村(現、阿久根市)に生まれる(本名林喜一郎)。幼少年期を中国北東部(当時の満州国)に過すごし、44年、牡丹江中学校2年時に帰国。53年、上智大学文学部英文科を卒業。57年から60年まで、なびす画廊(中央区銀座1丁目)にて個展を開催、また58年から60年までモダンアート展に出品。60年代から美術評論などの執筆活動をはじめ、雑誌等に幅広く寄稿をつづけた。84年4月、新潟市美術館準備室長に就任。翌年4月、同美術館開館に伴い館長に就任。1995(平成7)年3月まで在任し、同年4月から2009年3月まで同美術館顧問、また95年4月から05年3月まで、同美術館資料選定委員を務めた。同美術館在任中は、初代館長として国内外の近現代美術、郷土出身美術家の作品収集につとめ、コレクションの形成に尽力し、また後進の育成につとめた。92年から05年まで、公益財団法人池田20世紀美術館(静岡県伊東市)の館長を務め、在任中52回にのぼる企画展を開催した。幅広い美術家との日常的な交友をもとに、各作家の人柄や個性を視野に入れ、さらに創作をめぐる作品論を展開するなど、平易に論評する軽妙なスタイルで、晩年まで評論活動をつづけた。監修、解説等にあたった主要な著作は下記の通りである。分担執筆『加山又造 装飾の世界』(京都書院、1979年)共著『世界版画美術全集 第8巻 エルンスト/ミロ』(講談社、1981年)共著『現代美術入門』(美術出版社、1986年)瀧口修造共訳『アラカワ/マドリン・H・ギンズ 「意味のメカニズム」』(1979年に国立国際美術館で開催された「荒川修作の世界・意味のメカニズム」展カタログに掲載)『もの書き・恥かき・半世紀 -美の領分・交友録-』(自家出版、2014年)『続 もの書き・恥かき・半世紀 -海外作家編-』(林幸子発行出版、2017年)

吉井長三

没年月日:2016/08/23

読み:よしいちょうぞう、 Yoshii, Chozo*  吉井画廊会長、清春白樺美術館理事の吉井長三は8月23日、肺炎のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年4月29日、広島県尾道市に生まれる。本名長蔵(ちょうぞう)。旧制尾道中学在学中、洋画家小林和作に絵を学ぶ。画家を志して東京美術学校入学を目指すが、父親の反対により、48年中央大学法学部に入学。同年、同校予科在学中、絵画修学の夢を捨てきれず、東京美術学校の授業に参加し、伊藤廉にデッサンを、西田正明に人体美学を学ぶ。53年に東京国立博物館で開催された「ルオー展」を見て深い感銘を受ける。同年中央大学法学部を卒業し三井鉱山に入社するが、2年目に退社して弥生画廊に勤める。海外作品を扱う画廊が少なかった当時、フランス絵画を日本にもたらすことに意義を見出し、64年、小説家田村泰次郎の支援を得てパリに渡り、博物館や画廊を巡る。翌年、株式会社吉井画廊を東京銀座に設立。開廊記念展は「テレスコビッチ展」であった。その後、ジャン・プニー、ベルナール・カトラン、アンドレ・ドラン、アントニ・クラーベ、サルバドール・ダリらの展覧会を開催する一方、青山義雄、中川一政、原精一、梅原龍三郎ら日本の現代洋画の展覧会を開催。71年、ルオーの54点の連作「パッシオン」を購入して、同年ルオー生誕百年記念展に出品し、国内外で注目される。73年パリ支店を開設して富岡鉄斎、浦上玉堂ら文人画を紹介し、75年には現代作家展として東山魁夷展を開催。フランスではまだ良く知られていなかった日本美術を紹介して話題を呼んだ。日仏相互の芸術紹介のみならず、芸術家の国際交流の場としての芸術村を構想し、80年山梨県北杜市に清春芸術村を開設して、エコール・ド・パリの画家たちが住んだラ・リューシュを模したアトリエを建てて国内外の芸術家の制作の場とした。また、79年に武者小路実篤から1917(大正6)年に計画した白樺美術館の構想について聞いたのを契機として、83年清春白樺美術館を設立し、白樺派旧蔵の「ロダン夫人胸像」のほか、白樺派の作家たちの作品、原稿、書簡等を所蔵・公開した。1990(平成2)年ニューヨーク支店を開設。99年、郷里尾道の景観を守る目的で尾道白樺美術館を開設。同館は2007年に閉館となったが、翌年、尾道大学美術館として再び開館して現在に至っている。11年清春芸術村に安藤忠雄設計による「光の美術館クラーベ・ギャラリー」を開館。画商である一方で、小林秀雄、井伏鱒二、谷川徹三、今日出海、梅原龍三郎、奥村土牛らとの交遊でも知られる文化人でもあった。フランス現代美術を日本に紹介する一方、日本美術をフランスに紹介する画廊経営者として先駆的な存在であり、99年レジオン・ドヌール・オフィシエ勲章を、07年にはコマンドゥール勲章を受章。著書に『銀座画廊物語―日本一の画商人生』(角川書店、2008年)がある。

菊池智

没年月日:2016/08/20

読み:きくちとも  公益財団法人菊池美術財団理事長であり現代陶芸のコレクターであった菊池智は8月20日、肺炎のため死去した。享年93。 1923(大正12)年1月18日、東京築地明石町に生まれ、同地の外国人租借地で幼少期を過ごす。聖心女子大学の前身である聖心女子高等専門学校に進み、国文科を卒業する。陶芸作品との出会いは、第二次世界大戦中、実業家であった父・菊池寛実所有の炭鉱があった茨城県高萩市に疎開した折りであった。寛実は、徴用で来ていた瀬戸の陶工のために登り窯をつくる。智は陶器誕生の現場を見て「土はすべての始まるところであり、また、いつか帰っていくところである。」と語り、土からつくり出される陶器に感銘を受け、1950(昭和25)年代後半より陶芸作品の収集を始める。茶道を学び、古美術や古陶磁の収集から始めたが、次第に現代の作品へと移行していく。 74年よりホテル・ニューオータニのロビー階に内にギャラリー『現代陶芸寛土里(かんどり)』をオープンさせた。東京藝術大学教授であった藤本能道の個展で幕を開けたギャラリーは、その後東京藝術大学をはじめとする若い陶芸作家の発表の場となった。79年、ニューヨークにある百貨店ブルーミング・デールスに寛土里が出店したことをきっかけに、83年2月10日から2ヶ月間、スミソニアン自然史博物館トーマス・M・エバンス・ギャラリーで、菊池智コレクションによる「Japanese Ceramics Today」展を開催する。日本各地の作家を訪ね作品を購入するなど、若手作家を多数紹介し、出品作家100人、作品数およそ300点に及ぶ展覧会となり、好評を博した。また、スミソニアン自然史博物館の展示デザイナーであった、リチャード・モリナロリと出会い、展示デザインが作品鑑賞に与える影響に着眼する。美術館の前身となる菊池ゲストハウスで、85年鈴木藏個展「流旅転生」、1990(平成2)年楽吉左衞門個展「天問」、92年藤本能道個展「陶火窯焔」を開催した際もモリナロリに展示デザインを依頼した。その後、「Japanese Ceramics Today」展はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にも巡回し、日本の現代陶芸を欧米に広く紹介した。 2003年には、現代陶芸の紹介を目的として、東京都虎ノ門に「菊池寛実記念 智美術館」を開館。公益財団法人菊池美術財団の理事長を務めた。敷地内には、西久保ビル(2003年竣工)と大正時代に建てられた西洋館(国の登録文化財)、父・寛実のための持仏堂と和風の蔵がある。隔年で開催する陶芸の公募展「菊池ビエンナーレ」を主幹事業と位置づけ、陶芸作家の育成にも力をいれる。95年からは京葉ガス株式会社代表取締役会長も務めた。

坂本五郎

没年月日:2016/08/15

読み:さかもとごろう、 Sakamoto, Goro*  古美術店「不言堂」創設者であり、古美術品の蒐集家としても著名な坂本五郎は、8月15日、脳梗塞により死去した。享年92。 1923(大正12)年8月31日、横浜市磯子区根岸に生まれた。父久蔵は横浜港の税関吏。十人兄弟の五番目なので五郎と名付けられた。生まれた翌日9月1日に関東大震災が発生、母キクは産後の身体にもかかわらず五郎を抱きかかえ、崩壊する家の中から子供たちと怪我を負った夫を引出し助けたという。五郎7歳の頃に父が他界し、坂本一家は八王子に移った。1931(昭和6)年、八王子市立第二尋常小学校に入学、学業のかたわら母の行商を手伝い、商いの心得をも学んだ。小学校卒業後は横浜の乾物問屋に奉公、第二次大戦をはさみ復員後は家族を養うため、古着商をはじめ様々な商売に奔走した。古美術・骨董の世界にも興味を持ち八王子で端師(仲間から買い、仲間に売る商売)を始めるが、やがて知り合いを通じて東京美術倶楽部へ出入りするようになり、本格的に古美術の道に進むようになった。 47年、浜松町に自宅兼店舗を構え、結婚。屋号「不言堂」は、「桃李不言 下自成蹊」(桃や李〔すもも〕は何も言わないが、花や果実を求めて人が集い、その木の下には自然と蹊〔こみち〕ができる)という『史記』の言葉から採ったという。坂本の商売は度胸と行動力に富んだもので、失敗を繰り返しながらもくじけずに勉強を重ね、良いものを求めて全国を回り、茶道具から陶磁器、西洋骨董まで幅広く手がけている。「私は気持ちだけでも、日本一、世界一のものを手がけてみたいといつも念じてきた。朝から晩まで、天下の名品を見つけたい、良いものは欲しい、の一念で生きてきた」(『ひと声千両』)とは本人の述懐である。51年には一流の古美術商が並ぶ京橋・中通りに店を出し、有名コレクターや研究者とも深く付き合い事業を拡大して行く。例えば、当時まだ評価の低かった中国の古代青銅器を手に入れては京都大学の水野清一教授(中国考古学)のもとを訪ね、真贋や時代性の教えを請い学んだ。研究室通いは月に1~2度、幾十年にも及び、ついには日本屈指の中国古代青銅器コレクションを築いている(現在の奈良国立博物館「坂本コレクション」)。60年には日本橋に移転。海外旅行が珍しい当時、早くも海外から古美術を仕入れている。大英博物館収蔵品に連なる古代アッシリア宮殿の有翼聖霊レリーフをロンドンで見出し日本に将来したのは、坂本の眼識と度胸、そして努力による快挙といえよう(現在、岡山市立オリエント美術館蔵)。また、68年には、坂本本人も惚れ込んだ中国・唐時代の加彩陶馬を、台湾の故宮博物院に寄贈して「里帰り」させるなど、商売を超えた「ものへの愛情」もうかがえる。 72年、ロンドンのオークション・クリスティーズで中国・元時代の青花釉裏紅大壺を1億8千万円の中国陶磁史上最高値(当時)で落札。国内外でニュースとなり、坂本は世界的な美術商として評価を高めた。それは資産家の冒険などではなく、すべてを売り払う覚悟でこの壺の獲得に一世一代の勝負をかけた坂本の度胸の勝利であり、また、中国陶磁が国際美術市場でもっと高く評価されるべきとの信念に基づく行動でもあった。その後も中国陶磁の優品を多く獲得するが、中でも元時代の染付魚藻文大壺(現在、大阪東洋陶磁美術館蔵。重要文化財)を高額落札した直後は、大名器を手にした嬉しさから、壺と一緒に風呂に入って汚れを洗い、夜半には幾度も目を覚ましてひとりでそっと壺を見たと懐古しており(『ひと声千両』)、蒐集家の純心さもうかがわれる。 80年に後進に道を譲り業界から引退、2005(平成17)年に小田原に移って隠居生活を送っていたが、2016年8月に突然に亡くなった。小柄で細身の体にスーツと蝶ネクタイ姿が業界のトレードマークだった。古美術商として、弟子には礼儀を厳しく仕込み、優秀な業界関係者を多く世に送り出した。また、多くのコレクションを各地に遺したことも大きな功績である。68年の東京国立博物館東洋館の新設に際し、饕餮文など中国古代青銅器10点を母キク名義で寄贈。02年には奈良国立博物館に約380点の中国古代青銅器を寄贈、さらに没後、九州国立博物館に「古今和歌集・伝藤原公任筆」や〓飾北斎筆「日新除魔図」をはじめ陶磁器や茶釜など約260件を寄贈、幕末の思想家佐久間象山の書画類157点を象山出身地の長野市松代に寄贈するなど、坂本の蒐集品が各地の公共機関に収蔵、活用されている。 著書に『ひと声千両―おどろ木 桃の木「私の履歴書」』(日本経済新聞社、1998年)がある。

石田尚豊

没年月日:2016/07/29

読み:いしだひさとよ、 Ishida, Hisatoyo*  美術史家である石田尚豊は、7月29日死去した。享年93。 1922(大正11)年8月9日東京都上根岸に生まれる。1929(昭和4)年4月東京都世田谷区深沢尋常小学校入学、35年4月京華中学校入学、41年4月都立高等学校文科乙類入学。45年4月東京大学文学部国史学科に入学し、50年3月卒業した。同年4月に東京大学大学院に進み、52年3月に満期修了して、同年4月、東京国立博物館の資料課資料室員となった。64年7月東京国立博物館に法隆寺宝物館が開館し、資料課内に置かれた法隆寺宝物掛の主任となった。67年5月資料課資料室長兼法隆寺宝物掛主任となり、法隆寺宝物室の新設を目指した。70年4月資料課内に法隆寺宝物室が新設されたが、彼は、70年4月に国立歴史民俗博物館(1983年開館)の設立準備のため文化庁に出向し、文化庁美術工芸課文化財調査官(絵画部門)兼管理課長補佐となった。この間、71年に基本構想委員会が設置され、72年に基本構想案がまとめられた。それに基づいて、展示準備委員会及び展示計画委員会が設置され、資料調査と資料収集が開始された。 72年11月、再び東京国立博物館に戻り、普及課主任調査官、74年4月資料課資料調査室長。76年7月資料課長となった。この頃に、資料館(1984年2月開館)設立準備に携わった。75年11月『曼陀羅の研究』(東京美術)を刊行し、78年1月、同著によって、東京大学から文学博士を授与され、また、78年3月、同著により、日本学士院賞を受賞した。81年3月東京国立博物館を退職し、同年4月青山学院大学文学部史学科教授となった。88年2月『日本美術史論集―その構造的把握―』(中央公論美術出版)を刊行、同年11月、同著により、青山学院学術褒賞を受賞した。1991(平成3)年3月青山学院大学文学部史学科教授を退職し、同年4月聖徳大学人文学部日本文化学科教授となり、2001年4月に同職を退職した。92年11月勲三等瑞宝章を授与されている。常勤職以外に、明治大学、中央大学、東京大学、学習院大学、東京女子大学、聖徳大学にて非常勤講師をつとめ、弘前大学、東北大学、九州大学、高野山大学にて集中講義を行った。 彼の研究対象は、玉虫厨子、華厳経美術、密教美術、浄土教美術、重源、洛中洛外図屏風、職人絵と多岐にわたり、どれを対象としても、膨大な史料を読み込み、深く思考して、緻密に論理を構成する点が共通する。また、未解決の問題があると、先学や専門家に面謁し、その教えを真摯に乞うことが少なからずあったことは、彼の『日本美術史論集』の「あとがき」などに明らかである。 彼の経歴と業績については、「石田尚豊先生年譜と業績」(『青山史学』12 今野國雄教授・石田尚豊教授退任記念号、1991年)に詳しい。それ以降の著作、論文、講演等は、以下の通りである。【著作・監修・編著】『日本史写真集 続(文化編)』(土田直鎮と共同監修、山川出版社、1995年)、『聖徳太子と玉虫厨子―現代に問う飛鳥仏教―』(東京美術、1998年)、『聖徳太子事典』(編集代表、柏書房、1997年)、『ブッダ―大いなる旅路 救いの思想・大乗仏教(NHKスペシャル)』(NHK「ブッダ」プロジェクトと共著、NHK出版、1998年)、『空海の帰結―現象学的史学―』(中央公論美術出版、2004年)。【論文・講演記録・随筆】「ともしび」(『青山史学』13、1992年)、「『MUSEUM』の回想」(『MUSEUM』500、1992年)、「曼荼羅研究の現代的意義」(講演、『愛知学院大学人間文化研究所紀要』8、1993年)、「『絵仏師の時代―研究篇・資料篇(全2)』平田寛」(『日本歴史』566、1995年)、「玉虫厨子は語る」(公開講演、『鶴見大学佛教文化研究所紀要』2、1997年)、「玉虫厨子をめぐって―『文献の学』と『物の学』」(『史学雑誌』107―12、1998年)、「飛鳥の曙―小墾田新宮殿」(『学燈』95―5、1998年)、「聖徳太子の実像を求めて―アジア的視野で考察する」(『大法輪』(上)68―9、(下)68―10、2001年)、「聖徳太子とその時代―太子を貫く思想 含 聖徳太子略年表」(『大法輪』68―12、2001年)、「新しい歴史学を求めて―現象学的史学」(『文化史学』59、2003年)。

上田浩司

没年月日:2016/06/25

読み:うえだこうじ  MORIOKA第一画廊主上田浩司は6月25日、岩手県盛岡市内で老衰のため死去した。享年83。 1932(昭和7)年9月16日盛岡市に生まれる。岩手高等学校卒業。盛岡画廊は64年医師の高橋又郎によって開廊されたが、66年建物改築のため閉廊になる予定だった。上田は閉廊を惜しみ69年から本格的に運営にあたり、71年にはMORIOKA第一画廊として市内第一書店3階(60坪)へ、88年から1990(平成2)年はMORIOKA第壱画廊画廊と名をかえ中央通りへ、90年から2012年はテレビ岩手の1階に移転し再びMORIOKA第一画廊名で活動した。上田と美術との出会いは、45年盛岡市内の百貨店で松本峻介と舟越保武の2人展を見たことだった。敗戦によって価値観がすべて変わった世の中で美術の普遍性をみた。後に舟越は画廊に併設された喫茶店「舷」の看板文字を描いている。画廊で扱った作家は、東京で初個展を見て作品を購入した相笠昌義、開廊して初めて売れたオノサト・トシノブ、地元出身の小野隆夫や百瀬寿、杉本みゆき、数十年にわたり発表を支援した松田松雄などがいる。吹田文明、木村利三郎、関根伸夫、靉嘔、野田哲也、瑛九らの版画展、舟越保武、桂、直木親子の個展も開催している。若手を育てることを第一として、長い付き合いをする方針をもち、70年代は年間30近い展覧会を行なっていたが、2000年代は年数回になり、2017年8月宇田義久展が最後となった。記録集に『MORIOKA第一画廊 記録1964―2014』(2017年 MORIOKA第一画廊・舷)がある。

杉原たく哉

没年月日:2016/05/31

読み:すぎはらたくや、 Sugihara, Takuya*  美術史家の杉原たく哉は5月31日、癌のため死去した。享年61。 1954(昭和29)年12月20日、東京都渋谷区に生まれる。東京都立小石川高等学校から早稲田大学第一文学部へ進学し、79年に同大学同学部美術史専攻を卒業、同大学大学院文学研究科修士課程・博士課程(芸術学・美術史)を経て88年から同大学第一文学部助手を務めた。その後、早稲田大学、群馬県立女子大学、和光大学、お茶の水女子大学、多摩美術大学、跡見学園女子大学、大東文化大学、北海道大学、愛知県教育大学、フェリス女学院大学、沖縄県立芸術大学、岡山就実大学、女子美術大学、放送大学などで講師を務め、東洋美術史などの講義を担当した。 杉原は若い頃から古代オリエントに関心を持っており、大学時代に古代中国の画像石の研究で知られる土居淑子の薫陶を受け、中国古代美術史研究に東西交渉史、比較芸術学、図像学など学際的な視点を用いて、独創的な研究を展開した。82年度に早稲田大学に提出した修士論文「七星剣について」に基づき、「七星剣の図様とその思想―法隆寺・四天王寺・正倉院所蔵の三剣をめぐって」『美術史研究』21(1984年)を発表した。この論文では従来一括りにみなされていた七星剣について、刀身に刻まれた天体文様の考察によって、二系統があることと、その思想的背景の差異を明らかにした。「銅雀硯考」『美術史研究』24(1986年)では、魏の曹操が建立した銅雀台の遺構の瓦をもって硯とした銅雀硯が、実際は300年ほど後の北斉の城の遺瓦を用いた可能性が高いことを提示し、その硯が文房の至宝とみなされ、宋・元・明・清の各時代の文人たちによって賞玩され、さらに室町時代の交易によって日本にもたらされていたことに言及し、瓦の硯が文学的・歴史的イメージの乗り物となって時空を超えて伝えられていったことを明らかにした。杉原の研究手法は、美術作品の形や文様・図様などを徹底的に観察し、幅広い文献史料を渉猟してその源泉を探り、中国から日本、古代から中世・近世、そして近現代へと伝播し、変遷する様相をダイナミックに描き出すところに最大の特徴がある。 杉原の研究は広範な地域・時代をフィールドとするが、その根本には中国古代美術があった。1991(平成3)年9月には土居淑子らとともに中国山東省の仏教史蹟調査を行っており、その内容は土居淑子・杉原たく哉・北進一「山東省仏跡調査概報」(『象徴図像研究』7・8、1993・94年)にまとめられている。主要な論文には「漢代画像石に見られる胡人の諸相―胡漢交戦図を中心に」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊(文学・芸術学編)』14、1987年)、「不動明王の利剣と中国の宝剣思想」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊(文学・芸術学編)』15、1988年)、「神農図の成立と展開」(『斯文』101、1992年)、「狩野山雪筆歴聖大儒像について」(『美術史研究』30、1992年)、「張騫図と乗槎伝説」(『象徴図像研究』8、1994年)、「聖賢図の系譜 背を向けた肖像をめぐって」(『美術史研究』36、1998年)、「始皇帝像の諸相」(『東洋美術史論叢』吉村怜博士古稀記念会編、雄山閣、1999年)、「道教と絵画」(『道教と中国思想』(講座 道教 第4巻)雄山閣出版、2000年)、「揺銭樹を支える羊―「スキタイの子羊」への射程」(『神話・象徴・イメージ:Hommage a Kosaku Maeda』、原書房、2003年)などがある。「蠣崎波響筆「夷酋列像」の図像学的考察」(『てら ゆき めぐれ―大橋一章博士古稀記念美術史論集』中央公論美術出版、2013年)は杉原の最後の論文となった。また妻の杉原篤子との共著「柳橋図屏風と橋姫伝承」は『古美術』100号記念研究論文の佳作賞を受賞し、『古美術』104(1992年)に掲載されている。 杉原は時代・地域を大局的に捉え、図像学的考察によって独創性豊かな研究を進める一方、そうした専門的な研究を、一般向けにわかりやすく紹介した著作も多い。単著には『中華図像遊覧』(大修館書店、2000年)、『いま見ても新しい古代中国の造形』(小学館、2001年)、『しあわせ絵あわせ音あわせ―中国ハッピー図像入門』(日本放送協会、2006年)、『天狗はどこから来たか』(大修館書店、2007年)などがある。ギャラリー繭において行われた漢代画像石・拓本展に関連して刊行された『乾坤を生きた人々―漢代徐州画像石の世界』(まゆ企画、2001年)は、豊富な図版とともに杉原による解説、画像石の概説がまとめられている。共著には『カラー版 東洋美術史』(美術出版社、2000年)、『中国文化55のキーワード』(ミネルヴァ書房、2016年)などがある。 杉原は、東京友禅の作家であった杉原聰(1922―2006)の長男として生まれたこともあり、父の生涯にわたる作品をまとめた『杉原聰きもの作品選 昭和・平成の女性美を彩った友禅作家 回顧展開催記念』(文京シビックセンター)図録(2012年)を編集・刊行している。

金澤弘

没年月日:2016/05/07

読み:かなざわひろし  京都国立博物館名誉館員、および元京都造形芸術大学教授の金澤弘は、5月7日に死去した。享年81。 金澤は1935(昭和10)年、大阪市に生まれた。61年、慶応義塾大学大学院修士課程史学科を修了し、同年より、京都国立博物館に勤務。87年から同館学芸課長を務めた。1995(平成7)年に同館を退官し、京都造形芸術大学芸術学科教授となり、2005年まで教鞭をとった。また、島根県文化財保護委員、仏教美術研究記念上野財団理事、頴川美術館理事、茶の湯文化学会理事をつとめた。 京都国立博物館では、「室町時代美術」展(1968年)、「中世障屏画」展(1970年)において、15世紀水墨画の画題、画派、画風、受容について多角的調査を行い、その成果を展観した。「日本の肖像」展(1978年)では頂相について、「禅の美術」展(1981年)では禅余画と詩画軸について論じ、「花鳥の美」展(1982年)では水墨花鳥画の作画理念を、「写意から装飾への変化」として展観した。また、至文堂より刊行の『日本の美術』シリーズでは、『初期水墨画』『室町絵画』『水墨画―如拙・周文・宗湛』(1972、1983、1994年)を著し、初期水墨画の成立と展開を詳述した。その業績は、室町絵画についての幅広い作品調査にもとづく優れた分析によるものであった。なかでも、『雪舟』(ブック・オブ・ブックス14、小学館、1976年)において、雪舟の生涯と作品を丹念に追求し、拙宗等楊と雪舟の同人説を否定した。 その他、共著に、『華厳宗祖師絵巻』(中央公論社、1978年)、Zen―Meister der Meditation in Bildern und Schriften (Museum Rietberg, Zurich, 1993)、『雪舟の芸術・水墨画論集』(秀作社出版、2002年)などがあり、単著に、『日本美術絵画全集 可翁・明兆』(集英社、1977年)、『日本美術全集 金閣・銀閣』(学習研究社、1979年)、『花鳥画の世界 水墨の花と鳥』(学習研究社、1982年)などがある。 また、室町水墨画を中心に、「長福寺蔵・清信筆 瀟湘八景図について」(『MUSEUM』146、1963年)、「旧養徳院襖絵について」(『美術史』55、1964年)、「相阿弥筆 瀟湘八景図(大仙院)」(『國華』886、1966年)、「雪舟筆天橋立図とその周辺」(『哲学』53、1968年)、「如拙・周文とさまざまの画派と画風」(『水墨美術大系』6、講談社、1974年)、「明兆とその周辺」(『水墨美術大系』5、講談社、1975年)、「琴棋書画図の展開」(『屏風絵集成』2、講談社、1980年)、「白衣観音図の展開」(『大和文華』68、1981年)、「瀟湘八景図の展開」(『茶道聚錦』9、小学館、1984年)、「慕帰絵の画風と構成」(『続日本絵巻大成』4、中央公論社、1985年)、「富岡鉄斎筆 蓬莱仙境図・武陵桃源図屏風」(『國華』1250、1999年)など、多数の論考をのこした。

坪井清足

没年月日:2016/05/07

読み:つぼいきよたり、 Tsuboi, Kiyotari*  考古学者で元奈良国立文化財研究所所長の坪井清足は5月7日、急性心不全のため死去した。享年94。 1921(大正10)年11月26日、大阪府大阪市に生まれ、その後は東京都で育つ。父は実業家の傍ら在野の考古学者として梵鐘研究を開拓した坪井良平。41年に京都大学文学部に入学。43年に学徒動員により兵役に従事し、台湾に送られた。台湾では台北帝国大学医学部の人類学者である金関丈夫と交流を持った他、鳳鼻頭遺跡近くの陣地に派遣された折には、壕の壁面の上層に黒陶(新石器時代後半期)、下層に彩陶(新石器時代前半期)が包含されていることを確認し、戦陣にあっても考古学研究から離れることはなかった。 46年に京都大学復学。49年に京都大学大学院進学。平安中学校・平安高等学校教諭などを経て、55年に京都国立博物館に採用。同年、奈良国立文化財研究所に転出。それ以降、65~67年に文化財保護委員会(現、文化庁)への出向、75~77年に文化庁文化財保護部文化財鑑査官の任を務めた時期を除くと、77年の奈良国立文化財研究所所長就任を経て、86年の所長任期満了退職に至るまで、奈良国立文化財研究所を拠点として考古学研究の推進と埋蔵文化財行政の確立に邁進した。退職後は、86年に財団法人大阪文化財センター理事長就任、2000(平成12)年に財団法人元興寺文化財研究所所長就任を経て、13年以降は公益財団法人元興寺文化財研究所顧問を務めた。 役職としては、文化財保護審議会第三専門調査会長、学術審議会専門委員、宮内庁陵墓管理委員、日本ユネスコ国内委員会委員などを歴任した。叙勲等は、91年に勲三等旭日中綬章、99年に文化功労者に叙せられ、死後、従四位に叙位された。受賞歴としては、83年に日本放送協会放送文化賞、90年に大阪文化賞、91年に朝日賞を受賞している。 坪井は奈良国立文化財研究所および文化財保護委員会・文化庁での職務に従事する中で、現在に至る埋蔵文化財行政の枠組みを構築するために尽力した。当時、高度経済成長期の我が国においては、高速道路網計画や住宅団地建設などの大型開発が各地で進み始めていた。それらの工事にともなう事前の発掘調査体制や、発掘経費の捻出方法など、埋蔵文化財行政の課題が山積していた。坪井は、事前の発掘調査を義務付け、発掘調査費用は開発者側が負担する「原因者負担」の原則を確立する上で中心的な役割を果たした。この原則は、埋蔵文化財行政を進展させる礎となり、その後、地方自治体の文化財担当者の増強を促すきっかけとなった。 坪井は文化庁文化財鑑査官、奈良国立文化財研究所所長を歴任して辣腕をふるったことから、多くの人から畏怖される存在であったが、実際に口が悪いことは有名で、「清足(きよたり)」ではなく「悪足(あくたれ)」と呼ばれることもあった。このあだ名は、本人もまんざらではなかったようで、「飽多禮(あくたれ)」という雅号を自ら用いることもあったという。 主な著書は以下の通り。『古代追跡―ある考古学徒の回想』(草風館、1986年)『埋蔵文化財と考古学』(平凡社、1986年)『東と西の考古学』(草風館、2000年)『考古学今昔物語』(金関恕・佐原真との共著、文化財サービス、2003年) またインタビュー記事「戦後埋文保護行政の羅針盤」(2009年8月17日収録)が、日本遺跡学会編『遺跡学の宇宙―戦後黎明期を築いた十三人の記録』(六一書房、2014年)に所収されている。

中部義隆

没年月日:2016/04/05

読み:なかべよしたか、 Nakabe, Yoshitaka*  日本絵画史研究者の中部義隆は、4月5日、膵臓がんのため、大阪市の湯川胃腸病院で死去した。享年56。 1960(昭和35)年1月29日、大阪府大阪市大正区に生まれる。78年3月に大阪府立市岡高等学校を卒業し、同年神戸大学文学部へ入学。その後、85年3月に同大学を卒業し、同年4月神戸大学大学院へ進学、87年3月に同大学院文学研究科修士課程を修了した。同年4月からは同大学院文学研究科博士課程へ進学、同年12月に同課程を中途退学し、翌88年1月に神戸大学文学部の助手となるが、同年4月に財団法人大和文華館学芸部員として採用される。以後28年間、同館での勤務を続け、2000(平成12)年6月に同館学芸部課長、06年4月に学芸部次長、12年に学芸部長となり、常に同館の展覧会を主導していった。 専門分野は、広く江戸時代の絵画全般に及んだが、とくに俵屋宗達や本阿弥光悦、尾形光琳など琳派に関する多くの展覧会や研究は、ライフワークとして最も重要な業績である。研究面では、琳派の装飾技法における版木の活用を指摘するなど、きわめて実証的な手法を用いたが、同時に、琳派の工芸品等の持つ造形感覚への鋭い理解は、直感的でもあり、その冴え渡る大胆な直感を、緻密な作品観察によって、実証的に裏付けていく研究スタイルにこそ真骨頂がある。また、展覧会を通して、従来あまり注目されてこなかった画家を取り上げることにも意欲的で、大和文華館で企画した松花堂昭乗、渡辺始興、冷泉為恭の展覧会や図録は、美術史の研究上でも、とりわけ高い評価を受けた。 一方、後進の指導や育成にも積極的にあたり、02年4月からは神戸大学大学院客員助教授、05年4月からは同大学院客員教授を務めたほか、奈良大学、京都造形芸術大学、佛教大学、大阪大学、大阪府立大学などでも非常勤講師として教鞭をとったが、むしろ、大和文華館のみならず、関西を代表する学芸員として各方面から慕われた点も見逃せない。繊細でありながらユーモアにあふれた作品への語り口は独特で、ギャラリートークは鑑賞者から常に好評だった。また、厳しくもあたたかい人柄に惹かれ、その薫陶を受けた学芸諸氏も多い。一流の研究者でありながら、作品と鑑賞者に親しく寄り添う学芸員らしい姿が、後進に与えた影響は絶大である。 なお、企画に関わった主要な展覧会としては、「俵屋宗達―料紙装飾と扇面画を中心に―」(大和文華館、1990年)、「松花堂昭乗―茶の湯の心と筆墨」(大和文華館、1993年)、「東洋美術1000年の軌跡 福岡市美術館«松永コレクション»«黒田資料»の名宝を中心に」(大和文華館、1997年)、「渡辺始興―京雅の復興―」(大和文華館、2000年)、「松花堂昭乗の眼差し 絵画に見る美意識」(八幡市立松花堂美術館、2005年)、「復古大和絵師 為恭―幕末王朝恋慕―」(大和文華館、2005年)、「大倉集古館所蔵 江戸の狩野派―武家の典雅」(大和文華館、2007年)、「茶の藝術」(岡崎市美術博物館、2007年)、「大和文華館所蔵 富岡鉄斎展」(大和文華館、2007年)、「松花堂昭乗 没後370年 先人たちへの憧憬」(八幡市立松花堂美術館、2009年)、「女性像の系譜―松浦屏風から歌麿まで」(大和文華館、2011年)、「乾山と木米―陶磁と絵画―」(大和文華館、2011年)、「琳派 京を彩る」(京都国立博物館、2015年)などが挙げられる。 また、主要な論文としては、「木版金銀泥刷料紙装飾について―版木とその活用法を中心に―」(『大和文華』81、1989年)、「伝宗達筆 草花図扇面散貼付屏風をめぐって」(『大和文華』87、1992年)、「新出の伝宗達下絵光悦書四季草花下絵三十六歌仙和歌色紙について」(『国華』1219、1997年)、「渡辺始興展望」(『大和文華』110、2003年)、「「舞楽図屏風」と「風神雷神図屏風」の画面構成について」(『美術史論集』5、2005年)、「新収品紹介 春秋鷹狩茸狩図屏風」(『大和文華』122、2010年)、「松花堂昭乗作品の木版雲母刷料紙」(百橋明穂先生退職記念献呈論文集刊行委員会編『美術史歴参 百橋明穂先生退職記念献呈論文集』中央公論美術出版、2013年)、「沃懸地青貝金貝蒔絵群鹿門笛筒の意匠構成」(『大和文華』126、2014年)、「光琳と乾山―町衆文化の精華―」(河野元昭監修『年譜でたどる琳派400年』淡交社、2015年)、「藤田美術館所蔵の光琳乾山合作銹絵角皿をめぐって」(『陶説』749、2015年)などがあり、江戸時代の絵画のみならず、漆工、陶芸など多様な分野の造形表現に精通していたこともうかがえよう。

河原由雄

没年月日:2016/03/23

読み:かわはらよしお、 Kawahara, Yoshio*  美術史家・河原由雄は3月23日、急性大動脈解離のため死去した。享年80。 河原は1936(昭和11)年1月30日、京都市に生まれた。京都大学大学院文学研究科美学美術史学専修において修士論文「平安初期彫刻の作風展開―和様への成立過程―」を執筆・提出し、65年3月修士課程を修了。同年4月1日付で奈良国立博物館に文部技官として採用・着任。以来、75年4月1日付で学芸課資料室長に昇任、80年4月1日付で仏教美術資料センター資料管理研究室長に配置換え、82年4月6日付で同センター仏教美術研究室長、87年4月1日付で学芸課美術室長、1993(平成5)年4月1日付で学芸課長に昇任し、97年3月末に定年を迎える。同年4月より愛知県立大学教授に就任(2002年3月まで)。この間、特筆されるのは82年に創設された密教図像学会において、当初より常任委員にとして運営にあたり、以来、2000年まで編集委員として会誌『密教図像』の刊行に尽力するとともに、95年より同学会副会長(2000年まで)、01年より会長をつとめた(2003年まで)。専門は仏教絵画史、とくに浄土教絵画の研究を中心に行う。09年には『当麻曼荼羅の研究』をまとめ、京都大学において学位申請し、10年3月23日付で博士の学位を取得する。主な論文に「たけ高き女性―平安時代」(『国文学 解釈と鑑賞』367、1965年)、「〓州会本尊像」(『大和文化研究』93、1966年)、「敦煌浄土変相の成立と展開」(『仏教芸術』68、1968年)、「勧進の美術」(『日本美術工芸』381、1970年)、「新資料紹介 当麻曼荼羅」(『古美術』42、1973年)、「敦煌画地蔵図資料」(『仏教芸術』97、1974年)、「西域・中国の浄土教絵画」(『浄土教美術の展開 仏教美術研究上野記念財団助成研究会報告書第1冊』1974年)、「観経曼荼羅図」(『國華』1013、1978年)、「祐全と琳賢」(『南都仏教』43・44、1980年)、「当麻曼荼羅下縁部九品来迎図像の形成」(『密教図像』1、1982年)「変相図の源流」(『図説 日本の仏教 第3巻 浄土教』新潮社、1988年)、「浄土曼荼羅礼賛」(『日本美術工芸』642、1992年)、「肖像を奉祀する時代以前―栄山寺八角堂の追善堂的性格」(『大和文華』96、1996年)、「牙をなくした阿修羅」(『阿修羅を極める』小学館、2001年)、「招福の神と仏」(『仏教図像聚成 六角堂能満院仏画粉本』法藏館、2004年)などがある。単著に『浄土図(日本の美術272)』(至文堂、1989年)、共著に『日本の仏画 第二期』第二巻(学習研究社、1977年)、『粉河寺縁起 (日本絵巻大成5)』(中央公論社、1977年)、『当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起(日本絵巻大成 24)』(同、1979年)、『西山派寺院の寺宝調査―とくに證空系観経図の形成と発展に関する図像学的研究(報告書)』(奈良国立博物館、1980年)、『薬師寺 白鳳再建への道』(薬師寺、1986年)、『奈良県史』第15巻(名著出版、1986年)、『当麻寺(日本の古寺美術11)』(保育社、1988年)、『我が国における請来系文物の基礎的資料の集成とその研究―古代中世の仏教美術を中心にして(報告書)』(奈良国立博物館、1993年)、『法隆寺再現壁画』(朝日新聞社、1995年)、『帯解寺』(同寺、1998年)などがある。このほか監修に『大和の名刹 信貴山の秘宝信貴山縁起と毘沙門天像』(ニューカラー印刷、1998年)、『仏像の見方 見分け方―正しい仏像鑑賞入門』(主婦と生活社、2002年)がある。

石原悦郎

没年月日:2016/02/27

読み:いしはらえつろう、 Ishihara, Etsuro*  ツァイト・フォト・サロン創設者の石原悦郎は2月27日、肝不全のため死去した。享年74。 1941(昭和16)年11月15日、東京市王子区(現、東京都北区)に生まれる。立教大学法学部卒業。研究生として大学に残り法律の勉強を続けるとともに、少年期より芸術への志向を持ち続け、68年頃にはギャルリー・ムカイに出入りするようになった。70年には同画廊、ついで自由が丘画廊で働きはじめる。71年に語学習得を目的にパリに留学。この時は短期で帰国するが、以後、渡欧を重ね画商としての経験を積む。のちミュンヘンにも語学留学。 70年代半ば、写真家で日本大学芸術学部教授の金丸重嶺らの示唆を得て、写真を専門とするギャラリーの設立を決意。パリに渡り写真家ロベール・ドアノーやアンリ・カルティエ=ブレッソン、写真プリント制作の第一人者ピエール・ガスマンらの知遇を得、作品を購入するなどして準備を進め、78年4月にツァイト・フォト・サロンを日本橋室町に開業した。 日本で初の、写真のオリジナル・プリントの展示・販売を専門とするギャラリーとして、ツァイト・フォトは海外作品の紹介とともに国内の写真家の展示にも力を入れた。植田正治、桑原甲子雄など戦前から活動歴のある作家の展示の他、同時代の一線で活動していた森山大道、荒木経惟、北井一夫らを作品の売買を通じて支え、また80年代以降は新進作家の発掘にもとりくむようになった。そうした写真家には、いずれも後に木村伊兵衛賞を受賞する柴田敏雄、畠山直哉、オノデラユキ、松江泰治、鷹野隆大らがいる。1990(平成2)年には夫人の石原和子をオーナーとするギャラリー「イル・テンポ」が高円寺に開設され、ツァイト・フォトと役割を分担しつつより幅広い写真家の紹介を展開する(イル・テンポは2004年閉廊)。2002年、京橋にギャラリーを移転、展示スペースが拡大したことを機に、写真に加え現代美術作家も手がけるようになった。14年ビルの建替えにともないギャラリーは京橋の別の場所に再移転、16年の石原の死去をうけ、追悼展を開催したのち同年末に展示活動を終了した。 日本において美術館など公的機関による写真作品の評価が確立しない状況下、石原は早くから写真美術館設立を構想し、82年には自身のコレクションで構成した「フォトグラフィ・ド・ラ・ベルエポック:花のパリの写真家たち 1842―1968」を神奈川県立近代美術館で開催した。ついで85年筑波科学博覧会の会期に合わせ、つくば写真美術館’85を開設し「パリ・ニューヨーク・東京」展を開催(採算が合わず会期終了後閉館)。写真史上の主要作を概観する450点で構成された意欲的な内容で、同館のキュレーターチームに参加した飯沢耕太郎、伊藤俊治、金子隆一、谷口雅、平木収、横江文憲はその後、研究者・評論家・学芸員等として日本の写真界を支えることとなった。89年には「オリエンタリズムの絵画と写真」(世界デザイン博覧会、ホワイト・ミュージアム、名古屋、のちひろしま美術館、滋賀県立近代美術館他に巡回)を企画する。仏文学者阿部良雄の助言を得つつ、石原所蔵の19世紀のヨーロッパ絵画や写真におけるオリエンタリズムの傾向を示す作品と、現代の日本の写真家が中東やアラブアフリカで撮影した新作から構成された展覧会で、西洋美術における異文化表象への批評的な視点を提示しただけでなく、石原のサポートにより現地の撮影に赴いた写真家たちの中には、その際の制作が作家活動の転機となるものが出るなど、ユニークな成果を残した。 90年代末以降、石原はたびたび中国に渡航、写真展の開催に協力するなど現地の写真・美術関係者と親交を深めていく。07年には上海美術館でツァイト・フォトのコレクションによる「Japan Caught by Camera」を開催、この機に約400点の写真作品を同館に寄贈した。また幼少期よりクラシック音楽に親しみ、第二次大戦前のSPレコードのコレクターでもあった石原は、06年には上海でレコードコンサート「1930 BERLIN」(ZEIT-FOTO上海事務所・heshan arts)を開催するなど、晩年まで多方面にわたり精力的な活動を展開した。 一連の活動による写真界への貢献に対し、03年日本写真協会賞文化振興賞を受賞。2000年代に入ると、石原自身が日本写真界に果たした役割への評価・検証が進められるようになり、「85/05―写真史:幻のつくば写真美術館からの20年」(せんだいメディアテーク、2005年)展が開催され、粟生田弓・小林杏編『1985/写真がアートになったとき』(青弓社、2014年)が出版された。評伝に粟生田弓『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン』(小学館、2016年)がある。

裾分一弘

没年月日:2016/02/17

読み:すそわけかずひろ、 Susowake, Kazuhiro*  美術史家で学習院大学名誉教授の裾分一弘は2月17日、老衰のため死去した。享年91。 1924(大正13)年11月21日岡山県に生まれる。1951(昭和26)年九州大学文学部哲学科を卒業、同年同大学大学院に入学、美学・美術史学を専攻しのち中退。同大学文学部美学・美術史学研究生を経て58年、同大学文学部助手(文部教官)に着任。61年武蔵野美術大学講師に転任、翌62年助教授に昇任。64年に学習院大学文学部助教授に就任、以後67年に教授昇任を経て1995(平成7)年に退官するまでの30年以上、同学にて教鞭を執った。同時に東京大学、慶應義塾大学、成城大学など数多くの大学に非常勤講師として出講したほか、93-94年には日独ベルリン・センターの招聘によりジェノヴァ大学科学史研究所客員教授を務めた。 裾分は九州大学での学士論文以来一貫してレオナルド・ダ・ヴィンチを研究対象とし、とりわけレオナルドの手稿および素描・素画に関する研究に長年にわたり携わった。その分野においては国際的にも高く評価される存在であった。世界各地に散在するレオナルドの大量の手稿や素描を丹念に調査し、文字の読解、書誌学的検討から多岐にわたる図やモチーフの分類、同定、筆跡や描線の分析まで浩瀚な研究を手掛けた。その集大成は、『レオナルドの手稿、素描・素画に関する基礎的研究』(2巻、中央公論美術出版、2004年)として出版されている。また手稿研究に端を発してレオナルド及びイタリア・ルネサンスの芸術理論研究にも功績を残し、77年に『レオナルド・ダ・ヴィンチの「絵画論」攷』(中央公論美術出版)を、86年には『イタリア・ルネサンスの芸術論研究』(中央公論美術出版)を刊行している。同時に、『レオナルド「マドリッド手稿」』(共訳、岩波書店、1975年)、『レオナルド「解剖手稿」』(共訳、岩波書店、1982年)『レオナルド「パリ手稿M」』(岩波書店、1989年)、『レオナルド「パリ手稿L」』(岩波書店、1990年)などの訳書を通じ、レオナルドの手稿の日本語での紹介にも尽力した。 裾分の言葉によると、手稿および素描・素画に対する関心は、絵画作品と並んでそれらの研究の上にのみ真のレオナルド研究は成立する、との確信に基づいていた。それは、「片や美術作品を凝視し、片や制作者の身辺あるいは周辺・前後に遺るリテラルな資料・記録を視野に加える」両眼を備えることにより、美術史は「作品の単なる印象批評による美術史」を超克し、「美術史学としての資格を得る」という、学問の最も基本的な問題にたいする厳格な意識に裏付けされていた(『レオナルドの手稿、素描・素画に関する基礎的研究』537-38頁)。 裾分の真摯で密度の高い学風、誠実な性格と熱心な指導は、長年の奉職先であった学習院大学の内外を問わず多くの学徒を引き寄せ、とりわけイタリア美術史の分野を中心として数多くの後進を育てたことも特筆に値する。 その履歴、業績については上掲の『レオナルドの手稿、素描・素画に関する基礎的研究』に含まれる「著者の履歴および研究業績等一覧(平成14年4月現在)」に詳しい。

南嶌宏

没年月日:2016/01/10

読み:みなみしまひろし、 Minamishima, Hiroshi*  美術評論家の南嶌宏は、1月10日、脳梗塞のため松本市内の病院で死去した。享年58。 1957(昭和32)年10月4日、長野県に生まれる。本名は南島宏。兄は彫刻家の南島隆。長野県立飯田高等学校、筑波大学芸術専門学群芸術学専攻卒業。インド放浪を経て、いわき市立美術館に赴任。85年、自身最初の展覧会として「もうひとつの美術館―解体を巡って」を企画。87年、広島市現代美術館に赴任。30代の始めからは青山・スパイラル、佐賀町エキジビット・スペースなど、所属する美術館の外での展覧会もいくつか手掛ける。1990(平成2)年に広島市現代美術館を退職、東京に拠点を移す。のちに熊本市現代美術館設立準備室に籍を置くまでインディペンデントとして活動し、この間にライフワークともいえるテーマ、「東欧の美術」「女性アーティスト」「いけばな」など現代美術が扱うことのなかった分野をじっくりと育む。93年、カルティエ現代美術財団奨学生としてパリへ留学。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のなか、戦場に近い東欧全域を訪問。またこの留学中に中国人キュレーター、ホー・ハンルーと知遇を得る。留学の成果のひとつとして97年「分析と解釈 中央ヨーロッパの現代美術」(資生堂ギャラリー)を企画。2000年から熊本市現代美術館の運営に参画し学芸課長兼副館長、館長を歴任。同館では「ATTITUDE 2002 心の中の、たったひとつの真実のために」(2002年)、「生人形と松本喜三郎 反近代の逆襲」展(2004年)、「ATTITUDE 2007 人間の家:真に歓喜に値するもの」(2007年)などを企画、美術を通したハンセン病への社会的偏見に対する活動や、生人形や見世物文化の価値を再発見する取り組みを行った。08年に熊本市現代美術館館長を退任、女子美術大学芸術学部芸術学科教授に就任。同年、第1回プラハ国際芸術トリエンナーレ国際キュレーター。09年第53回ベネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー。全国美術館会議理事、国際美術評論家連盟など歴任。第3回西洋美術振興財団学術賞受賞(2008年)。単著に『ベアト・アンジェロ 天使のはこぶもの』(トレヴィル、1992年)、『サンタ・マリア』(トレヴィル、1993年)、『豚と福音』(七賢出版、1997年)、共著に『現代美術入門』(美術出版社、1986年)、『日本藝術の軌跡』(夏目書房、2003年)、『美術批評と戦後美術』(ブリュッケ、2007年)など。歿後、2月28日に杉並区の女子美術大学杉並キャンパス110周年記念ホールでお別れ会が催された。

ヨシダ・ヨシエ

没年月日:2016/01/04

読み:よしだよしえ  美術評論家のヨシダ・ヨシエは1月4日、埼玉県鶴ケ島市の病院で脳梗塞のため死去した。享年86。 1929(昭和14)年5月9日、東京都千代田区麹町に生まれる。本名吉田早苗、父は逓信省の官吏だった。2歳のとき母と死別。番町小学校、鎌倉臨海学園に学ぶ。父の転勤にともない新潟中学へ転校、その後、現在の神奈川県立湘南高校に在籍中に敗戦。しばらくは家出をし、上野の浮浪者と生活を送る。その後、小林秀雄や林達夫ら鎌倉文化人を知り、地域雑誌『緑地帯』の発行に関わり、3号まで刊行。50年頃、片瀬目白山に在住の丸木位里・俊夫妻を尋ね、藤沢の旅館で「原爆の図」を展示する。以後3年間、丸木夫妻らと「原爆の図」5部作の全国巡回展示を行う。52年劇団前進座に参加。56年詩集『風と夜と』(私家版250部、吉留要画)をヨシダ・ヨシエ名で刊行。同年「小山田二郎の芸術」(『美術批評』、8月号)で美術評論デビュー。58年詩画集『ぶるる』(岡本信二郎画、亜紀社)。61年「瀧口修造覚え書き」(『現代芸術』、5.6~9月号)では、瀧口の戦中期の活動について論述。62年「靉光伝」(『AVECART』、58号から9回連載)は、ヨシダのこの頃の中心的なテーマ「戦争と美術」が展開される。靉光については、77年から82年まで『デフォルマシオン』で「わたしの内部の靉光」を長期連載する。 65年目白駅近くにモダンアートセンター・ジャパンを設立、展示や出版を手掛ける活動を開始するも、半年あまりで解散した。68年ギャラリー新宿の機関誌『反頭脳』を編集。71年尾崎正教や小本章と人間と大地の祭り展(代々木公園)を企画。72年『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、同書は82年『解体劇の幕降りて』として増補版が造形社より刊)刊。74年コスモス展(サンパウロ大学現代美術館)を組織。75年アーティスト・ユニオンに参加。77年より日本・アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議に参加。同年『琉氓の解放区』(現代創美社)刊。83年松沢宥『プサイの函』(造形社)の監修。86年より原爆の図丸木美術館評議委員(1994年まで、95年から97年まで常務理事)を務める。同年『エロスと創造のあいだ』(展転社)刊。1989(平成元)年『手探る・宇宙・美術家たち』(樹芸書房)刊。91年より池田20世紀美術館評議委員(1994年まで、以後2007年まで理事、10年まで評議委員)を務める。93年『修辞と飛翔』(北宋社)刊。96年ライフワーク的な『丸木位里・俊の時空・絵画としての「原爆の図」』(青木書店)刊。2005年『ヨシダ・ヨシエ全仕事』(芸術書院、全著述が収録されてはいない)刊。08年細江英公による写真集『原罪の行方 最後の無頼派ヨシダ・ヨシエ』が刊行される。ヨシダの評論活動はファインアートだけでなく舞踏や人形、人類学、サブカルチャーへ幅広い領域にわたる。没後、舞踏関連を中心に蔵書の一部が、アメリカ、ロサンゼルスのUCLAに寄贈され、「ヨシダ・ヨシエ文庫」として開設されている。

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