本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 3,013 件)





桐敷真次郎

没年月日:2017/12/07

読み:きりしきしんじろう、 Kirishiki, Shinjiro*  建築史家、東京都立大学名誉教授の桐敷真次郎は12月7日死去した。享年91。 1926(大正15)年8月31日、東京都神田区(現、千代田区)に生まれる。1947年に第一高等学校理工科甲類(旧制)を卒業、同年東京帝国大学第二工学部建築学科(旧制)に進学、53年には同大学院を退学して東京都立大学工学部建築学科の助手に就任した。60年には助教授、71年に教授に昇任し、長きにわたって東京都立大学にて教鞭を執った。1990(平成2)年に同大学を定年退職し、その後97年まで東京家政学院大学家政学部住居学科にて教授を務めた。 我が国における西洋建築史学の先駆者の一人であり、そのことは2012年度に受賞した日本建築学会大賞の受賞理由「わが国の西洋建築史学に関する研究・教育および建築評論に対する多大な貢献」に如実に表されている。それまで国内での書物を通じた研究が中心であったなかで、ロンドン大学コートールド美術史研究所に留学し、海外留学の戦後第一世代の一人として後進に道を開いた業績も銘記すべきであろう。 桐敷の幅広い研究分野の中でも、その中核をなすのは何と言ってもイタリア・ルネサンス研究である。86年に日本建築学会賞(論文)を受賞した「パラーディオ『建築四書』の研究」、及びイタリアに関する優れた著作に対して贈られるマルコ・ポーロ賞を受賞した『パラーディオ「建築四書」注解』(中央公論美術出版)は、桐敷の業績の中でも特によく知られている。 また、『建築学大系5「西洋建築史」』(彰国社、1956年)、『西洋建築史図集』(彰国社、1981年(三訂版))など建築教育の場で広く用いられる基本書を著述・編纂したほか、日本の近代建築の通史書である『明治の建築』(日本経済新聞社、1965年)も広く参照される労作である。また、個別の研究分野に留まらず建築史全般にかかる著作の翻訳を精力的に行ったことでも知られ、J.M.リチャーズ『近代建築とは何か』(彰国社、1952年)、D.ワトキン『建築史学の興隆』(中央公論美術出版、1993年)、オーギュスト・ショワジー『建築史(上下)』(中央公論美術出版、2008年)、ジェフリー・スコット『ヒューマニズムの建築(注解)』(中央公論美術出版、2011年)などの翻訳がある。さらに、英訳を通じたわが国の建築の対外発信にも努めた。 他方で、地中海学会会長(1997~2001年)を務め、また自身の個別的研究としてイギリスのタウンハウスや江戸の都市計画に関する論考などがある。さらに現代建築への関心も強く、多くの建築批評やくまもとアートポリスとの関わりも忘れることができない。

松平修文

没年月日:2017/11/23

読み:まつだいらおさふみ、 Matsudaira, Osafumi*  長らく青梅市立美術館に学芸員として務め、自らも日本画を制作、また歌人としても活躍した松平修文は11月23日、直腸がんのため青梅市立病院で死去した。享年71。 1945(昭和20)年12月21日、北海道北見市に生まれる。父の転勤に伴い北海道内を転々としながら、絵画や詩作に耽る少年期をおくる。64年に札幌西高等学校を卒業し上京。66年東京藝術大学美術学部へ入学し日本画を専攻、その後同大学院に学ぶ。83年、青梅市立美術館の開設準備に学芸員として関わり、翌84年の開館後も数々の展覧会を企画、青梅市を中心とした西多摩地域における芸術文化の発展に貢献し、副館長等を経て2009(平成21)年の退職まで務めた。松平が手がけた展覧会の中でも特筆すべきは、自身も制作者として専攻した日本画に関する企画であり、とくに「佐藤多持代表作展」(1986年)や「長崎莫人展」(1988年)、また佐藤が所属する知求会の歩みを紹介した「或るグループ展の軌跡」(1991年)等といった戦後の日本画家、あるいは「夏目利政展」(1997年)や「大正日本画の新風 目黒赤曜会の作家たち」展(2004年)といった明治末~大正期に活躍した画家等、近現代日本画の流れの中でも革新的な試みを行った画家達に注目し、その評価に果たした役割は大きい。 歌人としては69年より大野誠夫に師事、松平修文(しゅうぶん)の名で『水村』(雁書館、1979年)、『原始の響き』(雁書館、1983年)、『夢死』(雁書館、1995年)、『蓬』(砂子屋書房、2011年)、『トゥオネラ』(ながらみ書房、2017年)の5冊の歌集を刊行した。没後の18年1月には『歌誌 月光』54号で、松平の追悼特集が組まれている。また2019(令和元)年9月には奉職した青梅市立美術館の市民ギャラリーで「松平修文遺作展 風の中でみた村落や森や魚や花が」が開催、学芸員や歌人として活躍する傍ら、絵筆を離さず制作を続けた日本画家としての側面があらためて着目された。妻は歌人の王紅花。

石崎浩一郎

没年月日:2017/11/14

読み:いしざきこういちろう、 Ishizaki, Koichiro*  評論家、名古屋造形大学名誉教授の石崎浩一郎は11月14日、喉頭がんで死去した。享年82。 1935(昭和10)年10月7日、広島県生まれ。61年早稲田大学政治経済学部新聞学科卒業。64年日本初の個人映画祭「フィルム・アンデパンダン」を新宿紀伊國屋ホールで足立正生、金坂健二らと開催する。この頃、ギャラリー新宿や内科画廊のグループ展に参加する。67年アジア財団の招聘によりハーバード大学国際セミナー芸術部門修了。68年までニューヨーク大学芸術部門研究員。60年代後半の現代美術シーンをニューヨークからレポートし、後に上梓された『光・運動・空間 境界領域の美術』(商店建築社、1971年)は、ポップアートやキネティックアートなどの日常生活とテクノロジーの間で多様化する美術の動向を捉えている。石崎のこのスタンスは、アメリカを主とした現代美術の紹介者としてながく続き、以下のような出版物に業績が〓れる。 訳書として、『アメリカの実験映画』(アダムス・シドニー編、フィルム・アート社、1972年)、『ポップ・アート:オブジェとイメージ』(クリストファー・フィンチ著、PARCO出版局、1976年)、『ジャクスン・ポロック』(エリザベス・フランク著、谷川薫と共訳、美術出版社・モダン・マスターズ・シリーズ、1989年)、『20世紀の様式:1900―1980』(ヘヴィス・ヒリアー著、小林陽子と共訳、丸善、1986年)。共著として、『現代の美術』(エドワード・ルーシー=スミス、講談社、1984年)。著書として、『映像の魔術師たち』(三一書房、1972年)、バシュラールの著作から導きだされた貝殻や鏡、迷宮、渦巻きといった図像をめぐる『イメージの王国』(講談社、1978年)、『アメリカン・アート』(講談社現代新書580、1980年)、論考に「黒と白の画家」(『画集オーブリー・ビアズリー』、講談社、1978年)、「西欧美術にみる女性美」(『美人画』福富太郎との共著、世界文芸社、2001年)などがある。一方で、日本領域への眼差しも70年代初期からもち、「狂児・織田信長」(『季刊パイディア』、1972夏号)をはじめ、未完となった連載「転換期の美学」(『月刊陶』1981年6月から)などにみられるように、織部などの伝統美への論考も試みていた。 教育歴として、87年から2005(平成17)年まで名古屋造形大学教授、在職中は図書館長も務めた。06年から同大名誉教授。

上村清雄

没年月日:2017/10/17

読み:うえむらきよお、 Uemura, Kiyoo*  千葉大学教授で美術史研究者の上村清雄は、10月17日、肝臓癌のため死去した。享年65。 1952(昭和27)年10月10日兵庫県に生まれる。75年3月に東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。4月に同大学大学院美術研究科(修士課程西洋美術史専攻)に入学、78年3月に修了。修士論文は「ドナテッロ研究―1420―30年代の『多様性をめぐって』」。同年4月から81年9月まで同大学西洋美術史研究室の非常勤助手を務める。81年10月からイタリア政府給費留学生としてシエナ大学大学院考古学美術史研究科に留学し、86年11月に修了(考古学および美術史修士)。翌87年1月に群馬県立近代美術館学芸員となり、88年4月に主任学芸員、1993(平成5)年4月に専門員、94年4月に学芸課長、96年4月に主幹兼学芸課長、2001年4月に主任専門員兼学芸課長となった。02年3月、同美術館を退職し、4月に千葉大学文学部助教授に就任。西洋美術史を担当し、また大学院でイメージ学や視覚表象論の授業を受け持った。07年4月に准教授、10年4月に教授となり、研究、学生指導、大学運営に尽力した。この間、東京大学、お茶の水女子大学、武蔵野美術大学、立教大学、千葉工業大学において非常勤講師を務めた。 学芸員及び大学教員として広い分野にまたがる研究業績を残したが、学生時代から一貫して研究の中心にあったのは14-16世紀のイタリア美術史であった。一方で、群馬県立近代美術館に就職後はイタリア近現代彫刻も専門とした。 シエナ美術に関する研究は留学以来のライフワークと言え、帰国後すぐの88年に「十五世紀末シエナ美術の動向――『彫刻家』ネロッチォ・ディ・ランディの新しい帰属作品をめぐって――」(『日伊文化研究』26)を発表した。00年には『シエナ美術展』(群馬県立近代美術館ほか)を担当。さらに科学研究費を得て「15世紀シエナの彩色木彫研究―絵画表現との関連とその社会的な役割―」(2003-04年度)、「アントニオ・ペトルッチ時代のシエナ芸術研究――1500年前後の芸術奨励政策――」(2007-08年度)、「アントニオ・フェデリーギの彫刻:15世紀シエナにおけるドナテッロ芸術の受容」(2009-11年度)、および「フランチェスコ・ディ・ジョルジョの芸術―15世紀後半シエナとウルビーノの芸術交流――」(2012-14年度)の調査を行い、研究成果報告書等の成果を残した。 自らが担当した1990―91年の『ウルビーノの宮廷美術展』(群馬県立近代美術館ほか)以来、ラファエッロとその弟子ジュリオ・ロマーノにも関心を寄せてきた。08年刊行の『ラファエッロとジュリオ・ロマーノ――「署名の間」から「プシュケの間」へ』(ありな書房)は主著であり、美術史上の意義に反してわが国では十分な紹介がなされてこなかった晩年のラファエッロとその工房による作品の数々、特にヴァチカン宮スタンツェ(諸室)の壁画と、ジュリオ・ロマーノによるマントヴァのパラッツォ・テの壁画について、制作の過程を〓りつつ詳細に解説し、ラファエッロからジュリオ・ロマーノへの画風の継承と、ジュリオの個性の発展を考察した。以後もラファエッロおよびジュリオ・ロマーノに関する論文を、千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書に発表し続けた。 近現代イタリア彫刻については、卒業論文と修士論文にドナテッロを取り上げたことが示すように、もともと彫刻に強い関心があったことと、群馬県立近代美術館に奉職したことがきっかけとなった。学芸員としては88-89年の「20世紀イタリア具象彫刻展」と98年の「ヴェナンツォ・クロチェッティ展」(どちらも群馬県立近代美術館ほか)の企画に関わり、大学に移った後も、05年に学術委員を務めた「ミラノ展」(大阪市立美術館・千葉市美術館)や06年の「クロチェッティ展」(鹿児島市立美術館)等にイタリア近現代彫刻に関する論文を寄せた。 ほかの特筆すべき活動としては、まず翻訳がある。エルウィン・パノフスキーやアビ・ヴァールブルクの著作のような英語からの訳もあるが、イタリア語の美術史文献に関しては屈指の訳者であり、とりわけマリオ・プラーツの一連の著作の、訳者のひとりとして重要な役割を担った。また、温厚かつ面倒見の良い人柄を見込まれて書籍の監修者を依頼されたことも多く、『フレスコ画の身体学』(ありな書房、2012年)と、「感覚のラビュリントゥス」シリーズ(ありな書房、全6巻)を世に出した。17年の『レオナルド×ミケランジェロ展』(三菱一号館美術館・岐阜市歴史博物館)の学術協力も務め、巻頭論文を執筆。その会期中に亡くなった。 公的な活動としては、文化庁や豊田市、前橋市、千葉市、国立西洋美術館、鹿島美術財団、ポーラ美術館の各種委員を務めた。14年以降は『日伊文化研究』の編集委員でもあった。 その履歴・業績については池田忍「上村清雄先生を送る」(『千葉大学人文研究』47、2018年)に詳しい。妻は美術史家で金沢美術工芸大学教授の保井亜弓。

井関正昭

没年月日:2017/10/06

読み:いせきまさあき、 Iseki, Masaaki*  美術史家で、東京都庭園美術館名誉館長だった井関正昭は10月6日に病気のため死去した。享年89。 1928(昭和3)年1月25日、横浜市に生まれる。44年、成城中学校5年で広島県江田島市にあった海軍兵学校76期生として入学。47年に家族の疎開先であった福島経済専門学校に入学。50年、東北大学法文学部美学美術史科に入学。53年に同大学を卒業、同年神奈川県立近代美術館の学芸員として採用される。61年に同美術館を休職して、イタリアに私費留学する。翌年帰国、同美術館に復職することなく、国際文化振興会が外務省より運営を委託された新設のローマ日本文化会館(同年開館)の派遣職員に採用され、再びローマに赴任。同文化会館において日本文化を紹介する事業を担当するかたわら、64年、66年のヴェネツィア・ビエンナーレの日本の参加にともないその企画実施を担当した。72年、国際文化振興会が発展解消して特殊法人国際交流基金となり、同基金に勤務することとなり、国際交流事業を担当した。85年、ローマ日本文化会館の館長、ならびに在イタリア日本大使館公使兼務となる。在任中、ヴェネツィア、ケルンで、初めてヨーロッパで日本の近代洋画を紹介する展覧会「近代日本洋画展」を開催した。88年、同基金を定年退職して帰国。同年から94年まで、北海道立近代美術館長を務める。89年には、イタリア政府より文化勲章グランデ・ウフィッチャーレを受賞。また、1989(平成元)年から97年まで、明星大学日本文化学部生活芸術学科主任教授として勤務。97年、東京都庭園美術館の館長となる。同美術館長在職中、「フォンタネージと日本の近代美術展 志士の美術家たち」(1997年)、「ジョルジュ・モランディ展」(1998年)、「デペロの未来派芸術展」(2000年)、「カラヴァッジョ 光と影の巨匠 バロック絵画の先駆者たち」(2001年)など、イタリア美術を紹介する展覧会を企画監修した。2016年に同美術館名誉館長となった。戦後から今日まで、日本とイタリア両国の美術を中心とした文化交流に尽力した美術史家、美術評論家であった。主要著書:『画家フォンタネージ』(中央公論美術出版、1984年)『イタリアの近代美術』(小沢書店、1989年)『日本の近代美術・入門 1800-1900』(明星大学出版部、1995年)『Pittura giapponese dal 1800 al 2000』(Skira,Milano, 2001年)『未来派―イタリア・ロシア・日本』(形文社、2003年)『私が愛したイタリアの美術』(中央公論美術出版、2006年)『イタリア・わが回想』(自家出版、2008年)『点描近代美術』(生活の友社、2011年)

村形明子

没年月日:2017/09/05

読み:むらかたあきこ、 Murakata, Akiko*  京都大学名誉教授、元日本フェノロサ学会長の村形明子は9月5日、膵臓がんのため京都市内の病院で死去した。享年76。 1941(昭和16)年1月21日、札幌で生まれる。64年に東京大学教養学部教養学科を卒業後、米国へ留学しスミス・カレッジを経て、ジョージ・ワシントン大学で日本美術の収集家ウィリアム・スタージス・ビゲローの書簡研究により71年にPh.Dを取得。京都国立博物館を経て、78年に京都大学教養部に着任、同大学助教授、教授として研究を進める。2004(平成16)年に京都大学を退官し名誉教授となる。 村形は、日本における本格的なアーネスト・フランシスコ・フェノロサ研究の道を拓いた一人である。とくにハーヴァード大学のホートン・ライブラリーが所蔵するフェノロサの遺稿群について、美術史家隈元謙次郎の依頼によりその整理・編集・邦訳を行い、75年1月より『三彩』等の誌上で紹介、さらに『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵フェノロサ資料Ⅰ~Ⅲ』(ミュージアム出版、1982~87年)にまとめた功績は大きい。その後も『アーネスト・F・フェノロサ文書集成―翻刻・翻訳と研究 上・下巻』(京都大学学術出版会、2000・01年)を刊行するなど、フェノロサに関する基礎研究の確立に貢献した。 また78年11月に大津市、大津市教育委員会、園城寺の主催で開催されたフェノロサ来日100年記念展および記念講演会を機に学会設立の機運が高まると、村形も世話人の一人として尽力。80年に日本フェノロサ学会が創設されると幹事として、2003年より09年まで会長として同学会の発展に寄与した。同学会誌『LOTUS』の誌名は1903年にボストンで刊行され、フェノロサも寄稿した同名の雑誌に因んで村形が提案したものである。

鬼原俊枝

没年月日:2017/09/04

読み:きはらとしえ、 Kihara, Toshie*  日本絵画史研究者の鬼原俊枝は9月4日、大腸癌のため、兵庫県神戸市の病院で死去した。享年65。 1953(昭和28)年9月2日、兵庫県に生まれる。72年兵庫県立兵庫高等学校を卒業し、72年立命館大学文学部へ入学。76年同大学を卒業し、その後、79年大阪大学文学部美学科美術史学専攻へ3年次編入学、81年同大学を卒業し、楠本賞を受賞。同年同大学院文学研究科前期課程芸術学専攻へ進学。83年から1年間ハーヴァード大学へ留学し、85年に大阪大学大学院へ修士論文「「比叡山三塔図」〓風に関する一考察」を提出し、前期課程を修了。86年から福井県立美術館学芸員として勤務し、88年同館を退職。1990(平成2)年大阪大学大学院文学研究科後期課程芸術学を単位取得退学し、93年同大学院へ博士論文「探幽様式の成立」を提出。同年よりプリンストン大学客員講師を務める。94年大阪大学で博士(文学)の学位を取得し、95年より文化庁美術工芸課文化財調査官として勤務。98年『幽微の探究 狩野探幽論』(大阪大学出版会、1998年)で第10回國華賞を受賞し、翌99年には島田賞を受賞。その後、文化庁で16年間勤め、2011年に文化庁を退職。同年より京都国立博物館列品管理室長として勤務し、14年に定年退職、その後も再雇用で同館での勤務を続け、15年3月再雇用任期満了につき退職する。 専門分野は、大阪大学へ提出した博士論文や、國華賞を受賞した『幽微の探究 狩野探幽論』に代表されるとおり、狩野探幽や江戸時代絵画史を中心としたが、文化庁での勤務以降は、文化財指定に関わった作品研究も多く、その範囲は広く絵画史全般に及んだ。とりわけ、文化庁や京都国立博物館では、数多くの国宝や重要文化財の修理を指導監督し、同庁や東京文化財研究所で長年文化財保護行政にたずさわった渡邊明義の理念を継承して、文化財の保存や修理の記録を美術史研究に積極的に取り入れた点は重要な業績である。こうした文化財修理への高い関心は、修理に対する厳しく真摯なまなざしへとつながったが、その背景には、阪神大震災の直前に文化庁へ入庁し、東日本大震災の直後に文化庁を退職するなど、自然災害から文化財を保存する必要性を如実に実感してきた経験や、高松塚古墳壁画の問題に直面してきたという経緯もあろうか。 一方、ハーヴァード大学へ一年間留学したり、プリンストン大学で客員講師を勤めた経験から、海外との交流にも意欲的で、福井県立美術館の学芸員として担当した展覧会では、アメリカのサンフランシスコ・アジア美術館から日本の〓風の里帰り展を企画したほか、文化庁の海外展に果たした功績も大きい。フリア美術館などが世界中から優れた東洋美術史研究者を選んで二年に一度表彰する島田賞の受賞も、国際的な活躍を顕著に物語る。 もちろん、国内でも「遠澤と探幽―会津藩御抱絵師加藤遠澤の芸術―」(福島県立博物館、1998年1月~3月)や、「開館記念特別展 上杉家の至宝」(米沢市上杉博物館、2001年9月~11月)、「生誕400年記念 狩野探幽展」(東京都美術館、日本経済新聞社、2002年10月~12月)、「徒然草 美術で楽しむ古典文学」(サントリー美術館、2014年6月~7月)、「国宝 鳥獣戯画と高山寺」(京都国立博物館、2014年10月~11月)などの図録に論考を寄せるなど、展覧会への関与も多い。 なお、主要な業績には、著作の『幽微の探究 狩野探幽論』のほか、「伝狩野宗秀筆「韃靼人狩猟・打毬図」〓風について」(『MUSEUM』450、1988年)、「天台宗儀礼における座の〓風」(『待兼山論叢』23、大阪大学文学部、1989年)、「長谷川等伯筆 山水図〓風」(『國華』1130、1990年)、「狩野探幽筆「学古帖」と流書手鑑」(武田恒夫先生古稀記念会編『美術史の断面』清文堂出版、1995年)、「狩野探幽の水墨画におけるふたつのヴィジョン」(『美術史』137、1995年)、「旧円満院宸殿障壁画中の探幽画と画風変革開始の時期」(『國華』1284、2002年)、「南禅寺大方丈障壁画の修理から―柳に椿図襖の図様改変について―」(『月刊文化財』476、2003年)、「平成十五年度海外展報告 オーストラリアにおける日本美術展「日本美術における四季展」―日本の四季を異文化に伝える―」(『月刊文化財』487、2004年)、「国宝出山釈〓図・雪景山水図三幅対と「道有」の鑑蔵印について」(『月刊文化財』525、2007年)、「特集 高松塚古墳レポート―石室の解体事業― 壁画の修理にあたって」(『月刊文化財』532、2008年)、「南蛮屏風と阪神大震災」(『京都国立博物館だより』174、2012年)、「彭城百川旧慈門院障壁画と雪竹図襖について」(『学叢』35、京都国立博物館、2013年)、「国宝「鳥獣人物戯画」の保存修理―文化財保存、及び美術史的観点から」(高山寺監修・京都国立博物館編『鳥獣戯画 修理から見えてきた世界―国宝 鳥獣人物戯画修理報告書―』勉誠出版、2016年)などがある。

白田貞夫

没年月日:2017/08/12

読み:しろたさだお  シロタ画廊主の白田貞夫は8月12日、都内の聖路加国際病院で肺がんのため死去した。享年84。 1933(昭和8)年6月26日山形県生まれ。学業修了後、日産自動車に務める。もの書きを目指すうち、武蔵野美術大学油絵科卒業の英子夫人と知り合い、66年3月15日、中央区銀座3丁目5番15で開廊。版画は小さなスペースでも数多く扱えるため、版画を中心に扱うこととした。画廊のマークは具体のメンバーでもあった岡田博による。70年、常設展示のスペースを確保するため、銀座7丁目10番8に移転する。以後、国内外の作家が発表を行なってきた地下の空間は、版画家だけでなく、若手を含め多くの作家の寄りどころとなってきた。69年の福地靖の詩画集の刊行以来、2003(平成15)年までプロデュースした版画集は45集にのぼり、美術界に着実な軌跡を残してきた。画廊で発表をしてきた作家に、日和崎尊夫、中林忠良、司修、島州一、黒崎彰、柄沢齊、多賀新、坂東壮一、小林敬生、山中現、丹阿弥丹波子、李禹煥らがいる。特異なところでは現代美術家の加賀谷武の個展を定期的に行なっている。76年日本現代版画商組合が設立されると理事として活動、85年から91年まで同組合理事長を務め、その後も理事、名誉理事として版画界に貢献した。16年6月には作品や記録写真による「シロタ画廊50年の歩み展」が開催された。19年には生前から企画に関わってきた『李禹煥全版画1970―2019』が刊行された。画廊は白田没後、英子夫人とスタッフにより運営されている。

乾由明

没年月日:2017/07/17

読み:いぬいよしあき、 Inui, Yoshiaki*  近現代陶芸や西洋近代美術史の研究者・評論家として活躍し、京都大学・金沢美術工芸大学名誉教授を務めた乾由明は7月17日肺炎のため死去した。享年89。 1927(昭和2)年8月26日大阪市に生まれる。生家はかつて大阪市内や兵庫県・甲陽園に店舗を構えた高級料亭「はり半」で、谷崎潤一郎の「細雪」にも登場する料亭であり、美術品や古美術に囲まれて育った。51年京都大学文学部西洋近代美術史専攻卒業後、同大学院美術史専攻を修了した。前京都国立近代美術館長で美術評論家の今泉篤男のもと、63年開館した国立近代美術館京都分館(現、京都国立近代美術館)の学芸員として勤務、その後母校である京都大学の教授となる。フランスを中心とする西洋近代美術の研究・紹介に務める一方で、日本の近・現代美術について活発な評論活動を繰り広げ、現代美術批評の最前線に立つ。また、現代陶芸研究者としても活躍、「前衛」、「オブジェ」などの新しい陶芸分野に注目した。富本憲吉、楠部弥弌などの日本の陶芸家のみならず、バーナード・リーチ、ルーシー・リーやハンス・コパーなど海外の陶芸家とも親交を深めた。 1989(平成元)年第10回小山冨士夫記念賞受賞。92年には、『日本の陶磁 現代篇』(中央公論社)の責任編集者として、明治時代から現代に至る現代日本の陶芸を代表する名匠を選出。第1巻では、板谷波山、富本憲吉、北大路魯山人、楠部弥弌、加藤土師萌、六代清水六兵衛、近藤悠三を紹介した。2003年、陶芸界の巨匠重要無形文化財保持者(通称「人間国宝」)の集大成として、『人間国宝の技と美 陶芸名品集成(1) 陶器』(講談社)を平山郁夫と共に監修した。陶器編、磁器編、併せて計3巻を刊行。 兵庫陶芸美術館設立にあたり基本構想・計画策定委員を務め、05年の開館と共に初代館長に就任。古陶磁のみならず、現代陶芸家の展覧会も積極的に開催。バーナード・リーチ展や三代徳田八十吉展などを企画。 編著作に『抽象絵画』(保育社、1965年)、『近代の美術5浅井忠』(至文堂、1971年)、『世界の名画 6 モネと印象派』(中央公論社、1972年)、『日本の名画 20須田国太郎』(中央公論社、1976年)、『巨匠の名画 2 ルノワール』(学習研究社、1976年)、『日本のやきもの 現代の巨匠4 河井寛次郎』(講談社、1978年)、『現代日本陶芸全集 やきものの美 3 富本憲吉』(集英社、1980年)、『現代陶芸の系譜』(用美社、1991年)、『眼の論理 現代美術の地平から』(講談社、1991年)、『古備前を超えて 森陶岳』(東方出版、2000年)、『ルーシー・リー&ハンス・コパー 二十世紀陶芸の静かなる革新』(六耀社、2013年)他多数。

大塚英明

没年月日:2017/07/17

読み:おおつかひであき  日本大学文理学部教授の大塚英明は、7月17日に死去した。享年69。 1948(昭和23)年1月12日、千葉市に生まれる。76年3月、日本大学大学院文学研究科日本史学博士課程単位課程を修了し、同年4月より同大学文理学部史学科にて助手をつとめた。78年4月文部省に文部技官として任官し、文化庁文化財保護部美術工芸課歴史資料部門に勤務した。84年4月に同部門文化財調査官、1997(平成9)年4月に同部門主任文化財調査官に任ぜられた。この間93年から96年にかけて文化財管理指導官を併任した。2001年4月には独立行政法人文化財研究所東京文化財研究所の協力調整官に転じた。03年に文部省を退官し、日本大学文理学部教授となり、死去の前月まで教鞭を執った。 この間、文化審議会文化財分科会第一専門調査会委員(2004年~14年)、文化審議会文化財分科会委員(2015年~17年)等文化財行政や、日本生活文化史学会理事・常任理事、千葉県郷土史連絡協議会常任理事等の学会関係の委員等をつとめた。 大学院生、助手時代は、吉田松陰を主たる研究対象とし、「吉田松陰の思想系譜をめぐって」(『史叢』18、日本大学史学会、1974年)、「吉田松陰と蘭医青木研蔵ー蘭学摂取の一過程をめぐって」(『近代日本形成過程の研究』雄山閣出版、1978年)等複数の論考を発表した。 文化庁では、歴史資料部門に23年間所属し、同部門の草創期以来の文化財保護行政を長年担った。同部門は75年の文化財保護法改正により新たに誕生した部門で、歴史上重要な人物又は事象に関する遺品のうち学術的価値の高いものを対象とした。文化財保護行政上の歴史資料の概念は独特のもので、絵画・彫刻等従来の美術工芸品の分野とは質を異にし、一括資料を含む幅広い分野の文化財の調査・指定・修理・防災等に従事した。96年の文化財保護法改正では、科学技術分野を加えて近代の文化財も保護の対象となり、時代、分野ともに保護の対象が拡大した。同部門における仕事のありようは「歴史資料の指定調査と保存修理をふりかえって」(『月刊文化財』、2007年11月)に詳しい。 この間、重要文化財の指定調査の成果等を反映し、「内閣文庫保管・国絵図、郷帳一管見」(『三浦古文化』33、三浦古文化研究会、1983年)、「林靖と『寛永諸家系図伝』編纂の周辺」(『MUSEUM』508、1993年)、「『寛永諸家系図伝』編纂における延引について」(『日本歴史』559、1994年)、「万延元年遣米使節、随行医師・川崎道民の海外帰国報告―道民自筆本『航米実記』の紹介をめぐって」(『MUSEUM』546、1997年)、『羊皮紙に描かれた航海図』(至文堂、2002年)等の多分野にわたる論考を発表した。また、歴史資料部門における近代の文化財保護行政の端緒を担ったことから、「近代の歴史資料の保存・活用と課題」(『文化庁月報』346、1997年)、「日本の科学、産業遺産の保存と活用」(『産業遺産―未来につなぐ人類の技』東京文化財研究所、1999年)等、当該分野における文化財保護の基本的な考え方を述べた著述がある。 一方、文化財の管理や公開、重要文化財公開施設の建築・設備の指導にあたる文化財管理指導官をつとめた経験から「公開施設の在り方-文化財の保存と活用をめぐって-」(『設備と設計』オーム社、1995年)等がある。また、同官在任中の95年に阪神淡路大震災が発生し、被災文化財の保護、文化財防災対策の充実に携わった。 大学では、文化財学・博物館学を担当し、文化財に即した仕事を一貫して続け、日本大学文理学部資料館の設立(2006年)とその後の運営にも尽力した。没後「大塚英明先生の逝去を悼む (博物館学・文化財学特集号)」(『史叢』日本大学史学会、2018年)が刊行された。

辻茂

没年月日:2017/07/02

読み:つじしげる、 Tsuji, Shigeru*  東京藝術大学名誉教授の辻茂は、7月2日、肺炎のため、イタリア、オルヴィエートの病院で死去した。享年87。 1930(昭和5)年3月29日、旧満州国南満州大石永昌街に生まれ、福井県敦賀市で育つ。53年3月に東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。4月に同大学美術学部助手として採用される。55年4月に日伊協会事務嘱託(西洋美術史研究)となり、56年9月にイタリア政府給費留学生としてローマ大学文学部美術史学科に留学。57年10月からはヴェネツィア中亜極東学院で日本語講師を務める。60年4月に東京藝術大学美術学部非常勤講師を委嘱され、64年9月には同大学音楽学部講師として採用される。68年3月に同大学美術学部講師に配置換えされ、69年4月に同学部助教授、78年4月に教授に昇任。87年4月から1991(平成3)年4月まで同大学附属図書館長も務め、85年4月以降は同大学評議員でもあった。97年3月に同大学を定年退職、同年6月に名誉教授の称号を授与された。 大学において教育・研究・大学運営に尽力する一方で、文部行政関連委員を歴任し、70年4月に教科用図書検定調査審議会調査員、86年2月に学術審議会専門委員(科学研究費分科会)、同年7月から2期続けて大学設置審議会専門委員(大学設置分科会)、及び87年9月から4期続けて大学設置・学校法人審議会専門委員(大学設置分科会)に任命された。また、日伊協会の常務理事、『日伊文化研究』編集委員長などを務めた。 研究の業績は多岐にわたるが、特にイタリアのゴシックおよびルネサンス美術史の分野において、国際的に評価の高い研究成果を数多く発表した。とりわけ顕著な業績としては、ジョルジョーネ研究、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の初期壁画研究、技法史研究、そしてその一環としての遠近法に関する研究を挙げることができる。 ジョルジョーネ研究に関しては、76年に『詩想の画家ジョルジョーネ』(新潮社)を刊行した。この本では主題に関して諸説紛糾する「嵐」を中心に据え、先行研究と同時代史料を検証しつつ、当時のヴェネツィアの文化状況、とりわけプロットよりも情景描写を重視する同時代のヴェネツィアの文学との関連を考察することで、独自の結論を提出した。また、古文書に記された「夜の絵」に関する章は、71年に発表した論文を土台としたものであり、「キリスト降誕図」とする従来の研究に対して、夜景図とする解釈を打ち出した。研究の成果は79年にイタリア、カステルフランコ・ヴェネトで開催された生誕五百年記念ジョルジョーネ国際学会においても、イタリア語で発表された。 アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の壁画研究に関しては、日本人の美術史・建築史研究者および画家によるチームを組織して聖堂下堂壁画の現地調査を行い、78年に『アッシージのサン・フランチェスコ聖堂――建立初期の芸術』(共著、岩波書店)を出版した。サン・フランチェスコ聖堂の壁画のうち、下堂にある13世紀のそれはほとんど調査・研究のなされていなかったものであり、撮影・測量・模写によるこの基礎研究は、画期的なものとなった。 技法史に関しては、論文ではなく彫刻の制作によって学部を卒業したことが示す通り、もともと制作に大きな関心を有したことが根底にある。美術史研究においても作品制作に根差した作品理解や、制作プロセスを重視する姿勢は、おのずと技法の探求へと自らを導いた。フレスコ画の技法研究はアッシジの壁画調査においても行われたが、その後も研究を深め、成果を内外で発表した。論文を発表する一方で、ヴァザーリの『芸術家列伝』中の技法論を中心とする箇所を翻訳し、それらは1980年に『ヴァザーリの芸術論』(共訳、平凡社)に収録された。また、チームを組織してチェンニーノ・チェンニーニの古典的な技法書『絵画術の書』の翻訳作業を地道に進め、1991年に岩波書店より刊行したことは、特筆すべき業績である。 研究の興味が技法史研究から遠近法研究へと向かうのは自然の流れであった。特に遠近法の発明者ブルネッレスキの遠近法研究を深め、図学的な作図方法に基づいて発明がなされたという従来の見解に対して、史料調査と実験にもとづき、カメラのような「暗箱」を用いて作図したという斬新な説を提出した。研究の成果はイギリスの著名な学術誌『Art History』(vol.13,no.3、1990年)誌上に発表され、また遠近法研究の集大成として『遠近法の誕生――ルネサンスの芸術家と科学』(朝日新聞社、1995年)が出版された。翌96年には、ほとんど数学の領域に踏み込んで中世末期からルネサンスにかけての遠近法理論の歴史を解説した、『遠近法の発見』(現代企画室、1996年)を出版した。 大学退官後はイタリア中部の町オルヴィエート近郊に移住し、ローマやフィレンツェに通いつつ研究を続けた。2011年秋に瑞宝中綬章を受章した。

ヴィクター・ハリス

没年月日:2017/06/13

読み:VICTORHARRIS  日本美術史の研究者であったヴィクター・ハリスは、6月13日肝硬変のためイギリスで死去した。享年74。 1942年8月3日生、イングランドのエセックス州出身で、ウィリアム・ヴィクター・クレイトン・ハリス(William Victor Clayton Harris)を父に、テリーザ・ハリス(Theresa Harris)を母に生まれる。エセックス州(Essex)のバンクロフツ・スクール(Bancroft’s School)を卒業し、バーミンガム大学(Birmingham University)で機械工学専攻(BSc in Mechanical Engineering)、卒業した。68年から71年まで駒沢大学の講師となる。71年、Japanese Engineering Translation and Consultancyを78年まで個人経営する。74年に柳川加津子と結婚している。 78年、大英博物館の東洋美術部のResearch Assistantとして勤務するようになり、87年にはDepartment of Oriental Antiquities(日本美術部)のAssistant Keeper、97年に同部のKeeper(部長)となる。2002年大英博物館退職とともにKeeper Emeritus(名誉研究員)を授与される。 05年明治大学の客員教授、同年美術品オークション会社であるクリスティーズのコンサルタントとなる。06年にはロンドンのJapan SocietyのHonorary Librarian(名誉司書)、ハリリコレクションの日本美術のHonorary Curator(名誉学芸員)などを歴任する。 日本剣道の剣士であり、剣道の実践とともに日本美術とりわけ日本刀について造詣が深く、大英博物館の日本刀収蔵の充実や研究に尽力した。90年、大英博物館日本ギャラリーが開設されると、その開幕展として「日本の刀」を開催し、さらに文化庁の海外交流展で、91年の「鎌倉」、01年の「神道」では大英博物館側でのキュレーションを行い、同展でのシンポジウムの司会を担当、これまでに海外では注目されなかったテーマで日本美術と文化を紹介した。また大英博物館所蔵品の日本での展覧会も手掛け、85年「大英博物館所蔵浮世絵名作展、87年「大英博物館日本中国名品展」を実現させた。 剣道に関するものでは74年、宮本武蔵の「五輪書」(A Book of Five Rings)を翻訳した。また、02年までEuropean Kendo Federation(ヨーロッパ剣道連盟)、International Kendo Federation(国際剣道連盟)の役員を歴任するなどヨーロッパにおける日本剣道の普及につとめた。 日本美術の研究では、1980年 Musical Scenes in Japanese Woodblock Prints, in Music and Civilisation No.4, British Museum1981年 Japanese Portrait Sculpture, Apollo, 81, no.1131982年 Japanese Decorative Arts from the 17th to 19th centuries, British Museum 1986年 Japanese Swords and the Bizen Tradition, Arts of Asia, vol.161987年 Netsuke:The Hull Grundy Collection in the British Museum, British Museum 1990年 Japanese Art:Masterpieces in the British Museum, British Museum 1990年 Swords of the Samurai, British Museum1991年 kamakura:The Renaissance of Japanese Sculpture, 1185―1333[Kamakura jidai no chokoku], British Museum 1994年 Japanese Imperial Craftsmen:Meiji Art from the Khalili Collection, British Museum 2001年 Shinto:The Sacred Art of Ancient Japan, British Museum2004年 Cutting Edge:Japanese Swords in the British Museum, British Museum Press2014年 Alloys of Japanese Patinated Metalwork, in ISIJ International などがある。

河原正彦

没年月日:2017/05/09

読み:かわはらまさひこ、 Kawahara, Masahiko*  京都国立博物館名誉館員で、元京都橘大学教授の河原正彦は5月9日、細菌性肺炎のため京都府城陽市内の病院で死去した。享年81。 1935(昭和10)年9月25日、長野市に生まれる。68年、同志社大学大学院文学研究科文化史学専攻博士課程単位取得退学。大学院在籍中の64年より京都府立総合資料館に4年間勤務し、68年に京都国立博物館へ職場を転じた。76年から同館学芸課工芸室長、95年から同館学芸課長を務めた。1997(平成9)年に退官した後、2006年まで京都橘女子大学(後に京都橘大学)教授として教鞭を執る傍ら、滋賀県立陶芸の森館長を務めた。 京都国立博物館には、陶磁器担当の研究員として勤務していたが、工芸品全般、とりわけ意匠としての文様に造詣が深く、その一端を京都国立博物館の特別展覧会「日本の意匠―工芸にみる古典文学の世界」(1978年)の図録論文「工芸にみる古典文学意匠の流れ」をはじめとして、共編著の『日本の文様』全30巻および別冊3巻(光琳社出版、1970~79年)の中に窺うことができる。 陶磁器に関しては、『古清水』(京都書院、1972年)、『陶磁大系26京焼』(〓凡社、1973年)、「御室仁清窯の基礎的研究―文献史料を中心とする考察」(『東洋陶磁』4、1974年)、『日本陶磁全集27仁清』(中央公論社、1976年)、『日本のやきもの22仁清』(講談社、1976年)、『日本のやきもの 現代の巨匠15清水六兵衛』(講談社、1977年)、『日本陶磁全集29頴川・木米』(中央公論社、1978年)、『乾山』(日本の美術154、1979年)、『頴川・木米・道八』(日本の美術227、1985年)、「仁清作色絵雉香炉―その製作期をめぐって」(『國華』1100、1987年)、「京焼の「陶法伝書」―『陶工必用』『陶磁製方』『陶器指南』」(『学叢』28、2006年)など京焼に関する著作が目立って多いが、『陶磁大系9丹波』(〓凡社、1975年)、『日本陶磁全集12信楽』(中央公論社、1977年)、『信楽と伊賀』(日本の美術169、1980年)、『丹波』(日本の美術398、1999年)など焼締陶器に関する著書も少なくない。さらには、『染付伊万里大皿』(京都書院、1974年)、『古染付』(京都書院、1977年)、『唐津』(日本の美術136、1977年)といった唐津焼・伊万里焼・中国陶磁に関する著作も手掛けるなど、陶磁器全般に関する広汎な見識を有していた。 京都国立博物館在職時に企画を担当し、日本人と中国陶磁の関わりを古代から近世まで通時代的に捉えて展観してみせた特別展覧会「日本人が好んだ中国陶磁」(1991年)では、研究領域が幅広い陶磁器研究者としての本領を遺憾なく発揮している。 75年から01年まで東洋陶磁学会常任委員、85年には文化史学会評議委員を務め、93年には小山冨士夫記念賞を受賞した。

安井収蔵

没年月日:2017/05/03

読み:やすいしゅうぞう、 Yasui, Shuzo*  美術評論家で、しもだて美術館長(茨城県筑西市)の安井収蔵は、肺がんのため西東京市の自宅にて死去した。享年90。 1926(大正15)年9月20日、愛知県名古屋市に生まれる。日本大学予科を修了、1946(昭和21)年、毎日新聞東京本社に入社。事業部を経て文化部に勤務した後、同新聞中部本社に報道部に異動。63年に同新聞東京本社学芸部に移り、美術に関する報道を担当。同紙の美術記事を76年12月まで執筆し、また各美術雑誌にも寄稿した。同年、同社を退社。笠間日動美術館顧問、日動画廊嘱託となる。85年、山形県の酒田市美術館長に就任。2003(平成15)年からしもだて美術館長となる。同館長職は没年まで勤めた。美術館の館長職の傍ら、晩年までジャーナリストの視点から、美術界の事情をとりあげ、『新美術新聞』をはじめ各誌に寄稿を続けた。なお各誌に寄稿した美術に関する記事は、下記の4書にまとめられている。『色いろ調:美術記者のコラム』(美術年鑑社、1985年)『当世美術界事情:コラム「色いろ調」1985-1990』(美術年鑑社、1990年)『当世美術界事情2』(美術年鑑社、2000年)『絵話 諸縁 近頃美術界の話題を掬う』(講談社エディトリアル、2015年)

高田良信

没年月日:2017/04/26

読み:たかだりょうしん、 Takada, Ryoshin*  仏教史学・歴史学者で法隆寺長老、第128世住職を務めた高田良信は、老衰のため4月26日に死去した。享年76。 1941(昭和16)年2月22日、奈良県奈良市に生まれる。幼名は信二。53年、法隆寺に入り、良信と改名。当時の管主だった佐伯良謙(1880~1963)の徒弟となる。龍谷大学文学部仏教学科を卒業し、65年、龍谷大学大学院仏教学専攻修士課程修了。82~1992(平成4)年、法隆寺執事長。93年、法隆寺住職代行に就任。94年、法隆寺管主(代表役員)就任。95~98年、聖徳宗第5代管長・法隆寺第128世住職を務める。自坊は法隆寺実相院。 東大寺に縁のある家に生まれ育ち、当時の東大寺管長・平岡明海の紹介により12歳で法隆寺に入る。幼い頃より寺域から掘り出される古瓦や古材、周辺の古墳に強い関心を持ち、大学院在学の頃には寺内の過去帳や年表、室町時代の子院配置図を自作するなどして、法隆寺の学問的な整理・体系化を志し、のちに「法隆寺学」を提唱。生涯に渡って史料や宝物の調査・研究に取り組んだ。 67年に金堂壁画の再現事業が、68年には若草伽藍の再発掘、同じ頃、『奈良六大寺大観』(岩波書店)刊行のための宝物調査が始まり、考古や歴史、建築、絵画・彫刻の研究者らと交流する機会を多く持つ。71年4月、聖徳太子1350年御忌にて会奉行を務める。81年、聖徳太子1360年御忌事業として高田が提案した『法隆寺昭和資財帳』の編纂事業が開始される。宝物の調査・目録化を行い、のちに全15巻の『資財帳』(小学館、1991~1992年)が刊行された。97年、法隆寺史編纂所を開設。98年10月、百済観音堂の落慶法要を営む。「印鑰継承の儀」や「慈恩会」などの途絶えていた法隆寺の古儀再興にも努めたほか、81年にNY・ジャパンソサイエティ―で開催された法隆寺宝物展や88年の「百済観音像展」(東京国立博物館)など、国内外の展覧会に数多く携わった。 主要な著作は次の通りである。共著『法隆寺』(学生社、1974年)、『法隆寺のなぞ』(主婦の友社、1977年)、『近代法隆寺の歴史』(同朋舎出版、1980年)、『法隆寺の秘話』(小学館、1985年)、共著『四季法隆寺』(新潮社、1986年)、『「法隆寺日記」をひらく:廃仏毀釈から100年』(日本放送出版協会、1986年)、共著『追跡!法隆寺の秘宝』(徳間書店、1990年)、『法隆寺の〓を解く』(小学館、1990年)、共著『再現・法隆寺壁画』(NHK取材班編、日本放送出版協会、1992年)、『法隆寺の〓と秘話』(小学館、1993年)、『法隆寺建立の〓:聖徳太子と藤ノ木古墳』(春秋社、1993年)、『世界文化遺産法隆寺』(吉川弘文館、1996年)、『法隆寺教学の研究』(聖徳宗総本山法隆寺、1998年)、『法隆寺辞典』・『法隆寺年表』(柳原出版、2007年)、『法隆寺学のススメ―知られざる一四〇〇年の軌跡―』(雄山閣、2015年)ほか多数。没後の17年10月、朝日新聞デジタルでの連載(2016年4月~2017年3月)をまとめた『高田長老の法隆寺いま昔』(構成:小滝ちひろ、朝日新聞社)が出版された。

大岡信

没年月日:2017/04/05

読み:おおおかまこと、 Ooka, Makoto*  現代日本を代表する詩人で、美術評論も多数手がけた大岡信は4月5日午前10時27分、誤嚥性肺炎による呼吸不全のため静岡県三島市内の病院で死去した。享年86。 1931(昭和6)年2月16日静岡県田方郡三島町(現、三島市)に歌人・大岡博の長男として生まれる。旧制中学在学中から短歌や詩を書き始め、東京大学文学部国文学科在学中の52年、雑誌『赤門文学』に発表した評論が注目を集める。53年に同大学を卒業、読売新聞外報部記者の傍ら旺盛な創作を進め、川崎洋、茨木のり子、谷川俊太郎らの詩誌『櫂』に参加。63年に新聞社を退社後は65年に明治大学助教授、70年に同大学教授、88年より東京藝術大学教授を務める。『記憶と現在』(ユリイカ、1956年)、『透視図法―夏のための』(書肆山田、1977年)、『春 少女に』(書肆山田、1978年)等清新な実験精神に富む詩集、『紀貫之』(筑摩書房、1971年、翌年読売文学賞受賞)、『うたげと孤心』(集英社、1978年)等日本の古典に根ざした斬新な評論を次々と発表。また連歌・連句という日本古来の集団制作の伝統を現代詩によみがえらせる「連詩」を創始、海外の詩人らと共同制作を重ね、また外国での朗読会、講演等を通じて日本文学の紹介に努めるなど国際的にも活動した。 大岡は詩人としての創作活動の傍ら、50年代から美術評論家としても活躍した。56年に東野芳明や飯島耕一ら東京大学時代の仲間とシュウルレアリスム研究会を立ち上げた後、『美術批評』に初めての美術評論「PAUL KLEE」を執筆。同誌の他『みづゑ』『美術手帖』等で活発な美術論を展開し、数々の美術書の解説も手がける。58年、書肆ユリイカが創立十周年を記念して企画した「ユリイカ詩画展」で、大岡の詩に対して駒井哲郎が銅版画を合作。59年に東京・日本橋の南画廊で開催された「フォートリエ展」カタログ作成に協力したのをきっかけに同画廊主の志水楠男と知り合い、同画廊を通じて国内外の現代芸術家と交流するようになる。加納光於、宇佐美圭司、嶋田しづ、サム・フランシス、ジャン・ティンゲリーといった美術家はもとより、武満徹や一柳慧といった音楽家とも親交を結んだ。なかでも加納光於とは60年の南画廊での個展で大岡が作品を買ったことがきっかけとなって親しくなり、互いの詩作、作品制作にも深く係わり合い、共同制作「アララットの船あるいは空の蜜」(1971―72年)を生み出した。また63年にパリ青年ビエンナーレ詩部門に参加するため渡仏した際に菅井汲と出会い、以後幾度か詩と画のパフォーマンス的共演を行うなど、美術家との共同制作を試みたほか、自ら版画や水彩画の制作にも取り組んだ。 79年から『朝日新聞』に連載したコラム「折々のうた」で80年に菊池寛賞を受賞。日本現代詩人会会長、日本ペンクラブ会長を歴任し、1995(平成7)年には恩賜賞・日本芸術院賞を受け日本芸術院会員となる。2002年に『大岡信全詩集』(思潮社)が刊行。03年文化勲章を受章。翌年には文化交流の功労に対しフランス政府からレジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)を贈られる。06年から07年にかけて三鷹市美術ギャラリー他で、芸術家同士の交流を通じて収集された作品を紹介した「詩人の眼・大岡信コレクション」展が開催。長男の大岡玲(あきら)は作家。09年に脳出血で倒れた後は一線を退き、療養に努めていた。 大岡の美術に関する主要著書は下記の通りである。『芸術マイナス1』(弘文堂、1960年)『ポロック』(みすず書房、1963年)『芸術と伝統』(晶文社、1963年)『眼・ことば・ヨーロッパ』(美術出版社、1965年)『肉眼の思想』(中央公論社、1969年)『現代美術に生きる伝統』(新潮社、1972年)『装飾と非装飾』(晶文社、1973年)『ドガ』(新潮社、1974年)『岡倉天心』(朝日新聞社、1975年)『日本の色』(朝日新聞社、1976年)『加納光於論』(書肆風の薔薇、1982年)『ミクロコスモス 瀧口修造』(みすず書房、1984年)『抽象絵画への招待』(岩波書店、1985年)『美をひらく扉』(講談社、1992年)

見城敏子

没年月日:2017/04/01

読み:けんじょうとしこ  東京文化財研究所名誉研究員の見城敏子は、4月1日に死去した。享年89。 見城は1927(昭和2)年9月14日、大阪市住吉区に生まれた。40年に大連弥生高等女学校に入学、同校を44年3月に卒業後、4月に大連メリノール家政学院入学、46年4月に同校を卒業、48年に帰国し、50年4月に東京都立大学応用化学科入学、51年3月同大学中退、53年4月日本大学短期大学部応用化学科入学、55年3月同大学卒業、56年4月日本大学工学部工業化学科編入学、58年3月同大学を卒業した。同年4月より東京国立文化財研究所保存科学部に勤務。77年11月30日、日本大学から漆塗膜に関する研究で工学博士を授与される。79年8月より物理研究室長を務めた。1989(平成元)年3月に同研究所を退官した。90~2000年まで玉川大学通信教育部非常勤講師として、00~02年には東京学芸大学教育学部非常勤講師、02~04年静岡文化芸術大学非常勤講師として教鞭をとり、文化財保存科学の分野において、人材の育成にもつとめた。07年第1回文化財保存修復学会学会賞を受賞。また、文化財虫害研究所評議員、古文化財科学研究会評議員、千葉県文化財保護審議委員、中国泉州文物保護科協議会顧問、色材協会審議委員、漆を科学する会顧問をつとめた。 東京国立文化財研究所では、伝統技法と文化財の保存・修復に関する研究を進めた。研究対象は日本画材料、油絵材料、木材など、すべての美術品材料に及んでいるが、顕著な業績として、漆工芸品の保存のために漆材料の研究、硬化条件と物性、漆材料と顔料の相互作用、分析手法の検討とデータの集積、混合する油の影響について検討した。基礎的な研究から現場で試験可能な方法の応用開発、出土資料の分析にも成果が展開され、日本の文化財科学の進展に多大な功績を残した。 文化財の保存に関わる研究においては、新築のコンクリート造建物内で美術品が受ける影響、防腐剤・防虫剤の影響について化学的な研究を進めるとともに、文化財の長期保存のための環境の監視方法や湿度調整方法、伝統技法の効果について科学的検証を進め、収蔵庫に求められる条件を明示し、特に酸・アルカリ対策の必要性を明確にした。室内空気の偏酸・偏苛性を判断する変色モニター、変退色に対する光モニター、防湿性・ガスバリア性を持つ二軸延伸ビニロンフィルム法による保存手法の開発など時代をリードする画期的な、かつ、利用者の視線に沿った環境監視ツールの開発は、文化財保存現場の管理能力底上げに資するものであった。 国宝・東照宮陽明門修理、岩内山遺跡北陸自動車関係遺跡調査、メスリ山古墳奈良県史跡名勝天然記念物調査、上総山王山古墳調査、宮城県多賀城席調査、史跡・虎塚古墳彩色壁画調査、茨城県教育財団鹿の子C遺跡漆紙文書調査、寿能泥炭層遺跡調査、千葉県香取郡栗源町台の内古墳調査、二条城書院環境調査、小山市宮内北遺跡文化財調査、糸井宮前遺跡Ⅱ加熱自動車道地域埋蔵文化財調査、港区済海寺・長岡藩牧野家墓所発掘調査、粟野町戸木内遺跡埋蔵文化財調査、中田横穴保存状態調査、出雲岡田山古墳調査、石巻市五松山洞窟遺跡文化財調査、大歳御祖神社拝殿調査、広島壬生西谷遺跡美亜像文化財調査、久米島具志川村清水貝塚発掘調査、杉谷三号墳八区調査、一の谷中世墳墓群遺跡調査、厚木市吾妻坂古墳調査、長柄町横穴群徳増支群発掘調査などに保存科学者として関わり、多くの報告を著した。 研究成果は雑誌に数多発表され、『古文化財之科学』、『日本漆工』、『色材協会誌』、『塗装技術』、『塗装工学』、『塗装と塗料』、『考古学雑誌』、『保存科学』、『文化財の虫菌害』、『照明学会誌』、『博物館学雑誌』、『博物館研究』、『文化庁月報』、『建築知識』などで読むことができる。

林屋晴三

没年月日:2017/04/01

読み:はやしやせいぞう、 Hayashiya, Seizo*  日本陶磁史、とくに茶陶の研究を進めた東京国立博物館名誉館員の林屋晴三は、4月1日に誤嚥性肺炎のため死去した。享年88。林屋は日々茶の湯を実践していたので、数寄者という印象で見られがちであるが、東京国立博物館次長、裏千家茶道資料館顧問、頴川美術館理事長、菊池寛実記念智美術館館長などを歴任し、博物館や美術館における展覧会活動には終生関わりながら、陶磁史研究者としての矜持をもち続けた生涯であった。 1928(昭和3)年7月25日、京都で五人兄弟の末っ子として誕生。母親が茶の湯を嗜むことから、幼いころから自然と茶の湯に親しんできた。40年頃に表千家に入門し、終戦前には表千家の最高位の次の「唐物盆点」の免状をもらうに至っている。林屋の一族はもと加賀藩のお茶師の家で、明治時代末期に京都へ移住、宇治・木幡に製茶会社を立ち上げていた。京都府立京都第五中学校を卒業した後、敢えて大学で学ぶことは選ばなかった。しかし、陶磁研究者への道は、京都の絵画専門学校(現、京都市立芸大)に進んだ長兄の紹介で、日満文化協会理事で中国美術史研究者の杉村勇造と面識を得、杉村の薦めで東京にて学芸員になることを目指すこととなる。47年5月に18歳で東京に出て、杉村の紹介で東京国立博物館を訪れる。正式な職を得るまで図書室で独学、48年2月に非常勤の事務員(雇員)となり、その後数年を経て技師として採用される。「終戦直後で、博物館に入ろうという人間はいなかった時代ですから、僕みたいな中学しか出ていない者でも採用してくれたんですよ」と本人が語っている通り、林屋は大学で育ったアカデミックな世界にどっぷりと浸かった研究者とは異なり、博物館という現場で実際に陶磁器に触れながら鑑識眼を叩き上げていった。そして持ち前の自由な発想と柔軟な指向性から、「林屋メソッド」といわれる独自の審美眼や方法論を構築した。 東京国立博物館では陳列課陶磁係として、陶磁学者の奥田誠一の下に配属され、若干二十歳そこそこで展示作業、収蔵庫倉での作品調査など経験を積み、さらには『日本の陶磁』(東都文化出版、1954年)の編集を奥田から一任され、写真撮影から編纂のほとんどを手掛けることとなる。後に林屋は陶磁関連の図書を積極的に出版していくことになるが、林屋ほど多くの陶磁全集を手掛けた研究者は現在に至るまでその例を見ない。その関連した陶磁全集は、『世界陶磁全集 全16巻』(河出書房、1955~61年)、『陶器全集 全30巻』(〓凡社、1958~66年)、『日本の陶磁』(中央公論社、1971~74年)、『陶磁大系 全53巻』(〓凡社、1973~78年)、『世界陶磁全集 全22巻』(小学館、1976~86年)、『日本の陶磁-現代編 全8巻』(中央公論社、1992~93年)など枚挙に暇ない。特筆されるのが、『日本の陶磁』(中央公論社、1971~74年)で明らかなように、良質の写真図版、そして秀逸なる図版レイアウトなど、その質の確かさである。器を美しく見せるポイントを熟知した林屋は、陶磁器図録作成の先達的存在であり、彼に育てられた編集者や写真カメラマンは数えきれない。 さらに林屋が企画した代表的な展覧会としては、中国陶磁・韓国陶磁・日本陶磁の名品が集められた「東洋陶磁器」展(東京国立博物館、1970年)、本格的な日本陶磁の海外展となった「米国巡回 日本陶磁展」(米国四会場で開催、1972年)、そして特別展「茶の美術」(東京国立博物館、1980年)が挙げられる。とくに「茶の美術」は、茶の湯をテーマとする国立博物館で初の企画展で、その点でも大いに話題となった。かつて日本美術史の研究者は茶の湯道具を研究対象と見做さない傾向もあったが、この展観をきっかけに、茶の湯道具の歴史的意義と美術的価値が再認識されることとなる、重要なエポックとなった展覧会であった。 林屋はその開放的な人柄から、様々な分野の人々と垣根を作らず、幅広い人脈を築いていた。東洋陶磁学会では古窯跡研究の〓崎彰一(1925~2010年)ら考古学者とも交流し、陶磁学の分野に考古学的成果を活かす研究視点を積極的に打ち出している。また、長く理事を務めた日本陶磁器協会(1950年~)においても多くの研究者、コレクター、陶芸家に大いに刺激を与える存在であった。とくに研究者や陶芸家には思ったことは遠慮なくズバリと指摘する怖い教師役であったが、しばしば叱った後に独特の愛嬌のある笑顔を見せる、面倒見の良い「叱り上手」であった。 日本の陶磁史研究は西欧諸国の影響を受け、大正時代後期に本格的に開始されたと言われる。産学共同で「陶磁器研究会」や「彩壺会」などが結成され、やきものを芸術として鑑賞する「鑑賞陶磁」という概念が確立された。その動きの中心人物の一人が奥田誠一であった。奥田の愛弟子である林屋は、紛れもなくこの近代に確立した鑑賞陶磁研究を現代にまで繋げた、最後の生き証人であった。

森田稔

没年月日:2017/02/13

読み:もりたみのる、 Morita, Minoru*  九州国立博物館名誉館員で一般財団法人環境文化創造研究所理事の森田稔は消化器疾患のため2月13日に急逝した。享年62。 1954(昭和29)年6月14日に岐阜県岐阜市に生まれ、73年に岐阜県立岐阜北高等学校を卒業し、広島大学文学部史学科(考古学専攻)に入学した。広島大学卒業後、名古屋大学大学院文学研究科に進学し、80年に史学地理学専攻考古学専門博士課程(前期)を修了した。同年4月1日に神戸市教育委員会事務局文化課学芸員に採用され、同市の埋蔵文化財調査担当を経て、85年4月1日に神戸市立博物館学芸課に学芸員として配置された。在職中、1995(平成7)年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に遭遇し、地元の博物館職員として被災した文化財のレスキュー事業にかかわり、その後96年12月1日に文化庁文化財保護部美術工芸課文化財調査官(考古部門)として採用された。翌97年4月1日から文化財管理指導官を併任し、全国の博物館・美術館の指導に当たった。 文化庁在籍時代の森田は、阪神・淡路大震災の経験を活かして文化財の災害対策に積極的に取り組んだ。また国内で広く行われていた臭化メチルによる燻蒸処理を、国際的な流れに沿った新しい生物被害防止方法に切り替えるために、担当官として大きな働きをした。当時は97年9月にカナダのモントリオールで開催されたモントリオール締約国会議で、オゾン層保護のため臭化メチルの国際的な全廃が前倒しされて2004年末に繰り上がることが決まり、カビや虫の被害が多い日本としてどの様に対処するかが喫緊の課題となっていた時期であった。臭化メチルの代替法については東京国立文化財研究所保存科学部(当時)が調査・研究を行っていたが、森田は行政の立場から博物館、美術館、社寺、各地の教育委員会などの現場が抱える不安の解消にあたり、文化庁に調査研究協力者会議を立ち上げ「文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引き」(2001年3月)を取りまとめ、総合的有害生物管理(IPM)による文化財の生物被害防止への道を作った。 その後、森田は01年4月1日に美術学芸課主任文化財調査官となり、04年4月1日に独立行政法人国立博物館(当時)京都国立博物館に学芸課長として転出した。さらに08年4月1日には独立行政法人国立文化財機構九州国立博物館の学芸部長として異動し、その2年半前に開館した九州国立博物館の運営に当たった。森田は09年8月1日に副館長に昇任し、11年4月には放送大学の客員教授にも就任して「博物館資料保存論」を同館学芸部博物館科学課長の本田光子と共に担当し、博物館におけるIPMの普及に努めた。その後、森田は体調不良から定年一年前の14年3月に退職し、同年4月1日に九州国立博物館の名誉館員となった。同日、一般財団法人環境文化創造研究所の理事(文化財担当)、同年10月1日には福岡県田川市文化財アドバイザーに就任した。 阪神・淡路大震災を神戸市立博物館の学芸員として体験した森田は生涯、文化財の防災対策に大きな関心を持ち文化庁においてだけでなく、一般社団法人文化財保存修復学会でも理事として学会内に災害対策調査部会を設置するなど尽力し、それらの功績により16年6月に第10回学会賞を受賞した。救済の対象を指定文化財だけに限らない文化財レスキューが、災害発生後に迅速に開始されるようになったことには、生涯、文化財の防災対策の必要性を訴え続けた森田の功績が大きい。

上原和

没年月日:2017/02/09

読み:うえはらかず、 Uehara, Kazu*  日本美術史研究者の上原和は2月9日、心不全のため死去した。享年92。 1924(大正13)年12月30日、台湾台中市において父・繁秀、母・登美子の次男として生まれる。1944(昭和19)年9月台北帝国大学予科文科三年を修了し、台北帝国大学文政学部に入学するが、学徒出陣として同年同月茨城県土浦海軍航空隊に入隊。45年8月の終戦にともない鹿児島県桜島海軍第五水上特攻戦隊司令部より復員。翌年1月に九州帝国大学法文学部に転入学して哲学科美学美術史学を専攻する。48年3月、九州大学法文学部を卒業し、4月よりは同大学大学院文学研究科特別研究生前期課程美学及美術史専攻に進学。矢崎美盛に師事し、ドイツ古典主義美学及び美術様式論を研究する。50年3月同前期過程を修了。4月より55年10月まで宮崎大学学芸学部講師として美学を担当。11月には相良徳三の招請により成城大学文芸学部の芸術コース(のちの芸術学科)の設立のため専任講師として着任。美学・美術史を担当する。56年10月成城大学文芸学部助教授に昇任。64年10月同大学同学部教授に昇任。学科の発展に尽くし、75年には同大学大学院文学研究科に美学美術史専攻を開設。同年には『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(朝日新聞社)で亀井勝一郎賞を受賞(なお、同書は1978年には朝日選書として、84年には朝日文庫として、また、92年には講談社学術文庫の一冊として再刊を重ねた)。86年4月より同大学文芸学部長を併任(1990年3月まで)、1992(平成4)年10月には『玉虫厨子 飛鳥・白鳳美術史様式史論』(吉川弘文館、1991年)で九州大学より博士(文学)の学位を受ける。翌年4月、成城大学大学院文学研究科長を併任し、95年3月に退任。大学より名誉教授の称号を受ける。この間、成城大学内の役職として学園評議員、学園理事、大学評議員を務め、学外にあっては美学会、美術史学会、民族藝術学会、日本文芸家協会、日本ペンクラブに所属して、美学会委員、民族藝術学会評議員、日本キリスト教芸術センター幹事を務めた。 上原の学問的業績の全貌は『上原和博士古稀記念美術史論集』(同刊行会、1995年)に付された著作等目録に示される通りであるが、日本古代仏教史を専門とし、その視野はギリシアから西アジアをへて印度・中央アジア・中国・朝鮮・日本に及ぶ広汎なものであり、現地踏査のうえでの緻密かつ実証的であった点に特色がある。研究の中心は、法隆寺の遺構および遺物を中心とする日本古典美術と朝鮮・中国美術との様式的比較研究にあり、ことに法隆寺と玉虫厨子、聖徳太子研究の第一人者として斯界の研究を長く牽引した。また、研究の過程で培い、親交のあった中国・敦煌研究院との交流は、本務の成城大学に留まらず、97年から行われた朝日新聞社の「敦煌研究員派遣制度」へと結実。その初回より選考委員長に就任し、多くの若手研究者を現地研修に送り出すとともに、研究者の育成と輩出に尽力したことは彼の大きな業績として特筆されなければならないであろう。

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