本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





土田麦僊

没年月日:1936/06/10

読み:ツチダ, バクセン*、 Tsuchida, Bakusen*  帝国美術院会員土田麦僊は6月10日逝去した。享年50。麦僊名は金二、明治20年2月新潟県佐渡郡に生る。16歳の時上洛、翌年鈴木松年に入門したが37年秋、竹内栖鳳門に転じた。同38年初めて第10回新古美術品展に「清暑」を出品し4等に入賞。又同40年には文展第2回に「罰」を出品し一躍3等賞に挙げられ新進作家の名を成した。その後文展に「島の女」、「海女」、「大原女」、「三人の舞妓」、「春禽趁晴」等の問題作を出陳したが、此の期には或は仏蘭西近代絵画を学び或は桃山芸術に傾倒する等の大胆なる追究が試みられた。大正7年1月官展を去り同志と共に国画創作協会を結成して昭和3年の同会解散に至る迄在野人として活躍した。「湯女」、「三人の舞妓」更に外遊後の「大原女」等は此の間の力作である。尚大正10年秋欧洲に遊び12年に帰国した。昭和4年帝展第10回に「罌栗」を出品、官展に復帰した。爾後毎回出品し又七弦会、清光会等にも力作を発表した。晩年の仕事は漸次理智的に冷徹になつて、技巧的な巧緻さが行き渡り構図、色彩の完美さが際立つて来てゐた。同9年帝国美術院会員に任命さる。同10年夏渡鮮し、改組帝展に「妓生の家」を出品すべく既に画稿は完成し本図に着手し乍ら遂に起たなかつた。土田麦僊略年譜年次 年齢明治35年 16 上洛明治36年 17 鈴木松年の門に入る明治37年 18 栖鳳門に移る明治38年 19 新古美術品展第10回「清暑」4等賞明治39年 20 新古美術品展第11回「残陽」3等賞明治40年 21 新古美術品展第12回「春の歌」2等賞1席明治41年 22 文展第2回「罰」3等賞明治42年 23 絵画専門学校入学明治42年 23 新古展第14回「徴税日」2等2席明治43年 24 新古展第15回「春山霞壮夫」2等2席明治44年 25 京都絵専選科卒業明治44年 25 文展第5回「髪」褒状大正元年 26 文展第6回「島の女」褒状、「冬」大正2年 27 文展第7回「海女」大正3年 28 文展第8回「散華」褒状大正4年 29 文展第9回「大原女」3等賞大正5年 30 文展第10回「三人の舞妓」大正6年 31 文展第11回「春禽趁晴」大正7年 32 1月国画創作協会組織。国展第1回「湯女」大正8年 33 国展第2回「三人の舞妓」大正9年 34 国展第3回「春」大正10年 35 秋西欧美術巡礼に旅立つ。大正12年 37 3月帰朝大正13年 38 国展第4回「舞妓林泉図」大正14年 39 国展第5回「罌栗」、「鮭と鰯」、「舞妓」、「大原女」大正15年 40 聖徳太子奉讃展出品「鶉」昭和2年 41 国展第6回「大原女」昭和3年 42 国展第7回「朝顔」、7月国画創立協会解散。昭和4年 43 帝展第10回「罌栗」昭和5年 44 帝展11回「明粧」、審査員任命。七弦会第1回展「蓮華」、「麗日」昭和6年 45 帝展第12回「娘」。七弦会第2回展「舐瓜図」「菊」。瓜図(久迩宮家御所蔵)昭和7年 46 第13回帝展審査員任命。七弦会第3回展「黄蜀葵」昭和8年 47 帝展第14回「平牀」。清光会第1回展「芍薬」、「菊」。七弦会第3回展「山茶花」昭和9年 48 帝展第15回「燕子花」。10月20日帝国美術院会員任命。昭和10年 49 春虹会第1回展「舞妓」。清光会第3回展「蓮」、「舞妓」。七弦会第5回展「歌妓図」。秋渡鮮。「妓生の家」画稿成る。昭和11年 50 「妓生の家」製作中罹病。5月27日大学病院入院。6月10日逝去。

尾竹竹坡

没年月日:1936/06/02

読み:オタケ, チクハ*、 Otake, Chikuha*  尾竹竹坡は旧冬以来気管支喘息を病み、本郷区の自宅で療養中であつたが、6月2日遂に逝去した。享年59。本名染吉、明治11年1月新潟に生る。兄弟3人、兄は越堂、弟は国観。4歳にして笹田雲石に就いて南画を学ぶ。同27年、第4回内国観業博覧会に「少年書画会図」を出品。同29年出京し、川端玉章に入門した。同31年東京文学社出版の小学毛筆画8冊、中学毛筆画8冊の原図浄写の代筆を橋本雅邦に依嘱され完了した。同39年同志安田靭彦、今村紫虹、尾竹国観、飛田周山等と共に大同画会を創立、之は後日本美術院の同人合同して国画玉成会となつたが、同41年国画玉成会展に「仏舎利分与」を出品、この時岡倉覚三と衝突して退会し、次で同会も解散となつた。大正2年7月越堂、国観と合同して八華会展覧会を開催、翌年代議士候補に立ち選挙に争つた。同8年秋自ら八火社を創立し門人を率ゐて展覧会を開いた。昭和2年帝展第8回に際し無鑑査に推薦さる。11年1月以来病勢一進一退、病床にあつて没する前日に至る迄1日も筆を休めなかつたと言ふ。作品略年表年次 年齢明治28年 18 日本美術協会展「観桜図」明治30年 20 日本美術協会展「石川麿」明治31年 21 日本絵画協会4回展「空中声」褒状1等。日本美術協会「静吉野雪」褒状1等明治32年 22 日本絵画協会7回展「春曙」褒状1等明治33年 23 日本絵画協会8回展「四季山水」褒状1等明治40年 30 文展1回「羅喉羅」明治42年 32 文展3回「茸狩」3等賞明治43年 33 文展4回「おとづれ」2等賞明治44年 34 巽画会11回展「梅」「太子」1等賞。文展第5回「水」2等賞大正4年 38 文展8回「豪華」3等賞大正5年 39 文展10回「ゆたかなる国土」大正6年 40 文展11回「みそのの秋」大正7年 41 文展12回「健雷神」大正8年 42 八火社展12点大正9年 43 八火社展2回展10点大正10年 44 八火社展3回展8点大正13年 47 帝展5回「市町村」3点大正14年 48 帝展6回「大地円」大正15年 49 帝展7回「峠」昭和2年 50 帝展8回「山中の水」昭和3年 51 帝展9回「雑草」昭和4年 52 帝展10回「生常四幅」昭和5年 53 帝展11回「唱」昭和6年 54 帝展12回「鶏頭」昭和7年 55 帝展13回「阿寒原始林」昭和8年 56 帝展14回「安楽豊蚕」昭和9年 57 帝展15回「日盛」

佐分真

没年月日:1936/04/23

読み:サブリ, シン*、 Saburi, Shin*  佐分真は4月23日未明、滝野川区の自宅画室に於て、遺書3通を遺して縊死を遂げた。享年39。明治31年名古屋市に生れ、大正11年東京美術学校西洋画科を卒業、同15年白日会員となり、昭和2年1月渡仏、同4年光風会員となり翌年帰朝。同6年帝展第11回に「貧しきキヤフエ」を出品して特選となつた。同年秋再渡仏し、翌年帰朝、同8年帝展第13回に「画室」が、又翌年の第14回に「室内」が特選となつた。同9年東宝劇場に美術部嘱託として入社、翌年同劇場に壁画を執筆した。10年の帝院改組に際しては第二部会に参加せず、白日会及光風会を脱会して独自の立場を守つた。晩年諸雑誌に随筆を多数書いた。彼は親の遺産を受け継いで画家には稀な富豪であつた。11年9月銀座松坂屋に遺作展開催せられ、作品約百点が出陳され、同時に遺作集、遺稿が上梓され、生前の知己に頒たれた。又佐分賞が設立された。

石川寒巌

没年月日:1936/03/25

読み:イシカワ, カンガン*、 Ishikawa, Kangan*  日本南画院同人石川寒巌は盲腸炎で赤十字社病院に入院中3月25日逝去した。享年47。名は寅寿、明治23年2月11日栃木県那須郡に生る。同42年大田原中学卒業後、秋上京し、故佐竹永邨に師事、同44年春病気の為帰省し、大正9年秋再度上京、小室翠雲の門下となり、同14年9月日本南画院の同人に列した。作品略年表(年次) (年齢)大正14年 36 日本画会展「麓」1等賞大正14年 36 日本南画院「煙雨」昭和5年 41 日本南画院「一芳四鮮」昭和6年 42 日本南画院「仔牛」「十六賞心事」昭和7年 43 日本南画院「松石不老」「碧岩画冊」昭和8年 44 日本南画院「雪文」「桃花扇伝奇」昭和9年 45 日本南画院「永春」「世説新語冊」

河合新蔵

没年月日:1936/02/15

 我が水絵界の先輩、旧帝展無鑑査、太平洋画会、第二部会々員、河合新蔵は1月以来病気の為京都帝大病院に入院加療中であつたが2月15日逝去した。享年70。無涯と号す。慶応3年5月27日大阪市に生る。明治24年東京に出で初め五姓田芳柳に学び、後小山正太郎家塾不同舎に入学した。同34年10月米国経由にて渡欧、巴里に2年半留学、ラフアエル・コランに師事し、同37年帰朝。爾来京都市に居住し、関西洋画壇の為貢献する所が大きかつた。

原田和周

没年月日:1936/01/16

読み:ハラダ, ワシュウ*、 Harada, Washu*  春陽会々友原田和周は豫て肝臓癌のため加療中であつたが1月16日逝去した。享年42。明治28年静岡県磐田郡に生る。大正3年日本美術院洋画部の研究員となり数回院展に出品して同6年同院々友に推薦された。この頃原田恭平と称す。大正11年以降春陽会展第1回より毎回出品し、聚文と号したが、昭和8年和周に改めた。その遺作は11年度春陽会展に油絵10点が陳列され、更に同年7月銀座日動画廊に遺作展が開催された。故人の作風に就ては山本鼎が同遺作展案内状に認めた紹介文の一節を掲げる。 「胸の病をもつた此の人は、田園生活を続けましたから、絵のモテイフは概ね田園の景物です。着実な印象派系統の仕事を以て始終し、前期のものは質朴な筆致と寂のある調色が特色ですし、後年のものは、敢て筆致をころした重厚なマチエールと、鮮麗な陽色が目を惹きます」

岸浪柳渓

没年月日:1935/12/10

読み:キシナミ, リュウケイ*、 Kishinami, Ryukei*  名静司。安政2年江戸に生る。田崎艸雲及福島柳圃に師事した。享年81。

榛沢菱花

没年月日:1935/05/20

 名清、明治36年金沢生。蔦谷龍岬に師事した。旧帝院第8回展に初入選してより旧帝展の常連であつた。享年33。

田中謹左右

没年月日:1935/04/25

読み:タナカ, キンゾウ*、 Tanaka, Kinzo*  明治41年岡山市に生れ、中川一政に師事、昭和7年渡欧し滞仏1年にして帰朝、昭和8年春陽会会友に推挙された。享年28。

速水御舟

没年月日:1935/03/20

読み:ハヤミ, ギョシュウ*、 Hayami, Gyoshu*  名は栄一、明治27年8月2日、東京市浅草質商蒔田良三郎の二男に生れ、明治41年15歳の時近隣の松本楓湖の安雅堂画塾に入門した。明治44年巽画会に出品した18歳の作「室寿の宴」は宮内省御買上の栄に浴した。同年楓湖より禾湖の号を授かつた。但し同年の作と推定されるものに浩然の号を用ひたものがあり、その後御舟と号するに至る迄多く此の号を用ひたらしい。紅児会会員となり今村紫紅に近づくに至つたのも此の年の事である。父方の姓に復して速水姓を名乗る様になつたのは明治末年の事であつた。 大正2年小茂田青樹、牛田鶏村等と京都南禅寺畔に籠居、ひたすら画業にいそしんだが翌年東京目黒に移転し今村紫紅に従つて赤耀会を起し「樵夫」を出品した。又同年「近村」を美術院再興第1回展に出品し、巽画会に於ては「萌芽」によつて1等賞を受けた。 大正6年日本美術院試作展に「伊勢物語」を出品して受賞したが其の年の秋の第4回展には同年京都に移転後製作した「京都の近郊六題」を出品して認められ院の同人に推された。其後の院展出品作品は次の如くである。 「洛北修学院村」(大正7年)、「比叡山」「京都の舞奴」(大正9年)、「菊」「渓泉二図」(大正10年)、「広庭立夏」(大正11年)、「平野点景」「圃畦」「収穫の図」「晴篁図」「早春薄暮」「暁靄」(大正13年)、「供身像」「朝鮮牛之図」「樹木」(大正15年)、「京の家、奈良の家」(昭和2年)、「翠苔緑芝」(昭和3年)「名樹散椿」(昭和4年)、「女二題」(昭和6年)、「花の傍」(昭和7年)、「青丘婦女抄」(昭和8年)。 之等院展出品作以外の主なる作品は大正14年聖徳太子奉賛展出品の「昆虫二題」昭和3年ローマ日本画展に出品の「鯉魚」昭和6年初頭ドイツで開かれた日本美術展出品の「雪夜」(此の作はベルリンの国立博物館東洋部に寄贈された)昭和9年七弦会の会員となつて同会に出品した「白鷺紫閃」、同年東方絵画協会の手で満洲国皇帝に献上された「罌栗」等である。 之等多数の名作を遺した後、「まどかなる月」(大阪松宮文明主催松作画出品展)を絶筆として昭和10年3月20日腸チブスに殪れた。享年42。 御舟は現代に於ける甚だ勝れた一人の進歩的な画家であつたばかりでなく、その人自身の画境に於て常に滞ることなき進展を見せ、且その急速な進展の途上に殪れた若き画人であるから、概括的に固定した画風といふものを規定し難い。が強いてその画風の変遷の中に期を分つならば大体三期を劃することが出来るであらう。 第一期はその初より大正7、8年頃まで、作品から云ふならば「京の近郊六題」「洛北修学院村」等を頂点として之に至るまでの道程と見るべき期間である。人事上にあつては大正8年3月浅草駒形にて隻脚を失ふ程の奇禍に逢つている。之は恐らく深刻な衝撃であつて一つの転換期を作る素因を成してゐると考へられる。此期の代表作として「京の郊外六題」を採る。これには極めて早期の楓湖の影響は既に殆ど見出し難く、之に代つて紫紅の影響を濃厚に見る。そして初期の作「萌芽」「伊勢物語」等に現れていた甘い叙情的なものが多少形を変へながら未だ豊富に残存し、之に加ふるに写実的な基礎を段々に深めて行つたと見らるべき所のものである。 第二期は之に続き昭和5年頃に至る。「翠苔緑椿」「名樹散椿」の偉作を発表し、昭和5年ローマに於ける日本美術展に際し2月より10月迄外遊したまでの期間である。この間に御舟は種々なる試みをなし、各様の注目すべき作品を発表しているが、その基調となるものは写実への徹底である。或は極度なる細密描写へ、或は大胆なる装飾化へ。好き意味に於ける野心的な試みが一見多様な画風の変遷を示しているやうであるが、その帰一する所は徹底せる自然観照による写実であらう。此間に於てその描線も色彩も甘いふつくらしたものから次第に雋鋭なものへと深められて行つた。「菊」「広庭立夏」「早春薄暮、暁靄」「昆虫二題」「京の家、奈良の家」等は此間の各様の画風の現れとして注目すべき作品であり「翠苔緑芝」「名樹散椿」に至つてこの期間に於ける一の到達点を見出したと云ひ得るのであらう。構成に関する深い研究と、忠実なる写生が真摯なる思索によつて濾過された勝れた単純化に於て、此2作は現代日本画中に於て甚だ高き評価を有すべき作品である。 「青丘婦女抄」はこの作家の最後期に於けるよき進展を示す大作であつた。然し寧ろ之以上に注目すべきは晩年に好んで画いたと思はれる芙蓉、牡丹等の小品に見られる巧まずして滋味の溢るる4、5の作品である。鋭い神経を見せながら温藉な画品を保つているその画風こそ今後の御舟の進展を約束するものではなかつたであらうか。 院展に於ける所謂目黒派の中堅として先進の注目を集め、後進の目標となつてゐた御舟の作品が画壇に及ぼした影響力は甚だ強いものがあつたと云ふべきである。

坂田耕雪

没年月日:1935/02/06

 名万之助、明治4年金沢生。尾形月耕に師事し巽画会会員であつた。享年65。

高取稚成

没年月日:1935/01/30

 名熊夫、慶応3年に生る、幼名は熊若と云つた。幼時住吉広賢の隣家に住した関係から其の門に入つて大和絵を修め、明治16年広賢の没するや山名貫義に就いた。明治18年より同21年に亙つて行はれた皇居御造営に際して奉仕したが、当時青年輩は何れも諸調度品の下絵をつけるに止つたのであるから今日此等のものは熊若の作品としては現存してゐない。この御造営以後青年画家の中に確たる地歩を占めるに至り、その後青年絵画協会或は日本美術協会、文展等にその作品を発表した。文展に於ては第3回に「赫耶姫天上の図」を、第6回に「藤房卿の草子」(2等賞)を第7回第一科に「南淵魚水」(2等賞)を第9回に「四家文躰」(3等賞)を出品して大正10年より3年間審査員を命ぜられた。其の他世に聞える作品としては宮内省蔵「大正四年御即位大典絵巻」、今神宮徴古館に保管せらるる昭和4年度皇太神宮式年遷宮絵巻12巻、明治神宮絵画館奉献壁画「有栖川征東大将軍宮建礼門御通過の図」等がある。 嘗て久迩宮家御用掛たり、現に伊勢神宮技芸員、宮内省嘱託であつた。 最後迄生き残つた純粋な土佐派の画家として、取材なり、技法なり忠実に古法を墨守した其の画風は不幸時世の顧る所とならなかつたが、歴史的には甚だ貴重な存在であつた。享年69。

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