本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





鳥居敏文

没年月日:2006/08/15

読み:とりいとしふみ、 Torii, Toshifumi*  独立美術協会会員の洋画家鳥居敏文は8月15日午後2時10分、多臓器不全のため東京の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月26日、新潟県村上市に生まれる。旧制村上中学校に学び、後に新制作協会で活躍する竹谷富士雄と親交が深く、ふたりとも美術部に在籍。中学校在学中に、同郷の矢部友衛に啓発されてマルクスを学ぶ必要を感じ、東京外国語学校(現、東京外語大学)独語科に入学。1931(昭和6)年に同校を卒業する。プロレタリア美術家同盟に参加し、太平洋美術研究所に学び画家を目指していた竹谷に誘われて、32年、シベリア鉄道でドイツに渡り、のちソヴィエト、ギリシャ、スペイン、イギリス、オランダを旅行する。33年、パリに定住し、アカデミー・グランショーミエールでデッサンを学び、シャルル・ブランに師事。また、パリ滞在中の画家林武のアトリエに通ってその制作に学ぶ。35年に帰国し、37年第7回独立展に「ロバに乗る少年」を出品。以後、一貫して独立展に出品する。39年第9回同展に「山の仲間」「子供たち」を出品して独立美術協会賞を受賞。40年第10回同展に「森の家族」「休息」を出品し、独立美術協会会友に推される。42年中国東北部(当時の満州)に写生旅行。43年第13回独立展に「家族の旅」「路傍」を出品して岡田賞受賞。同年国民総力決戦美術展に「鉱山に働く」を出品して朝日新聞社賞を受賞。同年の文展に「鉱山の娘達」を無鑑査出品する。44年文部省戦時特別美術展に「必中」を出品。46年独立美術協会会員となる。同年、日本美術会結成に参加。47年、日本アンデパンダン展を開催。また、美術団体連合展に出品する。52年美術家懇話会結成に参加し平和美術展を開催する。53年、美術懇話会は美術家平和会議と改称する。60年、米国サクラメント市クロッカー美術館で開催された「独立6人展」に出品。63年第31回独立展に「草の上」「野外静物」を出品して独立G賞を受賞。64年、林武門下生によるグループ「欅会」を結成し、79年まで毎年展覧会を開催する。67年、具象画家による「新具象研究会」を結成し、73年まで季刊誌「画家」を刊行する。70年、73年に南欧旅行。79年日本美術家連盟代表として韓国美術家協会を親善訪問。80年郡山市東苑現代美術館で自選展を開催。81年ソ連文化省招待によるソヴィエト写生旅行に参加する。82年独立美術協会会員10人による「叢人会」を結成する。83年、パリに旅行。87年新潟市美術館で「鳥居敏文展」が開催される。1989(平成元)年東京セントラル美術館で「鳥居敏文自選展」を開催。同年および90年にパリ旅行。91年『鳥居敏文画集』を刊行。96年居住する練馬区の区立美術館で「ねりまの美術 楢原健三、鳥居敏文」展が開催された。1930年代に池袋周辺につくられた芸術家村、いわゆる池袋モンパルナスの一員であり、36年11月15日から30日まで池袋にあった香蘭荘、コティ、紫薫荘、セルパンで開催された池袋美術家倶楽部第1回展覧会に小熊秀雄、寺田政明、桑原実、佐藤英男らとともに出品している。原色を多用する初期の独立展の作風の中で、穏やかな色調で労働者や市井の人々を描いて注目された。生涯、具象画に徹し、戦後は着衣の若者群像を室内や風景の中に配して、平和や自由への希求を表現した。ピカソの「ゲルニカ」、ドラクロアの「民衆をひきいる自由の女神」など著名な作品を画中に取り入れる手法でも知られる。9月17日午後3時から東京都千代田区飯田橋のホテルグランドパレスで「偲ぶ会」が開かれた。

田中稔之

没年月日:2006/08/07

読み:たなかとしゆき、 Tanaka, Toshiyuki*  行動美術協会会員の画家、田中稔之は8月7日午後1時14分がんのために死去した。享年78。1928(昭和3)年4月13日、山口県防府市牟礼岸津に生まれる。35年防府市牟礼尋常小学校に入学し、一水会の画家津田正毅(三木)に担任され、絵に興味を持ち始める。41年、同校を卒業し、山口県立防府中学校に入学。43年、山口県光海軍工砲工部機具工場に学徒動員。46年に中学に復帰し、同年卒業して山口青年師範学校農学部に入学。この頃から画家を志す。49年師範学校を卒業し、同年、徳山第二中学校(現、湖南中学)教諭となり、2年間、理科、図工、職業(農業)を教える。同年、徳山市美術展で特選を受けたことを契機として、安野光雅との交遊が始まる。通信教育などをもとに独学で絵を学び、日展に出品するが落選。50年夏、上京して東京美術研究所でデッサンを学ぶ。同年、東京芸術大学を受験するが不合格となり、日本大学芸術学部3年生編入に合格するが、支援の望みがなく断念。51年に再度上京し、大田区赤松小学校図工専科教諭となる。また、向井潤吉に師事し、行動美術研究所でデッサンを学ぶ。52年第38回光風会展に「水」で入選。52年第7回行動展に「内海の小港」で初入選。以後、同展に出品を続ける。53年、読売アンデパンダン展に出品。54年、第9回行動展に「或る日の波止場」を出品して奨励賞受賞、55年同会会友となる。57年、新宿風月堂で「井上武吉・田中稔之―絵画と彫刻展」を開催。58年第13回行動展に「動」「落石」を出品し、行動美術賞を受賞。翌年同会会員となる。60年第4回現代日本美術展に「作品A」「作品B」を出品。61年、大田区赤松小学校を退職し、画業に専念。62年、第5回現代日本美術展に「赤の地平A」を出品。同年、渡欧のため下関大丸、宇部市役所、防府丸久などで展覧会を開き、資金を得て、63年に渡欧。パリを拠点にイギリス、ノルウェー、オランダなどを巡遊する。同年、ウィリアム・ヘイター教室で版画、絵画を学ぶ。64年、当時パリで活躍中であった菅井汲のアシスタントとなりアトリエに通う。また、同年スペイン、イタリア、スイスに旅行。65年5月に帰国。アンフォルメルの抽象表現主義的作風から幾何学的抽象へと作風が変化し始める。73年ころから、後年田中の主要モチーフとなる円が画面に登場するようになる。75年、多摩美術大学非常勤講師となる。また同年坂崎乙郎の企画により、新宿紀伊国屋画廊で坂本善三、白野文敏と三人展を開催。これを契機として坂本善三との交遊が始まる。77年、モンゴル、シベリアに旅行し、大地と空のみの壮大な自然に触れ、地平に沈む太陽に感銘を受ける。79年、西チベット、ラダックへ旅行、80年新疆ウイグル自治区を訪れ、大地と空のみの空間体験を重ねる。これらの体験により、画面を構成する幾何学的円が具象性を持つものとなる。85年多摩美術大学教授となる。86年、「円の光景‘85―31(天円地方)」により第9回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞。87年第3回東郷青児美術館大賞作家展に大賞受賞作他15点を出品。また、同年、神奈川県民ホールギャラリーで個展を開く。1989(平成元)年、山口県芸術文化功労賞受賞。97年、パリでSAGA展を開催する。99年多摩美術大学退職記念展を同大附属美術館で開催。2001年坂本善三美術館で個展「田中稔之―響きあう世界 大地・海・天空」を開催し、初期から新作まで67点を展示した。最初期には具象的風景画を描いたが、まもなく色彩と有機的なかたちで画面を構成する抽象画へと移行し、70年代後期から円を主なモチーフとした明快な色面による幾何学的抽象絵画を描いた。画集に『Red Horizon』(石版画集)(MMG、1976年)、『田中稔之』(東美デザイン、1981年)、『朱の舞』(版画集)(スズカワ画廊、1990年)がある。また、下関市民会館壁画「海峡の陽」(1980年)、防府市議会ロビーモザイク「瀬戸内の陽」(1982年)、徳島市総合スポーツセンター壁画「静と動」(1992年)など公共建築のための壁画も多く制作している。幼い頃から海に親しみ、釣りを趣味とし、2003年、海との関わりをテーマに写真と絵画を組み合わせたコラージュとエッセイで構成した『海との青い交信』を刊行した。

芝田米三

没年月日:2006/05/15

読み:しばたよねぞう、 Shibata, Yonezo*  日本芸術院会員の洋画家芝田米三は5月15日午前4時14分、胃がんのため京都市左京区松ヶ崎西山の自宅で死去した。享年79。1926(大正15)年9月12日、京都市中京区に生まれる。1945(昭和20)年に独立美術京都研究所に入り、須田国太郎に師事。47年第15回独立展に「紫野」で初入選。50年第18回同展に「兄の像」「木の間風景」を出品して独立賞を受賞。同年サロン・ド・プランタン賞を受賞する。53年、独立美術協会準会員となる。57年、同展出品作「丘の樹」が第一回安井賞展に入選。この時期までは風景画が主であったが、58年第26回同展に動物を主要なモチーフとする「老いた山羊」「山羊」「雑草」を出品し、独立美術協会会員に推挙される。63年第31回独立展出品作「樹下群馬」を第7回安井賞候補展に出品し安井賞受賞。65年ヨーロッパに旅行し、以後しばしば欧州、米国、中南米、東欧を旅する。66年第34回独立展に「ナザレの語り」を出品し、G賞受賞。同年から日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象派美術展、国際形象展などに出品する。70年代に入ると人物を主要なモチーフとするようになり、次第に人物によって収穫など人間を含む動植物の生命を象徴する作品へと移行する。73年ユーゴスラヴィア、79年ソヴィエトに旅行。同年、グループ展である十果会展が開催され、以後、同展に出品を続ける。80年『芝田米三画集』(求龍堂)を刊行。81年パリのベルネーム・ジュンヌ画廊およびバルセロナのゴスランド・ギャラリーで個展を開催する。83年「世界の民族に捧げる讃歌 芝田米三展」を大阪梅田大丸ミュージアムで開催。84年「昭和世代を代表する作家シリーズ・1 生命讃歌 芝田米三展」を東京の伊勢丹美術館ほかで開催する。86年京都府主催により京都府立文化芸術会館で芝田米三展を開催、1989(平成元)年に京都府文化功労賞を受賞する。92年にバルセロナのサグラダ・ファミリア教会を背景にアントニオ・ガウディの肖像を描いた「或る建築家未完の譜」を制作して以降、音楽家や哲学者などの肖像にそれらの人物とゆかりの深い場所の風景を組み合わせる作品を多く描く。93年、独立美術協会会員功労賞を受賞。94年、前年の第61回独立展に出品した「楽聖賛歌」によって第50回日本芸術院賞を受賞し、同年日本芸術院会員となる。97年「不滅の楽譜を讃える―芝田米三展」を京都、東京、大阪、横浜、岐阜の高島屋および名古屋丸栄で開催。98年いよてつそごうで「生命うるわし芝田米三展」を開催する。2002年、東京、京都ほかの高島屋で「永遠なる音の翼―芝田米三展」を開催。05年には「地球讃歌―芝田米三展」を日本橋、仙台、名古屋ほかの三越で開催した。06年秋の独立展から芝田米三賞が設けられた。

平川敏夫

没年月日:2006/05/14

読み:ひらかわとしお、 Hirakawa, Toshio*  日本画家で創画会会員の平川敏夫は5月14日、肺炎のため死去した。享年81。1924(大正13)年10月6日、愛知県宝飯郡小坂井町に生まれる。1940(昭和15)年に高等小学校を卒業、京都の図案家稲石武男の塾に住み込み、仕事の中で日本画材の扱いなど基礎を身につける。翌年太平洋戦争の勃発により京都から帰郷。戦後、47年に我妻碧宇によって結成された新日本画研究会で中村正義らとともに学ぶ。50年第1回豊橋美術展に出品した「大崎風景」(水彩画)が豊橋市長賞を受賞。同年中村正義の勧めで第3回創造美術展に出品した「街」が初入選。51年同会が新制作協会日本画部となって以後同会に出品し、54年第18回新制作展「庭四題」、58年同第22回「陶土」「陶土のある街」、62年第26回「樹濤」(文部省買上げ)「樹冬」と、三度にわたり新作家賞を受賞。63年同会会員となった。この間、60年第24回展に「白樹」を出品し、以後、各地に残る原生林を訪ね歩き、樹木を題材に生命の脈動と神秘を表現する。64年第28回「樹焔」、67年第31回「樹響」等を出品。この他、現代日本美術展、日本国際美術展や、71年現代幻想絵画展等にも招待出品。73年にはパリで個展を開催。74年創画会結成に参加し、同会会員として出品を続けた。70年代から80年代にかけて樹木と併せ、塔を主題に閑雅な作風を展開。次第にその色数を減らしながら80年代以降はマスキングによる白抜きの効果を取り入れた水墨表現を追究した。80年中日文化賞、83年愛知県教育委員会文化功労賞、85年東海テレビ文化賞を受賞。1997(平成9)年に岐阜県美術館で「華麗なる変遷 平川敏夫展」が開催されている。

今野忠一

没年月日:2006/04/15

読み:こんのちゅういち、 Konno, Chuichi*  日本画家で日本美術院常務理事の今野忠一は4月15日、脳梗塞のためさいたま市の病院で死去した。享年91。1915(大正4)年3月26日、山形県東村山郡干布村(現、天童市上荻野戸)に生まれる。本名忠市。1931(昭和6)年山形の南画家後藤松亭に入門し、松石と号する。34年山形出身の日本画家高嶋祥光を頼って上京、児玉希望の門人となり、欣泉と号して写実的な風景画を学ぶ。しかし40年には同郷の彫刻家新海竹蔵を介して郷倉千靱の草樹社に入塾、忠一と号して花鳥画に取り組む。40年第27回院展に「菜園」が初入選。郷里での疎開ののち、戦後46年より再び院展に入選を続け、54年第39回「晩彩」、56年第41回「残雪」、59年第44回「吾妻早春」がいずれも奨励賞を受賞する。55年第40回「暮秋」は日本美術院賞、57年第42回「樹と鷺」が同賞次賞、58年第43回「老樹」は同次賞・文部大臣賞を受賞し、59年同人に推挙された。初期の花鳥画から50年代には風景画に転じ、主に山岳風景をモティーフに、写実と心象が深く融合する深遠な画境を展開。60年第45回「源流」、61年第46回「照壁」等を発表し、77年第62回「妙義」は内閣総理大臣賞を受賞した。78年から88年まで愛知県立芸術大学日本画科主任教授を務める。88年日本美術院理事に選任。1990(平成2)年郷土の天童市美術館で「今野忠一とその周辺展」を開催、以後同館で回顧展をたびたび催し、没後すぐの2006年にも追悼展を行っている。92年から96年まで『中央公論』の表紙絵を担当。92年東北芸術工科大学芸術学部美術科主任教授となる。同年には『今野忠一画集』(ぎょうせい)が刊行。2001年日本美術院常務理事となる。

大野五郎

没年月日:2006/03/07

読み:おおのごろう、 Oono, Goro*  洋画家の大野五郎は3月7日、慢性心不全のため東京都あきる野市内の病院で死去した。享年96。1910(明治43)年2月13日、父大野東一、母幹の五男として東京府下北豊郡岩淵町(現在の東京都北区)に生まれる。父東一は、当時の栃木県都賀郡谷中村の村長を務めていたが、08年に足尾銅山鉱毒事件のために離村していた。青年期に及んで実兄で詩人であった四郎の影響もあって絵画に関心をもち、26年、斉藤與里の紹介で藤島武二が指導する川端画学校に入学する。1928(昭和3)年、第3回一九三〇年協会展に「姉弟三人」など3点が初入選、第5回展まで出品した。この頃長谷川利行、靉光、井上長三郎を知る。29年、同協会の絵画研究所に入り、里見勝蔵に師事し、ゴッホ、フォーヴィスムの影響を深く受けることになり、原色と太い筆致を特徴とする画風の基礎を形成することとなった。また、ここで田中佐一郎、中間冊夫、森芳雄、伊藤久三郎と知りあうことになる。30年に第17回二科展に「風景」「少女」が入選。31年、第1回独立美術協会展に「横向いた肖像」「Nの肖像」が入選、O氏賞を受賞した。この頃、兄四郎がバー「ユレカ」を開店、店を手伝うようになり、ここにあつまる小熊秀雄などの詩人たちとの交友がはじまる。42年横瀬喜久枝と結婚、44年には長男俊介が誕生した。その間の43年に井上長三郎、寺田政明、靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、松本竣介、麻生三郎と新人画会を結成し、展覧会を翌年の第3回展まで開催した。46年に再興した独立美術協会の準会員に迎えられるが、翌年同会を脱退して自由美術家協会に参加。64年には、同協会を離れ、寺田政明、森芳雄、吉井忠とともに主体美術協会を結成した。以後、2005(平成17)年まで毎年出品をつづけ、同協会の結成会員として象徴的な存在となった。また昭和期の史的回顧展に出品されることが多く、88年に練馬区立美術館、広島県立美術館を巡回した「靉光展 青春の光と闇」、91年に板橋区立美術館にて開催された「昭和の前衛展 表現の冒険者たち」、同年に神奈川県立近代美術館にて開催された「松本竣介と30人の画家たち展」、08年に板橋区立美術館で開催された「新人画会展 戦時下の画家たち」等に戦前期の作品が出品された。その没後の同年4月に、「大野五郎―画業八〇年の軌跡」が、八王子市夢美術館にて開催され、初期作から05年までの作品67点が出品された。その画風は、自ら語るように酒を愛し、豪放磊落の性格を表したように、赤い輪郭線を特徴とするフォーヴィスムの流れを汲んだものであった。

佐藤圀夫

没年月日:2006/01/24

読み:さとうくにお  日本画家で日本芸術院会員、名古屋芸術大学名誉教授の佐藤圀夫は1月24日、転移性肺がんのため東京都立川市内の病院で死去した。享年83。1922(大正11)年8月16日、岩手県九戸郡野田村に生まれる。1941(昭和16)年東京美術学校日本画科に入学し、46年卒業。同年第31回院展に「みそあげ」が初入選し、翌47年同第32回展にも「豆ひき」が入選。48年より髙山辰雄の誘いで一采社の研究会に参加し49年の第8回一采社展より出品、以後解散する61年第20回展まで出品する。49年第5回日展に「野田村」が初入選、以後日展に出品する。51年より一采社世話役の画商栗坂信の紹介で山口蓬春に師事。54年第10回日展「冬」が特選・白寿賞を受賞し、朝日秀作美術展に推薦された。続いて59年第2回新日展で「津軽の浜」が再び特選・白寿賞となり、62年同第5回「夕凪」は菊華賞を受賞。主に風景を題材とし、重厚な色感ながら情感あふれる作品を描く。64年日展会員、76年同評議員となり、76年第8回改組日展に「十三湖の村」を出品、翌77年同第9回「山里」は文部大臣賞を受賞した。この間、70年に名古屋芸術大学教授となる(97年まで)。88年第20回日展出品作「月明」で1989(平成元)年日本芸術院賞を受賞。同年日展理事、99年日本芸術院会員、2000年日展常務理事となる。

脇田和

没年月日:2005/11/27

読み:わきたかず、 Wakita, Kazu*  新制作派協会創立会員の洋画家脇田和は11月27日午前8時35分、心筋梗塞のため東京都中央区の病院で死去した。享年97。1908(明治41)年6月7日、東京氏赤坂区青山高樹町17番地に生まれる。父勇は貿易商社脇田商行を経営し欧州、東南アジアからの輸出入を行っていた。1921(大正10)年青南尋常小学校を卒業して青山学院中等部に入学。同院では当時、白馬会の画家小代為重が図画教師をしており、小代から油彩、木炭デッサンの指導を受ける。23年7月、姉夫妻が三菱商事ベルリン駐在となるのに伴い、青山学院を中退して同行して渡欧。24年ドイツ帝室技芸員のマックス・ラーベスに師事し、その紹介でミューラー・シェーンフェルト画塾に通う。25年ベルリン国立美術学校に入学しエーリッヒ・ウォルスフェルト(1884-1956)の教室に入る。1926(昭和元)年夏、南ドイツを旅行し、ホドラー、デューラー、ゴッホなどの作品に感動する。27年6月夏休みに一時帰国し翌年2月まで滞在。この間、写真に興味を持つ。28年春に帰国し、4月からカール・ミヒェルの教室でリトグラフ、エッチング、アクアチントを、オスカール・バンゲマンの教室で木口木版を学ぶ。同校で銅メダルを受賞し、学校内に単独のアトリエを与えられる。30年、ベルリンの自由美術展(フラウエ・クンストシャウ)にデッサンを出品。同年9月、美術学校より金メダルを授与され同校を卒業。同月18日に父が死去したことにより、急遽帰国の途に着き、10月東京に帰着し、その後10年間、父の会社を継いで会社を経営する一方、画業を続ける。31年、母の紹介により水彩画家春日部たすくを知る。32年第28回太平洋画会展に「風景」で初入選。また第19回光風会展に「風景」「静物」で初入選し、船岡賞を受賞。第13回帝展に「白い机の静物」で初入選する。この頃、大野隆徳研究所に夜間通い、人体デッサンを行う。33年、第20回光風会展に「静物A」「静物B」「閑窓」「アコーディオン」を出品し、光風会賞を受賞して会員に推挙され、また、日本水彩画会20周年展にパステルの風景画を出品して同会会員に推挙される。同年、第14回帝展に「大漁着」で入選。34年第21回光風会展に「椰子の実と子供」「ニッカーの子供」「ユニフォームの子供」を出品。日本水彩画展にも出品を続ける。35年第22回光風会展に「三人」「母子」「ドアマンと子供」を出品し、光風特賞を受賞。同年10月松田文相による帝展改組に反対して、在野展として開設された第二部会に参加し「ピクニック」「父子」を出品。「ピクニック」は特選となり昭和洋画奨励賞を受賞する。36年第23回光風会展に「画室の一隅」を出品し、二度目の光風特賞受賞。5月、春日部たすくと共に満州を旅行。旅行中の7月、新制作派協会設立への参加を電報で打診される。7月25日、猪熊弦一郎、伊勢正義、小磯良平、内田巌、佐藤敬らと新制作派協会を創立。官展の次代を担うと期待されていた若手作家が反官展を標榜し、清新な制作を唱う団体として注目される。これに伴い、光風会を退会。同年11月に行われた第1回新制作派協会展に「ジャズバンド」「ダンス」「二人」を出品。また、「前進」「向上」を表現した協会のロゴマークをデザインする。以後、生涯にわたって同会を中心に作品を発表する。38年5月、上海軍報道部の委嘱による記録画作成のため上海へ赴く。39年第1回聖戦美術展に「呉淞鎮敵前上陸」を出品。40年紀元2600年奉祝展に「夫婦と犬」を出品。41年「大東亜建設に捧ぐ」をテーマに展示された第7回新制作派協会展に「画室の子供」「二人」「椅子に倚る」「幼児」「子供と兵隊」「寝る子」を出品。43年9月、フィリピン、マニラ陸軍報道部勤務となり、44年8月に帰国。45年新制作派協会員らとともに神奈川県相模湖付近の藤野村に集団疎開。同地で芸術家村を構想し、藤田嗣治、文士石坂洋次郎らも加わって制作のかたわら、楽団を結成し演奏活動などを行うなどして49年まで滞在する。46年、民主主義美術を目標に設立された日本美術会の創立に参加。47年第一回美術団体連合展に新制作派協会も参加し脇田は「猫と子供」を出品。また、同年第11回新制作派協会展に「少女と妖精」「草笛」等を出品。50年、今泉篤男企画による檀会に参加し、資生堂ギャラリーでの檀会美術展に出品する。51年6月、開廊したばかりのタケミヤ画廊で滝口修造の企画により小品展を開催し、10月には戦後の日本人美術家の国際展参加としては初めての出品となる第1回サンパウロ・ビエンナーレに「子供のカーニバル」を出品、以後、52年のサロン・ド・メ、ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、53年の第2回国際現代美術展(ニューデリー)など、国際展にも積極的に参加する。54年、最初の画集となる『日本現代画家選Ⅲ 16 脇田和』(美術出版社)を刊行。55年第3回日本国際美術展に「あらそい」「鳥追い」を出品し、「あらそい」で最優秀賞を受賞。翌年、この作品によって第7回毎日美術賞を受賞する。56年3月よりアメリカ国務省人物交流部の招聘により3ヶ月間アメリカ各地を視察。6月より半年間、パリ郊外に滞在。この間、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレに11点出品し、美術評論家のアラン・ジュフロアの高い評価を受け、9月には第1回グッゲンハイム国際美術賞の日本国内賞を「あらそい」で受賞。12月にはパリからニューヨークに移り、57年4月、ニューオーリンズ、ニューメキシコ、ロスアンゼルス、ハワイを巡って帰国。59年より東京藝術大学版画教室非常勤講師、64年同助教授、68年同教授となって、70年、同学を退官。72年井上靖の詩による詩画集『北国』『珠江』(求龍堂)を刊行。74年、東京セントラル美術館で「脇田和作品展1960-1974」を開催。同年、『画集脇田和1960-1974』(求龍堂)を刊行。この頃から今泉篤男、岡鹿之助の意見などにより個人美術館の構想を持つ。76年から心筋梗塞をわずらい、79年に手術。82年『脇田和作品集』(美術出版社)刊行。86年神奈川県立近代美術館、群馬県立近代美術館で「脇田和展」を開催。87年、ハワイ経由で渡米し、パリ、バルセロナを周り、ベルリン等ドイツの諸都市を訪れる。1989(平成元)年より軽井沢のアトリエ敷地内に個人美術館設立を計画し、91年6月「脇田美術館」を開館して館長に就任するとともに、美術館から『脇田和作品集』『随筆集え・ひと・こと』を刊行。92年、パリ日動画廊、バーゼル・インタナショナル・アートフェアにて脇田和展開催。96年10月パリの吉井画廊で個展を開催し、同月パリ、ニューヨークに赴く。98年平成10年度文化功労者に選ばれ、99年東京藝術大学名誉教授となった。晩年に至っても新制作協会展には出品を続けたほか、99年脇田和回顧展(神戸市立小磯記念美術館)、2002年脇田和展(世田谷美術館)など大規模な個展を開催した。初期から子供を重要なモチーフとして再現描写にとどまらない詩的な画面を構成し、戦後は、鳥をも好んで画中に取り入れて、平和や人と自然の関わりなどといった抽象的な概念を象徴的に描いた。作品の芸術性を指標としない画壇の政治性に批判的な姿勢を保ち続け、誠実で真摯な制作態度を貫いた。 新制作協会出品歴 1回(36年)「ジャズバンド」「ダンス」「二人」、2回「瀞」「渓」「森」、3回「水辺」「立つ座る」「チャアチャン」「静物」「樹陰」、4回「窓辺」、5回「海浜」、6回「母への絵」「子供」「幼児と子供」、7回「画室の子供」「二人」「椅子に倚る」「幼児」「子供と兵隊」「寝る子」、8回「画室の子供」「花持つ子供」「子供」、9回出品するも題不明、10回「沐浴する児」「なつめ・女・猫」「子供と兎と花」「南の子供」「豆柿の静物」「猫・児・花」、11回「少女と妖精」「草笛」「ファウンの子供」「石の庭」、12回「女と猫」「子供と猫」「女と花」「子供と花」「三人」「静物」、13回「浴室」「二人」「小さいヴァイオリン」、14回「花に来る天使」「子供の手品師」「子供はトランプが好き」、15回(以後新制作協会展)、16回「桃太郎」「魚網」「捕虫網」「金太郎」、17回「慈鳥」「放鳥」、18回「貝殻と鳥」「西瓜と貝殻」、19回「水槽の鳥「鳥と住む」「鳥と横臥する女」、20回「花を持つ」、21回「緑園」、22回「庭」「花・鳥・人」「女と鳥」、23回「飛翔」「翼」「相思樹の実」、24回「解体する五つの顔と鳥」「断層の人と鳥」、25回「蚤の市のグリーダア・プッペ」「スタニーポイントの女陶芸師」、26回「不出品、27回「きんぎょ」「つた」「はげいとう」、28回「化粧台と猫」「窓(ベニス)」「赤い窓」「三つの顔と鳥」、29回「巣・石・葉」「雨(三題ノ一・二・三)、30回「空に叫ぶ」「キャンドルと天使」「土偶と鳥」「三粒の豆」、31回「デリカテッセン」「カシミールの織子」、32回「鳥寄せ」「羽音」、33回「窯場の朝」「窯場の夜」、34回不出品、35回「鳩舎」「鳥花苑」、36回「薔薇園」「輪花」、37回「雷鳥」「鶉」、38回「茨の冠と薔薇の花」、39回「雲崗石仏」、40回不出品、41回「かたつむり」、42回「幼き日の虫干し」、43回不出品、44回「かくれんぼ」(文化庁買上)、45回「ポンコツ車を誘導する鳥」、46回「車はまだ走っている」、47回「画家は毎日シャツを取り替える」「今日の選択」、48回「亜熱帯の漂流物」「ALOHA」、49回「暖帯」「緑雨」、50回「鳥の来る道」、51回「燃える楽譜」、52回「帰ってきた楽譜」「荷ほどき」、53回「E子のコレクション」「隠袋」、54回「花開く」「芽吹き」、55回「秋色」「黄色い鳥」、56回「鳥飼いの収集物」「鳥の閑日」、57回「移り香」、58回「比翼」「連理」、59回「二つの安居」「さつきまつ」、60回「一つ咲く花」「遺された壺」、61回「双鳥」「四色の季節」、62回「来い来い鳥よ」「おいでおいで」、63回「土の香」「夜わの鳥」、64回「画房夢想曲」「漂鳥」、65回「志野」「織部」、66回「窯出しを祝う」「黄瀬戸の感触」 

米陀寛

没年月日:2005/08/28

読み:よねだかん、 Yoneda, Kan*  日本画家の米陀寛は8月28日午前7時4分、多発性脳こうそくのため宇都宮市の病院で死去した。享年88。1917(大正6)年栃木県宇都宮市に生まれる。1936(昭和11)年下野中学(現、作新学院高等学校)を卒業し、神奈川県横須賀市の海軍航空技術廠科学部に入所。同年中村岳陵に入門するが、37年日中戦争の勃発に伴い現役入隊し、41年までの四年間にわたり中国大陸を転戦する。除隊した翌年の43年第6回新文展に「好日」が初入選。44年戦況の悪化により再応召を受け、飛行機整備兵として入隊。終戦後は宇都宮に戻り、同地で画家としての本格的な道を歩み始める。しばらく日展や院展、創造美術展春季展に出品、入選するも、50年代より日展への出品を重ね、67年第10回新日展で「牛」が特選、69年改組第1回日展で「北辺」が特選・白寿賞を受賞、82年日展会員となる。この間、67年「老人と軍鶏」で日春展奨励賞を受ける。その他文化庁現代美術選抜展、山種美術館賞展等に出品。個展は78年銀座松屋、81年銀座・北辰画廊、上野東武(創作陶芸個展)、88年二荒山神社宝物殿などで開催。戦前の一時期を除き、一貫して宇都宮を足場に活動を続け、“牛の米陀”と呼ばれるほどに実在感溢れる牛馬を多く描いた。いっぽう59年川治温泉・柏屋ホテル大浴場陶壁「牡鹿」を制作以来、全国各地の学校、病院、会館、図書館、ホテル等、益子焼による陶壁画を手がけた。その他81年日光二荒山神社男体山山頂鎮座1200年祭記念の大絵馬、83年宇都宮二荒山神社斎館襖絵を制作、また日光東照宮の絵馬の原画を十数年来描くなど、幅広い活動を展開した。81年栃木県文化功労賞受賞。84年『米陀寛画集』(下野新聞社)刊行。1999(平成11)年には宇都宮美術館で回顧展が開催されている。 

関口正男

没年月日:2005/08/28

読み:せきぐちまさお  日本画家で日本美術院評議員の関口正男は8月28日午前7時10分、肺炎のため埼玉県毛呂山町の病院で死去した。享年92。1912(大正元)年9月6日、東京に生まれる。1927(昭和2)年、東京府立第三中学校(現、都立両国高等学校)を卒業。33年頃、再興日本美術院同人の荒井寛方に師事、寛方門下の研究会浩然社で研鑽を積む。43年第30回院展に「小姐」が初入選。45年師寛方が急死し、その後は堅山南風に師事。戦後初めて開かれた46年第31回院展から入選を続け、47年院友となる。仏画の第一人者荒井寛方から学んだ確かな技巧を土台とし、さらに南風の指導により明快な作風を特色とした。60年代半ばより「飛鳥幻想」(64年第49回展)、「幻想火の国」(65年第50回展)等、目を古代へと向ける。66年第51回展出品作「塔」が奨励賞を受け、同年特待となる。さらに72年第57回展出品作「浄土涌現」で奨励賞、74年には法隆寺夢殿を描いた第59回展出品作「斑鳩の浄土」で日本美術院賞を受賞する。75年第60回展出品作「四天曼陀羅」以降も奨励賞受賞を重ね、83年同人に推挙された。1990(平成2)年、第75回展出品作「熊野」で文部大臣賞、95年第80回展出品作「吉祥天」で内閣総理大臣賞を受賞。96年日本美術院評議員となる。98年勲四等瑞宝章を受章。2000年にミュージアム氏家で「荒井寛方仏画の系譜―関口正男展」が開催されている。 

上野泰郎

没年月日:2005/08/11

読み:うえのやすお、 Ueno, Yasuo*  日本画家で創画会会員、多摩美術大学名誉教授の上野泰郎は8月11日午後4時58分、肺炎のため東京目黒区の病院で死去した。享年79。1926(大正15)年1月6日、東京都豊島区に染色家の父朝太郎、松岡映丘門下の日本画家である母の間に生まれる。1943(昭和18)年東京美術学校日本画科に入学、山本丘人の指導を受ける。48年同校日本画科を卒業。同年結成された創造美術の第1回展に初入選し、以後同展に出品、50年第2回春季展で春季賞、第3回展で佳作賞、51年第3回春季展で研究賞を受賞する。51年創造美術が新制作協会日本画部となって以後は新制作展に出品し、52年第16回展、54年第18回展、57年第21回展で新作家賞、59年同会会員となる。60年第4回現代日本美術展出品の「善意の人々」が神奈川県立近代美術館買上げ、65年第8回日本国際美術展出品の「漂民」が文部省買上げとなる。68年ヨーロッパ、その後も世界各地を巡遊、66年日本美術家連盟委員、69年多摩美術大学教授となる。74年新制作協会より離脱し、旧日本画部会員による創画会結成に参加。81年日本橋高島屋で個展開催。85年信濃デッサン館館主窪島誠一郎の肝煎りで、池田幹雄・大森運夫・小嶋悠司・滝沢具幸・毛利武彦・渡辺学と地の会を結成。1996(平成8)年多摩美術大学を定年退職。同年日本美術家連盟理事長に就任(~2000年)、在任中、完全学校週五日制の導入にあたり美術教育の重要性を訴えるなどの活動を行った。98年東京・千代田の聖イグナチオ教会新聖堂のステンドグラスを制作。イコンの影響を受け、敬虔なクリスチャンとして宗教的な視点から人間の“いのち”の意味を問う作品を、筆ではなく指で絵の具を塗りこめる独特の手法で描き出した。2001年には佐倉市立美術館で「上野泰郎・渡辺学展」が開催されている。 

水谷愛子

没年月日:2005/03/22

読み:みずたにあいこ、 Mizutani, Aiko*  日本画家で日本美術院同人の水谷愛子は3月22日午後10時49分、くも膜下出血のため横浜市港南区の病院で死去した。享年80。1924(大正13)年8月15日広島市に生まれる。1941(昭和16)年安田高等女学校(現、安田女子高等学校)を卒業し、上京して女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学、44年に卒業して故郷の広島に戻り、戦後の46年より母校安田高等女学校の図画講師として奉職する。49年同郷の日本画家山中雪人と結婚し、横浜市に新居を構える。同49年大智勝観の紹介で中島清之に、51年には月岡栄貴の紹介で前田青邨に師事することとなる。市内の中学で美術を教えながら創作を行い、55年第40回院展に漁師を描いた「濤聲」が初入選。その後も院展に出品を続け、87年第72回展で「母と子」、1989(平成元)年第74回展で「裕太と亮ちゃん」、90年第75回展で「亮と兄ちゃん」が日本美術院賞・大観賞、91年「理季ちゃん」で五度目の院展奨励賞を受賞。また春の院展でも春季展賞、奨励賞を受賞。2000年より日本美術院同人となる。民家をテーマにした作品群を経て、日常親愛の眼差しを向けている身近な老人や幼児を主題とし、確かなデッサン力に裏付けられた大胆な線描と温もりある色塊との生命力溢れる構成で表現した。03年に夫山中雪人が他界、翌04年に夫の遺作36点と自作31点および大下図3点を呉市立美術館に寄贈する。没後間もない05年秋には同館で「山中雪人・水谷愛子二人展」が開催された。 

蔦谷喜一

没年月日:2005/02/24

読み:つたやきいち、 Tsutaya, Kiichi*  「きいちのぬりえ」で一世を風靡した、ぬり絵作家の蔦谷喜一は、2月24日午前8時33分、老衰のため埼玉県春日部市内の病院で死去した。享年91。1914(大正3)年2月18日、東京市京橋区新佃に紙問屋の次男として生まれる。14歳の時に京橋商業へ入学するが、授業内容に興味が持てず中退。帝展で山川秀峰の「素踊」に魅せられて挿絵画家を志し、1931(昭和6)年川端画学校に入学する。3年程で卒業した後は、クロッキー研究所に通う傍ら、長兄に勧められて菓子屋の経営を一年程経験した。39年には、大木実詩集『場末の子』(砂子屋書房)の表紙絵を担当。40年から「フジヲ」の名前でぬりえを描き始めるが、太平洋戦争の勃発とその激化により制作の困難な状況となる。その戦争の中で44年にまさと結婚、半年後の招集とともに海軍省に配属され、終戦直後には駐留米兵相手に肖像画を描き生計を立てた。47年より「きいち」の名前でぬりえを再開、石川松声堂と山海堂の二社から発売されて爆発的なブームを巻き起こした。49年には『メリーちゃん』『はなこさん』(朝日出版社)を発行。しかし60年代のTVの普及でアニメブームが訪れるとぬりえの売れ行きは急激に悪化し、美人画や日本画、掛軸なども手掛けるようになる。その後、蔦谷のファンであったグラフィックデザイナー長谷川義太郎の働きかけにより再び脚光を浴び、78年に資生堂ザ・ギンザホールでの個展をはじめ、各地で展覧会が開かれ大盛況となった。また広告や商品にも多くの作品が起用され、『わたしのきいち』(小学館)など著書も多数出版された。この第二次きいちブーム自体は平成元年頃に落ち着くが、現在でも文化屋雑貨店には蔦谷が原画を手掛けた雑貨が並び、広く親しまれている。晩年は「童女百態シリーズ」に取り組み続けていた。代表作は他に、美人画『行灯』、仏画『きいち観音』等がある。

西村龍介

没年月日:2005/02/21

読み:にしむらりゅうすけ、 Nishimura, Ryusuke*  点描によってヨーロッパの古城を描いた作品で知られる洋画家の西村龍介は21日午後6時38分、急性心筋梗塞のため長野県軽井沢市の病院で死去した。享年85。1920(大正9)年2月8日、山口県小野田市に生まれる。本名一男。小野田尋常小学校を経て、1935(昭和10)年山口市立大殿尋常高等小学校を卒業する。この間の34年、両親と死別。36年、上京し、38年4月、日本美術学校日本画科に入学。太田聴雨、川崎小虎、矢沢弦月らに学び、またデッサンを洋画家の林武に学ぶ。41年3月、同校を卒業と同時に出征。45年、特攻隊員として沖縄戦へと向かう途中に終戦を迎え、郷里山口市に復員する。市内の古刹瑠璃光寺の一室を画室兼居所として日本画を制作し、46年山口市八木百貨店で初めての個展を開催して日本画18点を展示する。この頃、三好正直らと山口市展、山口県展を創設する。49年、京都市立美術専門学校研究科に入学。50年同校を中途退学し、2月に上京。企業の博覧会の背景画などを描いて生計を立てつつ画家を志し、制作の準備に時間がかかる日本画から油彩画へ転向して龍介と名乗る。54年第39回二科展に「河岸」で初入選。56年第41回二科展に「月のある風景」「鳥と植物」を出品し、特待受賞。57年に二科会会友となる。59年サロン・ド・コンパレゾン展に招待出品。同年第44回二科展に「故園」「花」を出品して二科金賞を受賞。翌年二科会会員となる。63年第48回二科展に「風景(A)」「風景(B)」を出品し、同会会員努力賞を受賞。64年2月に渡欧しフランス、スペイン、イタリア、ベルギーを旅行して7月に帰国。この旅でその後の主要モティーフとなる古城、聖堂、ヴェネツィア風景などと出会う。67年サロン・ドートンヌに「風景」を招待出品。68年第53回二科展に「古城」「館」を出品して二科会青児賞を受賞。69年第54回二科展に「聖堂」「遥かなる聖堂」を出品して二度目の会員努力賞を受賞する。70年再渡欧。71年第56回二科展に「古城幻影」「城」を出品し、内閣総理大臣賞受賞。71年より82年まで毎年渡欧。83年1月「森と城と水の詩情の世界 西村龍介展」が銀座・松屋で開催され、初期から近作までが出品される。88年銀座のフジヰ画廊で西村龍介個展「水の抒情詩」を開催。89年昭和63年度(第39回)、前年の個展に対し、「日本画と洋画の技法を巧みに融合した日本的詩情豊かな独自の油彩表現を円熟の域に高め」たとして芸術選奨文部大臣賞を受賞。その後も二科展に出品を続け、97年東京八重洲の大丸ミュージアムで「喜寿記念・西村龍介展」を開催。2000年二科会を退会。同年、ハウステンボス美術館で「ヨーロッパ水辺の城 西村龍介展」を開催する。60年代の渡欧で得た古城の静かなたたずまいを、端正な構図、淡い色調の点描で描き、静謐な画風を示した。画集には『西村龍介画集』(講談社 1979年)がある。 

須田寿

没年月日:2005/01/24

読み:すだひさし、 Suda, Hisashi*  洋画家の須田寿は1月24日午前、1時35分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年98。1906(明治39年)5月25日、東京日本橋本町に生まれる。本名門井(かどい)寿。1913(大正2)年精華小学校に入学。同校在学中に遠縁にあたる日本画家下村観山のアトリエに出入りする。19年成蹊中学校に入学し、24年同校を卒業。洋画家を志し、東京美術学校西洋画科を受験するが、不合格となり川端画学校に入学する。1926(昭和元)年、東京美術学校西洋画科に入学。長原孝太郎に師事。27年、友人の大貫松三とともに中国へ旅行し北京に二ヶ月半滞在。28年東京美術学校西洋画科和田英作教室に入る。30年第11回帝国美術院展に「裸婦」で初入選。31年、親戚の須田家の養子となる。同年第12回帝展に東京美術学校の卒業制作「髪」を出品して入選。33年第14回帝展に「三人」、34年第15回帝展に「庭園小景」を出品し、官展作家としての地歩を固める。35年松田改組に伴い設置された第二部会第1回展に「庭前」を出品。36年文展鑑査展「蔭に憩う」を出品する一方、35年に石川滋彦、井手宣通、川端実ら官展若手作家が新規な試みを行う団体として設立した立陣社の趣旨に賛同して第2回展に「秋日」を出品。この頃から人物群像を穏健な写実にもとづいて描く画風が、デフォルメ等斬新な試みを取り入れた画風に変化し、37年の文展に落選する。39年第3回新文展に「親爺と子ども」が入選し、再び官展への出品を続ける。40年、阿以田治修、大久保作次郎、佐竹徳らが創設した創元会に第一回目から出品。戦後は46年春第1回日展に「暖日」、秋の第2回展に「裸童」を出品するとともに第5回創元会展にも出品。48年5月日本橋三越で「須田寿油絵個展」を開催。49年日展のあり方に疑問を抱き、退会。また創元会からも退会し、牛島憲之、飯島一次、大貫松三、榎戸庄衛、円城寺昇、山下大五郎と立軌会を創立し、以後、同会を中心に活動を続ける。この頃、ピカソやブラックなどのキュビスムに学び、対象を簡略な形態に還元して把握する画風へ移行し、70年以上におよぶ画業のなかで、大きな節目となった。50年、東京美術学校昭和6年卒業生による六窓会を創立し、54年の同会解散まで出品を続ける。52年第1回日本国際美術展に「二人」「少女の像」「鶏を抱く少年」を出品。54年9月、初めて渡欧し、フランス、イタリア、スペイン等を巡って西洋の古代美術に打たれる。帰国後、渡欧中で印象に残った異国の生活の風景、特に人と家畜のいる光景を描くようになり、牛が主要なモティーフとなる。63年、北九州の装飾古墳を見学して感銘を受け、古墳をモティーフとして描く。65年3月武蔵野美術大学造形学部教授となる。71年再渡欧。72年5月に3度目の渡欧。73年3月ギリシャ方面を旅行し、ギリシャ古典文明を探求。7月東京セントラルサロンで須田寿個展を開催。76年、須田寿教授作品展(武蔵野美術大学美術資料図書館)を自選作品により開催。77年11月須田寿自選展を東京セントラル美術館で開催。78年武蔵野美術大学を退職し、同学名誉教授となる。79年より立軌会のほかに日本秀作美術展、世田谷美術展に出品を続けたほか、日本橋高島屋、日動サロンほかで個展を開催する。82年「須田寿画集」(日本経済新聞社)を刊行、同年第6回長谷川仁記念賞受賞。85年第7回日本秀作美術展に「家族」を出品し、同年、この作品により芸術選奨文部大臣賞受賞。1993(平成5)年4月世田谷美術館で「須田寿展」が開催され、年譜、参考文献は同展図録に詳しい。2001年中村彝賞受賞。官展作家として活躍したアカデミックな画風から、立軌会創立後、再現描写にとらわれない内省的思索を絵画化する作品へと移行し、暗褐色、暗緑色を基調とする色数を限った色調と独自のマチエールを特色とする作品を制作し続けた。 

川面稜一

没年月日:2005/01/09

読み:かわもりょういち  日本画家であり、建造物彩色の国選定保存技術保持者の川面稜一氏は、1月9日、脳梗塞のため死去した。享年91。1914(大正3)年、大阪市曽根崎に生まれる。1934(昭和9)年、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)を卒業。40年、絵画専門学校時代の恩師である入江波光より、文部省紀元2600年事業・法隆寺金堂解体修理に伴う壁画模写事業に、助手の一人として参加を要請される。戦時下の応召のため一旦現場を離れるが、47年に復帰。この事業では、安田靱彦を筆頭とする東京班と入江波光を筆頭とする京都班とに分かれ、東京班は壁画の印刷の上に胡粉をひいて厚彩色仕上げとしたのに対し、京都班は壁画をコロタイプ印刷したものを下敷きに壁画の引き写しを行い、薄彩色仕上げとした。50年、文化財保護委員会美術工芸課の委嘱を受け、56年の京都・平等院鳳凰堂中堂扉絵をはじめとする五ヶ寺の所蔵する美術作品の模写事業を立案し、60年には京都・醍醐寺五重塔初重壁画、62年京都・法界寺阿弥陀堂壁画、63年奈良・室生寺金堂壁画及び金堂諸像の板光背、66年京都・海住山寺五重塔内陣扉絵など、次々と重要な美術作品の現状模写を行った。平等院鳳凰堂中堂の扉絵模写を手掛けた際に翼楼の柱の朱塗を依頼されたのが、「建造物彩色」というそれまでにはなかった新しいジャンルの確立、そして氏がその第一人者となる契機となった。柱をはじめとする建築部材の現存する彩色を、綿密に調査した上でそれを尊重しつつ修理・復元彩色を施す「建造物彩色」は、60年代頃になってようやく定着を見せ始める。その皮切りとなった事業が、68年の京都・六波羅蜜寺本堂の向拝の復原彩色事業であった。その後、京都・北野天満宮本殿中門、西本願寺唐門、二条城唐門などをはじめ数多くの建造物の復原彩色を手掛け、72年には、二条城二の丸御殿襖絵の模写事業が開始された。三十年を経た現在もなお継続中のこの事業では、経年変化を見せる建築と新しく模写を行った襖絵とが調和するように、制作当初と考えられる彩色を復元しつつ、それに一定の古色を付す「古色復元模写」の手法が初めて取り入れられた。84年、有限会社川面美術研究所を設立。その後も、京都・清水寺三重塔、富貴寺大堂内部壁画の彩色復元など、携わった事業は数多く、建造物彩色の草分けとしてその業績は特筆に値する。84年、京都府文化財保護基金より文化功労賞を受賞。86年、内閣総理大臣より木杯授与。1997(平成9)年、建造物彩色選定保存技術保持者に認定。2000年、日本建築学会より建築学会文化賞を受賞。また、養父野村芳光が祇園都をどりの舞台美術を担当していた縁により、それを継承し長年にわたって背景画制作を行った。92年、舞台美術協会より伊藤熹朔賞受賞。その他、美術作品のレプリカ製作にも携わった。

吉井淳二

没年月日:2004/11/23

読み:よしいじゅんじ、 Yoshii, Junji*  洋画家で長く二科会理事長を務めた吉井淳二は、11月23日午後2時23分、肺炎のため鹿児島市内の病院で死去した。享年100。1904(明治37)年3月6日、鹿児島県曾於郡末吉町に生まれる。県立志布志中学の二年時に画家になることを決意し、三年時には油絵の道具一式を与えられる。1922(大正11)年、中学の卒業式を待たず、同級生で生涯の友となった海老原喜之助と上京、共同生活をしながら川端画学校でデッサンを学ぶ。24年東京美術学校西洋画科に入学、和田英作教室に学んだ三年時には第3回白日会展で白日賞を受賞したほか、第13回二科展には「静物」「花と女」が初入選する。24年第5回展から入選を続けた中央美術展では、1928(昭和3)年第9回展で中央美術賞を受けている。同年には橋本八百二、堀田清治と三人展を開催したほか、翌29年東京美術学校を卒業すると、内田巌、新海覚雄らと鉦人社を結成し第1回展を開いた。同年有島生馬を訪ね、以後指導を受ける。同11月フランスに渡り、海老原と再会する。パリを拠点にイギリス、オランダ、イタリアなどに旅をする。32年帰国し、第19回二科展に滞欧作を特別出品する。初入選以降、二科会には、滞欧中の第17、18回展をのぞいて2004(平成16)年まで連続して出品した。同会では35年会友、40年会員になる。45年10月の二科会再興の呼びかけに応え再建に参加、翌年9月の31回展に「菅笠の娘」「菜園にて」を出品。61年二科会に理事制が設けられ、理事のひとりとなる。65年、前年の二科展出品作「水汲」などに対して日本芸術院賞を、二科展では68年東郷青児賞、69年内閣総理大臣賞を受ける。78年4月の二科会会長・東郷青児の死去後、翌79年同会を社団法人化した後に北川民次を継いで理事長に就任、98年まで努めた。二科会のほかには、33年に鉦人社を前身とする新美術家協会の5回展にも出品。40年の紀元二千六百年奉祝美術展に「人物」を出品。また、百貨店や画廊で個展を開催したほか、太陽展、日動展などにも出品。90年には鹿児島市立美術館でも展覧会を開催した。一方、46年には海老原とともに南日本新聞社主催で南日本美術展を興し、審査員となり後進の育成にも努めている。この間、45年杉並区南荻窪から郷里に疎開、その後杉並の家が焼けたため作品の多くを失う。51年、鹿児島から荻窪へ再び住まいを移している。65年ヨーロッパへ作品制作の旅行をしたほか、75年の日伯美術展を機にブラジルを訪れ、以後たびたび南米に足を運ぶ。頭巾をかぶり頭上に荷をのせた労働する女性をよく題材にし、その取材対象は内外の市場から水汲みの光景まで多岐にわたった。それらを、写実を基にしつつも簡略化した線と明るい色彩で描いた。58年南日本文化賞、76年日本芸術院会員、77年勲三等瑞宝章、85年文化功労者、89年文化勲章を受けている。92年、鹿児島県加世田市に開いた特別養護老人ホームに隣接する吉井淳二美術館を開館。最晩年は自らも加世田に暮らした。

佐藤太清

没年月日:2004/11/06

読み:さとうたいせい、 Sato, Taisei*  日本画家の佐藤太清は11月6日午後7時50分、多臓器不全のため東京都板橋区の病院で死去した。享年90。1913(大正2)年11月10日、京都府福知山市に生まれる。本名實。早くに両親が病没し、近所の梶原家で育てられる。1931(昭和6)年東京の親戚を頼って上京。川端画学校や太平洋美術学校に通った後、33年児玉希望に内弟子として入門、雅号を「太清」とする。希望の「花鳥をやれ」という指導に従って研鑽を重ね、入門後十年を経た43年第6回新文展に「かすみ網」が初入選。45年板橋区大谷口に転居し、以後没するまで同地にて制作を行う。46年第2回より日展に出品し、47年第3回日展で「清韻」が特選となった。48年第4回日展に「幽韻」を出品し、52年第8回日展で「睡蓮」が再び特選を受賞。ルドンを愛好し、叙情的な自然景の表現を指向する。この間師希望の国風会と伊東深水の青衿会が発展的解消をとげた50年の日月社結成に際しては委員をつとめ、52年の同会第3回展で「雨の日」が受賞、61年の解散まで毎回出品した。55年第11回日展「冬池」など抽象風の作品も発表した後、58年第1回新日展「立葵」、59年第2回「寂」、64年第7回「花」、65年第8回「潮騒」など、装飾的な花鳥画を制作。66年第9回新日展で「風騒」が文部大臣賞となり、翌年同作品により日本芸術院賞を受賞した。同年上野不忍池弁天堂格天井および杉戸絵を制作。80年第12回改組日展に「旅の朝」を発表して以降、81年第13回「旅の夕暮」、83年第15回「最果の旅」など“旅シリーズ”の作品を発表する。生涯を通じ、とくに花鳥画と風景画を融合させた内面性の強い作風は“花鳥風景”として高く評価された。60年日展会員、65年評議員、71年理事、75年監事、80年常務理事、83年事務局長、85年理事長に就任、また80年に日本芸術院会員となった。84年銀座松屋ほかで「佐藤太清展」が開催。88年文化功労者となる。1992(平成4)年文化勲章受章。93年には故郷福知山市の名誉市民に選ばれた。2004年の逝去にあたっては板橋区文化・国際交流財団より区民文化栄誉賞が贈られた。板橋区立美術館では1994年に文化勲章受章記念展、2006年に遺作展を開催している。

佐藤多持

没年月日:2004/10/21

読み:さとうたもつ、 Sato, Tamotsu*  日本画家の佐藤多持は10月21日午前6時40分、心不全のため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年85。1919(大正8)年4月16日、東京府北多摩郡国分寺町の真言宗観音寺の次男として生まれる。本名保。戦後用いるようになった雅号の「多持」は、仏法加護の四天王のうち多聞天と持国天の頭文字をとったもの。1937(昭和12)年に東京美術学校日本画科に入学して結城素明に学ぶが、41年太平洋戦争のため繰上げ卒業となり、42年麻布三連帯に入隊。しかし演習中の怪我がもとで除隊、43年より昭和第一工業学校夜間部の教師となり、戦後は工業高校となった同校に85年まで勤めた。戦後一時期、山本丘人に師事するかたわら油絵も試み、47年第1回展より第10回展まで旺玄会に出品。また読売アンデパンダン展にも第1回展より日本画を出品。56年無所属となり、翌57年幸田侑三らと知求会を結成、1996(平成8)年同会の解散まで制作発表の場とする。ジャパン・アートフェスティバル展にも出品し、77年第3回国際平和美術展で特別賞を受賞した。戦後まもない頃に尾瀬へのスケッチ旅行で水芭蕉に出会って以来、一貫してこれをモティーフに描き続けたが、その作風は具象的なものから、半球形や垂直線、水平線のパターンによる構成を経て、60年代より大胆な墨線の円弧を用いた抽象的でリズム感のある“水芭蕉曼陀羅”シリーズへと移行していった。80年生家である観音寺庫裏客殿の襖絵38面を5年越しで完成。85年池田20世紀美術館で「水芭蕉曼陀羅・佐藤多持の世界展」、86年青梅市立美術館で「創造の展開―佐藤多持代表作展」、92年たましん歴史・美術館で「佐藤多持の世界 水芭蕉曼陀羅が生れるまで」展、99年には中国・上海中国画院美術館で「日本佐藤多持絵画展」が開催された。著書に『戦時下の絵日誌―ある美術教師の青春』(けやき出版、1985年)がある。

長谷川青澄

没年月日:2004/07/23

読み:はせがわせいちょう、 Hasegawa, Seicho*  日本画家の長谷川青澄は7月23日午後11時15分、心不全のため大阪府吹田市の病院で死去した。享年87。1916(大正5)年9月25日、長野県下水内郡飯山町(現、飯山市)に生まれる。本名義治。飯山中学(現、飯山北高等学校)在学中に日本画家菊池契月の兄、細野順耳に日本画の手ほどきを受ける。1933(昭和8)年一家上京のため飯山中学を中退、翌年吉村忠夫に入門し大和絵を学ぶ。44年郷里に疎開し、戦後長野県展に出品し47年には信毎賞、48年には県展賞を受賞。51年に大阪へ転住し、翌年には美人画家中村貞以に師事、画塾春泥会で研鑽を積む。53年第38回院展に「庭」が初入選、以後毎年院展に入選を続けた。59年第44回院展で「羊飼」が奨励賞次点となり、60年第45回「小鳥の店」が奨励賞、62年第47回「寂」が日本美術院次賞を受賞。60年代末から日本の古典芸能に造詣を深めて能や狂言、舞踊などを好んでテーマとするようになり、69年第54回「京舞花の旅」、73年第58回「朝顔話」、75年第60回「日想観(弱法師)」、77年第62回「狂言」、78年第63回「狂言」、79年第64回「京を舞う」、81年第66回「皎」、82年第67回「京を舞う」が、いずれも奨励賞を受賞し、82年日本美術院同人に推挙された。同年には師中村貞以の逝去により春泥会を引き継ぎ、師の七回忌後は画塾含翠として継承、師より受けついだ大阪での日本美術院の伝統を守り続けた。1989(平成元)年日本美術院評議員となる。90年第75回院展には石山寺に籠り、源氏物語を執筆する紫式部を描いた「月」で内閣総理大臣賞を受賞。92年郷里の飯山市公民館において作品展、同年から翌年にかけて日本橋と大阪の三越で回顧展を開催。94年には第79回院展に「足柄の山姥」を出品し、文部大臣賞を受賞。99年には東大阪市民美術センターで「長谷川青澄展―その純なる魂の軌跡」が開催されている。

to page top