本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





赤穴宏

没年月日:2009/06/03

読み:あかなひろし、 Akana, Hiroshi*  千葉大学名誉教授で洋画家の赤穴宏は6月3日、急性心不全のため死去した。享年87。1922(大正11)年3月26日、現在の北海道根室市琴平町に父前田脩、母トミの次男として生まれる。1928(昭和3)年、海軍将校であった赤穴家の養子として入籍。養父赤穴敬一は、海軍の将校であったことから、その後の幼少期には養父の転勤にともない広島県呉市、青森県下北郡大湊町、長崎県佐世保市等に転居。41年3月芝中学校(東京都港区)を卒業、同年4月、東京高等工芸学校工芸図案科に入学。43年同学校を卒業、日本鋼管に入社。翌年6月、教育応召、東部第6部隊(近衛歩兵第8連隊、東京六本木)に入隊。45年8月終戦とともに除隊、日本鋼管に復職。46年1月、古茂田守介(1918―1960)の紹介により、終戦後に設けられた田園調布純粋美術研究室に入り、設立者である猪熊弦一郎の指導を受けた。同年11月、日本鋼管を退職し、東京工業専門学校助手となる。(同学校は、44年東京高等工芸学校が改称、改組されたものである。)48年5月第2回美術団体連合展に「久里浜附近」が入選。また47年9月、第11回新制作派協会展に「三人の女」が初入選。以後同協会展では、49年、50年に新作家賞、55年には新制作協会賞を受賞し、56年に同協会会員に推挙され、2008(平成20)年の72回展まで、毎回出品を続けた。その間、49年に東京工業専門学校が、同学校を母体に千葉大学工芸学部に包括されたため、50年に赤穴は、同学部助教授となった。さらに51年4月に同大学工芸学部は工学部に改組され、同学部専任講師となり、54年に助教授となった。また50年8月、画家塩谷佳子と結婚。赤穴が、画家を志したのは戦後のことである。古茂田守介と出会い、猪熊弦一郎の指導を受けてからのことだろう。とはいえ、工芸図案科で学んでいたため、絵画に対する基礎を体得しており、だからこそ一年後には、公募の展覧会に入選するまでの作品を描くことができた。戦後の荒廃した東京の風景を描いた作品は、焼け残った建物に向けられ、誠実な表現と哀しい情感がただよい、すでにたびたび指摘されていることだが、戦中期の松本竣介の作品に通じる眼差しが感じられる。しかし、新制作派協会展(51年、新制作協会に改称)を中心に創作活動をはじめた赤穴にとって、転機は戦後美術の新しい動向に向きあうことでおとずれている。50年代になると具象から抽象表現と変化している。さらに60年代にはいると、アンフォルメル、アメリカの抽象表現主義の紹介によって、さらに自己の内面と社会とに向き合い、心象風景ともとれる情念的な抽象作品を描くようになった。65年に開催された「戦中世代の画家」展(国立近代美術館)の出品作家のひとりに選ばれていることからも、この時代、つまり戦後美術を担う中堅作家という評価を得るようになっていた。60年代後半には、脈絡無く異なったイメージを描いた複数の絵画をひとつに構成した「組絵画」を試みた。この実験的な制作のなかで、具象的なイメージが復活し、70年代以降には、東京の都市風景と卓上静物を描くようになった。70年、千葉大学工学部教授となった。82年3月、同大学を定年退官、同大学名誉教授となり、同年4月から武蔵野美術大学教授に就任。91年11月、「赤穴宏教授作品展」を武蔵野大学美術資料図書館で開催、初期の作品から近作まで48点を出品。2002年9月には、「«画業55年»―魂へのまなざし 赤穴宏展」を北海道立釧路芸術館で開催し、68点を出品。晩年の静物画は、卓上におかれた壺の静謐な写実性に対して、背景はかつての自作の抽象絵画をおもわせるイメージが描かれ、あたかも画家自身の過去と現在が融合した構成となっていた。長い画歴のなか、具象から抽象へ、さらに抽象から具象へと、その表現を変転させてきたが、一貫してあるのは画家自身の資質であったロマンチシズムであったといえる。

滝平二郎

没年月日:2009/05/16

読み:たきだいらじろう、 Takidaira, Jiro*  絵本の挿絵等で活躍したきりえ(切り絵)作家で版画家の滝平二郎は5月16日午前7時22分、がんのため千葉県流山市の病院で死去した。享年88。1921(大正10)年4月1日、茨城県新治郡玉里村(現、小美玉市)の農家に生まれる。県立石岡農学校(現、石岡第一高等学校)在学中に、日本漫画研究会の漫画講義録を入手、柳瀬正夢らの諷刺漫画に強い関心を寄せ、茨城県漫画派集団に参加。同集団の機関誌『漫画研究』に寄稿していた鈴木賢二や飯野農夫也との交遊を機に、農学校卒業後、木版画をはじめる。1942(昭和17)年造型版画協会第6回展に霞ヶ浦周辺の生活を題材にした作品を出品し入選。同年応召し、沖縄の飛行部隊に配属され、米軍の捕虜となって終戦を迎える。46年帰郷し鈴木賢二や飯野農夫也らのすすめで日本美術会に入会、後に委員をつとめる。47年鈴木賢二や飯野農夫也と刻画会を結成。同年日本美術会主催の第1回日本アンデパンダン展に出品。また郷里玉川村の青年たちと刻画晴耕会を組織し、機関誌『刻画晴耕』を発行。49年日本版画運動協会創立に参加、機関誌『版画運動』の編集人となる。51年、版画による絵本作品『裸の王さま』(私家版)を制作。55年東京都豊島区雑司ケ谷に移住。59年鈴木賢二、小野忠重らとこれまでの版画運動を超えた創作を追究するグループとして集団・版を結成、銀箔やタマムシ箔を使った作品を発表する。いっぽう57年頃より本格的に出版美術の仕事を始めるようになり、64年児童出版美術家連盟設立とともに会員となる。同年、童画グループ「車」結成に参加。60年代後半には木版画に代わって切り絵による制作を行うようになり、67年児童文学作家の斎藤隆介著『ベロ出しチョンマ』(理論社、1967年)の挿画で注目を集める。その後も斎藤と組んだ絵本『花さき山』(岩崎書店、1969年)、『モチモチの木』(岩崎書店、1971年)はロングセラーとなり、『花さき山』は70年に講談社第1回出版文化賞(ブックデザイン賞)を受賞。68年第6回国際版画ビエンナーレ展に招待出品。69年から「きりえ」の名で朝日新聞家庭欄に連載、その翌年から78年にかけて同紙の日曜版に色刷りで連載し、その詩情あふれる農村風景や庶民生活を描いた“きりえ”が人気を博す。一連のきりえ作品で74年、第9回モービル児童文化賞を受賞。87年『ソメコとオニ』(岩崎書店)で第10回絵本にっぽん賞を受賞。2000(平成12)年に栃木県立美術館で開催された「野に叫ぶ人々 北関東の戦後版画運動」展で前半生の版画活動が紹介される。没後の2009年から翌年にかけて逓信総合博物館で「はなたれ小僧は元気な子~さよなら滝平二郎~遺作展」が、10年から翌年にかけて茨城県近代美術館で回顧展「さよなら滝平二郎―はるかなふるさとへ―」が開催された。

森田茂

没年月日:2009/03/02

読み:もりたしげる  洋画家の森田茂は2日午後9時20分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年101。1907(明治40)年3月30日、茨城県真壁郡下館町に生まれる。1913(大正2)年、下館男子尋常高等小学校(現、下館市立下館小学校)に入学。その後、父の転任により、東京と下館の間で転居を繰り返すが、17年に両親とともに大阪市に転居し、第一西野田尋常小学校に転校。19年、同校を卒業して大阪府立今宮中学校に入学する。20年、栃木県立宇都宮中学校に転校し、24年に同校を卒業。同年、茨城県師範学校本科に入学。この頃から油彩画を描き始める。25年、同校を卒業して真壁郡大田尋常高等小学校の教員となる。26年、第3回白牙会展に「静物」で初入選。また、同年第7回帝展で同郷の熊岡美彦らの作品を見て感銘を受け、熊岡を訪ねて上京を勧められる。28年、大田尋常高等小学校を退職して上京し、東京市深川区臨海尋常小学校図画専科の教員となる。30年第7回槐樹社展に「静物」で初入選。翌年の第8回同展に「少年」で入選する。31年、熊岡美彦が設立した熊岡洋画研究所の夜間部に入所。33年、熊岡らによって前年に創立された東光会の第1回展に「白衣」で入選。34年第2回同展に「少女像」と道化師の舞台稽古を描いた「稽古」が入選。「稽古」でK氏奨励賞を受賞する。同年第15回帝展に旅芸人の姿を描いた「神楽獅子の親子」で初入選。35年から東光会無鑑査となる。36年文展鑑査展に飛騨の神事のひとつを描いた「飛騨広瀬の金蔵獅子」で入選。37年第5回東光会展に「組閣前夜(政人)」「組閣前夜(入京)」「組閣前夜(記者)」を出品して同会会友に推される。38年、第6回東光会展に「膺懲の夏」を出品し、同会会員に推される。第2回文展に「金蔵獅子」が入選し、特選となる。40年、人形を描き始め「森田茂画伯文楽人形・飛騨祭油絵展」(名古屋・丸善画廊)、「森田茂画伯洋画展」(高山市公会堂)を開催。同年の紀元二千六百年奉祝展には「人形をつくる男」で入選する。戦後の46年第2回日本美術展に「阿波人形」で入選し、以後、日展に出品を続ける。また、47年に再興した東光会展にも毎年出品する。49年、日展依嘱となる。58年、社団法人となった日展の会員となり、62年、日展評議員となる。同年、エジプト、フランス、イタリア、スペイン等を訪れ、エジプトの自然や文化に興味を抱く。63年第29回東光会展に「ロバに乗るエヂプト人」、同年第6回社団法人日展に「ラクダと人」を出品。65年には東南アジアを旅行し第31回東光会展に「バンコックの朝の礼拝」「バンコックの寺院と僧」、同年第8回社団法人日展に「バンコックの僧達」を出品する。66年、山形県羽黒山で初めて黒川能を観て農民の祭と一体化した素朴さと土着性に感銘を受け、同年の第9回日展に「黒川能」を出品して文部大臣賞を受賞。翌年には自ら能を習い始める。69年第1回改組日展に「黒川能」を出品。70年に同作品で昭和44年度日本芸術院賞を受賞。76年、日本芸術院会員となる。77年、東光会理事長、82年、日展顧問となる。86年、高山市民文化会館で「森田茂展」、茨城県立美術博物館で「森田茂展―画業60年の歩み」が開催される。1993(平成5)年文化勲章受章。97年には「卒寿記念森田茂展」が下館市文化ギャラリー、横浜そごう美術館等で開催され、2003年にはしもだて美術館開館記念展として「森田茂展」が開催された。森田の画業は初期から慎ましい庶民の生活の情景に取材した制作が多く、神事や奉納舞への興味もそれに根ざしていた。黒川能を描いた作品は、次第に対象の視覚的描写に留まらず、幾度も絵具を塗り重ねてつくる重厚なマチエールと抽象化されたかたちによって、場のエネルギーといった不可視のものを描き出すようになっていった。年譜、出品歴、関連文献等は展覧会図録および『森田茂画集』(求龍堂、1988年)に詳しい。

大山忠作

没年月日:2009/02/19

読み:おおやまちゅうさく、 Ooyama, Chusaku*  日本画家で文化勲章受章者の大山忠作は2月19日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。享年86。1922(大正11)年5月5日、福島県安達郡二本松町字下ノ町(現、二本松市根崎)の染物業を営む家に生まれる。小学校卒業後上京、名教中学を経て40年東京美術学校日本画科に入学する。44年学徒出陣のため繰上げ卒業となり航空部隊に配属、南方を転戦し46年台湾から復員した。同年の第31回院展に「三人」が入選、また第2回日展に美校の師小場恒吉を描いた「O先生」が初入選、以後落選を経験することなく日展に入選を続ける。47年高山辰雄らの一采社に参加、同年より山口蓬春に師事する。またこの年、法隆寺金堂壁画模写に橋本明治班の一員として参加し、第九号壁を担当。49年第5回日展に「群童」、50年同第6回に「室内」等人物画を出品し、52年第8回日展では「池畔に立つ」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。翌年の第9回日展に「浜の男」を無鑑査出品し、55年第11回日展で「海浜」が再び特選・白寿賞を受賞する。61年日展会員となる。67年法隆寺金堂壁画再現模写に従事、第十一号壁の普賢菩薩を担当。68年第11回日展の「岡潔先生像」で文部大臣賞を受賞。川越喜多院の五百羅漢に取材し、72年の第4回改組日展に出品した「五百羅漢」により73年、日本芸術院賞を受ける。70年日展評議員、75年理事となる。78年より2年をかけて成田山新勝寺光輪閣襖絵「日月春秋」28面を制作、84年には同襖絵「杉・松・竹」22面を完成させる。人物画をはじめとして、花鳥、風景等さまざまな主題を手がけながら、抑制の効いた色調と堅牢な古典的形態による画風を展開した。86年日本芸術院会員となる。87年福島県立美術館で「大山忠作展・画業40年の歩み」開催。1992(平成4)年日展理事長に就任。同年成田山新勝寺聖徳太子堂壁画6面を完成。99年文化功労者に選ばれる。2005年日展会長に就任。06年には文化勲章を受章。07年に二本松市へ自作169点を寄贈、没後の09年10月、二本松市市民交流センター内にそれらの作品を中心に収蔵展示する大山忠作美術館が開館した。画集に『大山忠作画集』(講談社、1982年)、『大山忠作画集』(朝日新聞社、1994年)がある。

淸原啓一

没年月日:2008/10/11

読み:きよはらけいいち  日本芸術院会員で洋画家の淸原啓一は10月11日、肝細胞癌のため死去した。享年81。1927(昭和2)年6月27日、富山県砺波の農家に生まれる。45年に入学した富山師範学校で曾根末次郎に絵を学び、画家を志すようになる。学制改革のただ中にあった48年同校を卒業、曾根の計らいで新設間もない津沢中学校に勤め始める。当時同校が仮校舎としていた砺波高等女学校には同じく曾根に学んだ同郷の洋画家川辺外治がおり、そのアトリエでデッサンを学んだ。49年、第2回富山県観光美術展で棟方志功に推されてキレイ堂賞を受賞、以後上京までに度々棟方を訪ねる。50年に上京、明治大学政経学部3年に編入、卒業する52年に「椅子による女」で日展初入選を果たし、両親に反対されながらも東京に残り中学校教諭をしながら制作を続ける。この頃から、光風会等で活躍していた伊藤四郎の紹介で、“山羊の画家”とも呼ばれていた帝国芸術院会員の辻永に師事。その異名通り辻は身近にいた山羊をよく描いた画家であったが、淸原も自宅に鶏を飼いながらそれを画題とした。54年第10回日展で「鶏」が入選、以後鶏は生涯の画題となり“鶏の画家”として知られるようになる。力強く存在感のある黒のタッチがルオーを思わせるが、59年の第2回新日展で特賞となった「群鶏」では、マチエールを一変させ、全体に渋く抑えられた色調の中で、鶏冠の赤がアクセントとなり、またそのリズムが観る者の視線を誘い巧みに奥行きを出している。64年第50回記念光風会展で「鶏」が会員賞受賞。また井上和、梅津五郎、菅沼金六、高島常雄、寺島龍一、松木重雄ら日展洋画部会員とともに七人会展を開催、84年の第21回最終展まで出品する(後に浮田克躬、村田省蔵も参加)。さらに同年ヨーロッパ、エジプトなどを巡る約10ヶ月の旅に出る。68年、肝臓を患い約10ヶ月の療養生活を送る。69年第55回記念光風会展に「鶏」を出品、光風会審査員となる。73年光風会評議員。河口湖畔にアトリエを構えた74年、第60回記念光風会展に「小さな争い」を出品し第60回記念特別賞を受賞。ヨーロッパ旅行後いろどり鮮やかな色面構成を好んだ時期もあったが、この頃一旦落ち着きを見せる。また“鶏”や“群鶏”など限りなくシンプルであったタイトルが、この前年あたりから、鶏の動態や内面の動きを端的に説明するようになる。75年日展審査員推挙。78年、第64回光風会展にトリプティークを連想させる構図で描いた「鼎立」を出品し辻永記念賞を受賞。この翌年あたりから、赤や黄色などを大胆に塗り拡げた背景を好み、しばしば描くようになる。日展評議員となった86年の同展出品作「秋色遊鶏」は、琳派を思わせる装飾性と華やかな色使いが特徴で、その源流は75年頃に遡ってみとめられるが、ここにきて晩年の様式はほぼ定まったといえる。88年光風会理事。1991(平成3)年郷里の剱岳に泊まり込みで一週間の取材を敢行し連作に取り組む。94年日展内閣総理大臣賞、2002年光風会常務理事、日展理事。この年、前年の日展出品作「花園の遊鶏」で第58回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、同会員となる。本作品は印象派風の明るくやわらかな表現で溢れんばかりの生命力を詩情豊かに描いた、特に生彩を放つ代表作となる。03年日展常務理事。07年旭日中綬章受章。08年日展顧問。同年富山県立近代美術館で「淸原啓一回顧展 新花鳥画への道程」が開催される。この大回顧展のために、六曲一双の屏風仕立てで大作「紅葉遊鶏図」「新緑遊鶏図」を描き上げた。この年にはまた『淸原啓一画集』(求龍堂)が刊行される。主な個展としては他に、「清原啓一展―画業50年の歩み―」(富山県民会館美術館、1994年)、「清原啓一展―画業55年記念―」(高岡大和、1999年)、「清原啓一洋画展―日本芸術院会員就任記念―」(高岡大和、2004年)、「淸原啓一―遊鶏の賦―」(渋谷区立松涛美術館、2007年)などがある。

宮迫千鶴

没年月日:2008/06/19

読み:みやさこちづる、 Miyasako, Chizuru*  画家で評論家、エッセイストの宮迫千鶴は6月19日、腹部リンパ腫のため埼玉県川越市の病院で死去した。享年60。1947(昭和22)年10月16日広島県呉市に生まれる。カトリックの女子校で中等・高等教育を受けた後、70年広島県立女子大学文学部卒業。上京して出版社やファッション誌の会社などで働きながら、独学で絵画制作を開始する。山下清の貼り絵に出会ったことで、大学時代に受けたアカデミックな制作指導のトラウマから解放され、既成概念に囚われぬ独自の表現を育む。75年荻窪のシミズ画廊にて初個展。モチーフを機械に置き換え再構築したかのような構図で、多色使いながらも落ち着いた色調の作品が多い。この頃、生涯のパートナーとなる画家の谷川晃一と出会い、二人展やグループ展も開くようになる。文筆業では78年に初の美術エッセイ集『海・オブジェ・反機能』(深夜叢書社)を刊行。80年代からは美術や写真評論の他、当時盛んであった女性論、家族論などの執筆に追われ、『イエロー感覚』(冬樹社、1980年)、『女性原理と写真』(国文社、1984年)、『ハイブリッドな子供たち』(河出書房新社、1987年)、『ママハハ物語』(思潮社、1987年)、『サボテン家族論』(河出書房新社、1989年)、『母という経験』(平凡社、1991年)など著作多数。とりわけ多忙を極めたこの時期はコラージュによるポップで都会的な作品が目立つが、88年伊豆高原に転居した後は、その自然や暮らしを色彩豊かに描いた明るい作品が主となる。ライプチヒで開催される「世界でもっとも美しい本展」にて92年、画文集『緑の午後』(東京書籍、1991年)が銀賞受賞。93年より伊豆高原アートフェスティバルを企画・開催。店舗や宿泊施設のほか出品者の自宅や別荘を会場とし、地元住民を中心に参加者主体で運営する草の根型の芸術祭を提唱。自然の暮らしの中でアートを楽しむことを目指した、非営利の新しい芸術イベントとして評判となる(2007年の第15回まで毎年参加)。豊かな自然やその中での暮らしをテーマにしたものの他、この伊豆時代に関心を寄せたスピリチュアリティに関するエッセイも多い。主な著書に『美しい庭のように老いる』(筑摩書房、2001年)、『月光を浴びながら暮らすこと』(毎日新聞社、2002年)、『絵のある生活 コラージュ・ブック』(NHK出版、2002年)、詩画集『月夜のレストラン』(ネット武蔵野、2003年)、『田舎の猫とおいしい時間』(清流出版、2004年)、『はるかな碧い海』(春秋社、2004年)など。99年には『海と森の言葉』(岩波書店、1996年)のエッセイが一部、三省堂、明治書院の高校現代国語の教科書に採用されている。展示活動は初個展以来ほぼ毎年行われたが、主な展覧会には「●田島征三●谷川晃一●宮迫千鶴三人展」(練馬区立美術館、2005年)、「夏のアートフェスティバル2005 森のアトリエ 谷川晃一&宮迫千鶴展」(国際芸術センター青森、2005年)などがある。また没後の09年には遺稿集『楽園の歳月』(清流出版)が刊行された。

岡田節子

没年月日:2008/05/28

読み:おかだせつこ、 Okada, Setsuko*  洋画家で女子美術大学名誉教授の岡田節子は5月28日、敗血症のため死去した。享年90。1917(大正6)年8月31日、宮城県志田郡古川町(現、大崎市)に生まれる。内務省官吏(後に代議士)であった父の転勤について、子ども時代には札幌、金沢、東京、津、宮崎、京都、岐阜など転校を重ねる。1934(昭和9)年東京府立第五高等女学校4学年を修了・退学し、女子美術専門学校(現、女子美術大学)師範科西洋画部に入学する。翌35年同校高等科西洋画部に転部。37年に卒業すると岡田三郎助が自宅で開いていた研究所に入るが39年に閉鎖、この年の4月朱葉会第21回展に出品して朱葉会賞を受賞。またこの頃就職も考え、主婦之友者編集記者に応募し採用までこぎつけながら家族に反対され断念したこともあった。42年、紹介された梅原龍三郎の助言で久保守に師事、その年の内に国画会第17回展で「ミモザ」が初入選、まもなく開所した国画会研究所に入る。47年女流画家協会の発足に創立会員として参加、第1回展に「兎」「森」「夕べ」を出品しT氏賞を受賞。48年南青山にアトリエを構え桜井悦との共同生活を開始。50年に東京YWCA教養部講師を務め、52年に女子美術大学助教授となる。この間、フランス留学を前提にアテネ・フランセで1年ほど学び、53年からは留学費用のために雪印乳業株式会社に広告原画を2年ほど提供。54年私費留学生試験に合格し桜井悦と翌年渡仏。ヨーロッパ各地に足を運びながらパリで制作を行うが、病を得た桜井に伴い一年半ほどで帰国、大学勤務に復帰する。渡仏前には、やさしいタッチと色調を活かした素朴な画風で子供や動物を描くことが多かったが、パリではその素朴さを残しながらやや水彩風のタッチで、街並みを主な画題とした。一方で、戦後華々しくデビューしたビュッフェやサロン・ド・メを中心とする青年画家たちが活躍していたパリの半具象にも魅了される。57年に銀座の求龍堂画廊にて開催された初の個展で滞欧作を発表、同年第11回女流画家協会展に半具象の影響色濃い「蝶」「巣」を出品、その内「蝶」が毎日新聞社賞受賞。一転してドライな筆致となった両作品では、樹木の幹と枝で大まかに区切った構図と、その一角に描き込まれた小さく儚げな生きものが好対照をなし、ともすれば無機質になりかねない画面の中に灯されたような生命力が見事にクローズアップされている。65年アメリカ、メキシコへの研修旅行中、ニューヨークで抽象絵画に衝撃を受ける。71年女子美術大学教授となる。歪ませた円形を組み合わせた画面構成などをしばらく試みていたが、抽象は自分には不向きと思い至り、72年再び具象に戻る決意をする。代表作「楽園」(78年)や、それに連なるものとして、80年代に資生堂ギャラリーで3度の展観がなされた“森シリーズ”が有名だが、“交響譜”“メルヘン”“鳥獣戯画”などのシリーズを次々と展開。「いずれも自然と人間を含めた生きもの達の交流がテーマ」で、モチーフは飽くまで現実世界に求めながら、「想像や空想をおりまぜた、独白に近い作品」との言葉にあるように、寓話やメルヘンの世界を表出した心象画が岡田のスタイルとなる。細やかなストロークによる塗り重ねが全体に朦朧とした均質感を醸すことで、それ自体具体性を極力排除されているモチーフ全てがそれを取り巻く空気と渾然一体となり、現実とは決して交わらぬ独立した幻想世界を築いている。また晩年にはエッチングやリトグラフなどの版画作品もしばしば制作した他、人物の顔面に注目し、アルチンボルドを彷彿とさせる動物パズル的な作品も試みている。83年女子美術大学を退職、同大学名誉教授の称号を受ける。1989(平成元)年、46年間ともに暮らし制作を続けてきた桜井悦が死去。93年『岡田節子画集』を美術出版社より刊行、出版記念自選展を東京セントラル美術館にて開催。2000年には美術出版社より『メルヘン鳥獣戯画』が出版された記念として日本橋高島屋画廊で個展が開催された。女流画家協会展への出品は、パリ留学中の第9回・第10回を除き亡くなる08年の第62回まで欠かすことがなかった。

古川吉重

没年月日:2008/04/10

読み:ふるかわよししげ、 Furukawa, Yoshishige*  抽象画家の古川吉重は4月10日、入浴中に倒れ、死去した。享年86。1921(大正10)年12月19日、福岡県福岡市大工町87番地に生まれる。国文学者で書画をよくした佐賀藩士古川松根は曽祖父にあたる。1928(昭和3)年、福岡市簀子小学校に入学するが病弱のため同年退学し、29年に再入学して35年に卒業。同年、中学修猷館(現、修猷館高校)に入学する。同校在学中の36年より杉江春男に師事してデッサン、油彩画を学ぶ。39年中学4年を修了し、東京美術学校(現、東京芸術大学)油画科に入学。田辺至にデッサンを学び、夜は鈴木千久馬研究所に通う。40年東京美術学校の南薫造教室に入る。同教室の同期生に藤間清があり、後に先輩の野見山暁治が病気のため同期となる。43年9月、東京美術学校を繰上げ卒業。44年郷里に帰り当仁小学校教師となって図工を受け持つが、同年5月応召し海軍気象兵となる。45年終戦とともに復員し、当仁小学校に復職。翌46年香椎高等女学校に転任して美術を担当。同年新興美術展(日本橋三越)に入選。1947年第15回独立美術協会展に「風景(C)」「樹と建物」で初入選。以後、同展に出品を続ける。49年第17回独立展に「人物」「女」「裸婦」を出品し、独立美術賞受賞。55年サエグサ画廊で初個展を開催する。このころはキュビスムに学んだ画風を示した。56年福岡大丸デパートでの個展に25点を出品。57年第9回読売アンデパンダン展に「廻転」を出品し、以後同展に出品を続ける。一方、独立美術協会には不満を抱き、58年に同会を退会。同年、吉田穂高などによるグループ「野火」、および、岡本太郎、難波田龍起らによる総合的現代美術グループ「アートクラブ」に参加する。62年第5回現代日本美術展コンクール部門に「昼―5」で入選。63年第2回丸善石油奨励賞選抜展に入選。同年7月それまで勤務していた代々木小学校を退職し、同年9月にニューヨークで開催される世界美術家会議のオブザーバーとして渡米する。当初はヨーロッパへ向かう予定であったが、ニューヨークにとどまり、64年第15回ニューイングランド展に入選する。以後、68年まで同展に出品。73年9月、ニューヨークの新築ビルであるグレイスの社内食堂に壁画を描く。74年11月ソーホーのロータス画廊で個展を開催し、71年頃から始めたカンヴァスによるコラージュ作品等を発表する。76年13年ぶりに帰国し、フマ画廊で個展を開催。翌年、欧州巡遊の旅をし、ニューヨークに帰る。81年8月東京のギャラリー山口で個展を、1989(平成元)年1月、コンデッソ・ローラー画廊(ソーホー)で個展を開催。同展は15年ぶりのニューヨークでの個展となった。92年3月福岡市美術館で「古川吉重展」が開催され、6月には国立国際美術館で「近作展11 古川吉重」が開催された。初期には具象画を描いたが、1950年代に幾何学的抽象表現へ移行、1968年には画面に同じ大きさの小円を規則的に並列し、明度差のない色面で構成するミニマル・アート的な表現を行った。71年からはカンヴァス・コラージュを行い、徐々にゴムなどの素材と合わせて異なる材質感による構成を試みるが、78年から油彩による表現にもどり、モノクロームの幾何学的抽象から、80年代には色彩を取り入れた構成に向かった。

白髪一雄

没年月日:2008/04/08

読み:しらがかずお、 Shiraga, Kazuo*  足で絵を描くフット・ペインティングと呼ばれる独自の技法を確立し、戦後美術を代表する一人として国際的に活躍した白髪一雄は4月8日午前7時25分、敗血症のため兵庫県尼崎市内の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年8月12日、兵庫県尼崎市の呉服商の長男として生まれる。幼少の頃から書画や骨董に親しみ、旧制中学時代に画家を志すようになる。東京美術学校(現、東京芸術大学)への進学を夢見るが、家業を継がせたい家族の猛反対と、太平洋戦争が勃発し食料や物資の不足が深刻になり始めていたこともあり、自宅から通学可能な京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)へ1942(昭和17)年に入学。当時同校には図案科と日本画科しかなく、入学したのは日本画科であった。しかし日本画へは興味を示さず、48年同校卒業後は洋画に転向、大阪に新設された市立美術研究所に通い、次に新制作派協会(51年に新制作協会に改称)の会員だった芦屋在住の洋画家、伊藤継郎のもとで更なる研鑽を重ねる。新制作派協会の関西展や東京本展で、童話的な主題による具象画を発表。その後、52年に大阪で発足した現代美術懇談会(ゲンビ)に参加するなど前衛美術に傾倒し、同年新制作協会の村上三郎、金山明、田中敦子らと「芸術はなにも無い0の地点から出発して創造すべきだ」として0会を結成。ペインティングナイフや指を多用した作品を経て、54年の0会の展覧会で、初めて足で制作した作品を発表する。55年、0会は芦屋在住の吉原治良が若い美術家たちと結成した前衛美術グループ、具体美術協会から合流の誘いを受け、参加。以後、同協会を活動の舞台とし、なかでも55年7月に芦屋公園で開催された「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」で赤い丸太に斧で切り込んだ「赤い丸太」を、同年10月に東京、小原会館で開催された第1回具体美術展では庭に置いた約1トンの泥の中で格闘する「泥にいどむ」を、そして57年5月と7月に大阪、産経会館と東京、産経ホールで開かれた「舞台を使用する具体美術」には「超現代三番叟」を発表、激しいアクションを物体に定着させた立体作品やパフォーマンスを試みた。その一方で足による制作も続けたが、57年フランス人美術評論家のミシェル・タピエが来日、タピエの提唱するアンフォルメルを体現する絵画として位置づけられ、国際的にも高く評価される契機となる。この時期、愛読していた『水滸伝』の豪傑のあだ名を作品に付した「水滸伝」シリーズを開始。59年イタリア、プレミオ・リソーネ国際展で買上げ賞を受賞。62年パリのスタドラー画廊、トリノのノティティエ画廊で個展を開いて以降フランス、イタリア、ドイツなど海外でも個展を開催。65年第8回日本国際美術展に「丹赤」を出品して優秀賞を受ける。「丹赤」では素足ではなくスキー板を履いて制作し、以後板や棒を用いて画面に襞や扇状の半円を作り出し、画面に流動感を与えるようになる。70年には比叡山に上って天台座主の山田恵諦大僧正に教えを請い、翌年得度し、「素道」の法名を授けられる。72年具体美術協会解散後も個展を中心に活動するが、密教との出会いを機に、その作風は宗教性を深めた。2001(平成13)年に兵庫県立近代美術館で回顧展を開催。没後の09年から10年にかけて「白髪一雄展―格闘から生まれた絵画」が、安曇野市豊科近代美術館・尼崎市総合文化センター・横須賀美術館・碧南市藤井達吉現代美術館を巡回して開催、画業の全貌が回顧された。

大津鎮雄

没年月日:2008/01/31

読み:おおつしずお  日展参与の洋画家大津鎮雄は1月31日午前1時30分、大動脈弁狭窄症のため東京都武蔵野市の病院で死去した。享年87。1920(大正9)年10月25日、東京市本郷区千駄木に生まれる。父が大阪商船に勤務し転勤が多かったため、幼少期は沖縄、神戸などに住み、1929(昭和4)年に吉祥寺に居を定める。この頃、父とともに東京府美術館で開催される美術団体展に赴き、洋画に興味を抱く。33年武蔵野町立第三尋常小学校を卒業し、日本美術学校(現、日本美術専門学校)初等科に入学、小島善太郎に師事して油彩画を描き始める。37年第1回一水会展に「遠望」で初入選。39年日本美術学校本科洋画科を卒業する。41年赤坂歩兵隊に入隊し、同年から43年まで一水会には従軍のため不出品。44、45年は戦争により一水会展が開催されなかった。46年3月中国から復員。同年より安井曽太郎に師事する。48年より東京日比谷のアニーパイル劇場で舞台美術のデザインを担当。49年第5回日展に「松と洋館」で初入選。以後、日展に出品を続ける。50年第12回一水会展に「夏の午後」「赤煉瓦」を出品し、一水会賞受賞。翌年、一水会会員となる。51年第7回日展に「寒木邸」を出品し日展岡田賞受賞。57年第19回一水会展に「欅」を出品し会員優賞受賞。61年から翌年まで約半年間渡欧し、以後、ヨーロッパ風景を主要なモティーフとするようになる。65年第8回社団法人日展に「裏庭」を出品して菊華賞受賞。68年日展会員および一水会委員となる。86年日展評議員となる。1991(平成3)年第23回日展に「山添いの家」を出品して文部大臣賞受賞。99年10月、「大津鎮雄油絵展 風景画の輝き―南仏の田園から」(武蔵野市文化会館アルテ展示室)が開催され、1950年代から近作までが展示される。2000年第15回小山敬三美術賞を受賞し、同年、これを記念して「小山敬三美術賞受賞記念大津鎮雄展」が日本橋高島屋で開催され、初期から近作まで約40点が展示される。01年日展参与となる。04年「画業70年記念大津鎮雄展―陽光まばゆい南フランスの自然を見つめて」(サトエ記念21世紀美術館)が開催され、没後の09年2月には同美術館で「大津鎮雄展―美しい風景を求めて・旅情を描いた画家の生涯」展が開催された。年譜は同展図録に詳しい。人物や静物を描くのに適性を持つと評した師安井曽太郎のことばに拘わらず、大津は初期から風景、しかも洋風の都市風景を好んで描き、61年のヨーロッパ旅行以後は、西欧風景を主要なモティーフとした。日展、一水会展に出品を続け、晩年は次第に西欧の地方都市を好んで描き、穏健な写実的画風を示した。

片岡球子

没年月日:2008/01/16

読み:かたおかたまこ、 Kataoka, Tamako*  日本画家で日本芸術院会員、日本美術院同人の片岡球子は1月16日午後9時55分、急性心不全のため神奈川県内の病院で死去した。享年103。1905(明治38)年1月5日、北海道札幌市に、醸造家の長女として生まれる。1923(大正12)年北海道庁立札幌高等女学校(現、北海道札幌北高等学校)補習科師範部を卒業後、女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学。実家では進学は嫁入り支度程度に考えており、すでに結婚相手も決められていたが、26年同校日本画科高等科を卒業すると婚約を破棄して東京に残り、画家になることを決意、自活のため、横浜市立大岡尋常高等小学校(現、市立大岡小学校)教諭となる。女子美術学校在学中より松岡映丘門下の吉村忠夫に師事し、また洋画家富田温一郎にデッサンを学んだが、帝展に落選を続け、勤務先の小学校の近くに住む中島清之の勧めで院展に出品。1930(昭和5)年第17回院展に「枇杷」が初入選し日本美術院の研究会員、39年第26回院展出品の「緑蔭」で院友に推挙される。42年院展の研究会で課題「雄渾」に対して御嶽山の行者を描いた作品が小林古径に注目され、激励を受ける。46年第31回院展で「夏」が日本美術院賞を受賞。同年中島清之を介して安田靫彦に入門。続いて48年第33回院展「室内」、50年第35回「剃髪」で日本美術院賞、51年第36回「行楽」で奨励賞、52年第37回「美術部にて」で日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。この間51年には量感表現を勉強するため約一年間、彫刻家で東京芸術大学教授の山本豊市に彫刻デッサンの指導を受ける。55年には大岡小学校を退職するが、小学校教師としての歳月はその作風における初々しい素朴さを培うこととなった。同年女子美術大学日本画科の専任講師となり、以後助教授を経て65年に教授となる。54年第39回院展に「歌舞伎南蛮寺門前所見」を出品するが、歌舞伎、能、雅楽など伝統芸術の集約された世界との出会いが転機となり、院展の典雅な感覚から遠い作風ながら、このテーマを掘り下げることによって現代日本画の新生面を切り拓く。61年、前年の第45回院展出品作で能の石橋に取材した「渇仰」と個展により、芸術選奨文部大臣賞を受賞。また61年の第46回院展でも「幻想」が文部大臣賞を受け、日本美術院評議員となる。いっぽう60年代には日本各地の火山を取材旅行してエネルギッシュな作品を制作、65年第8回日本国際美術展で「火山(浅間山)」が神奈川県立近代美術館賞を受賞。その後は富士山をテーマに晩年に至るまで取り組み続ける。60年代半ばには美術評論家の針生一郎を中心とする日本画研究会に参加。66年愛知県立芸術大学開校とともに日本画科主任教授となり、その剛柔併せもつ人柄は学生たちの信頼を集め、多くの俊英を育てた。また大学を移ったのを機に、66年の第51回院展に足利将軍の三部作を出品してライフワークの「面構シリーズ」を開始し、武将や浮世絵師といった歴史上の人物をテーマに、彫刻や肖像画、文献等を研究して時代考証に独自の解釈を加え、生気みなぎる力強い人物画の連作を発表する。69年女流の美術家による総合美術展「潮」を結成、83年の最終第15回展まで毎回出品。72年パリで「富嶽三十六景」による個展を開催。74年第59回院展出品作「面構(鳥文斎栄之)」により、翌75年日本芸術院賞恩賜賞を受賞。78年神奈川県文化賞を受賞。79年自作を神奈川県立近代美術館、北海道立近代美術館へ寄贈。81年より日本美術院理事をつとめる。82年日本芸術院会員となる。83年以降は裸婦の連作にも取り組み、春の院展に出品する。86年には永年の日本画による人物探究の業績が評価され、文化功労者に叙せられる。1989(平成元)年文化勲章を受章。また同年中日文化賞を受ける。92年パリの三越エトワールで回顧展を開き、2005年には百歳を記念し、神奈川県立近代美術館葉山・名古屋市美術館・茨城県近代美術館で本格的な回顧展が開催された。

鶴岡義雄

没年月日:2007/10/27

読み:つるおかよしお、 Tsuruoka, Yoshio*  日本芸術院会員で洋画家の鶴岡義雄は10月27日、直腸がんのため東京都目黒区の病院で死去した。享年90。  1917(大正6)年4月13日、茨城県土浦市中城町に生まれる。父は義太夫の名手、母は三味線の師匠、芝居小屋や映画館を経営してきた芸能一家に育つ。旧制茨城県立土浦中学校(現、茨城県立土浦第一高等学校)在学時より絵画に興味を抱き、同校の先輩にあたる熊岡美彦の講習会に参加したおり勧められて画家を志すようになり、1937(昭和12)年日本美術学校(現、日本美術専門学校)に進学、林武に師事して洋画を学んだ。ここで織田広喜、鷹山宇一ら後の二科会幹部らとも知り合う。41年同校卒業、第28回二科展に「台湾蛮女」を出品し初入選を果たす。44年関東軍報道班としてハルピンに赴任、帰国後まもなく土浦で終戦を迎える。46年、服部正一郎を中心に二科会茨城支部を結成、創立会員として参加し、以後二科には毎回出品する。47年、第32回二科展に「化粧」ほか連作3点を出品し二科賞受賞。49年、服部正一郎らとともに創立会員として茨城洋画会を結成(54年の茨城美術家協会結成に伴い発展的解消)。同年二科会準会員。50年二科会員推挙。戦時中は風景・人物の写実描写が多かったが、50年代半ばからシュルレアリスムやキュビスム風の描写、ジオメトリックな構成絵画などに次々取り組む。初めてのスケッチ旅行で57年に北・中米、60年には西欧各国を訪れ、粗目のタッチではあるが細かに計算された構図・配色によるモダンな風景画を多数制作。66年、日本美術学校講師、69年サロン・ドートンヌ会員となる。70年、第55回二科展に「愛」「ムーラン・ルージュ」を出品して東郷青児賞受賞、翌71年二科会委員となる。73年、パリにアトリエを構えマドモアゼル・シリーズに取り組む。74年第59回二科展に「ソワル・ド・パリ」を出品し内閣総理大臣賞を受賞、この作品で同シリーズの耽美様式が確立され、この頃から舞妓も描くようになる。舞妓を描いた数ある作家の中でも鶴岡は、西洋的造形思考に立脚して描写を行ったところにその独自性がみとめられる。舞妓を描いた主な作品には、シュルレアリスム的手法による「舞う」「京の四季」、また遊びに興じる素顔の舞妓や出番待ちの場面を幻想的に描いた「歌留多」「合わせ鏡」などがある。80年二科会常務理事就任。81年インターナショナルアメリカ展グランプリ。86年『鶴岡義雄画集』(日動出版)が刊行される。第74回二科展に「舞妓と見習いさん」を出して翌1990(平成2)年日本芸術院賞を受賞。93年、日本美術学校名誉教授就任、勲四等旭日小綬章受章。94年日本芸術院会員。96年日本美術学校名誉校長に就任。2002年二科会理事長、06年同会名誉理事就任。90年代以降は日本の初期シュルレアリスムを想わせる作風が現れ、再び幾何学的、抽象的な作品が多くなる。主な個展に「鶴岡義雄展」(日動サロン、1971年)、「“京洛四季の舞妓”鶴岡義雄展」(日動画廊、1980年)、「画業60年鶴岡義雄の世界展」(茨城県つくば美術館、1996年)、「卆寿記念・鶴岡義雄展」(しもだて美術館、2007年)などがある。

内藤ルネ

没年月日:2007/10/24

読み:ないとうるね、 Naito, Rune*  戦後の少女画を代表するイラストレーター内藤ルネは10月24日、心不全のため静岡県伊豆市の自宅で死去した。享年74。1932(昭和7)年11月20日、愛知県岡崎市に生まれる。本名、内藤功。第二次大戦末期の混乱のさなか、偶然みつけた中原淳一の雑誌口絵の美しさに感動する。16歳で岡崎中学を卒業後、住み込みで紳士服洋裁店に勤務、その傍ら、絵や詩をつけた手紙を中原に送るようになる。その画才に目をつけた中原に呼ばれ19歳で上京、ひまわり社に入社する。中原に師事しながら雑誌『ひまわり』『それいゆ』の編集・挿絵に携った後、54年の『ジュニアそれいゆ』創刊から主力に加わりイラストやエッセイを発表、雑貨デザインも手がけるようになる。この頃ペンネームを「内藤瑠根」としていたが、56年頃から「内藤ルネ」も用いるようになり、これが定着する。58年『少女』(光文社)の付録別冊漫画の表紙に自作の人形が写真掲載され出すなど、この頃から他社の仕事も受け始め、64年頃まで『少女クラブ』(講談社)、『りぼん』(集英社)、『なかよし』(講談社)、『女学生の友』(小学館)といった少女雑誌の口絵・付録・イラスト作品を多数手がける。59年、中原が病に倒れると代わって表紙を担当、以後ひまわり社のスター的存在となる。61年、個人的に制作を依頼した陶器のビリケン人形を、発注先である大竹陶器が強く希望して商品化。これが大ヒットし同社は後に株式会社ルネと改名してルネグッズを多数製作するが、これらはいわゆるファンシーグッズの先駆となった。64年から『服装』(婦人生活社)に手芸やインテリア等をテーマにエッセイを書き始め、後に「私の部屋」に引き継がれ断続的に92年まで連載される。65年頃には、『装苑』(文化出版局)、『non-no』(集英社)等若い女性向けの雑誌でも仕事をする。70年代にはトマトやイチゴなどをモチーフにしたステンシールが大流行。今日のパンダキャラクターの原型となっているルネパンダも、中国からのパンダ来日前年の71年に商品化されている。74年、南青山に「薔薇色雑貨店・ルネハウス」をオープン。84年2月より1998(平成10)年9月まで『薔薇族』(第二書房)の表紙を担当。2001年静岡県修善寺に住まいを移し、内藤ルネ人形美術館を開館、森本美由紀を中心とする「RUNE DOLL ASSOCIATES」がルネの人形を復刻し展示を行うようになる。02年、宇野亜喜良等7名と銀座スパンアートギャラリーで「2002―少女頌」を、弥生美術館にて初の回顧展「内藤ルネ展~ミラクル・ラヴリー・ランド~」を開催。また05年には同館にて「内藤ルネ初公開コレクション展―日本の可愛いはルネから始まった」を開催。主な著書に『こんにちは!マドモアゼル』(ひまわり社、1959年)、『幻想館の恋人たち』(山梨シルクセンター、1968年)等がある。

前田常作

没年月日:2007/10/13

読み:まえだじょうさく、 Maeda, Josaku*  曼荼羅を参考に、密教図像や抽象的形態を組み合わせた絵画を描いた前田常作は10月13日、小磯記念大賞展の審査のため大阪市内のホテルに滞在中、心臓発作のため死去した。享年81。1926(大正15)年7月14日、富山県新川郡椚山村に生まれ、病弱な幼年期を過ごす。1933(昭和8)年、椚山村立尋常小学校尋常科に入学し、39年に同校を卒業して、同小学校高等科に入学。41年、同科を卒業し、富山師範学校予科に入り、44年同科を修了して本科に入学する。同科では丸山豊一に美術を学ぶ。45年に応召して富山69歩兵連隊に入隊。同年8月の富山大空襲で市中の惨状を目の当たりにし、人間の生死について深く感ずるところがあった。47年、富山師範学校本科を卒業し、同年4月から富山県下新川郡の上青中学校で図工科を教える。48年、東京都台東区忍岡中学校に移り、この頃から鶴田吾郎洋画研究所と中央美術研究所に通う。同年8月、美術出版社主催の夏期洋画講習会に参加し、安井曽太郎の指導を受けて感銘を受ける。49年、本格的に画家を志して武蔵野美術学校西洋画科に入学し、デッサンを清水多嘉示、洋画を三雲祥之助に学ぶ。同年8月、鶴岡政男を知り、アトリエを訪れるようになった。同年9月、忍岡中学校を退職して画業に専念し、同年10月第13回自由美術家協会展に「水蓮」など2点が初入選する。52年、黒色会展に出品。53年、武蔵野美術学校西洋画科を卒業し、東京都北区滝野川第一中学校の図工専科教員となる。同年秋、美術、映画、写真等の実作者による「制作者懇談会」に入会し、同会で池田龍雄、河原温などと交遊。55年第8回日本アンデパンダン展に「狂った人」「偶像」「アリバイ」など6点を出品。同年6月、瀧口修造の推薦により最初の「前田常作個展」をタケミヤ画廊で開催する。同年10月第19回自由美術家協会展に「目撃者」など2点を出品し、会員に推挙される。57年、「今日の新人」展に「城」「夜」「前兆」を出品し、佳作賞を受賞。また、同年第一回アジア青年美術展に「殖」を出品して大賞および国際美術賞を受賞し、副賞としてパリ留学費用を得る。58年春にパリに渡り、ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリア、スイス等を巡遊。59年に批評家ジェレンスキーにより≪夜のシリーズ≫などの作品を「マンダラ」と評され、自らを現代美術家と考えていたため虚を突かれるが、以後、曼荼羅を意識した制作を行うようになり、パリで注目される。62年長女の誕生をきっかけに≪人間誕生≫≪人間空間≫シリーズの制作を始める。63年、一時帰国し、東寺の両界曼荼羅に感銘を受ける。同年、自由美術家協会を退会し、山口勝弘らによる団体アート・クラブに参加。65年1月に再渡仏し、翌年3月に帰国するが、この間、仏教的思想の現代的意義について考えるところがあり、アジアの仏教国への関心が高まる。また、伝統的な曼荼羅の様式から離れ、今日的な展開を試みるようになる。70年、インド、ネパールを旅行し、人間の生死や輪廻について考えを深めた。この頃から≪青のシリーズ≫≪インド旅行シリーズ≫を始め、72年、東京セントラル美術館で「前田常作展」を開催して、初期から近作までを展示する。73年≪須弥山界道シリーズ≫、74年≪須弥山マンダラ図シリーズ≫の制作を開始。77年、日本美術家連盟の派遣により1月にネパール、インド、スリランカを、9月に中国を訪れ、帰国後、≪観想マンダラ図シリーズ≫の制作を始める。79年、77年の訪中の成果の発表と長年のマンダラ研究が評価され第11回日本芸術大賞を受賞。また、同年より西国巡礼を始め、リトグラフによる≪西国巡礼シリーズ≫を開始する。1989(平成元)年富山県立近代美術館で「前田常作展」が開催され、初期から近作までを展示。93年、「天曜≪瞑想マンダラ図シリーズ≫」により第16回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。初期の抽象表現を志向する時代から、特定の幾何学的パターンの繰り返しを行い、東洋の曼荼羅を意識して以後はかたちに思想的背景が盛り込まれるようになった。曼荼羅研究が進む中で、伝統的曼荼羅の様式から離れ、宇宙や悠久のイメージが絵画化されるようになっている。美術教育にも尽力し、1970年に東京造形大学美術科助教授、72年から73年まで同教授として教鞭をとったほか、79年7月より83年3月まで京都市立芸術大学美術学部教授、83年4月からは武蔵野美術大学教授となり94年からは同学長を務めた。著書に『曼荼羅への旅立ち』(河出書房新社、1978年)、『マンダラの旅―前田常作対話集』(法蔵選書、1982年)、『私とマンダラ』(精神開発叢書、1983年)、『世紀末の黙示録』(酒井忠康と共著、毎日新聞社、1987年)、『心のデッサン』(佼成出版社、1989年)、『前田常作のアクリル画』(河出書房新社、1995年)、『前田常作版画作品集』(佼成出版社、1989年)、『前田常作 観音マンダラ―南養寺大悲殿天井画』(里文出版、2005年)などがある。

髙山辰雄

没年月日:2007/09/14

読み:たかやまたつお  日本画家で日本芸術院会員の髙山辰雄は9月14日午後4時19分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年95。1912(明治45)年6月26日、大分県大分市大字大分(現、大分市中央町)の鍛冶業の家の二男として生まれる。幼少より同郷の田能村竹田の墨絵に親しむ。1930(昭和5)年東京美術学校の受験を家族に許され、上京して日本画家の荻生天泉のもとで一か月ほど受験準備をするが不合格に終わり、大分県立大分中学校を卒業後、東京に住む実姉をたよりに上京。天泉の紹介で東京美術学校助教授の小泉勝爾に指導を受け、31年東京美術学校日本画科に入学する。33年松岡映丘の画塾木之華社に入り、早くから映丘にその才能を嘱望された。同年日本画会に「冬の庭」を出品し、翌34年、在学中ながら第15回帝展に「湯泉」が初入選。36年卒業制作に「砂丘」を描き、首席で卒業した。37年、映丘門下の浦田正夫、杉山寧らが34年に結成した瑠爽画社に参加、40年同会解散後、41年旧会員を中心として新たに一采社を結成する。また43年川崎小虎、山本丘人らにより結成された国土会にも第1回展より出品した。しかし帝展の後を受けた新文展には入選と落選を繰り返し、必ずしも順調な歩みとはいえない状況が続く。戦後、46年春の第1回日展では「子供と牛」が落選。この頃山本丘人よりゴーギャンの伝記を勧められて読み、その生き方に大きな感銘を受ける。46年秋の第2回日展で「浴室」が特選を受賞。続いて49年第5回日展「少女」が再び特選となり、徐々に画壇での地位を確かなものにしていく。51年第7回「樹下」が白寿賞となり、この時期ゴーギャンの画風に通ずる鮮やかな色彩と簡略化された色面構成の作品を発表する。次いで53年第9回日展「月」、54年第10回「朝」、56年第12回「沼」、57年第13回「岑」など、一転して作者の内面性を強く感じさせる心象的風景画を制作。59年第2回新日展出品作「白翳」により翌年日本芸術院賞を受賞し、65年には64年第7回新日展に出品した幻想的な「穹」により芸術選奨文部大臣賞を受賞。杉山寧、東山魁夷とともに“日展三山”として人気を集め、戦後の日本画を牽引する役割を果たした。62年第5回新日展に中国南宋時代の画家梁楷の「出山釈迦図」に啓発されて描いた「出山」を出品して以降再び人物をモティーフとし、69年第1回改組日展「行人」、72年第4回「坐す人」、74年第6回「冬」、75年第7回「地」など量塊的な人物表現を展開し、その後77年第9回「いだく」、80年遊星展「白い襟のある」、81年第13回日展「二人」、83年同第15回「星辰」など、人間存在を鋭く追求した作品を発表。73年には個展「日月星辰髙山辰雄展」を開催、85年、2001(平成13)年にも開催し、風景・人物・静物といった森羅万象からなる「日月星辰」をライフワークとした。この間、61年一采社解散後、同会メンバーらと65年に始玄会を結成。70年日本芸術大賞を受け、72年日本芸術院会員、79年文化功労者となり、82年文化勲章を受章した。59年日展評議員となってのち、69年同理事、73年常務理事、75年理事長(77年まで)となり、82年東京芸術大学客員教授となる。87年から『文芸春秋』の表紙絵を担当(99年まで)。89年東京国立近代美術館で回顧展を開催、初めて描いたという牡丹の連作が中国の院体画に通ずるものとして話題を呼ぶ。90年平成大嘗祭後の祝宴大饗の儀に使用する風俗歌屏風「主基地方屏風」を制作。93年「聖家族 1993年」と題した個展を開催、黒群緑を用いたモノクロームの作品群により新境地を示す。95年には海外での初めての個展をパリ、エトワール三越で開催。99年、構想以来16年の歳月を経て高野山金剛峯寺に屏風絵を奉納。亡くなる前年の第38回日展に「自寫像2006年」を出品するなど、晩年まで制作意欲は衰えなかった。回顧展としては80年に大分県立芸術会館(神奈川県立近代美術館に巡回)、84年に山種美術館、87年に世田谷美術館、89年に東京国立近代美術館(京都府京都文化博物館に巡回)、富山県立近代美術館、98年にメナード美術館、2000年に日本橋髙島屋(大分市美術館、京都髙島屋、松坂屋美術館に巡回)、04年に茨城県近代美術館で開催。没後の08年には練馬区立美術館で遺作展が開催されている。

深見隆

没年月日:2007/07/29

読み:ふかみたかし  洋画家の深見隆は7月29日、心筋梗塞のため神奈川県川崎市の病院で死去した。享年80。1926(大正15)年10月22日、長崎県壱岐郡に生まれる。1952(昭和27)年、第7回行動美術協会展(以後、行動展と記す)に、半抽象的な表現による「造船所」が初入選。以後、同展に出品を続ける。54年2月、第1回四人展(他に田中稔之、朝比奈隆、前川桂子)を養清堂画廊で開催。55年1月、行動四人展(他に田中稔之、朝比奈隆、前川桂子)を上記画廊にて開催、同年、10回行動展に「人間の風景(A)」、「人間の風景(C)」を出品、これにより行動美術新人賞を受賞、会友に推挙される。56年1月、第7回朝日新聞社選抜秀作美術展(会場、日本橋三越)に出品、同年2月、朝比奈隆と前川桂子とともに3人展を村松画廊で開催。また同年の第11回行動展に「孤独の部屋」外2点を出品、これにより行動美術賞を受賞。57年2月、田中稔之、朝比奈隆、前川桂子とともに村松画廊にて4人展を開催。59年、行動美術協会の会員となる。60年、「風化」により第4回安井記念賞を受賞。同作品(東京国立近代美術館蔵)は、多層的でニュアンスに富んだマチエールにおおわれた画面の中央に鋭い亀裂が走り、同時代の心象風景を思わせる表現であった。受賞の際に語られた作者自身の言葉の一節をつぎに引用しておきたい。「私は、長崎の壱岐の小島に生れましたので、子供の頃、海というものが、私達の生活とは切り離せない、むしろ、生活の殆どといってもいい程の親しみをもっていました。荒浪にたたかれ、蝕まれた海岸で、貝を拾ったり、白砂の上に打ち上げられた、魚介の残骸を無心に眺めたりした頃の事を、今も忘れることが出来ません。制作の途中で、ふっと、思い浮かべ、何かしら和やかな郷愁を憶えます。此の度の『風化』も、これと共通な、風雨にさらされ、傷めつけられながらも、いかにも忍耐強く、しかし決して烈しくなく、力まず、てらわず、それでいて厳しさを秘めた、壁や、岩石の中に、豊かな、つきることのない、詩情を感じたので、私には到底充分表現するだけの力はありませんが、いくらかでも自然の秘密に近づければ、と思って描きました。」(「受賞にあたり」、『現代の眼』74号、1961年1月)ここで語られた自然に対する取り組みは、その後も変ることがなかったが、70年代から画面に円環が象徴的に描かれるようになった。そうした作品のシリーズである「条紋」について、当時作者は、「きびしい自然環境に長い間ひっそりと耐えている姿に、限りない豊かな詩情を感じます。只製作する場合、情感におぼれると構成の厳しさが失われがちになるので、自分の中で再構築して描くように心掛けてはいますが。情感と構成がお互いに密度を深め、響き合う作品をと願っているのです」(「コメント「条紋(A)」『美術グラフ』(27巻9号、1978年10月)と語っている。この円環のモチーフは、以後一貫して画面上で追求され、「石紋」のシリーズに展開していった。82年11月、ギャラリー・ジェイコで「深見隆自選展」を開催。2007(平成19)年9月、第62回行動展への「石紋(環)」が最後の出品となり、没後の翌年9月の第63回展には、遺作として「石紋」が出品された。

岡本彌壽子

没年月日:2007/06/25

読み:おかもとやすこ、 Okamoto, Yasuko*  日本画家で日本美術院同人の岡本彌壽子は6月25日午前4時30分、老衰のため死去した。享年98。1909(明治42)年7月16日、東京青山に生まれる。1926(大正15)年東京府立第三高等女学校本科卒業。1930(昭和5)年女子美術専門学校高等師範科を卒業し、奥村土牛に師事、翌31年土牛の紹介で小林古径に入門する。34年第21回院展に「順番」が初入選し、以後終戦までの約10年間は横浜共立学園教諭として美術を教えながら制作、院展に出品を続ける。戦後は画業に専念。51年第36回「花供養」、52年第37回「秋雨」で奨励賞、53年第38回「無題」(後に「歩道」と改題)は佳作、55年第40回「猫と娘たち」、57年第42回「夕顔咲く」、60年第45回「聖夜の集い」、61年第46回「千秋」で奨励賞を受賞、62年第47回「初もうで」で日本美術院次賞を受賞。この間57年に小林古径が死去し、以降は再び奥村土牛に師事。さらに64年第49回「みたまに捧ぐ」、65年第50回「無題」(後に「集う」と改題)がいずれも奨励賞を受賞。67年第52回「花供養」は日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。日常的な出来事を背景にした女性をテーマに、女性的な淡い色彩と繊細な描線からなるナイーブな画風を展開し、76年第61回「夢のうたげ(1)」は内閣総理大臣賞を、86年第71回「折り鶴へのねがい」は文部大臣賞を受賞した。88年に回顧展を横浜市民ギャラリーで開催。1992(平成4)年横浜文化賞、97年神奈川文化賞を受賞。

白鳥映雪

没年月日:2007/06/15

読み:しらとりえいせつ  日本画家で日本芸術院会員の白鳥映雪は6月15日、心筋梗塞のため長野県小諸市の病院で死去した。享年95。  1912(明治45)年5月23日、長野県北佐久郡大里村(現、小諸市)の農家に生まれる。本名九寿男。1932(昭和7)年周囲の反対を押し切って上京し、遠縁にあたる水彩画家丸山晩霞の紹介で伊東深水の画塾に入門、美人画を学ぶ。夜間は川端画学校、本郷洋画研究所でデッサンを学んだ。深水や山川秀峰らが結成した日本画院展に39年「母と子」が入選したのち、40年から41年にかけて報知新聞社委嘱特派員を兼ね従軍画家として中国に渡る。43年第6回新文展に「生家」が初入選。戦後47年より日展に出品。50年第6回「立秋」が特選・白寿賞となり、57年第13回「ボンゴ」が再び特選・白寿賞を受賞する。その後も美人画や人物群像を中心に制作しながら、仏像と美人画を組み合わせた72年第4回改組日展「掌」、74年同第6回「追想(琉球ようどれ廟)」などを制作。86年には名古屋の尼僧堂に参禅して取材した「寂照」を第18回展に出品して内閣総理大臣賞を受賞。この間65年日展会員、82年評議員となる。女性の人物画を中心に清新な作品を数多く残した。また51年新橋演舞場での日本舞踊「大仏開眼」をはじめ、5年間にわたり舞台考証を手がけ、66年林芙美子の小説挿絵(『現代日本文学館』30 文芸春秋)を描いた。85年佐久市立近代美術館で「日本画の歩み50年―白鳥映雪展」が開催。晩年はとくに能楽をテーマにした作品を発表し、1994(平成6)年には前年制作の「菊慈童」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。97年に日本芸術院会員となる。2003年には脳梗塞で倒れ右手が使えなくなるものの、左手で再起をはかり日展への出品を続けた。故郷の長野県小諸市には、代表作を展示する市立小諸高原美術館・白鳥映雪館がある。

岩壁冨士夫

没年月日:2007/04/19

読み:いわかべふじお  日本画家で日本美術院同人の岩壁冨士夫は4月19日午後0時20分、肝不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年81。1925(大正14)年12月4日、神奈川県茅ケ崎市に生まれる。本名富士夫。1947(昭和22)年東京美術学校日本画科を卒業後は、小中学校で教鞭をとりながら院展に出品するが、落選を繰り返す。55年頃小谷津任牛に師事し、任牛門下の飛鳥会に入って研鑽を積む。56年第41回院展に「三人」が初入選、以後連続して同展に入選し、59年第44回院展「旅人」で日本美術院院友に推挙。この間飛鳥会が奥村土牛の研究会と合流し八幡会となり、土牛の指導も受ける。60年から翌年にかけ沖縄へ写生旅行を行い、以後66年まで沖縄を主題にのびやかな作風を展開する。69年にヨーロッパを巡遊、とくにポルトガルの風景との邂逅は以後の画業に決定的なものとなり、同地をテーマとしながら太い筆線と確かなデッサン力による力強い画風を確立する。75年第60回院展で「夕陽はサンタマリアに」が日本美術院賞を受賞、特待となる。77年第62回院展「モンテ・ゴールドの家族」、78年第63回「マール」、79年第64回「丘のべ」、80年第65回「望洋」、81年第66回「ビラマアール」、82年第67回「海風」と、6年連続で奨励賞を受賞する。83年第68回「マリアの家族」が再び日本美術院賞を受賞、同年同人に推挙された。84年から1989(平成元)年まで武蔵野美術大学日本画科の講師をつとめるなど、後進の育成にも力を尽くした。92年第77回院展出品作「母子」が内閣総理大臣賞を受賞。

桜井浜江

没年月日:2007/02/12

読み:さくらいはまえ、 Sakurai, Hamae*  洋画家の桜井浜江は、2月12日午前2時50分、急性心不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月15日、山形県山形市宮町に生まれる。桜井家は周辺有数の素封家で15代続く地主。山形県立山形高等女学校(現、山形県立山形西高等学校)在学中、松本巍七郎による図画の授業で絵画に興味を持つ。1924(大正13)年に同校を卒業、26年父省三の決めた縁談を拒否して上京。女子美術学校へ入学手続きを行うが両親の承認を得られず断念。展覧会や上野図書館に通いながら、川端画学校洋画部や岡田三郎助の研究所に出入りするが雰囲気が合わず、1928(昭和3)年代々木山谷に開設された1930年協会洋画研究所に入り、里見勝蔵らの指導を受けた。30年里見らが独立美術協会を結成すると、翌年行われた第1回展に参加、入選を果たす。独立展へ出品を続ける一方、同会に属する女性画家11人らとともに34年女艸会を結成、38年の第6回展まで続けられた。この間、32年に帝大英文科出身の秋沢三郎と結婚、その文学仲間である井伏鱒二や太宰治、檀一雄などの来訪で住まいは多くの文士が集う場となっていた。39年に離婚した後も再会した太宰が仲間を連れて度々訪れ、彼女をモデルに「饗応夫人」を書いている。46年、女艸会創立会員である三岸節子らとともに日本橋の北荘画廊で現代女流画家展を開催、この時の出品者らを発起人として翌47年女流画家協会を結成。49年、北荘画廊にて初の個展を開催。戦前戦中に描いた初期作品にはフォーヴ的なものや、それとシャガール的幻想性が融合された「途上」などの他、「二人」「雪国の少年達」のようにクールでモダンなものと変遷をみせる。46年頃から描かれた「壺」の連作は作為性を殆ど留めず、ナイフのタッチが際立った作風で、荒々しいまでの桜井的厚塗り手法はここでほぼ完成される。やがて「花」、ルオーを思わせる「人物」などのシリーズを手がけ、この時期の作品の中では「象」と「花」が47年の第2回新興日本美術展に出品され読売賞を、「臥像」は51年の第19回独立展(創立20周年記念展)でプール・ブー(奨励賞)を受け準会員となった記念すべき作品である。54年独立美術協会会員となる。戦後日本の洋画界に押寄せた抽象絵画流行の波に些かも流されず、連作「樹」に取り組み始める。大胆に切り取られた構図、その大画面には幹がダイナミックに描かれ、情熱を塗り込めたような赤の色調とともにみるものを圧倒する生命力を放つ。66年第20回女流画家協会展で花椿賞受賞。60年代半ばに差し掛かる頃から山形県鶴岡市の三瀬海岸や、千葉県銚子市にある犬吠崎や屏風岩を取材した連作が開始され、色使いは多彩となりより明るい画面となる。78年頃から大樹をテーマとした100号2枚組の大作を数点制作。晩年まで大画面の作品に取り組み続けるが、90年代から再び、色・構図ともにシンプルな傾向となり、特に赤を好むようになる。やはり山や海などの自然に対する畏敬のまなざしが強く感じられる作品が中心となるが、代表作である1999(平成11)年の「雨あがる、ぶどう棚」は色彩豊かで、それまでになくドライで細やかなストロークとなっている。2002年に体調を崩し入院、それまで制作していた「富嶽」が未完のまま絶筆となった。作品集に『桜井浜江画集』(芸林社、1990年)がある。主な回顧展に「桜井浜江画業展」(1979年、山形美術館)、「桜井浜江―画業65年の軌跡」(1995年、青梅市立美術館)。没後の2008年には「生誕100年記念 桜井浜江展」が山形美術館と一宮市三岸節子記念美術館で開催された。

to page top