本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





曲子光男

没年月日:2011/07/19

読み:まげしみつお、 Mageshi, Mitsuo*  日本画家で日展参与の曲子光男は7月19日、老衰のため死去した。享年96。 1915(大正4)年3月12日、北海道磯谷郡蘭越町港に生まれる。旧姓赤井。5歳で父を失い、9歳で石川県河北郡七塚村秋浜にある祖父の実家に預けられた後、10歳で遠縁にあたる京都の友禅業曲子光峰の養子となる。1927(昭和2)年京都市立美術工芸学校に入学。次いで京都市立絵画専門学校で西山翠嶂、川村曼舟らの指導を受け、35年より堂本印象に師事、その画塾東丘社に入る。36年京都市立絵画専門学校本科を卒業し、同年の文展鑑査展で「濱木綿の丘」が初入選、選奨となる。38年第1回東丘社展に「鳥の群」を出品し東丘賞を受賞。同年応召し、41年まで華北に派遣。43年再び出征、バンコクに赴く。46年復員後、47年第3回日展に「秋陽」が入選、続いて48年第4回「入汐」、49年第5回「彩秋」と出品し、51年第7回日展で「製鋼工場」が特選・朝倉賞を受賞した。52年同第8回に「港」を無鑑査出品。以後55年初の日展審査員をつとめ、58年会員、70年評議員、1995(平成7)年参与となる。いっぽう84年より東丘社幹事長をつとめ、92年顧問となる。84年京都府文化賞功労賞を受賞。生を受けた北海道の雄大な自然や、幼年の一時を過ごした北陸の風土を思わせる重厚な風景を描き続けた。93年石川県立美術館において特別陳列「日本画家 曲子光男の世界」が開催されている。長男は日本画家で日展会員の曲子明良。

福本章

没年月日:2011/07/06

読み:ふくもとしょう、 Fukumoto, Sho*  1960年代後半からフランスを拠点として活動を続けた洋画家福本章は7月6日、胃がんのため死去した。享年79。 1932(昭和7)年5月16日岡山市に麺類製造業を営む福本勘吉の三男として生まれる。本名章一(しょういち)。49年頃に独立美術協会会員の洋画家中津瀬忠彦(1916-73)を知り、絵を描き始める。52年東京藝術大学美術学部油画科に入学。林武教室に学ぶ。56年、同学を卒業して油画専攻科に進学。同校の絵画学生の奨学金のひとつである大橋賞を受賞する。57年第25回独立展に「追はれる子」を初出品して入選するが、以後は不出品。58年、油画専攻科を修了し、同科副手として62年まで同校に在籍する。59年、黒土会の創立に参加し、同年第1回展に「横臥裸婦」を出品し、以後、65年まで毎年出品を続ける。60年第3回国際具象派展覧会(朝日新聞社主催)に重厚なマチエールで裸婦坐像を描いた「赤の裸婦」を出品。61年新樹会に「樹」「裸婦」を招待出品し、以後64年まで出品を続ける。62年第4回国際具象派展に「黄の中の二つの裸婦」「黄の中の裸婦」を出品。63年第2回国際形象展に「樹」「裸婦」「靴下の裸婦」を招待出品し、不出品の年もあるものの1981年まで7回、同展に出品する。抽象表現が盛んに行われる洋画壇にあって、具象画における表現を模索して注目され、63年、第7回安井賞展に「裸婦」が出品される。64年東京の日動サロンで初めての個展を開催し、風景や静物を描いた作品を発表。65年に国立近代美術館京都分館で開催された「具象絵画の新たなる展開」に「靴下の裸婦」「樹間」「泰山木のある静物」他を出品する。また同年第9回安井賞展に「風景」を出品。66年第1回昭和会展に「静物」「卓上静物」を出品し、翌年の同第2回展では「模様の上の裸婦」で昭和会賞を受賞。同年渡欧し、ローマを経てパリに居を定める。69年日動サロンで滞欧作展を開催。70年、スペインを訪れる。また同年フランスのサロン・ドートンヌに「オンフルール」を出品する。72年フランスのニースにアトリエを持ち、南仏での制作を開始する。73年にヴェニスを訪れて以後たびたびに同地に旅行。74年、パリ郊外に居を定める。同年、第1回東京国際具象絵画ビエンナーレにヴェニスに取材した「河口(ヴェニス)」「運河」を招待出品。75年には日動サロンで個展を開催し「運河」「リアルト橋」などヴェニス風景を主題とする作品を発表した。76年毎日新聞夕刊に掲載された辻邦生による連載小説「時の扉」の挿絵を担当。78年第21回安井賞展に「運河」を出品する。80年パリ郊外に居を定める。85年、朝日新聞朝刊の連載小説、辻邦生「雲の宴」の挿絵を担当。同年、野村本社ビル(京都)のモザイク壁画「レダ」を制作。1990(平成2)年立軌会に参加し2007年の退会まで出品を続ける。91年、「在仏三人展―福本章、桜庭優、小杉小二郎」の第1回展を名古屋画廊で開催。同展は以後第3回展まで開催された。93年に東京藝術大学出身の画家たちによる「杜の会」展に初出品し、以後同展に出品を続ける。97年小山敬三賞を受賞し、同年日本橋高島屋で受賞記念展を開催。同年から2002年までヴェニスにアトリエを構えて制作する。98年倉敷芸術科学大学芸術学部教授となり04年まで教鞭を取る。00年より「両洋の眼」展に出品。同年第23回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞し、同賞記念展覧会を開催する。01年郷里にある大原美術館にて「福本章」展を開催。02年週刊朝日の連載小説、山崎朋子「サンダカンまで」の挿絵を担当。没後の13年5月「二都物語~プロヴァンスからヴェネツィアまで~」と題して日仏会館で「福本章-青の世界」、イタリア文化会館で「福本章-ヴェネツィアの光」展が共同企画として開催された。一貫して具象絵画を描き、対象のかたちを幾何学的形体に分割して捉えた上で再構成し、簡略化した色面であらわす作品を描いた。1960年代には赤や黄といった原色に近い色も用い、厚塗りのマチエールを示したが、60年代後半から青を基調とする穏やかな中間色を主に用いるようになり、次第にマチエールも平滑になっていった。画面全体が紫を含んだ柔らかい青灰色に包まれる独自の画風で知られた。画集に『福本章画集』(日動出版部、1981年)『福本章画集 パリの空』(朝日新聞社、1986年)、『福本章画集 1956-2005』(求龍堂、2005年)がある。

三輪良平

没年月日:2011/04/20

読み:みわりょうへい、 Miwa, Ryohei*  日本画家の三輪良平は4月20日、肺炎のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年10月29日、京都市東山区の表具師の次男として生まれる。51年京都市立美術専門学校を卒業後、同校専攻科に進み、53年修了。在学中の51年より山口華楊に師事し、華楊が主宰する晨鳥社で研鑽を積む。52年第8回日展に「憩ひ」が初入選し、56年第12回日展で「裸像」が特選・白寿賞を受賞。この頃、中路融人ら晨鳥社の若手と研究会「あすなろ」を結成。60年第3回新日展では、現代的感性により舞妓三人の坐像を描いた「舞妓」が再び特選・白寿賞となり、62年第5回展では人物の形と色を単純化した「裸婦」が菊華賞を受賞。翌63年は審査員をつとめ、64年日展会員となる。若い頃より肺疾患や肝臓病等と闘いながら、裸婦や舞妓、大原女等を題材として清麗な女性美を描いた。84年日展評議員となる。1993(平成5)年京都府文化賞功労賞受賞。没後の2011年に遺族より東近江市近江商人博物館へ作品が寄贈、翌年同館で回顧展が開催された。

大西博

没年月日:2011/03/31

読み:おおにしひろし  東京藝術大学准教授の大西博は3月31日、滋賀県長浜市の琵琶湖上で釣舟転覆水難事故に遭い死去した。享年49。 1961(昭和36)年6月18日、徳島県池田町に生まれる。東京都立保谷高等学校を卒業し、82年に東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。テンペラ絵画と油絵具の併用技法である混合技法を学び、1989(平成元)年に同大学大学院美術研究科油画技法・材料第一研究室を修了。フランドルやドイツの絵画に憧れ、92年から97年にかけてドイツのニュルンベルク美術大学絵画科に留学。ドイツ滞在中、自らが外国人であり日本人であるという認識から、キャンバスや油絵具等、それまで慣れ親しんできた画材と距離を置き、和紙に日本画の技術で描くことを試みるようになる。帰国後は東京藝術大学油画研究室、続いて油画技法・材料研究室の非常勤講師を担当し、2002年より同研究室の常勤講師となる。03年には東京藝術大学アフガニスタン文化支援調査団第三次調査団に参加、カブールでのラピスラズリの原石との出会いをきっかけとしてその精製法に取り組み、画材メーカーと水彩絵具「本瑠璃」を開発。自身の制作においても、同画材を使用したモノトーンの静謐な作風に到達する。06年、東京藝術大学美術学部絵画科(油画技法・材料)助教授となる。死の前月に開催された個展(表参道画廊)では南禅寺塔頭天授庵に設置される襖絵十二面を発表。没後の12年には東京藝術大学大学美術館陳列館で、同大学油画技法・材料研究室の主催により「大西博 回顧展 ―幻景―」が開催された。

石田武

没年月日:2010/12/24

読み:いしだたけし  日本画家の石田武は12月24日、腎不全のため横浜市の病院で死去した。享年88。1922(大正11)年4月27日、京都市の西陣織職人の家に生まれる。本名武雄。1935(昭和10)年京都市立美術工芸学校図案科に入学、図案を山鹿清華、日本画を森守明、洋画を太田喜二郎に学ぶ。40年に同校を卒業し、大阪丸高商事宣伝部に入社。43年より45年まで応召、復員ののち、46年より翌年にかけて京都新制作研究所に学び、主に桑田道夫の指導を受ける。50年頃より児童図書のイラストを描き始める。59年東京に居を写し、この頃より動物図鑑などの挿絵の仕事に専念するようになる。67年小説家の戸川幸夫とともにアフリカ、ヨーロッパに旅行。その生態を研究し、翌68年『世界の動物』『世界の鳥』をフランスなど数か国で出版した。71年日本画に転向し、翌年三越の新鋭選抜展に「冬の風景」を出品、73年第2回山種美術館賞展で「林」が大賞を受賞する。74年第6回日展に「雪晨」を出品。80年第2回日本秀作美術展に「虚空」が選ばれ出品。79年、85年に東京セントラル絵画館で、1992(平成4)年に西武アート・フォーラムで個展を開催。個展を中心に、明快かつ鋭い筆致と安定した描写力による写実的な作品を発表し続けた。

濱田台兒

没年月日:2010/09/01

読み:はまだたいじ  日本画家で日本芸術院会員の濱田台兒は、9月1日に死去した。享年93。1916(大正5)年11月5日、鳥取県気高郡浜村町に生まれる。本名健一。1935(昭和10)年19歳の時に伊東深水の内弟子となり、翌年日本画会展に「厨」が初入選。37年応召するが、翌年中国の台児荘で戦傷を受けて内地に送還。39年陸軍病院入院中に二科展に水彩画「慰問の少女」を出品して入選。41年第4回新文展に「黄風」が初入選する。翌42年第5回新文展で軍隊での体験を生かした「黄流」が特選となり、戦後46年第2回日展「夢殿」も特選を受賞した。以後も日展を中心に活動し、47年招待、50年より依嘱出品となり、50年第6回展に「斑鳩の門」、51年第7回展に「澗泉」等を出品する。いっぽう50年伊東深水、児玉希望らにより結成された日月社に参加し、その第1回展「父の肖像」が奨励賞を受賞。62年日展会員となり、翌年三カ月間ヨーロッパ11カ国を取材旅行。伊東深水門では塾頭を務めたが、日展評議員となった72年に深水が死去、翌年より橋本明治に師事する。76年第8回改組日展で沖縄女性を描いた「花容」が内閣総理大臣賞となる。79年ソ連文化相の招きにより日ソ美術家友好使節団の一員としてソビエト連邦各地を旅し、その折の取材に基づき第11回改組日展に「女辯護士」を出品、翌年同作により日本芸術院賞を受賞。優れた色彩感覚とモダンな形態把握による人物画で個性を発揮した。72年日展評議員、81年より理事。83年に松屋銀座、1990(平成8)年に郷里の鳥取県立博物館で回顧展を開催。その間89年に日本芸術院会員に就任。94年に日展事務局長、95年から97年まで理事長を務めた。

山田正亮

没年月日:2010/07/18

読み:やまだまさあき、 Yamada, Masaki*  画家の山田正亮は7月18日、胆管癌のため死去した。享年81。1929(昭和4)年1月1日、東京に生まれる。本名正昭。43年、陸軍兵器行政本部製図手養成所に入所。44年、同養成所助教となり、同年創立の都立機械高等工業学校第二本科機械科に入学。翌年終戦にともない陸軍兵器行政本部を退職。50年、東京都立工業高等専門学校卒業。53年に、長谷川三郎に師事。この頃より、東京京橋にあったGKスタジオに勤務、主にデザインの仕事に従事。出品歴としては、49年2月の第1回日本アンデパンダン展に出品、52年、2月第4回日本アンデパンダン展、同年10月、第16回自由美術展に出品。58年11月、教文館画廊(東京)で初個展開催。64年、東京の上北沢にアトリエを設ける。初期から1950年代には、セザンヌ、キュビスムを意識した静物画を中心に制作がつづけられた。50年代中ごろにモンドリアンを想起させるように抽象化がすすめられ、そのなかで1956年より「Work」のシリーズがはじまった。ジョーゼフ・アルバース、フランク・ステラの表現にも似た、画面に規則的な矩形の色面が占める作品を経て、ストライプに覆われた画面に到達した。ストライプの絵画作品は、ある規則性に添ったものではなく、抑制された色彩の選択と画面全体の均一性を志向しながらも、色彩の帯は、微妙に揺れ、また絵の具の滴り、厚み等、きわめて感覚的で繊細な表情をつくりあげていた。ミニマルアート以後の絵画表現として、早くから一部の識者から注目されていた。81年、「1960年代―現代美術の転換期」展(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館)に出品。80年代に入り、60年代のストライプの絵画作品の評価が高まり、あわせて79年以降、毎年(97年まで)開催された個展(佐谷画廊)等において発表される新作は高い評価を受けるようになった。また公立美術館等における戦後美術、もしくは現代絵画の企画展にしばしば出品を要請されるようになり、日本の現代絵画を語る際に、山田の作品は重要な位置を占めるようになった。同時期の作品は、青緑色の大画面のなかの引かれたグリッドをベースにして、グリッドの直線に添いつつ、捕らわれることのない柔軟な線と鮮やかな色彩が覆う構成がとられていた。87年、第19回サンパウロ・ビエンナーレに出品。90年、『山田正亮作品集 WORKS』(美術出版社)を刊行。95年に、およそ40年間にわたってつづけられた「Work」のシリーズを終えた。その後、2001年に「Color」の連作を発表した。このシリーズの作品は、単一の色彩が画面を覆っているが、画面の端に表面下に塗られた別の色相をのぞかせることで画面の重層性を示し、絵画が薄い表面ではなく、ただならぬ平面であることを観る者に感じさせるものであった。2005年6月、府中市美術館にて「山田正亮の絵画 から―そしてへ」展開催、初期の静物画からストライプの絵画作品、さらに最新作として「Color」シリーズ、139点からなる個展が開催された。山田は、一切の組織、運動に与することなく、また世界の流行に流されることなく、自律的な思考を深めながら、現代の日本絵画の可能性を示すことができた美術家であった。

岩崎巴人

没年月日:2010/05/09

読み:いわさきはじん、 Iwasaki, Hajin*  日本画家の岩崎巴人は5月9日、千葉県館山市にて間質性肺炎のため死去した。享年92。1917(大正6)年11月12日、東京都新宿区に生まれる。本名彌寿彦。1931(昭和6)年川端画学校夜間部に入学、日本画を専攻する。34年玉村方久斗が主宰するホクト社第5回展に「少女」「風景」を出品。37年第9回青龍社展に岩崎巴生の名で「海」が初入選。翌年小林古径の門に入り、38年第25回院展に「芝」が入選、横山大観から高い評価を得る。42年に出征、復員後の47年に再び院展に入選し、院友となるが50年に脱退。一方で新興美術院の再興に参加、会員となり、以後同展に「情熱の終末」(1952年第2回)等を出品。58年谷口山郷、長崎莫人らと日本表現派を結成、68年に脱退するまで出品を続ける。この他、現代日本美術展、日本国際美術展、「これが日本画だ」展等にも出品。71年インド、スリランカへ旅行し、以後、仏伝画や仏教的テーマの作品を制作するようになる。77年には禅林寺で出家、得度し、その後も異色の画僧として活躍。南画的フォーヴの画風を展開し、「河童屏風」(1979年)、「降魔成道」(1983年)等飄逸さを加えた作品を発表する。70年上野の森美術館で岩崎巴人大作展、84年高岡市立美術館で岩崎巴人展、86年には青梅市立美術館、87年には奈良県立美術館で回顧展が開かれた。87年から翌年にかけてNHK趣味講座「水墨画入門」の講師を務める。著書に『芸術新潮』や『三彩』等に掲載のエッセイを集めた『蛸壺談義』(神無書房、1978年)。没後の2012(平成24)年には富山県水墨美術館で追悼展が開催されている。

芝田耕

没年月日:2010/04/30

読み:しばたこう  洋画家の柴田耕は4月30日午前0時55分、肺炎のため京都市北区の病院で死去した。享年91。1918(大正7)年11月23日、京都市上京区笹屋町に生まれる。1934(昭和9)年、旧制京都市立第二工業学校(現、京都市立伏見工業高等学校)建築科を卒業。41年以降、須田国太郎に師事。45年、須田が指導に当たっていた西陣の独立美術協会京都研究所に入所する。京都市展に出品し、市長賞・京展賞受賞。47年第15回独立美術協会展に「町」で初入選。54年第22回独立展に「夏木立」「卓上静物」を出品して独立賞を受賞し、翌年同会准会員に推挙される。59年、同会会員となる。60年京都学芸大学講師となる。68年、京都精華大学美術学部教授となる。1960年代は対象の再現描写をはなれ、やや幾何学的に形体にとらえ直して画面上に配置する詩情ある風景画を多く描いたが、1970年代半ばに、やや俯瞰した視点からとらえた西洋風景に、唐突に前景として椅子やテーブルなどの静物を描きこんだ作風へと転じた。87年第55回独立展に「或る光景」を出品して文化庁買い上げとなる。同作品も遠景に家屋を描き、画中画として静物画を描きこんだ構成となっており、自然主義的遠近表現と空間表現から離れた静謐な虚構空間を表している。88年京都府文化賞功労賞を受賞。1989(平成元)年、京都府文化功労者に選出される。94年独立美術協会会員功労賞を受賞。98年京都美術文化賞を受賞。99年には同賞受賞記念展が京都府京都文化博物館で開催された。京都教育大学で1970年まで、京都工芸繊維大学工芸学部で1985年まで講師を務めた。独立美術展30周年記念の際の『独立美術』(同協会、1962年)に「地方の地についた生活から」と題する一文を寄せ、「先ず自らの生活、生き方、考え方が先決のはずではありませんか」「地方の地についた生活から生れる絵画をいよいよ尊重してゆきたい」と述べているように、郷里である京都で制作を続け、内省的で静謐な画風を築いた。独立美術協会展出品略歴:第15回展(1947年)「町」(初入選)、20回(1952年)「樹間初秋」、25回(1957年)「出土」「古世人」、30回(1962年)「湖岸」、35回(1967年)「樹のある街」、40回(1972年)「オリーブと街」、45回(1978年)「北欧の街」、50回(1982年)「森の街」、55回(1987年)「或る光景(山脈)」、60回(1992年)「或る光景1992」、65回(1997年)「画室卓上」、70回(2002年)「ものを描く」、75回(2007年)「画室卓」、77回(2009年)「或る日の画室」(同展最終出品)

三栖右嗣

没年月日:2010/04/18

読み:みすゆうじ、 Misu, Yuji*  安井賞受賞作家で、陰影の深い写実表現を追求した洋画家の三栖右嗣は、4月18日に心不全のため埼玉県嵐山町で死去した。享年82。1927(昭和2)年4月25日、父三栖秀治、母千里の次男として、神奈川県厚木市に生まれる。本名三栖英二。44年埼玉県北足立郡新倉(現、和光市)に転居。翌年、東京美術学校油画科に入学、安井曽太郎の教室に学ぶ。52年、新制大学となった東京藝術大学美術学部油絵科を卒業。55年、一水会に「室内」が初入選。以後、59年まで同会に出品する。また、制作の傍ら映画会社の大映広告宣伝部に入る。60年から70年まで、現代芸術への懐疑と自身の創作に対する模索から作品の発表を停止した。72年、ヨーロッパとアメリカを旅行、旅行中のアメリカでアンドリュー・ワイエスを自邸(フィラデルフィア郊外)に訪ねた。以後、ワイエスの自然の一角をリアルに切り取りとりながら、乾いた叙情性をにじませた表現に強い影響を受けるようになり、そこに写実表現の可能性を見いだした。75年、沖縄海洋博覧会の「海を描く現代絵画コンクール」に海に生きる三代にわたる家族像をテーマにした「海の家族」を出品、大賞を受賞。翌年、第19回安井賞展に実母をモデルにした「老いる」出品、同賞を受賞。受賞作は、老いた人間の肉体を冷静に克明に描きだすことによって、肉親に対する情愛と生命に対する敬虔な念が凝縮された表現となっていた。この時期における連続受賞と、集中力を要する堅牢な写実表現によって、日本の美術界において一躍注目されるようになった。78年、取材のためにスペインを旅行し、翌年にはマドリッドで個展を開催。これを契機に、透明感のある光と陰影に富んだ写実表現は、いっそうこの画家のスタイルとして築かれていった。また、静物、風景、人物等にわたり、画家の言葉である「いのち」をテーマとするようになり、厳然たる自然の姿に対して敬虔な姿勢と賛歌を画面に表わすことにつとめた。晩年にあたる500号の大作「爛漫」(1996年)は、画面に一面に咲きほこる枝垂桜を描きながら、この画家ならではの自然から得た生命そのものの表現となっている。81年、『林檎のある風景』を刊行、同年碇谷尚子と結婚。82年、埼玉県比企郡玉川村(現、ときがわ町)に転居、ほぼ毎年各地で個展を開催しながら、この地で生涯を終えるまで制作を続けた。画家の没後の2012(平成24)年4月、埼玉県川越市氷川町にヤオコー川越美術館・三栖右嗣記念館(伊東豊雄設計)が開館した。

毛利武彦

没年月日:2010/04/13

読み:もうりたけひこ  日本画家で創画会会員、武蔵野美術大学名誉教授の毛利武彦は4月13日、肺炎のため死去した。享年89。1920(大正9)年8月25日、東京市荒川区日暮里に生まれる。父の教武は高村光雲門下の彫刻家。1935(昭和10)年、父の友人である川崎小虎に師事。38年東京美術学校日本画科入学、42年同校を繰上げ卒業となり徴兵され、45年台湾の山中で終戦を迎える。翌年復員し、家族が日本画家森村宜永宅に仮寓していた関係で、宜永より大和絵の技法を学ぶ。49年にかねてより敬愛していた山本丘人宅を突然訪ね、以後丘人に師事する。50年創造美術春季展に「風景」が入選。創造美術が新制作派協会と合流し新制作協会が設立された後は、新制作展日本画部に出品。55年第19回展、61年第25回展、62年第26回展で新作家賞を得、64年新制作協会会員となる。74年に新制作協会日本画部全員が同協会を退会し、創画会を結成した後は創画展に出品を続けた。クレーの作風を取り込んだ50年代の風景からビュッフェやミノーの影響を受けた骨太な表現を経て、70年代の馬シリーズや80年代のキリスト教に題材をとった作品などで自らの絵画世界を構築。重厚な構成と筆致により精神性を秘めた作風を築いた。55年に山本丘人門下の研究・発表会である凡樹画社、74年には美術団体の枠を超えて組織された遊星会、85年の創画会主力メンバーによる地の会の結成に参加。制作の一方、48年から82年まで慶應義塾高等学校の美術科教諭を務め、また58年より武蔵野美術大学で教鞭をとるなど長年後進の指導にあたった。1989(平成元)年武蔵野美術大学図書館において作品展を開催。91年同大学を定年退職、名誉教授となる。同年『毛利武彦画集』を求龍堂より刊行。没して間もない2010年夏には「毛利武彦の軌跡展」が練馬区立美術館で開催、翌年の一周忌には『幻駿忌 毛利武彦随想集』が刊行された。

勝呂忠

没年月日:2010/03/15

読み:すぐろただし、 Suguro, Tadashi*  洋画家の勝呂忠は3月15日、間質性肺炎のため死去した。享年83。1926(大正15)年5月10日、東京に生まれる。アジア太平洋戦争中に父の出身地静岡県土肥町に疎開し、同地で終戦を迎えた。終戦後、約一年間、富士宮市の日蓮宗東漸寺を営む伯父の下で過ごす。この間、静岡県在住であった洋画家曾宮一念に絵の指導を受ける。46年多摩帝国美術学校西洋画科に入学。49年、明治大学文学部仏文科に編入学する。50年多摩造形芸術専門学校(現、多摩美術大学)絵画科を卒業。同年、自由美術協会を退会した村井正誠、山口薫、小松義雄らによって進められていたモダンアート協会結成準備に、山口、小松の勧めによって参加する。51年読売アンデパンダン展に「教会」「港」を出品。以後第10回展まで同展に出品を続ける。同年日本橋三越で開催された第1回モダンアート協会展に「聖母園」「梨」を出品。52年明治大学文学部仏文科を中退。第2回モダンアート協会展に「4人」「2人」「坂」を出品して会員に推挙され、以後、同展に出品を続ける。54年文化学院美術科講師となる。56年第1回シェル美術賞展に幾何学的構成によって具象的対象を想起させる「チカラ・B」を出品して佳作賞受賞。57年、多摩美術大学講師となる。また、同年安井賞展に「キリスト」を推選出品。58年第3回現代日本美術展に「影の人」「追憶」を招待出品。59年第5回日本国際美術展に「聖天」を招待出品。60年第4回現代日本美術展に「馬と人」を招待出品。61年イタリア政府給費留学生としてイタリアへ渡り、フィレンツェのアカデミア・ベラ・アルテに入学して油彩画のほか、古代中世のモザイク画を学ぶ。62年にイタリア各地のほか、フランス、スペイン、イギリス、オランダ、ベルギー等に旅行。63年に帰国し、東京銀座の夢土画廊で帰国展を開催し、抽象的なモティーフが同心円上に拡散していく「ひろがり」ほかを出品。渡欧前は対象を幾何学的な形の集合体として把握し、それらをいったん解体してから再構成する具象画を描いたが、渡欧後は抽象表現を試みるようになる。68年多摩美術大学を辞任。69年京都産業大学教養部講師となる。73年、再度渡欧。トルコ、ギリシャ、イタリア、フランス等を巡る。80年代初頭から様々な色調の黄土色を基調とする背景に、布で全身を覆った人物立像を想起させる幾何学的形態を平板な黒い色面で表した画風へ転じた。85年、初回から出品を続けてきたモダンアート協会展の第35回記念展に「モニュメント」を出品して作家大賞を受賞。87年池田20世紀美術館で「勝呂忠の世界展」が開催され、初期から1980年代半ばまでの油彩画・版画等約80点と表紙原画100点が展示された。戦前に設立された美術団体の再興が行われる一方で、新しい時代に即した造形活動の模索がなされた1940年代後半に美術界での歩みを始めた勝呂は、「純粋なる芸術運動のために、新しい方向を示す世代の優れた芸術家群によって21世紀への橋をかける役割を果す機関として行動する」ことを決意して結成されたモダンアート協会の趣旨に深く共感し、人々の生活により近い場で受容される造形作品の制作も積極的に行った。そのひとつとして1954年から描いた早川書房刊行のポケット・ミステリーの表紙原画がある。以後、三田文学表紙(1956年~58年)、エラリー・クィーンズ・ミステリ・マガジン(創刊号から1965年まで)などの表紙原画を手がけ、斬新洒脱な画風で注目を集めた。58年にはエラリー・クィーン・ミステリ・マガジン表紙によりアメリカ探偵作家クラブ美術賞を受賞。84年にはこれらの原画約1000点の中から100点を選び、「勝呂忠装幀原画展」(千代田・木ノ葉画廊主催)を開催した。イタリア留学から帰国した63年以降は、モザイク画などによる公共建築への壁画制作も行い、岐阜県瑞浪市昭和病院玄関外壁の陶板壁画「拡がるエネルギー」(1966年)、茨城県常陸太田市農協会館外壁陶板壁画「みのり」(1967年)、東京都広尾日本青年海外協力隊センター・ロビー陶片モザイク「若いエネルギー」(1968年)、長野県信州中野市年市民会館陶板壁画、モザイク等(1969年)などを制作したほか、87年には山口薫の原画による大理石モザイク「幻想・矢羽根と牛」を群馬県箕郷町新庁舎の壁画として執行正夫とともに制作した。また、舞台美術も手がけた。1989(平成元)年第39回モダンアート協会展に「海に浮く太陽」を出品し、同年、同会を退会。以後、画廊を中心に作品の発表を行い、2002年には「勝呂忠前衛美術50年展」(鎌倉中央公民館市民ギャラリー)が開催されている。著作も行い『モザイク-たのしい造形』(美術出版社、1969年)、『西洋美術史摘要-講義資料』(啓文社、1992年)、『近代美術の変遷史料』(啓文社、1995年)などの著書がある。

堂本元次

没年月日:2010/01/04

読み:どうもともとつぐ、 Domoto, Mototsugu *  日本画家で日展参事の堂本元次は1月4日、胸部動脈瘤破裂のため死去した。享年86。1923(大正12)年4月9日、京都市に生まれる。旧姓塩谷。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校図案科を卒業後、京都市立絵画専門学校日本画科に学び、43年繰り上げ卒業。学徒動員で出征し45年復員。叔父堂本印象に師事し、51年その画塾東丘社に入塾、東丘社展では非具象性の強い実験的な作品を発表した。この間、47年第3回日展に「石庭」が初入選し、50年第6回日展で「白壁の土蔵」が特選を受賞、52年第8回日展「室内」が再び特選となる。54年より日展に依嘱出品し、60年第3回新日展で「窯壁」が菊華賞を受賞。62年初の審査員をつとめ、翌63年日展会員となった。63年ヨーロッパに旅行し、64年第7回新日展「コロッセオ」、68年第11回「或る日」等ヨーロッパに取材した作品を発表。72年日展評議員となる。79年日中文化交流使節団の一員として訪中してからは中国の雄大な風景に魅せられ、同地に取材した詩情豊かな作品を発表。82年第14回改組日展で「土匂う里」が内閣総理大臣賞を受賞。87年日展理事となる。同年「懸空寺」で日本芸術院賞を受賞。同年京都市文化功労者の表彰を受け、1989(平成元)年京都府文化賞功労賞を受賞。2001年脳内出血で倒れるも、その後回復し翌年の第34回日展に「神苑の新雪」を出品した。

平山郁夫

没年月日:2009/12/02

読み:ひらやまいくお、 Hirayama, Ikuo*  仏教やシルクロードを題材に描き続けた日本画家で、国際的な文化財保護に尽力した文化勲章受章者、平山郁夫は12月2日午後0時38分、脳梗塞のため東京都内の病院で死去した。享年79。1930(昭和5)年6月15日、広島県の生口島(現、尾道市瀬戸田町)に生まれる。45年広島市の修道中学校3年の時、勤労動員先の広島市陸軍兵器補給廠で原子爆弾のため被爆。46年大伯父で彫金家の清水南山に画家への道を勧められる。47年東京美術学校日本画科予科に入学し、49年同校が東京藝術大学となって後、52年に卒業、卒業制作「三人姉妹」は藝大買上げとなる。卒業と同時に前田青邨に師事し、同大学美術学部日本画科副手、53年助手となる。53年第38回院展に「家路」が初入選し、以後院展に出品、55年40回院展「浅春」で院友となる。被爆の後遺症に悩む中、59年第44回院展に「仏教伝来」を出品、高い評価を得る。以後仏教世界に画題を求め、61年同第46回「入涅槃幻想」、62年第47回「受胎霊夢」がともに日本美術院賞・大観賞を受賞。62年から翌年にかけてユネスコ・フェローシップの第1回留学生としてヨーロッパへ留学。帰国後の63年第48回院展に出品した「建立金剛心図」が白寿賞・奨励賞、64年第49回「仏説長阿含経巻五」「続深海曼荼羅」は文部大臣賞となり、64年院展出品作を中心とする一連の作品により第4回福島繁太郎賞を受賞した。61年日本美術院特待、64年同人、70年評議員となり、65年第50回院展「日本美術院血脉図」、69年第54回「高耀る藤原宮の大殿」等を出品。この間66年から画商村越伸の企画による轟会に参画し、横山操・加山又造・石本正とともに作品を発表。また63年東京藝術大学非常勤講師、69年同助教授、73年教授となり、後進の育成にあたる一方、66年同大学中世オリエント遺跡学術調査団に参加。四か月間トルコに赴き、73年には同大学イタリア初期ルネサンス壁画学術調査団としてアッシジで壁画を模写した。以後毎年のように中近東、中央アジア、中国などに取材旅行し、仏教東漸を遡行してシルクロードをたどる。その成果として70年「ガンジスの夕」、第55回院展「塵耀のトルキスタン遺跡」、71年第56回「中亜熱鬧図」、74年第59回「波斯黄堂旧址」、76年第61回「マルコポーロ東方見聞行」、77年第62回「西蔵布達拉宮」等を発表。76年、80年には「平山郁夫シルクロード展」を開催、折からのシルクロードブームもあり、幅広い人気を獲得した。75年日本文物美術家友好訪中団団長として中国を訪問。76年には一連のシルクロード作品で日本芸術大賞を受賞。77年日本仏教伝道協会賞を受賞。78年第63回院展では前年に亡くなった恩師前田青邨を偲んで描いた「画禅院青邨先生還浄図」で内閣総理大臣賞を受賞。79年には自らの被爆体験をもとに描いた「広島生変図」を第64回院展に出品。82年美術振興協会賞を受賞。81年には日本美術院理事となる。88年東京藝術大学の美術学部長、1989(平成元)年には同大学の学長に就任、95年末で一度退いたが、2001年に再度選ばれ05年まで務めた。92年には日中友好協会会長となる。96年日本美術院理事長に就任。97年故郷の広島県豊田郡瀬戸田町に平山郁夫美術館が開館。98年には文化勲章を受章。2000年に奈良市の薬師寺・玄奘三蔵院の「大唐西域壁画」を構想より二十年余を経て完成。同壁画は、薬師寺が始祖として仰ぐ玄奘三蔵法師の足跡を全七場面にわたって描いたもので、同寺が写経寄進で伽藍を建て、平山は自費で壁画を寄進するという、両者が願主であり施主となっての建立であった。旺盛な制作のかたわら、67年法隆寺金堂壁画再現模写事業に参加し、前田青邨班で第三号壁を担当。72年に発見された高松塚古墳壁画も73年より翌年にかけて模写し、82年より東京藝術大学敦煌壁画調査団長として敦煌壁画の保存修復に尽力。その他、北朝鮮の高句麗壁画古墳、カンボジアのアンコールワット遺跡など、世界の文化財保護活動に心血を注ぎ“文化財赤十字”構想を提唱、その拠点のひとつとして88年に文化財保護振興財団を設立。同年ユネスコ親善大使に任命。96年にはフランスのレジオン・ド・ヌール四等勲章、01年にフィリピンのマグサイサイ賞、04年に高句麗古墳群の世界文化遺産登録に寄与した功績で韓国政府から修交勲章興仁章を受けるなど、その国際的な文化財保護活動は海外でも高く評価された。01年、アフガニスタンのタリバン政権によるバーミヤン石窟破壊に際してはユネスコ親善大使として文化財保護を求める緊急声明を発表、さらには国外で破壊を免れている古美術品を“文化財難民”としてユネスコが管理保全し、政情安定後のアフガニスタンに返還する計画を提案した。04年には、画家としての長年の功績と文化遺産保存への国際的貢献が評価され、朝日賞を受賞。平山が提唱する“文化財赤十字”構想に応じるかたちで06年「海外の文化遺産の保護に係る国際的な協力の推進に関する法律」が成立し、その交付を受けて同年、効率的に文化遺産の国際協力に取り組むべく文化財に関わる研究者、支援機関、行政関係者等多彩な人材が参加する“文化遺産国際協力コンソーシアム”が設立された。04年には山梨県長坂町に平山郁夫シルクロード美術館が開館。07年には東京国立近代美術館・広島県立美術館で回顧展「平山郁夫 祈りの旅路」が開催。没後の11年には、その文化財保護活動を顕彰する特別展「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」が東京国立博物館で開催されている。

田淵安一

没年月日:2009/11/24

読み:たぶちやすかず、 Tabuchi, Yasukazu*  戦後からフランスを中心に創作活動を続けていた洋画家の田淵安一は、長らくパーキンソン病で闘病してきたが、11月24日心不全のためパリ郊外の自宅で死去した。享年88。1921(大正10)5月20日、父田淵安右衛門、母アイの長男として生まれる。本籍は、北九州市小倉南区。1941(昭和16)年、第三高等学校文科丙類に入学。中学時代から絵画制作に熱中し、在学中の42年、43年の京都市美術展に入選した。43年、学徒動員で海軍に入隊。45年8月、米子海軍航空基地で終戦をむかえる。同年、東京大学文学部美術史学科に入学。大学在学中から、猪熊弦一郎に師事する。47年9月、第11回新制作派協会展に初入選。48年、同大学を卒業、同大学大学院にすすむ。49年9月、第13回新制作派協会展に「腰掛けた三人」等3点が入選、岡田賞を受賞。51年、金山康喜、関口俊吾とともに渡仏。渡仏後の2年間、絵画制作以上に、ヨーロッパ各地を旅行することに傾注し、その原像をみつめることに費やしたという。また、在仏の佐野繁次郎、岡本太郎、菅井汲、今井俊満等と交友し、「熱い抽象」と称された前衛グループ「コブラ」のアトラン、ハルツング、シュナイデル、ミッシェル・ラゴン等を知った。54年、コペンハーゲンのノアノア画廊で最初の個展を開催。55年5月、サロン・ド・メ展に初めて招待出品される。(以後、73年まで毎年出品。)61年、10年ぶりに帰国、パリへの帰途、東南アジア、インドを旅行する。67年には第1回インド・トリエンナーレ展に出品、その折にインド中央部を旅行した。これを契機に、それまでの黒を基調にした抽象表現主義的な表現から、色彩の面では、鮮やかな原色を多用するようになり、具象、抽象をこえた表現にむかっていった。田淵は、ヨーロッパで思索をかさねることにより、日本人にとってのヨーロッパ像であった地中海文明、あるいはキリスト教文明とは異なった、原初的なケルト文明などに注目していった。さらにそれと対峙するアジア的な文明にふれることで、その創作は一気に変貌していった。この60年代が、田淵の芸術の原点を形成した時代であったといえるだろう。一方で、フランスで暮らすことで、やはりヨーロッパの原像を探ろうとする思考をつづけており、その根底には、ヨーロッパにおける異邦人としての日本人、あるいはアジア人としての自覚があり、その意識は、最初の著作のなかでつぎのように記されている。「僕はヨーロッパに対する違和感でこのエッセイを書き出した。この違和感は無意識にまで根を張っている歴史性のちがいからくるのではないか、生理と意識との間に果しなくひろがっている無意識の原野には、日本とヨーロッパを隔てる森林と凍土と砂漠とがひろがっているのではないか。僕が日常に感じているのは、こうしたおもいなのだ。」(「象徴についての前章」、『西欧人の原像』、人文書院、1976年)70年代以降、田淵の芸術は、その奔放なフォルムと鮮やかな色彩による生命感あふれる表現を展開させながら、フランス、日本をはじめとして評価がたかまっていった。85年には、フランス政府よりオフィシエ・デ・ザール・エ・デ・レトル勲章を受章。国内の美術館における主要な展覧会、回顧展は下記の通りである。79年2月、国立国際美術館において「現代の作家1 田渕安一、湯原和夫、吉原英雄」展が開催され、田淵は初期作から近作まで60点を出品。82年10月、郷里にある北九州市立美術館において「田淵安一展」を開催、新作を中心に油彩画80点、水彩画21点を出品。1990(平成2)年1月、東京のO美術館において、「田淵安一展 ―輝くイマージュ―」を開催、初期作から新作まで63点の油彩画と水彩画、版画22点を出品。96年5月、神奈川県立近代美術館(本館)において、「田淵安一展―宇宙庭園」を開催、85年から95年までの10年間に制作された作品37点を中心に出品。2006年4月、神奈川県立近代美術館(葉山)において、「田淵安一 ―かたちの始まり、あふれる光―」を開催、新作8点を加えた96点による本格的な回顧展を開催。また、先にあげた最初の著述以降、絵画制作と併行して、述作にも積極的であり、ヨーロッパ、あるいは日本、東洋に関する思索をまとめた著述は下記のとおりである。 『西欧の素肌 ヨーロッパのこころ』(新潮社、1979年) 『二面の鏡』(筑摩書房、1982年) 『アペリチフをどうぞ―パリ近郊からの便り』(読売新聞社、1985年) 『イデアの結界―西欧的感性のかたち』(人文書院、1994年) 『ブルターニュ 風と沈黙』(人文書院、1996年) 『西の眼 東の眼』(新潮社、2001年) 

岩澤重夫

没年月日:2009/11/07

読み:いわさわしげお  日本画家で日本芸術院会員の岩澤重夫は11月7日、肺炎のため死去した。享年81。1927(昭和2)年11月25日、大分県日田郡豆田町室町(現、日田市豆田町)の米穀商の家に生まれる。父親の反対を押し切って画家を志望し、47年京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)に入学。在学中の51年第7回日展に「罌粟」が初入選、52年京都市立美術専門学校卒業後、54年堂本印象に師事し東丘社に入塾。東丘社展では実験的な抽象作品、日展では構築性の強い風景画を併行して発表する。この間55年には印象の筆頭弟子三輪晁勢の長女で、印象の姪にあたる蓉子と結婚。60年には東丘社の先輩達と位双展を組織、さらに抽象表現の可能性を追究する。59年の京都市展「古墳石室」、翌年の同展「葦のある沼」がともに市長賞となり、60年関西総合展「河岸」が第一席を受賞。同年の第3回新日展「堰」、61年第4回「晨暉」がともに特選を受賞。翌62年より日展委嘱となり、68年第11回新日展「昇る太陽」が菊華賞を受賞、72年日展会員、80年評議員となる。69年より毎年、京都市の文化財防火ポスターを手がけ、また77年福生市民会館ホール、78年日田市文化センター、82年東京歌舞伎座等の緞帳原画を制作、79年には日田市長福寺襖絵「大心海」を描き、83年銅版画集『瀧聲・春秋二題』を発刊する。83年から85年にかけて日中文化協会派遣の日本美術家訪中団に毎年参加、この訪中体験をもとに描いた「古都追想(西安)」が85年第8回山種美術館賞展で大賞を受賞。同年の第17回日展に出品した「氣」で文部大臣賞を受賞。手堅い手法による静謐かつ雄渾な風景画を描き続けた。1990(平成2)年、東京・銀座松屋他で開催した個展「現代日本画の俊英 岩澤重夫」に、故郷耶馬渓の奔流に取材した大作「天響水心」を発表。同年、原画を手がけた京都祇園祭の菊水鉾見送り画「深山菊水」が完成。同年、京都府文化功労賞を受賞。92年、第5回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。93年、前年の日展出品作「渓韻」に対して日本芸術院賞を受賞。2000年に日本芸術院会員となる。01年日展常務理事に就任。09年に文化功労者となるも、その直後に逝去。日田市の旧制中学の後輩で、その後京都で親交のあった金閣寺住職の有馬賴底より04年に依頼され、構想・制作に5年を費やした金閣寺客殿の障壁画63面が遺作となった。なお02年に西日本新聞に連載された聞き書きをもとに、10年には宇野和夫『日本画家 岩澤重夫聞き書き 天響水心』(西日本新聞社)が刊行されている。

石川義

没年月日:2009/09/12

読み:いしかわただし  日本画家で日展評議員、金沢学院大学名誉教授の石川義は9月12日、心不全のため死去した。享年78。1930(昭和5)年10月10日、石川県金沢市に生まれる。47年金沢美術工芸専門学校に入学、当初彫刻を専攻するが、のち日本画科に転科。大学在学中の52年第8回日展に「杉」を初出品して入選、以後日展に出品を続ける。53年堂本印象の主宰する画塾東丘社に入塾。54年金沢市立美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)を修了、活動の拠点を京都に移す。59年第2回新日展で「礁」、68年第11回新日展で「火口原」が特選を得、69年改組第1回日展では「阿蘇」が菊華賞を受賞。78年東丘社を退会し、日本画研究グループ「玄」を結成。80年改組第12回日展で「山里」が会員賞受賞、88年日展評議員となる。日本の自然景を主なモティーフに描き続け、岩肌や樹の様相をうねるような曲線を交えて捉えながら、自然が内蔵する生気の表出につとめた。とくに82年、1994(平成6)年に開催した個展では、杉の生命力をテーマにした屏風を含む作品群を発表している。2000年金沢学院大学美術文化学部日本画教授に就任。01年「経堂への道」で第33回日展文部科学大臣賞を受賞。07年、石川県立美術館で同館へ寄贈した作品を中心に「日本の自然・原風景を描く―郷土が生んだ日本画家 石川義展」が開催されている。

荻太郎

没年月日:2009/09/02

読み:おぎたろう、 Ogi, Taro*  洋画家で、和光大学名誉教授の荻太郎は、肺炎のため9月2日、死去した。享年94。1915(大正4)年、愛知県岡崎市に生まれる。旧制岡崎中学校を卒業後、東京美術学校油画科に入学、在学中南薫造に師事、また先輩にあたる猪熊弦一郎からも指導を受けた。1939(昭和14)年同学校を卒業。同年の第4回新制作派協会展に出品、新作家賞を受賞。47年、同協会会員となる。58年、ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展に招待出品。戦後美術のなかにあって、抽象表現が流行するなか、一環して具象表現にこだわり、不条理な時代のなかにおかれた人間像をテーマに描きつづけた。そこでは人間の生と死が主題となり、「歴史」(1966年)、「記録」(1966年)、「レクイエム」(1970年)などにみられるように、深く人間を見つめる作品を描いた。一方で、家族像も多く描き、また華麗なバレリーナや裸婦をモティーフにした作品は、広く親しまれた。79年、第42回新制作展に出品した「掠奪」により第3回長谷川仁記念賞を受賞。81年には受賞を記念して「荻太郎展」(日動サロン)を開催し、新旧作41点を出品。88年、第3回小山敬三美術賞受賞。1990(平成2)年、日本女子大学成瀬記念館にて個展を開催。2002年、文京区ギャラリーシビックにて「荻太郎展1945―2001」を開催。03年には、「米寿記念荻太郎展」を岡崎市美術館で開催。09年の第73回新制作展では、「椅子による女」(1937年)から「記念碑(家族)」(1997年)まで8点が「特別出品」された。同展カタログには、つぎのような言葉を寄せ、画家がその長い創作活動を通して、自らに課したテーマを端的に語っている。「この世に如何に生き、自然の中で存在する生命を如何に受けとめ、如何に造形するかを、いつも私は希って描いている。それは自分自身の生きる記録であり、私の日記です。そして生きる悦び、苦しみ、悲しみ、不安、願望、愛憎、リズム、等自分なりに描きたいと思っている。精神造形は、私の大切な挑戦であり、課題です。」没後の10年には、「荻太郎遺作展」(文京区ギャラリーシビック)が開催された。

熊田千佳慕

没年月日:2009/08/13

読み:くまだちかぼ、 Kumada, Chikabo*  花や昆虫の細密画で知られる熊田千佳慕は8月13日、誤嚥性肺炎のため横浜市内の自宅で死去した。享年98。1911(明治44)年7月21日、現在の横浜市中区住吉町3―31に生まれる。本名五郎。生家は代々医師で、父は欧米留学経験のある耳鼻科医であった。1917(大正6)年横浜市尋常小学校に入学。23年関東大震災で被災して家を失い、一家で生麦に移り住む。これに伴い鶴見町立鶴見尋常小学校に転入。1924年、同校を卒業し神奈川県立工業学校図案科に入学。在学中、博物学の教諭であった宮代周輔に影響を受ける。また、同校での軍事教練中、地面に腹ばいになる経験から草叢の虫たちの観察に興味を抱く。1929(昭和4)年、同校を卒業して東京美術学校鋳造科に入学。前衛的な工芸作品を制作していた高村豊周に惹かれたのが動機であった。34年、長兄で後に詩人となる精華の友人であったデザイナー山名文夫を知り、師事する。同年9月、名取洋之助が主宰する日本工房(第二期)に入社し、山名文夫の助手として『NIPPON』ほか対外グラフ雑誌のデザインに従事する。同社には翌年、写真家の土門拳が入社し、親交を結ぶ。39年、体調不良により同社を退社。41年7月に応召するが病を得て9月に除隊。43年、日本工房での同僚高橋錦吉の紹介で日本写真工藝社に入社し、終戦まで在籍。この間、内閣情報局の元で『NIPPON PHILLIPIN』などを制作。戦後の47年に初めて挿絵を手がけた『ともだち文庫 狐のたくらみ』(中央公論社)が刊行され、その後の挿絵のしごとの端緒となった。48年、化粧品会社カネボウに勤めてポスター等のデザインを行う一方、『月刊少年少女』『金と銀』などの雑誌のレイアウトデザインなどを行う。49年、カネボウを退社し、以後、絵本作家に専念。同年『こども絵文庫 みつばちの国のアリス』(光吉夏彌著、羽田書店)で児童書装幀賞を受賞する。以後、『世界名作童話全集』(講談社)、『講談社の絵本』、『世界絵文庫』(あかね書房)、『幼年世界名作全集』(あかね書房)、『なかよし絵本』(偕成社)、『児童名作全集』(偕成社)などに挿絵を描く。1980年に岡田桑三からファーブル昆虫記の絵画化について激励され、81年、これらを描いた作品でイタリアボローニア国際絵本原画展に初入選。同年『絵本ファーブル昆虫記1』(コーキ出版)を刊行し、82年に第二巻、83年に第三巻を上梓する。88年より『Kumada Chikabo’s Little World』(創育)の刊行を始め、1989(平成元)年に7巻シリーズが完結、これにより第38回小学館出版文化賞を受賞する。96年8月、本格的な回顧展「小さな命の大切さを描く―熊田千佳慕展」が横浜高島屋で開催され、以後、98年「花と虫を愛して―熊田千佳慕の世界展」(横浜高島屋で開催ののち、99年に京都高島屋ほかに巡回)、2001年「熊田千佳慕展」(横浜有隣堂ギャラリー)などの展覧会で作品原画を発表。02年には福島県立美術館で「熊田千佳慕の世界―はな・むし・とり・ゆめ」展、06年には目黒区美術館で「熊田千佳慕展 花、虫、スローライフの輝き」展が開催された。花や昆虫を微細に観察し、昆虫の体毛や植物の葉脈などをも描出する細密な描写と、ケント紙の白地を活かした明澄な彩色を用いて詩情ある画面を作り上げた。「日本のプチ・ファーブル」と称され、子供にも親しまれる平明な作風を示した。

今関一馬

没年月日:2009/06/10

読み:いまぜきかずま、 Imazeki, Kazuma*  洋画家の今関一馬は6月10日、肺炎のため死去した。享年82。1926(大正15)年7月17日、洋画家今関啓司の長男として東京に生まれる。1945(昭和20)年旧制第一高等学校に入学するが、46年に死去した父の遺品の中に竹製の筆巻きに包まれた数十本の油彩画の筆を見出したことが契機となって画家を志し、51年に東京帝国大学を中退。55年、第一回J.A.Nふらんす・クリチック賞絵画展に出品し、同会会員となる。同年、東京の資生堂ギャラリーで第一回個展を開催。56年、57年に東京銀座の村松画廊で個展を開催する。59年第33回国画会展に「たわむれ」「別離」で初入選。同年同会会友に推挙されるとともに、第3回安井賞候補新人展にこれら2点を招待出品する。60年、第3回J.A.Nふらんす・クリチック賞展に「不死鳥」を出品して受賞、同年第34回国画会展に「群馬」「不死鳥」を出品し、会友優作賞を受賞して会員に推挙される。また同年第3回国際具象派展に「群馬」を招待出品。62年には第4回国際具象派展に「鳥のいる風景」「不死鳥」を招待出品する。63年第7回日本国際美術展に「赤い鳥に抱かれた女」を招待出品。66年に初めて渡欧し、フランス、スペイン、イタリアを巡遊して翌年帰国。パリでギュスターブ・クールベの「画家のアトリエ」を見、画面にあらわれた「愚鈍なまでの誠実さ」「孤独で悲しい闘争心」に感銘を受ける。また、南欧の風景に魅了され、以後、しばしば渡欧する。渡欧以前は動物などをモティーフに、具象画ながら対象を抽象化した作品を多く描いたが、渡欧後は風景画を主に制作するようになる。67年第6回国際形象展に滞欧作「トレド」「夜のカテドラル」を招待出品。82年、中国文化部の招待により中国を旅行し、北京、上海、蘇州等を訪れる。同年、再度、中国を訪れ、翌年にも紹興、桂林、広州などを訪れる。87年、横浜市民ギャラリーで初期からの画業を跡づける「今関一馬自選展」を開催。1993(平成5)年、北海道、東北を写生旅行し、北海道美瑛の風景に魅せられてここにアトリエを構える。99年、第14回小山敬三美術賞を受賞し、同年これを記念して「今関一馬展」が日本橋高島屋で開催される。2004年には茂原市立美術館・郷土館で「今関一馬展」が開催され、60年代から2000年代までに描かれた作品76点が展示された。69年に母校である東京大学の教養学部図書館壁画「青春」を描いて以降、73年に大秦野カントリークラブ壁画「天と地と歓び」、77年に伊勢原カントリークラブ壁画「春のうた」「秋に踊る」、78年に住友生命本社壁画「浜辺の歓び」「緑陰の憩い」、91年にトヨタ自動車株式会社トヨタ館壁画「人・自然・車づくり」などを描いている。これらの公的な場への壁画は、風景の中に裸体人物群像が配され、19世紀のアカデミックなヨーロッパ絵画の伝統が踏まえられ、知的な構成がなされているが、風景画は明るい色調で対象への感興を率直に表す作風を示した。

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