本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,961 件)





不動茂弥

没年月日:2016/12/15

読み:ふどうしげや  日本画家の不動茂弥は12月15日、呼吸不全のため死去した。享年88。 1928(昭和3)年1月11日、昭和3年1月11日兵庫県三原郡賀集福井(現、南あわじ市)に生まれる。父、栗林寅市、母、この。父方の叔父は日本画家の栗林太然。生後間もなく母方の叔父で、当時京都画壇で活躍していた淡路島出身の日本画家、不動立山の養嗣子として迎えられ、以後京都で育つ。44年、京都市立絵画専門学校(45年に京都市立美術専門学校と改称。現、京都市立芸術大学)に入学。戦時中、東京近辺の陸軍の諸学校へ教材用掛図の作成に学生の勤労動員として派遣される。敗戦後の47年、学内で行なわれた作品展への出品をきっかけに三上誠や山崎隆、星野眞吾らと新たな絵画運動を唱えるグループ結成に向けて話しあうようになる。48年同校日本画科を卒業。同年3月には三上、山崎、星野、不動、田中進(竜児)、日本画に席を置きながら洋画を描いていた青山政吉、陶芸の八木一夫と鈴木治を含めた8名によるグループのパンリアルを結成し、同年5月に京都の丸善画廊でパンリアル展を開催(この時には不動と田中は作品未完のため不出品)。7月には八木と鈴木が陶芸の前衛グループ走泥社を結成するため脱退。メンバーを日本画に絞り、新たに大野秀隆(俶嵩)や下村良之介らを交え、翌年、日本画壇の旧弊打破と膠彩表現の可能性追求を掲げてパンリアル美術協会を結成、5月に京都の藤井大丸で第1回展を開催する。不動は第1回展から74年の同会退会まで出品を続けた。戦後の混乱した社会状況を捉えた「物語」(1949年)や「机上の対話」(1950年)等の人物情景にはじまり、50年代後半から布、セメント、砂、焼板等を取り入れたアッサンブラージュによる作品「自潰作用」(1957年)や「焚刑」(1962年)、古い浄瑠璃本を曼荼羅のようにコラージュした「籠城」(1966年)等を発表。67年作の「落ちる文字」以降は、日本画の特質は描線・色面・記号性にあるとする自論に基づき、エアブラシやアクリルも積極的に取り入れる。パンリアル美術協会退会後は中村正義の呼びかけに応じて75年の東京展、また星野眞吾の从展に非会員として出品する以外は、無所属で個展による発表を続ける。日本を擬人化して変容する文明の渦中にある都市をモティーフとした「極地」(1985年)、「望郷」(1987年)、「何処へ」(1987年)、記号の象徴として専ら“→”を採用し、20世紀末の世界の混迷をテーマとした「情報化時代」(1991年)、「都大路の菩薩様」(1994年)、「落ちた偶像」(1995年)を制作、一貫して日本画の現代性を追究した。 制作の一方で72年に三上誠が結核で没した直後より、星野眞吾、批評家の木村重信、中村正義と4人で編集委員会を立ち上げ『三上誠画集』(三彩社、1974年)刊行に奔走。また晩年の三上の遺志を受け、80年代には福井県立美術館学芸員の八百山登らの協力も仰ぎながら、パンリアル美術協会設立時の記録を編集、88年に『彼者誰時の肖像 パンリアル美術協会結成への胎動』を自費出版し、同協会創成期の証言者としての役割を果たした。 没した翌年の2017(平成29)年には、京都国立近代美術館で追悼展示が行なわれている。

後藤純男

没年月日:2016/10/18

読み:ごとうすみお、 Goto, Sumio*  日本画家の後藤純男は10月18日、敗血症のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年1月21日、千葉県東葛飾郡関宿町木間ヶ瀬(現、野田市木間ヶ瀬)の無量寿院に、真言宗住職であった父幸男、母喜代の間に8人兄弟の次男として生まれる。32年12月埼玉県北葛飾郡金杉村(現、松伏町)へ転居。36年金杉尋常高等小学校(現、松伏町立金杉小学校)へ入学、小学校時代より絵を描くことを好み、休み時間には校庭で白墨や〓石で絵を描いていたという。42年真言宗豊山派の豊山中学校(現、日本大学豊山中学校)へ入学。同校在学中に真言宗僧としての修業を開始する傍ら、画家になることを考え始める。45年埼玉県立粕壁中学校(現、埼玉県立春日部高等学校)へ転入。美術部に入り、美術教師の松田、長坂、また近所に住んでいた日本画家、伊藤青郊に絵の手ほどきを受ける。46年3月同校卒業後、東京美術学校を受験するも失敗。青郊の師、川崎小虎の紹介で山本丘人に師事し、本格的に絵の勉強をはじめる。47年再び東京美術学校を受験するも失敗、学制変更により受験資格を失い進学を断念する。4月には埼玉県川辺小学校の教員となり、翌年より3年間埼玉県葛飾中学校教師を務めた。その傍ら、49年師である丘人の紹介で日本美術院同人の田中青坪に師事。翌50年4月第5回日本美術院小品展に「田園風景」で初入選を果たす。しかし秋の院展では落選がつづき、52年9月第37回院展に「風景」で初入選を果たした。この間、埼玉県北葛飾郡宝珠花村立宝珠花中学校、千葉県川間村立川間中学校(現、野田市立川間中学校)などで教鞭を執ったが、院展入選を機に画家として身を立てる決意をし、教師生活を終える。54年3月第9回小品展出品の「残る雪」で奨励賞受賞(10、18、21、24~27回でも受賞)。9月の第39回院展へは「灯ともし頃」を出品し院友に推挙される。この頃の作品は田園や村落など、身近な風景が題材とされた。55年頃からは関西や四国の真言宗寺院などへ繰り返し写生旅行に出かけ、入念なスケッチを積み重ねる。また60年頃からは北海道各地へ写生旅行に出かけ、約10年にわたり同地へ通い続けた。60年11月田中恂子と結婚。62年9月第47回院展出品の「懸崖」で奨励賞受賞(51~53、55、57、58回でも受賞)。63年4月第18回春季展へ「宵」を出品、この頃より北海道の層雲峡を中心とした渓谷や滝の連作が開始される。色数を抑え、ゴツゴツとした岩や鋭く刺々しい樹木など、やや抽象化されたモチーフで画面が構成され、神秘性や峻厳さの感じられる作風を示した。65年9月第50回院展へ「寂韻」を出品、日本美術院賞受賞(54回でも受賞)。特待に推挙される。69年4月第24回春季展へ「閑影」を出品。以後奈良や京都の古寺を題材に、大気や光の変化によって見せる表情を捉えた作品を発表する。70年9月第4回現代美術選抜展に「淙想」(第54回院展、1969年)が選抜される(以後も7、11、21回に選抜)。74年2月日本美術院同人推挙。76年9月第61回院展へ出品した「仲秋」で文部大臣賞を受賞。10月にはギャラリーヤエスにて初の個展を開催。79年7月中国へ巡回した「現代日本絵画展」の代表団のひとりとして初めて訪中、以後毎年のように中国へ出かける。80年2月日本美術院評議員に推挙。3月第2回日本秀作美術展に「晩鐘室生」(第64回院展、1979年)が選抜される(以後4~15、18、20、22回にも選抜)。82年9月第67回院展へ北京の天壇祈年殿を描いた「雷鳴」を出品、以後中国の広大な自然や田園、民家などをモチーフにした作品を発表する。同年中国・西安美術学院名誉教授となる。86年9月第71回院展へ出品した「江南水路の朝」で内閣総理大臣賞受賞。87年12月福岡教育大学(美術学科)の非常勤講師となる(12月~1988年3月、同年10月~89年3月まで)。88年4月高野山真言宗東京別院の落慶を記念し、襖絵24面を制作、奉納する。また1993(平成5)年には奈良・長谷寺、99年には東京・高幡不動尊金剛寺の襖絵も揮毫した。88年10月東京藝術大学美術学部の教授となり、97年3月退官、2016年名誉教授となる。91年6月日本美術院監事。92年3月第47回春の院展へ「斑鳩立秋」を出品、この頃より再び日本の風景を題材とした作品が多くなる。とりわけ2000年代以降は大和の古寺が見せる四季折々の表情を多く描いた。95年5月フランス・パリにて個展(三越エトワール)開催。97年9月北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。00年4月日本美術院理事となる。また同年3月には埼玉県北葛飾郡松伏町より名誉町民の称号が、11月には北海道空知郡上富良野町より社会貢献賞が贈られる。01年1月中国・西安美術学院に後藤純男工作室落成。06年旭日小綬章綬章。16年6月「大和の雪」(第97回院展、12年)で第72回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。また同年には北海道空知郡上富良野町特別名誉町民、千葉県流山市名誉市民となった。

大森運夫

没年月日:2016/09/29

読み:おおもりかずお、 Oomori, Kazuo*  日本画家で創画会会員の大森運夫は9月29日、老衰のため死去した。享年99。 1917(大正6)年9月23日、愛知県八名郡三上村(現、豊川市三上町)に農家の長男として生まれる。1937(昭和12)年愛知県立岡崎師範学校(現、愛知教育大学)を首席で卒業し、小学校教員となる。その後、40年広島高等師範学校(現、広島大学)に進むが、翌年肺結核のため中退。帰郷して療養生活を送った後、再び郷里で教鞭をとるようになるが、50年、当時新進作家として脚光を浴びていた中村正義と出会い、その影響で日本画を描き始める。翌年中村正義、平川敏夫、星野眞吾、高畑郁子らと画塾・中日美術教室を開設。51年第15回新制作展に「校庭」が初入選、また同年第7回日展に「稲荷前」が初入選するも、以後は新制作展で入選を重ね、骨太な筆致で風景や人物を描く。58年中部日本画総合展で最高賞を受賞。61年には教員を退職、翌年神奈川県川崎市に移り住んでいた中村正義の宅地内に転居し、画業に専念。同年第26回新制作展で、東京の山谷周辺を根城にする日雇労務者や浮浪者を題材とした「ふきだまり」三連作が新作家賞を受賞。66年第1回神奈川県展で、“オッペシ”と呼ばれる漁婦を主題とした「九十九里」が大賞を受賞、その賞金でフランス、スペイン、モロッコ、スイス、イタリア、ユーゴスラビアの6カ国を巡り、ロマネスク美術に啓発されて人物表現のデフォルメを押し進める。66年第30回新制作展「九十九里浜」二連作、67年第31回「モロッコ」三連作、70年第34回展では山形県庄内地方に伝わる黒川能に取材した「灯翳」「爾宴」が新作家賞を受賞し、71年新制作協会会員となった。以後も同展に「能登神雷譜」二連作(第36回展)、「佐渡冥界の譜」(第37回展)等、土俗的な郷愁を宿した作品を発表する。75年第3回山種美術館賞展で「山の夜神楽」が大賞を受賞。74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、以後会員として活動。土俗祭儀、東北地方の“おばこ”、人形浄瑠璃、ロマネスク美術等、そのモティーフは変遷を辿るが、一貫して人間の根底にひそむ強い生命力や祈りをテーマとし続けた。85年には当時の創画会中堅作家であった池田幹雄、上野泰郎、小野具定、小嶋悠司、滝沢具幸、毛利武彦、渡辺學とともに地の会を結成、その第1回展から最終回の第12回展(1996年)まで毎回出品する。1992(平成4)年豊橋市美術博物館で初の回顧展を開催。96年には求龍堂より『大森運夫画集』が刊行。晩年には作品を豊川市桜ヶ丘ミュージアムに寄贈し、2010年に同館にて受贈記念展が開催される。亡くなる年の春には百寿を記念し、豊橋市のほの国百貨店で新作を中心とした個展が開催されたばかりであった。

松尾敏男

没年月日:2016/08/04

読み:まつおとしお、 Matsuo, Toshio*  日本画家の松尾敏男は8月4日、肺炎のため死去した。享年90。 1926(大正15)年3月9日、長崎県長崎市今籠町(現、鍛冶屋町)にて、石鹸会社を経営する父稲吉と母スエの間に、9人兄弟の末っ子として生まれた。1929(昭和4)年に父親の会社倒産のため一家そろって上京、淀橋区(現、新宿区)大久保に居住する。32年東京市大久保尋常高等小学校(現、新宿区立大久保小学校)入学。在学中には東京市の図画コンクールで学校代表となった。38年東京府立第六中学校(現、東京都立新宿高等学校)へ入学、体操に熱中し大会でも活躍するが、病気を機に画家を志すようになる。43年3月に同校卒業後は、技法書をたよりにしばらく独学で学ぶ。そのかたわら、美術雑誌に掲載されていた堅山南風の«雨後»(第2回新文展、1938年)に感銘を受け弟子入りを決意、隣家の美術ジャーナリスト垣見泰山の紹介で同年10月その門に入った。自由な方針の南風塾では古画の模写をとおして運筆を学び、また写生にも勤しんだ。47年3月第2回日本美術院小品展に「春容」が初入選するも、秋の本展では落選が続き、49年9月第34回院展へ出品した「埴輪」で初入選を果たす。なお47年より52年までは「泉華」と号した。50年第5回小品展の「牡丹」で奨励賞受賞(12回でも受賞)。51年9月第36回院展へ「森の自画像」を出品し、日本美術院院友に推挙された。58年12月斎藤愛と結婚。60年9月第45回院展へ同年1月に生まれた長女由佳にちなんだ「森の母子像」を出品。この頃までは花や鳥、人物を主題に構成的な画面をつくり上げていたが、以降はモチーフが単純化、抽象化され、幻想的な画面が展開された。また、自らが人間的にもっている不安感、あるいは生と死といったイメージを画面に描き出すようになる。62年9月第47回院展の「陶土に立つ」で奨励賞受賞、以後4年連続で受賞し、65年日本美術院特待推挙。この間、63年11月に次女麻里誕生。また64年11月に師南風が依頼を受けた日光・輪王寺本地堂(薬師堂)の鳴龍復元にあたり助手を務めた(1966年7月完成)。師の制作を間近で観察し、絵の具は塗るのではなく描かなければと考えを改め制作した「廃船」を66年9月の第51回院展へ出品、日本美術院賞を受賞する(68年、70年にも受賞)。67年6月北海道の積丹半島へ取材旅行、68、71年にも北海道を訪れる。この頃より各地へ旅行し、そこでの体験や感動をもとにした制作が行われるようになる。69年には「北限」(第54回院展)で奨励賞受賞。70年9月第55回院展へ「樹海」を出品して3度目の日本美術院賞受賞、作品は文化庁買上となり、翌71年2月日本美術院同人に推挙された。同年1月「今日の日本画―第1回山種美術館賞展―」へ「翔」を出品、優秀賞受賞。10月初の個展を彩壺堂サロンで開く。72年3月には「海峡」(第56回院展、1971年)で昭和46年度芸術選奨新人賞受賞。73年5月日本橋三越にて個展開催。穏やかな色彩による花鳥画にて新境地を見せた。75年1月初めてインド・パキスタン旅行へ出かけ、4月の第30回春の院展へ「デカン高原」を出品する。以後78年まで毎年インドへ旅行し、「サルナート想」(第63回院展、1978年、文部大臣賞、昭和53年度日本芸術院賞)などを制作。この間、75年9月の第60回院展では「燿」で文部大臣賞受賞、78年4月日本美術院評議員に任命される。79年秋には初めて中国を訪れ、翌80年3月第35回春の院展へ「出土」を出品。82年以降毎年中国を訪れ、「連山流水譜」(第67回院展、1982年)をはじめ数々の作品を制作した。80年3月第2回日本画秀作美術展に「篝火」が選抜される(以後25回まで16、20回を除き毎回選抜)。82年6月日本美術院監事。85年3月イタリアへ取材旅行に出かける。同年7月高山辰雄、稗田一穂らと結成した日本画研究会「草々会」の第1回展を資生堂ギャラリーにて開き、「ヴェネチアの聖堂」など3点を出品。86年3月ギリシャ・トルコへ取材旅行に出かけ、9月の第71回院展へギリシャのミコノス島で出会った神父を描いた「ミコノスの聖堂」を出品する。87年多摩美術大学美術学部絵画科日本画専攻教授となり、96年3月退官。その後客員教授となり、99年4月名誉教授となる。87年11月回顧展「花のいのちを描く―松尾敏男展」(伊勢丹美術館ほか)を開催。1994(平成6)年12月日本芸術院会員となる。95年湯島天神天井画に白龍を揮毫。翌96年パリの三越エトワールにて個展を開く。98年4月勲三等瑞宝章受章。2000年9月第85回院展へ「月光のサンマルコ」を出品、以後もイタリアに取材した作品を多数描いた。同年10月文化功労者。09年12月日本美術院理事長就任。10年2月には「画業60年松尾敏男回顧展」(日本橋三越ほか)が開催される。12年11月文化勲章受章。13年4月には長崎市特別栄誉表彰を受け、同年10月長崎名誉県民の称号が贈られた。歿後、従三位に叙せられた。

小嶋悠司

没年月日:2016/06/07

読み:こじまゆうじ、 Kojima, Yuji*  創画会副理事長で日本画家の小嶋悠司は6月7日、脳幹出血のため死去した。享年72。 1944(昭和19)年3月12日、京都市に生まれる。御所や寺社の造営に関わる石工であった祖父の影響で幼い頃より彫刻に関心を示し、また自宅近くの教王護国寺(東寺)で平安期の密教美術に親しんだ。中学・高校時代にはピカソや須田国太郎を知り、63年4月京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)日本画科に入学。秋野不矩や石本正に指導を受ける。父親が友禅の図案家という環境で育つも、はんなりとした花鳥画などは保守的だとし、人物画を志す。66年4月新制作日本画部春季展(京都)に「人体」「風景」が入選。翌67年9月には第31回新制作協会展に「群像―詩II」で初入選を果たす。さらに翌年9月の第32回展では「群像K」「群像L」にて新作家賞受賞(34、35、36回でも受賞)。60年代には人間をテーマに造形力のある空間構成を目指し、ロダンやセザンヌ、レオナルド・ダ・ヴィンチにジョット、あるいは村上華岳や松本竣介等から表現や構成を学ぶ。69年3月京都市立美術大学専攻科日本画専攻修了。同年11月石本正らとヨーロッパへ旅行、約2ヶ月間の行程でオランダ、イギリス、フランス、スペイン、イタリアなどをめぐった。70年9月第34回新制作展に「群像3-A」を出品。アッシジのサン・フランチェスカ聖堂にあるチマブーエの「キリストの磔刑」のような絵を、平安仏画のような色彩で表現したいとして描いた作品で、フレスコ画のような厚みを出すため支持体に麻布を用い、卵テンペラの技法(デトランプ)を併用した。またこの頃より、人間性という意識やそれを支える理性をじっと凝視する存在を、画面内に表すようになる。72年6月彩壺堂にて個展開催。73年1月第2回山種美術館賞展で「群像」が優秀賞を受賞する。同年9月第37回新制作協会展へ「群像’73―凝視」を出品、同会日本画部会員に推挙された。70年頃より画面には頭や手足の無いトルソや、骨をむき出しにした人体が表されるようになるが、そこには人間のもつ理性の根源を問いたいという意識があったという。74年5月新制作協会日本画部全会員が同協会を退会し、新に創画会を設立。小嶋も会員として参加し、同年9月の第1回展へ「群像―’74」を出品した。75年11月より1年間、文化庁在外研修員としてフィレンツェに滞在。古代エトルリアの彫刻や墓石彫像を精力的に写生する。帰国後はそれらの写生をもとにした作品を制作、79年10月の第6回創画会展へ出品した「大地―穢土’79」は、エトルリアの柱頭をもとにした人物や母子像で構成され、当時世間で頻発していた幼児置き去りに対する衝撃から、人間本来の愛情の回復を祈って描かれた。一方で小嶋は、イタリアでみた古代文明の明るさから、人類の未来に明るい自信を持って帰国したといい、ロマネスク彫刻の写生をもとに、無垢な子供を抱く理性的な人間を描いた「人間」(第6回京都春季創画展、1980年)などを描いている。以後、現実や現世、穢れた世界という意味をもつ「穢土」という言葉をタイトルにした作品や、「愛」や「人間」といったタイトルを持つ作品を制作、地獄にも似た現世をありのままに見つめながらも、そこに希望を見出そうとする意識の見られる絵を描きつづけた。85年4月それまで講師を務めていた京都市立芸術大学日本画科の助教授となる(1995年教授、09年名誉教授)。同月、池田幹雄、上野泰郎、大森運夫、毛利武彦、滝沢具幸、渡辺学、小野具定と結成した地の会の第1回展を資生堂ギャラリーにて開催(10回まで出品)。88年6月第10回日本秀作美術展に「凝視」(個展出品作、1987年)が選抜される(11~13、15回にも選抜)。同年10月の第15回創画会展へは、動物と人間、母子像で構成された画面に光を表し、救いのある空間を描いた「地(習作)」(のちに「地」と改題)を出品。同作ではそれまでと異なるテンペラ風の技法が用いられた。またこの頃より、モチーフがそれまで以上に抽象化されるようになり、90年代には高尾曼荼羅のような深く力強いマチエールの色価(バルール)に惹かれ、ものの形を借りずに色によって自らの思想を語ることを目指す。1990(平成2)年1月第1回京都新聞日本画賞展で「穢土」が大賞受賞。97年2月京都府文化賞功労賞受賞。99年5月第12回京都美術文化賞受賞。2000年7月には京都市美術館で回顧展「京都の美術 昨日・きょう・明日28 小嶋悠司―凝視される大地―展」が開かれる。01年3月平成12年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。翌月には練馬区立美術館にて「時代と人間への凝視―小嶋悠司の創造展」開催。00年代にはモチーフが再び具象的な姿をとるようになり、画面も次第に明るくなっていった。17年4月豊田市美術館の常設特別展として、「追悼 小嶋悠司」が開催された。

郷倉和子

没年月日:2016/04/12

読み:ごうくらかずこ、 Gokura, Kazuko*  日本画家の郷倉和子は4月12日、心不全のため死去した。享年101。 1914(大正3)年11月16日、日本画家の郷倉千靱とその妻蔦子の長女として東京市谷中に生まれる。幼い頃は千靱の写生のため各地を転々とし、21年三軒茶屋に転居。1927(昭和2)年3月駒沢尋常高等小学校(現、世田谷区立駒沢小学校)卒業。同年4月三輪田高等女学校(現、三輪田学園)に入学。在学中竹を描いた作品が皇太后の献上画に推薦され、図画担当の赤堀千代子より女子美術専門学校(現、女子美術大学)への進学を勧められる。32年4月同校日本画高等科へ入学。この頃の作品は「高原の秋」のように、花鳥を写実的に描いた繊細な画風を示すものであった。35年3月同校を首席で卒業。翌36年9月第23回院展に「八仙花」で初入選を果たす。この頃安田靫彦に入門。39年9月第26回院展へ「庭の春」を出品、日本美術院院友に推挙される。42年倉光博と結婚。44年戦局悪化にともない、新潟県妙高市の赤倉へ疎開、出産や育児のため48年まで院展出品を見合わせる。49年9月第34回院展へ「庭つゝじ」を6年ぶりに出品。52年頃よりマチスやピカソへの憧れから半具象的作風を模索しはじめる。また千靱の門下生であった馬場不二の新しい感覚に惹かれ、写実から半具象への省略や形態の方法を学ぶ。55年9月の第40回院展へ出品した「春」では、きわめて単純化された桜花や強い色調による画面構成を見せ奨励賞受賞(41、44回展でも受賞)。以後60年まで毎回受賞し、同年9月の第45回院展へ出品した「花苑」で2度目の日本美術院賞受賞、日本美術院同人に推挙された。この間、56年10月馬場不二が亡くなり、岩橋英遠に指導を受けるようになる。また59年1月朝日新聞社主催の第10回選抜秀作美術展に「夕陽」(第43回院展、58年)を招待出品する(翌年も出品)。61年には4月から5月にかけて父千靱と連れ立ちインドへ旅行、帰国後「熱国の幻想」(第46回院展、61年)などを制作、この頃より作品が幻想的な傾向を帯びはじめる。63年4月上野松坂屋で初の個展開催。69年片岡球子、三岸節子、荘司福、雨宮敬子らと日本画、洋画、彫刻、工芸にわたる女流総合展「潮」を結成、3月に第1回展(銀座三越)を開催する(以後毎回出品)。70年9月第55回院展へ「榕樹」を出品し、文部大臣賞受賞。この頃、幻想を突き詰めると抽象になってしまうとし、半具象へと戻すために現実と幻想の組み合わせを模索するものの、70年代後半にはそれにも行き詰まりを感じはじめ、ひたすら自然を観察し、写生と素描を繰り返す。80年第1回現代女流美術展へ出品(以降毎回出品)。同年紺綬褒章受章。81年5月日本美術院評議員に推挙される。84年9月の第69回院展には、悩みに悩んで何度も描きなおしたという「閑庭」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。翌85年4月の第40回春の院展へは湯島天神の梅を描いた「古木に出た紅梅の芽」を、9月の第70回院展には寒中のつめたさを表現しようと胡粉と墨を主とした「暮色白梅」をそれぞれ出品、この年より梅の連作に取り組む。86、87年には「気」(第71回院展)などモノトーンの作品を発表するが、88年の「窓辺」(第43回春の院展)では一転して明るい画面が試みられる。1989(平成元)年の「春望」(第44回春の院展)では瓦屋根と梅が描かれ、以後も連作として展開された。90年6月前年の「静日」(第74回院展)で平成元年度日本芸術院恩賜賞受賞。翌91年5月日本美術院監事となる。同年6月第13回日本秀作美術展に「陽だまり」(第75回院展、90年)が選抜された(24回にも選抜)。92年4月勲四等宝冠章受章。9月の第77回院展には松島瑞巌寺の紅白梅を描いた「縹渺」を出品、遠近感のある空間に梅樹を配す画面構成がとられ、以後の作品でも試みられた。94年6月日本美術院理事。97年世田谷区文化功労賞。同年12月日本芸術院会員に任命される。2000年1月「郷倉和子展 梅花の調べ」(日本橋高島屋ほか)開催。02年11月文化功労者。同年父千靱の故郷である富山県小杉町(現、射水市)の名誉町民となる。03年10月女子美術大学名誉博士。09年10月「感謝をこめて 郷倉和子日本画展」(日本橋三越ほか)開催。13年9月「白寿記念 郷倉和子展―心の調べ」(富山県立近代美術館)開催。00年以降も梅をテーマに作品を描き続け、「春日蜿々(紅梅)」(第85回院展、2000年)など画面を梅の枝で埋め尽くした作品、「水辺の春光」(第91回院展、2006年)などの雀や鴛鴦、鯉、うさぎなどと梅を組み合わせた作品、「献花(白梅)」(第62回春の院展、2007年)など仏像に梅を取り合わせた作品と展開。最晩年には空を意識した青い画面に、瓦屋根や鴛鴦、鯉などと梅を添景のように配した連作を発表、16年3月の第71回春の院展へは青い空にかかる虹と白梅を描いた「宙のかがやき」を出品した。歿後正四位に叙され、旭日重光章を授与された。

石本正

没年月日:2015/09/26

読み:いしもとしょう  伝統や規範にとらわれず、自らの心を通して作品を描き続けた日本画家、石本正は9月26日、不整脈による心停止のため死去した。享年95。 1920(大正9)年7月3日、島根県那賀郡岡見村(現、浜田市三隅町岡見)に生まれる。本名正(ただし)。幼少期には豊かな自然の中で小さな生き物と触れあい、素直な感性を培った。1927(昭和2)年岡見尋常小学校へ入学。2年生のときにおじから油絵の具を贈られ、担任の先生と使い方を試行錯誤する。33年島根県立浜田中学校(現、島根県立浜田高等学校)入学。この頃映画や音楽、文学に興味を持ち、独自に油絵も描いていたが、画家になろうとは考えていなかった。38年同校を卒業。40年京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科予科へ入学するが、伝統的な円山四條派の形式に則った授業に馴染めなかった石本はあまり授業に出席せず、関西美術院や華畝会の研究所などへ通い、石膏や人物のデッサンを学んだ。2回生への進級制作の折には、伊藤若冲の絵に触発され軍鶏を描いたという。44年同校を繰り上げ卒業し、学徒動員で気象第一連隊に配属、翌年復員。47年から大阪の高校で美術教師を務めながら作品を制作し、ボッティチェリの「春」をイメージした「三人の少女」で第3回日本美術展覧会(日展)に初入選を果たす。このときの作品は福田平八郎に激賞され、以後第5回展まで入選を重ねた。49年9月には京都市立美術専門学校助手となる。 50年京都市立美術大学の先輩画家・秋野不矩の勧めで発表の場を創造美術展へ移し、同年「五条坂」「踊子」が入選。翌51年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、その第15回展へ「影」「旅へのいざない」を出品して新作家賞受賞、同会の会友に推挙され、以後第37回展(73年)まで出品した。「踊子」「旅へのいざない」はいずれも女性群像で、石本が50年にパブロ・ピカソの「青の時代」に出てくる女性によく似たモデルと出会ったことから生まれた作品であるという。しかしこの時代の作品は当時、古くさいとして画壇に受け入れられず、石本は次第に自らの愛するロマネスク美術の壁画に見られる太い線を用いた作品を描くようになる。 53年第17回新制作展へ、いずれも太い線を用いて描いた「高原」と「女」を出品、新作家賞を受賞する。作品は高く評価され、55年頃までこうした作品を描き続けるが、迎合的な制作に納得のいかない思いを抱いていた石本は、56年以降従来の花鳥画とはまったく異なる、擦り付けるような強い筆触を感じさせる鳥の絵を次々に発表する。同年の第20回展へは、木下順二脚本の舞台「夕鶴」を見て描いた「双鶴」、さらに「野鳥」の2点を出品し、同会日本画部の会員に推挙され、翌年の第21回展へは自ら編み出したペインティングナイフを用いる技法で描いた「樹根と鳥」を出品。いっときその技法が若い画家たちの間で流行したという。またこの頃より、石本は舞妓や芸妓を描こうと思い、祇園に通い始めた。58年京都の土井画廊で初の個展を開催。59年12月、加山又造・横山操らと轟会(村越画廊)を発足させ、「横臥舞妓」「鶏」「丘の木」を出品、以降も第15回展まで出品した。60年10月村越画廊・彌生画廊主催「石本正個展」(文藝春秋画廊)開催、出品作の「桃花鳥」が翌年1月、文部省買上となる。また60年には京都市立美術大学講師となった。 64年はじめての渡欧を果たし、憧れつづけたヨーロッパの中世美術に触れ、規範にとらわれない自由な美的感覚に共感。同年の新制作展から舞妓を題材とした作品を毎回発表する。石本は田舎出の娘が煌びやかに着飾った、華やかな中に孤独な翳りを見せる舞妓を描きたいとし、顔や手の黒い舞妓を発表、きれいごとではないリアリティがあるなどと評された。67年の第31回展へは、横たわる三人の裸の舞妓を描いた「横臥舞妓」を出品。68年5月「石本正風景展」(彩壺堂)を開催。70年には舞妓の作品ばかりを並べた「石本正人物画展」(彩壺堂)を開催した。このときの「横臥舞妓」などが「日本画における裸婦表現に一エポックを画した」として、翌71年第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を受賞。同年3月舞妓をテーマとしたシリーズで第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を受賞するが、以後はすべての賞を辞退した。この間、65年に京都市立美術大学助教授(70年教授)となり、69年11月には学生等とともにイタリアへ研修旅行に出かける。以後この旅行は慣例となり、ヨーロッパや中国、インドなどを訪れた。 74年、新制作協会日本画部会員全員が同会を退会し、新たに創画会を結成。9月の第1回展へ石本は「鶏頭」を出品、以後毎回出品する。この頃から石本の女性像は舞妓ではない裸婦が中心となり、アンドレア・マンテーニャの「死せるキリスト」に触発されて描いた83年の「夢」(個展、東京セントラル絵画館)頃から背景に絨毯を描きこむようになった。86年3月京都市立芸術大学教授を退任し、同大学名誉教授となる。1989(平成元)年11月兼素洞にて花の作品ばかりを集めた「石本正「花」展」を開催。この頃から石本は物語性のある作品を描くようになり、映画の舞踏会シーンを思い浮かべて描いたという「牡丹」(89年、第16回創画展)や、花火をイメージしたという「菊」(94年)、また平泉・中尊寺の古面を思い出して描いたという「空蝉」(94年)など、対象を通して得たイメージを画面に表現するようになる。96年には初の本格的な展覧会となる「石本正展―聖なる視線のかなたに―」を開催、92年以降の近作37点と素描50点が展観された。2001年故郷である島根県那賀郡三隅町(現、島根県浜田市三隅町)に石正美術館が開館し、名誉館長となる。この開館を機に、石本はふるさとを意識した作品を描くようになり、創画展へも「幡竜湖のおとめ」(02年、第29回展)などを出品。03年10月には画一的な表現しか認めない当時の画壇に新風を吹かせたいという思いから、石本がはっきりと感動を覚えた作品のみを集めた「日本画の未来」展を開催。09年石正美術館の塔に長年の念願だった天井画を老若男女592人とともに制作する。また06年以降、創画展へは牡丹や薊などの花を描いた作品を中心に発表していたが、14年の第41回展へは薄物をまとい横たわるふたりの裸婦を描いた「裸婦姉妹」を出品、翌15年10月の第42回展へは舞妓を描いた「舞妓座像」が未完のまま出品された。

近藤弘明

没年月日:2015/09/13

読み:こんどうこうめい、 Kondo, Komei*  東洋の仏教的真理を幻想美によって現わし、視覚に語りかけてくる作品を目指し描き続けた日本画家、近藤弘明は9月13日、肺炎のため死去した。享年90。 1924(大正13)年9月14日、東京市下谷区龍泉寺町(現、台東区龍泉3丁目)に生まれる。本名弘明(ひろあき)。家は天台宗寺門派三井寺(園城寺)の末寺にあたる天台宗龍光山三高寺正宝院で、江戸七不動のひとつ、飛不動とも呼ばれた。父・近藤教圓は仏画をよくし、近藤は幼いころから絵の具溶きや絹張りの手伝いをしていたという。1930(昭和5)年、6歳のときに得度受戒し僧籍に入る。36年3月下谷区立龍泉寺小学校を卒業。中学時代には川端画学校のデッサン教室へ通い、一時洋画家となることも考えたという。41年3月文京区の駒込中学校卒業、大正大学師範科に入学する。その一方で当時東京美術学校教授であった常岡文亀に植物写生を習い、43年大学を中退、東京美術学校(現、東京藝術大学)日本画科へ入学した。44年陸軍軽井沢航空教育隊に志願し入隊、八ヶ岳山麓にてグライダー訓練を受ける。訓練中に見た小さな高山植物が強く印象に残り、後の作風に影響を及ぼしたという。その後罹病、陸軍学校を点々とし、終戦後は兄が大僧正となっていた滋賀県大津の園城寺法泉院に滞在、療養に努めるとともに、兄から天台哲学を学ぶ。この頃一時文学を志し、志賀直哉のもとへ通うが、「文学よりも絵に向いている」との助言から、47年画業に専念するため上京、翌年4月東京美術学校に復学した。49年3月東京美術学校を卒業し、以後も同校助教授だった山本丘人に教えを受けた。 50年第3回創造美術展へ「街裏」を出品、初入選を果たす。翌年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、同年の第15回展へ「木馬館」「六区高台」を出品、以後第37回展(1973年)まで毎回出品し、新作家賞を4度受賞、63年には会員となる。また同会の春季展や日本画部研究会へも積極的に出品し、受賞を重ねた。54年第18回新制作展へ「夜の華」など4点を出品。この頃から異形ともいえる幻想的な花や鳥をモチーフとした作品が制作されるようになる。翌年12月尾崎光子と結婚。59年1月、初となる個展(画廊ひろし)開催。60年1月第11回秀作美術展に「月の華」(1959年)が選抜出品され、第15、17回展(1964、66年)にも選抜される。同年7月第2回みづゑ賞選抜展に「解脱」「迦陵頻伽」を出品。この頃より仏教的な世界観に基づくものと考えられる作品が描かれ始める。62年5月第5回現代日本美術展へ「慈母」(のちに「天上の華」と改題)「飛翔」を招待出品、翌年5月第7回日本国際美術展へ「善と悪の園」を招待出品する。以後も前者には第8回展(1968年)まで、後者には第9回展(1967年)まで出品、65年の第8回日本国際美術展では、「寂光」がブリヂストン美術館賞となる。66年第5回福島繁太郎賞受賞。60年代半ば頃より、各モチーフが徐々に具象的となり、画面が遠近法に即した広がりを見せる風景として構成されるようになる。また「幻影」「寂園」(1968年、個展・彩壺堂)など、具体的な菩薩の姿を描いた作品が表れはじめる。71年「今日の日本画―第1回山種美術館賞展―」へ「清夜」を出品、優秀賞となる。74年新制作協会日本画部会員全員が同会を退会、新たに創画会を結成し、9月の第1回展へ「黄泉の華園」を出品、第13回展(1986年)まで出品した。75年6月「一つの神秘的空間を示す画業にたいして」第7回日本芸術大賞が贈られる。76年12月東京・杉並から神奈川県小田原市にアトリエを移転、寂静居と名付けた。82年3月第4回日本秀作美術展に「幻桜」が選抜される。同展へは1990(平成2)年の第12回展に「幻秋(秋の七草)」で再び選抜されて以降、第25回展(2003年)までに10回選抜された。83年10月第10回創画展へ「霊桜」を出品。この頃より描かれるモチーフが現実の草花となり、日本の伝統的な花鳥画を思わせるような構図の画面となっていく。85年第21回神奈川県美術展の審査員となり、以後第31回展(1995年)まで務め、第32回から第39回展(2003年)までは顧問を務めた。86年2月、師である山本丘人が没し、翌年の第13回春季創画展を最後に創画会を退会、以後無所属となる。91年4月紺綬褒章受章。93年9月、初期作品から最新作までを集めた回顧展「華と祈り 近藤弘明展」開催。2000年4月二度目となる紺綬褒章を受章。同年7月には「サンクチュエール日光 近藤弘明展―聖地の神秘を描く」が開催された。

村瀬雅夫

没年月日:2013/06/20

読み:むらせまさお  美術評論家、日本画家の村瀬雅夫は6月20日死去した。享年74。 1939(昭和14)年1月16日、東京市世田谷区(現、東京都世田谷区)経堂に生まれる。間もなく、千葉県に移住し、幼年期、少年期を千葉市で過ごす。千葉県立第一高等学校を卒業後、59年、東京大学文学部入学。在学中に横山操、石崎昭三に師事して日本画を学ぶ。61年、62年に青龍社展に出品したという。63年東京大学文学部東洋史学科卒業、読売新聞社に入社。福島支局勤務を経て、長く本社文化部で美術担当記者として務める。85年から読売新聞夕刊で連載「美の工房」(全50回)を担当。在職中から無所属の日本画家として、銀座・飯田画廊、ニューヨーク・日本クラブギャラリー、東京セントラル画廊などで生涯18回の個展を開催した。1989(平成元)年、50歳の年に、読売新聞社の文化次長で定年退職を迎える。明治大学講師、福井県立美術館館長、渋谷区立松濤美術館館長を歴任。著書に『野のアトリエ』(桃源家、1989年)、『美の工房―絵画制作現場からの報告』(日貿出版社、1988年)、『横山操』(芸術新聞社、1992年)、『「芭蕉翁月一夜十五句」のミステリー 『おくのほそ道』最終路の謎』(日貿出版社、2011年)、『庶民の画家南風』(南風記念館、1977年)、編著書に『川端龍子 現代日本の美術13』(集英社、1976年)、『川端龍子 現代日本の美術4』解説(集英社、1977年)、『現代日本画全集 第14巻 奥田元宋』(集英社、1983年)、『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 5 平山郁夫/前田青邨』(瀧悌三と責任編集、集英社、1986年)がある。

牛尾武

没年月日:2012/12/31

読み:うしおたけし  日本画家の牛尾武は12月31日、虚血性心不全のため死去した。享年57。 1955(昭和30)年3月3日、兵庫県神戸市に生まれる。本名武司。神戸芸術学林日本画科で学び76年卒業、神戸在住の日本画家昇外義に師事する。76年兵庫県展優秀賞、78年兵庫県日本画家連盟展県知事賞、79年兵庫県日本画家連盟展最優秀賞を受賞。79年に上京し、84~87年上野の森美術館絵画大賞展、85・88年東京セントラル美術館日本画大賞展に出品。85年の第3回上野の森美術館絵画大賞展では「澄秋」で特別優秀賞を受賞。1989(平成元)年には茨城県石岡市の華園寺本堂障壁画を制作。90年の銀座・資生堂ギャラリー個展では、北海道に取材した風景を中心に発表、繊細な線描と墨を主とする淡い色彩による豊かな画趣が一躍注目を浴びた。さらに91年第11回山種美術館賞展で「晨響(銀河と流星の滝)」により優秀賞を受賞。同年東京を離れ和歌山県田辺に居を移し、熊野をテーマに紀伊半島の自然美や風景を描く。95年には四曲一双屏風を中心とする大作による「牛尾武新作展 遥かなる原郷」を箱根・成川美術館で開催。99年には田辺市高山寺の薬師堂障壁画を制作。2004年から空海をテーマに高野山や四国、京都、奈良、さらには中国に至るゆかりの地に取材し、04~13年の4度にわたり成川美術館で作品を発表。10年には世界遺産熊野本宮館、11年には南方熊楠顕彰館で「残響の熊野」と題して田辺と熊野の風景作品を発表。同地域の芸術・文化振興に大きく貢献したことが評価され、没後の13年に田辺市文化賞が贈られた。

松本哲男

没年月日:2012/11/15

読み:まつもとてつお、 Matsumoto, Tetsuo*  日本画家の松本哲男は11月15日、石川県立美術館での第97回院展オープニングに出席するため金沢市に滞在中、呼吸不全のため死去した。享年69。 1943(昭和18)年7月29日、栃木県佐野市に生まれる。61年栃木県立佐野高等学校を卒業後、日本画家の塚原哲夫に絵を学ぶ。はじめは東京藝術大学建築科を志望、2年間浪人の後、宇都宮大学教育学部美術科に入学。68年同大学を卒業後、栃木県立那須高等学校に美術教師として赴任、那須の自然の魅力にうたれて本格的に日本画を描き始める。72年には栃木県立今市高等学校に異動し、79年まで高校教師を続けながら制作に励んだ。69年第54回院展に「冬山」が初入選、以後院展に出品を続ける。72年第57回院展に「叢林」を出品、院友に推挙され今野忠一に師事、74年第59回院展で「山」が日本美術院賞・大観賞を受賞、特待に推され郷倉千靱に師事。75年第1回栃木県文化奨励賞を受賞。76年第61回院展で日光の金精山をテーマに山岳風景を心象化した「巌」が二度目の日本美術院賞・大観賞を得る。一連の山岳シリーズでは、山肌や樹林を細密に描写して独自の画風を示した。77年には第4回山種美術館賞展で「山」が人気賞を獲得。その後79年「壮」、80年「天壇」、81年「トレド」、82年「山水譜」、83年「大同石仏」と連続して院展奨励賞を受賞し、83年日本美術院同人に推挙。「大同石仏」は84年に芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。87年「悠久の宙・中国を描く―松本哲男展」が西武アートフォーラムで開催。1989(平成元)年第74回院展で「エローラ(カイラ・サナータ寺院)」が文部大臣賞、93年第78回院展では「グランド・キャニオン」が内閣総理大臣賞を受賞。那須の自然に始まりスペイン、ネパール、中国、アメリカの大自然を題材に、繊細な筆線で画面を埋め尽くし、モティーフの感触を確かめながら自然に近づく制作態度を一貫して保つ。93年に東北芸術工科大学芸術学部助教授(95年より教授)となって後進の指導にあたり、2006年から11年まで学長を務めた(11年には同大学名誉学長に就任)。94年、栃木県文化功労者として表彰。同年にパリ・三越エトワールで「地と宙へ 松本哲男展」を開催。05年には、90年代半ばより取り組んでいた世界三大瀑布(ナイアガラ、ヴィクトリア・フォールズ、イグアス)のシリーズを完成させ、宇都宮美術館で記念展を開催。08年には同シリーズにより第16回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。この間06年には日本美術院理事となる。没後の13年から14年にかけて、佐野市立吉澤記念美術館にて師の一人であり終生親交を結んだ塚原哲夫との二人展が開催されている。

室井東志生

没年月日:2012/10/05

読み:むろいとしお、 Muroi, Toshio*  日本画家で日展理事の室井東志生は10月5日、胃がんのため死去した。享年77。 1935(昭和10)年2月25日、福島県下郷町に生まれる。本名利夫。中学時代より日本画に憧れ、高校卒業後に上京して東京都内の美術学校に通うも身体を壊し帰郷。中学教師を勤める傍ら県総合美術展覧会(県展)に出品、審査員の大山忠作と交流を深め再び上京、大山の紹介で58年橋本明治に師事する。60年第3回新日展に東志生の雅号で応募した「緑蔭」が初入選し、以後毎年入選。67年法隆寺金堂壁画再現模写で橋本明治班に加わり11号壁の普賢菩薩像模写に従事。69年には橋本明治の助手として皇居新宮殿正殿松の間杉戸絵「桜」制作に携わる。69年改組第1回日展で「家族」が特選・白寿賞、78年10回展で「女人」が特選を受賞。83年日展会員となる。85年には院展の高橋常雄、大矢紀、日展の中路融人とともに異歩騎会を結成。1995(平成7)年「夢結」で第27回日展会員賞受賞。99年日展評議員となる。2004年第36回改組日展で舞妓と孔雀を描いた「青曄」が内閣総理大臣賞を受賞。12年日展理事となる。気品のある中に妖しさをはらんだ作風を追究、舞妓や、五代目坂東玉三郎、五代目柳家小さんら著名人をモデルとした作品を発表し人気を博した。

福王寺法林

没年月日:2012/02/21

読み:ふくおうじほうりん、 Fukuoji, Horin*  日本画家で文化勲章受章者の福王寺法林は2月21日午後1時27分、心不全のため東京都内の病院で死去した。享年91。 1920(大正9)年11月10日、山形県米沢市に生まれる。本名雄一。生家は上杉藩の槍術師範の家系。6歳の時、父親との狩猟の折に不慮の事故で左目を失明。8歳で狩野派の画家上村廣成に絵の手ほどきを受ける。1936(昭和11)年画家を志して上京。41年召集を受け中国戦線に配属、45年香港で捕虜となって46年復員。49年第34回日本美術院展に「山村風景」が初入選。この頃、同郷の美術評論家今泉篤男と出会い、以後その指導を受けることとなる。51年日本美術院同人の田中青坪に師事。55年の第40回院展「朝」が奨励賞・白寿賞となる。以後院展で56年第41回「かりん」、57年第42回「朴の木」が日本美術院次賞・大観賞、58年第43回「麦」が佳作・白寿賞、59年第44回「岩の石仏」が再び奨励賞・白寿賞、60年第45回「北の海」が日本美術院賞・大観賞を受賞、同年同人となる。翌年、奥村土牛が法林に預けた門下生と、法林門下生により組織された画塾濤林会を結成。65年第50回院展出品作「島灯」で第1回山種美術財団賞(文部省買上げ)を、71年第56回「山腹の石仏」で内閣総理大臣賞を受賞。74年ネパール、ヒマラヤを旅行し、同年よりライフワークとなるヒマラヤシリーズに着手、ヘリコプターや飛行機による取材を重ね、鳥瞰の視点によるスペクタクルな風景作品を発表し続けた。77年、前年の第61回院展「ヒマラヤ連峰」により芸術選奨文部大臣賞を受賞し、84年には前年の第68回院展「ヒマラヤの花」により日本芸術院賞を受賞。1991(平成3)年日本美術院理事に選任。同年大回顧展が日本橋高島屋他で開催された。94年日本芸術院会員となる。98年文化功労者となり、2004年文化勲章受章。この間01年に米沢市上杉博物館、02年に茨城県近代美術館他にて、次男で同じく日本美術院同人の一彦との親子展が開催されている。

小泉淳作

没年月日:2012/01/09

読み:こいずみじゅんさく、 Koizumi, Junsaku*  日本画家の小泉淳作は1月9日午前10時8分、肺炎のため横浜市内の病院で死去した。享年87。 1924(大正13)年10月26日、政治家で美術蒐集家としても知られる小泉策太郎(号・三申)の七男として神奈川県鎌倉市に生まれる。5歳の時より東京で育ち、慶應義塾幼稚舎、普通部、文学部予科(仏文)に通う。予科では小説家を志望するも、同級で後に小説家となる安岡章太郎の作品に衝撃を受け、画家を目指すようになり、東京美術学校日本画科の助教授だった常岡文亀のもとに通って日本画を習い始める。1943(昭和18)年慶應を中退、東京美術学校日本画科に入学する。44年応召するが結核を患い、療養生活を送る。48年に東京美術学校に復学、山本丘人のクラスで学び、52年に卒業後も生涯の絵の師と慕うことになる。卒業後はデザインの仕事の傍ら画業に精進し、54年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選、以後新制作展に出品する。50年代から70年代半ばにかけて、数多くの「顔」と題した人物像や「鎌倉風景」などの風景画を新制作協会展や個展に発表。この間美術評論家の田近憲三より中国の唐宋絵画の複製を見せられ感銘を受け、画業の転機を迎える。73年第2回山種美術館賞展に「わかれの日」を出品、77年の同第4回展では「奥伊豆風景」が内にこもる力強さを評価され、優秀賞を受賞。この間74年に新制作協会日本画部が同会を離脱し創画会を結成するが、その1回展に出品したのを最後に同会を辞し、個展を中心に作品を発表するようになり、画壇と距離を置いた姿勢から孤高の画家とも評された。78年「山を切る道」が文化庁買上げとなる。84年銀座のギャラリー上田で開かれた個展において大作「秩父の山」をはじめとする水墨山水を発表。以後も「霊峰石鎚」「積丹の岩山」「早春の積丹半島」など中国文人画研究の成果による水墨山水や、院体画の研究をうかがわせる花卉図を発表。88年に『アトリエからの眺め』(築地書館)、『小泉淳作画集』(求龍堂)を刊行。1996(平成7)年より鎌倉・建長寺開創750年記念事業の一環として法堂天井画の雲龍図を手がけ、2000年に完成。引き続き京都・建仁寺慶讃800年記念行事に奉納する法堂天井画の双龍図を制作。01年に東京ステーションギャラリーで回顧展「ひとり歩き その軌跡―小泉淳作展」が開催。02年には北海道河西郡中札内美術村内に小泉淳作美術館が開館。同年『小泉淳作作品集』(講談社)を刊行。04年第14回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。06年には奈良・東大寺の聖武天皇1250年御遠忌記念事業の一環として制作を依頼された«聖武天皇・光明皇后御影»対幅が完成、大仏殿で奉納式が営まれる。引き続き10年には同寺本坊の襖絵四十面を完成、その途中で椎間板ヘルニアを患い、胃がんを切除しながらの制作だった。11年8月には『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、没後の12年に『我れの名はシイラカンス 三億年を生きるものなり』(日本経済新聞出版社)として出版されている。

小谷津雅美

没年月日:2011/10/11

読み:こやつまさみ  日本画家で日本美術院同人の小谷津雅美は10月11日、肝細胞がんのため死去した。享年74。 1933(昭和8)年2月3日、東京都新宿区下落合に日本美術院の日本画家小谷津任牛の長男として生まれる。高校時代に母が脳溢血で倒れ、その看病のため高校を中退。在宅の間、父の手伝いをしながら絵を描くようになる。53年再興第38回院展に「夢の調べ」が初入選。55年高校の先輩である鎌倉秀雄の紹介で安田靫彦に師事。同年日本美術院院友に推挙。58年黎会展(高島屋)へ参加。60年第45回院展で「花と女」が奨励賞を得て以来、62年第47回展「粧い」が日本美術院次賞、63年第48回展「燦歌」、64年第49回展「樹精」、68年第53回展「船を待つ日」、69年第54回展「浜の話」、70年第55回展「燦」、71年第56回展「待つ」が白寿賞・G賞、83年第68回展「静韻」、85年第70回展「白韻」、86年第71回展「浄韻」、87年第72回展「文殊」、1989(平成元)年第74回展「梵天(東寺)」、91年第76回展「大威徳明王(東寺)」が奨励賞、98年第83回展「終宴」で天心記念茨城賞を受賞し、日本美術院同人となる。2003年第88回展「松花遊悠」で文部科学大臣賞を受賞。06年第91回院展出品の「桜韻」で内閣総理大臣賞受賞。人物から仏画のモティーフを経て、1990年代からは四季折々にうつろう日本の自然の美しさを描き出した。

工藤甲人

没年月日:2011/07/29

読み:くどうこうじん、 Kudo, Kojin*  日本画家で東京藝術大学名誉教授の工藤甲人は7月29日、老衰のため神奈川県平塚市内で死去した。享年95。 1915(大正4)年7月30日、青森県中津軽郡百田村(現、弘前市)の農家に生まれる。本名儀助。少年の頃は詩人に憧れていたが、16歳の頃から画家への志が芽生え、1934(昭和9)年に上京、翌年より川端画学校日本画科で岡村葵園の指導を受ける。同校では友人の西村勇より西洋の絵画思想や理論を叩き込まれ、とくにシュールレアリズムに興味を持ち始める。39年第1回日本画院展に「樹」、第2回新美術人協会展に「樹夜」を工藤八甲の号で出品、後者は推奨作品となる。新美術人協会展への出品をきっかけに福田豊四郎の研究会に出席し、指導を受ける。40年、42年と応召、中国大陸の戦線へ渡り、45年の敗戦直前に復員。しばらく郷里で農業に従事した後、福田豊四郎の呼びかけに応じて制作活動を再開する。50年第3回創造美術展に「蓮」が入選し、翌51年創造美術と新制作派協会の合流による新制作協会日本画部設立後は同会に出品。51年第15回新制作展にヒエロニムス・ボッシュの影響が色濃い「愉しき仲間」2点、56年同第20回にも「冬の樹木」「樹木のうた」を出品し、ともに新作家賞を受賞した。62年に弘前市から神奈川県平塚市に転居。63年第7回日本国際美術展「枯葉」が神奈川県立近代美術館賞、翌64年第6回現代日本美術展「地の手と目」が優秀賞を受賞。さらに64年新制作春季展「秋風の譜」「枯葉の夢」により春季展賞を受賞、同年新制作協会会員となる。樹木や動物、蝶などをモティーフに、郷愁や宗教感を感じさせる鮮麗で夢幻的な心象世界を描き出し、現代日本画に新生面を切り拓く。71年東京藝術大学助教授、78年教授となり、73年同大学イタリア初期ルネサンス壁画調査団に参加。83年退官後、名誉教授となった。また74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、会員となる。82年第1回美術文化振興協会賞受賞。87年東京・有楽町アート・フォーラムにて「いのちあるものの交響詩―工藤甲人展」を開催、同展での透徹した自然観照と豊かな詩的幻想を結合させた独自の表現が評価され、翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞。88年より沖縄県立芸術大学客員教授。1991(平成3)年平塚市美術館他で「画業50年 工藤甲人展―夢幻の彼方から」を開催、同展に対し翌年毎日芸術賞を受賞。99年に増上寺天井画「華中安居」を制作。2007年には郷里の青森県立美術館で「工藤甲人展―夢と覚醒のはざまに」が開催された。

曲子光男

没年月日:2011/07/19

読み:まげしみつお、 Mageshi, Mitsuo*  日本画家で日展参与の曲子光男は7月19日、老衰のため死去した。享年96。 1915(大正4)年3月12日、北海道磯谷郡蘭越町港に生まれる。旧姓赤井。5歳で父を失い、9歳で石川県河北郡七塚村秋浜にある祖父の実家に預けられた後、10歳で遠縁にあたる京都の友禅業曲子光峰の養子となる。1927(昭和2)年京都市立美術工芸学校に入学。次いで京都市立絵画専門学校で西山翠嶂、川村曼舟らの指導を受け、35年より堂本印象に師事、その画塾東丘社に入る。36年京都市立絵画専門学校本科を卒業し、同年の文展鑑査展で「濱木綿の丘」が初入選、選奨となる。38年第1回東丘社展に「鳥の群」を出品し東丘賞を受賞。同年応召し、41年まで華北に派遣。43年再び出征、バンコクに赴く。46年復員後、47年第3回日展に「秋陽」が入選、続いて48年第4回「入汐」、49年第5回「彩秋」と出品し、51年第7回日展で「製鋼工場」が特選・朝倉賞を受賞した。52年同第8回に「港」を無鑑査出品。以後55年初の日展審査員をつとめ、58年会員、70年評議員、1995(平成7)年参与となる。いっぽう84年より東丘社幹事長をつとめ、92年顧問となる。84年京都府文化賞功労賞を受賞。生を受けた北海道の雄大な自然や、幼年の一時を過ごした北陸の風土を思わせる重厚な風景を描き続けた。93年石川県立美術館において特別陳列「日本画家 曲子光男の世界」が開催されている。長男は日本画家で日展会員の曲子明良。

三輪良平

没年月日:2011/04/20

読み:みわりょうへい、 Miwa, Ryohei*  日本画家の三輪良平は4月20日、肺炎のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年10月29日、京都市東山区の表具師の次男として生まれる。51年京都市立美術専門学校を卒業後、同校専攻科に進み、53年修了。在学中の51年より山口華楊に師事し、華楊が主宰する晨鳥社で研鑽を積む。52年第8回日展に「憩ひ」が初入選し、56年第12回日展で「裸像」が特選・白寿賞を受賞。この頃、中路融人ら晨鳥社の若手と研究会「あすなろ」を結成。60年第3回新日展では、現代的感性により舞妓三人の坐像を描いた「舞妓」が再び特選・白寿賞となり、62年第5回展では人物の形と色を単純化した「裸婦」が菊華賞を受賞。翌63年は審査員をつとめ、64年日展会員となる。若い頃より肺疾患や肝臓病等と闘いながら、裸婦や舞妓、大原女等を題材として清麗な女性美を描いた。84年日展評議員となる。1993(平成5)年京都府文化賞功労賞受賞。没後の2011年に遺族より東近江市近江商人博物館へ作品が寄贈、翌年同館で回顧展が開催された。

石田武

没年月日:2010/12/24

読み:いしだたけし  日本画家の石田武は12月24日、腎不全のため横浜市の病院で死去した。享年88。1922(大正11)年4月27日、京都市の西陣織職人の家に生まれる。本名武雄。1935(昭和10)年京都市立美術工芸学校図案科に入学、図案を山鹿清華、日本画を森守明、洋画を太田喜二郎に学ぶ。40年に同校を卒業し、大阪丸高商事宣伝部に入社。43年より45年まで応召、復員ののち、46年より翌年にかけて京都新制作研究所に学び、主に桑田道夫の指導を受ける。50年頃より児童図書のイラストを描き始める。59年東京に居を写し、この頃より動物図鑑などの挿絵の仕事に専念するようになる。67年小説家の戸川幸夫とともにアフリカ、ヨーロッパに旅行。その生態を研究し、翌68年『世界の動物』『世界の鳥』をフランスなど数か国で出版した。71年日本画に転向し、翌年三越の新鋭選抜展に「冬の風景」を出品、73年第2回山種美術館賞展で「林」が大賞を受賞する。74年第6回日展に「雪晨」を出品。80年第2回日本秀作美術展に「虚空」が選ばれ出品。79年、85年に東京セントラル絵画館で、1992(平成4)年に西武アート・フォーラムで個展を開催。個展を中心に、明快かつ鋭い筆致と安定した描写力による写実的な作品を発表し続けた。

濱田台兒

没年月日:2010/09/01

読み:はまだたいじ  日本画家で日本芸術院会員の濱田台兒は、9月1日に死去した。享年93。1916(大正5)年11月5日、鳥取県気高郡浜村町に生まれる。本名健一。1935(昭和10)年19歳の時に伊東深水の内弟子となり、翌年日本画会展に「厨」が初入選。37年応召するが、翌年中国の台児荘で戦傷を受けて内地に送還。39年陸軍病院入院中に二科展に水彩画「慰問の少女」を出品して入選。41年第4回新文展に「黄風」が初入選する。翌42年第5回新文展で軍隊での体験を生かした「黄流」が特選となり、戦後46年第2回日展「夢殿」も特選を受賞した。以後も日展を中心に活動し、47年招待、50年より依嘱出品となり、50年第6回展に「斑鳩の門」、51年第7回展に「澗泉」等を出品する。いっぽう50年伊東深水、児玉希望らにより結成された日月社に参加し、その第1回展「父の肖像」が奨励賞を受賞。62年日展会員となり、翌年三カ月間ヨーロッパ11カ国を取材旅行。伊東深水門では塾頭を務めたが、日展評議員となった72年に深水が死去、翌年より橋本明治に師事する。76年第8回改組日展で沖縄女性を描いた「花容」が内閣総理大臣賞となる。79年ソ連文化相の招きにより日ソ美術家友好使節団の一員としてソビエト連邦各地を旅し、その折の取材に基づき第11回改組日展に「女辯護士」を出品、翌年同作により日本芸術院賞を受賞。優れた色彩感覚とモダンな形態把握による人物画で個性を発揮した。72年日展評議員、81年より理事。83年に松屋銀座、1990(平成8)年に郷里の鳥取県立博物館で回顧展を開催。その間89年に日本芸術院会員に就任。94年に日展事務局長、95年から97年まで理事長を務めた。

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