本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 3,013 件)





西村房蔵

没年月日:1994/02/07

 日展会員で、日本彫刻会運営委員の彫刻家西村房蔵は、2月7日午後2時32分、急性肺炎のため東京都墨田区の健生堂病院で死去した。享年74。西村は、大正8 (1919)年7月20日、千葉県に生まれ、仏像彫刻を本業としながら、昭和36年の第4回日展に「立」が初入選。同43年の第11回展に出品の「霞光」が特選を受けた。同45年の第2回改組日展でも、「葦角」が再び特選を受ける。同49年の第6回展では、審査員をつとめ、同59年に同展会員となる。堅実な手法による自然なポーズをとる女性像を毎回日展に発表した。

高須賀桂

没年月日:1994/01/02

読み:タカスカ, カツラ*、 Takasuka, Katsura*  二科会評議員の彫刻家高須賀桂は、1月2日急性肺炎のため東京都品川区の北品川総合病院で死去した。享年80。白色セメント造形美術会にも所属した高須賀は、大正2(1913)年11月27日愛媛県温泉郡拝志村字上村に生まれ、愛媛県立松山中学校を経て、昭和13年東京美術学校工芸科図案部を卒業した。同年森永練乳株式会社宣伝部に入社、制作活動も併行し、同16年の第28回二科展に「女の首」で初入選、以後同展への出品を続けた。同18年応召し同21年に復員、翌年鉱工品貿易公団美術工芸室に勤務、その後、貿易庁、特許庁に勤めた。二科展へは同25年から復帰し、同27年の第37回展に「バラ色の髪」で特待賞を受け、同29年の第39回展に「試作」を発表し二科会会友、同34年の第44回展では「コンポジション」を出品し、二科会会員に推挙された。同58年の第68回展に「コンポジション(競)」で会員努力賞を受賞、翌年二科会評議員となった。この間、同30-45年の問、白色セメント造形美術会野外彫刻展に毎年出品を続けた他、同34年仏国サロン・ド・コンパレーゾンに出品、同47、48年建築と共にある彫刻展に参加、同51年グループ13(東美校昭和13年卒)結成に加わるなど、積極的に制作活動を展開した。同50年特許庁審判長を退官する。野外彫刻作品としては、品川区立図書館など数多く設置されている。

野口鎮

没年月日:1993/11/17

読み:ノグチ, シズ*、 Noguchi, Shizu* 行 動美術協会会員の彫刻家野口鎮は、11月17日午後2時2分、心不全のため東京都練馬区の高松病院で死去した。享年69。大正13(1924)年4月8日、東京に生まれる。本名鎮夫。昭和12(1937)年東京府湯島尋常小学校、同17年豊山中学校を卒業し、同年東京美術学校彫刻科に入学。同19年学業なかばにして宇都宮の陸軍飛行学校に入る。同20年、東京美術学校に復学、翌21年より加藤顕清に彫刻を学ぶ。同22年第3回日展に「若き人の像」が初入選するが、以後日展へは出品していない。同23年東京美術学校を卒業。父親が人形作家であったことから、翌24年人形劇団プークの美術部員となった。同29年より東京都港区立北芝中学校、同愛宕中学校、都立高等工芸学校の講師を歴任する。同37年UNIMA(国際人形劇連盟)日本代表としてポーランド、ワルシャワ会議に出席。同39年第19回行動展に「En,tropie」で初入選。以後同展に出品を続け、同41年同会会友、同46年第26回同展に「ほぞ」を出品して奨励賞を受賞。同48年同会会員となった。この間、同44年チェコ・プラハで行なわれたUNIMA第10回大会にも出席したほか、同年カンボジア・アンコールをも訪れている。初めは人体像を中心に具象彫刻を制作したが、戦後抽象彫刻へ移行。支柱と直交する角柱による「音叉」のシリーズの簡潔な造形から、昭和60年前後には、水道の蛇口などからしたたる水のしずくを共通のモティーフとする「水は天から貰い水」シリーズへと展開した。このほか、東京都田無福祉法人緑寿園ロビー、神戸市垂水区歌敷山通称院記念碑、泉佐野市犬鳴山七宝滝寺記念碑など公共の場のための制作も行なっている。美術教育にも寄与し、昭和51年から平成5年まで女子美術大学の講師をつとめた。

小森邦夫

没年月日:1993/10/22

 日本芸術院会員で日展事務局長をつとめた彫刻家小森邦夫は10月22日午後6時33分、心不全のため水戸市の水戸赤十字病院で死去した。享年76。大正6(1917)年6月6日、東京都浅草今戸に生まれる。赤坂高等小学校を経て日大皇道学院に学ぶ。昭和10年、構造社彫塑研究所に入り斉藤素厳に師事。構造展に出品し、同15年紀元2600年奉祝展に「めぐみ」で入選して官展初入選をはたす。翌16年第4回新文展に「断」で入選するが、後従軍。同21年春、第1回日展に「久遠」で入選し、以後同展に出品を続ける。同28年第9回日展に「ながれ」を出品して特選・朝倉賞受賞、同年第1回日本彫塑会展に「婦(A)」を出品して、以後同会にも出品を続ける。同30年第11回日展に「裸婦立像」を出品して特選、翌31年第12回展では「若い女」で2年連続特選となり、翌32年には日展依嘱となった。同年中国平和委員会からの招待で茨城県文化人代表として約40日間中国視察旅行、中国の古代遺跡等を訪れた。同33年よりたびたび日展審査員をつとめ、同34年日展会員、同39年日展評議員となる。同55年第12回日展に「腰かけた婦」を出品して文部大臣賞受賞。同60年、戦後間もない同23年から運営委員、審査員を続けていた茨城県展に「青春譜」を出品し、この作品により昭和59年度日本芸術院賞を受賞した。同60年日展理事、日本彫刻会理事となる。平成元(1989)年日本芸術院会員に選ばれた。裸婦像によって抽象的概念や情趣を表現するのを得意とし、流麗なポーズ、穏やかな作風を好んだ。代表作に茨城県立運動公園に立つ「緑に舞う」、勝田市駅前「であい」、土浦市にある「湖畔に佇つ」などがある。 新文展・日展出品歴昭和15年紀元2600年奉祝展「めぐみ」、同16年第4回新文展「断」、同21年春第1回日展「久遠」、同年秋第2回「想」、同22年第3回「女性」、同23年第4回「影」、同24年第5回「追憶」、同25年第6回「蒼茫」、同26年第7回「荒海」、同27年第8回「妻の首」、同28年第9回「ながれ」(特選・朝倉賞)、同29年第10回「残陽」、同30年第11回「裸婦立像」(特選)、同31年第12回「若い女」(特選)、同32年第13回「女の顔」、同33年改組第1回「野性」、同34年第2回「ポーズする女」、同35年第3回「手を組む」、同36年第4回「碧」、同37年第5回「抗」、同38年第6回「あすなろ」、同39年第7回「膝をつく」、同40年第8回「ヴェール」、同41年第9回「腰かけたポーズ」、同42年第10回「雲」、同43年第11回「丘に立つ」、同44年社団法人日展第1回「浴後」、同45年第2回「砂丘」、同46年第3回「樹下佳人」、同47年第4回「佇立女」、同48年第5回「遊歩」、同49年第6回「腰かけた女」、同50年第7回「ポーズするエイ」、同51年第8回「浴」、同52年第9回「渚」、同53年第10回「海辺」、同54年第11回「閑寂」、同55年第12回「腰かけた婦」、同56年第13回「晨(あした)」、同57年第14回「想」、同58年第15回「仰ぐ」、同59回第16回「粧い」、同60年第17回「湖畔に佇つ」、同61年第18回「南国」、同62年第19回「瀬音」、同63年第20回「風」、平成元年第21回「舞う」、同2年第22回「碧」、同3年第23回「佇む婦」、同4年第24回「磯」、同5年第25回「砂」

長沼孝三

没年月日:1993/10/22

読み:ナガヌマ, コウゾウ*、 Naganuma, Kozo*  日展参与の彫刻家長沼孝三は10月22日午前10時35分、心筋こうそくのため東京都品川区の昭和大学病院で死去した。享年85。明治41(1908)年1月18日、山形県西置賜郡に生まれる。長井小学校を経て大正14(1925)年県立長井中学校を卒業。同15年東京美術学校彫刻科に入学し、昭和6(1913)年、同校を卒業する。同年第12回帝展に「インテリゲンチャ」で初入選。以後官展に出品を続け、同12年第1回新文展には「踊る」を出品した。同14年中国北部を約二ケ月旅する。同15年紀元2600年奉祝展に「山の鎮」を出品。同16年第2回聖戦美術展に「英霊」を出品し陸軍大臣賞を受賞した。同17年7月高村光太郎を顧問とする造営彫塑人会の創立に参加し、同会会員となる。同年第5回新文展に「若者は征く」を出品して特選となる。同18年満州美術学校開校とともに同校教授となった。同20年陸軍美術展に聖戦記念碑「ラバウル」を出品。同21年春第1回日展に「葡萄」を出品。同年秋の第2回日展には「愛と平和」を出品し、以後同展に出品を続ける一方、同22年7月に沢田政廣らが設立した日本彫刻家連盟にも参加し、同23年の第1回同展に「女」を出品した。同24年7月戦後初めての野外彫刻「愛の女神」を東京・上野駅前広場に設置した。同28年日本彫刻家連盟が解散し、日本彫塑家倶楽部が設立されると同連盟に参加して出品を続けた。同35年日展評議員、同59年日展参与となる。後進の指導にも尽力し、同38年から同53年停年退官するまで東京家政大学教授をつとめたほか、同41年に設立された東京デザインアカデミー(現東京デザイン専門学校)の顧問を、設立時からつとめた。関野聖雲に師事し寓意的女性像を得意としたが、同49年からその後ライフワークのように連続してつくられることとなる念仏踊を主題とする作品の制作を始める。一方で、社会批判を含む作品を日展に出品し続けた。平成4年郷里長井市の生家、丸大屋敷内に長沼孝三彫塑館(山形筈長井市十日町1-11-7)が開設された。 帝展・新文展・日展出品歴第12回帝展(昭和6年)「インテリゲンチャ」、第13回「子供の家」、第14回不出品、第15回「坊やは春」、第1回新文展(同12年)「踊る」、第2、3回不出品、紀元2600年奉祝展(同15年)「山の鎮」、第4回新文展「熟慮」、第5回(同17年)「若者は征く」(特選)、第6回不出品、第1回日展(同21年春)不出品、第2回(同年秋)「愛と平和」、第3回「スタイル」、第4回「おとめ」、第5回(同24年)「風」、第6回「女」、第7回「女」、第8回「女」、第9回「ひととき」、第10回(同29年)「山羊と女」、第11回「手」、第12回「女」、第13回「女」、改組第1回日展(同33年)「女二人」、第2回「若い二人」、第3回「一姫誕生」、第4回「母の像」、第5回(同38年)「風」、第6回「辰年のうた」、第7回「七夕」、第8回「仮面」、第9回「縄文」、第10回(同43年)「女」、第1回社団法人日展(同44年)「若衆」、第2回「念」、第3回「うそふき」、第4回「傀儡」、第5回(同48年)「1973怪」、第6回「怪いよいよ怪」、第7回「ありうべからざる怪」、第8回「話があわない」、第9回「お先真っ暗」、第10回(同53年)「歌う」、第11回「居直り時代」、同12回「まず損得」、第13回「キナ臭い」、第14回「凶器を持たすな」、第15回(同58年)「心中はごめん」、第16回「桜下念仏」、第17回「雪国」、第18回「念仏踊 枕打」、第19回「舞う」、第20回(同63年)長井橋「今」、第21回(平成元年)「けん玉」、第22回「現代うかれ雛」、第23回「さかさに見るとおもしろい」、第24回「渋茶も結構」、第25回(同5年)「黒衣讃歌」(遺作)

山本雅彦

没年月日:1993/09/20

 元日本美術家連盟理事長で日展参与の彫刻家山本雅彦は、9月20日腎不全のため東京都中野区の横畠外科病院で死去した。享年92。山本は明治34(1901)年4月29日東京・芝に木彫家山本瑞雲の子として生まれた。はやくから父瑞雲のもとで木彫に親しんだが、やがて塑造の道へ進み、大正15年東京美術学校彫刻科塑像部を卒業した。在学中の大正13年、第5回帝展に「永却の詩」で初入選し、以後帝展への出品を続け、新文展では無鑑査出品となった。戦前は官展の他、サンフランシスコ万国博などにも出品する。昭和16年応召し戦後旧ソ連エラプカに抑留され、3年間在官労功などに携わる側ら小仏像の制作を続け、これらの小仏像は「エカプカ仏」と呼ばれ供養する会ができた。同23年9月帰還し、同25年第5回日展に「寂寥」を出品し特選、ついで第6回、7回日展にも「静華」「芽ざす」でそれぞれ特選、朝倉賞を受賞した。同33年第1回新日展では「北のひと」で文部大臣賞を受賞。人物をモチーフに独自の造形世界を拓いた。日本現代美術展、日本国際美術展、国際具象展にも出品し、日展では評議員、参与をつとめた。また、日本彫塑家クラブ理事、日本美術家連盟理事長などを歴任した。

桑原巨守

没年月日:1993/08/26

読み:クワハラ, ヒロモリ*、 Kuwahara, Hiromori*  女子美術大学名誉教授、二紀会委員の彫刻家桑原巨守は8月26日午後7時28分、呼吸不全のため東京都大田区の自宅で死去した。享年66。昭和2(1927)年7月15日、群馬県沼田市に生まれる。同24年東京美術学校彫刻科を卒業。関野聖雲に師事した。同38年第17回二紀展に「裸婦B」「裸婦A」で初入選し同年同人に推される。同41年第20回二紀展に「しゃがむ」を出品して同人賞受賞、同50年第29回展では「風と花(その2)」「砂山」で菊華賞を受賞した。同57年第2回高村光太郎大賞展に招待出品し、美ケ原高原美術館賞受賞。この間の同48年彫刻の森美術館に「Fur Coat」が設置され、その後も同館に「風と花」等が設置された。公共の場のための制作としては、広島市中央公園の「風と花」、北海道中標津町公民館の「讃太陽・中」、日比谷シティの「風と花」、「凱風新頌」、「風の戯れ」、神奈川県民共済ビルの「貝を聴く」、名古屋市名城公園内「水の広場」の「風」、三洋証券白金研修センターの「花のロンド」、静岡県清水市の「大空に」、群馬県渋川市の「讃太陽」、名古屋市通町公園の「讃太陽」、群馬県沼田市の「新頌麗陽」などがある。裸婦像を得意とし、そのポーズによって抽象的概念を暗示しようとした。著書に『彫刻の四季』(絵本)、『彫刻の出来上るまで』(ポプラ社)などがある。

中村輝

没年月日:1993/08/07

読み:ナカムラ, テルタロウ*、 Nakamura, Terutaro*  一陽会常任委員の彫刻家中村輝は8月7日午後8時30分、脳出血のため横浜市中区の警友総合病院で死去した。享年80。大正2(1913)年1月26日、岐阜県大垣市に生まれる。本名二郎。昭和6(1931)年、東京美術学校図案科を中退。同10年帝国美術学校彫刻科を卒業する。在学中の同8年第20回二科展に「習作」で初入選。この頃は「暉」と号した。以後同展に出品を続け、戦後も同21年第31回二科展に「牛」を出品するが、同29年に同展への出品を停止し、同30年、一陽会の結成に参加して、同会会友となった。同31年第2回一陽展に「人馬」を出品して同会会員となる。同49年同会が委員制を採択するに際し、同会委員となった。同39年日本橋高島屋、同42年新宿ステーションビル、同48年西武百貨店渋谷店、同52年日動画廊で個展を開催。同63年大垣市制70周年記念として「中村輝彫刻展」を開催している。野外彫刻も多く、「金森吉次郎翁」(大垣公園、昭和25年)、「ダイアナ女神像」(京成電鉄谷津公園、同33年)、「鶏」(岐阜駅前、同34年)、「一粒の種(女神像)」(大垣市水上公園、同58年)等がある。初期には人体像を多く制作したが、のち馬を好んでモティーフとするようになり、人物と馬を組みあわせた像を得意とするようになった。一陽展出品歴1回(昭和30年)不詳、2回「人馬」、3回「A女」「ポーズ」「マダム」「裸」「少女」、4回「男神」、5回「火の記録」、6回「女体」、「女体エスキス」「馬」「青銅の鳩」、7回「女体」「騎乗」「深尾氏の首」、8回「歓喜」「風雪」「鳥郡」「鵜」、9回「方舟」、10回(同39年)「馬」「少女」、11回「馬」、12回「馬」「裸」「手」、13回「モンゴル人馬」、14回「群鳥」「鳥」、15回「馬」、16回「オロチヨンの火の鳥」、17回「馬」「馬」、18回「無題」「馬」、19回「古代の昼と夜の記憶」「馬」、20回(同49年)「女体」「駿馬」「一孤庵哄笑」、21回「原始(浮彫)」「武帝の汗血馬」、22回「女賊アマゾンの休日1」「女賊アマゾンの休日2」、「笛」、23回「躍上する馬」「駿馬」、24回「嘶く駿馬」、25回「酒神バッカス」、26回「舞上る(広場の為の試作)」、27回不出品、28回「酒杯を掲ぐ」、29回「女賊アマゾニ」、「一粒のたね」、30回(同59年)「青銅小品」「記念碑の為の未完原型」、31回「一粒の種」、32回「象徴の馬」、33回「浮彫無題」、34回「浜辺の女」、35回(平成元年)「駿馬」「馬」、36回「少年と馬」、37回「婦人と馬」、38回「由美坐像」、39回「駿馬」「鵜」

板橋一歩

没年月日:1993/04/05

 二紀会委員の彫刻家板橋一歩は4月5日午後6時46分、肺がんのため富山県東礪波郡井波町の病院で死去した。享年82。明治44(1911)年3月12日、鹿児島県姶良郡に生まれる。本名政義。昭和6(1931)年鹿児島県立薩南工業学校建築科を卒業。同8年東京高等工芸学校図案選科を修了。同9年富山県井波町立井波尋常高等小学校の教員となり、同16年富山県立高岡工芸学校、同17年同県立高岡商業学校教員となった。同36年富山県立高岡工芸学校へ移り同45年停年退職するまで同校で教鞭をとる一方で制作を続けた。同26年第7回日展に「靴磨きの少年」で初入選。以後同展に出品を続ける。同28年JCA世界彫刻コンクールロンドン展に「無名政治犯像」を出品して入賞。日展には同39年まで出品を続けたが、同40年第19回二紀展に「歩け歩け」を出品し、以後同展に出品を続ける。同43年第22回二紀展に「ベトナム母子像」を出品して同人優賞受賞。同年9、11月にはこの作品をサイゴンに設置するためベトナムを訪れた。同51年欧州にスケッチ旅行に赴き、ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、オランダを巡った。同55年第34回二紀展に「難民キャンプの子供」を出品して文部大臣賞受賞。同61年インドへスケッチ旅行。同63年二紀会評議員となった。平成3年第46回二紀展に「朝のジョギング(ゆっくり走る)」を出品して田村賞を受けた。社会問題を作品に反映させた制作が多い。富山県の芸術文化にも寄与し、同48年より富山県彫刻家連盟委員長、同50年同県芸術文化協会参議となったほか、同55年富山県井波彫刻伝統産業会館館長となった。同49年には富山県文化功労者として表彰されている。作品集に同50年刊行の『板橋一歩彫刻作品集』がある。

赤堀信平

没年月日:1992/12/21

読み:アカホリ, シンペイ*、 Akahori, Shinpei*  彫刻家で日展参与の赤堀信平は、12月21日急性心不全のため福岡県春日市の福岡徳洲会病院で死去した。享年93。号に苔石。明治32(1899)年3月15日現在の福島県いわき市に生まれる。太平洋美術学校から東京美術学校彫塑別科へ進み、朝倉文夫に師事、大正14年まで同校に学ぶ。在学中の同10年、第3回帝展に「御灯」で初入選し、以後同展に出品を続け、同14年の第6回帝展の「地に立ちて」から、翌年の第7回展「大地を行く」、さらに昭和2年の第8回展「空」で三年連続特選を受けた。同14年には初めて新文展の審査員をつとめる。この間、聖徳太子奉讃美術展などへも出品した他、東京・上野公園内の五条天神社の狛犬などを制作する。また、同10年、東邦彫塑院会員となる。戦後は日展に所属し、会員、評議員をつとめたのち参与となり、しばしば審査員をつとめた。同27年、日展出品の彫刻家による日本彫塑会に会員として参加、同29年には日本美術家連盟会員となる。木彫、塑像とも制作し、肖像彫刻にすぐれ、衆議院内の「尾崎咢堂胸像」(昭和30年)をはじめ、「広池千九郎像」(同38年)などがある。制作は他に「聖観音菩薩像」(京都・高山寺)など。

大川逞一

没年月日:1992/09/18

読み:オオカワ, テイイチ*、 Ookawa, Teiichi*  古仏の模刻、補修などを行なった仏像彫刻家大川逞一は9月18日午後10時35分、心不全のため千葉県八日市場市の守病院で死去した。享年93。明治32(1899)年5月17日、千葉県匝瑳郡に生まれる。昭和2(1927)年東京美術学校彫刻科を卒業。高村光雲らに師事。同校研究科に進学し、3年間在籍した。同7年第19回二科展に「女の首」「坂本先生」「Yの首」で初入選する。同展には数回入選したが、それ以後は団体に属さず、日本彫刻史を独自に研究しつつ、法隆寺慈恩大師像、奈良薬師寺の玄奘三蔵法師像等を制作し、日光輪王寺の薬師如来像などの補修にも当たった。胤真、白湾とも号し、俳句をもよくした。

小坂圭二

没年月日:1992/08/11

読み:コサカ, ケイジ*、 Kosaka, Keiji*  新制作協会会員でキリスト教関係の作品で知られる彫刻家小坂圭二は、8月11日午前1時25分、急性肺炎のため東京都世田谷区の有隣病院で死去した。享年74。大正7(1918)年4月8日、青森県上北郡に生まれる。野辺地中学校在学中に阿部合成に師事するが、同13年より16年まで中国で兵役につき、一時制作から離れる。同17年東京美術学校彫刻科に入学して柳原義達に師事。同18年より21年までラバウルで兵役についた。同21年東京芸術大学に復学し、菊池一雄教室に学ぶ。同25年同校を卒業。同年から菊池一雄教室の助手をつとめた。また、同年の第14回新制作協会展出品作によって新作家賞、同27年第16回同展では「裸婦」で同賞受賞。同27年より翌年まで、東北十和田湖畔の「乙女の像」を制作中の高村光太郎の助手をつとめた。兵役の体験からキリスト教に興味を抱き38才で洗礼を受ける。以後キリスト教関係の主題を多くとりあげて制作。同34年新制作協会彫刻部会員となる。同35年渡仏し、フランス国立美術学校に入学。ヤンセスに師事し、エジプト、ギリシャ、ヨーロッパ各国を旅して、同37年帰国した。同45年大阪万国博覧会Expo’70のキリスト教館に「世界の破れを担うキリスト」を出品。同48年「断絶の中の調和」がバチカン現代宗教美術館買上げとなり、翌49年東京カテドラル大聖堂に「太平洋の壷」が納入された。同55年第1回高村光太郎大賞展に「人間1980」を出品して優秀賞受賞。同57年第2回同展には「漁る人」を出品して再び優秀賞を受けた。十字架の造型に興味を抱き、「ザ・クロス」(昭和42年)、「連立の十字架」(同42年、青山学院初等部礼拝堂)等、幾何学的形態に象徴性を持たせる作品を制作する一方で、「新渡戸稲造」立像等、肖像彫刻も多く手がけた。

佛子泰夫

没年月日:1992/06/26

 日展会員の彫刻家佛子泰夫は6月26日午後1時30分、急性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。享年75。大正5(1916)年12月15日、東京都港区に生まれる。昭和15(1940)年東京美術学校彫刻科を卒業。東京都港区虎ノ門の俊朝寺住職をつぐ一方、同18年第6回新文展に「裸婦立像」で初入選。戦前の官展への入選はこれのみで、戦後の同22年第3回日展に「女の首」を出品して以降、同展に出品を続け、同26年第7回日展出品作「秋の女」で特選・朝倉賞を受賞した。日本彫刻家協会にも出品。写実をもとに理想化を加えた裸婦像により、「月光」「寂光」など自然の趣を象徴する穏やかな作風を示した。

増田正和

没年月日:1992/06/20

 彫刻家で浪速短期大学教授の増田正和は、6月20日縦隔しゅようのため神戸市中央区の神戸労災病院で死去した。享年61。増田は昭和6年4月24日兵庫県に生まれ、京都市立美術大学西洋画科を卒業した。はやくから石彫に進み、昭和35年に朝日新人展(大阪)に出品したのをはじめ、同36、37年には集団現代彫刻展に出品、また、行動美術協会に所属し同41年彫刻部会員に推挙されたが、間もなく同協会を離れた。同43年、小豆島石彫シンポジウムに企画参加し、制作グループ「環境造形Q」を結成(同63年解散)した。同49年、第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に出品、翌年の第6回現代日本彫刻展(宇部)では「二つ折りの座」で京都国立近代美術館賞を、同51年第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「寄り添う座」で宇部市野外彫刻美術館賞をそれぞれ受賞するなど、石彫作家として活躍した。同56年、第9回現代日本彫刻展に「碑のトルソ」で大賞を受賞、また、翌年の第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展では神戸市公園緑地協会賞を受けた。同63年、大阪中之島緑道彫刻コンペでは優秀賞。この間、同61年に塚本英世記念国際海外研修員としてイタリアへ赴いた。八王子市彫刻シンポジウム(同59年)、関ケ原石彫シンポジウム(平成3年)等にも参加した。作品は他に、「箱の中」「関ケ原」などをはじめ、環境造形Qとしての作品20店がある。

山本兼文

没年月日:1992/04/03

読み:ヤマモト, カネフミ*、 Yamamoto, Kanefumi*  二紀会会員の彫刻家山本兼文は4月3日午前7時29分、筋委縮性側索硬化症のため鳥取市の鳥取赤十字病院で死去した。享年73。大正7(1918)年12月19日、鳥取県に生まれる。鳥取大学を卒業。昭和24(1949)年第34回院展彫刻部に「山添氏像」で初入選。以後同展には同26年から34年まで出品を続けた。同34年第13回二紀展に「和」で初入選。同35年第14回同展に「戒(1)」「戒(2)」を出品して褒賞受賞。同46年第25回同展に「戒」を出品して同人賞を受け、同48年同会会員に推された。同52年第31回同展に「石会」を出品して文部大臣賞受賞。院展には写実を基本とする人体像を主に出品していたが、二紀会に移ってからは抽象的作品を制作するようになった。石の量塊感を生かし、変形を加えた直方体を組みあわせた簡素な造形を特色とした。兼文の号も用いている。

松久宗琳

没年月日:1992/03/15

読み:マツヒサ, ソウリン*、 Matsuhisa, Sorin*  延暦寺東塔五智如来像、大阪四天王寺丈六仏等を制作したほか、京都仏像彫刻研究所を設立するなど仏像制作の普及、教育にも尽力した仏師松久宗琳は、3月15日午後11時、心筋こうそくのため、京都市の自宅で死去した。享年66。大正15(1926)年2月14日、仏師松久朋琳の長男として京都市下京区に生まれる。本名武雄。昭和13(1938)年、朱雀第三尋常小学校を卒業して仏像彩色師八木秀蔵の内弟子となる。一方、日本画も学んだ。同15年12月、脊椎カリエスを患い実家に戻る。この病気により右脚の自由を失う。同16年仏師を志し、奈良、京都を巡って飛鳥、白鳳、天平時代の仏像を研究。同19年10月、陸軍の要請により成吉思汗像に金箔を施すため渡満し翌月帰国。同年12月京都高島屋の家具製造部員として再び渡満して翌年3月帰国する。戦後の同23年、木彫家佐藤玄々に入門。同25年陶芸家河井寛次郎のもとに通い、以後も交遊を続け、「用の美」等、芸術概念をはじめ多大な影響を受けた。同年父朋琳と共に愛媛県出石寺の「仁王像」を制作し、鎌倉時代以降希少となった「賽割法」を復活させた。同36年より宗琳を名のる。同37年、京都市山科区九条山に「京都仏像彫刻研究所」を設立し、工房による仏像彫刻の制作を目指す。同38年、戦災で失われた大阪四天王寺の「仁王像」を制作。同38年滋賀県延暦寺の「智証大師像」「聖徳太子像」(父と共作)を制作。同48年、京都山科区大宅に工房を設立する。同50年、京都大覚寺「五大明王像」を父と共に制作し、翌51年、京都金閣寺の「岩屋観音像」「四天王像」を制作する。同53年大阪四天王寺大講堂の「阿弥陀如来像」、同54年同寺太子奥殿の「聖徳太子像」「四天王像」を父朋琳と共に制作し、同寺より「大仏師」の称号を受けた。同55年延暦寺総持院の「五智如来像」を父と共に制作。同58年千葉成田山新勝寺の「五大明王像」「五智如来像」の制作にかかり、4年を費して完成。同寺より「大仏師」号を受けた。同寺には、平成3(1991)年にも「千手観音像」「弥勒菩薩像」「普賢・文殊菩薩像」を制作している。同59年1月、インドへ、同62年5月中国桂林へ、平成元(1989)年5月中国雲崗石窟へ赴く。晩年は国内の古寺をも多く訪れた。天平期の仏像を好み、天平仏の研究を基礎とする鎌倉期の仏師快慶を崇拝し、義軌や古典的様式を守って、流麗な像様を特色とした。個人様式を重視する近代の芸術観に対し、長い仏教彫刻史の蓄積が生んだ古典様式を貴重な遺産と見て踏襲する姿勢と共に、工房による制作を大規模に展開した点でも注目される。一方で、仏像制作を広く一般に普及させるべく、昭和39年に第1回宗教美術展を開催。同40年代前半には彫刻刀の電動研磨機を開発。同48年「宗教芸術院」を創設して講習会を開くなど一般への教育につとめた。著書も多く、『仏像彫刻のすすめ』(昭和48年 日貿出版社)、『仏像彫刻の技法』(同51年 同社)、『仏画と截金』(同52年 中川湧美堂)、『新しい仏像彫刻』(同59年 日貿出版社)などがあり、作品集に『松久宗琳の仏像彫刻』(同63年 秀作社)、『大仏師 松久宗琳』(平成4年 光村推古書院)、伝記に『日本人の魂を彫る』(長尾三郎著 平成2年 講談社)がある。作品の多くは、昭和60年に設立された松久仏像彫刻会館(京都市中京区御幸町三条下ル)に安置されている。

伊藤五百亀

没年月日:1992/03/04

 彫刻家で日展参事、日本彫刻会理事の伊藤五百亀は、3月4日呼吸不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年73。写実を基礎とした人物像で知られる伊藤は、大正7(1918)年5月11日愛媛県新居郡に生まれた。多摩帝国美術学校彫刻科へ進み、吉田三郎の指導を受け、同校に4年間在籍する。吉田らが結成した白日会に出品(のち白日会会員)した他、昭和17年の第5回新文展に「女立像」で初入選し、翌年の第6回展では「鍬の戦士」で特選を受けた。戦後は日展作家として活躍し、同29年の第10回日展に「潮先」、翌年の第11回に「崖」で連続特選を受け、同31年の第12回日展に審査員に挙げられた。同33年、日展会員、同37年日展評議員となり、同49年の改組第6回日展に「うたかたの譜」で文部大臣賞を受賞、同57年には前年度の第13回日展出品作「渚」で日本芸術院賞を受賞した。この間、日展の彫刻部作家により組織された日本彫塑会(のち日本彫刻会)に同36年会員として参加し、のち同会の監事、理事を歴任した。同58年日展理事に就任、同62年からは参事となった。

中村博直

没年月日:1991/09/09

 日展理事、日本彫塑会理事の彫刻家中村博直は、9月9日午後零時2分、肺がんのため東京都国立市の自宅で死去した。享年74。大正5(1916)年9月15日神奈川県愛甲郡に生まれる。昭和12(1937)年3月、沢田政廣に入門して木彫を学び、同21年第1回日展に「春庭」で初入選。以後同展に出品を続け、同24年第5回日展に「立女」を出品して特選。同35年第3回社団法人日展に「立つ少女」を出品して再び特選となり、同39年日展会員となった。同40年日本橋高島屋で初めての個展を開催。同57年第14回改組日展出品作「女性」で同展文部大臣賞を受け、翌58年同展に出品した「静秋」などにより同61年度日本芸術院賞を受賞した。裸婦をモチーフとして季節の趣を表わす作品を得意とし、古典的木彫技法を用いて、西洋的に理想化された人体像を彫りあげた。 日展出品歴第1回日展(昭和21年春)「春庭」、2回(同年秋)「秋日」、3回「潮風」、4回「男」、5回「立女」(特選)、6回「若き女」、7回「希望」、8回「裸女」、9回「女性」、10回(同29年)「裸婦」、11回「女性」、12回「深秋」、13回「初秋」、第1回社団法人日展(同33年)「若い女」、2回「裸婦A」、3回「立つ少女」(特選)、4回「秋冷」、5回「女」、6回「望洋」、7回「深みゆく秋」、8回「滴露」、9回「裸女」、10回(同42年)「静観」、11回「秋流」、第1回改組日展(同44年)「初秋」、2回「壷を持つ女」、3回「炎夢」、4回「若い女」、5回「そよ風」、6回「秋想」、7回「衣をまとう女」、8回「女性」、9回「残暑去り初秋の頃」、10回(同53年)「腰かけた女性」、11回「水辺」、12回「粧い」、13回「パラソルを持つ女」、14回「女性」(文部大臣賞)、15回「静秋」、16回「炎夢」、17回「女」、18回「炎夢」、19回「好日」、20回(同63年)「夢」、21回「清楚」、22回「暖秋」

高橋剛

没年月日:1991/09/05

 日展理事、日本彫刻会理事、東京家政大学名誉教授の彫刻家高橋剛は、9月5日午前10時24分、脳出血のため東京都新宿区の病院で死去した。享年70。バレリーナをモチーフとした作品で知られた高橋は、大正10(1921)年8月31日、山形県酒田市に生まれた。本名剛。祖父は宮彫り師、父は日本美術院所属の仏教彫刻家。父に師事して木彫を始め、昭和15年上京。翌16年東京美術学校彫刻科に入学。関野聖雲に師事して同21年同科を卒業する。同22年第3回日展に「夏に立つ」で初入選。同24年より北村西望に師事する。同29年第10回日展に「バレリーナ」を出品した後、このモチーフを中心に追い求め、同31年第12回日展では「踊り子」で特選、翌32年第13回同展では「バレー・ダンサー」で,翌33年第1回社団法人日展では「振付」で3年連続特選を受賞。同35年同会会員となった。同56年改組第13回日展に異色のモチーフをとらえた「房総の女」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同61年には前年の第17回改組日展出品作「稽古場の踊り子」で日本芸術院賞恩賜賞を受けた。同62年日本彫刻会理事、委員長に就任。昭和30年代中頃まで木彫を中心に制作したが、のち塑像に転向し、鍛えぬかれたバレリーナの肉体をモチーフに、そこに宿る清新な精神の表出を試みた。同37年より東京家政大学で教鞭をとり同62年同大名誉教授となったほか、同60年より金沢美術工芸大学でも非常勤講師として後進を指導。同63年大阪心斎橋大丸で個展を開いている。 日展出品歴第3回(昭和22年)「夏に立つ」、4回「希望」、8回「水着」、10回(同29年)「バレリーナ」、11回「ハーブを持つバレリーナ」、12回「踊り子」(特選)、13回「バレー・ダンサー」(特選)、社団法人日展第1回(同33年)「振付」(特選)、2回「清光」、3回「立った女」、4回「バレエの女」、5回「踊子抄」、6回「朝の踊り子」、7回「渚」、8回「やすらぎの像」、9回「石を擲つ若者(ヨハネ伝)」、10回(同42年)「バレリーナ’67」、11回「踊り子’68」、改組第1回(同44年)「爪立てた踊り子」、2回「バレエの女」、3回「バレエ・ダンサー」、4回「朝」、5回「レッスン」、6回「鳥と遊ぶ」、7回「踊り子’75」、8回「鏡前に立つ踊り子」、9回「浴」、10回(同53年)「潮」、11回「静なるプリマ」、12回「庄内浜」、13回「房総の女」(内閣総理大臣賞)、14回「踊り子の朝」、15回「髪を持つ」、16回「輝くプリマ」、17回「稽古場の踊り子」、18回「クラシックバレエの女」、19回「開演前(瞑想する踊り子)」、20回(同63年)「磯」、21回(平成元年)「花の精」、22回「腰かけた女」

瀬戸團治

没年月日:1991/07/01

読み:セト, ダンジ*、 Seto, Danji*  日展参与の彫刻家瀬戸團治は7月1日午後5時45分、心不全のため長野県岡谷市の病院で死去した。享年85。明治38(1905)年9月13日、長野県辰野町に生まれる。大正11(1922)年同県上伊那郡伊北農商学校農科を卒業。同13年上京して鶴田吾郎に洋画を学び、翌年曽宮一念に学ぶ。昭和2(1927)年頃より太平洋画会研究所に入り、中村不折、中村彝、中川紀元らに師事。同4年郷里に帰り小学校教員となり、以後11年間在職する。この間の同8年、構造社の斎藤素巌に彫刻を学び、翌年構造社展に初入選、以後出品を続ける。また、同11年文展鑑査展に「女の首」で初入選。13年第2回新文展にも「K子胸像」で入選。同19年帰郷し、農業を営みながら制作を続ける。戦後も日展に出品を続け、同25年第6回日展出品作「たか子さん」、翌26年第7回同展出品作「静姿」で2年連続特選受賞。同33年日展会員となり、同57年同参与となった。人物像、肖像を得意とし、写実を重視した堅実な作風を示した。動きの少ない静的なポーズを好み、モデルの存在への敬意を漂わせる。 新文展、日展出品歴昭和11年鑑査展「女の首」、第2回新文展(同13年)「K子胸像」、4回「立女」、5回「立つ」、6回「男」、日展第1回(同21年春)「裸婦」、2回「男の胸像」、3回「裸婦座像」、4回「裸婦」、5回「女の首」、6回「たか子さん」(特選)、7回「静姿」(特選、朝倉賞)、8回「信濃の娘」、9回「五三年夏の作」、10回(同29年)「静立」、11回「立女」、12回「直立」、13回「立女」、社団法人日展第1回(同33年)「黒塚(市川猿之助氏)」、2回「山によせて」、3回「坦路」、4回「立像」、5回「月光」、6回「静」、7回「静立」、8回「静夜」、9回「香」、10回「裸の塔」、11回「三面」、改組第1回(同44年)「裸像」、2回「一九七〇年作」、3回「裸身仏心」、4回「二柤一如」、5回「龍膽」、6回「静寂」、7回「晨」、8回「如人」、9回「土器を持つ」、10回(同53年)「寂」、11回「山びこ」、12回「首」、13回「女の首」、14回「男の首・D」、15回「画人N先生」、16回から21回(平成1年)不出品

to page top