本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,962 件)





進藤武松

没年月日:2000/02/12

 日本芸術院会員で日展顧問を務めた彫刻家の進藤武松は2月12日午後3時27分、肺炎のため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年91。1909(明治42)年1月5日、東京都千代田区九段北に生まれる。東京物理学校を中退し、1929(昭和4)年から構造社研究所で斎藤素巌に師事。32年第6回構造社展に初入選、34年第8回構造社展で「豚」が推奨に、35年第9回構造社展で「哺乳」が構造賞を受賞する。36年「男」が文展監査展に入選し、38年「球」で第2回新文展特選を受賞。52年第8回日展の「憩う」で、53年第9回日展の「遠望」で連続して特選・朝倉賞を受賞。67年「想」で第10回新日展文部大臣賞、73年、前年の第4回改組日展に出品した「薫風」で日本芸術院賞を受賞。61年から日展評議員、68年から日本彫塑会(後に日本彫刻会)理事、75年から日展理事、83年から日本芸術院会員、84年から日本彫刻会常務理事、87年から日展顧問を務めた。85年には勲三等瑞宝章・紺綬褒章を受賞し、没後従四位が贈られた。主としてブロンズ像を手がけ、写実を主体として力強く密度ある肉付けで人体の個性や生命感を表す清楚な作風に定評があった。

新妻実

没年月日:1998/09/05

読み:ニイズマ, ミノル*、 Niizuma, Minoru*  アメリカ在住の彫刻家新妻実は8月に脳卒中で倒れ入院していたが、9月5日午後4時(日本時間6日午前5時)、ニューヨークの病院で死去した。享年67。昭和5(1930)年東京都に生まれる。同年東京芸術大学彫刻科に入学し石井鶴三に師事。在学中の同29年、モダンアート協会展に初入選。同会に出品を続け、同32年同会会員となる。同30年同校を卒業する。また、同年東京のタケミヤ画廊で個展を開催。また、同32年棕櫚会を結成してグループ展を開催する。同34年にニューヨーク市ブルックリン美術館附属美術学校より奨学金を得て渡米。同39年より45年まで同校彫刻科で講師をつとめる。同41年および43年にニューヨークのハワード・ワイズ・ギャラリーで個展。また、同41、43年のホイットニー美術館でのスカルプチュア・アニュアル展に出品する。同46年ニューヨーク国際彫刻シンポジウムを企画、主催し、翌年からニューヨーク・コロンビア大学美術科講師となり、後に助教授となって同59年まで教鞭をとった。同49年ニューヨークおよびスイス・ルガーノ国際大学院大学理事兼教授に就任。同58年ニューヨーク・ストーン研究所所長となった。この間、ニューヨークほかアメリカ各地およびチューリッヒなどで個展を開催したほか、同44年のオーストリア国際彫刻シンポジウム、同50年のアントワープ国際野外彫刻展、同56年のポルトガル国際シンポジウムなどに参加。また、同51年東京西武美術館で個展を開催、同52年第3回彫刻の森美術館大賞展に「水中の歌」を出品、同56年第2回ヘンリー・ムーア大賞展に「太陽とピラミッド」を出品して美ケ原美術館賞を受賞するなど日本でも作品を発表した。昭和40年代からシリーズで制作した大理石による「眼の城」で独自の作風を確立し、ニューヨーク、ポルトガルに拠点を持って、国際的に活躍した。石の素材自体が持つ色、質感を生かし、単純な幾何学的形態により量塊感ある抽象彫刻を制作した。 

井上武吉

没年月日:1997/09/26

読み:イノウエ, ブキチ*、 Inoue, Bukichi*  東京都庁舎など多くの公共建築にモニュメントを残した彫刻家井上武吉は、9月26日午後10時34分、急性心筋梗塞のため横山市内の病院で死去した。享年66。昭和5(1930)年12月8日、奈良県宇陀郡室生村字瀧谷368番地に生まれる。同26年武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)彫刻科に入学。同年第15回自由美術家協会展に「若きヴァイオリニストの手」「若者の首」で初入選する。同28年第17回同展に「悲哀」「女の首」で入選し、以後連年同展に出品する。同30年武蔵野美術学校彫刻科を卒業。同年第19回自由美術家協会展に「生」を出品し、同会会員となる。同32年11月新宿風月堂で「田中稔之・井上武吉 絵画と彫刻作品展」を開催し、「昆虫(ファッションモデル)」「人」など4点を展示する。同35年8月「集団現代彫刻」の結成に参加し、その第1回展に「虚脱」を出品する。同36年第1回宇部市野外彫刻展に出品。同年自由美術家協会を退会する。同37年第5回現代日本美術展に「間」を出品して優秀賞を受賞。翌年第7回日本国際美術展に「面への参加」を出品して優秀賞を受賞する。また、同年に開催された第7回サンパウロ・ビエエンナーレに「円とその周辺」(1958年)、「貌」(1960年)、「面と凸」(1961年)などを出品する。同40年第8回日本国際美術展に「鬆 65」を出品して再度優秀賞を受賞。同41年アントワープ国際野外彫刻展に「Question No.180-66」を出品。同42年、大規模モニュメントの設計としては初めての仕事として靖国神社の無名戦士のための記念碑「慰霊の泉」を完成させる。同43年第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「浮いた箱」を出品して大原美術館賞を受賞。同44年井上武吉空間造形研究所を設立。同所を基盤に、同年開館の箱根彫刻の森美術館、同50年開館の池田20世紀美術館などの建築・都市計画の設計監理を行う。同年東京・フジテレビ、「メイン広場のためのモニュメント」を制作したほか、翌年にはシンガポールのロイヤルホテルの前庭基本計画、箱根彫刻の森美術館「子供の広場」の設計監理を行う。同47年第3回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「都市論のための拡大定規」「The Outer Space Test Box」を出品し、前者で神戸教育委員会賞を受賞。同年米国国務省の招待により渡米する。同48年第1回彫刻の森美術館大賞展に「The Outer Space Test Box」を出品。同49年ドイツ文化庁の招きにより西ベルリンのベタニアン芸術家会館に滞在し同年54年に帰国。この間、同50年アントワープ国際野外彫刻展に「Plus and Minus No.53」「Plus and Minus No.55」を出品、同年第2回彫刻の森美術館大賞展に「コンパクト・モニュメント”ボックス17”」を出品した。同年に母校武蔵野美術大学教授となったが翌年辞任。同51年には西ベルリンのベルリン美術アカデミーでと題して大規模な個展を行い同展をユトレヒト現代美術館に巡回したほか、ベルリン市プトリッツ橋南側芸術家アイデアコンペティションで1等賞となり翌年にかけて同橋に作品を制作するなどドイツを主要な活動の場とし、同53年9月より翌年3月まで国立ベルリン美術学校客員教授となって教鞭を取った。同54年第1回ヘンリー・ムア大賞展に「溢れる No.8」を出品して優秀賞を受賞。同年秋、ベルリンからパリへ移住し、パリのポルト・ド・ベルシーで行われた「若い彫刻」に後年のテーマとなった「My Sky Hole」のコンセプトを出品する。同55年パリ・ポンピドー・センターで「My Sky Hole」(1979年)の映画上映が行われ、翌56年アーヘン市立ノイエ・ギャラリー=ルードヴィッヒ・コレクションで大規模な個展「My Sky Hole」が開催された。同57年日仏日本人美術クラブの結成に参加。同59年10年にわたる滞欧生活を終えて帰国する。翌60年東京都美術館で大規模な個展「井上武吉新作展-My Sky Hole 迷路宇宙 イメージ」が開催され、同62年には国立国際美術館と三重県立美術館の共同主催で「井上武吉 My Sky Hole 87 道-宇宙」が同2館を巡回して開催された。平成3(1991)年中原悌二郎賞、翌4年吉田五十八賞、同7(1995)年芸術選奨文部大臣賞を受賞。自己の原風景を郷里室生とそこで過ごした幼年期に求め、昆虫などの具象的イメージから内面を表象する「My Sky Hole」へと展開し、抽象彫刻に新たな面をもたらした。

太田良平

没年月日:1997/09/18

 日展参与の彫刻家太田良平は9月18日午前10時23分心不全のため福島県国見町の公立藤田総合病院で死去した。享年83。大正2(1913)年7月13日福島県伊達郡梁川町元陣内1に生まれる。昭和6(1931)年三木宗策の主宰する彫刻塾に入門して彫刻を学び、後、北村西望塾および藤野舜正にも学ぶ。同11年文展鑑査展に「浴後」で初入選し、同14年第3回新文展に「苑」で入選して以来、一貫して官展に出品を続け、戦後も第2回展から日展に出品する。同28年第9回日展に「双華」を出品して特選朝倉賞受賞。翌29年第10回日展に「修道尼ヴィンセンチヤ」を出品して二年連続特選となる。翌年より日展に依嘱出品。同35年日展会員となるとともに同展審査員をつとめる。同年日展評議員、同年参与となった。穏やかな写実的女性像に季節感や抽象的な概念を託した作品を多く制作した。

乗松巌

没年月日:1997/05/11

読み:ノリマツ, イワオ*、 Norimatsu, Iwao*  二科会名誉理事で女子美術大学名誉教授の彫刻家乗松巌は、5月11日午後8時22分、老衰のため松山市の病院で死去した。享年86。明治43(1910)年5月23日、愛媛県松山市に生まれる。昭和4(1929)年松山中学校を卒業し、同10年東京美術学校図案科を卒業する。その後、水野欣三郎に師事して彫刻に志す。同13年第25回二科展に「首」で初入選。同16年第28回同展に「女」「若い女」を出品して二科賞を受賞。同18年第6回新文展に「立像」を出品し、戦後第2回日展に「婦人頭像」を出品して戦中、戦後の一時期、官展に参加している。しかし、同25年に二科会に復帰し同会会員となる。同28年第38回同展に「恐怖の均衡」の連作である「シジフオス」「ひと」「おんな」を出品して会員努力賞を受賞。同35年に渡欧し約6ケ月間滞在し、この間、イタリア、ギリシャの古典彫刻に注目して研究した。同50年第60回二科展に「道」連作中の「使者」2点を出品して東郷青児賞を受賞。同55年第65回同展に「魅惑の果て」「シーシュポス」などを出品して二科会文部大臣賞を受賞する。同56年郷里の愛媛県立美術館で弟乗松俊行と兄弟展「彫刻と備前焼展」を開催し、また同年東京のストライプハウス美術館で個展を開いた。ヨーロッパをはじめ、中近東、アフリカ、アメリカなど世界の原始から近世におよぶ美術の源流に興味を抱き、たびたび海外へ遊学、特にヒルデブラントの「造形における形式の問題」に関心を抱いていた。同21年から女子美術大学で教鞭を取り、同28年より同教授をつとめ、ながく後進の指導にもあたった。平成6(1993)年10月松山市小坂に乗松巌記念館「エスパス21」が開館されている。

村上炳人

没年月日:1997/03/28

読み:ムラカミ, ヘイジン*、 Murakami, Heijin*  二科会理事の彫刻家村上炳人は3月28日午前2時18分、脳こうそくのため京都市西京区のシミズ病院で死去した。享年81。大正5(1916)年2月25日、富山県高岡市佐野の浄土真宗の寺に生まれる。本名丙(あきら)。昭和8(1933)年富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を卒業して上京し、平櫛田中の内弟子となる。同9年日本美術院春季展に初入選。同12年第24回院展に「鹿」で初入選し、以後同展に入選を続け、同17年9月院友となる。同12年より15年まで、および同18年より21年まで戦地に赴く。帰国後、京都に住んで古社寺をめぐり彫刻研究を進め、一方、連年院展に出品を続けた。同24年第34回院展に「青年像」を出品して奨励賞、同25年第35回同展に夫人をモデルにした「婦女像」を出品して同じく奨励賞を受賞。同28年の同展小品展でも奨励賞を受賞している。この間、同28年より29年まで石井鶴三の主導による法隆寺金堂の復元事業に参加。院展には第43回展まで連続入選するが、抽象彫刻への興味が高まり、同32年「献水」を院展に出品したのを最後に同34年、日本美術院を退会して二紀会に参加し、以後、同展に出品を続けた。同36年第15回二紀展に「道化」「人間模様」を出品して同人優賞受賞。同30年代から40年代にかけて抽象彫刻の研究を進める一方で、同36年より38年まで大阪四天王寺金堂本尊救世観音菩薩像を、引き続き同39年より翌年まで同寺八角大灯篭を制作するなど、古典的仏教彫刻や具象的な作品も制作している。同48年第27回二紀展に「つめこまれたちえぶくろ」「文化人間」を出品して菊花賞受賞。同50年代には再度具象的な表現にもどり、抽象彫刻で培った幾何学的な形態の構成力をもとに、対象のかたちを再構築する作品を制作。同52年二紀会評議員となり、同55年二紀会理事となった。この間、同54年東京都銀座の和光ホールで第1回目の個展を開催。同57年京都朝日新聞社の朝日画廊で個展を開催する。同59年第38回二紀展に化粧する舞妓をモティーフとした「esquisse」を出品して文部大臣賞を受賞。同61年東京銀座和光で第2回個展、平成5年には同所で第3回個展を開催した。抽象彫刻を制作しはじめてから、公共空間のための作品やモニュメントをも手がけ、富山市制80周年記念のための壁面彫刻「め」(昭和55-56年)、大分市平和祈念像「ムッちゃん」(同57-58年)、尼崎市近松公園の「近松門左衛門像」(同60-61年)、大分市総合彫刻「宇宙曼荼羅」などの作例がある。平成8年7月、郷里の高岡市美術館で「村上炳人展 日本の心を刻む造形への執念」展が開催されている。逝去は同展準備中のことであった。

川田清

没年月日:1997/01/27

 国画会彫刻部会員の川田清は1月27日午後10時50分、がん性悪液質のため東京都新宿区の病院で死去した。享年65。昭和7(1932)年1月13日埼玉県深谷市成塚231に生まれる。同26年埼玉県立熊谷高校を卒業して、東京芸術大学彫刻科に入学し、同30年同校を卒業する。同30年タケミヤ画廊で行われた「六土会展」に出品したほか、平和美術展、日本アンデパンダン展にも出品する。同39年国画会彫刻部に「武藤氏像」で初入選。同40年同会彫刻部に「民の声 A」「民の声 B」を出品し、野島賞受賞。翌年同会彫刻部会友となる。同年東京銀座のスルガ台画廊で個展を開催。同42年第41回国画会展に「蝕(67B)」「罠(67A)」を出品して会友優作賞を受賞し、同会会員に推挙される。同44年毎日現代日本美術展に出品。同45年および48年に東京のときわ画廊で個展を開く。同60年日本金属造形作家展に出品。同63年那須友愛の森彫刻シンポジウムに参加した。前述の個展のほか、同39年東京の愛宕山画廊で個展を開催し、以後平成2(1990)年に至るまで同画廊で十数回の個展を開いた。小学校教員をつとめる一方で、彫刻の制作を行いデフォルメした人体像と小動物や静物を組み合わせ、抽象的な概念を表現した。

宮地寅彦

没年月日:1995/09/23

 日展参与の彫刻家宮地寅彦は、9月23日午前30分、脳こうそくのため東京都小平市の自宅で死去した。享年92。明治35(1902)年9月24日に石川県金沢市に生まれ、昭和2(1927)年東京美術学校彫刻科を卒業、翌年の第9回帝展に「白哲」が初入選。また構造社展にも出品、「猫」によって構造賞を受賞、会員となった。戦後は、日展を中心に出品をつづけ、審査員をつとめ、また出品委嘱をかさねた。また、日木彫塑会の選考委員、理事などもつとめた。同39年には日展評議員となり、同45年には参与となった。近年は、次第に人体表現のなかにフォルムの単純化による抽象的な要素をもりこむようになっていたが、平成7(1995)年の第27回展には、ブロンズによる座像「口笛」が遺作として出品された。

三坂耿一郎

没年月日:1995/08/03

 日本芸術院会員で日展顧問の彫刻家三坂耿一郎は8月3日午後4時55分腎うしゅようのため東京都田無市の佐々総合病院で死去した。享年87。明治41(1908)年5月26日福島県郡山市湖南町に生まれる。本名政治(まさじ)。昭和4(1929)年私立郁文館中学校を卒業。東京美術学校彫刻科に入り、朝倉文夫、北村西望、建畠大夢らに師事する。同12年同校を卒業して、同校彫刻研究科に進学、同年第1回新文展に「若い女」で初入選し、以後官展に出品を続ける。同14年研究科を修了。同15年より清水多嘉示に師事する。戦後も日展に出品し、同32年第13回日展に「渺〔はるか)」を出品して特選、翌33年第1回社団法人日展に「気流」を出品して二年連続特選となり同35年日展会員に推挙される。同41年イタリアへ渡って彫刻を研究。同43年銀座資生堂で初個展を開く。同45年改組第2回日展に「布」を出品して桂花賞受賞。同46年日展評議員となる。同47年改組第4回日展に「フォルム1」を出品して文部大臣賞受賞。同48年再度渡欧。同50年銀座資生堂で個展を開催した。同53年第2回新日展に「壺中天」を出品して日本芸術院賞を受賞し同61年日本芸術院会員となった。日常的で身近なポーズの女性像を得意とし、表面に孔をうがっていく隙孔表現によって作者の制作の跡の看取される素朴さのただよう作品を制作した。

錦戸新観

没年月日:1995/04/16

 仏像彫刻家の錦戸新観は4月16日午前11時45分、心不全のため東京都田無市の回無第一病院で死去した。享年87。明治41(1908)年1月28日、茨城県下妻市大宝に生まれる。本名新一郎。昭和5年より10年まで山本瑞雲に師事して木彫を学ぶ。同15年茨城県関城町立正寺のために日蓮上人坐像を制作。同20年東京都多摩郡稲城町の妙見寺の僧松野光観に入門し、得度して天台宗の僧籍に入る。これに伴い本名を光深に改める。同22年第3回日展に十一面観音像で初入選する。同像は現在、東京都新宿区下落合薬王院に安置されている。以後日展に同26年まで出品を続ける。同28年、同26年の日展出品作である不動明王三尊仏の台座、光背を制作し大本山音羽護国寺本堂に安置する。同32年日本橋高島屋で初めての個展を開崖。同年大本山浅草寺本堂のために梵天・帝釈天像を制作。同39年立正佼成会大聖堂に安置すべく久遠実成釈迦牟尼如来像を制作、また同年浅草寺宝蔵門のために仁王尊阿形像を制作する。同40年インド、セイロン、シンガポール、タイを訪れ各地の仏像を研究。この頃の造像にはインドの仏教彫刻に学んだ点が見いだせる。同年浅草寺よりセイロン国総督へ聖観世音菩薩像を贈り、翌年同寺より釈迦牟尼如来像をセイロン国アヌラダプラ・エスルムニヤ精舎の大長老に贈るなど、セイロンにも作品が渡った。同41年伝教大師幼形像を比叡山坂本生源寺本堂に安置。同42年第2回個展を日本橋高島屋で開催した。同45年伝教大師等身像を総本山延暦寺に寄進し、その功により天台座主即真周湛大僧正より法眼位を授与される。同46年浅草寺五重塔院内聖観世音菩薩像を制作。同47年米国ハワイを訪れる。同48年川崎大師平間寺信徒会館の大日如来像を制作、また同年ハワイ天台別院院庭に樹脂製の十一面千手観世音菩薩像を建立する。また同50年ハワイ高岩寺本堂地蔵菩薩像を制作。同51、53年にもハワイへ赴いた。同56年、54年に制作した馬頭観世音菩薩像を品川本覚寺本堂に安置したほか、川崎大師五重塔院内五智如来レリーフ、弘法大師像、興教大師像、恵果阿闇梨像、茨城県県社大宝八幡宮御神体、横浜市善光寺大日如来三尊像、品川区大崎観音寺如意輪観音像などを制作、安置し、平成4年仏教伝道文化賞を受賞した。日本橋高島屋での個展は同47、51、54、60年に開催されている。信仰によって仏を感得して造像する姿勢を貫き、多様な古典様式に現代的感性を融合させた。

松田尚之

没年月日:1995/03/29

 日本芸術院会員で、日展参与の彫刻家松田尚之は、3月29日午後2時14分、急性腹症のため京都市左京区修学院大林町の白宅で死去した。享年96。石川県金沢市に生まれ、大正11(1922)年、朝倉文夫に師事して東京美術判交彫刻科を卒業、また在学中の同10年、第3回帝展に「ポーズせる女」が初入選。以後毎回帝展に出品をつづけ、同15年の第7回展に出品の「姿」は特選となった。翌年の第8回展でも、「若きひのかげ」が無鑑査、特選となった。帝展、新文展、そして戦後の日展にいたるまでたびたび審査委員をつとめ、日展では、審査員と同時に運営会参事をつとめた。また、昭和5(1930)年に京都大学建築科講師となり、戦後も金沢美術工芸大学、京都学芸大学教授として、後進の指導にあたった。同32年の第13回日展に出品の「女性」によって日本芸術院賞受賞、同43年には日本芸術院会員となった。ディテールの再現にこだわらない、おおらかな表現による量感のある裸婦像を得意とした。

分部順治

没年月日:1995/03/01

 日展参与の彫刻家分部順治は3月1日午前10時35分胆のうがんのため東京都練馬区豊玉北の自宅で死去した。享年84。明治44(1911)年1月6日群馬県高崎市八島町17に生まれる。昭和3(1928)年高崎中学校を卒業して建畠大夢に師事して彫刻を学び始める。同4年東京美術学校彫刻科に入学して木彫を学ぶ。北村西望に師事。同7年第13回帝展に「母と子」で初入選。以後同展に出品を続ける。同9年東京美術学校彫刻科を卒業して研究科に進み、同11年に修了。翌12年第1回新文展に「若い男」を出品して特選となる。同13年第2回新文展では「男立像」で二年連続特選受賞。戦後も日展に出品し、同24年日展出品委嘱、同33年日展会員、同37年同評議員となる。この問、同30年より日本彫刻会にも参加し、日彫展にも出品。同43年第11回日展に「新秋」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同47年日本彫刻会理事となる。同50年第6回日展出品作「瞭」により第31回日本芸術院賞受賞。同52年日展理事、同56年同参事となる。人体表現によって季節や「静」「芽」「爽」などの抽象概念を象徴する作品を多く制作し、写実にもとづきながら主題にそってデフォルメを加える作風を示した。ブロンズによる肖像彫刻、モニュメントなども制作している。帝展、文展、日展出品作昭和7年第13回帝展「母と子」、同8年第14回帝展「みのる秋」、同9年第15回帝展「いこい」、同11年文展鑑査展「習作」、同12年第1回新文展「若い男」、同13年第2回新文展「男立像」、同14年第3回新文展「男」、同15年紀元2600年奉祝展「黙する男」、同15年第4回新文展「男の像」、同19年戦時特別展「皇士ヲ護ル人々」(サイパン)、同22年第3回日展「新生の歩み」、同23年第4回日展「うららか」、同24年第5回日展「少女の像」、同25年第6回日展「清純」、同26年第7回日展「若人の夢」、同27年第8回「青年像」、同28年第9回日展「狩」、同29年第10回日展「青年」、同30年第11回日展「若い男」、同31年第12回日展「流れ」、同32年第13回日展「男」、同33年第1回社団法人日展「雪嶺」、同34年第2回日展「霧氷」、同35年第3回日展「道標」、同36年第4回日展「青年像」、同37年第5回日展「黙」、同38年第6回日展「一本杉」、同39年第7回日展「老いた工人」、同40年第8回日展「青年之像」、同41年第9回日展「青年像」、同42年第10回日展「想」、同43年第11回日展「新秋」、同44年第1回改組日展「碑」、同45年第2回日展「謐」、同46年第3回日展「旦」、同47年第4回日展「爽」、同48年第5回日展「暁」、同49年第6回日展「瞭」(日本芸術院賞)、同50年第7回日展「考」、同51年第8回日展「満」、同52年第9回日展「暢」、同53年第10回日展「艶」、同54年第11回日展「寛」、同55年第12回日展「佳」、同56年第13回日展「赫」、同57年第14回日展「遥」、同58年第15回日展「希」、同59年第16回日展「潤」、同60年第17回日展「黎」、同61年第18回日展「惟」、同62年第四回日展「妖」、同63年第20回日展「髪」

市之瀬廣太

没年月日:1995/02/23

読み:イチノセ, ヒロタ*、 Ichinose, Hirota*  日展会員で名古屋芸術大学名誉教授の彫刻家市之瀬廣太は2月23日午後10時44分、急性肺炎のため名古屋市の病院で死去した。享年85。明治42(1909)年8月20日岐阜県瑞浪市土岐町6645に生まれる。昭和2(1927)年岐阜県多治見工業制支彫刻科を卒業。同年5月大倉陶園に入社するが、同4年11月に退社して、構造社彫塑研究所に入所し斎藤素巌に師事する。同6年構造社展に初入選。同7年同展研究賞を受賞し、両社会友となる。同8年同展構造賞を受賞し、翌9年同社会員となる。戦後、第1回日展に「女ノ坐像」で初入選し以後同展に出品。同29年第10回日展に「流想(ながれにおもう)」を出品して特選となる。同30年日展に無鑑査出品。同36年日展委嘱。同37年日展に「破る」を出品して菊華賞受賞。同39年日展会員となった。写実にもとづく端正な女性像を得意とした。

佐藤蔵治

没年月日:1994/11/29

 日展会員、日本彫刻会運営委員の佐藤蔵治は、11月29日急性心筋こうそくのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年75。大正8年11月6日福島県安達郡岩代町小浜下杉内に生まれる。戦後から制作発表を開始し、昭和33年の日彫展に初入選、同35年には同展で奨励賞を受賞、また同年第3回新日展に初入選した。同42年第10回日展に「孤柳」で特選を受け、日彫展でも日彫賞を受賞、同48年の改組日展第5回に「ポーズする女」で再度特選を受けた。日彫展審査員、日展審査員もつとめ、同56年日展会員に推挙され、同60年には日彫会運営委員となった。

田畑一作

没年月日:1994/10/19

 新制作協会会員の彫刻家田畑一作は10月19日午前10時16分肺がんのため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年78。大正4(1915)年5月15日京都市中京区小川夷川上下ル下丸尾町に生まれる。父は菊池芳文門下の日本画家田畑秋濤。昭和8年京都府立一中を卒業。この頃より彫刻に志し、同年関西美術院に入り黒田重太郎に絵を学ぶ。同9年5月上京して二科会の番衆技塾に入学。藤川勇造に学び、恩師藤川の死去以後は、菊池一雄に師事する。同11年第1回新彫塑協会展に「長野君」で初入選。同16年第16回京都市展に「村の道」(油絵)「妹の像」(彫刻)で入賞。同年第6回新制作派協会展に「村井中尉」「千田大尉」で初入選の後同二展に出品をつづける。同19年第9回新制作派協会展に「久子」「戦傷荒木上等兵」を出品して新作家賞受賞。同21年第1回京展に「姑」を出品して京都新聞社賞受賞。同年上京して第10回新制作展に「画家藤田氏」「稲村君」を出品して新作家賞を受け同24年同会会員に推される。同37年9月ガーナのアクラ市内にある国立コルレブ病院に、同院で死去した野口英世の胸像をたて野口博士記念庭園を造るためにガーナを訪れ、同地の人々や黒人彫刻に感銘を受ける。この後、「若いマミー」「運ぶダゴンバ」等大地に根ざした生命感あふれる作品を制作しつづけ、同48年3月16日より21日まで銀座松屋7階画廊で「田畑一作展―アフリカ」を開催。同55年甲府の浅川画廊で田畑一作彫刻展を開く。同58年東京現代彫刻展に「花信園」を出品して大衆賞受賞。同59年大津の西武百貸庖4階画廊で個展を開いた。「肖像彫刻はモデルの一代記のようなもの、また彫刻の設置には周囲の修景が必要」とする藤川勇造の教えをうけ、肖像に佳作を生んだほか、昭和34年のエーザイ本庄工場造園、同37年ガーナ市コルレブ病院構内の日本庭園造庭、同年電気通信労政会館で竣工記念彫刻「飛びたつ白鳥」等彫刻を含む公共空間の制作にあたっては、「岩はきずいて草をすまわせる」ことをモットーに設計等も行なった。作品が「風吹けばにおう花のように」あることを目指し、大地と生命力が均衡を保ちつつ存在する植物のように自然と調和する造形を追求した。

山本常一

没年月日:1994/07/07

 新制作協会会員の彫刻家山本常ーは、7月7日心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年84。ニワトリやフクロウなど鳥の彫刻で知らされた山本は、明治45(1912)年4月9日神戸市に生まれ、大分県中津市で育った。日本大学中退、一時、東宝特殊撮影製作に従事した。はじめ国画会彫刻部に出品(第10-14回)したが、昭和11年創立の新制作派協会第1回展出品以来同会に所属し、戦後の同24年同会員に推挙され、以後、新制作協会を中心に制作発表を行った。また、選抜秀作美術展、日本国際美術展などにも出品する。同52年には前年制作の「夜の詩」で長野市野外彫刻賞を受賞、その後も鳥をモチーフに写実的で温かみのある作風を展開した。作品集に『鳥BIRD』(昭和38年、美術出版社)、著書に「鳥粘土でつくるたのしい造形」(同43年)がある。葬儀・告別式は新制作協会葬(葬儀委員長佐藤忠良)として、7月12日東京都杉並区梅里の堀ノ内斎場で執り行われた。

細川宗英

没年月日:1994/04/30

読み:ホソカワ, ムネヒデ*、 Hosokawa, Munehide*  元東京芸術大学教授で新制作協会会員の彫刻家細川宗英は4月30日午後10時26分肝不全のため東京都文京区の東大病院で死去した。享年63。昭和5(1930)年7月25日長野県松本市に生まれる。東京芸術大学彫刻科で菊池一雄に師事し、同29年同科を卒業。同年同専攻科に進学し、在学中の同30年第19回新制作派協会展に「トルソO」「鳥になる女」で初入選。以後同展に出品を続ける。同31年東京芸術大学専攻科を終了して同校彫刻科副手となり、また、同年の第20回新制作展に「兜をかぶる男」「うつむく女」「三人の立像」を出品して新作家賞を受賞する。同33年秀作美術展に招待出品し、また新制作協会会員となる。同34年世界平和交友美術展に出品し、佳作賞受賞。同展出品に伴いモスクワ経由でウィーンを訪れる。同39年新制作展に「装飾古墳のイメージ」を出品し、翌40年高村光太郎賞受賞。同43年文化庁芸術家在外研修員として渡米し、メキシコ、ヨーロッパをも訪れる。同47年前年の作品「道元」で中原悌次郎賞を受賞し、同55年第1回高村光太郎大賞展で優秀賞を受賞。同52年母校東京芸術大学彫刻科助教授、同56年同科教授となった。同58年東京現代野外彫刻展に招待出品し優秀賞を受賞。上記の他の代表作として「王妃像」「王様と王妃」などがある。対象の形を忠実に再現する人体像から、人体を部分に解体して、静物などのそティーフとともに再構成する象徴的作風を示し、具象彫刻界に指針を示した。時に、号として「無水」を用いた。

面屋庄三

没年月日:1994/02/14

読み:メンヤ, ショウゾウ*、 Men’ya, Shozo*  京人形師で本名岡本庄三の名で新制作協会会員の彫刻家としても活躍した面屋庄三は2月14日午後10時30分、急性心不全のため京都市中京区押小路通富小路角橘町の自宅で死去した。享年83。明治43(1910)年4月20日京都市下京区に生まれる。昭和4(1929)年、京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業。人形を先代の12世面屋庄次郎に、彫刻を藤川勇造に学ぶ。伝統的京人形を制作し、昭和28年に三ツ折人形で国の無形文化財保持者に認定された。同33年よりあまがつ会人形展を毎年開催。同38年からは荘人会人形展も開催し、京人形の普及に努めた。同45年に13世面屋を襲名。また、彫刻家として新制作協会展に出品し、昭和26年第15回展に「女像」を出品して新作家賞、翌27年には「習作婦」「首」を出品して同賞を受賞し翌28年同会会員となった。彫刻は婦人像を中心に人体を主要なモティーフとし、表面のマティエール等に人形との共通点が見いだせる。京都市文化功労者、国際芸術文化賞などを受賞。『京人形あれこれ』などの著書もある。三ツ折人形のほか、御所雛、相込人形等も得意とした。京都五條大橋西詰の「牛若弁慶像」を制作したことでも知られる。

西村房蔵

没年月日:1994/02/07

 日展会員で、日本彫刻会運営委員の彫刻家西村房蔵は、2月7日午後2時32分、急性肺炎のため東京都墨田区の健生堂病院で死去した。享年74。西村は、大正8 (1919)年7月20日、千葉県に生まれ、仏像彫刻を本業としながら、昭和36年の第4回日展に「立」が初入選。同43年の第11回展に出品の「霞光」が特選を受けた。同45年の第2回改組日展でも、「葦角」が再び特選を受ける。同49年の第6回展では、審査員をつとめ、同59年に同展会員となる。堅実な手法による自然なポーズをとる女性像を毎回日展に発表した。

高須賀桂

没年月日:1994/01/02

読み:タカスカ, カツラ*、 Takasuka, Katsura*  二科会評議員の彫刻家高須賀桂は、1月2日急性肺炎のため東京都品川区の北品川総合病院で死去した。享年80。白色セメント造形美術会にも所属した高須賀は、大正2(1913)年11月27日愛媛県温泉郡拝志村字上村に生まれ、愛媛県立松山中学校を経て、昭和13年東京美術学校工芸科図案部を卒業した。同年森永練乳株式会社宣伝部に入社、制作活動も併行し、同16年の第28回二科展に「女の首」で初入選、以後同展への出品を続けた。同18年応召し同21年に復員、翌年鉱工品貿易公団美術工芸室に勤務、その後、貿易庁、特許庁に勤めた。二科展へは同25年から復帰し、同27年の第37回展に「バラ色の髪」で特待賞を受け、同29年の第39回展に「試作」を発表し二科会会友、同34年の第44回展では「コンポジション」を出品し、二科会会員に推挙された。同58年の第68回展に「コンポジション(競)」で会員努力賞を受賞、翌年二科会評議員となった。この間、同30-45年の問、白色セメント造形美術会野外彫刻展に毎年出品を続けた他、同34年仏国サロン・ド・コンパレーゾンに出品、同47、48年建築と共にある彫刻展に参加、同51年グループ13(東美校昭和13年卒)結成に加わるなど、積極的に制作活動を展開した。同50年特許庁審判長を退官する。野外彫刻作品としては、品川区立図書館など数多く設置されている。

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