本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





牧雅雄

没年月日:1935/08/14

 明治21年神奈川県に生る。太平洋画会研究所彫塑部に彫塑を修め、主として藤井浩祐の指導を受けた。昭和2年日本美術院同人に推された。享年48。

木村五郎

没年月日:1935/08/01

読み:キムラ, ゴロウ*、 Kimura, Goro*  明治32年東京に生れ、大正4年東京高工附属徒弟学校卒業後山本端雲に就いて木彫を習つた。後石井鶴三の風を慕つて其の指導を受け、又同氏の推薦で大正8年日本美術院研究会員となつた。翌10年「簸の川上の素盞雄尊」外1点が院展に初入選となり、大正15年には日本美術院の院友に挙げられ、昭和2年9月同院同人に推された。作る所は主として木彫でそれも小品を得意とした。享年37。

本間憲之助

没年月日:1935/07/22

 明治38年山形県に生れ、昭和6年日本美術学校卒業、昭和5年帝展初入選、其の後構造社に出品していた。享年31。

藤川勇造

没年月日:1935/06/15

読み:フジカワ, ユウゾウ*、 Fujikawa, Yuzo*  新に帝国美術院会員に任命され、旬日にして6月11日発病、同15日急逝した。 明治16年松平藩漆彫家玉楮象谷の嫡孫として高松市古新町に生れた。長じて香川県立工芸学校に学び、明治36年卒業と同時に東京美術学校彫刻科に入学、明治41年業を卒ふるや直ちに農商務省海外練習生となり、在仏8年、此の間巨匠アウギユスト・ロダンに師事した。大正5年帰朝し、同8年二科会会員に推薦され、爾後昭和10年迄二科会彫刻部の為に尽瘁して居た。昭和10年5月帝国美術院の改組と共に会員に任命され次で二科会と別れてその名誉会員とされた。作品は数多しとしないが佳作多く、就中「スザンヌ」「マリー・アントアネツト」(滞仏中)、「女浮彫」(昭和4年二科会出品)、「ボツス氏像」(昭和7年二科会出品)、「裸」(昭和8年二科会出品)等は夫々の時代に於ける秀作と見られる。又晩年には松平頼寿伯、若槻礼次郎男等の銅像の製作がある。享年53。左に岩井藤吉氏作製の作品年表(東京美術学校校友会会報第6号所載)を転載する。滞仏明治41-大正5 デデノ顔、トルソー、兎、スーザンヌ、マリー・アントアネツト、ブロンド、鷹大正10年 三輪田真佐子刀自銅像大正11年 トルソー、中江氏胸像大正12年 マドモアゼルS、無題大正13年 中江種造氏銅像大正14年 Tの顔、立つ女大正15年 ポーズせる女、詩人M昭和2年 女製作、Kの首、A氏像昭和3年 手を挙げる裸女、蹲る少女昭和4年 女浮彫、男習作、裸昭和5年 Nの顔、裸立像昭和6年 働く老夫、黒き像、吉岡弥生氏銅像、煙突掃除夫、秋山直之中将銅像昭和7年 MR・BORS、印度の男、海鳥を射る、裸、鴨昭和8年 裸、教育家O氏像、ソクラテス、志村源太郎氏像、鴨昭和9年 裸、花籠持つ少女、渡辺翁像 松平頼寿伯銅像、裸立像昭和10年 裸A、裸B、若槻礼次郎男銅像、小糸淳介氏像(絶作)年代不詳 宇喜田秀穂氏胸像、大島氏胸像、高木氏胸像、野崎氏胸像 井上重造氏胸像

堀江尚志

没年月日:1935/06/05

 明治31年盛岡市に生れ、大正11年東京美術学校彫刻科を卒業した。在学中既にその俊才の光芒を示し、第2回帝展に「ある女」を出品して特選を贏ち得、又第3回帝展の「をんな」も特選を占め、大正13年無鑑査に推薦された。其後帝展出品と同時に塊人社に属し、昭和10年帝展審査員に挙げられ将来を嘱望されて居たにも拘らず、其夭折せしは惜しまれる。享年38。

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