本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,961 件)





谷口吉郎

没年月日:1979/02/02

読み:タニグチ, ヨシロウ*、 Taniguchi, Yoshiro*  建築家谷口吉郎は、2月2日胃ガンのため東京都港区元の前田外科病院で死去した。享年74。1904(明37)年6月24日石川県金沢市の九谷焼窯元の家に生まれ、四高を経て28年東京大学工学部建築学科を卒業した。30年東京工業大学講師となり、翌年には助教授、43年には教授となった。この間、38年より2年間外務省、文部省より在外研究員として欧米に派遣され、65年退官するまで建築計画、意匠学、設計等について研究、教育した。退官後も幅広い活動で内外に知られ、作品は終戦直後に長野県馬籠における島崎藤村記念堂の設計で建築学会賞を受賞した。そのほか戦前では慶応幼稚舎校舎が有名で、戦後には東宮御所をはじめ東京国立博物館東洋館、東京国立近代美術館、迎賓館赤坂離宮和風別館、ホテルオークラ等現代日本の代表的な建物を設計した。また記念碑的なものも多く手がけ高村光太郎、森鴎外、志賀直哉ほか文学者の詩碑や文学碑も設計し、東京千鳥ヶ淵の戦没者墓苑等、墓碑類も多い。一方戦後、明治の歴史的建築が急速に失われゆくのを惜しんで、四高時代の同級生土川元夫名鉄副社長の協力を得、それらを移築集合させた博物館「明治村」の建設を実現させ、64年以来同館々長をつとめた。ライト設計の帝国ホテル移築をはじめ、森鴎外、夏目漱石旧宅など各地より貴重な建物をはこび、内容充実に努めた功績は高く評価された。建築におけるその作風は、いづれも繊細な日本の伝統的様式を近代に生かしたもので、清明な造形表現を特色とした。工学博士。日本芸術院会員。文化勲章受領。略年譜1904 6月4日、石川県金沢市に生まれる。生家は九谷焼の窯元であった。1911 石川県立師範学校付属小学校入学。1918 石川県立第二中学校入学。1922 第四高等学校入学。学生時代は旅行部部員として夏はアルプス、冬は長野県へスキーに出かけるなどの活躍ぶりを示す。1925 第四高等学校卒業。東京帝国大学工学部建築科入学。1928 東京帝国大学工学部建築学科卒業。卒業研究は伊藤忠太教授の指導を受け、卒業設計は「製鉄所」の計画案。1931 東京帝国大学大学院入学。佐野利器教授の指導を受け、工場建設を研究。1930 東京工業大学講師となる。1931 東京工業大学助教授となる。佐野利器教授のお世話で松井絹子と結婚。1932 東京工業大学水力実験室、東京都目黒区大岡山1933 佐々木邸、東京都大田区田園調布東京工業大学建築材料研究所、東京都大田区石川町三井邸家族室、東京都世田谷区若林1935 南薫造山荘、長野県軽井沢町自邸、東京都品川区小山1936 東大航空研究所にて「建築物の風圧に関する研究」を始め、数年間風洞実験に従事。1937 慶應義塾幼稚舎校舎、東京都渋谷区恵比寿梶浦邸 東京都中野区中央1938 慶應義塾大学予科日吉寄宿舎、神奈川県横浜市港北区箕輪町日本大使館建設工事の技術交渉のため、外務省嘱託としてドイツに出張。1939 第二次世界大戦勃発により、避難船・靖国丸にてアメリカを経て帰国。1940 木下杢太郎らと「花の書の会」を始め、「花の書」を創刊。1942 論文「建築物の風圧に関する研究」に対し日本建築学会学術賞を受賞。1943 工学博士号を受く。東京工業大学教授となる。1944 11月頃より雑誌「文藝」に「雪あかり日記」を書き始める。1947 藤村記念堂、長野県木曾郡山口村徳田秋声文学碑、石川県金沢市末広町卯辰山公園1948 慶應義塾中等部三田校舎、東京都港区三田慶応義塾幼稚舎合併教室、東京都渋谷区恵比寿1949 藤村記念堂その他に対して日本建築学会作品賞を受賞慶應義塾大学通信教育部事務室、東京都港区三田慶應義塾大学第三校舎(四号館)、東京都港区三田慶應義塾大学第二校舎(五号館)、東京都港区三田慶應義塾大学学生ホール、東京都港区三田島崎藤村墓所、神奈川県中郡大磯村地福寺1950 慶應義塾大学病院は号病棟、東京都新宿区信濃町1951 慶應義塾女子高等学校第一校舎(三号館)、東京都港区三田慶應義塾大学第二研究室(万来舎)、東京都港区三田佐々木小次郎の碑、福岡県北九州市小倉区赤坂手向山公園木石舎、新日本茶道展(松坂屋上野支店)出陳慶應義塾普通部日吉校舎、神奈川県横浜市港北区日吉本町原民喜詩碑、広島市基町城趾公園1952 石川県繊維会館、石川県金沢市西町兒島喜久雄墓碑、東京都港区南青山梅窓院慶應義塾女子高等学校第二校舎(四号館)、京都港区三田慶應義塾大学病院ほ号病棟、東京都新宿区信濃町慶應義塾大学第三研究室、東京都港区三田慶應義塾大学体育会本部、東京都港区三田1953 桃季境、プール・付属家、静岡県熱海市伊豆山十和田記念碑、森県十和田町佐藤春夫詩碑、青森県十和田町宮田重雄画室、武蔵野市吉祥寺山本別邸、書斎・書庫、神奈川県湯河原町慶應義塾大学日吉第三校舎、横浜市港北区日吉町1954 慶應義塾大学病院特別病棟、東京都新宿区信濃町高田保墓碑、奈川県大磯町高田保公園森鴎外詩碑、東京都文京区千駄木石川県議会議事堂、石川県金沢市広坂薄田泣菫詩碑、岡山県倉敷市連島町連島公園国立科学博物館理工学館、東京都台東区上野公園石橋家墓所、府中市多磨町東京都多磨霊園展覧会、現代の眼「日本美術史から」、国立近代美術館1955 相模原ゴルフクラブ、クラブハウス、神奈川県相模原市当麻集団週末住居、長野県北佐久郡軽井沢町志賀邸、京都渋谷区東新聞功労者顕彰碑(自由の群像)、東京都千代田区千鳥ヶ淵公園高崎市議会議事堂、高崎市高松町1956 『修学院離宮』(毎日新聞社)を刊行、毎日出版文化賞を受賞高村光太郎葬儀、東京都港区南青山東京都青山葬儀所1956 慶應義塾大学医学部基礎医学第一校舎、東京都新宿区信濃町秩父セメント株式会社第二工場、埼玉県秩父市木下杢太郎詩碑、伊東市湯川伊東公園幸田延音楽碑、東京都大田区池上本門寺慶應義塾中等部三田校舎、東京都港区三田1957 慶應義塾大学医学部基礎医学第三校舎、京都新宿区信濃町佐伯邸、東京都千代田区一番町佐伯別邸、長野県北佐久郡軽井沢町弟橘媛歌碑、神奈川県相模原市当麻相模原ゴルフクラブ1958 東京工業大学創立70周年記念講堂、東京都目黒区大岡山原敬記念館、岩手県盛岡市本宮藤村記念館、長野県小諸市丁懐古園慶應義塾発祥記念碑、東京都中央区明石町佐藤邸、京都渋谷区松濤警視庁築地警察署数寄屋橋巡査派出所、東京都中央区銀座第四高等学校寮歌記念碑(南下郡の碑)、金沢市広坂金沢大学1959 千鳥ヶ淵戦没者墓苑、東京都千代田区三番町解体記念碑、東京都荒川区南千住回向院蘭学記念碑、京都中央区明石町石川県美術館、石川県金沢市兼六町青森県立体育館、青森市横山町別宮邸、東京都世田谷区成城小林邸、東京都渋谷区松濤1960 桃季境、本館玄関・ロビー、静岡県熱海市伊豆山火野葦平文学碑、北九州市修多羅高塔山公園東宮御所、東京都港区元赤坂八火翁光永星郎之碑、東京都谷中霊園展覧会、小林古径遺作展、国立近代美術館展覧会、伝統工芸店「日本人の手」、国立近代美術館1961 東宮御所その他の業績に対して日本芸術院賞を受賞。明治建築の保存を土川元夫氏にはかる。青森県庁舎、青森市長島秩父セメント株式会社製管工場、秩父市大野原1962 日本芸術院会員となる。財団法人明治村認可、常任理事となる。ホテルオークラ、ロビー、東京都港区虎ノ門新渡戸稲造記念碑、岩手県盛岡市内丸岩手公園資生堂会館、東京都中央区銀座文京区立鴎外記念本郷図書館、東京都文京区千駄木日夏耿之介詩碑、長野県飯田市通町森鴎外文学碑、北九州市中央公園三菱金属鉱業株式会社大井工場、東京都品川区西品川秩父セメント株式会社熊谷工場、埼玉県熊谷市三ヶ尻1963 永井荷風文学碑、東京都荒川区南千住浄閑寺田邊元墓碑、群馬県吾妻郡長野原町吉川英治墓所、東京都府中市多磨町東京都多磨霊園不二禅堂、東京都渋谷区代々木石井漠「山を登る」記念碑、東京都台東区浅草浅草公園資生堂画廊、東京都中央区銀座大下夫人葬儀、東京都港区南青山東京都青山葬儀所1964 博物館明治村初代館長に就任。展覧会、現代の眼「暮らしの中の日本の美」、国立近代美術館慶應義塾幼稚舎講堂(自尊館)、東京都渋谷区恵比寿名古屋大学古川図書館、名古屋市東山区不老町室生犀星文学碑、金沢市中川除町湘南ヨットハーバー、藤沢市江の島1965 3月18日、博物館明治村開館。東京工業大学教授を定年退官、同大学名誉教授となる。乗泉寺、東京都渋谷区鶯谷町良寛記念館、新潟県出雲崎町正宗白鳥文学碑、長野県北佐久郡軽井沢町尾崎士郎墓所、川崎市多摩区生田春秋苑博物館明治村、犬山市大字内山1966 帝国劇場、ロビー・客席、東京都千代田区丸の内1967 ㈱谷口吉郎建築設計研究所を設立する。明治村茶会運営委員会委員長となり、第1回明治村茶会開催。1968 文化庁文化財保護審議会委員となる。東大寺図書館、奈良市雑司町東京国立博物館東洋館、東京都台東区上野公園淡交ビルヂング、京都市北区紫野宮西町平和塔(ピース・パゴダ)、サンフランシスコ市ポスト街ジャパン・センター日本モンキーセンター栗栖研究所、犬山市犬山官林1969 東京国立近代美術館、東京都千代田区北の丸公園鴎外遺言碑、東京都三鷹市下連雀禅林寺小説徳川家康記念碑、栃木県日光市山内二社一寺入会地文学者之墓、静岡県駿東郡小山町冨士霊園柿傳、畳席、京都新宿区新宿東宝ツインタワービル、東京都千代田区有楽町1970 柿傳、椅子席、東京都新宿区新宿志賀直哉赤城文学碑、群馬県富士見村茶道研修会館、京都市北区第二淡交ビル、京都市北区1971 硫黄島戦没者の碑、東京都小笠原村硫黄島ホテルオークラ・アムステルダム ロビー中山義秀文学碑、成田市成田山公園八王子乗泉寺霊園、東京都八王子市加住町東京會舘、東京都千代田区丸の内清水家墓所、東京都大田区池上本門寺第四高等学校寮歌記念碑(北の都の碑)、金沢市広坂放送功労者顕彰碑(しあわせの像)、東京都渋谷区神南志賀直哉葬儀、京都青山葬儀所1972 河文、水かがみの間、名古屋市中区丸の内ホテルオークラ、久兵衛・山里、東京都港区虎ノ門亀井勝一郎墓碑、東京都多磨霊園1973 文化功労者となり文化勲章を受章。比島戦没者の碑、フィリピン共和国ラグナ州カリラヤホテルオークラ別館、ロビー、東京都港区六本木春日大社収蔵庫(宝物館)、奈良市春日野町石川県立中央公園噴水広場、金沢市広坂吉田富三墓碑・シロネズミの碑、東京都文京区本駒込吉祥寺森鴎外遺言碑、島根県津和野町養老館1974 中部太平洋戦没者の碑、サイパン島迎賓館別館(遊心亭)、東京都港区元赤坂吉屋信子墓碑、鎌倉市長谷高徳院日本学士院会館、東京都台東区上野公園国立飛鳥資料館、奈良県高市郡明日香村佐藤春夫詩碑、東京都港区三田慶應義塾大学新聞創刊の地記念碑、東京都千代田区霞が関1975 山本和夫詩碑、福井県小浜市門前明通寺1979 2月2日、満74歳8ヶ月で永眠。従3位勲1等瑞宝章追贈。(略歴・主要作品年譜 谷口吉郎建築設計研究所作製)

山口文象

没年月日:1978/05/19

読み:ヤマグチ, ブンゾウ*、 Yamaguchi, Bunzo*  RIA建築綜合研究所相談役の建築家、山口文象は、5月19日午後3時15分、東京・大田区の指田直行宅で歓談中に心不全のために急逝した。享年76。山口文象は、本名を瀧蔵、明治35年(1902)1月10日、東京都浅草田町に生れた。父山口勝平は清水組大工棟梁であった。大正4年東京高等工芸学校附属職工徒弟学校木工科に入学し、大正7年卒業、清水組に入る。大正8年名古屋百五銀行現場雇員となり清水組を退職、この頃中条精一郎の訪ね指導をうけた。大正9年逓信省経理局営繕課製図工となり、岩本祿に兄事した。大正10年頃から茶室建築の実測撮影を行い、翌年洋画家の岡田三郎助にデッサンの指導をうけ、このとき猪熊弦一郎らと知りあった。大正12年分離派建築会会員となり、創年社建築会結成創年社第1回展に劇場試作を発表し、本格的な建築活動を開始した。大正13年内務省帝都復興局橋梁課嘱託技師となり大震災後の東京復興にたづさわり、清洲橋、浜離宮正門橋、数寄屋橋、八重洲橋、日本電力庄川ダムなどの建設に関係し、同年分離派第4会展に参加、以後昭和2年第6回展まで参加出品した。大正14年には東大で伊東忠太の講義を聴講し、翌年竹中工務店設計技師となり、また同年、前衛芸術のグループ単位三科の結成に参加した。昭和2年名本喜久治建築事務所主任技師となり、山叶商会、菊池邸などを設計、またこの頃から「新建築における唯物史観」「合理主義反省の要望」など文筆活動を行った。昭和5年(1930)末シベリヤ経由でヨーロッパへ渡り、同7年まで滞在、その間、ベルリンでグロピウスのアトリエのメンバーとなりベルリン工科大学で学び、フランス、イタリア、イギリスなどを歴訪した。帰国後は藤川勇造、アトリエ、仲田菊代アトリエ、小泉八雲記念館、林扶美子邸などを設計、昭和9年山口蚊象建築事務所を設立した。その後、戦前には安井曾太郎アトリエ、青雲荘アパート、荏原製作所病院及び羽田工場、黒部川第2発電所ダム、築地小劇場改装などを設計した。戦後の作品としては、昭和25年久ヶ原教会、明大大学院校舎計画、同28年大日本製糖堺工場、同29年神奈川大学綜合計画、同30年神大3号館、同31年緑成会整育園病院、近鉄建売住宅、同32年日本インターナショナル整流工場、同33年原町市民体育館、同35年美術家会館、同39年新宿副都心計画、同42年新大阪センイシティ、同47年町田市郷土資料館、同50年平安教会、同52年渋川市民会館などがある。また昭和25年には新制作協会建築部会員となり、同28年RIA建築綜合研究所を設立、同35年には前年の作品、朝鮮大学で建築年鑑賞の受賞、同44年には神奈川県建築コンクール賞、大阪府建築コンクール賞をうけた。昭和52年には株式会社RIA建築綜合研究所取締役相談役に就任、同53年5月19日午後3時15分、心筋硬塞のため急逝した。5月21日久ヶ原教会で告別式、6月1日青山葬儀所において葬儀がとりおこなわれた。

西岡楢二郎

没年月日:1978/02/07

 法隆寺宮大工西岡楢二郎は、2月7日心不全のため、奈良県北葛城郡の永浜病院で死去した。享年65。大正2年1月20日法隆寺大工西岡楢光の二男として、奈良に生れた。斑鳩尋常高等小学校を卒業、昭和2年4月より同6年10月まで大工見習として、法隆寺塔中寺院の営繕にたずさわった。その後も、法隆寺西院、西室及び三経院の解体修理などを行い、昭和9年より同11年まで現役兵として兵役に服し満州に在った。戦時中は東院、夢殿、南門、絵殿、舎利殿及び北室院、本堂、表門、伝法堂、宗源寺表門、西院精霊院等の解体修理にあたったが、この間しばしば臨時召集により兵役に服し、北支、中支、朝鮮等に派遣された。昭和21年復員後は、再び法隆寺及び各塔中寺院の営繕及び解体修理、復原調査等を担当し、昭和48年11月には古建築修理の功績により奈良県文化賞を授与され、欲49年4月には吉川英治文化賞を受賞した。昭和53年2月勲六等旭日章受勲。

中村順平

没年月日:1977/05/24

読み:ナカムラ, ジュンペイ*、 Nakamura, Junpei*  建築家中村順平は、5月24日急性じん不全のため横浜市立大学病院で死去した。享年89。明治20年8月29日大阪市北区に生れ、明治40年大阪府立天王寺中学、同43年名古屋高等工業学校建築科を卒業した。東京曾弥中條建築事務所に就職し、旧如水会館、東京大正博覧会会場設計など、大正期の代表的建築設計を手がけた。大正13年フランス国立パリエコールスーペリユールデボザール建築科を修業4ケ年にして卒業、フランス建築士D・P・L・Gの称号を受けた。その後横浜高等工業(現横浜国大工学部)の建築科主任教授として永年建築教育にあたり、昭和34年日本芸術院賞を受賞した。また教育のかたわら客船の船内装飾も手がけ「田丸」「八幡丸」「あるぜんちな丸」などの設計がある。昭和50年日本芸術院会員となる。

山本学治

没年月日:1977/05/20

読み:ヤマモト, ガクジ*、 Yamamoto, Gakuji*  近代建築史の研究家の工学博士、東京芸術大学美術学部教授の山本学治は、5月20日午後5時5分、急性心不全のため神奈川県川崎市中原区の日本医大附属第二病院で死去した。享年54歳。山本学治は大正12年(1913)2月11日、東京都文京区に生まれ、昭和20年(1945)8月、東京帝国大学第二工学部建築学科を卒業、同時に第2工学部大学院にすすみ、また、同年9月から同24年10月まで文部省特別研究生として「近代建築の技術史的研究」を研究主題として小野薫、関野克両教授の指導をうけた。昭和25年(1950)10月、大学院を修了しまた同24年12月20日東京芸術大学美術学部建築科の文部教官助教授補となり、同26年4月専任講師となった。昭和34年12月、東京芸術大学美術学部助教授、同39年5月教授に昇任したが、その間、建築月刊誌『国際建築』の編集、近代建築史の研究、建築評論で活躍し、昭和37年工学博士号をうけた。昭和49年9月、同50年3~4月にはヨーロッパへ出張、同49年以降50年まで日本建築学会幹事の任にあった。主要な著書に『ミース・ファン・デル・ローエ』(昭和28年、彰国社)、『近代建築史』(共著、昭和33年、彰国社)、『あなたの住宅設計』(共著、昭和35年、池田書店)、『現代建築と技術』(昭和38年、彰国社)、『現代建築十二章』(訳書、昭和40年、鹿島出版会)、『素材と造型の歴史』(昭和41年、鹿島出版会)などがある。また登山家としても知られ、東京芸大山岳部長をつとめたほか、少年向けの著書『もりのめぐり』や、山の歌「ぼくのふるさと」の作詞作曲などがある。

森井健介

没年月日:1976/11/18

 建築学者、日本建築学会名誉会員森井健介は、11月18日午後3時2分脳軟化症のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年88。明治20(1887)年12月23日東京市小石川区で生まれ、同44年東京帝国大学工科大学建築科を卒業、同年早稲田大学理工学部講師となり、大正3年10月東京美術学校教授に就任、昭和19年6月まで教鞭をとった。昭和25年から同32年までは法政大学教授をつとめ、その後もひきつづき同大学講師のほかその他の機関で教えた。その間、大正6年からと同9年から各2ヶ年日本建築学会理事として、昭和3年から同16年までは同会管事として同会の運営に尽力、同36年日本建築学会名誉会員に推挙された。また、宮内省内匠寮臨時蟻害調査事務嘱託(大正3年10月―同9年12月)、日本工学会事務嘱託(昭和5年1月―同9年12月)もつとめた。専門の建築学のほか、幅広い活動の中には関西地方風水害対策委員会委員なども含まれる。

岡田捷五郎

没年月日:1976/10/02

読み:オカダ, ショウゴロウ*、 Okada, Shogoro*  東京芸術大学名誉教授、建築家の岡田捷五郎は、10月2日午前5時30分、急性肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年81。岡田捷五郎は、号を蕉巴(しょうは)、明治27(1894)年11月24日、東京市牛込区に生まれ、大正2年早稲田中学校卒業、同4年4月東京美術学校図案科第2部(建築科)に入学、9(1910)年3月卒業、卒業制作によって日本美術協会より銅牌をうけた。大正9年3月~11月滝川工務店に勤務して建築設計に従事したが同年12月~11年11月まで赤羽工兵第一大隊に服務、除隊後は、兄岡田信一郎の建築設計事務所で設計を担当、大正13年11月から同15年1月まで建築視察のためヨーロッパ、アメリカを歴遊した。帰国後も岡田信一郎事務所において設計監理に従事し、一方、昭和2年(1927)6月から母校の東京美術学校建築科講師となり後進を指導、同18年5月には同校教授となった。また、昭和5年6月から11月には北アメリカ、カナダの各地を視察旅行し、昭和7年兄信一郎没し、そのあとをうけて建築設計事務所を自営した。昭和24年6月、東京芸術大学教授、37年3月停年のため退職、名誉教授となった。退職後は、南建設株式会社相談役、信建築事務所顧問、日本建築士会理事、及び理事長などをつとめた。昭和39年7月建設大臣より表彰状並びに銀盃、同40年11月には勲三等瑞宝章をうけ、没後、正五位に叙せられた。 設計監理に当った主なる作品に、銀座伊東屋、明治生命保険会社本社々屋、黒田清輝記念館(以上、兄信一郎設計に協力)、琵琶湖ホテル、高千穂ビル、京都田付商店、太陽生命保険会社京都支社、日本出版クラブ、旺文社本館などがある。

伊藤平左エ門

没年月日:1976/02/03

読み:イトウ, ヘイザエモン 11セイ*、 Ito, Heizaemon 11sei*  慶長年間から300余年続く宮大工の当主伊藤平左エ門は、2月3日午後9時5分、脳血栓のため名古屋市の岡山病院で死去した。享年80。旧名次郎、諱正道。明治28(1985)年4月22日、伊藤満作の次男として名古屋市に生まれ、愛知県立第一中学校を経て、大正6(1917)年3月名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築科卒業、大正11年1月、十一代目伊藤平左エ門を襲名、社寺建築請負の家業を継いだ。昭和3年1月より約2ヶ月間、タイ及びインドの仏蹟を巡歴した。昭和26年11月一級建築士免許、昭和45年11月勲五等に叙し瑞宝章を授けられた。 伝統的手法による社寺建築の造営に従事し、寺院建築では設計施工121棟、設計3棟、施工10棟、神社建築では設計施工77棟、設計7棟、施工17棟、その他の建物5棟、物件18を数え、主要作品としては、昭和元年の兵庫・円教寺摩尼殿、同4年の東京・青松寺本堂、同10年の京都・金戒光明寺の大方丈ほか4件、同年の千葉・新勝寺内仏殿と書院、同28年の米国ニューヨーク近代美術館内の古典住宅、同32年の島根・出雲大社拝殿がある。なお論文、著書としては、「ポロンナルワの仏教建築」(東洋美術第12冊、昭和4年)、「★羅古代法輪に就いての考察」(東洋美術第11号、昭和6年)、「建築の儀式」(彰国社、昭和34年)、「古建築秘話」(鳳山社、昭和37年)、「宮大工十話」(毎日新聞社、昭和40年)を挙げることができる。

西岡楢光

没年月日:1975/03/12

 法隆寺大工棟梁西岡楢光は、3月12日老衰のため、奈良県生駒郡の自宅で死去した。享年90歳。昭和9年から20年間かかりで行われた五重塔、金堂など法隆寺の「昭和の大修理」の大工棟梁を務めるなど宮大工一筋に生きた。昭和30年紫綬褒章、同40年には勲四等瑞宝章を受章、昭和49年3月、後継者の長男常一、二男楢二郎とともに「宮大工一家」として吉川英治賞を受賞した。

金剛よしゑ

没年月日:1975/03/08

 宮大工金剛組38代目の女棟梁であった金剛よしゑは、3月8日、老衰のため死去した。享年80歳。金剛よしゑは明治27年(1894)5月25日、京都府福知山市に生まれ、明治42年3月京都府天田郡立高等小学校を卒業、大正6年(1917)9月、金剛組37代金剛治一と結婚。昭和7年(1932)9月金剛治一死去後は、38代をついで1000年以上つづいている宮大工金剛組当主となって組を守り、昭和9年(1934)の第1次室戸台風で倒れた大坂四天王寺五重塔再建で話題をよんだ。そのほかにも、四天王寺金堂・西大門を再建、旧水戸藩偕楽園好文亭復元、水戸弘道館修復、旧江戸城田安・清水門復元、永平寺鐘楼復元、大阪奈良の護国神社新築、東本願寺天満院建立、那智山青岸渡寺三重塔建立などの仕事を手がけた。その生涯はテレビ・ドラマ化されたが、晩年は戦没者慰霊のため千巻の写経を完成させた。

内田祥三

没年月日:1972/12/14

読み:ウチダ, ヨシカズ*、 Uchida, Yoshikazu*  文化勲章受章者、日本学士院会員、元東大総長、工学博士内田祥三は12月14日急性肺炎にため赤坂山王病院で死去した。享年87才。東京都江東区出身。1907年(明治40)に東京帝大工科大学建築学科卒業後、1911年より同大学講師。1921年には教授になり1943年3月から45年12月まで総長に就任。戦後は文化財保護委員を勤め、1972年11月に文化勲章を受賞した。1910年前後から学究生活に入るが、その当時までの石造や練瓦造りの建築に対して鉄骨構造や鉄筋コンクリート構造が日本に移入される時期であったので、防水・防震、構造としての鉄筋コンクリートを基本とする近代都市建築の基礎づくりに貢献した。都市計画法、市街地建築物法の制定にも功績があり、戦時中から戦後にかけての防火建築の研究も都市防火の進歩につくすものが大きかった。関東大震災後の東大安田講堂附属病院、図書館、といちょう並木の建築群および東京海上ビルの設計者でもあった。

剣持昤

没年月日:1972/07/29

 建築家・和光大学助教授剣持昤は7月29日オーストリアのグラーツで交通事故のため死去。享年34才。1938年4月9日、デザイナーの剣持勇を父として仙台市東北医学部附属病院で生れた。1961年東京大学工学部建築学科卒、同63年大学院修士課程修了。65年6月総建築研究所(株)設立所長。66年東京大学院博士課程修了(工学博士)。和光大学助教授アメリカン・フットボール部顧間、和光学園評議員を兼ねる。同年一級建築士資格取得。68年9月ISO・TC59の1968年度定例会議に日本建築学会より派遣され出席。72年6月ヨーロッパ諸国における工業化発展事情の視察および業務打ち合せのためヨーロッパ滞在日程の最終日に上記の事故に遭った。独自の建築生産工業化理論に基き、新しい規格構成材および建築構成システムの研究開発ならびに種々の情報活動を通じて、新しい建築家としての活躍を行っていた。

佐藤武夫

没年月日:1972/04/11

読み:サトウ, タケオ*、 Sato, Takeo*  元日本建築学会長、佐藤武夫設計事務所長、工学博士佐藤武夫は肺結核のため4月11日東京聖路加国際病院で死去した。享年72才。名古屋市出身。1922年(大正13)早稲田大学理工学部建築学科卒業。ただちに早稲田大学に教鞭をとり、1937年から1951年まで教授。1930年より1948年まで日本女子大教授として建築計画、設計、建築音響学を担当。1957年より58年まで日本建築学会長。他に日本建築士会連合会、東京建築士会、日本音響学会、日本建築家協会各理事を歴任。1969年建築美術工業協会の設立に尽力し、建築と美術、工業との協力関係の向上に貢献。1935「オーディトリアムの音響設計に関する研究」により工学博士を与えられた。建築作品には日比谷公会堂、早大大隈講堂、旭川市庁舎、ホテル・ニュージャパン、福岡県文化会館、水戸市庁舎、北海道開拓記念館等々で画家、彫刻家、工芸家との協力を積極的に実践してきた。その業績によって1967年日本芸術院賞を受賞。

内藤多仲

没年月日:1970/08/25

読み:ナイトウ, タチュウ*、 Naito, Tachu*  早大名誉教授、学士院会員の建築家内藤多仲は、8月25日老衰のため新宿の国立第一病院で死去した。享年84歳。山梨県出身で、明治43年東大工学部卒業後、明治45年から昭和31年まで早大教授をつとめた。この間、耐震建築構造の設計方式を確立し、地震工学の世界的権威といわれる。東京タワー、通天閣など各地のテレビ塔60基や、歌舞伎座、旧日本興業銀行ビルなどを設計した。関東大震災にも同氏の設計した歌舞伎座などのビルは、殆ど被害がなく、理論の正しさを実証した。日本建築学会長を二度にわたりつとめ、昭和37年文化功労者、同39年勲二等旭日重光章を受けた。

藤原義一

没年月日:1969/12/10

 元京都工芸繊維大学教授藤原義一は12月10日脳軟化症のため京都市左京区の自宅で死去した。享年71才。多年にわたる古建築の研究とその保存修理、および管理事業に力をつくし、功績があった。明治31年3月21日神戸市で生まれた。大正14年第三高等学校理科卒業、ついで昭和3年京都帝大工学部建築科卒業、昭和5年同大学院終了。昭和4年9月神戸高等工業学校講師、10月同志社女学校専門部講師、5年より12年3月まで京都帝大講師。15年5月京都絵画専門学校教授。16年4月京都市技師。19年4月彦根工業専門学校教授。21年2月工学博士の学位を授与される。23年3月京都工業専門学校教授。24年3月から36年まで京都工芸繊維大学教授。37年より42年まで近畿大学教授。主要著書「日本建築史」(天沼後一と共著、昭和8年誠文堂)「京都の古建築」(昭和19年桑名文星堂)「日本古建築図録」上下(昭和22年星野書店)

坂倉準三

没年月日:1969/09/01

読み:サカクラ, ジュンゾウ*、 Sakakura, Junzo*  建築家、前日本建築家協会会長の坂倉準三は、9月1日午後3時10分、心筋コウソクのため東京都港区の自宅で死去した。享年68歳。明治34年5月29日岐阜県羽島市に生まれた。昭和2年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。1929年からパリ大学エコール・スペシャル・デ・トラヴォ・ピュブリックにて建築を修学、’31年~’36年パリ市・ル・コルビュジェ建築事務所に於て建築並びに都市計画の設計監理の実務を研究。’36年~’39年パリ万国博日本館の設計監理に当り、’37年には万博建築大賞を受けた。’40年(昭和15年)坂倉準三建築研究所を創設。同年より’42年まで商工省の委嘱により輸出工芸指導官としてコルビュジェの協力者シャルロット・ペリアン女史を招き、日本の工芸美術刷新育成のための諸活動に協力した。戦後昭和21年から25年までには、連合軍司令部技術本部の委嘱により連合軍関係設営の設計を担当、以後没前まで、国の内外を問わず、精力的な活動を続けた。国内の主要設計作品には、神奈川県立近代美術館、羽島市庁舎、塩野義製薬研究所、新宿駅西口広場、神奈川県新庁舎、山口県立博物館、岐阜市民会館、日本万国博電力館があり、外国関係では、戦前のパリ万国博日本館の他、’55年-ドイツ・アウグスブルグにディーゼル記念日本石庭、’61年-ドイツ・ミュンヘンに日本住宅(書院造り)、’66年~9年-タイ国各地に専門教育学校25校を設計、’66年-日本駐仏大使公邸新築計画に協力、等がある。また日本建築家協会会長、建設省建築審議会委員、東京都建築審査会委員、通産省デザイン奨励審議会委員、国立西洋美術館評議員、神奈川県立近代美術館評議員などをつとめた。

山田守

没年月日:1966/06/13

読み:ヤマダ, マモル*、 Yamada, Mamoru*  東海大学教授、山田守建築設計事務所長の山田守は、6月13日午前4時15分、胃がんのため死去した。山田守は、大正9年、東大建築学科を卒業、分離派建築会の主要なメンバーとして活躍し、逓信省営繕技師として今日の逓信建築の基礎を築き、昭和初年には、関東大震災後の橋梁復興に尽力し、戦後は東京厚生年金病院をはじめとする病院建築の発展と近代化に大きな功績を残した。年譜明治27年(1894) 4月19日、岐阜県羽島郡に生れる。明治45年 大垣中学校卒業。大正6年 第四高等学校卒業。大正9年 東京帝国大学工学部建築学科を卒業、分離派建築会を組織、逓信省営繕技師となる。大正13年 門司電話局(門司市)。大正14年 東京中央電信局(東京・大手町)。昭和2年 大阪中央電信局(大阪・堂島)。昭和3年 復興院橋梁課嘱託となり永代橋、清州橋など隅田川6大橋、及びお茶の水聖橋の設計に関与する。昭和4年 中国、シンガポール、印度、イタリア、フランス、スイス、ドイツ、チェコ、オーストリー、ハンガリーなどヨーロッパ諸国及びアメリカに出張、その間フランクフルト・アム・マインにおいて開催された第2回国際新建築会議に出席。昭和5年 名古屋中央電話局(名古屋市)。昭和9年 宇部電話局(宇部市)。昭和10年 日本技術協会常務理事となる、以来科学技術の教育・普及につとめる。昭和11年 熊本貯金局、神戸中央電話局。昭和12年 東京逓信病院竣工、これに対して逓信協会賞を受ける。広島貯金局。昭和13年 大阪逓信病院(大阪・桃谷)。昭和15年 逓信省営繕課長に就任。昭和17年 現東海大学の前身航空科学専門学校の設立に協力する。昭和19年 国防電話局(東京・永田町)勲三等瑞宝章をうける。昭和20年 逓信省を退官する。昭和21年 通信建設工業株式会社を設立、専務取締役となる。昭和24年 通信建設工業株式会社を解散、山田守建築事務所を開設する。昭和26年 東海大学理事に就任し、工学部建設工学科主任教授となる。昭和28年 東京厚生年金病院(東京・飯田橋)文部大臣賞を受ける、防衛庁東京中央病院(東京・三宿)。昭和29年 大阪厚生年金病院、建築学会賞をうける。昭和30年 九州厚生年金病院(北九州市)。昭和31年 大阪市立医科大付属病院(大阪・天王寺)。昭和32年 逓信建築の功労に対し前島賞をうける。厚生年金保険庁舎(東京・杉並)長沢浄水場。昭和33年 熊本逓信病院(熊本市)。昭和35年 メキシコ建築家協会より外国特別会員に推される。社会保険横浜中央病院(横浜市)、国際電信電話研究所(東京・恵比寿)、AOAビル(東京・青山)、市立岸和田市民病院(岸和田市)。昭和37年 大阪船員保険病院(大阪・港)、大和郡山市庁舎、郡山綜合病院(奈良県郡山市)。昭和38年 日本武道館の設計競技に当選。昭和39年 藍綬褒章を受ける。日本武道館(東京・千代田区)、京都タワー・ビル(京都市)、市立清水綜合病院(清水市)。昭和40年 勲三等旭日中綬章をうける。玉造整形外科病院(島根県)、ヨーロッパ諸国、アメリカ、ブラジルに建築調査旅行。昭和41年 4月頃より健康を害し療養、6月13日逝去。

岸田日出刀

没年月日:1966/05/03

読み:キシダ, ヒデト*、 Kishida, Hideto*  東京大学名誉教授・工学博士の岸田日出刀は、5月3日午後3時30分、心筋こうそくのため山梨県山中湖畔の別荘で死去した。享年67才。岸田日出刀は、昭和4年以降東京大学工学部建築学科教授をつとめ、建築意匠に関する論文を多数発表し建築の造型意匠の権威として知られ、また前川国男、丹下健三など現代日本建築界に活躍している建築家を育成した功績も大きく、日本建築学会会長、文化財専門審議会第二分科会専門委員、東京オリンピックの施設特別委員長などを歴任した。手がけた主要な作品には、故内田祥三との共作東大安田講堂(1922-25)、東大図書館(1928)、衆・参院議長公邸、高知県庁、西本願寺津村別院などがある。著書も多く主要なものに、「日本建築史」(昭和7年)「欧州近代建築史」(昭和8年)「第11回オリンピック大会と競技場」(昭和12年)「薨」(昭和12年)「堊」(昭和13年)「過去の構成」(昭和13年)「熱河遺跡」(昭和15年)「扉」(昭和17年)「日本の城」(昭和19年)「焦土に立ちて」(昭和21年)「窓」「縁」などがある。略年譜明治32年(1899) 2月6日、福岡市に生れる(郷里は鳥取県)大正5年 東京府立第三中学校卒業。大正8年 第一高等学校二部甲類卒業。大正11年 東京帝国大学工学部卒業。大正12年 東京帝国大学工学部講師。大正14年 東京帝国大学工学部助教授となり、ヨーロッパ諸国に出張(1年間)昭和4年 東京帝国大学工学部教授・工学博士。昭和11年 ヨーロッパのヴェルクブント運動に刺激されて創設された日本工作文化連盟に参加。昭和23年 日本学術会議会員に選ばれる。昭和25年 建築界につくした功績によって昭和24年度日本芸術院賞を受賞。昭和34年 東京大学工学部教授を定年退職。昭和41年 5月3日午後3時30分死去。

蔵田周忠

没年月日:1966/03/07

読み:クラタ, チカタダ*、 Kurata, Chikatada*  建築家・武蔵工業大学教授蔵田周忠は、3月7日午後3時8分、脳出血のため東京世田谷の国立第2病院で死去した。享年71才。蔵田周忠は、明治28年2月26日、山口県萩市に生れ、大正10年早稲田大学工学部建築学科選科を修了後、協和銀行九段支店(昭和2年)から杉並区立杉並公民館(昭和28年)にいたる建築設計活動、武蔵工大を中心とする教育活動、その他多くの著書にみられる文筆活動、日本建築学会・東京建築士会の創設と運営、一級建築士試験委員、中央建築審議会委員など広い社会的活動によって、日本建築界・デザイン界に貢献するところ大きく、昭和36年黄綬褒章、同40年勲四等瑞宝章を授与された。略年譜明治28年(1895) 2月26日・山口県萩市に生れる。大正2年 私立工手学校建築科を卒業。大正3年 三橋四郎建築事務所製図員となる。大正4年 曽根・中条建築事務所に勤務。大正9年 早稲田大学工学部建築学科選科に入学大正10年 早稲田大学工学部建築学科選科卒業。平和記念東京博覧会技術員となる。大正10年 関根建築事務所技師昭和2年 東京高等工芸学校講師となり立体デザインを担当(昭和18年9月まで)昭和5年 3月渡欧し、ドイツにあって建築・デザイン研究。昭和6年 5月帰国、蔵田周忠建築事務所を開所。昭和7年 武蔵工業専門学校教授となる。昭和8年 ドイツより勲章「ローテクロイツ」を贈られる。昭和24年 武蔵工業大学教授、東京芸術大学美術学部講師(昭和37年3月まで)作品 協和銀行九段支店、大阪土佐堀支店、京王閣遊園、明治天皇聖跡記念館(昭和2年) 三峰神社秩父宮登山記念館(昭和3年) 東京等々力住宅区計画(内4戸実施、昭和10年) 安川邸(北九州市戸畑、昭和11年) 貝島邸(東京尾山台、昭和12年) 甲府市庁舎(昭和13年) 武蔵工業大学(昭和14年) 山口市庁舎(昭和24年) 千葉県自治会館(昭和26年) 杉並区立杉並公民館(昭和28年)著書 エジプトの文化と建築(洪洋社、大正11年)印度の文化と建築(洪洋社、大正13年)、近代建築思潮(洪洋社、大正13年)、近代英国田園住宅抄(建築画報社、大正15年)、ロダン以後(中央美術社、大正15年)、ルネサンス文化と建築・上・下(洪洋社、大正15、昭和2年)、欧州都市の近代相(六文館、昭和7年)、近代的角度(信友堂、昭和8年)、現代建築(東学社、昭和10年)、生産工業的家具(洪洋社、昭和10年)、陸屋根(相模書房、昭和15年)、ブルーノ・タウト(相模書房建築新書、昭和17年)、建築透視図(アルス、昭和18年)、建築と製図(相模書房、昭和22年)、小住宅の設計(主婦の友社、昭和22年)、製図・建築ハンドブック(彰国社、昭和24年)、グロピウス・近代建築家シリーズ(彰国社、昭和28年)、民家帖(古今書院、昭和30年)、塔のある風景(彰国社、昭和32年)、日本近代建築の研究(相模書房、昭和34年)、訳書・グロピウス「生活空間の創造」(彰国社、昭和33年)

岸熊吉

没年月日:1960/11/23

読み:キシ, クマキチ*、 Kishi, Kumakichi*  古文化財の保存修理に長らくたずさわっていた岸熊吉は11月23日、脳溢血のため奈良市の自宅で逝去した。享年79才。明治15年1月8日福井市に生れた。中学時代に上京、明治31年東京美術学校図案科を卒業し、直ちに内務省宗教局国宝調査室で国宝建造物実測図のトレースの仕事に入っていった。同32年、京都府の社寺建造物修理技手を嘱託され、醍醐寺経蔵修理工場に、又本願寺飛雲閣修理工事場にも勤務した。大正10年奈良県技師に任ぜられ、以後退官までの20年間に県内国宝建造物約50棟の修理に関与した。その主なものは、東大寺南大門・転害門・大湯屋、興福寺東金堂、唐招提寺礼堂、当麻寺金堂・講堂、室生寺灌頂堂、春日神社本殿、石上神社拝殿その他がある。昭和9年、法隆寺国宝保存工事事務所より法隆寺国宝保存工事計画調査を嘱託され、更に16年、法隆寺国宝保存工事事務所長兼技師を嘱託された。20年同嘱託を解かれ、その後は文化財保護に関する各委員を委嘱され、34年には長年の功により紫授褒賞を授与された。

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