本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,961 件)





今井兼次

没年月日:1987/05/20

読み:イマイ, ケンジ*、 Imai, Kenji*  日本芸術院会員、早稲田大学名誉教授、日本建築学会名誉会員の建築家今井兼次は、5月20日午後7時43分、急性心不全のため東京都清瀬市の慈生会ベトレヘムの園病院で死去した。享年92。明治28(1895)年1月11日東京市赤坂区に生まれ、同41年青山尋常小学校高等科1年修了。大正2(1913)年日本中学校を卒業し、同8年早稲田大学理工学科建築科を卒業して同科の助手となり翌年助教授に昇任。10年国民美術協会建築部会員となる。13年建築団体「メテウォール」を結成。14年早稲田大学図書館の設計に当たる。翌15年早稲田大学留学生としてソビエトを経て欧米へ渡り近代建築を視察するとともに、13年に依嘱された東京地下鉄道の設置に関する調査を行ない昭和2(1927)年帰国。同年東京地下鉄道浅草-上野駅舎を制作する。同3年帝国美術学校の設立に尽力し、また、ル・コルビジェ、アントニオ・ガウディ、サアリネンなど海外における建築の趨勢について日本建築学会に発表し、我国で初めてこれらの作家を紹介。そののちも同4年近代建築写真展を紀伊国屋で開催し、8年には朝日新聞社で欧州新建築展を開くなど西欧建築の新潮流へと目を開かせた。根津美術館、碌山美術館などを手がけ、34年には千葉県大多喜町役場の設計により日本建築学会賞、37年には長崎の日本26聖人殉教記念館により再度同賞受賞。41年皇后陛下還暦記念ホール桃革楽堂により日本芸術院賞を受け、52年近代建築のヒューマニゼイションによる建築界への貢献に対し日本建築学会大賞が贈られた。53年日本芸術院会員となる。この間、常に母校にあって教鞭をとり、昭和12年教授、40年名誉教授となる。41年より57年まで関東学院大学教授をつとめた。著書も多く『建築とヒューマニティ』(28年)、『芸術家の倫理』(33年)、『現代日本建築家全集5』(46年)、『近代建築の目撃者』(52年)などがあり、芸術としての建築に関する言論活動を展開した。

前川國男

没年月日:1986/06/26

読み:マエカワ, クニオ*、 Maekawa, Kunio*  日本建築学会名誉会員、元日本建築家協会会長で日本の近代建築の第一者であった前川國男は、6月26日午前9時50分、心不全のため東京港区の虎の門病院で死去した。享年81。明治38(1905)年5月14日、新潟市に生まれ、昭和3(1928)年東京帝国大学工学部建築学科を卒業。同年4月フランスに渡りパリのル・コルビュジェ建築事務所に入り近代建築を学ぶ。同5年帰国し、東京レーモンド建築事務所に入る。同10年前川國男建築設計事務所を設立して独立。公共建築の分野で近代建築運動を展開し、戦後は31年のブリュッセル万国博日本館、36年の東京文化会館の設計のほか、国際文化会館、京都会館、慶応大学病院、東京海上ビル、熊本県立美術館、福岡市美術館、東京都美術館、山梨県立美術館、国立西洋美術館新館、宮城県美術館などを設計し、28年を皮切りに30、31、36、37、41年の6回にわたり日本建築学会賞を受賞。この間の34年より37年まで日本建築家協会会長をつとめた。37年朝日文化賞、38年国際建築家協会オーギュスト・ペレー賞と受賞を続け、43年「近代建築の発展への貢献」により日本建築学会大賞を受ける。埼玉県立博物館の建築では閑静な樹林の中に劇的な空間を創出したとして高く評価され、46年度第13回毎日芸術賞、48年度日本芸術院賞を受賞、49年、東京海上火災本社ビルの設計に際し皇居前の美観論争をくりひろげて話題となった。自然や人間と調和する建築をめざし、建築材料にも工夫をこらし、タイルで外装した多くの公共建築を手がけた。61年の国立国会図書館増築が最後の仕事となった。

竹原吉助

没年月日:1986/06/23

 寺社建築の修理の名工として知られた竹原吉助は、6月23日午前11時40分、消化管出血のため大阪府富田林市の富田林病院で死去した。享年93。明治27年長野県に生まれる。宮大工の工匠に師事し、大工道具の曲尺を使い微妙な曲線を再現しながら寺院や神社の設計図を自在に引く古式規矩術を学ぶ。明治40年、14歳の時より数多くの文化財の修理に携わり、長野県善光寺本堂の修理をはじめとして、法隆寺東大門、同寺五重塔、住吉大社本殿(いずれも国宝)など、百棟以上の建造物の解体修理を手がけた。昭和51年文化庁が初めて行なった選定保存技術の選定に際しては、有形文化財等関係の規矩術(古式規矩)の保持者として全国第1号の選定保存技術保持者に選ばれた。また、大阪府文化財保護審議会委員もつとめていた。

西澤文隆

没年月日:1986/04/16

読み:ニシザワ, フミタカ*、 Nishizawa, Fumitaka*  ホテル・パシフィック東京などで知られる建築家西澤文隆は、4月16日午前9時58分、心不全のため大阪府豊中市の国立刀根山病院で死去した。享年71。大正4(1915)年2月7日、滋賀県愛知郡に生まれ、昭和11年第三高等学校を卒業。同15年東京帝国大学建築科を卒業して坂倉準三建築研究所に入る。同18年フィリピンに渡り、戦後の21年坂倉準三建築研究所に復帰する。42年大阪府青少年野外活動センターの設計により日本建築学会賞受賞、44年11月、坂倉準三死去に伴い坂倉建築研究所を改めて開設しその代表取締役となる。60年6月「神宮前の家(白倉邸)」ほか一連の住宅建築により59年度日本芸術院賞受賞。日本建築学会、日本建築家協会のほか大阪府建築士会、アシカビ会(伊丹市を研究しよくする会)にも所属して活躍し、49年大阪府知事賞、59年伊丹市民文化賞を受賞する。代表作には、他に、前橋市庁舎、円形舞台で知られる兵庫県芦屋市のルナ・ホールなどがあり、著書に『西澤文隆小論集1~4』(昭和49~51)、『伝統の合理主義』(56年)、『家家』(59年)、『西澤文隆の仕事』(63年)がある。

村田治郎

没年月日:1985/09/22

読み:ムラタ, ジロウ*、 Murata, Jiro*  財団法人建築研究協会理事長、京都大学名誉教授で東洋建築史学の第一人者村田治郎は、9月22日午前9時50分、脳動脈硬化症のため京都市北区の富田病院で死去した。享年90。明治28(1895)年9月23日山口県大島郡に生まれる。兵庫県立第一神戸中学校、第一高等学校を経て、大正12年京都帝国大学工学部建築学科を卒業。1年間の兵役の後、翌13年南満州鉄道株式会社に入社、南満州工業専門学校教授を命ぜられ、大連市に赴任する。同地滞在中、満州鉄道沿線各地の回教寺院を調査し、昭和5年「満州における回教寺院建築史の研究」を発表。また同4年より11年まで満州の廟、仏塔、陵、宮殿なども幅広く調査し、6年「東洋建築史系統史論」を著し、同論文により7年工学博士の学位を取得する。11年会社より欧米各国の建築歴史、工業教育の調査を命ぜられ、1年間出張。翌12年4月京都帝国大学工学部講師を嘱託され、満州鉄道を退社、京都に移る。同年8月同教授となり、13年より15年まで毎年中国河北省、山西省、山東省に出張調査、16年「支那建築の研究」により建築学会より学術賞を受賞する。18年北京郊外の居庸関雲台保存のための現地調査隊隊長となり、2週間にわたった調査。戦後その資料の整理が進められ、30年、32年の2度にわたって『居庸関』本文編、図版編全2冊を京都大学工学部より出版。その事業の業績に対して、33年日本建築学会より学会賞、34年日本学士院より日本学士院賞が贈られた。この間、中国建築に対する造詣をまとめた大系的著作『東洋建築学』(建築学大系4)を32年に刊行。また日中間の建築文化交流に対する視点から、21年「支那建築史より見たる法隆寺系建築様式の年代」(『宝雲』)を発表、その後も法隆寺に強い関心を持って研究を続け、24年『法隆寺の研究史』、35年『法隆寺』(野上照夫と共著)、40年「二つの法隆寺様式論」、43年「法隆寺創立の研究史」、23年より43年まで前後4編にわたる玉虫厨子に関する論文を著している。また建築の文化財保存にも尽力し、25年に制定施行された文化財保護法下で文化財専門審議会専門委員、25年から31年までの宇治平等院鳳凰堂解体修理の修理委員会修理委員長、47年桂離宮御殿整備工事のため組織された桂離宮整備懇談会座長などをつとめている。滋賀県(32年)、兵庫県・京都府(39年)などの文化専門委員もつとめたほか、28年日本建築学会副会長、33年京都大学退職に伴ない同大名誉教授、37年国立明石工業高等専門学校初代校長、43年日本建築学会名誉会員、58年京都府文化特別功労者となる。没時、京都府文化財保護審議会会長、京都市文化財保護審議会会長、京都市埋蔵文化財研究所理事長、財団法人建築学研究協会理事長、御所離宮懇談会委員、法隆寺文化財保存協議会協議員、東寺奉讃会理事などをつとめていた。

村野藤吾

没年月日:1984/11/26

読み:ムラノ, トウゴ*、 Murano, Togo*  日本芸術院会員、日本建築家協会終身会員、日本建築学会名誉会員の建築家村野藤吾は、11月26日心筋こうそくのため兵庫県宝塚市の自宅で死去した。享年93。本名藤吉。建築界の重鎮で文化勲章受章者の村野は、明治24(1891)年5月15日佐賀県唐津市で生まれ、その後福岡県八幡市で育った。大正7(1918)年早稲田大学理工学部建築科を卒業し、同年大阪の渡辺節建築事務所に入りアメリカ風の建築実務を仕込まれ、大阪商船神戸支店、大阪ビルディング本店などの設計に参加した。昭和4年独立し村野建築事務所(同24年村野、森建築事務所と改称)を開設、大阪・そごう百貨店、宇部市民会館などを設計し戦前から既に建築界に不動の地位を築いていた。戦後は同28年の広島・世界平和記念聖堂で注目され、名古屋・丸栄百貨店(同29年)、日本生命日比谷ビル(同38年)で建築学会賞を受賞した。また、同28年には日本芸術院賞を受け、同30年日本芸術院会員となり、同42年文化勲章を受章する。その後も箱根樹木園休息所(同47年、建築学会建築大賞)、迎賓館改装(同49年)、日本興業銀行本店(同50年、第16回BCS賞)、小山敬三美術館(同52年、毎日芸術賞)ほか創造力豊かな建築を次々に手がけ、同57年に完成した新高輪プリンスホテルは生涯の総決算的な仕事となった。戦前の折衷主義から近代主義、ポスト・モダンへと旺盛で意欲的な作風は止まるところを知らなかつたが、一貫して現実主義者の姿勢を貫ぬき、その名声は晩年に至って一層高まった感があった。同48年早稲田大学より名誉博士の称号を授与されたのをはじめ、米国建築家協会、英国王立建築学会の各名誉会員でもあった。

福田朝生

没年月日:1984/10/18

 日本建築協会会長、双星設計社長の福田朝生は、10月18日午前2時30分、肝臓ガンのため兵庫県西宮市の県立西宮病院で死去した。享年67。大正6(1917)年4月29日、京城に生まれる。昭和15(1940)年3月、京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、同年4月より同大工学部講師をつとめる。同年12月より同22年3月まで応召。同年9月京都工業専門学校講師となり、同24年5月、同校教授となる。同24年7月、学制改革により京都工芸繊維大学講師となり、同26年同校助教授となって建築計画を講ずる。同31年3月、同校を退職し、双星社竹腰建築事務所(現称双星設計)に入り、同41年4月より同事務所社長をつとめる。昭和36年の大阪市立中央図書館、同45年万国博お祭り広場大屋根(共同設計)、同53年姫路聖マリヤ病院、同56年箕面市立病院、同57年金蘭会学園千里短大・中学・高校校舎、同58年石川県立中央病院などを手がけたほか、日本建築協会会長、日本建築家協会理事、日本建築学会評議員、大阪府建築士会理事をつとめ、日本の建築学の向上にも寄与した。

堀口捨己

没年月日:1984/08/18

読み:ホリグチ, ステミ*、 Horiguchi, Sutemi*  元明治大学教授で日本芸術院賞、日本建築学会賞などを受賞した建築家堀口捨己は1984年8月18日に享年89で死去していたことが、平成7年1月28日に行われた「生誕100年記念シンポジウム」で報告された。本人の意志と家族の意向により死去は11年間公表されず、シンポジウムを機会に弁護士が戸籍を調べて明らかになった。茶室の研究と設計で知られた堀口は明治28(1895)年、1月6日に岐阜県本巣郡席田村上ノ保に生まれた。岐阜中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築科を卒業した。大正8(1919)年9月に中国を訪れる。同9年、西欧の新しい建築運動を学んで同志とともに「分離派建築会」を結成。同12年渡欧し、フランス、オランダ、イギリス、ドイツ、オーストリア、チェコ、ハンガリーなどを訪れ、イタリアに同13年まで滞在した。帰国後は日本の伝統建築の研究に向かい、書院造り、数寄屋建築、茶室などを対象に調査し論考を行い、また名古屋市の旅館、「八勝館、御幸の間」を同25年に設計するなど、設計、建築にも当たった。同年6年より同8年まで帝国美術学校教授、同年16年より同21年まで東京女子高等師範学校講師をつとめ、同31年に明治大学工学部建築科教授となったほか東京大学工学部講師として教鞭を執った。日本建築学会のほか関連団体に多数参加し、日本茶道文化研究会理事、日本庭園協会理事、日本陶磁協会理事、文化財保護委員会専門委員などをつとめた。歌人として皇居歌会始めの召人をつとめたこともあり、文筆にも優れ、同24年『利休の茶室』で北村透谷文学賞、同28年『桂離宮』で毎日出版文化賞を受賞した。他の主要な著書に『現代オランダ建築』『住宅ト庭園』『利休の茶』などがあり、建築の代表作には大島測候所、サンパウロ日本館などがある。

松本才治

没年月日:1984/08/01

 文化財建造物修理技術者、元奈良県文化財保存事務所主任技師の松本才治は、8月1日午後6時30分、肺しゅようのため京都府相楽の精華病院で死去した。享年86。明治31(1898)年3月10日、京都府相楽郡に生まれる。京都工業高校を中退後、大正11(1922)年、奈良県教育課社寺係古社寺修理技師となり、昭和12(1937)年法隆寺五重塔解体修理、同28年長谷寺五重塔新築にたずさわったほか、金峯山寺蔵王堂、文殊院白山堂、談山神社権殿、石上神宮拝殿、法隆寺夢殿、当麻寺本堂、長弓寺本堂、興福寺北円堂、岡寺仁王門などの修理、室生寺仁王門の新築等、多くの古社寺の修理、保存に尽力した。同40年黄綬褒賞、同43年勲五等瑞宝章を受章。

白井晟一

没年月日:1983/11/22

読み:シライ, セイイチ*、 Shirai, Seiichi*  深い思索に裏付けられた独自の様式をうちたてた建築界の巨匠白井晟一は、11月22日午後11時、脳内血シュのため、京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年78。明治38(1905)年2月5日京都市に生まれ、青山学院中学を経て京都高等工芸学校を卒業。22才でドイツへ留学し、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で哲学、美術史を学ぶ。ハイデルベルク大ではヤスパースに師事。帰国後の昭和10年ころから建築設計を始め、独学。処女作河村邸をはじめ、歓喜荘などドイツ住宅の伝統をひく住宅建築を戦前には多く手がける。戦後は同36年第4回高村光太郎賞を受けた東京浅草の善照寺ほか群馬県松井田町役場、秋田県雄勝町役場など公共施設の建築設計をよくし、佐世保の親和銀行本店では西欧のロマネスク建築を思わせる安定した量感の中に高い精神性を盛りこみ、同43年日本建築学会賞、翌44年毎日芸術賞、同55年日本芸術院賞をうけた。この様式は、建築物の機能と周囲の景観に適応しつつ、単なる様式上の西欧の模倣や、機能のみを重視する方向を否定する形で展開し、若い建築家たちに強い刺激と影響を与えた。晩年の代表作には、同55年の東京都渋谷区松涛美術館、同56年の芹沢銈介美術館がある。書もよくし、顧之昏元と号して『顧之居書帖』を出版している。

大竹康市

没年月日:1983/11/20

 象設計集団代表のひとりであった建築家大竹康市は11月20日、サッカー試合中にクモ膜下出血で倒れ急逝した。享年45。同年同月初め死去した建築家渡辺洋治は大竹の長兄にあたる。昭和13(1938)年5月2日宮城県仙台市に生まれる。同37年東北大学工学部建築学科を卒業し早稲田大学理工学部建築学科大学院に入学、吉阪隆正に師事する。同39年同科を修了した工学修士となり、U研究室に勤務する。同年一級建築士の資格を取得。同47年、富田玲子、樋口裕康らと株式会社象設計集団を設立し代表取締役に就任する。ル・コルビジェのモダニズムに第三世界の視点を加えた吉阪の思想を受け継ぎ、主に沖縄を舞台に前衛的な活動を展開、同47年象グループを結成する(同53年Team Zooと改称)。同51年今帰仁村公民館で芸術選奨文部大臣賞新人賞、同年沖縄県北部のムラづくりマチづくり計画で日本都市計画学会賞、名護市庁舎で同54年全国公開設計競技第一位、同56年日本建築学会賞を受賞する。また、同53年アメリカの10都市で開催された「日本建築の新しい波展」、同56年デンマークで開かれた「ポストモダニズム展」に出品。同46年から早稲田大学専門学校講師をつとめていた。建築だけでなく、環境を考慮した地域計画をも国内外で手がけ、幅広く活動する。中、高、大学でサッカー部キャプテンをつとめるほどのサッカー愛好家であった。

渡辺洋治

没年月日:1983/11/02

読み:ワタナベ, ヨウジ*、 Watanabe, Yoji*  渡辺建築事務所所長の建築家渡辺洋治は、11月2日午前9時18分、クモ膜下出血のため、東京都千代田区の日大駿河台病院で死去した。享年60。大正13(1924)年6月14日、新潟県直江津市に生れる。昭和16年同県立高田工業学校を卒業し、22年まで日本ステンレス株式会社に勤務、同19年より船舶兵として従軍する。同22年久米建築事務所へ移り、同30年より33年まで早稲田大学理工学部建築学科吉阪(隆正)研究室助手を務め、同33年渡辺建築事務所を開設する。この間同27年、一級建築士の資格を取得。同34年より没年まで早稲田大学講師を務めた。代表作には糸魚川市善導寺をはじめ常識破りの鉄の造形で国際的にも注目された東京新宿の第3スカイビル、龍の砦などがあり、最高裁判所庁舎設計コンペで第2位(優秀賞)、万国博覧会本部ビル設計コンペで第2位、北海道百年記念塔競技設計で佳作を受賞している。「反乱を試みる異色の建築家」と呼ばれた。

森田慶一

没年月日:1983/02/13

読み:モリタ, ケイイチ*、 Morita, Keiichi*  京都大学名誉教授、東海大学工学部教授の森田慶一は2月13日早朝死去した。享年97。明治28(1895)年4月18日三重県に生まれる。県立三重第一中学校、第三高等学校を経て、大正9年東京帝国大学工学部を卒業、同年、芸術革新運動を唱う分離派建築会に参加する。同10年内務大臣官房都市計画課に入り、翌年京都帝国大学助教授となり建築材料学、設計製図の指導にあたる。昭和3年「月刊建築学研究」に「ヴィトルヴィウスの10のカテゴリーに対するヨルレスの説」を発表し、ウィトル=ウィウスを紹介するとともに建築論の礎を築く。同9年工学博士となり京都帝国大学教授に昇格、同33年退官し名誉教授となるまで長く同大で後進の育成に尽くし、同38年から54年までは東海大学工学部教授として教鞭をとる。同49年日本建築学会大賞を受賞。『ウィトル=ウィウス建築書』の日本語訳、『西洋建築史概説』『建築論』他の著書があり、京都大学の農学部正門と楽友会館の設計を手がけている。

山下寿郎

没年月日:1983/02/02

 工学博士、日本建築士事務所協会連合会名誉会長の建築家山下寿郎は、2月2日午後2時45分、肺炎のため、東京都文京区の自宅で死去した。享年94。明治21(1888)年4月2日、山形県米沢市に生まれる。同45年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。同年三菱合資会社技師となり、芝浦製作所、三井合名会社の建築事務嘱託を経て昭和3年山下寿郎建築事務所を創立。同23年株式会社山下寿郎設計事務所に組織変更し同社長となり、同34年取締役会長となる。同49年同事務所を株式会社山下設計に再び組織変更し同最高顧問となり、同56年同名誉顧問となった。この間、大正6年アメリカ、カナダに渡り、同39、42年欧米を、同46年オーストラリアを、翌年アメリカを訪れる。また、東大工学部(1920~48年)、秋田鉱山専門学校(1925~27年)で講師として教鞭をとる。同26年一級建築士、同39年工学博士となる。通産省日本工業標準調査会委員、建設省中央建築士審議会委員、日本建築設計監理協会々長、日本建築士会連合会理事をつとめ、日本建築学会名誉会員となる。同47年勲三等旭日中綬章受章。代表作には宮城県民会館、両羽銀行千葉寮(以上1964年、日本科学防火協会優秀防火建築賞)、東北学院大学七北田学生寮(1967年、同賞)、仙台市庁舎(1967年、建築業協会賞)、日本初の超高層霞ケ関ビル(1969年、同賞及び日本建築学会賞)、岡山市庁舎(1970年、建築業協会賞)、高槻市庁舎(1972年、同賞)、NHK放送センター(1972年)などがある。また、『報酬加算式建築施工契約制度』(1966年、彰国社)を著している

江国正義

没年月日:1982/05/22

 元横浜国立大学学長、同大名誉教授の建築家江国正義は、5月22日午前9時51分、肝臓ガンのため東京都武蔵野市の武蔵野日赤病院で死去した。享年88。1894(明治27)年3月24日、岡山市に生まれる。1919年東京帝国大学建築学科を卒業し、20年同科助教授となる。27年田中正義建築事務所を開設して独立し、東京・服部時計店本店、九段会館等の設計を担当する。戦後は事務所を閉鎖し、49年横浜国立大学の発足に際し同大建築科教授となり、工学部長を経て53年同大学長に就任する。59年学長を退任し、同大名誉教授となる。退官後、国建築事務所を自営。構造設計を専門とし、『建築構造基準』『鉄筋コンクリート経済設計法』などの著書がある。法政大学、帝国ホテル新館、神奈川県立博物館、神奈川県立婦人総合センター等の設計を手がけた。

竹腰健造

没年月日:1981/07/28

読み:タケコシ, ケンゾウ*、 Takekoshi, Kenzo*  建築家で日本建築協会名誉会長の竹腰健造は、7月28日午前10時54分、老衰のため大阪市福島区の大阪大学病院で死去した。享年93。1888(明治21)年6月25日、福岡県に生まれ、明治の代表的な美術評論家岩村透は兄にあたる。1912(大正元)年東京大学工学部建築学科を卒業し、兄のすすめでイギリスに留学、アーキテクチュラル・アソシエーション・スクールで建築を学んだ。14年にローヤル・インスティチュート・オブ・ブリティッシュ・アーキテクトの建築士資格試験に合格し、同年オースチン建築事務所に勤務する。また、建築を学ぶ一方で、17年にロンドンテクノロジーでフランク・エマニュエルにエッチングを学び、ロイヤル・アカデミーに入選する。同年帰国し住友総本店に入社したが、エッチングは翌18年のロイヤル・アカデミーにも入選している。同18年、明治天皇聖徳記念絵画館の懸賞設計に3等当選、また19年には第1回創作版画協会に滞欧作のエッチング12点を出品し会員となるなど、この頃、建築、版画両面にわたって活躍した。しかしこれ以後は建築家としての仕事が主となる。22年住友合資会社技師となり、住友ビル(現住友銀行本店)等の建設に従事、33年同社を依願退社し、長谷部竹腰事務所を設立して東京手形交換所の設計監理などにあたる。45年住友本社に入社し、長谷部竹腰建築事務所を住友土地工務(株)と合併、翌45年11月には同工務(株)を改組して住友商事の前身である日本建設産業(株)とし、初代社長に就任した。47年に同社を退任するが、46年には日本建築協会会長となり(58年まで)、48年双星社竹腰建築事務所を開設(77年株式会社双星設計と改称)、その後、関西電力本社、新住友ビル、大阪市新市庁舎などの建築顧問をつとめ、また大阪市立中央図書館、武田薬品工業湘南工場などの建築に携わった。この間、57年に黄綬褒章を受章し60年日本建築学会名誉会員となり、62年日本芸術院賞受賞、64年勲四等瑞宝章受章、また65年には全国建築審査会協議会会長(78年まで)、68年には日本建築協会名誉会長、71年勲三等瑞宝章受章と、数々の要職を歴任し、顕彰を受けた。このほか、日本万国博覧会協会参与(66~70年)、阪神高速道路協会理事長(67~70年)などもつとめた。

松田軍平

没年月日:1981/04/23

 元日本建築家協会会長の建築家松田軍平は、4月23日心不全のため神奈川県藤沢市の岩淵内科医院で死去した。享年86。1894(明治27)年10月8日福岡県に生まれ、名古屋高等工業学校建築科卒業後に渡米、コーネル大学建築学科を卒業する。ニューヨーク市、トローブリッヂ・エンド・リビングストン設計事務所に勤務し、バンク・オブ・アメリカ等の設計に従事したが、三井本館工事監理副主任として帰国する。1931(昭和6)年平田重雄と松田建築事務所(42年松田・平田設計事務所、66年株式会社松田平田坂本設計事務所と改称)を創設した。48年から1年間日本建築士会会長に就任、50年から57年まで日本建築学会理事をつとめ、56年及び68年から各3年間、社団法人日本建築家協会会長の要職にあった。71年には財団法人文化財建造物保存技術協会監事となり、75年から80年まで日本建築設計監理協会連合会会長をつとめたほか、建設省建築審議会委員なども歴任した。この間、使いやすい実質的な設計を基本理念として、代表作に日本長期信用銀行本店(61年)、三井生命本社ビル(同)、羽田・東京国際空港ターミナルビル(64年)、日本銀行本店(73年)などがある。58年、フィリピン建築家協会名誉会員、米国建築家協会名誉会員に推された。

吉坂隆正

没年月日:1980/12/17

読み:ヨシザカ, タカマサ*、 Yoshizaka, Takamasa*  早稲田大学理工学部教授、元日本建築学会長の吉坂隆正は、12月17日胃ガンのため東京都中央区の聖路加病院で死去した。享年63。雅号に歩歩徒。1917年(大正6)年2月13日東京市小石川区に生まれ、41年早稲田大学建築学科を卒業、45年早稲田大学助教授となり、50年から52年までフランスに留学し、ル・コルビジェのもとで学ぶ。59年早大理工学部教授に就任、61年から翌年にかけてアルゼンチン国立ツクマン大学の招聘教授として都市計画を講じる。この間、57年にベネツィア・ビエンナーレ日本館設計などの業績により芸術選奨を、63年には日本建築学会作品賞を受賞する。69年から72年まで早大理工学部長をつとめ、73年から74年まで日本建築学会会長に就任、また、73年、建設省建築審議会委員、74年日中建築技術交流会会長、75年日本建築積算協会会長、翌年日本生活学会会長になったほか、首都圏総合計画研究所理事長、環境庁自然保護審議委員なども歴任し、日本美術評論家連盟に加わる。78年、ハーバード大学客員教授となり、同年、早稲田大学専門学校校長に就任する。登山家としても知られ、早大アフリカ赤道遠征隊の副隊長、早大アラスカ・マッキンレー遠征隊長をつとめ、日本雪氷学会理事でもあった。著書に『環境と造形』(55年、河出書房)訳書に『ル・モジュロール』(全2巻、52、58年、美術出版社)などがある。主要作品は、アテネ・フランセ、日仏会館、大学セミナー・ハウスなど。主要著作住居学汎論 昭25 相模書房モジュロール(ル・コルビュジエ)訳 昭27 美術出版社ル・コルビュジエ 昭27 美術出版社住居論(建築学大系1) 昭29 彰国社環境と造形 昭30.9 河出書房都市論(建築学大系2)  昭35.9 彰国社原始境から文明境へ 昭36 相模書房住居学 昭40.7 相模書房建築をめざして(ル・コルビュジエ)訳 昭42.12 鹿島出版現代住居論・人間と住居(住居問題講座1) 昭43 有斐閣オスカー・ニーマイヤー 昭44 美術出版社告示録 昭47.12 相模書房巨大なる過ち(ミッシェルラゴン) 昭47 紀伊国屋住まいの原型 昭48 鹿島出版アテネ憲章(ル・コルビュジエ)訳 昭51.1 鹿島出版世界の建築(世界の美術13) 昭51 世田文化社ル・コルビュジエ全作品(全8巻) 昭52-54 ADA主要作品イタリヤ・ヴェネチア・ビエンナーレ日本館 (昭31)長崎・海晴学園校舎 (昭33)日仏会館 (昭34)富山・呉羽中学校 (昭35-38)江津市庁舎 (昭37)アテネ・フランセ (昭37)富山県立立山荘 (昭39)八王子・大学セミナーハウスの全体計画ならびに宿舎、体育館、講堂、管理棟、海外文化交流・民族資料館、交友館等一連の施設 (昭40-51)大島町・元町復興計画・他一連の公共施設 (昭40-43)更埴市庁舎 (昭40)生駒山・宇宙科学館 (昭43)盛岡市・働く婦人の家 (昭53)

生田勉

没年月日:1980/08/04

読み:イクタ, ツトム*、 Ikuta, Tsutomu*  東京大学名誉教授、建築家の生田勉は、8月4日肺ガンのため東京府中市の都立府中病院で死去した。享年68。1912(大正元)年2月20日北海道小樽に生まれ、第一高等学校理科甲類を経て、36年東京大学工学部建築科に入学、39年に卒業する。一高在学中三木清に師事し、一高文芸部委員をつとめ、また立原道造と親交しその没後、41年に堀辰雄編纂の立原道造全集に参加する。卒業の年逓信省営繕課航空局に就職するが、44年第一高等学校教授に就任。46年、雑誌「国際建築」の再刊に参画する。50年、東京大学教養学部助教授となり、同年からアメリカの文明批評家ルイス・マンフォードの翻訳をはじめ交際する。51年、ノースカロライナ大学建築学科客員教授として渡米、オレゴン大学夏季講師をつとめ、同年日本建築学会委員となる。55年日本建築学会意匠研究部幹事、また、この頃より生田建築研究室を設置し建築設計にとりくむ。61年、東京大学教授に就任、大学院建築課程を兼任、同年、日本建築学会からイタリー、フランス、スエーデン、デンマークの建築視察に派遣される。65年、東京大学工学部都市工学科大学院講義を担当。67年には渋谷区神宮前に槐建築研究所を開設する。72年東京大学を停年退官し、同年東京大学名誉教授の称号を受け、また、槐建築研究所を生田勉都市建築研究所と改称する。76年には、アメリカ合衆国建国二百年記念学術会議に招かれ出席する。多くの建築作品とともに、建築評論家としても活躍し、ことにルイス・マンフォードの紹介者として著名で、訳書に『技術と文明』『歴史の都市・明日の都市』などがある。主要作品1956 栗の木のある家1960 芝立電気汁器本館1962 千葉県立館山ユースホステル1964 新渡戸記念館、上高地五千尺ロッジ1966 横浜市農業指導所1969 日本万国博覧会生活産業館1970 天竜市民体育館、同農林センター1977 桐生市文化センター1979 横浜市日吉地区センター、天竜市立中央公民館1981 盛岡市立武道館

池辺陽

没年月日:1979/02/10

読み:イケベ, キヨシ*、 Ikebe, Kiyoshi*  東京大学教授、建築家の池辺陽は、2月10日食道ガンのため東京都新宿の東京女子医大付属消化器病センターで死去した。享年58。1920(大正9)年4月8日釜山に生まれ、42年東京帝国大学工学部建築科を卒業、44年坂倉建築研究所に入所、46年東京帝国大学第二工学部講師となる。47年新日本建築家集団(NAU)の創立に参加、翌年新制作協会建築部(現スペースデザイン部)創立に参加し同協会展に制作発表する。49年東京大学第二工学部助教授となり、50年財団法人建築工学研究会理事に就任する。58年日本建築学会のメートル法と建築モデュール委員会委員、60年ISO(国際標準化機構)TC59(建築)会議日本代表となる。62年「空間の寸法体系、GMデュールの構成と適用」により学位(工学博士)を受ける。63年日本建築学会設計方法小委員会主査となる。64年東京大学宇宙航空研究所における地上施設を担当、秋田道川、鹿児島内ノ浦宇宙観測基地の全施設の設計にたずさわる。65年東京大学生産技術研究所教授となり、同年環境と工業を結ぶ会(DNIAS)を創立する。67年通産省産業構造審議会専門委員に就任、68年身体障害者のための施設研究組織(TESTEM)を創立する。71年通産省Gマークユニット部門審査委員長、科学技術庁テクノロジーアセスメント委員会高層建築部門主査となる。73年東京国際見本市協会東京国際グッドリビングショーの基本計画に従事、74年には日本建築学会建築計画委員会委員長となる。戦後の住宅近代化の推進者の一人で、厨房器具、サッシ、洗面器具など建築部品の規格化、工業生産化を指導し、その功績で78年に通商産業大臣賞を受賞した。95の住宅設計もある。主要作品に住宅作品No.1~95(48-78年)、渋谷都市計画(46年)、下関復興都市計画(46年)、別府都市計画(47年)、沼津産業会館(53年)、東京大学宇宙航空研究所宇宙観測基地地上施設群(56年-72年)、秋田県立中央病院(57年)、キッチン’58(58年)、籐椅子(60年)、基本ユニット家具(60年)、身体障害者の実験住宅(71年)など。著者に『すまい』(54年)、『デザインの鍵-人間・建築・方法』(79年)などがある。 新制作展出品目録14回 「キッチン・ユニット住宅」15 「写真、図面」16 「二戸建鉄筋コンクリート住宅」「N市共同商店街」17 「N市公会堂」「住宅No.14、№15」16 「イス試作2題 力学的曲面と人間の動作の関係」25 「籐椅子」27 「洋服ダンス」28 「東京大学鹿児島スペースセンター」29 「1500人の居住ユニット-自然と人間の共存計画の一部」30 「東京大学宇宙空間観測所壁画」31 「生活パッケージ・シズニット」33 「集合住宅」34 「TESTEM(身体障害者の家)」「住居ユニット」35 「TESTEM実験住宅№1」36 「原型(宇宙のための建築群より)」37 「住宅93・94」「宇宙科学のための展示場」「インテリア」39 「住集合-VALVITS」「まるい ちがい棚」45 「かたらい。イスと壁の空間」41 「PIX4 “FOREST”」42 「キッチン78プロトタイプ」「タウンハウス」

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