本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,961 件)





吉田種次郎

没年月日:1957/12/04

 社寺修理技師、無形文化財指定保持者吉田種次郎は12月4日、奈良市の自宅で逝去した。享年87歳。明治4年9月12日奈良市に生れ、同36年より昭和27年迄国宝建造物の修理に、工事設計監督に従事していた。法隆寺南大門、西円堂細殿、東院鐘楼の解体修理のほか、県下社寺の修理にたずさわり、その規矩術の研究により、昭和27年無形文化財の指定保持者に認定され、また同30年2月多年の功績に依り紫綬褒章をうけている。32年12月4日勲5等に叙せられ瑞宝章を授与された。

佐野利器

没年月日:1956/12/05

読み:サノ, リキ*、 Sano, Riki*  学士院会員、工学博士佐野利器は、12月5日肺気腫のため逝去した。享年76歳。明治13年4月山形県山口三郎兵衛の四男に生れ、佐野誠一郎の養嗣子となつた。明治36年東大工学部建築科を卒業、大学院を経て同助教授となり各国に留学した。大正7年以来、昭和16年停年退官迄工学部教授をつとめ、また、宮内省工務課長、明治神宮造営局参与、帝都復興院理事、東京都建築局長、日本建築学会長、日本大学工学部長などを歴任した。日本の建築構造学を確立した一人で、とくに、家屋耐震構造論などの研究は著名である。大正4年学位をうけ、近年は東京市政調査会理事、東京都住宅協会評議員、生活科学化協会長の役職にあつた。我国建築の基礎的技術の進歩に貢献するところ多く、昭和25年学士院会員に推された、東大名誉教授でもある。

吉田鉄郎

没年月日:1956/09/08

読み:ヨシダ, テツロウ*、 Yoshida, Tetsuro*  建築家吉田鉄郎は9月8日杉並区の自宅で逝去した。享年62歳。明治27年5月18日富山県東礪波郡に生れた。大正8年東京帝国大学工学部建築科を卒業、逓信省経理局営繕課に勤務した。この頃の作品に京都七条郵便局(現京都中央郵便局)がある。昭和6年7月渡欧、翌7年7月まで独逸を中心に、欧州各国、米国に留学、バウハウスでは日本建築について紹介をしている。帰国後の第一作となつた東京中央郵便局は、素直で健康な合理主義建築をとり入れた彼の最初の作品であるとともに、日本近代建築を代表する作品であつた。其後の作品には赤羽電話局、大阪中央郵便局があり、逓信省建築が他の保守的官庁建築にくらべて、最も近代的な動きを示したのは彼の功績によるところが大きい。昭和16年には第1回逓信協会功労賞をうけたが、19年逓信技師を辞し郷里に帰つた。21年日本大学教授となり25年病気のため退き、その後、北陸銀行新潟支店、同代々木寮、同長野支店などを手がけたが、病気のため著述に専念していた。著書は多く、“Das Japanischen Wohnhaus”, Berlin. 1935. “Japanische Architektur”, Tulingen, 1952. “The Japanese House and Garden” London, New York. 1955. 「日本の現代建築」「放送会館建築」、「スウェーデンの建築家」更にブルノータウトの訳書等多い。

伊東忠太

没年月日:1954/04/07

 日本学士院会員、日本芸術員会員、東大名誉教授工学博土伊東忠太は、4月7日文京区の白宅で逝去した。享年88。慶応3年10月26日山形県米沢市に生る。明治25年東京帝国大学造家学科を卒業、大学院に於いて日本建築学を研究した。同32年東大助教授、同38年教授に進み、昭和3年停年退官した。その後は早稲田大学教授となり、長年月にわたり後進の育成につとめた。この間、明治34年工学博土の学位を受け、中国、印度、トルコに留学、欧米を巡歴した。中国へは屡々出張した。昭和18年文化勲章を受け、同26年文化功労者に選ばれた。日本及び東洋建築を中心とする研究論文は200余にのぼりその主要なものは「伊東忠太建築文献」(全6巻)に収められて居るが単行図書には「法隆寺建築論」「木片集」「支那建築装飾」等がある。またその設計になる建築は、明治神宮をはじめ独白の様式を示している。(尚詳細については建築雑誌第21巻5月号岸田日出刀「伊東忠太」を参照。)略年譜明治25年 帝国大学工科大学造家学科卒業、大学院入学。明治28年 第4回内国勧業博覧会審査官。明治29年 古社寺保存会委員就任。明治30年 東京帝国大学工科大学講師。明治31年 任造神宮技師兼内務技師。明治32年 兼任東京帝国大学工科大学助教授、東京帝室博物館学芸委員。明治34年 工学博士の学位を受く、清国北京差遣明治35年 建築学研究の為3カ年支那、印度、土耳古へ留学。明治38年 帰国、任東京帝国大学工科大学教授、清国へ差遣。(この後数回差遣さる)明治44年 仏領印度支那、清国へ出張。大正12年 学術研究会議会員。大正14年 帝国学士院会員。昭和2年 帝室博物館評議員。昭和3年 東京帝国大学教授停年退職、名誉教授となる。早稲田大学教授。昭和4年 東方文化学院東京研究所研究員、国宝保存会委員。昭和8年 重要美術品等調査委員会委員、満日文化協会評議員。昭和9年 法隆寺国宝保存協議会委員。昭和13年 帝国芸術院会員。昭和14年 日独文化交換教授のためドイツに出張。昭和18年 文化勲章を授与さる。昭和26年 文化功労者に選ばる。昭和29年 4月7日永眠。主な作品平安神宮 京都市 明治28年明治神宮 東京都 大正4-9年不忍弁天天龍門 東京都 大正2-3年増上寺大殿 東京都 大正14年築地本願寺 東京都 昭和6-9年震災記念堂 東京都 昭和3-5年大倉集古館 東京都 大正15-昭和2年浅野総一郎邸 東京都 明治42年二楽荘 神戸市 明治43年荻外荘 東京都 昭和2年

大熊喜邦

没年月日:1952/02/25

読み:オオクマ, ヨシクニ*、 Ookuma, Yoshikuni*  工学博士、経済学博士、日本芸術院会員大熊喜邦は、2月25日老衰のため千代田区の自宅に於て没した。享年74歳。明治10年1月13日東京に生れ、第一高等学校を経て同36年東京帝国大学工科大学建築科を卒業した。同40年大蔵省臨時建築部技師、大正7年臨時議院建築局設計課長、昭和2年大蔵省営繕管財局の初代工務部長となり、国会議事堂の建築を指揮し、これを完成、同12年退官した。そのほか、文部省、人事院などの官庁建築を設計した。この間、昭和6年から7年にわたり建築学会会長をつとめた。同12年錦鶏間祗候を仰付けられ、同16年帝国芸術院会員となつた。そのほか史蹟名勝天然記念物調査委員、重要美術品等調査会委員などのほか諸種の委員会の委員であつた。最近は、文化財専門審議会第二分科会長兼史跡部会委員であつた。昭和18年「東海道宿駅と其本陣の研究」なる著作で経済学博士の学位を受けている。主な著書に「世界之議事堂」「泥絵と大名屋敷」「古鐔図録」などがある。

遠藤新

没年月日:1951/06/29

読み:エンドウ, アラタ*、 Endo, Arata*  建築界の権威遠藤新は6月29日心臓病のため東大付属病院で逝去した。享年62歳。明治23年福島県相馬郡に生れ、大正3年東京帝大工科を卒業。大正5年帝国ホテル設計の為来日中のフランク・ロイド・ライトに師事、伴われて同8年渡米、翌年帰国、同11年迄帝国ホテル設計監督中のライトの助手として働いた。同12年建築事務所を開設した。昭和7年渡満、同20年まで内地、満洲の両地で設計及び監督を続けた。同21年帰国、目白ヶ丘教会(25年)の作品を最後として長逝した。主要作品年譜は左記の通りであるが、ホテル、学校、寄宿舎、アパート、クラブ、住宅、事務所、店鋪、病院、教会等広般に亘る作品がある。大正11年 旧自由学園(東京目白)大正11年 山邑氏邸(芦屋)(以上はライトとの共同設計)大正12年 日比谷アーケード(東京日比谷)大正12年 旧陶々亭(東京日比谷)大正12年 東大YMCA(東京本郷)昭和4年 甲子園ホテル(兵庫県甲子園)昭和6年 梁瀬自動車ビル(東京日本橋)昭和7年 横浜女子商業学校昭和10年 現自由学園女子部(東京都北多摩郡)昭和11年 現自由学園男子部昭和11年 満洲中央銀行クラブ(新京)昭和16年 満洲中央銀行住宅集団(新京)昭和25年 目白ヶ丘教会(東京目白)(以上年代判明のもののみ)

横河民輔

没年月日:1945/06/25

読み:ヨコガワ, タミスケ*、 Yokogawa, Tamisuke*  建築会の長老、工学博士横河民輔は6月25日逝去した。享年82。元治元年出生、明治23年東京帝国大学建築科を卒業し後欧米を視察し、東京に横河工務所を創立した。専ら欧風建築の設計工事にたずさわつたが就中帝国劇場三越呉服店等が知られている。後建築協会並に建築の資料協会々長に挙げられた。又中国及び日本の陶磁器の蒐集家として知られ、かつて帝室博物館に寄贈された横河コレクシヨンは世界屈指の蒐集である。晩年国宝保存会の委員であつた。

高橋理一郎

没年月日:1944/02/16

 文部省建築課長、文部技師高橋理一郎は2月16日執務中脳溢血で急逝した。享年58。明治20年千葉県に生れ、明治45年東大工科卒業後文部省に入り、28年間余り建築課に勤務、在任中諸高校の拡張、震災復旧、高工新設工事等につくした。

葛西万司

没年月日:1942/08/19

読み:カサイ, マンジ*、 Kasai, Manji*  建築界の長老、工学博士葛西万司は8月19日逝去した。享年80。文久3年7月21日旧南部藩家老鴨沢舎二男として盛岡市に生れ、後葛西重雄の養子となつた。12歳の時上京、明治23年工科大学建築科を卒業して日本銀行に入り、辰野金吾博士を輔けて建築設計監督に当つたが、同36年8月京橋区日吉町に辰野葛西事務所を設立、建築事務所活躍の先鞭をつけた。大正4年工学博士、同8年辰野博士没後単独経営としたが、昭和2年田中実と共同して葛西田中事務所と改称、同12年以降再び単独経営として今日に至つたものである。この間、工学院、早稲田大学理工科等に講じ、官庁諸会社の顧問或は囑託として設計監督に従事、又建築学会、日本建築士会等の役員を兼ねた。主なる作品には次の如きものがある。帝国生命保険本社及支店、東京火災保険本社及支店、安田商事大阪事務室、第一生命保険本社、永楽ビルデイング、帝国海上運送火災保険本社、川島甚兵衛商店東京支店、第一銀行京都・神戸・麻布支店、朝鮮銀行本店・東京支店、日本銀行函館支店、生命保険会社協会、有栖川宮家麻布盛岡町御殿、東大工科大学教室、明治専門学校、岩手医専、順心高女、富山市図書館、岩手病院、厚生会東京大阪産婦人科病院、生命保険厚生会、東京駅本家、釜山沢本家、両国国技館、浅草及名古屋国技館、盛岡映画劇場、赤坂霊南坂教会堂等

中村逹太郎

没年月日:1942/07/28

読み:ナカムラ, タツタロウ*、 Nakamura, Tatsutaro*  建築学界の先逹東京帝大名誉教授正3位勲3等工学博士中村逹太郎は7月28日逝去した。享年83。万延元年11月15日江戸麹町尾張藩邸に生れ、明治9年工学専門へ官費入寮、同15年5月工部大学卒業後、営膳局、皇居御造営事務局に勤務、明治20年12月20日工科大学助教授となつた。同24年7月には内務技師、25、6年欧米へ留学、27年教授に任ぜられ、32年工学博士、以後大正9年退官後も講師として昭和4年まで久しく大学に在つて研究と教育に尽瘁した。大正10年中村田辺事務所を開設、同年東大名誉教授、大正14年には建築学界名誉会長に推され、此の間各方面の委員、顧問として建築界に残した功績は大なるものがあつた。著述も多いが「建築構造」並に「日本建築辞彙」などは殊に有名である。趣味としては古銭蒐集が知られてゐた。

佐藤功一

没年月日:1941/06/22

読み:サトウ, コウイチ*、 Sato, Koichi*  工学博士早稲田大学教授佐藤功一は肺炎症状で小石川区の自宅で療養中22日心臓衰弱を起して午後3時逝去した。享年64。明治11年栃木県に生れ、36年東京帝大建築科卒業後、42年には早稲田大学より建築学研究のため欧米へ留学、43年同大学教授となつた。大正8年工学博士の学位をうけ、爾来わが国建築学会の重鎮として活躍、幾多の建築を残した。過去39年間に建設された作品数は233の多きに及んだといふ。その他工芸審査会委員、日本学術振興会委員、会計検査院技術顧問員、大日本忠霊顕彰会顧問等となり、去る5月には建築界を代表して帝国芸術院会員に推薦されたところであつた。略年譜明治11年 7月2日栃木県下都賀郡に生る、大越東七郎次男、後佐藤茂八の養子となる明治36年 7月東京帝国大学工科大学建築科卒業、9月三重県技師明治41年 6月宮内省内匠寮御用掛明治42年 1月早稲田大学より建築学研究のため欧米へ留学明治43年 9月帰朝、早稲田大学教授大正8年 6月工学博士の学位を受く大正10年 9月東京女子高等師範講師大正12年 11月帝都復興院建築局事務嘱託大正14年 4月日本女子大学校教授昭和4年 8月大礼記念京都美術館建設委員会委員昭和8年 3月日本学術振興会学術部第十一常置委員昭和10年 12月帝国飛行協会評議員昭和11年 10月会計検査院技術顧問員昭和14年 3月国史館造営委員会委員昭和15年 5月大日本忠霊顕彰会顧問昭和16年 4月大日本国防衛生協会理事 6月22日死去主要作品には、宮城県庁舎、帝室林野局庁舎、栃木県庁舎、滋賀県庁舎、三会堂、東京市公会堂、飛行館、東京動産火災保険株式会社、日清生命保険株式会社本社、共同建物株式会社マツダビルデイング、藤本ビルブローカー証券株式会社東京支店、東京府農工銀行、不動貯金銀行本店、早稲田大学大隈記念講堂、津田英学塾校舎、駒沢大学講堂、日清製粉株式会社鶴見工場、神田神社、頼山陽先生遺蹟顕彰記念館等がある。

坂谷良之進

没年月日:1941/01/04

読み:サカタニ, リョウノシン*、 Sakatani, Ryonoshin*  国宝建造物の調査と保存に一生を捧げた坂谷良之進は1月4日逝去した。享年59。明治16年坂谷明廬先生の孫として東京市に生る。明治40年東京美術学校卒業後内務省に入り、古社寺保存調査を嘱託せらる。大正7年奈良県技師に任ぜられ、同10年京都府技師に転じ、国宝建造物の修理を監督すると共に、京都帝国大学工学部及び神戸高等工業学校に建築史或は工芸史を講じた。昭和4年文部技師に任ぜられ、国宝建造物保存事業の技師的統率者として、専ら意を修理技術の向上と、後進の指導とに致した。国宝建造物修理技術が今日の如き発達を見るに至つたことは一に氏の努力の賜物である。昭和15年12月病によつて官を辞した。

加藤秋

没年月日:1939/07/12

読み:カトウ, アキ*、 Kato, Aki*  建築家加藤秋は7月12日逝去した。享年51。千葉県の出身で、明治43年に日本工芸学校建築科を卒業、大正7年に建築事務所創立以来主として劇場、映画館の設計に従事し、多くの作品を残した、

北村耕造

没年月日:1939/06/27

 宮中顧問官北村耕造は肺炎のため6月27日逝去した。享年63歳。明治10年9月25日京都に於て出生、同36年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、東京清水満之助本店に入り、同45年視察のため欧米に出張、帰朝後大阪支店長になつたが、大正6年同店を退き、次で同10年まで財団法人理化学研究所建設技師に就任した。同10年官内技師に任ぜられ、翌年内匠寮工務課長を命ぜられてより、その在職中、同12年の震災復旧諸工事、昭和2年の 大正天皇御大喪並に翌年の今上天皇御大礼諸工事を担当した。同6年より臨時帝室博物館造営課長を命ぜられ、工事完了の上同12年本官を免ぜられ、同時に宮中顧問官に就任、高等官1等に叙せられた。尚薨去に際し正3位に陞叙せられた。作品目録(建築雑誌14年9月号より転載)清水組在職中明治44年 日本女子大学講堂兼図書室及教育部校舎明治38年 第一銀行横浜支店其他石井健吾邸・日比谷平左衛門邸、諸葛小弥太邸等理化学研究所在職中大正10年 理化学研究所物理部並化学部本館及其附属家宮内省在職中昭和5年 葉山御用邸を初め震災復興諸工事大正15年 那須御用邸大正3年 奥宮殿改築大正4年 大宮御所大正5年 学習院特別教室、中等科教室及青年寮大正3年 多摩御陵築造、昭和大礼諸設備大正14年 東伏見宮邸昭和2年 秩父宮邸、図書寮庁舎昭和4年 李王邸昭和6年 高松宮邸昭和8年 朝香宮邸昭和13年 東京帝室博物館復興造営

ブルノー・タウト

没年月日:1938/12/24

 独逸の建築家ブルノー・タウトはトルコ、イスタンブールに於て脳溢血のため旧臘24日逝去した。享年59歳。昭和8年来朝して、3ヶ年余り日本に滞在、高崎市外少林山に寓居し、我が国の古建築及び文化全般に就て研究を続けた。「ニツポン」「日本文化私観」をはじめ数種の著述がある。滞在中、自己の建築作品は終に残さなかつたが、商工省工芸指導所及び高崎工芸指導所に関係して、工芸の方面に於て忘却し得ぬ大いなる業績を残した。11年秋トルコ、イスタンブール国立大学に教授として招聘を受け、我が国を去つた。

藤井厚二

没年月日:1938/07/17

読み:フジイ, コウジ*、 Fujii, Koji*  京都帝国大学工学部教授工学博士藤井厚二は7月17日逝去した。享年51歳。 明治21年広島県福山市に生る。大正2年東京帝国大学建築学科を卒業、竹中工務店に入り同7年迄勤務、同10年京都帝国大学建築学科に勤務して現在に及んだ。建築学の外に陶器の研究に従つてゐた。雅号聴竹。

小林福太郎

没年月日:1938/03/26

読み:コバヤシ, フクタロウ*、 Kobayashi, Fukutaro*  建築学会、日本建築士会の正員で、社寺建築の専門家である小林福太郎は、3月26日逝去した。享年57歳。 明治15年11月東京に生る。同32年工学院造家学科を卒業、内務省社寺局に奉職し、又古社寺保存会に勤務、次で宮内省内匠寮に入り、日本趣味を基調とする建築の設計を担当した。大正8年日光廟修理工事主任として赴任し、主要建造物の大修理に従つた。明治神宮御造営に際しては其事務取扱を嘱託された。後年社寺建築設計事務所を自営し、その設計に係る社寺は全国各地に亙り甚だ多数に上つて居る。尚各県より国宝建造物修理工事監督として嘱託されて居た。

武田五一

没年月日:1938/02/05

読み:タケダ, ゴイチ*、 Takeda, Goichi*  正3位勲2等工学博士武田五一は急性肺炎のため2月5日京都の自宅で薨去した。享年67歳。 明治5年11月15日広島県福山市に生る。同30年東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、同32年、同工科大学助教授に任ぜらる。翌33年文部省留学生として図案学研究のため英独仏に留学を命ぜられ、翌年3月出発、同36年帰朝した。同年京都高等工芸学校の教授に任ぜられ、同校図案科主任として大正7年迄在職した。この間京都工芸界に大なる貢献をなすと共に建築界に於ても指導的地位を保ち、即ち古建築方面に於ては同37年京都府技師を兼任して京都地方古社寺の修理保存に従事し、新建築界に於ては大蔵省臨時建築部技師を兼任して帝国議会議院建築に当初より参画し、諸官衙建築調査等のために欧米へ前後3回に亙つて出張して居る。大正4年工学博士の学位を受く。同5年法隆寺壁画保存法調査委員、翌年古社寺保存会委員となる。同7年名古屋高等工業学校長に転任し、兼ねて臨時議院建築局技師の任にあつた。当時京都帝国大学工学部の建築学科創立の事あり、その委員として尽力し、同9年同科の設置を見るや勅任教授に任ぜられ、主として建築計画法を講じ同科の今日の基礎を築いた。京都帝国大学に於ては教授たるに止らず、同11年其の建築顧問、同14年に大蔵省営繕管財局技師を兼ね、昭和4年より6年迄は営繕課長事務取扱として学内建築物造営に関与した。尚この時代は博士の建築活動の高潮期で幾多の作品を残して居る。工芸界に於ては大正元年農商務省第1回図案及応用作品展以来今日迄商工省工芸審査委員会の委員として、又各博覧会等の審査官として力を尽し、更に都市計画の方面に於ても京都、大阪、名古屋等の顧問として多大の貢献をなした。昭和6年欧米に出張し、同7年長年の教授の職を辞したが、建築界に於ける活動は毫も衰へず、最近の大作としては日本赤十字社京都支部病院、京都電燈株式会社等が挙げられる。晩年特記すべきは昭和9年4月法隆寺国宝保存工事事務所長及び同協議会委員に就任して、爾来4ヶ年国家的事業たる同寺国宝建造物保存事業に傾倒したことで、その大事業の半ばにして急逝し、学界の痛惜するところとなつたものである。多年京都に居住したため、関西方面の重要公共建築には殆んど関与せざるものなく、我国建築界の重鎮であつた。左に主なる建築作品の目録を掲載する。(以上「建築雑誌」52の639記事に依る)作品略年表明治32年 日本勧業銀行(旧)(東京市)明治32年 台湾神社明治38年 福島邸(旧)(東京市)明治40年 清野邸(京都市)明治42年 京都府記念図書館明治42年 富山県県会議事堂明治43年 京都商品陳列所(旧)明治44年 同志社女学校静和館(京都市)明治44年 伊藤博文公銅像台座(神戸市)明治45年 芝川邸(兵庫県)大正2年 同志社女学校ゼームス寮(京都市)大正2年 京都市二条橋大正3年 京都帝国大学文学部陳列館大正3年 京阪電鉄株式会社本社(大阪市)大正4年 桑港博覧会日本政府館迎賓館大正4年 京都商工会議所大正4年 佐久間象山先生遭難之碑(京都市)大正4年 求道会館(東京市)大正5年 稲畑邸(京都市)大正5年 兵庫県立農工銀行大正5年 山口県庁及県会議事堂大正5年 大阪朝日新聞社大正5年 御大典記念京都博覧会大正6年 龍安寺鳳凰閣(大阪府)大正6年 清水寺根本中堂・大講堂・本坊・客殿(兵庫県)大正6年 大阪電燈株式会社心斎橋陳列場大正8年 山王荘(東京市)大正8年 那覇市役所大正9年 清水寺山門・鐘楼(兵庫県)大正10年 北村本邸(奈良県)大正10年 京華社(京都市)大正10年 山口仏教会館(京都市)大正11年 勝田邸(神戸市)大正11年 京都帝国大学工学部建築学教室大正11年 浅沼銀行(大垣市)大正11年 阿部伊勢守正弘公銅像台座(福山市)大正1年 青柳邸(京都市)大正11年 小川邸(京都市)大正12年 東本願寺内侍所(京都市)大正12年 清水寺大塔(兵庫県)大正12年 藤本ビルブローカー門司支店大正12年 武道専門学校(京都市)大正13年 北村邸(和歌山市)大正13年 京都帝国大学本館大正13年 京都市医師会館大正13年 尼港遭難記念碑(東京市)大正13年 中之島公園音楽堂(大阪市)大正13年 京都銀行集会所大正13年 岐阜商工会議所大正14年 大阪工業試験所研究室大正14年 村瀬西洋料理店(京都市)大正14年 光明寺根本本堂(兵庫県)大正15年 星野邸(京都市)大正15年 藤井美術館(有隣館)(京都市)大正15年 中田商店(京都市)大正15年 電気大博覧会(大阪市)大正15年 持宝院大師堂(兵庫県)大正15年 田中別邸(京都市)大正15年 大阪市伏見橋大正15年 石黒ビルデイング(金沢市)昭和2年 奈良信託株式会社昭和2年 大平邸(京都市)昭和2年 阿部伯爵邸(東京市)昭和2年 島津製作所(京都市)昭和2年 大阪市渡辺橋昭和3年 天王寺公園音楽堂(大阪市)昭和3年 商工省京都陶磁器試験所本館昭和3年 岩倉文庫(京都府)昭和3年 大阪鉱業監督局昭和3年 大阪毎日新聞社京都支局昭和3年 岐阜市公会堂昭和3年 高野山大学図書館(和歌山県)昭和3年 三井相続会館(京都市)昭和3年 御大礼京都博覧会昭和3年 御大礼京都市街路装飾昭和3年 華頂会館(京都市)昭和3年 京都日出新聞社昭和3年 大阪市四ツ橋昭和3年 六鹿邸(京都市)昭和3年 春田文化集合住宅(名古屋市)昭和4年 大阪市浪速江橋昭和4年 山代温泉共同浴場(石川県)昭和4年 三宅清次郎商店(京都市)昭和4年 永平寺大光明蔵(福井県)昭和4年 学士会京都支部会館昭和5年 河野邸(兵庫県)昭和5年 福山市役所昭和5年 伊谷邸(京都市)昭和5年 高野山癸亥震災霊碑堂昭和5年 大阪市桜宮大橋昭和5年 中山邸(兵庫県)昭和5年 東方文化学院京都研究所昭和5年 石黒邸(金沢市)昭和5年 山中町共営浴場(石川県)昭和6年 熊本医科大学山崎博士記念図書館昭和6年 高知県立城東中学校昭和7年 同志社女学校栄光館(京都市)昭和7年 藤山邸(東京市)昭和7年 京都薬学専門学校昭和8年 円教寺摩尼殿(兵庫県)昭和9年 高野山金剛峯寺金堂及根本大塔昭和9年 日本赤十字社京都支部病院昭和10年 新大阪ホテル昭和10年 沢田邸(神戸市)昭和11年 黒谷金戒光明寺大方丈併附属建物(京都市)昭和11年 山中観光ホテル(石川県)昭和11年 法隆寺鵤文庫(奈良県)昭和11年 杉山邸(兵庫県)昭和12年 京都電燈株式会社工事中 法隆寺宝蔵

長野宇平治

没年月日:1937/12/14

読み:ナガノ, ウヘイジ*、 Nagano, Uheiji*  元日本建築士会々長。工学博士長野宇平治は12月14日逝去した。慶応3年越後高田に生る。明治26年東京帝国大学工科大学造家学科を卒業後、奈良県技師日本銀行技師を経て、大正2年建築設計監督事務所を開設し、同4年工学博士の学位を授けられた。同7年渡米。昭和2年、日本銀行増改築の為、臨時建築部設置せられ其の技師長の任に就いて居た。尚大正6年日本建築士会々長に選任され爾後数回再選されて居る。在世中設計監督せる主なる建築物は左の通りである。明治28年 奈良県庁舎明治39年 日本銀行名古屋支店明治39年 日本銀行京都支店明治44年 日本銀行函館支店明治45年 日本銀行小樽支店大正2年 日本銀行福島支店大正4年 志立鉄次郎邸大正5年 三井銀行神戸支店大正8年 横浜正金銀行神戸支店大正8年 横浜正金銀行下関支店大正8年 三井銀行下関支店大正9年 明治銀行金沢支店大正9年 日本興業銀行大阪支店大正10年 三井銀行日本橋支店大正11年 日本銀行岡山支店大正12年 明治銀行本店大正12年 明治銀行大阪支店大正12年 三井ビルデイング大正14年 三井銀行広島支店大正14年 鴻池銀行本店昭和2年 横浜正金銀行東京支店昭和2年 亀島広吉邸昭和2年 藤井栄三郎邸昭和2年 日本銀行神戸支店昭和11年 日本銀行広島支店昭和7年 日本銀行本店増築(第一期工事)昭和10年 日本銀行本店増築(第二期工事)昭和13年 日本銀行本店増築(第三期工事)建築設計競技応募明治42年 台湾総督府庁舎大正元年 大阪市公会堂

曾禰達蔵

没年月日:1937/12/06

読み:ソネ, タツゾウ*、 Sone, Tatsuzo*  建築学会名誉会長、工学博士曾禰達蔵は12月6日急性腸閉塞の為め逝去した。享年86。嘉永5年江戸に生れ、明治12年当時の工部大学校第一期生として卒業、本邦近代工学の揺籃時代より明治大正昭和を通じて我国工学界の発達の為に貽した功績は偉大であつた。 略歴―明治12年工部大学造家学科を卒業後、同年工部8等技手に任命営繕局出勤となり、14年工部大学校助教授に、次で19年工科大学助教授、又同年海軍4等技師に任ぜられ、22年呉鎮守府建築部長仰付けられ翌年同官を免ぜらる。同年三菱社に入社、26年震災予防調査会委員となり、又同年帝国大学より米国シカゴ博覧会の鉄造家屋取調を嘱託されて渡米した。32年工学博士の学位を授けられ、34年岩崎久弥男に随行して英国ロンドンへ出張、39年三菱を退社し同社建築顧問となり、自ら建築事務所を開設した。40年東京勧業博覧会審査官を嘱託せられ、翌年中条精一郎と共同にて曾禰中条建築事務所を開いた。又東京高等工業学校講師を嘱託された。大正7年臨時議院建築局顧問仰付けられ、同9年正5位に叙せらる。14年営繕管財局顧問仰付けられ、同年震災予防評議員を仰付けられた。 其の建築作品に就ては日本建築士誌(第22巻第3号)は第一期海軍省時代、第二期三菱社及び三菱合資会社時代、第三期曾禰中条建築事務所時代の三期に分けて幾多の作品を紹介して居るが、第二期の作品である初期三菱諸建築及第三期の東京海上ビルチング、日本郵船ビルヂング、有楽館、華族会館、慶応義塾諸建築等は其の主要なる作品である。

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