本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 3,013 件)





中䑓瑞真

没年月日:2002/04/23

読み:なかだいずいしん  人間国宝(重要無形文化財保持者)で社団法人日本工芸会参与の中䑓瑞真は、4月23日午後1時50分、老衰のため東京都港区の自宅で死去した。享年89。1912(大正元)年8月8日、千葉県に生まれる。本名・眞三郎。14歳で上京して指物師竹内不山に師事し、箱物や茶の湯の道具類の指物を修業、ともに桑や杉、桐等の各種素材を駆使した伝統的な指物や透彫り、刳物等の木工芸を修得することに努めた。1933(昭和8)年、独立自営した。この頃から茶道を田中仙樵に学び、棚物や箱物等の茶道具の制作をよく修業した。また独学で刳物の伝統的な技法を高め、特に銘木桐材による制作に個性的な妙技を発揮した。62年第9回日本伝統工芸展に初入選を果たし翌年奨励賞を受賞するなど活躍し、65年以降には再々鑑査委員や審査委員、そして理事・木竹部会長を務めるなどして伝統木工の発展に寄与した。1993(平成5)年日本伝統工芸展40周年記念表彰を受けた。84年重要無形文化財「木工芸」保持者の認定を受け、いっそう後進の育成にも尽力した。茶道具の制作にも卓越した技量を発揮したが、軟質で杢目や木肌に優れた会津や南部の樹齢幾百年もの桐材をもって、刀の巧みな彫刻技術の仕上げにより特有の美しい光沢を表し気品を持たせ、かつ専有の高度な技術と洗練された感覚で盛器や蓋物等に清新で独自の木工作品を制作した。89年喜寿記念、92年傘寿記念、そして99年にも茶の湯の炉縁を多く手がけた米寿記念の個展を開催するなど、稀有となりつつある桐材の制作を主とする木工芸に特異な活躍を示した。

山田光

没年月日:2001/11/29

読み:やまだひかる、 Yamada, Hikaru*  陶芸家の山田光は11月29日午後5時58分、肺炎のため京都市左京区の病院で死去した。享年77。1923(大正12)年12月23日、東京府豊多摩郡杉並町阿佐ヶ谷に生まれるが、関東大震災の混乱を避けるため、一家で岐阜県岐阜市大江町にあった母てつの実家に帰郷、翌年1月7日同地に生まれたとして届出された。1945(昭和20)年京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)窯業科卒業。この年、父喆(徹秀)とともに八木一艸宅を訪ね、八木一夫に会う。46年「青年作陶家集団」結成に参加。第1回日展、第2回京展に入選。48年京展賞および新匠賞を受賞。同年、「青年作陶家集団」を解散し、同年7月、叶哲夫、鈴木治、松井美介、八木一夫とともに前衛陶芸家集団走泥社を結成。戦後やきもののあり方を模索していた陶芸の世界に、オブジェという用途性をもたない新たな造形としての道を切り拓いた。オブジェ制作の初期には、ロクロでひいた壺の側面を切ってタタラを貼り付ける、花器をその用をなさないほどに口を狭める、あるいは口を塞ぐなど、器形に立ち向かうかのような試みを重ねた。55年、鈴木治との二人展(東京新橋・美松書房画廊)では当時の制作を語る上で重要な作品が発表された。50年代後半には形体分割によるキュビスム的志向を示したが、60年代に入ると、後の山田に特徴的な板状または帯状の陶板があらわれ、オリベや伊羅保などの釉薬や焼き締めといった表面への試行を続けながら、同時に土はより薄く少なくなり、素材がもつ力の限界に挑むような形体が現われた。61年日本陶磁協会賞受賞。またプラハ国際陶芸展(62年)やファエンツァ国際陶芸展(72年)など海外展への参加も少なくない。一方で、62年、八木とともに「門工房」を設立し、本格的にクラフトを手がけた。79年9月大阪芸術大学教授に就任し(~94年)、この頃から黒陶による制作をはじめる。87年からはパラジウムの銀泥、1994(平成6)年の個展ではパイプ状の形体も取り入れた作品を発表し、飄々としつつも理知的な山田独自の制作に透明感を増したさらなる境地を開いた。95年京都市文化功労者、第36回日本陶磁協会賞金賞受賞。98年京都美術文化賞受賞。1999~2000年「陶の標―山田光」展(伊丹市立美術館、岐阜県美術館、目黒区美術館)。日本クラフトデザイン協会名誉会員。

金森映井智

没年月日:2001/11/25

読み:かなもりえいいち、 Kanamori, Eiichi*  金工作家で、彫金の重要無形文化財保持者の金森映井智は、11月25日午前11時20分、心不全のため富山県高岡市の病院で死去した。享年93。1908(明治41)年2月3日、高岡市母衣町(現京町)に七人兄弟の長男として生まれた。本名榮一。生家は仏事用の菓子の製造販売業を営んでいた。1920(大正9)年、小学校を卒業すると高岡の地場産業である銅器工芸で身を立てることを決意するが、高岡金工に新風を吹き込んだ富山県立工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)教師の内島市平のすすめで同校に入学する。ここで、彫金、鋳金、鍛金、板金など、金工の幅広い知識を習得する。また、日本画を中島秋圃に学ぶ。卒業後は内島の内弟子として二年間彫金技法を学び、職人ではなく作家としての道を歩む。1930(昭和5)年、商工省第17回工芸展覧会に初入選し、褒状受賞。また同年、工芸の革新を目指して高村豊周らが結成した无型展に入選。翌年、23歳で金工作家として独立する。33年、第14回帝展に「胴張型青銅花瓶」が初入選し、以来、帝展、文展、日展に入選を繰り返す。41年には母校に非常勤講師として迎えられ、公募展の入選を目指しながら多くの後進を育成。また、富山県や高岡市の美術工芸指導者として、県展や市展をはじめ、その他の美術展や美術団体でも活動を展開。戦後すぐの作品には、写生をもとにしてつくり出された具象的な草花文がよく用いられており、この時期の特徴となっている。57年からは日展を離れ、第4回日本伝統工芸展に「青銅瑞鳥香炉」を出品し初入選。以後は同展を舞台に、金、銀の線象嵌、布目象嵌による作品を発表。62年には日本工芸会正会員となる。69年、高岡市市民功労者表彰。翌年には県政功労者表彰を受ける。73年に号を映井智と改め、76年の第23回日本伝統工芸展では「鋳銅象嵌六方花器」が日本工芸会総裁賞を受賞。翌年、日本工芸会金工部会評議員。80年には鑑査委員と審査委員を務める。同年、勲四等瑞宝章受章。その翌年には日本工芸会理事に就任した。1989(平成元)年、「彫金」で富山県初の重要無形文化財保持者に認定される。90年には高岡市名誉市民の称号を受ける。91年、富山県民会館美術館で「金森映井智回顧展」が開催され、2003年には高岡市美術館において「金森映井智の偉業を偲んで」と題した没後初の回顧展が開催された。作品は鋳銅製で、その多くは花器であるが、花器には具象的な意匠は不似合いと考え、直線や曲線による幾何学的模様を意匠に用いた。高岡の伝統である浮象嵌を基本に、さまざまな象嵌技法を組み合わせて、現代感覚にあふれた重厚な作風で独自の世界を築き上げた。 

藤原雄

没年月日:2001/10/29

読み:ふじわらゆう、 Fujiwara, Yu*  備前焼の陶芸家で国指定重要文化財保持者(人間国宝)の藤原雄は、10月29日午前6時34分、多臓器不全のため岡山県倉敷市の川崎医大付属病院で死去した。享年69。1932(昭和7)年6月10日、同じく備前の陶芸家で人間国宝となった父・藤原啓の長男として岡山県和気郡伊里村穂浪(現・備前市)に生まれる。55年、明治大学文学部を卒業後、一時みすず書房に編集者として勤務するが、父の看病のため岡山へ戻る。復帰した父の助手となり、備前焼の技法を学んだ。58年、第5回日本伝統工芸展にを出品し初入選、また第7回現代日本陶芸展でも入選を果たす。60年には、初の個展(岡山天満屋、東京日本橋三越)を開催。翌61年には日本工芸会正会員となり、またスペイン・バルセロナにおける国際陶芸展では、グランプリを受賞(63年)するなど、備前焼の俊英としての地歩を固めた。64年にアメリカ、カナダ、メキシコ、スペイン等の国々を廻り、各地で備前焼講座や個展(アメリカ、カナダ)を開催、同時に米国コロンビア大学における第1回国際工芸家会議で日本代表として備前焼の解説を行うなど、海外へ広く備前焼を紹介した。こうした経験は後年、備前焼を世界に普及するという雄の一貫した活動へと結びついていく。67年に独立。同年、日本陶磁協会賞を受賞。金重陶陽や父・啓たちが拓いた茶陶としての現代備前陶という認識から出発した雄は、備前の土味を生かし、穏やかで明快な器形に削ぎや透かし、箆目、線彫で作家の作為性を加味した作風を確立した。とくに壷の制作に焦点を絞り、「百壷展」(岡山天満屋 1972年、及び東京日本橋高島屋 1974年)を開くなど、どっしりとした豪放な壷で新境地を開拓した。「古備前と藤原啓・雄父子」展(パリ市立チェネルスキー美術館他 1976年)、「備前一千年、そして今、藤原雄の世界」展(韓国国立現代美術館 1988年)など海外での発表も積極的に行い、備前焼の発展と普及に貢献した。1996年、備前焼で重要無形文化財保持者の認定を受ける。98年、紫綬褒章受章。96年から99年まで倉敷芸術科学大学で芸術学部教授も務めた。主な作品集に『藤原雄 備前 作陶集』(求龍堂 1987年)、『藤原雄 陶の譜:作陶生活40周年記念』(藤原雄陶の譜刊行会 1995年)がある。

今泉今右衛門

没年月日:2001/10/13

読み:いまいずみいまえもん  「色絵磁器」の重要無形文化財保持者で、日本工芸会副理事長の十三代今泉今右衛門は、10月13日午後4時26分、心不全のため佐賀県有田町の自宅で死去した。享年75。1926(大正15)年3月31日、佐賀県有田町に、色鍋島を家業とする十二代今泉今右衛門の長男として生まれ、善詔(よしのり)と通称する。同家は、江戸初期いらいの鍋島藩窯の流れを汲む陶家で、江戸時代には、上絵(赤絵・色絵)を専門とするいわゆる御用赤絵屋として、鍋島藩直営の色絵磁器・色鍋島の制作の一翼をになった。明治に入り、藩窯が解体されてからは、当時の当主十代今右衛門が、従来の分業体制にのっとった上絵専業の家業から、素地づくり、本焼、上絵にいたるまでの一貫制作体制へと転換を進めて、現在の今右衛門陶房の基礎を築く。父・十二代の時代には、「色鍋島」が無形文化財の指定を受け、さらに1971(昭和46)年には、十二代を代表とする色鍋島技術保存会が、重要無形文化財の保持団体として指定を受けている。明治以降、代々の当主によって続けられてきた、このような伝承技法保存の試みは、十三代にも受け継がれた。49年、東京美術学校工芸科卒業後は、家業に従事して家伝の技術を習得。52年頃から、大川内や有田町などの窯跡発掘調査に随行し、初期伊万里の陶片を多数、実見。鍋島以外の古陶磁に触れたことが、のちの独自の作風の開拓につながったと、後年みずから回顧している。古陶磁研究のかたわらで、公募展への出品を開始しつつ、自身の表現を模索。57年、日展初入選、以後、59まで日展に出品する。62年からは日本伝統工芸展に主たる発表の場を移し、以後毎年、出品を重ねた。65年、第12回日本伝統工芸展への出品作「手毬花文鉢」が日本工芸会会長賞を受賞。同年、日本工芸会正会員となった。75年6月、父・十二代の逝去により、十三代今右衛門を襲名。翌76年4月、十二代から継承した技術保存会を色鍋島今右衛門技術保存会として再組織、会長となって、文化庁から重要無形文化財「色鍋島」の総合指定を受けた。おおよそこの頃までの作品は、伝統的な色鍋島の様式を踏襲し、白磁、染付の素地に、赤、黄、緑の上絵という特徴的な賦彩をほどこしたものが多いが、写生にもとづく細密な描写や、余白を生かす動的な構成において、新しい意匠への試みが見てとれる。十三代襲名後の76年からは、コバルトの染付の絵具を吹きつける「吹墨」の技法を用いて濃淡に富む地文の表現を実現し、さらに78年には、貴金属を含んだ黒色の顔料を、吹墨と同様の技法で地文に用いる「薄墨」の技法を創案して、複雑な色彩効果をもつ新たな色絵の表現を確立した。この技法を用いた「色鍋島薄墨草花文鉢」が、79年の日本伝統工芸展でNHK会長賞を受賞、さらに81年の日本陶芸展で、同じく「色鍋島薄墨露草文鉢」が、秩父宮賜杯を受賞した。「薄墨」や「吹墨」のほか、中国・明代の緑地金彩にヒントを得て、緑の上絵具を地色として塗りこめる技法も好んで用い、白地や淡色地の多い従来の色鍋島に、新しい作風をもたらした。88年、毎日芸術賞、MOA岡田茂吉賞を受賞。1989(平成元)年3月には、「色絵磁器」の重要無形文化財保持者に認定された。同年、日本陶磁協会金賞受賞。99年には、勲四等旭日小綬賞を受賞。また93年より2001年まで、佐賀県立有田窯業大学校校長をつとめ、後進の育成に尽力したほか、96年、財団法人今右衛門古陶磁美術館を開館し、かつて蒐集した初期伊万里の陶片や、伝来の鍋島、近代以降の歴代今右衛門の作品などを展示して、近世色絵磁器の研究発展にも貢献した。なお、十三代の逝去により、次男の雅登が、02年に十四代今右衛門を襲名している。

鈴木治

没年月日:2001/04/09

読み:すずきおさむ、 Suzuki, Osamu*  陶芸家で、戦後の日本の陶芸界をリードした走泥社の創立メンバーであり、京都市立芸術大学名誉教授の鈴木治は、4月9日午後1時10分、食道がんのため死去した。享年74。1926(大正15)年11月15日、京都市生まれ。生家のあった五条坂界隈は清水焼の中心地であり、父鈴木宇源治は永楽善五郎工房のろくろ職人であった。1943(昭和18)年京都市立第二工業学校窯業科卒業。戦後、46年中島清を中心に、京都の若手陶芸家が集まって結成された青年作陶家集団に参加。47年日展初入選。48年青年作陶家集団は第3回展をもって解散し、八木一夫、山田光らとともに走泥社を結成する。50年現代日本陶芸展(パリ)に出品、52年第1回現代日本陶芸展で受賞。54年第1回朝日新人展に、器の口を閉じた「作品」を出品する。用途をもたない、器の口を閉じた陶芸作品の出現は、陶芸の分野においては画期的な出来事であった。60年日本陶磁協会賞受賞。62年第3回国際陶芸展(プラハ)に「織部釉方壷」を出品し、金賞受賞。63年現代日本陶芸の展望展(国立近代美術館京都分館開館記念展)に「土偶」、翌64年現代国際陶芸展(国立近代美術館、東京)に「フタツの箱」を出品、いずれも白化粧の上に幾何学的な文様や記号をあらわした作品である。65年の個展以後は自らの作品を「泥像」と呼び、この頃から、信楽の土を主とした胎土の上に、赤化粧を施し、部分的にや灰をかけた焼き締め風の作品を制作する。67年個展に「馬」を出品、馬は鈴木にとって重要なモチーフであり、その後もしばしば馬を題材とした作品を制作する。70年ヴァロリス国際陶芸ビエンナーレ展(フランス)に「ふり返る馬」を出品し、金賞を受賞。71年走泥社東京展で青白磁(影青)の作品を出品、同年の個展で青白磁の「縞の立像」を出品。同年ファンツア国際陶芸展(イタリア)に「四角なとり」を出品、貿易大臣賞を受賞。79年京都市立芸術大学美術学部教授となる。82年個展に「雲」の連作を出品。83年の個展から、自らの作品に「泥象」という言葉を使いはじめる。「泥象」とは泥のかたちの意であり、人や動物だけでなく、雲や風や太陽といった自然現象をモチーフに制作を行う鈴木の造語である。同年、第7回日本陶芸展に「山の上にかかる雲」を出品、日本陶芸展賞を受賞。84年1983年度日本陶磁協会金賞、第一回藤原啓記念賞を受賞。85年毎日芸術賞を受賞。同年、伊勢丹美術館(東京)にて回顧展「泥象を拓く 鈴木治陶磁展」(大阪、岡山を巡回)が開催される。87年第五回京都府文化賞功労賞を受賞。同年、個展に「掌上泥象百種」、「掌上泥象三十八景」を出品。88年個展に、穴窯で制作した「穴窯泥象」を出品。1989(平成元)年「鈴木治展」(京都府立文化会館)が開催される。90年京都市立芸術大学美術学部長となる。92年京都市立芸術大学を退官、名誉教授となる。93年京都市文化功労者となる。94年紫綬褒章受章、第7回京都美術文化賞を受賞。98年第30回日本芸術大賞を受賞。同年、50周年記念’98走泥社京都展をもって走泥社は解散。同年、個展に「木」の連作を出品。99年第69回朝日賞、第17回京都府文化賞特別功労賞を受賞。同年、東京国立近代美術館工芸館にて回顧展「鈴木治の陶芸」展が開催される(福島、京都、広島、倉敷を巡回)。走泥社の創立メンバーであり、革新的陶芸の旗手として戦後を通じて日本の陶芸界の第一線で活動を続けた鈴木治は、馬や鳥、雲や太陽などをモチーフにした抽象的フォルムの詩情あふれる作品で高く評価される。『鈴木治陶芸作品集』(講談社 1982年)。

鴨政雄

没年月日:2000/12/06

 彫金作家の鴨政雄は12月6日午前1時37分、肺炎のため香川県高松市の病院で死去した。享年94。1906(明治39)年8月31日、香川県高松市に生まれる。彫金作家の鴨幸太郎は実兄。1925(大正14)年、香川県立工芸学校を卒業し上京。1930(昭和5)年、東京美術学校金工科を卒業して研究科に進学し、清水南山、海野清に師事(33年修了)。在学中の27年に北原千鹿らの「工人社」結成に参加し、新しい工芸を目指して制作活動を繰り広げる。足の切断で一時活動を休止したこともあったが、30年「彫金小筥」で第11回帝展に入選し、以後文展、日展を通じて入選を重ねる。戦前は飛行船や抽象文様などを用いた近代的な作風で注目された。43年に高松へ疎開し、戦後は高松で制作に励む。52年の「トカゲと蝶紋花瓶」で第8回日展特選・朝倉賞を受賞。59年から日展会員。66年に四国新聞文化賞を受賞し、67年から香川県明善短期大学にて教鞭を執る(69年から教授)。73年に山陽新聞文化賞を受賞し、同年香川県文化功労者表彰を受けた。85年、「彫金花瓶」で第24回日本現代工芸美術展文部大臣賞を受賞。1994(平成6)年には香川県文化会館で回顧展「彫金の世界・蝶と草花-鴨政雄展」が開催され、96年には北海道立近代美術館ほかを巡回した「日本工芸の青春期1920s-1945」展に出品した。日本美術工芸界の最長老のひとりとして、晩年の第32回改組日展(2000年)まで制作・発表を続けた。

大久保婦久子

没年月日:2000/11/04

読み:オオクボ, フクコ*、 Okubo, Fukuko*  皮革工芸家で日本芸術院会員の大久保婦久子は11月4日午後5時25分、心不全のため、東京都新宿区の病院で死去した。享年81。1919(大正8)年1月19日静岡県加茂郡下田町(現 下田市)に生まれる。本名ふく。1931(昭和6)年下田尋常高等小学校を卒業し静岡県立下田高等女学校に入学。35年に同校を卒業して女子美術専門学校(現 女子美術大学)師範科西洋画部に入学する。39年、同校を卒業。在学中に皮革染織を学んだことがきっかけとなり、皮革工芸を制作し始める。50年に東京銀座資生堂で個展を開催。翌年から山崎覚太郎に師事する。52年第8回社団法人日展第四科工芸部に「逍遥」(3枚折りスクリーン)で初入選し、以後同展に入選を続ける。53年第9回日展に「四季」(4枚折りスクリーン)を出品。また、同年第39回光風展に「向日葵」を出品し、以後同展に出品を続ける。55年第1回新日展に「春昼」(キャビネット)を出品して北斗賞受賞。58年6月から7ケ月間、皮革工芸研究のためイタリアに滞在。50年代の作品は家具などの装飾に皮革を素材とした造型作品を用いたものが多かったが、60年代に入ると皮革を素材とする造型作品自体を独立させるようになる。61年第4回日展に「うたげ」を出品して特選および北斗賞受賞。翌年日展無鑑査となる。また62年第1回現代工芸美術協会展に「黒い太陽」を出品して初入選。64年第7回日展に「まりも」を出品して菊華賞受賞。65年日展工芸部審査員および現代工芸美術協会会員、66年日展会員となる。69年総合美術展「潮」を結成。以後、同展にも出品を続ける。60年代後半に、皮革表面を打つことによる凹凸の表現のみならず、編みこみ、張り込みなど多様な技法を用いるようになり、70年代のはじめにはイタリアの作家ルーチョ・ファンタナのキャンバスを鋭利に切り裂く作品に学んだ皮革造型を試みる。また、70年代後半からは縄文など古代のモティーフに興味を抱き、縄目やうねりを作品に取り入れるようになる。79年中国へ旅行。80年現代女流美術展に招待出品し以後同展に出品を続ける。また、同年光風会を退会。81年第20回現代工芸展に「折」を出品して内閣総理大臣賞受賞。82年第14回日展に「神話」を出品し、翌年この作品により第39回恩賜賞日本芸術院賞を受賞し、85年日本芸術院会員となる。87年皮革造型グループ「ド・オーロ」を結成し、その同人となり、以後毎年同展に出品を続ける。1989(平成1)年郷里の静岡県立美術館で「大久保婦久子展」を開催。95年文化功労者に選ばれる。2000年「大久保婦久子展」を大丸ミュージアム・東京、大丸ミュージアム・KYOTOで開催。同年文化勲章を受章し、11月3日に皇居で行われた文化勲章親授式に出席した直後の死去であった。洋画家の故・大久保作次郎夫人で、作次郎の母校東京美術学校に学んだ工芸家とも広く交遊し、伝統技術の伝承にとどまらない新しい工芸を模索する動きの中にあって、江戸時代まで仏具や武器・武具の制作に持ちられていた皮革工芸技術を、自立的な造型作品の制作に生かして、新境地を開いた。

市橋とし子

没年月日:2000/10/26

 人形作家の市橋とし子は、10月26日午前11時15分、老衰のため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年93。1907(明治40)年8月21日、東京都千代田区神田に生まれる。本名登志(とし)。1925(大正14)年、東京女子高等師範学校保育実習科を卒業。1938(昭和13)年に横浜へ転居し、40年、近所の洋装店で見た人形作家今村繁子の人形に感動。すぐさま今村の家を訪問して弟子となり人形制作を学んだ。戦中から終戦直後にかけては制作をやめていたが、49年、偶然路上で今村に再会。今村の強いすすめで出品した同年の第1回現代人形美術展で、「午下がり」が特選第一席を受賞。翌年の同展でも「おしくらまんじゅう」が特選第一席を受賞。桐塑(桐のおが屑と生麩糊をこねたもの)技法により、身近な生活に取材した人物の姿を繊細かつ詩情豊かに表現する清麗な作風を確立した。54年からは全日本女流美術展にも出品。このころ、より人肌に近い質感を求めて、仕上げに和紙を用いた紙張りの手法を取り入れるようになる。61年、第8回日本伝統工芸展に出品、以後同展に出品を続け、日本工芸会人形部長および理事を務めた。65年からは彫刻家金子篤司に師事して彫刻デッサンや木彫を学び、人形制作においても、一層、的確な構成力を見せるようになった。85年、勲四等瑞宝章を受章。1989(平成1)年、重要無形文化財「桐塑人形」保持者(人間国宝)に指定される。90年、横浜文化賞を受賞。94年、銀座の和光にて個展を開催。98年から翌年にかけて新宿伊勢丹美術館などを巡回した回顧展「市橋とし子人形展-人形はだませない-」が開催された。次男奥村昭雄は建築家、四男徹雄はピアニスト。

横山一夢

没年月日:2000/03/28

 木工芸家で日展参与を務めた横山一夢は3月28日午前2時20分、肺炎のため富山県高岡市の病院で死去した。享年89。1911(明治44)年3月1日、木彫の町として知られる富山県東砺波郡井波町に生まれる。本名善作(ぜんさく)。職人の家系に生まれて木彫技術を習得し、大島五雲(二代)に師事して無名の彫刻師として寺院の改修などにも加わった。1934(昭和9)年に独立自営をはじめると職人という枠にとらわれず独自の意匠作りに励み、41年、当時職人の応募はほとんど考えられていなかった中で、第4回新文展に「鷺の衝立」を出品し初入選を果たす。以後、山崎覚太郎(富山市出身の漆芸家)の指導を受けながら文展、日展に出品を続け、戦後の混乱期も旧来の徒弟制度を越えて井波美術協会や富山県工芸作家連盟を中心に幅広い創作活動を展開することで乗り越えた。53年「響」で第9回日展北斗賞、58年「秋の調」で第1回新日展特選と受賞を重ね、63年には日展会員、71年から日展評議員、1992(平成4)年からは日展参与を努めた。この間、62年に富山県工芸文化賞を、63年に富山新聞社芸術賞、72年に黄綬褒章、75年に北日本新聞文化賞を受賞し、79年には井波町に横山一夢工芸美術館を設立した。80年「静かな朝」で第19回日本現代工芸美術展文部大臣賞を受賞、82年に国際アカデミー賞と勲四等瑞宝章を受章し、90年富山県無形文化財「木工芸木彫象嵌技術」保持者に認定された。主に鳥をモティーフとし、木目や木質の違いを活かした静かで簡潔な作風で知られた。木工芸の伝統を継承しながら近代的な装飾美の世界を築き、木彫職人の技術を美術工芸の世界に引き上げた業績が高く評価されている。長男善一は造形作家、次男幹は木工芸作家。

田邊一竹齋

没年月日:2000/02/24

 竹工芸作家で日展参与を務めた田邊一竹齋は、2月24日午後8時35分、低酸素血症のため大阪府堺市の病院で死去した。享年89。1910(明治43)年5月9日、大阪府堺市に生まれる。本名利雄(としお)。幼少より父、田邊常雄(初代竹雲齋)より竹工芸を学ぶ。1931(昭和6)年、「蟠龍図網代方盆」が第12回帝展に初入選し、以来帝展、文展、日展に入選を繰り返す。はじめ小竹雲齋を号し、37年に父が没すると二代竹雲齋を襲名。52年「螺旋紋花籃」で第8回日展特選・朝倉賞を受賞。60年からたびたび日展審査員を努める。61年から日展会員、76年から日展評議員、1992(平成4)年から日展参与を務めた。この間、59年には大阪府芸術賞を受賞し、73年には堺市より有功賞を授与されている。また、78年の日本新工芸家連盟の結成に参加し、80年「花籃」で第2回日本新工芸展内閣総理大臣賞を受賞。同年、竹芸家同志11名による「竹人会」を創立。81年に勲四等瑞宝章、83年に紺綬褒章を受章。85年には東京国立近代美術館の「竹の工芸-近代に於ける展開-」展に出品し、第1回日工会展に参加した91年には、長男小竹(本名久雄)の三代竹雲齋襲名にともない、一竹齋と改号。レース編みのように繊細な「透かし編み技法」を生み出し、竹工芸の伝統に根ざした格調高い作風で知られた。次男節雄(号陽太)も竹工芸家。

小口正二

没年月日:2000/01/21

読み:オグチ, マサジ*、 Oguchi, Masaji*  漆芸家で日展参与を務めた小口正二は、1月21日午前6時58分、肺炎のため長野県諏訪市の病院で死去した。享年92。1907(明治40)年7月24日、長野県諏訪郡上諏訪町に生まれる。1927(昭和2)年に山本鼎の主宰する農民美術研究所(上田市)の受講生となり、木彫を学ぶ。37年、仙台の国立工芸指導所に入り、各種漆芸技法を修得。43年「柏の図彫漆手箱」で第6回新文展に初入選し、46年「彫漆躍進魚図手筥」で第1回日展特選、59年「彫漆飾棚」で第2回新日展特選・北斗賞を受賞。彫漆技法によって抽象的な文様を力強く表す、近代的な感覚にあふれる作風を確立した。63年から日展会員、82年から日展評議員を務め、同年、彫漆パネル「夏の語らい」で第21回日本現代工芸美術展文部大臣賞を受賞。84年から日展参与を務め、同年、長野県芸術文化功労者表彰を受けた。

佐治賢使

没年月日:1999/06/14

 漆芸家の佐治賢使は6月14日、急性心不全のため市川市の病院で死去した。享年85。1914 (大正3)年1月1日岐阜県に生まれる。本名は正。東京美術学校工芸科に在学中の36(昭和11)年文展に「漆盛器」が初入選。38年同校を卒業。43年第6回新文展で「漆ひるがほ小屏風」が特選となり、以後出品、特選を重ねる。51年日本冶金株式会社勤務を経て、58年第1回新日展で「追想スクリーン」が文部大臣賞、61年に前年の第3回新日展出品作「二曲屏風 都会」が第17回日本芸術院賞を受賞。同年日展会員となり、78年帖佐美行らと日本新工芸家連盟を設立。色漆や乾色粉、金蒔絵、螺鈿など多様な技法を駆使し、なおかつ現代的な感覚を取り入れた絵画的表現で独自の世界を確立した。81年日本芸術院会員、89(平成元)年文化功労者となり、95年文化勲章を受章。長男は漆芸家ヒロシ。 

角谷一圭

没年月日:1999/01/14

読み:カクタニ, イッケイ*、 Kakutani, Ikkei*  釜師の角谷一圭は1月14日、肺炎のため大阪市の病院で死去した。享年94。1904(明治37)年10月12日大阪市に生まれる。本名辰治郎。17(大正6)年釜師の父巳之助より茶の湯釜の制作技法を習得。のち大国藤兵衛、香取秀真に茶釜、鋳金全般を学ぶ。また細見古香庵からも茶釜制作上の影響を受けた。47(昭和22)年昭和天皇大阪行幸の際に釜を献上する。52年第8回日展に初入選、以後56年第12回日展まで出品するが、58年第5回日本伝統工芸展に「海老釜」を出品して高松宮総裁賞を受賞し、以後は同展に出品、61年には同8回展出品作「独楽釜」で朝日新聞社賞を受賞、その間58年布施市文化功労賞、同年大阪府芸術賞を受けるなど受賞を重ねる。終戦直後に出回った名釜修理・修復に携わり、茶釜の形態、地紋、鉄味を調査、その成果に基づき鎌倉期の筑前・芦屋釜を範とし、のち和銑釜を研究、優雅で格調高い作風を確立した。73年第60回伊勢神宮式年遷宮神宝鏡31面を鋳造、93(平成5)年第61回遷宮の折も制作を手がけた。76年勲四等瑞宝章を受章、78年国の重要無形文化財「茶の湯釜」保持者(人間国宝)となる。84年文化庁企画「茶の湯釜」記録映画で「馬ノ図真形釜」を制作。著書に『釜師―茶の湯釜のできるまで』(1974年 浪速社)がある。弟莎村は釜師、長男征一は金工作家。

隅谷正峯

没年月日:1998/12/12

 刀剣作家で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の隅谷正峯は12月12日午後1時16分、急性循環器不全のため石川県松任市の石川中央病院で死去した。享年77。大正10(1921)年1月24日、金沢で醸造業を営む隅谷友吉の長男として生まれる。旧制金沢第一中学校に在学中に日本刀に興味を抱くようになり、立命館大学理工学部機械工学科を昭和16年に卒業した後、同学に創設された日本刀鍛錬研究所で同17年より桜井正幸に師事して作刀技術を学ぶ。また、広島県尾道市にあった興国日本刀鍛錬所でも作刀研究を進めた。戦後、帰郷し、作刀禁止が解かれた同28年から制作を再開。同29年作刀許可を受け、第1回作刀技術発表会に初入選。以後39年まで全10回行われた同展に毎回出品し、優秀賞を4回、特賞を4回受賞する。同30年日本美術刀剣保存協会の新作刀技発表会に入選。同40年作刀技術発表会を引き継ぐかたちで創設された新作名刀展に第1回から出品して名誉会長賞並びに正宗賞、同41年第2回同展で正宗賞・毎日新聞社賞を受賞する。同42年、同展無鑑査となり、審査員を委嘱され、同49年第10回同展で正宗賞を受賞する。この間、同42年石川県指定無形文化財保持者となる。同46年小型たたらによる自家製鋼を研究・開発し、同50年正倉院御物の刀子の研究・模造を行うなど、各地の古今の作刀、研磨技術を研究し、同56年国指定重要無形文化財保持者に認定された。この間、同46年日本美術刀剣保存協会協議員を委嘱され、同59年には全日本刀匠会理事長に就任。平成2(1991)年には同会顧問、同4年には日本美術刀剣保存協会理事となった。主な作品に、伊勢神宮式年遷宮御神宝纏御太刀(昭和39年)、伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀十二振(同44年)、伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀十六振(平成元年)のほか、皇太子妃、秋篠宮真子内親王の守り刀などがある。飛鳥・奈良時代から現代にいたる刀剣技術を研究し、なかでも鎌倉期の備前伝の鍛錬法を得意とした。奈良時代に貴人が装身具に用いた「刀子(とうす)」の制作で知られた。平成3年、佐野美術館、石川県立美術館で「隅谷正峯展」が開催され、略歴などは同展図録に詳しい。 

田口善国

没年月日:1998/11/28

読み:タグチ, ヨシクニ*、 Taguchi, Yoshikuni*  東京芸術大学名誉教授の漆芸家で、国の重要無形文化財(人間国宝)の田口善国は11月28日午前2時11分、心不全のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去した。享年75。大正12(1923)年3月1日東京都麻布に生まれる。本名善次郎。生家は医者で、父と交遊のあった漆芸家松田権六に昭和14(1939)年に弟子入した。また、やはり父と交遊のあった奥村土牛に昭和11年から同16年まで日本画を学び、吉野富雄に古美術を学んだ。同21年第2回日展に「風呂先屏風みのりの朝」で初入選。以後、同22年第3回日展に「風呂先屏風蒔絵俵に鼠」、同23年第4回展に「蒔絵盃ピアノとルリ鳥」、同26年第7回展に「四枚折蒔絵屏風親子つばめ」で入選する。この間、同25年から2年間、東京芸術大学研究生として小場恒吉に日本文様を学び、図案などを研究する。同35年より日光東照宮拝殿蒔絵扉の復元修理に従事。同36年日本伝統工芸展に「蒔絵手箱」を出品して奨励賞を受賞し、同37年日本工芸会会員となる。同38年の同展では「平文蒔絵箱」で、翌年は「蒔絵飾箱 日蝕」で2年連続奨励賞を受賞。同43年同展では「野原蒔絵小箱」で文部大臣賞を受賞する。同53年MOA岡田茂吉賞工芸部門優秀賞を受賞。同55年大倉集古館所蔵の蒔絵「夾紵大鑑」の復元修理をする。同64年国の重要無形文化財保持者(蒔絵)に指定された。同39年中尊寺金色堂復元修理に参加。同49年から翌年まで東京芸術大学美術学部講師をつとめ、同50年同学助教授、同57年同教授となった。平成2(1990)年同学を停年退職し、同名誉教授となった。古美術品の復元修理を通して伝統的な漆芸技法を研究し、蒔絵、螺鈿の高度な技術を習得。そうした技術を生かし、動植物を主なモティーフとする斬新な意匠、表現を試みて現代的な漆器を制作した。 

浅蔵五十吉

没年月日:1998/04/09

 九谷焼の陶工で文化勲章受章者の浅蔵五十吉は4月9日午後1時25分、呼吸不全のため金沢市の金沢大学医学部付属病院で死去した。享年85。大正2(1913)2月26日、石川県能美郡寺井町に生まれる。父は先代五十吉で、10代の頃から父に師事して陶芸を学び、昭和3年に初代徳田八十吉に師事。同21年から色絵陶磁の北出塔次郎に師事する。同21年第1回日展に「青九谷水鉢」で初入選し、以後毎年出品。同27年第8回日展に「磁器長角水盤」で、同30年第11回目日展に窯変「交歓」花器で北斗賞受賞。同32年第13回目日展には「構成の美」花器を出品して特選・北斗賞を受賞する。同52年第9回改組日展に「釉彩華陽飾皿」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同56年「佐渡の印象」により日本芸術院賞を受賞し、同59年日本芸術院会員、平成4(1992)年文化功労者となった。同8年文化勲章を受章。伝統的な技法を基礎に、花鳥を主とする独特の意匠を施し、鑑賞性と実用性の両立に留意した制作を試みる。同2年、横浜、京都、大阪、東京の高島屋で戦後から新作までの作品を展観する喜寿記念展が開催された。昭和62年には『色絵磁器・浅蔵五十吉作品集』(産経出版)が刊行されている。

寺井直次

没年月日:1998/03/21

読み:テライ, ナオジ*、 Terai, Naoji*  人間国宝(重要無形文化財保持者)の漆芸家寺井直次は3月21日午後0時55分、内臓疾患のため金沢市の病院で死去した。享年85。大正元(1912)年12月1日、金沢市の鍛冶職で金物商を営む家に生まれる。昭和5(1930)年石川県立工業学校漆工科描金部を卒業し、東京美術学校工芸科漆工部に入学、六角紫水・松田権六・山崎覚太郎らの指導を受ける。また在学中に日本画を金沢出身の画家田村彩天に学び、その後の工芸意匠案出の糧とする。同10年同学校を卒業、乾漆による卒業制作の「鵜文様飾筥」は翌年の改組第1回帝展に初入選するが、展覧会活動は以後しばらく休止し、財団法人理化学研究所に勤務しながらアルミを素地にした金胎漆器の技術の開発に専念した。同16年からは輸出漆器生産のため同研究所の静岡工場に工芸部長として赴任、同16年からは副工業長を勤める。戦後は依願退職して金沢に帰り、鶏などの卵の殻を細かく割り、その一つ一つを張り合わせて、柔らかな量感に富む蒔絵の卵殻技法に工夫を重ねた。創作活動再出発の第一作として卵殻を用いた「双鳩模様手筥」を制作、これが同21年の第1回日展に入選する。同23年第4回日展«鷺之図小屏風»、および同30年第 12回展に「極光」二曲屏風で特選を、 同29年第11回日展に「雷鳥の図箱」で北斗賞を受賞、同32年には日展会員となる。同25年より47年まで石川県立工業学校漆工科教諭となる。同30年からは日本伝統工芸展に出品し、主として鶉の卵殻を用いた、より繊細で華麗な作品を発表、同35年には同会理事に就任する。同43年北国文化賞、同45年金沢市文化賞を受賞。同47年石川県立輪島漆芸技術研修所初代所長となるが、翌年辞任、以後はかつて理化学研究所で研究していた金胎漆器の制作に再び取り組むようになる。同52年加賀蒔絵で石川県指定無形文化財保持者に認定。同58年に勲四等瑞宝章を受章。同60年、蒔絵で重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定、同年社団法人日本漆工協会功労賞を受賞。同63年文化庁工芸技術記録映画「蒔絵 寺井直次の卵殻のわざ」完成。平成元(1989)年中日文化賞を受賞。同4年新東京国際空港の貴賓室にかかげる漆額「極光(オーロラ)」を作成。同5年『寺井直次作品集』(能登印刷出版部)刊行。同6年石川県立美術館で「蒔絵・人間国宝 寺井直次の世界」展が開催された。

音丸耕堂

没年月日:1997/09/08

読み:オトマル, コウドウ*、 Otomaru, Kodo*  人間国宝(重要無形文化財保持者)の漆芸家音丸耕堂は、9月8日午前9時8分、肺炎のため高松市の病院で死去した。享年99。本名芳雄。明治31(1898)年、6月15日、香川県高松市に生まれる。小学校を卒業後、13歳で讃岐彫りを専門とする石井磬堂に弟子入りし、4年間讃岐彫りを学ぶ。16歳で独立自営しつつ、独学で彫漆を学び、20歳のときに香川漆器の玉楮象谷(たまかじしょうこく)の作風にひかれて私淑した。漆芸家の磯井如真、金工家の北原千鹿、大須賀喬らと交友し、大正期から昭和10年ころまで堆朱、堆黒、紅花緑葉など古来の色漆を用いた彫漆を行い、さらに緑漆と黒漆の色彩的コントラストをいかした西洋風の作風へと移行した。昭和7(1932)年第13回帝展に「彫漆双蟹手箱」で初入選。以後官展を中心に出品し、同12年上京してからは、色漆の色彩の幅を広げ、新色を用いる試みを行った。同17年第5回文展に「彫漆月の花手箱」を出品して特選受賞。戦後も日展に出品し、同24年第5回日展に「彫漆小屏風」を出品して特選を受賞する。工芸家の地位の向上を目指して香川県の工芸家たちと香風会を設立。同30年重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定される。日本工芸会の創立に参加し、日本伝統工芸展にも出品を続け、同48年第20回日本伝統工芸展に「彫漆菊水指」を出品して20周年記念特別賞を受賞。昭和51年2月東京・板橋常盤台の日本書道美術館で20余点の作品を展示する展覧会を開催した。色漆を数十回から数百回塗り重ねた厚い漆の層に文様を彫り込む彫漆の技法を完成させ、昭和52年ころから色彩の断層面を表に出した平行しま模様を用いた作品を多く制作して、伝統的工芸技術による斬新な作風を打ちだした。色漆に金銀粉を混入して塗り、漆の固まる間に金銀が沈澱して層をつくるのをいかし、文様があらわれるように研ぎ出す技法や、彫り口の傾斜の角度により、重ねた色漆の層の断面を加減して微妙な文様をあらわす技法など、彫漆による多様な表現の可能性を引きだした。同57年、後進の育成に寄与すべく「公益信託音丸漆芸研究奨励基金」を設立した。同63年東京池袋の西武アートフォーラムで「音丸耕堂鳩寿記念回顧展」が開催され、平成6(1994)年に回顧展が開催されている。

北岡高一

没年月日:1996/12/18

 機織りに用いる竹筬の製作者で国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の北岡高一は12月18日午後10時、心筋こうそくのため京都市上京区小川通寺之内下ルの自宅で死去した。享年62。昭和9(1934)年2月20日京都市上京区小川通寺之内下ル射場町577番地に生まれる。生家は天正9(1581)年創業と伝えられる京都の筬(おさ)屋で、京都の重要な地場産業である絹織物のための機織り道具である筬(おさ)を製作し続けてきた。筬は縦糸の配列を整えるとともに織幅を一定に保ち、さらに縦糸と緯糸の打ち込みを堅固にするための櫛のような機能を持つ。材料により金筬と竹筬に分類され、また用途によって絹織物用の絹筬と綿織物用の綿筬等に分けられる。絹織物に用いられる竹筬は密度が高く、曲尺一寸に120枚もの羽が入る精巧なもので、金欄や爪掻き綴など濡緯(水で濡らした緯糸)を用いる高度な織物には絹筬が必須である。北岡高一は幼少時から父忠三に師事して伝統的な絹筬の製作、修理を学び、京都第一工業高校(現洛陽高校)を卒業後、家業の絹筬製作に専念した。平成3年(1991)年京都府選定保存技術筬製作の保持者として京都府教育委員会の認定を受け、同8年5月に国の重要無形文化財(筬製作・修理)保持者(人間国宝)として認定された。精緻な絹筬製作に高度な技術を示し、また、破損した筬の修理も併せて手がけ、伝統的な絹織物制作のために尽力した。

to page top