本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 3,013 件)





加藤舜陶

没年月日:2005/06/24

読み:かとうしゅんとう、 Kato, Shunto*  陶芸家で「陶芸 灰釉(かいゆう)系技法」の愛知県指定無形文化財保持者の加藤舜陶は、6月24日午後1時24分、呼吸器疾患のため愛知県瀬戸市の病院で死去した。享年88。1916(大正5)年7月13日、愛知県瀬戸市で最も古い窯業地のひとつとして知られる赤津に、製陶業を営む父・二代春逸、母・としの長男として生まれる。本名は辰(しん)。生家は祖父・初代春逸の命名により屋号を舜陶園といい、その祖父は茶陶を得意とし、父は割烹食器を主に生産していた。1933(昭和8)年、瀬戸窯業学校4年修業の後、病気のため中退し、37年頃から作陶を始めるが召集を受ける。戦後、いち早く家業を復活させるとともに、個人作家としての制作も志し、三代春逸を名乗るべきところ、生まれ年の辰年にあやかり窯名を龍窯とし、舜陶園から名をとり舜陶と号する。50年の第6回日展に「黒い壺」が初入選し、以来、日展や日展系の団体展を発表の場とする。日展では瀬戸伝統の技法である織部、志野、伊羅保、鉄釉など、年ごとに技法の異なる作品を発表して注目を集め、60年の第3回新日展では「線彩花器」(現、花器「湖上の月」)で特選・北斗賞を受賞。受賞作は当時の瀬戸で盛んに使われた石炭窯が用いられたが、その窯の燃料を家業の製品と自身の作品とで使い分け、製品には石炭を、作品には薪を用いて作陶を行う。またこの頃より、石炭窯に薪を用いた灰釉作品の制作に本格的に乗り出し、土の素材感を生かした赤褐色の器体に緑色の釉薬が流れる一群の作品を生み出す。ところがしばらくすると、公害を理由に瀬戸では石炭窯の使用ができなくなり、ガス窯による灰釉作品の制作へと移行。これが転機となり、酸化コバルトを下地に灰釉を掛けた碧彩をつくり出し、灰釉技法の幅を広げる。その後、80年代に入ると、透明感ある釉調が特徴となる瀬戸伝統の御深井釉の研究に没頭。器面に線彫りや陰刻を施して酸化コバルトを象嵌する方法や、白化粧を施した後に掻き落としにより模様を描く方法など、次々に新しい技法を取り込んで灰釉の表現の幅を広げる。82年に日展評議員となり、同年、愛知県芸術文化功労賞を受賞。87年には勲四等瑞宝章を受章する。1990(平成2)年、第12回日本新工芸展で内閣総理大臣賞、翌年、第23回日展においても灰釉花器「悠映」で内閣総理大臣賞を受賞する。94年には「陶芸 灰釉系技法」で愛知県指定無形文化財保持者に認定される。2000年、中国陶磁器をはじめ、韓国、タイ、ベトナム、イランなど、作陶の源泉として収集したアジア地域の古陶磁コレクションのすべてを愛知県陶磁資料館に寄贈。同年、「加藤舜陶古陶磁コレクション―その作品とともに」が開催される。06年には瀬戸市美術館で「加藤舜陶回顧展」が開催され、その全貌が紹介される。長年にわたり、日展や新聞社が主催する公募展の審査員を務め、また、地元の瀬戸陶芸協会会長を歴任されるなど、後輩の指導・育成にも尽力した。 

皆川泰蔵

没年月日:2005/04/10

読み:みながわたいぞう、 Minagawa, Taizo*  染色家の皆川泰蔵は4月10日午前11時13分、肺炎のため京都市山科区の病院で死去した。享年87。1917(大正6)年京都に生まれる。父・八田源七の友人で染色家だった山鹿清華の勧めで京都市立美術工芸学校図案科に入学。1935(昭和10)年に卒業後、染色作家の道に進んだ。38年京都市展で市長賞、41年には文展に初入選を果たした。44年、近代染色の先駆・皆川月華の長女・千恵子と結婚して皆川姓となった。終戦直後に京都・洛北大原で民家の素朴な美しさに感銘を受け、以後、昭和20年代は民家の詳細なスケッチから “染色日本の民家”をテーマに制作を続け、「和染本栖湖畔」が49年の第5回日展で特選となった。昭和30年代に入ると、京都や奈良の神社や仏閣、また庭園に視野を向け、丹念な観察からより単純化と抽象化を進めた独自の作風を確立した。66年、訪中日本工芸美術家代表団員として中国を視察。45日間の旅の間に目にした異国の文化は新たな刺激となり、その後は中国だけでなく、韓国、東南アジア、インド、中近東、ロシア(旧・ソビエト連邦)、ヨーロッパ各地を訪ね歩きながら仕事を続け、まさに自ら回顧するとおり「創作と旅の連続」であった。「対象から受けた感動の残像を、ぎりぎりまで単純化を重ね、現実の風景を抽象化し、力強く魅力に満ちた作品を制作する」皆川の姿勢は、染色芸術の神髄と見事に合致し、豊かな物質感がろう染に独特な効果によって十全に引き出された。80年「皆川泰蔵 日本の染色展」(ベルリン国立世界民族博物館ほか)。1991(平成3)年「世界を染める 皆川泰蔵展」(大丸ミュージアムKYOTOほか)。後進の育成にも力を注ぎ、66年からは鹿児島女子短期大学教授も務めた。また、京都・祇園祭の山鉾の装飾も手がけている。84年京都府文化功労賞。89年京都市文化功労者。93年勲四等瑞宝章受章。社団法人現代工芸美術家協会理事、日本現代染織造形協会理事長。 

加藤卓男

没年月日:2005/01/11

読み:かとうたくお、 Kato, Takuo*  陶芸家で重要無形文化財保持者(工芸技術「三彩」)の加藤卓男は、1月11日午前11時45分、肺炎のため岐阜県多治見市の病院で死去した。享年87。1917(大正6)年9月12日、江戸時代から続く美濃焼窯元五代目加藤幸兵衛の長男として、岐阜県土岐郡市之倉村(現、多治見市市之倉町)に生まれる。1935(昭和10)年岐阜県立多治見工業学校(現、多治見工業高等学校)を卒業後、京都の商工省陶磁器試験所に入所。37年同試験所終業後、帰郷し家業の福寿園丸幸製陶所(現、幸兵衛窯)に勤務。翌38年より従軍。転属先の広島市で残留放射能により被爆。その後10年ほど入退院を繰り返す生活を余儀なくされたが、54年第10回日展に「黒地緑彩草花文花瓶」を出品し初入選。61年陶磁器意匠と技術の交換のため、フィンランド工芸美術学校に留学。この間、休暇を利用してはじめて中東各地の陶器の産地を訪れ、そこで古代ペルシア陶器の美に触れる。帰国後は本格的にペルシア陶、なかでもラスター彩の研究を志すようになった。63年第6回新日展に出品した「花器 碧い山」が特選北斗賞を受賞、翌64年には第3回日本現代工芸美術展で「流」が現代工芸賞を受賞。65年第8回日展で「油滴花器 煌」が再び北斗賞を受賞。作家活動の一方で続けていたペルシア陶研究の成果は、昭和50年代に自身のラスター彩作品として結実。ラスター彩とともに同じペルシア系統の青釉にも取り組み、独創的なフォルムと鮮やかな青色が融合した作品を制作した。80年には宮内庁正倉院事務所より正倉院三彩の「三彩鼓胴」と「二彩鉢」の復元制作を委嘱され、約7年間におよぶ研究と試作を経て復元に成功する。この経験と技術を生かし、自身の創意による三彩の仕事にも取り組んだ。88年紫綬褒章受章。1995(平成7)年重要無形文化財「三彩」の保持者に認定された。ペルシア陶に魅せられ、研究のため訪れた中東の古窯址発掘現場で、織部に似た陶片を発見して以来、加藤は、ペルシアから日本へと広がる壮大なやきものの技術交流と発展史へと興味を広げた。しかし、古代のペルシア陶の技法を解明、再現することにとどまらず、作家として、古陶磁研究を自己の表現の手段として昇華させ、清新な現代の陶芸を創造した点で高く評価される。朝日陶芸展をはじめとして国際的なコンペティションでたびたび審査員を務め、陶芸界のリーダー的存在として果たした役割も大きい。トルコ、イスタンブールの国立トプカプ宮殿博物館(86年)をはじめ国内外で開催した個展多数。2002年4月1日から30日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載(『砂漠が誘う―ラスター彩遊記』日本経済新聞社、2002年加筆所収)、作品集に『ラスター彩陶 加藤卓男作品集』(小学館、1982年)がある。没後、岐阜県現代陶芸美術館で回顧展「加藤卓男の陶芸展―陶のシルクロード」(06年)が開催された。 

金城次郎

没年月日:2004/12/24

読み:きんじょうじろう、 Kinjo, Jiro*  陶芸家で、「琉球陶器」の技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された金城次郎は、12月24日午後10時45分、心筋こうそくのために死去した。享年92。1911(明治44)年、沖縄県那覇市に生まれる(入籍は翌年)。25(大正14)年、那覇市壺屋の名工新垣榮徳に師事。この年、新垣を通じて生涯交流を続けた陶芸家浜田庄司と出会う。金城は戦前、沖縄の伝統的な工芸を評価した柳宗悦の民藝論の薫陶を受け制作に励んだという。1939(昭和14)年、雑誌『工藝』第99号以降、同誌でしばしば紹介される。45年召集され、読谷で飛行場建設、その後壺屋の東窯で軍需品の製作に従事する。恩納村で捕虜となり、石川の収容所に収容される。同年11月、陶器製造先遣隊の一員として壺屋に帰る。46年壺屋で米軍よりかまぼこ形兵舎を払い下げて工房を開く。窯は新垣榮徳の登り窯を共同使用した。51年、戦後窮乏した壺屋の陶工を救うべく、浜田庄司ら民芸関係者の尽力により開催された第1回琉球民藝展(於東京、日本民藝協会主催)に出品。54年第6回沖縄美術展覧会(沖展)工芸部門新設に伴い新垣栄三郎、小橋川永昌と出品。この年、新垣と第1回陶芸二人展開催。55年、第29回国画会公募展(国展)初入選。この頃、益子(栃木)、龍門司(鹿児島)の窯を訪問、その後丹波、九州などの窯を機会あるごとに視察。56年、第30回国展出品「呉須絵台付皿」が新人賞、57年第31回国画展で「抱瓶黒釉指描」が国画賞受賞、同年、国展推薦新会友となる。この年、ルーマニア国立民芸博物館に作品が永久保存される。64年第18回全国民芸大会が沖縄で開催され、浜田庄司、バーナード・リーチが壺屋を訪問。66年明治神宮例大祭奉祝第4回全国特産物奉献式に「長型花瓶」奉納。67年、第1回沖縄タイムス芸術選奨大賞受賞、日本民藝館展入選。69年リーチの再訪を受ける。同年、第43回国展会友優秀賞受賞。この年、壺屋の登窯から出る煙が公害問題として表面化、壷屋の陶工ら、窯の使用回数を減らす。71年第1回日本陶芸展入選。72年、煙害から読谷村字座喜味に移り、初めて自分の登窯を開く。同年、沖縄県指定無形文化財技能保持者に認定。73年、国画会会員となる。77年、現代の名工百人に選ばれる。78年末、脳血栓で倒れ、約4か月間静養後、手足に麻痺が残るが復帰。81年、勲六等瑞宝章受章。85年、「琉球陶器」の技法により、沖縄で初めて重要無形文化財保持者に認定された。2003(平成15)年、那覇市立壺屋焼物博物館にて「壺屋の金城次郎」展開催。卓越した轆轤の技術、線彫、指描などあらゆる壺屋の伝統的な技法を駆使し、壺屋に伝わる伝統的な器形、文様に基きながら、工夫を凝らしてバリエーション豊かな作品へと昇華させ、素朴で親しみやすい日常陶器を生涯作り続けた。躍動感溢れる魚文、海老文の線彫文様は特によく知られ、浜田庄司は、金城以外に魚や海老を笑わすことは出来ないと絶賛したという。作品集に、『金城次郎の世界』(沖縄タイムス社・読谷村、1985年)、『琉球陶器 金城次郎』(琉球新報社、1987年)、『人間国宝 金城次郎のわざ』(宮城篤正/源弘道監修、朝日新聞社、1988年)、『沖縄の陶工人間国宝金城次郎』(日本放送協会出版、1988年)、著書に『壺屋十年』(上村正美監修・構成、用美社、1988年)がある。

吉田文之

没年月日:2004/12/19

読み:よしだふみゆき  工芸家の吉田文之は12月19日午後9時50分、肺炎で死去した。享年89。 1915(大正4)年奈良県奈良市に生まれ、16歳より父・吉田立斎に師事して撥鏤や螺鈿など漆芸全般技術を修業した。1935(昭和10)年の入隊から11年間は中断を余儀なくされたが、復員後にふたたび制作に戻り、32歳で独立。以来、撥鏤の制作と研究に専念し、この技術を伝承する国内唯一の工芸家であった。64年日本伝統工芸展に出品、以来同展を中心に香合、小箱、帯留など数々の作品を発表した。撥鏤は成形した象牙を紅・紺・緑色などに染め、細かな陰刻を施す。手前から向こうへ撥ねるように彫るところから「撥ね彫り」とも呼ばれ、彫りの浅深に応じて線に抑揚が生じ、色にも濃淡がもたらされる。また、染料は象牙の上層に留まるため、刻んだ跡に素地の白が冴えて、彩色部分との対比も美しい技法である。彫られた箇所にさらに顔料で色を加えれば華やかさが増し、繧繝の効果も得られる。中国唐代に盛行し、日本へは奈良時代に伝わって正倉院宝物にも作例が見られるが、平安以降衰亡した。明治期、正倉院宝物の復元修理に父の立斎が従事して古代の技術復興を果たしたのである。吉田も修業時代に父の助手として復元修理に参加。自らも78年と83年に宮内庁の依頼により正倉院宝物で「東大寺献物帳」に記述があった紅牙撥鏤尺、紅牙撥鏤撥を復元した。吉田は染まりにくい象牙に熱による変質をできるだけ抑えながら美しい色を呈するために染色工程に工夫を重ね、ぼかしの効果や工具の考案など撥鏤技法をつねに探求し続けた。繊細さを活かしたブローチやペンダントなど現代的な装身具にも積極的に取り組んだが、伝統的な意匠のほか、宇宙や北極の景色など斬新な表現も試みていた。85年4月13日 重要無形文化財「撥鏤」の保持者に認定。

高橋介州

没年月日:2004/10/29

読み:たかはしかいしゅう、 Takahashi, Isamu*  金工家で、日展参与の高橋介州は、10月29日午後0時13分、肺炎のため死去した。享年99。1905(明治38)年3月、石川県金沢市木ノ新保生まれ。本名、勇。1924(大正13)年金沢市の県外派遣実業実習生として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の聴講生となり海野清に師事、彫金技法を学ぶ。1929(昭和4)年、金沢市産業課の金属業界指導員となる。また同年、第10回帝展に初入選し、以後、帝展、新文展に入選を重ね、戦後は日展に出品を重ねる。48年には日展会員となる。そして、62年には日展評議員となり、80年には参与となる。作家活動の一方で、41年には石川県工芸指導所所長となり、62年からは石川県美術館館長をつとめた(71年3月まで)。そして、75年には加賀金工作家協会を結成し、会長として、若手作家の育成につとめた。76年勲四等瑞宝章受章。82年には加賀象嵌技術保持者として石川県無形文化財に認定された。動物や鳥などをモチーフとした香炉に、石川県の伝統的な彫金技法「加賀象嵌」の技術をいかして模様をあらわした装飾性豊かな作品を制作した。

藤田喬平

没年月日:2004/09/18

読み:ふじたきょうへい、 Fujita, Kyohei*  ガラス工芸家で文化勲章受章者の藤田喬平は、9月18日午後10時13分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。享年83。1921(大正10)年4月28日東京府豊多摩群大久保町(現、東京都新宿区)に生まれる。1944(昭和19)年東京美術学校(現、東京芸術大学)工芸科彫金部卒業。46年第1回日展に、金属による立体的な造形作品「波」を出品し初入選。同年染織家の長浜重太郎が主宰する真赤土工芸会に参加し、以後10年間、同会にて作品を発表する。47年岩田工芸硝子に入社。49年同社を退社し、ガラス作家として独立。葛飾のガラス工場を時間単位で借りて、制作を行う。50年代には、同世代の工芸作家グループ展「潤工会新作工芸展」やガラス作家グループ展「PIVOT」に参加、その後多数の個展を開催し、主に百貨店を舞台にガラス作家としての地歩を固めた。64年個展で発表した「虹彩」が、同年「現代日本の工芸」展(国立近代美術館京都分館)に招待出品される。73年個展で飾筥「菖蒲」を発表、以後この「菖蒲」シリーズは晩年まで制作が続けられた。「虹彩」に代表される、流動するガラスが冷えて固まる一瞬を作品に留めた「流動ガラス」シリーズ、琳派の作品に触発され、伝統的な美意識を作品に表出させた「飾筥」シリーズによって、藤田はガラス作家としての個性を明確に打ち出していった。76年日本ガラス工芸協会会長に就任。77年以降は、ガラスの生産地として世界的に有名なヴェネツィア、ムラノ島の工房でも制作をするようになり、ヴェネツィアの伝統的な装飾ガラス技法「カンナ」を多用した作品や大型のオブジェを手がけた。1989(平成元)年日本芸術院会員となる。94年勲三等瑞宝章受章、96年宮城県宮城郡松島町に「藤田喬平美術館」が開館、97年紺綬褒章受章、同年文化功労者の顕彰を受けた。国内外の展覧会へ作品を出品し、日本を代表するガラス作家として活躍するとともに、再三に亘り日本ガラス工芸協会会長を務めるなど、多方面から日本におけるガラス・アートの活動を牽引した。2000年12月1日から31日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、作品集に『藤田喬平作品集:手吹ガラス』(アート社出版、1980年)、『雅の夢:藤田喬平ガラス』(京都書院、1986年)、『藤田喬平美術館・作品集』(藤田喬平美術館、1996年)、『藤田喬平のガラス』(求龍堂、2000年)。

飯塚小玕斎

没年月日:2004/09/04

読み:いいづかしょうかんさい、 Iizuka, Shokansai*  人間国宝(重要無形文化財保持者)の飯塚小玕斎は、9月4日、肺炎のため死去した。享年85。1919(大正8)年5月6日、東京市本郷区(現・東京都文京区)に、飯塚琅玕斎の次男として生まれる。本名・成年。1942(昭和17)年東京美術学校油画科を卒業し入隊、出征する。46年疎開先の栃木市に復員し、栃木市立高等女学校で講師を約10年間勤める。その後帰京し、81年群馬県太田市に転居した。復員後に、近代竹工芸の確立に重要な役割を担い工芸界の重鎮であった父琅玕斎の厳しい指導を受けて修業し、飯塚家の伝統のわざはもとより琅玕斎の格調を重んじる制作を学んだ。1947年第3回日展初入選。翌年の第4回日展に成年子と号して出品し、50年亡き兄が号した小玕斎を受け継いだ。53年第9回日展で北斗賞を受賞し、翌年第10回展で特選、60年第3回新日展で菊華賞を受賞、伝統技法による花籃等の制作に加え壁面の制作に挑むなど気鋭の竹工芸家として活躍した。62年日展会員。74年第17回日本伝統工芸展へ出品して以降同展を中心に活動し、第17回展文部大臣賞、翌75年第18回展で朝日新聞社賞と受賞を重ねた。その後、鑑審査委員をたびたびつとめ、理事や木竹部会長を長く勤めた。81年紫綬褒章、89年勲4等旭日小綬章を受章。琅玕斎から継承した伝統のわざを現代的な感性で洗練させ、精緻精細な竹刺し編みや束ね編み等による芸術の格調を基調とする制作を主として独自の力強い荒い編組作品の創作なども繰り広げ、今日の伝統的な竹工芸の基盤を形成した。79年から82年にかけて正倉院宝物の竹工芸品の調査研究に努め、自らの創作の世界を広げた。82年重要無形文化財「竹工芸」保持者の認定を受け、以降日本伝統工芸展を中心に後進の指導に積極的に努め、その普及と発展に尽力した。

松林猶香庵

没年月日:2004/08/14

読み:まつばやしゆうこうあん  陶芸作家で、朝日焼14世の松林猶香庵は、8月14日午後4時20分多臓器不全のため死去した。享年83。1921(大正10)年3月10日、京都府宇治市に生まれる。本名松林豊彦。1936(昭和11)年京都市立第二工業学校陶磁器科を卒業後、国立陶磁器試験所に学ぶ。39年同試験場を修了し、1年間助手を務める。試験所在籍中は、水町和三郎の指導のもとで、多くの名品に学ぶ。46年父の朝日焼13世光斎の死去に伴い、14世豊斎を継承。この頃、陶芸作家の楠部彌弌に師事し、公募展にも出品をする。47年第3回日展には「豊芽の図大鉢」を出品。しかし、松林は、通常他の窯では区別されない窯変による色彩・釉調の変化を「燔師」と「鹿背」と分けて呼ぶ、朝日焼の繊細な茶陶の中に自らの進む道を見出す。その後は朝日焼の伝統的な造形を基調としながら、独学で朝日焼の最たる特徴である御本手の「燔師」・「鹿背」と呼ぶ窯変や、梅華皮・三島などの技法をより深く追求する。52年10月大坂三越で初個展開催。以後、個展を中心に作品を発表する。55年頃から何度か国宝の茶碗「喜左右衛門井戸」を手にする機会を得る。その見事な梅華皮を念頭において梅華皮茶碗の焼成を繰り返し、65年頃自身の理想に近い梅華皮茶碗を作り出し、これによって自らの技への自信を深めていく。また作陶と並行して、窯変を決定づける窯の研究にも没頭し、52年の登窯の築窯をはじめとし、幾つもの窯を築き試行錯誤を繰り返す。75年には、不確定要素の多かった窯変の創出を意識下におくことを目的とした窯「玄窯」を完成させる。「玄窯」は、窖窯と登窯を繋げた他に例を見ない構造に加え、窯内雰囲気を観察・記録できる当時最新の装置を付けた窯である。「玄窯」完成後、松林はさらに窯変の研究を続け、朝日焼の窯変を「土と炎の出会いによる土の窯変」という独自の言葉で表現している。そして80年頃、「鹿背」に用いる土と古朝日の土をあわせることで、従来の朝日焼にはなかった窯変による「紅鹿背」と呼ぶ、ほのかな紅色の発色に成功し、これを用いた作品制作に邁進する。1994(平成6)年11月大徳寺管長福富雪底のもとで得度し、長男良周に15世豊斎を譲り、隠居名の「猶香庵」を名乗る。その後も精力的に制作を続け、各地で個展を開催し、作品を発表する。松林猶香庵の作風は、伝統を踏まえ抑制のきいた造形の上に、窯変による色彩・釉調の変化を加えることで、瀟洒かつ温雅な独自の世界を表出している。こうした松林の作品は、茶を喫するために作られた茶陶の世界において高い評価を得たものである。

坂高麗左衛門

没年月日:2004/07/26

読み:さかこうらいざえもん  陶芸作家で萩焼宗家坂窯の十二代坂高麗左衛門(本名、坂達雄)は、7月26日午前7時45分、脳挫傷のため山口県萩市内の病院で死去した。享年54。1949(昭和24)年8月11日、東京都新宿区に山中關とオヨの長男として生まれる。76年に東京芸術大学絵画科日本画専攻を卒業し、同大大学院美術研究科絵画専攻に進学。78年の課程修了後も、同大芸術資料館にて重文「浄瑠璃寺吉祥天厨子絵」の臨模研究や80年の国宝「観心寺木造如意輪観音坐像」復元事業に参加して彩色を担当するなど、日本中世絵画を対象に制作研究を継続した。82年、前年に没した十一代坂高麗左衛門(本名、信夫)の息女素子と婚姻を結び、また彼女の母幸子の養子となって萩藩御用窯の系譜をひく坂窯を後継した。83年の京都市工業試験場窯業科陶磁器研修生を修了後、84年から萩での作陶生活に入った。翌年の日本工芸会山口支部伝統工芸新作展から本格的な発表活動を開始。以降、日本画の制作研究で体得した運筆や賦彩の表現技法を造形思考の核に据え、萩伝統の陶技と絵画的意匠の総体的融合をめざした造形表現を追求し、作陶活動を展開した。個展活動は、86年の柿傅ギャラリー(東京)と玉屋(福岡)での初個展以来、88年5月29日の十二代襲名前に2回、襲名後は生前49回におよんだ。公募展への出品活動では、87年の第34回日本伝統工芸展で自ら開発した「陶彩」技法を用いた径41cmの「萩夏秋草八角陶筥」が初入選し、88年の日本工芸会山口支部伝統工芸新作展ではNHK山口放送局賞を受賞するなど、新進作家として早くから注目された。以後日本伝統工芸展において、89(平成元)年の第36回展に「萩茶碗」、92年の第39回展には「萩茶碗」が、そして94年の第41回展では「萩櫛目面取茶碗」がそれぞれ入選し、同年日本工芸会正会員となった。また、89年には田部美術館大賞茶の湯造形展にも入選している。90年から99年にかけては萩女子短期大学講師として陶芸指導にあたった。97年7月には「やきもの探訪-萩焼に日本画を」が NHKで放送(BS2)されている。2001年に山口県文化功労賞を受賞。作品は、坂窯伝統の井戸形茶碗をはじめ、萩焼の陶胎を用いながらも釉下に多彩な色料を施して器面を華やかに彩った茶碗・水指・香炉・花入・皿・筥・壺など多種の器形を制作し、ことに晩年の装飾は温雅な美質をそなえた抒情性のある絵画的表現を特長とした。

藤代松雄

没年月日:2004/06/12

読み:ふじしろまつお  刀剣研磨師で人間国宝の藤代松雄は6月12日、脳こうそくのため死去した。享年90。 1914(大正3)年4月21日、刀剣研磨師である藤代福太郎の三男として東京神田に生まれる。「早研ぎの名人」といわれた父に1927(昭和2)年より刀剣の研磨技術を習う。51年より『名刀図鑑』を刊行、写真技術を最高度に利用して茎の銘やこれまで再現不可能であった地の状態、刃中の働きなどを写し、戦後の刀剣愛好家の啓蒙に寄与した。55年日光二荒山神社所蔵の御神刀「山金造波文蛭巻大太刀(禰々切丸)」(重要文化財)を研磨。61年『日本刀工辞典』改訂版を刊行、同書は元来兄義雄の著作(37年刊)であり、これに共著という形で版を重ねることで新たな資料を加え、より完全な銘の辞典の完成を目指した。70年美術刀剣研磨技術保存会を結成、88年からは同会の幹事長を務める。1990(平成2)年 国宝 短刀 来国光(名物有楽来)、93年吉備津神社所蔵の大太刀 法光「吉備津丸」を研磨。96年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。98年勲四等旭日小綬章受章。

清水卯一

没年月日:2004/02/18

読み:しみずういち  陶芸家で鉄釉陶器の重要無形文化財保持者の清水卯一は、2月18日午後11時、大腸がんのため滋賀県滋賀郡志賀町(現、大津市)八屋町の自宅で死去した。享年77。1926(大正15)年3月5日、京都市東山区五条橋に、京焼陶磁器卸問屋を営む父清水卯之助、母モトの長男として生まれる。11歳のときに父が病死し、1938(昭和13)年に家業を継ぐため立命館商業学校へ入学するが、作陶に興味を抱き、近隣の轆轤師宮本鉄太郎らを知る。40年には同校を2年修了とともに中退し、14歳で石黒宗麿に師事し、通い弟子となる。しかし戦時体制の強化に伴い、数ヶ月で五条坂から八瀬への通い弟子を中断し、自宅に轆轤場を設けて作陶を始める。翌年、伏見の国立陶磁器試験場に伝習生として入所し、日根野作三、水町和三郎らの指導を受ける。43年には京都市立工業試験場窯業部の助手となるが、終戦を機に辞職し、自宅を工房にして作陶を再開。47年、前衛的な陶芸家集団「四耕会」の結成に参加。また49年には、「緑陶会」「京都陶芸家クラブ」などの結成にも参加する。51年には第7回日展に初入選し、以後、55年の第11回展まで出品。同年、第2回日本伝統工芸展に石黒の推薦を受けて出品し、以後、活動の場とし、57年には日本工芸会正会員となる。翌年の第5回展の奨励賞をはじめ、第7回展では日本工芸会総裁賞、第9回展では優秀賞朝日新聞社賞を受賞するなど、若手の実力派としてふさわしい創作性豊かな作品を発表し評価を得る。またこの間、55年には日本陶磁協会が新設した第1回日本陶磁協会賞を受賞。海外展においても、59年のブリュッセル万国博覧会でグランプリ受賞をはじめ、62年のプラハでの国際陶芸展で金賞、63年のワシントン国際陶磁器展で最高賞、67年イスタンブール国際陶芸展でグランプリを受賞するなど、めざましい活躍をみせる。この頃の作品は主に、鉄釉や柿釉、天目などの鉄釉系技法に基づくもので、轆轤挽きによる端正なフォルムと融合させて独自の世界をつくり上げた。70年には、滋賀県志賀町の蓬莱山麓へ工房を移転し、念願であった登窯を築窯。またガス窯も設けて蓬莱窯と名付け、さまざまな作品を制作する場とする。この移転が転機となり、自宅周辺で採集した陶磁器に適した土や釉薬を新たな素材として加え、さらに作域を広げる。73年の第20回日本伝統工芸展では、蓬莱の地土を使った「青瓷大鉢」の評価と、これまでのすぐれた制作の展開に対する評価によって20周年記念特別賞を受賞。その後も土と釉薬の研究に情熱を傾け、青瓷、鉄耀、蓬莱耀、蓬莱磁など、伝統的な技術と豊かな創造力による意欲的な作品を次々に発表し高い評価を受ける。85年には石黒宗麿に続いて二人目となる、「鉄釉技法」で重要無形文化財保持者に認定される。1989(平成元)年、ポーラ伝統文化振興財団が記録映画「伝統工芸の名匠シリーズ・清水卯一のわざ-土と炎と人と」を制作。92年には京都市文化功労者表彰を受ける。99年、1940年から1998年までの作品147点を滋賀県立近代美術館に寄贈。とくに認定後は、日ごろの仕事の積み重ねを大切にする姿勢を説きながら、若手陶芸家の指導に蓬莱窯を開放するなどして、積極的に後進の育成にも尽力した。

久保田一竹

没年月日:2003/04/26

読み:くぼたいっちく、 Kubota, Icchiku*  染織家久保田一竹は4月26日午後4時50分、多臓器不全のため山梨県の病院で死去した。享年86。 1916(大正5)年10月7日東京の神田に生まれる。小学校の教師に絵の才能を見いだされ、1931(昭和6)年、親元を離れ友禅師小林清に入門した。34年には大橋月皎に人物画を学び、36年には北川春耕に山水と水墨画を学んだ。20歳のとき帝室博物館(現、東京国立博物館)で室町時代に栄え江戸時代に途絶えた幻の染色「辻が花」の小裂に出会い魅了される。太平洋戦争での徴兵、シベリア抑留により一時制作中断を余儀なくされたが、約20年をかけて61年、独自の染色法「一竹辻が花」を完成させた。83年パリ・チェルヌスキ美術館での「一竹辻が花展」を皮切りに海外でも活躍するようになり、88年にはバチカン宮殿にて上演された創作能「イエズスの洗礼」の衣装制作を手がけ、1990(平成2)年フランスよりフランス芸術文化勲章シェヴァリエ章を受章、96年にはワシントンDCスミソニアン国立自然史博物館にて個展を開いた。国内でも、93年に文化庁長官賞を受賞、94年に自作品を展示した久保田一竹美術館を開館し、久保田一竹作品集『一竹辻が花 光の響』(小学館刊)を出版した。95年からは創作能をも手がけるようになり、活動の場は多岐にわたった。化学染料を駆使した、他に類を見ない鮮やかで重厚な色合いで知られた。

松井康成

没年月日:2003/04/11

読み:まついこうせい、 Matsui, Kosei*  陶芸家で、「練上手(ねりあげで)」の技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された松井康成は、4月11日午後4時42分、急性呼吸器不全のため死去した。享年75。1927(昭和2)年5月20日、長野県北佐久郡本牧村生まれ。本名宮城美明(みめい)。52年明治大学文学部文学科卒業。同年、茨城県笠間の浄土宗月崇寺(げっそうじ)住職の長女松井秀子と結婚、松井姓となる。57年月崇寺第二十三世住職となる。60年月崇寺境内に窯を築き、古陶磁の研究に基づく倣古作品を制作していたが、陶芸家田村耕一のすすめで、68年頃からは練上手の技法に専念するようになる。69年第9回伝統工芸新作展に「練上手大鉢」が初入選し、奨励賞を受賞。同年、第16回日本伝統工芸展に「練上手壺」を出品し、初入選。70年第10回伝統工芸新作展に「練上手辰砂鉢」を出品し、日本工芸会賞を受賞。71年第18回日本伝統工芸展に「練上線文鉢」を出品し、日本工芸会総裁賞受賞。73年第2回日本陶芸展(公募部門第1部)に「練上線文鉢」を出品し、最優秀作品賞・秩父宮賜杯受賞。74年日本陶磁協会賞を受賞。75年第22回日本伝統工芸展に「練上壺」を出品し、NHK会長賞を受賞。76年「嘯裂(しょうれつ)」と「象裂瓷(しょうれつじ)」をあいついで発表。「嘯裂」とは、器の表面を刷毛や櫛などで荒らし、傷を入れることによって生じるひび割れを模様に見立てたもので、また、「象裂瓷」とは異なる種類の色土を二層、三層に重ね、成形後に深く切込みを入れて下層の色土が見えるようにする技法である。いずれも土そのものの粗く厳しい質感をあらわしたもので、それまでの練上にはない、松井康成独自の作品世界を示すものとして高く評価された。79年から現代工藝展(資生堂ギャラリー)に参加。83年からは「堆瓷(ついじ)」と呼ぶ、彩泥の技法による作品を発表。85年には「破調練上」を発表。86年第2回藤原啓記念賞を受賞。87年には「風白地(ふうはくじ)」と呼ぶ、器の表面に粗い砂を強く吹き付けることによって荒涼とした雰囲気を表現した作品を発表。1990(平成2)年日本工芸会常任理事となる。同年、日本陶磁協会金賞受賞。91年第4回MOA岡田茂吉賞大賞受賞。92年には、釉薬による光沢と鮮やかな色土による華麗な「萃瓷(すいじ)」を発表。93年「練上手」の技法により重要無形文化財保持者に認定される。同年、パリで松井康成展開催(三越エトワール)。同年、茨城新聞社より茨城賞受賞。94年「人間国宝松井康成練上の美」展開催(朝日新聞社主催、日本橋高島屋ほか)。同年、茨城県より特別功績賞受賞。96年「玻璃光(はりこう)」と呼ぶ、焼成後にダイヤモンドの粉末で研磨した、滑らかでしっとりとした光沢を放つ作品を発表。同年、茨城県近代美術館にて「変貌する土――松井康成の世界」展開催。99年平成11年度重要無形文化財「練上手」伝承者養成研修会の講師を勤める(翌年も)。練上手の作品は色の異なる土を組み合わせて成形するため、土の収縮率の違いなどから、焼成の段階で割れる可能性が高いが、松井康成は少量でも発色の良い呈色剤を加えることにより、同じ性質でも色の異なる土を作り出す工夫をし、色彩豊かな練上げ作品を制作した。そして、「嘯裂(しょうれつ)」、「象裂瓷(しょうれつじ)」、「堆瓷(ついじ)」、「風白地(ふうはくじ)」、「萃瓷(すいじ)」、「玻璃光(はりこう)」などの技法を新たに創案し、多彩な作品を制作、練上の技法による表現の可能性を広げ、それまでには見られない独自の作品世界を切り開いていった。作品集に、『松井康成陶瓷作品集』(講談社、1984年)、『松井康成練上作品集1985―1990』(講談社、1990年)。また、著書に『松井康成随想集:無のかたち』(講談社、1980年)、『宇宙性』(講談社、1994年)。

前田竹房斎

没年月日:2003/03/12

読み:まえだちくぼうさい  人間国宝(重要無形文化財保持者)の前田竹房斎は、3月12日午前10時3分、急性心不全のため大阪府堺市内の病院で死去した。享年85。1917(大正6)年7月7日、堺市に生まれる。1935(昭和10)年高級花籃の名匠であった初代竹房斎に師事したが、修業中途に兵役に就き、復員して後にほぼ独学で竹工芸の研鑽に努めた。52年二代竹房斎襲名、翌年には皇太子殿下、56年天皇陛下・皇后陛下への献上品制作の栄誉を得た。47年大阪工芸展、53年関西美術展に初入選して以降に受賞を重ねた。また53年初入選を果たした日展では、68年まで立体造形的な制作で活躍した。59年第6回日本伝統工芸展に初出品、70年以降は毎回出品した。72年第1回伝統工芸木竹展奨励賞、第19回日本伝統工芸展で優秀賞を受賞し、86年第35回展では重要無形文化財保持者選賞を受賞した。同展で鑑査委員をたびたび務め、伝統工芸や大阪府工芸協会等で後進の指導にも熱心にあたった。1995(平成7)年重要無形文化財「竹工芸」保持者の認定を受けた。竹材の選択と素材の特性を高度にいかして現代生活に即した創作性の獲得に専念し、堅実で卓越した編組技法とその自由な表現に徹した。細い丸ひごを並列して透かしと内の重ね編みとを効果的に併用した繊細な制作や独創の重ね網代編みの花籃など、清新で力強い、高雅な格調を築き上げた。また花籃や盛器、茶箱等の煎茶道具にも自由で気品のある創作精神を示した。

与那嶺貞

没年月日:2003/01/30

読み:よなみねさだ  染織家の与那嶺貞は1月30日午後3時15分、気管支肺炎のため沖縄県浦添市の病院で死去した。享年94。1909(明治42)年1月20日、沖縄県読谷に生まれ、首里女子実業学校(現・沖縄県立女子工芸学校)で染織を学んだ。その後、読谷に戻って女子補修学校の教師をしながら織物の制作を続けた。1964(昭和39)年、村の生活改良普及員を勤めていたときに村長から依頼を受け、当時ほとんど途絶えかかっていた読谷山花織の復興に取り組む。読谷山花織は、読谷村長浜を拠点として展開された南方諸国との交易により、14、15世紀頃に伝えられた織物の技法である。本来木綿を中心とし、濃紺等に染められた平織の地に、白、黄、赤、緑等の色糸を浮かせて模様を織り出すのが特徴。銭花、風車、扇花の3つを基本として30種類程度の模様があり、また絣をあわせて使うことで幾何学的な構成に表情が加わる。染料は琉球藍のほか、ティカチ(車輪梅)やヤマモモ、福木等の植物染料が主である。かつて琉球王朝の御用布として読谷村一帯で織られ、同地の住民以外、庶民には許されなかったこの歴史ある織物も、時代の推移に押されて明治中頃から衰退しはじめていた。戦後織手を失い、作品も灰燼に帰すという困難な状況ではあったが、与那嶺は、土地の古老から聞き取り調査を行い、わずかに残っていた祭り衣裳などを手がかりとして、読谷山花織の技法と文様の復元に到達した。さらに糸や道具類の調達から高機の改良に努めて伝統的な読谷山花織の技法を高度に体得、また木綿地だけでなく、絹地による制作技法の改良にも大きく貢献した。75年に沖縄県指定無形文化財「読谷山花織」の保持者に認定。後継者の育成や普及にも力を注ぎ、伝統を根底としながらも現代的な感覚を盛り込んだ作品は高い評価を呼んだ。1995(平成7)年第15回伝統文化ポーラ賞にて「読谷山花織の復興」により特賞受賞。99年6月21日重要無形文化財「読谷山花織」の保持者に認定。

城ノ口みゑ

没年月日:2003/01/16

読み:じょうのぐちみえ  重要無形文化財「伊勢型紙糸入れ」の保持者、城ノ口みゑは、1月16日、三重県鈴鹿市白子町の自宅で心不全のため死去した。享年86。1917(大正6)年1月2日、三重県鈴鹿市白子町に生まれる。同町は、小紋などの型染めに用いる、いわゆる伊勢型紙の主要産地として知られる。伊勢型紙は、楮紙を柿渋で貼り合せたもので、これに専用の彫刻刀で文様を透かし彫りする。透かし部分の多い型紙は、補強のため、いったん文様を彫り上げたあとから二枚に剥がして、あいだに細い絹糸を挟み入れる「糸入れ」の工程を施す。伊勢地方の女性達を主要な担い手として伝承された、家内手工の補強法であったが、ひじょうに難しく、習得にも時間がかかる技術であったため、やがて、紗を裏張りする簡便な補強法のほうが普及してゆくことになった。城ノ口みゑは、「糸入れ」の需要がまだ高かった昭和戦前期に、祖母や母・すえを通じて、この伝統の型紙補強技術を習得し、家政女学校を卒業した頃から、家族とともにこれに従事した。以来、さまざまな技術革新や型紙業界自体の変革にともなって後継者が減少する中でも、変わらず高い水準の技術を保持し続けた。1955(昭和30)年2月、初の重要無形文化財保持者30名が認定された際には、他の型紙技術者5名とともに、重要無形文化財「伊勢型紙糸入れ」保持者として認定を受けた。63年に鈴鹿市が「伊勢型紙伝承者養成事業」を開始すると、講師に就任し、以後これに長くたずさわって後継者の育成に尽力した。城ノ口の死去によって、55年認定時の伊勢型紙関係の重要無形文化財保持者はすべて世を去ったことになるが、糸入れを含む伊勢型紙の制作技術そのものは、現在、伊勢型紙技術保存会によって伝承されている。同保存会は、1993(平成5)年に重要無形文化財「伊勢型紙」の保持団体として認定を受けている。

山田貢

没年月日:2002/12/07

読み:やまだみつぎ、 Yamada, Mitsugi*  友禅作家で重要無形文化財保持者の山田貢は、12月7日午前0時10分、心不全のため埼玉県坂戸市の病院で死去した。享年90。 1912(明治45)年2月3日、岐阜県岐阜市に生まれる。14歳で友禅作家の中村勝馬に師事して手書友禅、蠟染の技法を学んだ。1929(昭和4)年、師の中村に同行して東京に出るが、45年には師とともに山梨県に疎開し移住した。47年の第32回二科展工芸部に初入選し、以後連続入選を果たす。この間の51年には友禅作家として独立するが、その後も友禅染の技術の錬磨に励むとともに、友禅染め誕生期の品格を理想としながら能装束・狂言装束の意匠と文様の研究を行う。57年からは日本伝統工芸展に出品し、60年には日本工芸会正会員となる。68年、日本工芸会常任理事、染織部会長に就く。71年から79年にかけて、東京藝術大学美術学部非常勤講師を務め、後進の指導にもあたる。77年の第24回日本伝統工芸展では、能装束の鱗文をヒントに網干の三角模様を連続させた風景模様を配した«夕凪»が日本工芸会賞(奨励賞)を受賞する。81年、日本工芸会が主催した「茶屋染帷子」の復元事業に参加し、糸目糊の担当としてその指導を行う。作品は、写生を基にした松文・麦穂文・波文・魚文などの自然物のほか、網干文に代表される人工物、さらには巴文などの古典的な模様を題材に、伝統的な糯糊による糸目・堰出し・叩きなどの各糊防染の手法を用いて色挿しを行うもので、巧みな糊置きにより、絵際のはっきりした力強い線構成による簡明な意匠が好評を得る。82年世田谷区特別文化功労者。83年には勲四等瑞宝章を受章。84年、「友禅」で重要無形文化財保持者に認定される。翌年には日本工芸会参与に就任。87年金沢美術工芸大学の非常勤講師となり、再び後進の育成にあたる。1990(平成2)年、第2回茶屋染帷子の復元事業に参加し、糸目糊の研究に専念してその成果を示す。94年と95年には、重要無形文化財「友禅」伝承者養成研修事業の講師として伝統技法の保存・公開・育成に尽力する。同年、小田急百貨店において個展を開催。ポーラ伝統文化振興財団がビデオ「山田貢の友禅―凪―」を制作。99年には文化学園服飾博物館において「友禅 東京派五〇年の軌跡―中村勝馬・山田貢・田島比呂子・中村光哉―」展が開催された。作品は、伝統的な技法を駆使しつつも、大胆な構図と清新な色調、現代的な感覚で見る者を魅了した。また、没するまで精力的に活動し、復元事業をはじめ後進の育成にも専念するなど、伝統工芸の保存・公開に尽力した功績は大きい。

中村光哉

没年月日:2002/11/09

読み:なかむらこうや、 Nakamura, Koya*  染織家で東京藝術大学名誉教授の中村光哉は11月9日午前8時30分、悪性リンパ腫のため神奈川県横須賀市の病院で死去した。享年80。 1922(大正11)年8月6日、友禅染めで重要無形文化財となった染色家中村勝馬の長男として東京青山に生まれる。1940(昭和15)年東京美術学校日本画科に入学するが43年12月、動員により同校を仮卒業。翌年9月、飛行兵として出征中に同校を卒業する。45年8月、終戦により復員し染色活動に入る。46年10月第2回日展に染色屏風「やなぎ 利休屏風」で初入選。以後日展に出品し、56年第12回同展で「楽器」により北斗賞受賞。59年第15回日展に回転木馬などの遊園地風景を図案化した「遊園地」を出品して特選・北斗賞を受賞する。62年4月、東京新橋の全線画廊にて個展を開催。同年11月、母校である東京藝術大学に染色教室が設けられたことに伴い、同学講師となる。65年日展会員および現代工芸美術家協会評議員となる。67年東京藝術大学美術学部工芸科に染色講座が開設されるのに伴い、同科助教授となる。68年日本現代工芸美術東欧展に際し、現代工芸美術家協会代表委員として視察のために渡欧。78年東京藝術大学教授となる。80年2月日本橋高島屋美術画廊にて個展を開催し、同年9月には銀座ミキモト・ホールで開催された「現代の染色20人展」に参加する。また、同年3月現代工芸美術家協会理事となる。82年、出品を続けてきた日展の評議員となる。86年「中村勝馬・中村光哉二人展」を水戸甚デパートで開催。1989(平成元)年3月日本現代工芸美術展に「好日」を出品して内閣総理大臣賞受賞。84年より横須賀市に居住したことから90年、横須賀市の主催で「郷土ゆかりの芸術家シリーズⅤ」として「中村光哉染色作品展」を同市はまゆう会館で開催し、初期の作品から近作まで29点を展観した。年譜は同展図録に掲載されている。 染色技法は父中村勝馬に師事し、初期には蝋けつ染技法をよく用いたが後には友禅を得意とした。具象的モティーフを幾何学的にデフォルメする試みを初期から行い、昭和40年代後期には幾何学的抽象形体による構成をおこなったが、その後、雲、炎、波など不定形のモティーフを好んで主題とし、対象を写実的にとらえた上で形体を簡略化するとともに、色彩においても再現的表現からはなれて装飾的な色面構成を行うようになった。そうしたなかに雲形、鱗模様など伝統的文様をもとり入れ、伝統技法を用いながら、色彩と形体に斬新なデザイン性を融合させて、友禅染の世界に新たな展開をもたらした。横須賀市に居を写してからは海、船に取材した作品を多く制作している。作品集に『イメージを染める』(染色と生活社 1983年)、『中村光哉作品集―抽象と文様―』(京都書院 1985年)などがある。

帖佐美行

没年月日:2002/09/10

読み:ちょうさよしゆき、 Chosa, Yoshiyuki*  彫金家で、文化勲章受章者、文化功労者、日本芸術院会員、日展顧問の帖佐美行が、9月10日、呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年87。 1915(大正4)年3月25日、鹿児島県薩摩郡宮之城町生まれ。本名、良行。13歳の時に上京、1930(昭和5)年から38年まで彫金家小林照雲に師事、40年からは彫金家海野清に師事する。41年美術協会展で入賞(銀賞1、銅賞2)。42年第5回新文展に「銅芥子文花瓶」で初入選。54年第10回日展では「龍文象嵌花瓶」で、また翌55年第11回日展では「回想銀製彫金花瓶」で2年連続特選受賞。56年からは光風会会員となる(常務理事を経て86年退会)。57年からは日展審査員、58年からは日展評議員をつとめる。61年現代工芸美術家協会創設に参加する。62年第5回新日展では「牧場のある郊外」(愛知県貿易センター蔵)で文部大臣賞を受賞する。66年には、65年の第8回新日展に出品した「夜光双想(或るホールの為に)」(日本放送協会蔵)で日本芸術院賞を受賞。69年日展理事となる。74年日本芸術院会員となる。同年日本金工作家協会会長となる。78年には現代工芸美術家協会を退会し、日本新工芸家連盟を結成する。80年東大寺大仏殿の昭和大修理の落慶法要を記念し、奉賛荘厳具として「白鳳凰」(大花瓶一対)と「青龍」(大香炉)を制作し献納した。82年には日本新工芸家連盟の会長に就任。同年宮之城町名誉町民章受章。84年皇居新宮殿のために「和讃想」(彫金壺)を制作。85年「帖佐美行展:日本工芸界の巨匠」(読売新聞社主催、東京、山口、福岡、大阪、鹿児島、名古屋を巡回)。87年勲三等旭日中綬章受章、同年文化功労者となる。88年鹿児島県民特別賞。1990(平成2)年「帖佐美行展:彫金の芸術」(東京、名古屋、大阪を巡回)、91年「帖佐美行展:彫金:豪放と優美と」(世田谷美術館)。93年文化勲章受章。95年日展顧問となる。 42年の新文展初入選以来、新文展、日展を舞台に活動を展開した。1950年代後半からは建築装飾としての作品にも積極的に取り組み、壁面装飾用の大型パネルの制作を行った。従来、彫金で大型パネルの制作を行うことは稀だったが、帖佐は鉄パイプをつぶして接合した大型パネルを制作し注目された。1980年頃からは、香炉や花瓶などの器物に重点をおくようになる。ユニークな形の器の表面に鏨(たがね)を打ち込んで繊細な文様をあらわし、金色や緑青色や紅茶色や紫色などの着色をほどこした、詩情あふれる独自の作品世界を作り上げた。帖佐は彫金の技法を駆使し、生命や宇宙の神秘、自然の偉大さや崇高さなどといった壮大なテーマを、鳥や木などをモチーフに表現し、幻想的で詩情あふれる作品世界を展開させた。 著書・作品集には、『金工の詩:帖佐美行の芸術』(形象社 1976年)、『新工芸論:美にいきる』(形象社 1979年)、『美行素描』(形象社 1981年)、『彫金の華:帖佐美行作品集』(日本経済新聞社 1984年)、『千年の美:帖佐美行の世界』(清水光夫著、新評社 1995年)ほか。

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