本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 3,013 件)





江馬長閑

没年月日:1940/03/12

 京都の漆芸家江馬長閑は3月12日逝去した。享年60歳。小西春斎、山本利兵衛に師事し、旧帝展に出品、京都工芸美術協会評議員、京都工芸院の同人であつた。

大島如雲

没年月日:1940/01/04

 鋳金界の老大家大島如雲は1月4日東京市瀧野川の自宅に於て逝去した。享年83歳。本名勝次郎、安政5年2月2日江戸小石川に生れた。父高次郎に就て蝋型及鋳浚彫刻術を学ぶ。明治14年第2回内国勧業博覧会に「龍神」を出品せるをはじめ、爾後東京彫工会、日本美術協会、東京鋳金会等に出品し、又同33年巴里万国博覧会に出陳せる「稲穂群雀」に依り金賞牌を受けた。之より先同23年東京美術学校に用ひられ、大正7年には同校教授に任じ昭和7年に至る迄後進の指導に当つた。又民間に在つては前記諸会の審査員或は委員として斯界に貢献する所大であつた。

加賀月華

没年月日:1937/11/24

 陶磁作家加賀月華は11月24日逝去した。本名常次郎。明治21年桑名町に生れ、大正11年より桑名の物産として名ありし万古窯の再興を図り、地元の赤須賀に築窯して古万古の作風を学び今日に至つた。帝展文展には昭和4年以来連年入選、其他日本美術協会、商工省工芸展等に出品し、屡々受賞してゐた。

奥村霞城

没年月日:1937/10/16

 漆工家、新文展無鑑査奥村霞城は10月16日逝去した。本名享。明治26年京都に生る。同44年京都市立美術工芸学校漆工科卒業後、船橋舟珉に師事、大正2年京都美工院の同人となり、昭和5年京都市立美術工芸学校教員を命ぜられ、同7年京都市主催工芸品展委員、10年京都漆芸会幹事及京都市主催大衆向工芸展審査委員に就任した。昭和11年春の帝展に「紫陽花手箱」を出品して推奨に挙げられ、次で同年文展より無鑑査となり同12年第1回文展出品の「鹿の図パネル」が絶作となつた。

磯矢完山

没年月日:1937/10/04

 日本工芸美術会委員磯矢完山は10月4日膵臓病のため逝去した。享年63。本名邦之助。明治8年、茶人磯矢宗庸次男として大阪に生る。同23年小川松民に就て蒔絵を学び、師の没するに及び帝室技芸員川之辺一朝の門に入つた。同30年東京美術学校漆工科本科を卒業、34年小石川に日進塗料工場を設立、40年迄六角紫水と共同経営をなした。45年明治天皇御大葬に際し、御葬具を謹製す。大正8年故川之辺一朝及完山の門下生、木白社を組織し同13年迄日本橋高島屋に展覧会を開催、完山も多数出品した。同15年日本工芸美術会創立され会員となる。昭和4年同会主催工芸リーグ展に「孔雀文手筥」「草花文蒔絵香炉と卓」を出品、同7年同会の委員となり、同年の展覧会に「夏の菓子器」「苺文手筥」を出品、翌年帝展第14回に「蒔絵菜文茶箱」を、次いで9年日本工芸美術会展に「独楽文菓子器」「千本しめじ香合」を出品した。同10年東京高島屋に於て親戚一同にて一門会美術工芸展を開催、自らも多数出品した。同年日本工芸美術会展に「花器」「小膳」を出品、11年「短冊筥青柳と橋の図」「硯箱猿三番叟之図」を完成し、又同年7月自邸内に作品陳列所を建て「朱文筵」と称した。12年工芸美術会大阪展に「瓢文茶箱」「二菜葵棗」「蝉香合」「茸香合」「花文棗」等を出品した。

伊東陶山

没年月日:1937/09/07

 陶工家伊東陶山は9月7日腎臓炎の為京都の自宅で逝去した。明治4年滋賀県に生れ、同20年故内海吉堂に就き日本画を学ぶ。同24年、故帝室技芸員先代陶山に就き製陶法を学び、その非凡なる才能を見出されて養子となり、大正9年二代を襲名した。昭和3年御大典に際し、宮内省御用品を献納す。同年帝展に於て推薦となり、同6年及び8年に帝展第四部審査員に任命された。晩年は日本美術協会々員、京都工芸美術協会評議員及審査委員、其他京都に於ける各種の団体の要職に就いてゐた。

田辺竹雲齋

没年月日:1937/04/26

 竹工家、竹雲齋田辺常雄は4月26日堺市の自邸で逝去した。享年61。尼ケ崎市に生れ19歳の時初代和田和一齋に就て竹工の技術を修業、屡々畏き辺へ作品を献上し、大正14年大正天皇銀婚式に際し堺市よりの献上品「天盃形盛花籃」「貢船盛花籃」を製作し、又同年巴里万国博覧会に農商務省の指定に依り「瓢形花籃」を出品して銅牌を受領した。

菅原精造

没年月日:1937/04/12

読み:スガワラ, セイゾウ*、 Sugawara, Seizo*  漆芸家菅原精造は4月12日パリ郊外ロスチヤイルド男のシヤンチイユ別荘で持病の肝臓癌の為逝去した。享年54。山形県の出身で、東京美術学校卒業後明治38年渡仏、爾来日本漆芸の伝統的技法を欧洲に伝へパリ工芸界の異色ある存在として認められて来た。有名な仏人漆芸家ジヤン・ジユナンの如きも其の技法は故人の指導に負ふ所多く、両人の協力に成る作品が多数にある。古くから乾漆技法に依る前衛彫刻の製作を試みて居り、其の作品は年々サロン・ドオトンヌに出陳され、特異な作風を記憶されて居たものである。(アトリエ14ノ7に依る)

真清水蔵六

没年月日:1936/06/13

 古陶磁研究家として又製作家としてしられてゐる真清水蔵六は昨秋琉球古窯址の調査に赴いて帰洛後健康すぐれず京都市右京区の自宅で療養中であつたが6月13日午前3時逝去した。享年76。翁は幼名寿太郎、18歳の時初代蔵六の裔を継ぎ、京都五条に在つて夙に茶器の名手として知られてゐた。又古陶磁の鑑識にすぐれ、普く日本、支那、朝鮮の諸窯址を踏査して研究し、遺著「泥中庵今昔陶話」の外「寄陶」「古陶録」「泥中閑話」等の著がある。(陶磁8ノ4より)

石野龍山

没年月日:1936/03/06

 石川県美術工芸界の元老として知られた金沢市の石野龍山は3月6日午前零時半脳溢血の為急逝した。享年77。文久元年金沢に生れ、陶磁器絵工として其の功績多く、昭和6年帝国美術院で推薦され、加賀九谷陶磁器組合顧問、石川県工芸奨励会名誉会員、石川県下出品人奨励会副会長などの職に在り、其の逝去は九谷焼界を初め県下美術工芸界の大きな損失として惜まれる。

赤塚自得

没年月日:1936/02/01

 帝国美術院会員赤塚自得は胃潰瘍を病み、芝区の自宅で加療中のところ2月1日逝去した。享年66。葬儀は同月3日芝教会で行はれた。赤塚家は代々漆芸を以て家業とし、平左衛門を名乗り、彼は七代目に当る。蒔絵を専門とし現代漆芸界の巨匠であつた。明治4年東京市芝区浜松町に生る。同18年狩野久信に就て日本画を、翌年蒔絵を先考に学ぶ。20年勧学義塾の中等科に学んだ。尚明治43年には寺崎広業に就て日本画を、又同45年に白馬会洋画研究会に於て洋画を修めた。明治40年、東京勧業博覧会審査官、東京府美術工芸展の審査員に就任し、大正元年、日本美術協会の審査員に、同12年日本工芸協会の理事となつた。同13年工芸済々会の創立委員となり、昭和2年、日本美術協会展の審査主任、日本工芸美術会の創立委員となり、又帝展及商工省工芸展の審査員を仰付られた。同4年商工省工芸調査会の委員に任命され、翌年帝国美術院会員に任命された。

山本匡士

没年月日:1935/09/03

 名正造、明治28年香川県に生る。大正2年香川県立工芸学校卒、後岩村哲斎に就きて漆芸を学んだ。京都工美展に於ては数回入賞し帝展には昭和9年入選した。京漆園なる漆器工場を経営して居た。享年41。

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