本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 3,013 件)





井波唯志

没年月日:2011/01/25

読み:いなみただし  漆芸家の井波唯志は1月25日、急性心不全にて死去した。亨年87。 1923(大正12)年3月10日、代々加賀蒔絵を営む二代目喜六斎の長男として金沢市に生まれる。本名忠。1944(昭和19)年東京美術学校附属文部省工芸技術講習所卒業。在学中は漆芸を山崎覚太郎に、陶芸を加藤土師萌と富本憲吉に師事し美術工芸の方向を探求するようになる。その後、父の二代目喜六斎(日本工芸会正会員)より加賀蒔絵の技術を習得するが、活躍の場は日本工芸会ではなく日展や日本現代工芸美術展が中心となる。両展で評価を受けたものの多くが漆屏風や漆芸額であり題材も抽象的でモダンな作風である。 46年、第2回日展で出品した手筥「夏の蔓草」が初入選。以来、連続入選し、第10回日展では漆屏風「彩苑」が第1回改組日展では漆屏風「化礁譜」が特選・北斗賞を受賞する。74年には日展会員に、その5年後には日展評議員に就任する。1994(平成6)年、第26回日展では漆屏風「晴礁」が日本芸術院賞を受賞し、翌年には日展理事に就任している。 一方、日本現代工芸美術展では64年の第3回展に出品した「白日」が現代工芸賞を受賞する。その後も同展での活躍が続き、第5回展出品の「風かおる」や第8回展出品の「湖精」が外務省に、第10回展出品の「海の棹歌」がノルウェー・トロンドハイム美術館買い上げとなる。84年に開催された第23回展では漆芸額「汀渚にて」が内閣総理大臣賞を受賞する。なお、第10回では審査員も務め、75年には現代工芸美術家協会理事に就任する。 これらの活躍と並行し、53年には輪島市立輪島漆器研究所所長に就任する。その後十五年間にわたり漆芸パネルや大型家具の開発など時代に合わせた漆器意匠開発に努める。75年には石川美術文化使節副団長として渡欧。翌年から二年間にかけて横浜高島屋で父子漆芸展を開催し、同展以降は父喜六斎の作品と共に出品されることも多くなる。 その後も「金沢四百年記念国際工芸デザイン交流展」(1982年)や開館記念特別展「現代漆芸の巨匠たち」(輪島漆芸美術館、1991年)、「開館十周年記念特別展 石川の美術―明治・大正・昭和の歩み―」展(石川県立美術館、1994年)、浦添市美術館開館5周年記念「輪島漆芸展」(浦添市美術館)、特別展「輪島の現在漆芸作家」(石川県輪島漆芸美術館、1997年)、「日蘭交流400周年記念日本現代漆芸展」(ヤン・ファン・デルトフト美術館、2000年)、友好提携石川県輪島漆芸美術館10周年記念「漆芸の今、現代輪島漆芸」展(浦添市美術館、2001年)、「現代漆芸作家―輪島の今:開館15周年記念展」(輪島漆芸美術館、2006年)等に出品を重ねる。また、大阪心斎橋大丸や日本橋三越で多くの個展を開催する。 2008年にはイタリア・ローマ日本文化会館で開催されたローマ賞典祭「北陸の工芸・現代ガラス工芸展」に花器「洋々」を出品。長年の活躍の場でもあった第48回日本現代工芸美術展(2009年)に「翔陽」を、そして第42回日展に「宙と海の記憶」(2010年)を出品している。2011年には石川県輪島漆芸美術館「漆、悠久の系譜:縄文から輪島塗、合鹿椀:開館20周年記念特別展」において父喜六齋の「縞模様研出蒔絵宝石箱」とともに第32回日展へ出品した漆屏風「水澄めり」が出品される。 加賀蒔絵の系譜を想起させる伝統的な蒔絵の作品だけでなく、朱漆等が印象的で抽象的な作風も多く見られる。蒔絵粉の粒度や細やかな技法の違いによる表現を検討するため、必ず試験手板を数種類制作した上で作品に用いたという。上記以外にも北國文化賞(1982年)や石川テレビ文化賞(1985年)、輪島漆器蒔絵組合功労賞(1986年)、紺綬褒章(1987年、1990年)、漆工功労者表彰(日本漆工協会、1993年)、石川県文化功労賞(1994年)、勲四等旭日小綬章(1995年)を受賞(章)している。 2013年、石川県輪島漆芸美術館で回顧展でもある「漆革新 井波家四代の足跡」が開催される。作品は石川県立美術館や石川県輪島漆芸美術館に所蔵されている。

永山光幹

没年月日:2010/03/22

読み:ながやまこうかん、 Nagayama, Kokan*  刀剣研磨で重要無形文化財保持者である永山光幹は3月22日死去した。享年90。1920(大正9)年3月21日、神奈川県中郡相川村(現、厚木市)の農家に7人兄弟の末子として生まれる。本名永山茂。1934(昭和9)年、14歳のとき東京下谷区黒門町の研師で、鑑定家でもあった本阿弥光遜に入門し、刀剣研磨の道に進む。師の光遜は水戸の本阿弥家の研師であったが、別系統で名人と呼ばれていた本阿弥琳雅に学び、将軍家や大名の所蔵していた刀剣を代々伝承された技で研ぐ家研ぎの継承者であった。44年、兵役に召集され歩兵第49連隊に入営し中国に出征し、現地でも軍刀の研磨に従事した。46年、復員し、ただちに光遜に再入門するが、戦後進駐軍による日本刀の没収、愛好家や旧大名の経済力の低下などにより、本格的な研磨の依頼はほとんどなかったと本人は回顧している。48年に日本刀の保存を目的として設立された日本美術刀剣保存協会が開催した55年の研磨技術発表会で無鑑査に認定され、名実ともに名工との評価を得、同展の審査委員となる。56年神奈川県平塚市で開業、59年中郡大磯町西小磯に転居し、弟子を採り始める。永山の功績の大きなところは、秘伝、奥義といった貴重な成果を隠してはならないとして、技術を開示したことと、後継者を多く養成したことである。68年に平塚の旧宅に「永山美術刀剣研磨研修所」を開設し、月謝制によって研磨の技術を教えたことでも裏付けできる。78年、ユネスコの要請によりベネチアの東洋美術館の所蔵刀剣の調査を行い、帰国後10点を研磨した。研磨した刀剣は春日大社の国宝の金装花押散兵庫鎖太刀、重要文化財の堀川国広はじめ多くの重要文化財がある。また『刀剣鑑定読本』、『日本刀を研ぐ』など刀剣の研磨、鑑定に関する著作もある。1998(平成10)年、重要無形文化財に認定され、2000年勲四等旭日小綬章を受章する。

伊砂利彦

没年月日:2010/03/15

読み:いさとしひこ、 Isa, Toshihiko*  染色作家の伊砂利彦は3月15日、肺がんのため死去した。享年85。1924(大正13)年9月10日、伊砂藤太郎、正代の長男として京都市中京区三条猪熊町に生まれる。実家は3代続いた友禅の糊置き業であった。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業。44年に海軍二期予備生徒として滋賀海軍航空隊に入隊。45年終戦とともに復員。京都市立絵画専門学校図案科卒業。以後、家業の染色に従事する。戦後の失業者救済事業として、友禅染を元来の分業ではなく一貫作業で行う工房の経営を任される。この経験は、複雑な染色工程や技術を学ぶ機会となった。その後、仕事増加により生活も安定する一方、作品の制作をはじめる。富本憲吉の「模様より模様を作らず」に感銘を受け、同氏が主催する新匠会で活躍することとなる。当初は蝋纈染の作品を制作していたが、その後、型絵染へと表現技法が変化していく。そこには初期の新匠会を牽引し、型絵染で活躍した稲垣稔次郎の存在があったという。53年、第8回新匠会公募展に蝋纈パネル「新芽」を出品、初入選。以後、同展に連続出品する。54年に工房を開設。松、水、音楽や海などをテーマに幅広い作品を制作した。58年新匠会会友となり、翌年には新匠会会員となる。63年京都の土橋画廊で初個展、型絵染「松シリーズ」小品展開催以降、継続的に個展を開催する。71年第26回新匠会展出品の着物「流れ」が富本賞受賞。同年、京都・射手座で安田茂郎と二人展を開催。75年に新匠会が新匠工芸会と改称され、同会の会務責任者となる。80年には「近代の型染」展(東京国立近代美術館工芸館)、「染と織 現代の動向」展(群馬県立近代美術館)に出品。世界クラフト会議ウィーン会場で、着物を展示し日本の着物について講演する。82年には「ろう染の源流と現代展」(サントリー美術館)や「染色展」(西武美術館)に出品。83年「現代日本の工芸―その歩みと展開―」(福井県立美術館)に出品。84年、京都芸術短期大学客員教授となる。85年、第40回新匠工芸会展で型絵染屏風「スクリャービン 焔にむかって」が第40回新匠工芸会記念大賞を受賞。87年『伊砂利彦作品集』(用美社)を出版。88年京都市京都芸術文化協会賞を受賞。1989(平成元)年京都府京都文化功労賞と京都美術文化賞を受賞。同年、沖縄県立芸術大学教授となる。90年フランス政府より芸術文化勲章シュバリエ章を受章。91年「羽衣」パリ公演(世界文化会館、ユネスコホール)の舞台美術を担当。第46回新匠工芸会に型絵染屏風「沖縄戦で逝きし人々にささげる鎮魂歌」等を出品。以降、沖縄を主題とした作品が評価を受ける。92年第47回新匠工芸会展で「海に逝きし人々に捧げる鎮魂歌」で第47回新匠工芸会富本賞受賞。京都市文化功労者となる。93年沖縄県庁舎警察棟の記念碑彫刻と壁面装飾を制作。「現代日本の染織」展(福島県立美術館)に出品。94年「現代の型染」展(東京国立近代美術館工芸館)や「現代の染め―4人展」(国立国際美術館)に出品。95年沖縄県立芸術大学奏楽堂緞帳を制作。99年、フランスのシャルトルステンドグラス国際センターで個展「フランス、パリ―シャルトル」を開催。「京の友禅」展(目黒区美術館)に出品。2001年、京都芸術センターで、特大和紙型絵染「月四部作」を公開制作し、内覧会を開催。03年「音楽による造形のきもの」展(フランス シャルトル―サンテチェンヌ)に出品。04年、京都市美術館別館にて「-傘寿を記念して-伊砂利彦と11.5人展」開催。05年、東京国立近代美術館工芸館にて「伊砂利彦―型染の美」展開催。京都迎賓館に型絵染額装「花」「一文字松」「水の表情12景」を制作。06年、「音と形の出会い―伊砂利彦とドビュッシーをめぐって―」展開催(京都芸術センター)。京都迎賓館に型絵染屏風「ムソルグスキー展覧会の絵」より「リモージュの市場」「キエフの大門」を制作。沖縄県立芸術大学名誉教授となる。同年、『型絵染 伊砂利彦の作品と考え』(用美社)を出版。ここには、40年に亘る作品がまとめられている。08年、福島県立美術館にて「伊砂利彦 志村ふくみ 二人展」開催。同展では両氏による共同制作も行われた。09年、第64回新匠工芸会展では「孫よりの贈りもの バラの園」が審査員特別賞受賞。10年、日本文化藝術財団の第1回創造する伝統賞を受賞。11年には追悼「伊砂利彦回顧展」(福島県立美術館)が開催された。作品は京都国立近代美術館、東京国立近代美術館、福島県立美術館などに収蔵されている。

河合誓徳

没年月日:2010/03/07

読み:かわいせいとく  陶芸家で日本芸術院会員の河合誓徳は3月7日、肺炎のため死去した。享年82。1927(昭和2)年4月3日、大分県東国東郡国見町竹田津の円浄寺住職父坂井誓順、母シゲの二男として生まれる。少年期、考古学の本に掲載された土器に魅せられ陶芸への憧れを抱く。40年、旧制宇佐中学校に入学。43年鹿児島海軍航空隊甲飛13期飛行練習生として入隊、上海海軍航空隊を経て、45年終戦により復員。47年京都にて日本画家山本紅雲に師事。49年国東へ戻されるが、陶磁の道を諦められず単身で佐賀県有田町諸隈貞山陶房に弟子入り。色絵付を学ぶ。51年京都の加藤利昌陶房にて下絵付に従事。52年京都陶芸家クラブに加入、6代清水六兵衛に師事。同年、第8回日展に「花器」を初出品、初入選。以降、入選が続く。53年12月6日、河合栄之助の長女登志子と結婚。河合家の後継者となる。その後、61年設立の日本現代工芸美術家協会にも活躍の幅を広げる。この時期の作品は白磁を中心とした造形性追求の時代と評される。62年日展で「蒼」が特選・北斗賞を受賞。64年第3回日本現代工芸美術展入選の「白磁瓶」が台湾、中南米各国に巡回。以降、日本現代工芸美術展の海外巡回に精力的に参加。66年現代工芸美術家協会会員になる。68年日展で「宴」が菊華賞を受賞。同年、京都工芸美術展審査員を務める。69年第1回改組日展の審査員を務める。71年日本現代工芸美術10回記念展では審査員を務める。同展に「円像」を出品し現代工芸会員賞・文部大臣賞を受賞。72年日展会員となる。75年紺綬褒章を受章。朝日会館において個展を開催。76年現代工芸美術家協会理事に就任。77年、スイス・スピッ芸術協会より文化交流のため招聘され作品展を開催。約1ヶ年に亘り、スイス国内主要都市に於いて作品巡回。「白象」がベルン美術館に保存される。79年日展で「翠影」が会員賞受賞。同年、用の重要性を主張する新日本工芸家連盟を結成し総務委員に就任。第1回日本新工芸展では審査員を務める。同展に「卓上の宴」を出品。この頃より、作品が壺や鉢などの大器から筥などの小さなものへと変化していく。その後、日展と日本新工芸展を中心に活動を行う。80年日展評議員になる。81年個展を高松国立公園屋島山上美術画廊遊仙亭(10月)、大分トキハ(11月)で開催。83年第5回日本新工芸展「木立の道」で内閣総理大臣賞を受賞。7月1日~7日東京銀座和光ホールにおいて個展を開催。85年11月7~12日には「大分トキハ創立50周年記念トキハ会館落成記念河合誓徳陶芸展」を開催。87年「高島屋美術部80周年記念陶筥展」を東京、横浜、大阪、京都で開催。88年、オーストラリア建国200年新工芸10回記念展では実行委員を務め、「釉裏紅富貴」(八角陶筥)を出品。この頃より染付の青や 裏紅の赤で表現する作品を数多く発表。1989(平成元)年、日展で「行雲」が内閣総理大臣賞受賞。高島屋横浜店創業30周年記念「瑞松」展開催。高知とでん西武において陶筥展開催。90年大阪高島屋において「花・草原・雲」展開催。91年、第13回日本新工芸展「草映」で内閣総理大臣賞受賞。2月東急デパートにおいて陶芸三人展(加藤卓男、北出不二雄、河合誓徳)を開催。92年3月、第10回京都府文化賞功労賞受賞。パリ三越エトワール開館記念NHK主催日本の陶芸「今」に「釉裏紅富貴」「草映」(陶筥)出品。11月西武池袋店において「甦る釉裏紅 河合誓徳四十年の歩み展」開催、続いて大分トキハに巡回。93年京都高島屋において「彩象 河合誓徳展」開催。95年日展監事になる。京都高島屋において「香炉展」開催。97年日本芸術院賞受賞、日展理事に就任。東京、横浜、京都、大阪高島屋にて「古稀記念 河合誓徳展」開催。98年京都市文化功労者として表彰される。2000年日本新工芸家連盟副会長に就任。02年大分県立芸術会館にて「河合誓徳展―磁器の新しい表現を求めて」開催。東京・京都高島屋にて「景象の譜 河合誓徳展」開催。日本新工芸家連盟会長に就任。03年、大阪・名古屋・横浜高島屋にて「景象の譜 河合誓徳展」開催。映像資料「日本の巨匠次世代へ伝えたい芸術家二百人の素顔」(第3巻、細野正信監修、日本芸術映像文化支援センター製作・著同朋舎メディアプラン)が発行される。同年、日本新工芸家連盟会長に就任。05年日本芸術院会員、07年日展常務理事、08年日展顧問を務める。

蓮田修吾郎

没年月日:2010/01/06

読み:はすだしゅうごろう  日本芸術院会員で文化勲章を受章した金属造型作家の蓮田修吾郎は1月6日午後10時24分、敗血症のため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院で死去した。享年94。1915(大正4)年8月2日石川県金沢市野田町に父修一郎、母つぎの長男として生まれる(幼名「修次」)。1928(昭和3)年石川県立工業学校図案絵画科へ入学、卒業制作「藤下遊鹿」で御大典記念奨学資金賞を受賞。1933年東京美術学校工芸科鋳金部予科へ入学、翌34年同校の工芸科鋳金部へ入学。この年から母の命名により「修吾郎」と呼称する。36年同人と工芸新人社(翌年に工芸青年派と改称)を設立、作品を発表(~39年)。38年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業するに際し優等証書及び銀時計(陸奥宗光伯爵奨学資金賞)を拝受。在学中高村豊周の指導を受け、実在工芸美術展に出品し入選を重ね、38年第3回展では卒業制作の鋳白銅浮彫「龍班スクリーン」で実在工芸賞を受賞。39年から45年まで軍役をつとめ、46年に復員して金沢に帰る。48年金沢市在住の同人とR工芸集団を設立し作品を発表(~49年)。49年第5回日展に鋳銅「水瓶」を出品(~2009年)、初出品初入選。同年上京して東京都板橋区に住む。51年第7回日展に鋳白銅「鷲トロフィー」を出品、特選、朝倉賞を受賞。52年同人と創作工芸協会を設立し作品を発表(~59年)。53年第9回日展に鋳銅浮彫「黒豹スクリーン」を出品、北斗賞を受賞。57年日ソ展招待出品に際し鋳銅「氷洋の幻想」がソ連政府買上となる。59年第2回日展(新日展)に黄銅浮彫「野牛とニンフ」を出品、文部大臣賞を受賞し金沢市に寄贈。同年東京芸術大学美術学部非常勤講師となる。60年同人と工芸「円心」を設立し作品を発表(~69年)。61年第4回日展に鋳銅浮彫「森の鳴動」を出品、日本芸術院賞を受賞。同年現代工芸美術家協会の設立に際し常務理事に就任、東京芸術大学美術学部助教授(鋳金研究室主任)となる。62年鋳銅浮彫「仁王の印象」(1955年第11回日展出品作)と青銅方壺「方容」が日本政府買上となり、前者は西ドイツ首相に、後者はメキシコ大統領に献上される。同年より開催の日本現代工芸美術展に出品(~2006年)。65年西ドイツのベルリン芸術祭使節として渡欧、中近東各国を視察。同年「修吾郎」の呼称が法的に認可され戸籍上の名前となる。66年紺綬褒章を受章。同年第1回個展を日本橋高島屋で開催。67年に鎌倉へ住居を移しアトリエを新築する。69年社団法人日展が改組、理事に就任。70年第2回個展を銀座石井三柳堂で開催。71年神奈川県工芸会の会長に就任。72年神奈川県と静岡県在住の工芸作家による現代工芸美術家協会神静会の設立に際し会長に就任。1973年第3回個展を日本橋高島屋で開催。74年日展(改組日展)の常務理事に就任。75年東京芸術大学美術学部教授、日本芸術院会員となる。76年現代工芸美術家協会の副会長に就任。同年4月に東京芸術大学美術学部教授を退任、12月に日本金属造型研究所(東京都銀座7丁目)を設立し理事長に就任。77年独日文化協会会長の招聘により訪独し、西独をはじめ欧州各地を視察する。78年美術雑誌『ビジョン』に欧州紀行を執筆(連載)。同年第1回日本金属造型作家展を開催、以後毎年西独の金属造型作家を招待して日独文化交流展とする。79年『黄銅への道』を出版。80年日本金属造型作家展ドイツ巡回展に同行(ハンブルグ美術工芸博物館をはじめ7都市)。81年現代工芸美術家協会の会長に就任、日本金属造型振興会が財団法人として国に認可され理事長に就任。同年『蓮田修吾郎・金属造型』を出版。この年の9月27日、79年から総理府と北方領土対策協議会の制作依頼を受けた根室ノサップ岬の北方領土返還祈念シンボル像「四島のかけ橋」が完成し、以降、山梨県清里の森モニュメント「森の旋律」(87年)、金沢駅西広場モニュメント「悠颺」(91年)をはじめとする野外のモニュメント等の公共性の高い作品を日本金属造型振興会を拠点に数多く手がける。82年ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を受章。同年『公共の空間へ』を出版。86年東京芸術大学名誉教授となる。同年「今日の金属造型展-日本とドイツの作家たち-」を開催(石川県立美術館ほか3館巡回)。『環境造形への対話』を出版。87年文化功労者となり、1991(平成3)年文化勲章を受章する。92年石川県名誉県民、金沢市名誉市民となる。96年日展の顧問に就任。98年に現代工芸美術家協会の最高顧問に就任。03年鎌倉生涯学習センター市民ギャラリー「蓮田修吾郎の世界展」開催、07年鎌倉市名誉市民となり、09年鎌倉市鎌倉芸術館で「金属造型の世界 鎌倉市名誉市民 蓮田修吾郎展」が開催される。「用即美」という工芸理念を掲げ35年に設立された実在工芸美術会の展観に出品した戦前の活動を経て、戦後は日展を中心に出品しつつ、用を度外視した「純粋美」の探求と創造を主張する日本現代工芸美術協会をはじめ創作工芸協会や工芸「円心」等の新しい工芸団体の設立に関わり出品活動を展開した。戦後の作品は大別すると、「方壺」に代表される立体造型の追求と浮彫による壁面装飾的な心象風景シリーズの展開の二系列が際立つ。ここに彫刻的、絵画的な要素を消化した金属造型の在り方が模索され、構想され、やがて工芸と建築、公共空間との接点が加味されるに至り、後年の日本金属造型振興会を拠点とする金属による環境造型の制作活動が展開された。没後、作品と資料等が金沢市に寄贈され、2012年に金沢21世紀美術館市民ギャラリーで「蓮田修吾郎展」が開催されている。

大隅俊平

没年月日:2009/10/04

読み:おおすみとしひら  刀匠で日本刀の重要無形文化財保持者である大隅俊平は10月4日、胃がんのため自宅で死去した。享年77。1932(昭和7)年1月23日、群馬県新田郡沢野村富沢(現、太田市富沢町)に生まれる。本名貞男。1946年、沢野尋常小学校を卒業。52年7月、長野県埴科郡坂城町の刀匠宮入昭平(昭和38年重要無形文化財認定)に師事する。57年刀剣類作刀承認を文部省から得る。翌58年、財団法人日本美術保存協会主催の新作技術発表会に初出品した刀が最優秀賞を受賞する。60年、師昭平への師事を終え、太田市富沢町に帰り制作を始める。59年から64年まで作刀技術発表会で毎年優秀賞および入選を重ねる。65年、財団法人日本美術保存協会主催の第1回新作名刀展(作刀技術発表会を改変)出品の太刀で努力賞、翌年の第2回でも努力賞を経て、67年の第3回から69年の第5回展で連続して特賞である名誉会長賞を受賞し、その後も文化庁長官賞、毎日新聞社賞受賞を続け、72年、新作名刀展無鑑査となる。74年に出品の太刀が重要無形文化財保持者、無鑑査からの出品作品を含めた全作品の中から最優作として正宗賞を受賞し、名実ともに最も優れた現代刀匠の一人と認められるに至った。77年、群馬県指定重要無形文化財保持者に認定され、翌78年には新作名刀展において2度目の正宗賞を受賞した。1997(平成9)年、国の重要無形文化財に認定された。作品は太刀、刀、短刀で、太刀には3尺(90㎝)を超える大太刀もある。理想とした作風は鎌倉時代後期の京都の来派(らいは)や備中の青江派(あおえは)で、太刀は反りの高い優美な姿を見せている。鍛えは小板目肌で、刃文は来国俊や来国光にみる小沸(こにえ)のついた直刃に小互の目が交じり、小足(こあし)の入ったものと、青江派の匂口が締った直刃に逆足が入ったものが多い。また初期には互の目乱れや丁字刃の刃文を焼いた作がある。代表作は2回の正宗賞受賞の直刃の太刀や、東京国立博物館蔵の太刀、太田市の3尺7寸(112cm)の大太刀で、このほか伊勢神宮の遷宮のための直刀や、高松宮殿下、同妃殿下、高円宮殿下のお守り刀などの制作を行なっている。

増田三男

没年月日:2009/09/07

読み:ますだみつお、 Masuda, Mitsuo*  彫金家で彫金の無形文化財保持者である増田三男は、9月7日、老衰のため自宅で死去した。享年100。1909(明治42)年4月24日、埼玉県北足立郡大門村に父伸太郎、母チカの7人兄弟の三男として生まれる。1924(大正13)年、埼玉県立男子師範附属尋常小学校を卒業、埼玉県立浦和中学校を経て、1929(昭和4)年、20歳で東京美術学校(現、東京藝術大学)金工科彫金部に入学する。大学では清水亀蔵(南山)、海野清らに学ぶ。34年、彫金部を卒業し、さらに同美術学校金工科彫金部研究科にすすみ、36年同研究科を終了する。在学中の33年、第14回帝展に「壁面燭台」が初入選する。研究科終了後は同校資料館で国宝をはじめとする文化財の模造制作に従事し、また個人的には柳宗悦が主宰した民芸運動に関心をいだき民芸論を研究した。この頃の工芸関係の公募展は帝展が最高権威であり、また国画会展の工芸部も有力であった。当時国画会工芸部は民芸派の作家が多く活躍しており、帝展の美術品としてのレベルの高さや技術力よりも、実際に生活の場で使える工芸作品が出品されていて、増田自身は師である清水南山らが出品していた帝展(のちに文展)と、国画会工芸部の両方に出品した。36年、11回国画会に出品した「筥」2点が初入選をはたしている。この国画会における工芸部門の創設に尽力した陶芸家富本憲吉に図案の指導を受け、以後増田は富本憲吉を生涯の師と仰ぐようになる。39年には第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が特選、42年の第17回国画会展では「野草文水指」が国画奨励賞を受賞した。戦時中はとくに金属使用の規制や奢侈品等製造販売禁止令などが発布されて金工作家はとくに苦境におちいったが、第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が入賞したことにより金属材料の配給を受け、その技術保存の立場から制作を続けることができた。第二次世界大戦中の44年、中学のときの母校である浦和中学の美術講師となり、以後76年に退職するまで30年以上にわたって木工芸の授業を担当した。62年、第9回日本伝統工芸展に初出品した「金彩銀蝶文箱」が東京都教育委員会賞を受賞したのを期に、その活躍の場を日本伝統工芸展とするようになり、69年、同展出品の「彫金雪装竹林水指」が朝日新聞社賞を受賞、1990(平成2)年、「金彩銀壺 山背」が保持者選賞を受賞した。91年、82歳で重要無形文化財「彫金」の保持者(人間国宝)に認定される。増田の作品は初期の第14回帝展「壁面燭台」(うらわ美術館蔵)や煙草セット(1937年・東京国立近代美術館蔵)等は、鉄の廃材を利用した当時としてはモダンな作品であった。40年代後半からは古文化財の模造によって培われた日本伝統の自然をイメージした小作品を生涯にわたって制作した。箱、壺、水指などを、銀をはじめ素銅、真鍮を打ち出し成形し、そこに菟、鹿や鴛鴦、蝶、梅や柳などの身近な動植物を意匠として、それを蹴彫、切嵌象嵌、布目象嵌によって表し、地には魚々子や千鳥石目を施した作が多い。また金や銀の鍍金による彩金の技法によって季節感、自然感を豊かに表現した。

徳田八十吉

没年月日:2009/08/26

読み:とくだやそきち  彩釉磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)の徳田八十吉は8月26日午前11時04分、突発性間質性肺炎のため石川県金沢市下石引町の金沢医療センターで死去した。享年75。1933(昭和8)年9月14日、石川県能美郡小松町字大文字町(現、小松市大文字町)に二代徳田八十吉の長男として生まれる。本名正彦。生家は、祖父の初代徳田八十吉(1873―1956)、父の二代徳田八十吉(1907―97)と続く九谷焼の家系で、初代八十吉は1953年に「上絵付(九谷)」の分野で国の「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定されている。古九谷再現のための釉薬の研究と調合に取り組んだ祖父と陶造形作家として日展を中心に作品を発表し富本憲吉にも学んだ父のもとで育った徳田は、52年4月に金沢美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)陶磁科へ入学、54年3月に同大学を中退し、父・二代八十吉の陶房で絵付技術を学び、55年の秋、病に倒れた祖父・初代八十吉から上絵釉薬の調合を任されて翌年2月祖父が亡くなるまでの数ヶ月間に釉薬の調合を直接教わった。本格的に陶芸の道に進む意志を固めたのは57年のこと。すでに1954年から日展に出品していたが、9度の落選を経験した後、63年第6回日展に「器「あけぼの」」を出品して初入選(以後6回入選)。初入選作品は鉢型の器の外面を口縁に沿って上から下に青、黄、緑、紺と色釉を塗り分けたもので、色釉のグラデーションを初めて試みたという点で重要である。しかし、後に代名詞となる「燿彩(ようさい)」に見られる自己の様式、すなわち特有の透明感のある色調と段階的な色彩の変化を確立するまでには、ここから80年代前半にいたる上絵釉薬の調製法と絵付・焼成法に関する研究、技の錬磨を必要とした。焼成法に関する大きな変化は電気窯の使用である。当初は父の薪窯(色絵付)で焼成をしていたが、薪窯の温度を上げることに限界を感じ、69年に独立して小松市桜木町に工房兼自宅を構えた際、電気窯による高温焼成を始めた。素地は1280度で固く焼き締めた薄い磁器を用い、色釉の美しさを効果的に見せるため、研磨の工程では器表面の微細な孔なども歯科医の用具にヒントを得た独自の手法で全て整えて平滑な素地を実現した。上絵付の焼成は1040度に達する上絵としては極めて高い温度で行い、ガラス釉の特質を活かした高い透明感と深みのある色調を表出した。色釉は古九谷の紫、紺、緑、黄、赤の五彩のうち、赤はガラス釉でないため使わず、残りの四彩を基本とし、少しずつ割合を変えて調合することで200を超える中間色の発色が可能になったという。こうした技術の昇華を経て生まれたのが「燿彩」という様式である。それは花鳥をはじめとする描写的な上絵付による色絵の世界を超えて、九谷焼が継承してきた伝統の色そのものの可能性を広げたいという探求心が結実した色釉のグラデーションによる抽象表現の極みであり、83年から「光り輝く彩」の意を込めたこの作品名を使うことが多くなった(2003年の古希記念展の後は「耀彩」と表記)。71年の第18回日本伝統工芸展に初出品して「彩釉鉢」でNHK会長賞を受賞、翌年に日本工芸会正会員となる(以後38回入選)。77年の第24回日本伝統工芸展に「燿彩鉢」を出品して日本工芸会総裁賞、81年の第4回伝統九谷焼工芸展に「彩釉鉢」を出品して優秀賞、1983年の第6回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉組皿」を出品して九谷連合会理事長賞、84年の第7回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉線文壺」を出品して大賞、85年に北国文化賞、86年に日本陶磁協会賞、同年の第33回日本伝統工芸展に「燿彩鉢「黎明」」を監査員出品して保持者選賞、88年に第3回藤原啓記念賞、1990(平成2)年に小松市文化賞、同年の’90国際陶芸展に「燿彩鉢「心円」」を出品して最優秀賞、1991年の第11回日本陶芸展に「燿彩鉢「創生」」を推薦出品して最優秀賞(秩父宮杯)、93年に紫綬褒章、97年にMOA岡田茂吉大賞などを受賞。86年に石川県九谷焼無形文化財資格保持者、97年に国の重要無形文化財「彩釉磁器」保持者に認定された。94年6月に日本工芸会理事(~2004年6月)、98年4月に日本工芸会石川支部幹事長(~2006年4月)、2004年6月に日本工芸会常任理事(~2008年6月)に就任。97年には小松市の名誉市民に推挙された。05年に九谷焼技術保存会(石川県無形文化財)会長、07年1月に小松美術作家協会会長、同年3月に財団法人石川県美術文化協会名誉顧問に就任。海外展への出品も多く、91年に国際文化交流への貢献が認められ外務大臣より表彰された後も07年の大英博物館「わざの美 伝統工芸の50年展」にともなって「私の歩んだ道」と題する記念講演を行うなど最晩年まで貢献を続けた。没後の10年7月22日から9月6日に石川県立美術館で「特別陳列 徳田八十吉三代展」(同館主催)、11年1月2日から12年1月29日に横浜そごう美術館、兵庫陶芸美術館、高松市美術館、MOA美術館、茨城県陶芸美術館、小松市立博物館、小松市立本陣記念美術館、小松市立錦窯展示館で「追悼 人間国宝 三代徳田八十吉展―煌めく色彩の世界―」(朝日新聞社・開催各館主催)が開催された。

高橋敬典

没年月日:2009/06/23

読み:たかはしけいてん  鋳金家で茶の湯釜の重要無形文化財保持者である高橋敬典は6月23日、慢性腎不全のため自宅で死去した。享年88。1920(大正9)年9月22日、山形市銅町に父高橋庄三郎、母ちよの一人息子として生まれる。本名高治。1938(昭和13)年、父の営んでいた鋳造業「山正鋳造所」の家業を継ぐ。始めは様々な鋳物を制作していたが、50年に漆芸家結城哲雄の招きで鋳造の制作指導に山形に来た初代長野垤至に師事し、この頃から和銑(わずく)を用いた茶の湯釜制作を行なう。51年、第7回日展に初出品した「和銑平丸釜地文水藻」が入選し、以後も日展に出品を続け入選を重ねた。その後発表の場を日本伝統工芸展に移し、63年の第10回日本伝統工芸展で「砂鉄松文撫肩釜」が奨励賞を受賞し、76年には「甑口釜」でNHK会長賞を受賞する。師であった長野垤至が芦屋釜、天明釜などの茶の湯釜を歴史的に研究したため、敬典もこうした古作の表現法を研究するとともに、材料の鉄も砂鉄から製鉄した和銑にこだわり、また地元の馬見ケ崎川で採集した川砂や土を用いて鋳型作りを行なった。作風は古作を研究したといっても、芦屋釜の真形(しんなり)、天明の形にはまった作はほとんどなく、垤至の進めた斬新な造形を受け入れ、肌はきめ細やかな絹肌か、あるいは砂肌とした綺麗なものが多い。また地文は肌の美しさを強調するため施さないものが多いが、波や松、竹などを全面ではなく控えめに配した作、あるいは細い筋を入れた作を残している。1992(平成4)年、勲四等瑞宝章を受章、96年、茶の湯釜で国の重要無形文化財に認定された。代表作に文化庁買上の「波文筒釜」(1971年・東京国立近代美術館)、「平丸釜」(1999年・東京国立博物館)。

中里逢庵

没年月日:2009/03/12

読み:なかざとほうあん、 Nakazato, Hoan*  陶芸家で日本芸術院会員の中里逢庵は3月12日午後1時31分、慢性骨髄性白血病のため唐津市内の病院で死去した。享年85。1923(大正12)年5月31日、佐賀県唐津町で父重雄(重要無形文化財「唐津焼」保持者・12代中里太郎右衛門)、母ツヤの長男として生まれ、忠夫と命名される。小学校を出ると、「絵の描けない陶工は出世できん。美術学校に入って絵を習え。そのために有田工業よりも唐津中学の方がよかろう」という親の意見で、県立唐津中学を経て官立東京高等工芸学校工芸図案科(現、千葉大学工学部)に学んだ。1943(昭和18)年、宮崎の航空教育隊に入営。45年5月頃、所属した中隊は台湾の台北空港に展開、終戦後は台中に帰り、捕虜生活を送った。46年に台湾より復員。その年、陶芸家の加藤土師萌が北波多村の岸岳古窯跡の調査に来唐、加藤から作陶の基本を学ぶ機会を得た。また、度々父とともに桃山時代の古唐津の古窯跡の調査を行い、古唐津を再現した父の後を受け、古唐津の叩き・三島・鉄絵の技法などの陶技を習得、さらには古唐津風の作風から飛躍した独自のスタイルの模索へと向かった。父・無庵(12代太郎右衛門)は途絶えてしまっていた古唐津の技法を、古窯跡から出土する古陶片に学ぶことにより、現代によみがえらせている。そして、昭和初期の頃まで唐津焼の主流だった京風の献上唐津を一変させ、現代での唐津焼のスタンダードというべき桃山時代の古唐津風のスタイルを確立した。その功績が認められ、76年に無庵は重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けている。忠夫と弟の重利、隆の三兄弟は、いわば再興された古唐津を受け継ぐ第二世代であった。第一世代の父・無庵は古唐津再興によって高く評価された。第二世代は古唐津を再興した父からバトンを受け、次なる新たな唐津焼の創造という宿命を背負わされていたのである。51年、第7回日本美術展で忠夫の陶彫「牛」が初入選。以降、日本美術展を舞台に連続十回の入選を果たす。56年の第12回日本美術展で「陶・叩き三島壺」が北斗賞を受賞。57年、第8回日本美術展入選の陶彫「羊」がソ連文化庁買い上げ、58年、第1回日展にて叩き壺「牛」が特選を受賞した。61年、第3回日展入選の「壺」が社団法人日本陶磁協会賞を受賞。65年、現代工芸美術協会ベルリン芸術祭視察団の一員として外務省派遣となり、ヨーロッパ、中近東諸国を40日間歴訪、その見聞をもとに昭和40年代にはトルコブルーの青釉による「翡翠唐津」の作風を創作した。69年、父12代中里太郎右衛門の得度により、13代中里太郎右衛門を襲名。この頃より韓国、台湾、タイ、マレーシア、インドネシアなどの海外を視察し、各地から出土する唐津焼や叩きの技法を調査し始める。71年にはタイ北部、チェンマイ市郊外のカンケオ村で作陶し、1996(平成8)年までいわゆる「ハンネラ」スタイルの水指・花生等をつくった。81年の第13回日展に出品した「叩き唐津三島手付壺」が内閣総理大臣賞、84年の第15回日展に出品した「叩き唐津手付瓶」も第40回日本芸術院賞を受賞、85年には日展理事に就任する。92年に佐賀県重要無形文化財に認定される。また、作陶の傍ら唐津焼の起源を精力的に研究したことでも知られ、東南アジアなど各地を踏査して叩き技法のルーツを調査し、『陶磁大系13唐津』(平凡社、1972年)、『日本のやきもの14唐津』(講談社、1976年)、『日本陶磁大系13唐津』(平凡社、1989年)などに論文を積極的に発表、2004年には博士論文「唐津焼の研究」を京都造形芸術大に提出、博士号を取得した。07年に日本芸術院会員になったほか、日本工匠会会長なども務めた。02年には京都・大徳寺で得度、「太郎右衛門」の名跡を長男忠寛(14代)に譲り、以後は「逢庵」として制作を続けていた。中里逢庵の一生を振り返ると、古唐津再興をなした父・無庵の跡を継ぎ、伝統ある中里家を維持していくために古唐津スタイルを堅持しながらも、芸術性の高いモダンな唐津焼を求めていった。生業と芸術の間を揺れ動き、陶芸家および陶磁研究者としても粉骨砕身した一生と言えよう。

青木龍山

没年月日:2008/04/23

読み:あおきりゅうざん、 Aoki, Ryuzan*  陶芸家で文化勲章受章者の青木龍山は4月23日午後11時10分、肝不全により死去した。享年81。1926(大正15)年8月18日佐賀県西松浦郡有田町外尾山の青木兄弟商会(陶磁器製造販売会社)を経営していた父重雄、母千代の長男として生まれる。1933(昭和8)年、外尾尋常小学校入学、13歳で卒業、父から将来焼き物で身をたてようと思うなら佐賀県立有田工業学校(現、佐賀県立有田工業高校)に進学した方がいいとの助言を受け、同学に入学。4年間、図案科にて日本画、デザイン、陶画を学ぶ。当時、1学年上級に第14代今泉今右衛門がおり、交流を深めたという。43年、卒業と同時に東京美術学校を受験した際に、身体検査で胸部疾患と診断され不合格となる。徴兵検査も不合格となり兵役を免れる。胸部疾患も健康的な生活を送るうちに治癒し、47年、東京多摩美術大学(現、多摩美術大学)日本画科に入学。51年卒業すると同時に、神奈川県の法政大学第二高等学校および法政大学女子高等学校の美術教師となり勤務する。2年後、祖父の興した青木兄弟商会に入る。父の経営する同商会は戦後の混乱から経営状態が厳しく、新しい時代に適応した経営感覚と技術の導入が必要と考えた父に呼び戻された。この際、勢いよく、大きく躍動する龍にあやかりたいとの願いを込めて龍山を名乗る。会社では絵付けを担当し、ベストセラー商品にも携わる。この頃より有田焼の香蘭社の9代深川栄左衛門の女婿であった水野和三郎に師事。同時期、佐賀県は窯業の振興のため後継者育成事業として轆轤の実技指導を行う。龍山もこの事業で、磁器大物成型の轆轤で記録措置を講ずべき無形文化財に選択された初代奥川忠右衛門に轆轤技術を学ぶ。帰郷した同年、有田陶磁器コンクールで1等受賞。翌年には同展で知事賞を受賞する。そして秋に第10回日展に染付「花紋」大皿を初出品し入選。55年、田中綾子と結婚し、夫婦での作陶生活が始まる。56年、青木兄弟商会は有田陶業と改名するも倒産し、会社の窯が使えなくなる。以降、63年に伯父の資金協力を得て自宅に念願の窯を持つまで仮窯生活を送る。その後は、フリーの陶磁器デザイナーとして生計を立てながら日展入選を目指し、個人作家として生きる道を決意する。当初は染付、染錦の作品での出品が多いがその後制作の重心を天目へと定めていく。日展へは毎年出品し、入選、特選候補となるが特選とならずに創作活動に悩む。71年、第3回日展において「豊」が特選。翌年より日展に出品する作品は天目による「豊」シリーズが多くなる。73年、第12回日本現代工芸美術展で「豊延」が、会員賞および文部大臣賞受賞。81年、社団法人日本現代工芸美術家協会理事に就任。81年、社団法人日展会員。88年、第27回日本現代工芸美術展で天目「韻律」が、文部大臣賞受賞。同年、社団法人日展評議員に就任。翌年、横浜高島屋にて「青木龍山・清高父子展」を開催。1991(平成3)年、第22回日展出品作「胡沙の舞」にて日本芸術院賞受賞、日展理事に就任する。東京高島屋において、第30回記念日本現代工芸美術秀作展及び選抜展に出品。フランクフルト工芸美術館(ドイツ)における海外選抜展に父子ともに出品が決定する。佐賀県政功労者文化部門にて知事表彰、佐賀新聞社芸術部門の佐賀新聞文化賞を受賞。93年には博多大丸において個展を開催、日本芸術院会員に就任。第52回西日本文化賞受賞。社団法人日本現代工芸美術家協会副会長、及び社団法人日展常務理事に就任する。博多大丸にて日本芸術院会員就任記念「青木龍山回顧展」を開催。同年、日展審査員を委嘱、翌年には日本橋三越特選画廊にて個展を開催。95年、『日本芸術院会員 青木龍山 ひたすらに』を佐賀新聞社より刊行。97年、三越にて「青木龍山作陶展」開催。99年、文化功労者となる。2000年、佐賀大学文化教育学部美術工芸科客員教授に就任。大英博物館で開催された佐賀県陶芸展に天目「春の宴」と油滴天目「茶盌」を出品。同年、『陶心一如青木龍山聞書』(荒巻喬、西日本新聞社)を刊行。05年、佐賀で初めて文化勲章を受章する。

辻清明

没年月日:2008/04/15

読み:つじせいめい、 Tsuji, Seimei*  陶芸家の辻清明は4月15日肝臓がんのため東京都内の病院で死去した。享年81。1927(昭和2)年1月4日東京府荏原郡(現、東京都世田谷区)に生まれる。少年の頃より陶芸に興味を持ち、11歳のときより轆轤を学ぶ。41年、14歳の時には姉・輝子とともに辻陶器研究所を設立し、倒焰式窯を築く。また、この頃から富本憲吉や板谷波山のもとで学ぶ。43年、高島屋でやきものの文房具類を常設展示。徴用で立川の日立航空機の工場で働く。48年、富本憲吉を中心とする新匠美術工芸会展に出品。同年、札幌の北海道拓殖銀行ロビー、丸井デパートで個展を開催。49年、新たにガス窯を築き低火度色釉を施した作品の試作に成功。51年、同志と「新工人」会を設立し、以後約十年にわたって活動する。52年、第一回新工人展を開催。同年、光風会展に出品し、2年連続で光風会展出品工芸賞受賞。53年、1月和田協子(協)と結婚。漆工芸家であった協子も新工人のメンバーであった。55年多摩市連光寺の高台に辻陶器工房を設立し、3室の登窯を築窯。信楽土で自然釉の掛かった作品を作り始める。同年、現代生活工芸協会賞を受賞。56年、朝日新聞社主催現代生活工芸展審査員、62年妻の協子とともに、辻清明・辻協新作陶芸展を日本橋三越で開催し、以降たびたび二人展を行う。翌年から画廊現代陶芸代表作家展等に出品する(75年まで)。63年、五島美術館にて個展を開催、アメリカ合衆国・ホワイトハウスに「緑釉布目板皿」を納める。64年、日本陶磁協会賞を受賞、現代国際陶芸展招待出品。65年日本陶磁協会賞受賞作家展に出品する。以降2006年まで毎年出品する。同年にはアメリカ・インディアナ大学美術館に「信楽自然釉壺」を納める。67年、米国ペンシルバニア州立大学美術館に「信楽窯変花生」が所蔵される。68年には京都国立近代美術館および東京国立近代美術館主催「現代陶芸の新世代」展に招待出品。69年、三越日本橋店にて「辻清明陶芸二十五周年展」を開催する。翌年、京都国立近代美術館に「信楽壺」が所蔵される。70年、東京国立近代美術館に「球と方形の対話」が買上、京都国立近代美術館主催「現代の陶芸展―ヨーロッパと日本―」展に招待出品。翌年より2005年まで毎日新聞社主催「日本陶芸展」に招待出品、第1回、第2回海外巡回展に選抜される。73年西ドイツのヘニッシ画廊にて個展を開催、イタリア・ファエンツァ陶芸博物館に「茶盌」を納める。その年より75年まで「現代選抜陶芸展」に出品、74年には迎賓館が作品を買上、「ファエンツァ国際陶芸展」に招待出品。76年、「作陶三十五周年記念 辻清明」展を日本橋壺中居にて開催。78年、小田急百貨店画廊にて個展を開催。翌年、日本経済新聞社主催「信楽展」に実行委員として関わり、自身も出品。80年、日本経済新聞社主催「現代陶芸百選展」出品。「炎で語る日本のこころ―辻清明作陶展」を新宿・小田急百貨店にて開催。82年、西武美術館主催の作陶四十五周年記念「炎の陶匠 辻清明」展を開催する。83年日本陶磁協会賞金賞を受賞。86年、作陶五十年記念『辻清明作品集』(講談社)を刊行。87年、多摩の工房が周囲の開発により仕事への支障が懸念されたため長野県穂高町に工房と登り窯を完成させる。しかし、2年後に工房と母屋が蒐集した工芸品・書籍と共に焼失。1990(平成2)年、藤原啓記念賞を受賞する。91年、「辻清明の眼 ガラス二千年展」(清春白樺美術館)では江戸切子などのガラスコレクションを展観、同年自身で制作したガラス器展を銀座の吉井画廊で開催。93年、NHK教育テレビの趣味百科「やきものをたのしむ」に夫婦で出演。96年、『焱に生きる 辻清明自伝』(日本経済新聞社)を刊行。2003年ドイツ・ハンブルクダヒトアホール美術館開催の「日本―写真と陶芸―伝統と現代」展に招待出品。06年、東京都名誉都民となる。翌年、「美の陶匠 辻清明傘寿展」を大阪梅田阪急にて開催。精力的な活動は没後の10年刊行の『独歩 辻清明の宇宙』(清流出版株式会社)に詳しい。女性で初めて日本陶磁協会賞を受賞した妻、協子も08年、7月8日肝臓がんのため死去。享年77。

森口華弘

没年月日:2008/02/20

読み:もりぐちかこう、 Moriguchi, Kako*  友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)である森口華弘(本名平七郎)は2月20日午後4時50分、老衰のため京都市左京区の病院で死去した。享年98。1909(明治42)年12月10日、滋賀県野洲郡守山町に父周次郎、母とめの三男として生まれる。本名は平七郎。1921(大正10)年3月、守山尋常小学校(現、守山市立吉身小学校)を卒業。24年、母の従兄坂田徳三郎の紹介で友禅師・三代中川華邨に師事し、その一方、華邨の紹介で疋田芳沼に就いて日本画を学ぶ。1934(昭和9)年、師の華邨の作風をひろめるという意味を込めて坂田徳三郎により名付けられた雅号「華弘」を用いる。2年後、1月8日に林智恵と結婚、中川家を出て一家を構え、39年1月には独立して工房をもつ。これに前後して華弘の代表的な技法である「蒔糊(まきのり)」の着想が生まれる。「蒔糊」の技術は、東京国立博物館で目にした江戸時代の撒糊技法が施された小袖と漆蒔絵の梨子地から、江戸時代より伝わる撒糊技法と漆芸の蒔絵技法と組み合わせることを着想したという。41年には丸川工芸染色株式会社に取締役・技術部長として勤務。しかし、戦争下、贅沢品禁止令、企業整備令の施行や社員の軍事工場への徴用の中、友禅の仕事は続けられなくなる。戦後、友禅の仕事を徐々に再開し、49年には市田株式会社主催の柳選会に参画、52年には京都工人社に加わり伝統工芸の保護・育成にも携わる。55年、第2回日本伝統工芸展に蒔糊を施した友禅着物「おしどり」「早春」「松」を出品し、全作入選。そのうち「早春」は朝日新聞社賞を受賞。56年、第3回日本伝統工芸展で友禅着物「薫」が文化財保護委員会委員長賞を受賞し、日本工芸会正会員となる。翌年から同展鑑査員に就任。58年には第1回個展を東京日本橋三越にて開催(以後毎年開催)。翌年、全国絹製品競技大会で通産大臣賞を受賞。60年、京都新聞文化賞を受賞。この頃から社団法人日本工芸会理事として活躍。62年には常任理事となる。翌年、「現代日本伝統工芸展」(オランダ・西ドイツ)に出品。67年、57歳の若さで国の重要無形文化財保持者に認定される。同年、「近代日本の絵画と工芸」展(京都国立近代美術館)に出品。70年には社団法人日本工芸会副理事長就任。翌年、紫綬褒章を受章、その後73年には第20回日本伝統工芸展に友禅着物(梅華文様)を出品、20周年記念特別賞を受賞。同年、「現代日本の伝統工芸展」(中国展観記念)に出品。翌年、京都市文化功労賞受賞後、「京都近代工芸秀作展」「現代日本の伝統工芸展」(ポルトガル・オーストリア・イタリア・スペイン)等に出品。76年『友禅―森口華弘撰集』(求龍堂)を刊行、「森口華弘五十年」(東京・京都 日本経済新聞社主催)を開催。80年、勲四等旭日小綬章を受章。同年、「染と織―現代の動向」展、翌年、「現代工芸の精華―京都作家秀作」展に出品。82年には「友禅・人間国宝 森口華弘展」(石川県立美術館)が開催。「人間国宝展米国展」(ボストン・シカゴ・ロサンゼルス)にも出品。翌年からも多くの作品を展覧会に出品し、「伝統工芸30年の歩み」展(東京国立近代美術館)、「現代日本の工芸―その歩みと展開」展(福井県立美術館)、「京都国立近代美術館所蔵 近代京都の日本画と工芸」展(群馬県立近代美術館)等に出品。特に85年「現代染織の美―森口華弘・宗廣力三・志村ふくみ展」(東京国立近代美術館 日本経済新聞社主催)、翌86年「人間国宝・友禅の技 森口華弘展」(滋賀県立近代美術館)と森口の歴史を振り返るような内容の展覧会も開催される。87年、京都府文化特別功労賞を受賞。その後も、「近代の潮流・京都の日本画と工芸」展(京都市美術館)、「人間国宝・友禅 森口華弘」展(守山市民ホール)、「染織の美―いろとかたち―」展(新潟市美術館)等に出品。1994(平成6)年には「伝統と創生 友禅の美 森口華弘・邦彦展」(大阪・京都大丸、読売新聞社主催)において父子の作品を一堂に展観する。翌年、滋賀県守山市の名誉市民第一号の称号を受ける。98年にはポーラ文化賞を受賞。翌年からも「京友禅―きのう・きょう・あした」展(目黒区美術館)、「開館30周年記念展Ⅰ工芸館30年のあゆみ」(東京国立近代美術館工芸館)等に出品。2007年、息子森口邦彦が友禅の重要無形文化財保持者に認定され、父子ともに友禅の重要無形保持者となる。没後の09年4月、「森口華弘・邦彦展―父子、友禅人間国宝」が滋賀県立近代美術館、東京日本橋三越にて開催される。

羽田登喜男

没年月日:2008/02/10

読み:はたときお、 Hata, Tokio*  友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)の羽田登喜男は2月10日午後10時22分、肺炎のため京都市上京区の病院で死去した。享年97。1911(明治44)年1月14日、石川県金沢市に造園師・羽田栄太郎の三男として生まれる。1925(大正14)年、隣家の南野耕月に加賀友禅を学ぶ。1931(昭和6)年、京都にて同郷の曲子光峰に京友禅を学ぶ。以降、羽田は生涯にわたり京都で制作を行う。金沢では加賀友禅の下絵、糊置き、色挿し等一連の作業の基礎を習得し、京都では京友禅のみならず、美術工芸品の鑑賞など文化に触れることの重要性を学んだという。一般的に京友禅は工程が分業されているが、羽田はすべての工程を自身で行う制作態度をとった。43年には政府認定の京都友禅技術保存資格者となり、戦中も作品を制作。55年、第2回日本伝統工芸展において訪問着「孔雀」が初入選。翌年出品した友禅訪問着「雉子」「鴛鴦」で初めての連作が試みられる。その後も春秋をテーマに連作を残す。57年には社団法人日本工芸会正会員となり、62年には理事に就任。71年、日本伝統工芸展審査員に就任。76年には第23回日本伝統工芸展で「白夜」が東京都教育委員会賞を受賞。同年、藍綬褒章を受章。78年、京都府美術工芸功労者表彰を受ける。79年に紺綬褒章、82年に勲四等瑞宝章を受章。同年、祇園祭蟷螂山の前掛「瑞祥鶴浴之図」を制作。84年にも祇園祭蟷螂山の胴掛2面「瑞光孔雀之図」と「瑞苑浮遊之図」を制作する。86年、京都府より英国王室ダイアナ皇太子妃に贈られた振袖「瑞祥鶴浴文様」を制作。88年、友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。同年、社団法人日本工芸会参与。90年、京都府文化功労賞特別賞受賞、京都市文化功労者表彰を受ける。翌年、祇園祭蟷螂山見送り「瑞苑飛翔之図」を制作。92年より翌年にかけて「友禅 人間国宝 羽田登喜男」展を石川県立美術館と京都市美術館にて開催。初期の作品から最近作までの約70数点が展観された。96年、フランスのリヨン染織美術館にて「羽田家のキモノ」展が開催。99年には祇園祭蟷螂山水引「吉祥橘蟷螂図」を制作、献納。2004年、祇園祭蟷螂山後掛「瑞兆遊泳之図」を献納し全懸装品を制作完納する。これらの制作には後継者である息子羽田登も携わり、その技術伝承に努める。07年10月10日、高齢のため制作活動を終了。羽田は、「着物は身につけて初めて完成するもので、主役である女性をいかに美しくひきたたせるかが大切」と常々語り、着装を意識した制作を心がけたという。著作に『羽田登喜男作品集』(八宝堂、1966年)、『春秋雅趣』(フジアート出版、1981年)、『春秋雅趣 二』(フジアート出版、1989年)、『遊於芸』(フジアート出版、1992年)などがある。

島岡達三

没年月日:2007/12/11

読み:しまおかたつぞう、 Shimaoka, Tatsuzo*  益子焼の陶芸家で、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)の島岡達三は12月11日午後11時5分、急性腎不全で死去した。享年88。1919(大正8)年10月27日、東京市芝区愛宕町の三代続く組紐師米吉と妻かうの長男として生まれる。父の勧めで1936(昭和11)年東京府立高等学校高等科理科に学び、39年東京工業大学窯業学科に入学、陶磁器を専攻する。東工大の前身、東京高等工業学校には、教官に板谷波山、卒業生に濱田庄司、河井寛次郎らがいた。入学後、益子に濱田を訪ね卒業後の入門を許される。その際に濱田は島岡に対し「大学にいる間から轆轤の勉強をしなさい」と助言をしている。その言葉通り、大学一年の夏期休暇は岐阜県駄知の製陶所で轆轤技法習得、二年目は夏期休暇の前半を益子の小田部製陶所で修行、後半を濱田の勧めで大阪を拠点に西日本の民窯を巡る。三年目には沖縄の壷屋で学ぶ予定となっていたが、太平洋戦争の影響で断念せざるを得なかった。41年大学を繰り上げ卒業し、翌年軍隊へ入営、その翌年にはビルマへ出征。45年ビルマで終戦を迎え、タイのナコンナヨークの捕虜収容所に入る。翌年に復員すると両親を伴い益子の濱田へ弟子入りを果たす。年に6~8回は登り窯を焚く濱田のもとで、昼間は土作りに始まる下仕事に取り組む。50年、濱田の世話で益子の栃木県窯業指導所の試験室へ技師として入所。この指導所時代、粘土や釉薬を徹底的に研究することができたという。また、この時代に濱田に学校教材として販売する複製品の原型作りの仕事が舞い込む。島岡は濱田について古代土器を学ぶために各地の博物館や大学へ赴く。特に東京大学理学部では縄文土器の第一人者である山内清男講師から縄文加工法を学ぶ。この時の経験が島岡の縄文象嵌の着想に大いに役立つ。53年指導所を退職し、独立すると濱田邸の隣に窯を築く。翌年、東京いずみ工芸展で初個展。濱田と同じ土を使い、同じように窯詰めをすると自ずと濱田と同じような作品が生まれる。島岡は名もない職人的な仕事をしようと考えていたが、濱田は個人作家として自分のものを作るように諭した。濱田のこの指摘と朝鮮李朝の古典的な彫三島の技法が縄文象嵌の着想となった。縄文象嵌は縄文土器に見るような縄目部分に泥將を埋め装飾する技法である。島岡は組紐師である父親に紐を組んでもらい素地に転がし加飾した。60年から縄文象嵌技法を本格的に行い、この技法に地元の素材を使った柿釉や黒釉などの六種の釉薬と、独自に工夫した釉薬を組み合わせ多彩な表現を展開していく。その後、個展を東京丸ビルの中央公論社画廊、大阪阪急百貨店、広島福屋等で開催。62年には日本民藝館新作展にて日本民藝館賞受賞。64年にはカナダ・アメリカで個展並びに作陶指導を行う。その後も海外での活躍が続き、68年にはロングビーチ州立大学、サン・ディエゴ州立大学夏期講座に招かれ渡米、72年にはオーストラリア政府の招聘で渡豪、視察指導をする。74年にはボストンでの個展、トロントでの講義のため、アメリカ・カナダへ歴訪。その後も精力的な活動を続け、多くの展覧会へ出品し活躍を続ける。80年、栃木県文化功労章を受章。1994(平成6)年には日本陶磁協会賞金賞を受賞。若くから陶芸指導や講演などの後継者育成や陶芸普及に尽力し、96年にはNHK教育テレビ趣味百科「陶芸に親しむ」に講師として出演、同年、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)に認定される。その後、97年には益子町陶芸メッセにて「重要無形文化財保持者認定記念島岡達三展」、98年には銀座松屋にて「傘寿記念―陶業55年の歩み島岡達三展」を開催する。99年には文化庁企画制作の工芸技術記録映画「民芸陶器(縄文象嵌)―島岡達三の技―」が完成。同年、勲四等旭日小綬章を受章、2002年栃木名誉県民の称号を授与される。翌年、第40回記念島岡達三陶業展を松屋銀座にて開催。執筆作品に『カラーブックス日本の陶磁7 益子』(保育社、1974年)、NHK趣味入門『陶芸』(日本放送出版協会、1998年)がある。

江里佐代子

没年月日:2007/10/03

読み:えりさよこ、 Eri, Sayoko*  截金師で人間国宝の江里佐代子は、滞在先のフランス東北部アミアンで10月3日、脳出血のため死去した。享年62。1945(昭和20)年7月19日、京都市の刺繍工芸京繍の老舗に生まれる。64年に京都市立日吉ヶ丘高校美術課程日本画科、66年に成安女子短期大学意匠科染色コースを卒業。74年に仏師江里康慧と結婚したことで、工房に出入りする職人から技術を学び始め、夫康慧がつくる仏像に彩色や金泥をほどこした。その後、江里は、截金技法が途絶えることを危惧していた江里家の希望をくみ、78年に北村起祥のもとに弟子入りして截金の技法を学んだ。截金は、本来、仏像や仏画を荘厳する技法であるが、江里はそれを棗、香盒、筥などの工芸品に応用し、截金技法の新しいあり方を追求していった。そうした工芸品の小さな平面には、金、銀、プラチナなどの截金線や截箔が自在に組み合わされて精緻かつ可憐な文様に結実し、完結した小世界が生み出されている。自身は、あるインタビューのなかで、高校や大学では日本画家を目指したが、女流画家の道は厳しいため、身近であった工芸美術の分野に進もうと考えていたと語っている。江里がかねてから抱いていた希望と新たに習得した截金技法とが見事に結びつき、伝統技法が現代に息を吹き返したと言えるだろう。江里は、81年のアメリカ・サンタフェでの「截金展」をかわきりに個展を開き、作品を発表していった。最初の3回までは工芸の個展であったが、1990(平成2)年からは夫康慧と合同で作品を発表し始め、伝統技法の原点と発展との二つの側面が伝えられるよう努めたという。公募展にも積極的に参加しており、82年の京都府工芸美術展では、初出品にして截金彩色屏風「萬象放輝」が大賞に選ばれたのをはじめ、86年の京展には截金衝立「コスミックウェーブ」を出品し、京都市市長賞を受賞した。83年、第30回日本伝統工芸展で、截金彩色飾小筥「たまゆら」が初入選、以降、毎年連続出品した。91年、同展において、截金彩色八角筥「花風有韻」が最高賞の日本工芸会総裁賞、2001年には截金飾筥「シルクロード幻想」が高松宮記念賞を受賞した(いずれも文化庁所蔵)。この間、86年に日本工芸正会員に認定、93年には、第40回日本伝統工芸展鑑査員、また04年には第51回同展鑑・審査員を務めている。90年「心と技―日本の伝統工芸」(北欧巡回展、文化庁主催)、「江里佐代子截金展」(ドイツ・フランクフルト JALプラザ)など国外の展覧会にも出品、截金の実演を披露するなど、よりひろく截金の魅力を伝えた。2000年以降、江里は、次々と截金の新たな展開と可能性を追求していった。頻繁に使用される香盒や棗などには、金箔が矧がれるのを防ぐために截金と漆芸を融合させた技法を応用。また、公共施設などの壁面装飾やスクリーンなどの大規模な作品にも、意欲的に取り組んだ。2000年には第13回京都美術文化賞受賞、02年に重要無形文化財「截金」保持者(人間国宝)に認定されたが、当時最年少での人間国宝認定であった。同年、第22回伝統文化ポーラ賞、03年第21回京都府文化賞功労賞、06年京都市文化功労者受賞ほか受賞多数。05年「金箔のあやなす彩りとロマン―人間国宝江里佐代子・截金の世界展」(佐野美術館ほか巡回)を開催した。07年、イギリス・大英博物館で開催された展覧会「Crafting Beauty In Modern Japan」で截金の実演と講演を行い、その後、次作研究のために訪れたフランス・アミアンで急逝。アミアン大聖堂を訪問直後のことだったという。

髙橋節郎

没年月日:2007/04/19

読み:たかはしせつろう、 Takahashi, Setsuro*  現代漆工芸の第一人者である髙橋節郎は、4月19日午前9時5分肺炎のため死去した。享年92。1914(大正3)年9月14日、父太一・母梅見の三男として長野県穂高町に生まれる。1938(昭和13)年東京美術学校工芸科漆工部を卒業。本来は画家志望であったが「絵では食えない」という父の反対で工芸科を選択、在学中には漆の魅力に目覚め「何も絵具で描くだけが絵ではない。漆で絵を描こう」と思い至ったという。40年東京美術学校研究科を修了、同年の紀元二六〇〇年奉祝美術展で「ひなげしの図小屏風」が初入選、翌年の第4回新文展では「木瓜の図二曲屏風」が特選を受賞し注目を浴びる。戦後は日展を中心に活躍し、51年には第7回日展「星座」で特選・朝倉賞を受賞、55年には日本橋三越にて第1回個展を開催、60年には第3回新日展「蜃気楼」で文部大臣賞を受賞と、精力的な制作活動をみせる。髙橋は“美術工芸”ではなく“工芸美術”、つまり“美術”という視点に立ち“工芸”作品の可能性を広げるという考えを持っている。これは自身も参加し61年に結成した現代工芸美術家協会の理念でもある。同協会創立者の山崎覚太郎は美術学校時代の恩師でもある。その後、新日展や日本現代工芸美術展、五都展、和光展に出品するほか、64年には日本現代工芸美術巡回メキシコ展・アメリカ展、66年には日本現代工芸美術巡回ローマ展、翌年には日本現代工芸美術巡回ロンドン展・モントリオール展に参加、海外に活躍の場を広げていく。76年東京芸術大学美術学部教授に就任、教鞭を執りながら制作を続ける。80年には社団法人日本漆工協会副会長に就任、漆工功労者として表彰される。82年には定年により同校を退官、社団法人現代工芸美術家協会副会長に就任。84年には紺綬褒章、86年には勲三等瑞宝章、1990(平成2)年には文化功労者に顕彰される。95年、東京芸術大学名誉教授に就任すると豊田市美術館の設立に伴い、髙橋の作品を展示する髙橋節郎館が併設される。97年には文化勲章を受章。同年、第18回オリンピック冬季競技大会(長野)の公式記念メダルのデザインを制作、フランスのパリで「漆の黒・光のメッセージ―現代日本の漆芸―髙橋節郎」展を開催。99年には東京銀座・和光ホールで「髙橋節郎墨彩展―ヨーロッパ・安曇野・大和路を描く―」を開催、漆芸の枠を超えた活動をみせる。2003年6月18日には長野県穂高町に残る生家に安曇野髙橋節郎記念美術館が開館。翌年には卒寿を記念し、豊田市美術館併設髙橋節郎館と安曇野髙橋節郎記念美術館、大阪阪神百貨店で「卒寿記念髙橋節郎―漆絵から鎗金へ/一九三〇-六〇年代」を開催。

三浦小平二

没年月日:2006/10/03

読み:みうらこへいじ、 Miura, Koheiji*  陶芸家で青磁の重要無形文化財保持者(人間国宝)の三浦小平二は10月3日午前1時56分に急性心筋梗塞のため死去した。享年73。1933(昭和8)年、現在の新潟県佐渡市相川に生まれる。父は佐渡無名異焼の三浦小平。1951年東京芸術大学美術学部彫刻科に入学し平櫛田中に指導を受ける。高田直彦らと陶磁器研究会(陶研)をつくり、加藤土師萌に師事し、芸大最初の窯を築く。また、父の薦めで京都の製陶会社や岐阜県陶磁器試験場にて陶技を根本から学ぶ。その後、母校に戻り、副手、非常勤講師を務めながら制作の目標を灰釉陶器から鈞窯、青磁へと定めた。76年、第23回日本伝統工芸展に出品した「青磁大鉢」において文部大臣賞を受賞。これは、作者の生地・佐渡の朱泥土の素地を轆轤成形で薄く挽き上げ、明るい青白色の青磁釉がたっぷりとかかった作品である。この作品は72年台北の故宮博物院における宋代青磁の調査から佐渡の朱泥土を使用することを思い立ち実現したという。その後、1992(平成4)年、郷里に「三浦小平二小さな美術館」を設立、93年に日本陶磁協会賞金賞、94年にはMOA岡田茂吉賞工芸部門大賞、95年には第42回日本伝統工芸展に出品した「青磁飾壺『寺院』」が日本工芸会保持者賞、96年紫綬褒章を受章。三浦の作風はアジア・アフリカの風物をモチーフとしたものが見られ、これらは本人が「創作の原点」と語った海外への旅の影響といわれている。東アフリカ牧畜民のマサイ族との出会いやアフガニスタン砂漠の中の湖バンディ・アミールの神秘的な青色の感動が作域を広げたと考えられる。97年、青磁で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。2000年東京芸術大学名誉教授、文星芸術大学陶芸科主任教授に就任。05年文星芸術大学陶芸科客員教授にと後進の指導に心血を注いだ。06年、「[作陶50年]人間国宝三浦小平二展」を日本橋三越、新潟三越で開催した同年、逝去。没後、遺族が作品30点を佐渡市へ寄贈したことを機に、08年「[特別展]人間国宝三浦小平二の世界―青磁以前の作品、青磁の世界、画家・三浦小平二―」展が佐渡博物館、両津郷土博物館、相川郷土博物館にて開催された。

塩多慶四郎

没年月日:2006/09/24

読み:しおたけいしろう  漆芸家で髹漆の重要無形文化財保持者(人間国宝)の塩多慶四郎は9月24日午後8時7分に肺炎のため死去した。享年80。1926(大正15)年1月17日、輪島市河井町の輪島塗塗師角野勝次郎の四男として生を受ける。3歳のときに母の実家である塩多家の養子に入る。塩多家も三代続く輪島塗塗師であった。1941(昭和16)年、尋常高等小学校を卒業し、養父塩多政のもとで輪島塗の修行を始める。その後、45年、滋賀県大津海軍航空隊にて終戦を迎える。同年、輪島へ復員し家業の塗師を手伝う。48年、大日本紡績大垣化学紡績工場試験室に勤務し、化学塗料の研究に従事する。その後、26歳のときに輪島へ帰郷。塩多漆器店四代目を継ぎ、本格的に輪島塗に携わり始める。64年、勝田静璋について蒔絵を学び始め、同年、第6回石川の伝統工芸展(日本工芸会石川支部の展覧会)に入選。翌年、「乾漆菓子鉢」にて第12回日本伝統工芸展に入選を果たす。また、同年、文化庁・日本工芸会共催による技術伝承者養成事業に参加した塩多は生涯の師と仰ぐ松田権六と出会う。松田の「塗りと形が良ければ加飾などいらない」との示唆に触発され、漆塗りの持つ本当の美しさを追求することになったという。その後、71年、第27回現代美術展において「乾漆古代朱盤」が技術賞を受賞したのを皮切りに受賞を重ねる。第15回石川の伝統工芸展にて「乾漆堆黒りんか盤」が日本工芸会会長賞、第23回日本伝統工芸展にて「乾漆線文盤」が日本工芸会会長賞を受賞する。78年輪島塗が重要無形文化財に指定され、輪島塗技術保存会が発足。同会会員に認定される。その後も精力的に活動を続け、第24回日本伝統工芸展にて朝日新聞社賞、第3回石川県工芸作家選抜美術展にて石川県知事賞を受賞。その後日本伝統工芸展にて監査員を務め、工芸界の発展に尽力した。86年には北國文化賞、翌年には紫綬褒章、1991(平成3)年石川テレビ賞を受賞。95年、「髹漆」にて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。同年にはMOA岡田茂吉賞大賞を受賞、日本工芸会参与、石川県立輪島漆芸技術研究所主任講師に就任し、後進の指導に心血を注いだ。同年「乾漆蓋物 悠悠」の制作の直後に病に倒れる。96年、初の回顧展「人間国宝 塩多慶四郎の世界」を石川県輪島漆芸美術館で開催。再起を果たせぬまま逝去。

山田常山

没年月日:2005/10/19

読み:やまだじょうざん  陶芸家で「常滑焼(急須)」の重要無形文化財保持者の三代山田常山は、10月19日午後5時6分、転移性肝がんのため愛知県常滑市の病院で死去した。享年81。1924(大正13)年10月1日、愛知県常滑市に祖父・初代山田常山、父・二代常山と二代続く急須づくりを専門とする陶家の長男として生まれる。本名は稔。祖父は妥協を許さない厳しさと精緻な作風で名工と謳われ、父もその技を継承した名手として名を馳せた陶工であった。その二人に少年のころから基礎的な陶技を学び、中学に入るころには急須づくりを始める。1941(昭和16)年、愛知県立常滑工業学校窯業科を卒業。翌年、常滑にある愛知県陶器試験場に入所し、窯業に関する専門知識を学ぶ。46年からは本格的に修業するため、父・二代常山に師事する。48年、同志と常滑工芸会を設立。同年、第1回常滑陶芸展で「朱泥茶注」が常滑町長賞を受賞し、作家としてのデビューを果たす。また、この頃から父の号であった小常山を名乗る。58年、ブリュッセル万国博覧会の日本第三部陶器類でグランプリを受賞。同年、第5回日本伝統工芸展で横手タイプの朱泥の急須が初入選し、以後、同展を中心に活動を展開する。初入選は朱泥の急須であったが、その後は朱泥土に二酸化マンガンを混ぜ込んだ紫泥や烏泥、自然釉の急須を出品しつつその存在を知らしめていく。61年、名古屋の百貨店で初の個展を開催。また同年に父の死去に伴い、三代常山を襲名する。三代常山の急須は、地元で産出される粘りの強い朱泥土(田土)を用い、本体、注口、把手、蓋のすべてを、轆轤を使って成形し、それらを組み立ててつくり上げる。技法からみると、朱泥土をベースとした、朱泥、紫泥、烏泥に加え、象牙色の白泥、古常滑を祖とする自然釉や、土そのものの風合いを生かした焼き締めによる南蛮などがある。また、表面の装飾を伴う技法では、窯変を利用した緋襷や、常滑独特の海藻を用いた藻掛、炭化焼成する燻しに加え、梨の肌を思わせる梨皮や、糸を巻いたような糸目、櫛状の道具で線を引いた櫛目などがある。形のバリエーションは広く、胴部が算盤の玉のように張り出した算盤形や、鎌倉期の古常滑の壺を思わせるような肩が大きく張った鎌倉形、そのほかにも野菜や果物をはじめ、身近にあるさまざまなものから着想を得た形などがあり、煎茶具として用いる伝統的なものから、北欧のデザインに触発されたモダンなものまで、100種類以上を優に超える。また把手の付き方では、注口と一直線上に把手が付く茶銚、一般によく知られる横手や把手がなく注口だけの茶注、把手がなく注口が胴部に受け口のように付く宝瓶、注口が胴部と一体となった絞り出し茶注がある。これらには古典に敬意を表しながら、形や意匠などを試行錯誤で探った成果がしっかりと映し出され、すべてに卓越した轆轤技術があってこそ生み出される、手づくり急須のスタイルが確立されている。1993(平成5)年、日本陶磁協会賞受賞。翌年の94年には、「陶芸 ロクロによる手造り朱泥急須技法」で愛知県指定無形文化財保持者に認定される。96年、勲五等瑞宝章受章。97年には愛知県陶磁資料館で「常滑急須―山田常山三代展」が開催され、その全貌とともに、祖父や父の作品も紹介される。98年には「常滑焼(急須)」の重要無形文化財保持者に認定。2004年、旭日小授章を受章する。また三代常山は、早くから後進の指導にも積極的で、75(昭和50)年に「常滑『手造り急須』の会」が設立されると会長に就任し、30年に亘り模範的な活動を通して技術の継承に尽力し、多くの後進を育て上げるとともに、急須の発展に貢献した。 

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