本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 3,013 件)





松樹路人

没年月日:2017/12/19

読み:まつきろじん、 Matsuki, Rojin*  独立美術協会の画家松樹路人は12月19日、肺炎のため死去した。享年90。 1927(昭和2)年1月16日、北海道留萌支庁苫前郡に生まれる。本名路人(みちと)。小学校教員であった父の任地によって転居し、33年佐呂間の武士尋常小学校に入学、その後、女満別尋常高等小学校に転校する。1940年北海道立網走中学校に入学するが、翌年一家で上京。東京府立第十五中学校(現、都立青山高等学校)在学中に小林万吾の主宰する同舟舎絵画研究所に通う。44年東京美術学校油画科に入学し、45年から梅原龍三郎に師事。同年、三浦半島の長井にある武山海兵団に配属される。49年に東京美術学校を卒業し、梅ヶ丘中学校の図工教諭となり、53年まで勤務。この間の50年、連合国要人の夫人によって運営されていたサロン・ド・プランタンの第2回展に原爆と浮浪児を描いた「失われた世代」を出品して第3席に選ばれる。また、同年の第18回独立美術協会展に「S町の酒場付近」で初入選。53年第21回独立展に褐色系を基調色とし、人体を簡略な形でとらえ、着衣の女性像の背後に二人の男性像を描いた「三人」、および「秋」を出品してプールブー賞受賞。同年、網走中学校の先輩で独立美術協会会員であった居串佳一と出会い、交遊を始める。この頃、アンドレ・ドラン、ゲオルグ・グロス、ベン・シャーンに共感を抱く。54年第22回独立展に「家族」「行ってしまった小鳥」を出品して独立賞受賞。57年から60年3月まで鴎友学園女子高等学校教諭を務める。60年独立美術協会会員となる。この頃、「具体的なかたち」を求めて苦悩しつつ、人体を幾何学的形体に還元してから再構成し、白を背景に用いた作品を描く。64年、それまでの自作への不満から、初期以降の大作十数点を自ら焼却。これを機会に、少年時代から惹かれていた藤田嗣治の画風に学んだ静物画を多く描くようになる。66年から71年まで女子美術大学非常勤講師としてデッサンを指導。69年、第37回独立展に白いタイルを背景に、植物や陶器などを配置した「タイルの静物」を出品する。70年第5回昭和会に「木の実の静物」「車輪の静物」を出品して昭和会賞を受賞したほか、前年の独立展出品作「タイルの静物」ほかを第13回安井賞展に出品。同年、武蔵野美術大学講師となり、71年、同助教授となる。また、同年、東京都稲城市に転居しアトリエを構える。この家は「別れ道の白い家」(1977年)のモチーフとなり、その後も画中にしばしば登場することとなる。73年第16回安井賞展に白いタイルを背景に赤茶色のドラム缶と瓶などを描いた「ドラム罐」ほかを出品して佳作賞受賞。同年ヨーロッパに旅行しパリ、ローマ、トレドを訪れる。77年、武蔵野美術大学教授となる。79年、独立美術協会の有志と十果会を設立し、以後同展に出品を続ける。81年、前年の第48回独立展出品作「わが家族の像」(1980年)などにより第4回東郷青児美術館記念大賞受賞。また、同年第3回日本秀作美術展に横向きの少年とボクサー犬を描いた「少年とボクサー」を出品し、以後、2003(平成15)年第25回展まで同展に連続して出品。80年代半ばから、ポール・デルヴォー、ジョルジュ・デ・キリコなどシュール・レアリスムの作家の作風を取り入れる。86年イギリスへ旅行。87年、前年の第54回独立展出品作「美術学校―モデルの一日」により第5回宮本三郎記念賞受賞。同年、「第5回宮本三郎記念賞 松樹路人展」が開催され、学生時代の作品から独立展、十果会展等の出品作を中心に70点が展観される。また、同年より長野県茅野市蓼科のアトリエで秋の独立展に向けた制作を行うようになる。91年第41回芸術選奨文部大臣賞受賞。97年武蔵野美術大学を退任。98年『ミュージアム新書18 松樹路人-はるかへの想い』(苫名真著 北海道立近代美術館編)が刊行される。2002年に郷里北海道にて「北方風土記回顧録―地平線の彼方へ 松樹路人展」(網走市立美術館)、2011年に制作拠点のひとつであった茅野市にて「松樹路人展 終わりなき旅」(茅野市美術館)が開催される。年譜は同展図録に詳しい。「職人のようにひたすら描く」という言葉を好み、幼年期を過ごした北海道の広大な大地と空、清澄な空気を愛して、それらを絵画空間に表した。一貫して具象画を描き、日常生活に身近なものに取材して、70年代からは家族や自画像を主要なモチーフとしつつ、構成力の強い作品を描き続けた。

桐敷真次郎

没年月日:2017/12/07

読み:きりしきしんじろう、 Kirishiki, Shinjiro*  建築史家、東京都立大学名誉教授の桐敷真次郎は12月7日死去した。享年91。 1926(大正15)年8月31日、東京都神田区(現、千代田区)に生まれる。1947年に第一高等学校理工科甲類(旧制)を卒業、同年東京帝国大学第二工学部建築学科(旧制)に進学、53年には同大学院を退学して東京都立大学工学部建築学科の助手に就任した。60年には助教授、71年に教授に昇任し、長きにわたって東京都立大学にて教鞭を執った。1990(平成2)年に同大学を定年退職し、その後97年まで東京家政学院大学家政学部住居学科にて教授を務めた。 我が国における西洋建築史学の先駆者の一人であり、そのことは2012年度に受賞した日本建築学会大賞の受賞理由「わが国の西洋建築史学に関する研究・教育および建築評論に対する多大な貢献」に如実に表されている。それまで国内での書物を通じた研究が中心であったなかで、ロンドン大学コートールド美術史研究所に留学し、海外留学の戦後第一世代の一人として後進に道を開いた業績も銘記すべきであろう。 桐敷の幅広い研究分野の中でも、その中核をなすのは何と言ってもイタリア・ルネサンス研究である。86年に日本建築学会賞(論文)を受賞した「パラーディオ『建築四書』の研究」、及びイタリアに関する優れた著作に対して贈られるマルコ・ポーロ賞を受賞した『パラーディオ「建築四書」注解』(中央公論美術出版)は、桐敷の業績の中でも特によく知られている。 また、『建築学大系5「西洋建築史」』(彰国社、1956年)、『西洋建築史図集』(彰国社、1981年(三訂版))など建築教育の場で広く用いられる基本書を著述・編纂したほか、日本の近代建築の通史書である『明治の建築』(日本経済新聞社、1965年)も広く参照される労作である。また、個別の研究分野に留まらず建築史全般にかかる著作の翻訳を精力的に行ったことでも知られ、J.M.リチャーズ『近代建築とは何か』(彰国社、1952年)、D.ワトキン『建築史学の興隆』(中央公論美術出版、1993年)、オーギュスト・ショワジー『建築史(上下)』(中央公論美術出版、2008年)、ジェフリー・スコット『ヒューマニズムの建築(注解)』(中央公論美術出版、2011年)などの翻訳がある。さらに、英訳を通じたわが国の建築の対外発信にも努めた。 他方で、地中海学会会長(1997~2001年)を務め、また自身の個別的研究としてイギリスのタウンハウスや江戸の都市計画に関する論考などがある。さらに現代建築への関心も強く、多くの建築批評やくまもとアートポリスとの関わりも忘れることができない。

松平修文

没年月日:2017/11/23

読み:まつだいらおさふみ、 Matsudaira, Osafumi*  長らく青梅市立美術館に学芸員として務め、自らも日本画を制作、また歌人としても活躍した松平修文は11月23日、直腸がんのため青梅市立病院で死去した。享年71。 1945(昭和20)年12月21日、北海道北見市に生まれる。父の転勤に伴い北海道内を転々としながら、絵画や詩作に耽る少年期をおくる。64年に札幌西高等学校を卒業し上京。66年東京藝術大学美術学部へ入学し日本画を専攻、その後同大学院に学ぶ。83年、青梅市立美術館の開設準備に学芸員として関わり、翌84年の開館後も数々の展覧会を企画、青梅市を中心とした西多摩地域における芸術文化の発展に貢献し、副館長等を経て2009(平成21)年の退職まで務めた。松平が手がけた展覧会の中でも特筆すべきは、自身も制作者として専攻した日本画に関する企画であり、とくに「佐藤多持代表作展」(1986年)や「長崎莫人展」(1988年)、また佐藤が所属する知求会の歩みを紹介した「或るグループ展の軌跡」(1991年)等といった戦後の日本画家、あるいは「夏目利政展」(1997年)や「大正日本画の新風 目黒赤曜会の作家たち」展(2004年)といった明治末~大正期に活躍した画家等、近現代日本画の流れの中でも革新的な試みを行った画家達に注目し、その評価に果たした役割は大きい。 歌人としては69年より大野誠夫に師事、松平修文(しゅうぶん)の名で『水村』(雁書館、1979年)、『原始の響き』(雁書館、1983年)、『夢死』(雁書館、1995年)、『蓬』(砂子屋書房、2011年)、『トゥオネラ』(ながらみ書房、2017年)の5冊の歌集を刊行した。没後の18年1月には『歌誌 月光』54号で、松平の追悼特集が組まれている。また2019(令和元)年9月には奉職した青梅市立美術館の市民ギャラリーで「松平修文遺作展 風の中でみた村落や森や魚や花が」が開催、学芸員や歌人として活躍する傍ら、絵筆を離さず制作を続けた日本画家としての側面があらためて着目された。妻は歌人の王紅花。

石崎浩一郎

没年月日:2017/11/14

読み:いしざきこういちろう、 Ishizaki, Koichiro*  評論家、名古屋造形大学名誉教授の石崎浩一郎は11月14日、喉頭がんで死去した。享年82。 1935(昭和10)年10月7日、広島県生まれ。61年早稲田大学政治経済学部新聞学科卒業。64年日本初の個人映画祭「フィルム・アンデパンダン」を新宿紀伊國屋ホールで足立正生、金坂健二らと開催する。この頃、ギャラリー新宿や内科画廊のグループ展に参加する。67年アジア財団の招聘によりハーバード大学国際セミナー芸術部門修了。68年までニューヨーク大学芸術部門研究員。60年代後半の現代美術シーンをニューヨークからレポートし、後に上梓された『光・運動・空間 境界領域の美術』(商店建築社、1971年)は、ポップアートやキネティックアートなどの日常生活とテクノロジーの間で多様化する美術の動向を捉えている。石崎のこのスタンスは、アメリカを主とした現代美術の紹介者としてながく続き、以下のような出版物に業績が〓れる。 訳書として、『アメリカの実験映画』(アダムス・シドニー編、フィルム・アート社、1972年)、『ポップ・アート:オブジェとイメージ』(クリストファー・フィンチ著、PARCO出版局、1976年)、『ジャクスン・ポロック』(エリザベス・フランク著、谷川薫と共訳、美術出版社・モダン・マスターズ・シリーズ、1989年)、『20世紀の様式:1900―1980』(ヘヴィス・ヒリアー著、小林陽子と共訳、丸善、1986年)。共著として、『現代の美術』(エドワード・ルーシー=スミス、講談社、1984年)。著書として、『映像の魔術師たち』(三一書房、1972年)、バシュラールの著作から導きだされた貝殻や鏡、迷宮、渦巻きといった図像をめぐる『イメージの王国』(講談社、1978年)、『アメリカン・アート』(講談社現代新書580、1980年)、論考に「黒と白の画家」(『画集オーブリー・ビアズリー』、講談社、1978年)、「西欧美術にみる女性美」(『美人画』福富太郎との共著、世界文芸社、2001年)などがある。一方で、日本領域への眼差しも70年代初期からもち、「狂児・織田信長」(『季刊パイディア』、1972夏号)をはじめ、未完となった連載「転換期の美学」(『月刊陶』1981年6月から)などにみられるように、織部などの伝統美への論考も試みていた。 教育歴として、87年から2005(平成17)年まで名古屋造形大学教授、在職中は図書館長も務めた。06年から同大名誉教授。

森堯茂

没年月日:2017/11/12

読み:もりたかしげ、 Mori, Takashige*  彫刻家の森堯茂は11月12日、間質性肺炎のため死去した。享年95。 1922(大正11)年4月14日、愛媛県宇摩郡金田村半田(現、四国中央市)に生まれる。1935(昭和10)年に愛媛県立三島中学校に入学。〓凡社の『世界美術全集』を見てロダンを知り、彫刻への興味を持ったという。 40年に東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科塑像部へ入学、44年に同校を繰り上げ卒業する。卒業後はおもに自由美術家協会に参加し、51年に第16回自由美術家協会展に「男 習作」と「丘」を出品。翌年第17回同展では「立像」を出品する。また、同年に自由美術家協会員に推薦された。53年の自由美術家協会彫刻会員展にコンクリートや白色セメントで制作された抽象彫刻「夜 No.1」「夜 No.2」「鳥 No.1」を出品する。56年の第20回自由美術家協会展では、量感に空洞をとりこんだ「脱殻」「殻の発展」を発表し、瀧口修造から高い評価を受けた。そして、60年の池袋西武デパートにおける第1回集団現代彫刻展では、鉄線による作品「落茫の空間に No.1」を発表し、さらに量感から解放された彫刻を発表した。それまでの彫刻において支配的であった、塊や量感を感じさせない、軽やかでありながら存在感を十分に感じさせるこの作品は、同年の『美術手帖』11月号の表紙を飾り話題となった。そして、62年の神奈川県立近代美術館における現代日本彫刻展に「とりこ」を出品。なお、同作は同郷の美術評論家、洲之内徹が購入した。 自由美術家協会での活躍の一方、57年には、日比谷公園野外彫刻展に「聚存 No.1」を出品するなど、当時新しい取り組みであった野外彫刻展にも積極的に参加している。58年には、神奈川県立近代美術館における「集団58野外彫刻展」に彫刻作品とドローイングを数点出品。60年には、同館における「集団60野外彫刻展」に「野外のかたち」を出品する。これらの展覧会をきっかけに土方定一などと交流を持つようになる。また、翌年の第1回宇部市野外彫刻展に「脱殻」「鳥 No.4」を出品。62年の第2回同展では「巣 No.19」を発表している。 63年から翌年にかけて、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパ、エジプトを遊学。帰国後、制作の場を東京から愛媛県の松山市に移し、68年に松山市民会館において個展を開催した。同展では、「ユカタンの月」など、アモレ効果を用いた正面性の強い作品を出品し、遊学の成果を示す。また、69年には、同じく愛媛県出身の坪内晃幸とともに松山市の堀之内公園にて第1回愛媛野外美術展、71年には、愛媛県立美術館において第1回愛媛造形作家協会展を開催し、地元での現代美術の活性化に努めた。1991(平成3)年、93年には、三越松山店において個展を開催。90年代はおもに、「弧の空間」や「岬」といった、鉄板を組み合わせた作品を制作した。 2007年には、愛媛県の町立久万美術館において「造形思考の軌跡―森堯茂 彫刻の70年」展が行われ、愛媛県を代表する彫刻家として顕彰された。

小宮康孝

没年月日:2017/10/24

読み:こみややすたか  江戸小紋の重要無形文化財保持者である小宮康孝は10月24日肺炎のため死去した。享年91。 1925(大正14)11月12日、東京・浅草に生まれる。父(康助)は江戸小紋の初代重要無形文化財保持者(人間国宝)である。1938(昭和13)年、小学校を卒業すると、父のもとで本格的に厳しい修行を始める。42年、関東工科学校電機科に入学。昼は江戸小紋の板場、夜は学校の日々を送る。 45年3月、空襲で住宅と工場が全壊し家業を中断。工場は被害に見舞われたが、型紙は父により持ち出され無事であった。康孝は甲府の連隊に入隊し復員する。2年後の47年、板場を再建する。 50年、使用していた合成染料をさらに質のよいものに切り替え始める。52年、父(康助)が「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定される。この選定の際に文化財保護委員会(現、文化庁)によって江戸小紋という言葉が作られる。3年後、文化財保護法の改正に伴い重要無形文化財の制度が制定され、父は江戸小紋の重要無形文化財保持者として認定される。父のもとで研鑽をつむ。60年、第7回日本伝統工芸展で「江戸小紋 蔦」が初入選。以後、毎年出品をする。61年、父が死去。64年、第11回日本伝統工芸展で「江戸小紋着物 十絣」が奨励賞を受賞。 60年代後半より、和紙製作者らの協力で型地紙の改良を始める。「よい型彫師がいなければ、江戸小紋は滅びる運命だ」という父の言葉に学び、型彫師の喜田寅蔵(1894-1977)等との関わりを大切にしたという。 77年、初の個展「小紋百柄展」(東京・日本橋三越)を開催する。翌年、父についで、重要無形文化財保持者(江戸小紋)に認定される。認定後も江戸小紋の制作、そして普及にも尽力する。84年には工芸技術記録映画「型染め―江戸小紋と長板中形-」(企画:文化庁、製作:英映画社)が製作され、卓越した技術が映像で記録される。85年に東京都文化賞、88年に紫綬褒章を受章。同年、東京国立近代美術館工芸館にて「ゆかたよみがえる」展に出品する。1993(平成5)年、〓飾区伝統工芸士に認定される。97年、第4回かつしかゆかりの美術家展「江戸小紋小宮康助、康孝、康正三代展」を〓飾シンフォニーヒルズで開催する。翌年、98勲四等旭日小綬章を受章。2001年、東京都名誉都民の称号を得る。11年、〓飾区郷土と天文の博物館にて「小宮家のわざと人」展を開催する。さらに4年後の15年にはシルク博物館にて「今に生きる江戸小紋」展を開催する。 康孝は混乱の戦後を乗り越え、父から受け継いだ江戸小紋というわざを受け継ぎ発展させた我が国を代表する染色家といえる。18年、息子康正も江戸小紋の分野で重要無形文化財保持者に認定され、孫も江戸小紋の仕事を手掛けており、脈々と江戸小紋の技は受け継がれている。 作品は、東京国立近代美術館、MOA美術館、シルク博物館などに所蔵されている。

上村清雄

没年月日:2017/10/17

読み:うえむらきよお、 Uemura, Kiyoo*  千葉大学教授で美術史研究者の上村清雄は、10月17日、肝臓癌のため死去した。享年65。 1952(昭和27)年10月10日兵庫県に生まれる。75年3月に東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。4月に同大学大学院美術研究科(修士課程西洋美術史専攻)に入学、78年3月に修了。修士論文は「ドナテッロ研究―1420―30年代の『多様性をめぐって』」。同年4月から81年9月まで同大学西洋美術史研究室の非常勤助手を務める。81年10月からイタリア政府給費留学生としてシエナ大学大学院考古学美術史研究科に留学し、86年11月に修了(考古学および美術史修士)。翌87年1月に群馬県立近代美術館学芸員となり、88年4月に主任学芸員、1993(平成5)年4月に専門員、94年4月に学芸課長、96年4月に主幹兼学芸課長、2001年4月に主任専門員兼学芸課長となった。02年3月、同美術館を退職し、4月に千葉大学文学部助教授に就任。西洋美術史を担当し、また大学院でイメージ学や視覚表象論の授業を受け持った。07年4月に准教授、10年4月に教授となり、研究、学生指導、大学運営に尽力した。この間、東京大学、お茶の水女子大学、武蔵野美術大学、立教大学、千葉工業大学において非常勤講師を務めた。 学芸員及び大学教員として広い分野にまたがる研究業績を残したが、学生時代から一貫して研究の中心にあったのは14-16世紀のイタリア美術史であった。一方で、群馬県立近代美術館に就職後はイタリア近現代彫刻も専門とした。 シエナ美術に関する研究は留学以来のライフワークと言え、帰国後すぐの88年に「十五世紀末シエナ美術の動向――『彫刻家』ネロッチォ・ディ・ランディの新しい帰属作品をめぐって――」(『日伊文化研究』26)を発表した。00年には『シエナ美術展』(群馬県立近代美術館ほか)を担当。さらに科学研究費を得て「15世紀シエナの彩色木彫研究―絵画表現との関連とその社会的な役割―」(2003-04年度)、「アントニオ・ペトルッチ時代のシエナ芸術研究――1500年前後の芸術奨励政策――」(2007-08年度)、「アントニオ・フェデリーギの彫刻:15世紀シエナにおけるドナテッロ芸術の受容」(2009-11年度)、および「フランチェスコ・ディ・ジョルジョの芸術―15世紀後半シエナとウルビーノの芸術交流――」(2012-14年度)の調査を行い、研究成果報告書等の成果を残した。 自らが担当した1990―91年の『ウルビーノの宮廷美術展』(群馬県立近代美術館ほか)以来、ラファエッロとその弟子ジュリオ・ロマーノにも関心を寄せてきた。08年刊行の『ラファエッロとジュリオ・ロマーノ――「署名の間」から「プシュケの間」へ』(ありな書房)は主著であり、美術史上の意義に反してわが国では十分な紹介がなされてこなかった晩年のラファエッロとその工房による作品の数々、特にヴァチカン宮スタンツェ(諸室)の壁画と、ジュリオ・ロマーノによるマントヴァのパラッツォ・テの壁画について、制作の過程を〓りつつ詳細に解説し、ラファエッロからジュリオ・ロマーノへの画風の継承と、ジュリオの個性の発展を考察した。以後もラファエッロおよびジュリオ・ロマーノに関する論文を、千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書に発表し続けた。 近現代イタリア彫刻については、卒業論文と修士論文にドナテッロを取り上げたことが示すように、もともと彫刻に強い関心があったことと、群馬県立近代美術館に奉職したことがきっかけとなった。学芸員としては88-89年の「20世紀イタリア具象彫刻展」と98年の「ヴェナンツォ・クロチェッティ展」(どちらも群馬県立近代美術館ほか)の企画に関わり、大学に移った後も、05年に学術委員を務めた「ミラノ展」(大阪市立美術館・千葉市美術館)や06年の「クロチェッティ展」(鹿児島市立美術館)等にイタリア近現代彫刻に関する論文を寄せた。 ほかの特筆すべき活動としては、まず翻訳がある。エルウィン・パノフスキーやアビ・ヴァールブルクの著作のような英語からの訳もあるが、イタリア語の美術史文献に関しては屈指の訳者であり、とりわけマリオ・プラーツの一連の著作の、訳者のひとりとして重要な役割を担った。また、温厚かつ面倒見の良い人柄を見込まれて書籍の監修者を依頼されたことも多く、『フレスコ画の身体学』(ありな書房、2012年)と、「感覚のラビュリントゥス」シリーズ(ありな書房、全6巻)を世に出した。17年の『レオナルド×ミケランジェロ展』(三菱一号館美術館・岐阜市歴史博物館)の学術協力も務め、巻頭論文を執筆。その会期中に亡くなった。 公的な活動としては、文化庁や豊田市、前橋市、千葉市、国立西洋美術館、鹿島美術財団、ポーラ美術館の各種委員を務めた。14年以降は『日伊文化研究』の編集委員でもあった。 その履歴・業績については池田忍「上村清雄先生を送る」(『千葉大学人文研究』47、2018年)に詳しい。妻は美術史家で金沢美術工芸大学教授の保井亜弓。

井関正昭

没年月日:2017/10/06

読み:いせきまさあき、 Iseki, Masaaki*  美術史家で、東京都庭園美術館名誉館長だった井関正昭は10月6日に病気のため死去した。享年89。 1928(昭和3)年1月25日、横浜市に生まれる。44年、成城中学校5年で広島県江田島市にあった海軍兵学校76期生として入学。47年に家族の疎開先であった福島経済専門学校に入学。50年、東北大学法文学部美学美術史科に入学。53年に同大学を卒業、同年神奈川県立近代美術館の学芸員として採用される。61年に同美術館を休職して、イタリアに私費留学する。翌年帰国、同美術館に復職することなく、国際文化振興会が外務省より運営を委託された新設のローマ日本文化会館(同年開館)の派遣職員に採用され、再びローマに赴任。同文化会館において日本文化を紹介する事業を担当するかたわら、64年、66年のヴェネツィア・ビエンナーレの日本の参加にともないその企画実施を担当した。72年、国際文化振興会が発展解消して特殊法人国際交流基金となり、同基金に勤務することとなり、国際交流事業を担当した。85年、ローマ日本文化会館の館長、ならびに在イタリア日本大使館公使兼務となる。在任中、ヴェネツィア、ケルンで、初めてヨーロッパで日本の近代洋画を紹介する展覧会「近代日本洋画展」を開催した。88年、同基金を定年退職して帰国。同年から94年まで、北海道立近代美術館長を務める。89年には、イタリア政府より文化勲章グランデ・ウフィッチャーレを受賞。また、1989(平成元)年から97年まで、明星大学日本文化学部生活芸術学科主任教授として勤務。97年、東京都庭園美術館の館長となる。同美術館長在職中、「フォンタネージと日本の近代美術展 志士の美術家たち」(1997年)、「ジョルジュ・モランディ展」(1998年)、「デペロの未来派芸術展」(2000年)、「カラヴァッジョ 光と影の巨匠 バロック絵画の先駆者たち」(2001年)など、イタリア美術を紹介する展覧会を企画監修した。2016年に同美術館名誉館長となった。戦後から今日まで、日本とイタリア両国の美術を中心とした文化交流に尽力した美術史家、美術評論家であった。主要著書:『画家フォンタネージ』(中央公論美術出版、1984年)『イタリアの近代美術』(小沢書店、1989年)『日本の近代美術・入門 1800-1900』(明星大学出版部、1995年)『Pittura giapponese dal 1800 al 2000』(Skira,Milano, 2001年)『未来派―イタリア・ロシア・日本』(形文社、2003年)『私が愛したイタリアの美術』(中央公論美術出版、2006年)『イタリア・わが回想』(自家出版、2008年)『点描近代美術』(生活の友社、2011年)

新井淳一

没年月日:2017/09/25

読み:あらいじゅんいち、 Arai, Jun’ichi*  テキスタイルデザイナーの新井淳一は9月25日、心筋梗塞のため死去した。享年85。 1932(昭和7)年、3月13日、群馬県山田郡境野村(現、桐生市境野町)字関根に生まれる。祖父は撚糸業、父・金三は帯地を中心に織物業を営み、母・ナカ(仲)の生家は、当時織物業を営んでいた。 38年、境野小学校に入学する。43年、11歳の時に学徒動員が開始され、鉄製力織機の供出が行われる。44年、桐生中学校(現、群馬県立桐生高等学校)に入学。47年の夏、高校の校長として赴任してきた野村吉之助の家で、初めてインドネシアなどの民族染織に触れる。同年、台風9号(通称カスリーン台風)により、境野町が甚大な被害を受け、終戦後に父が購入した織機は損傷し、戦前期に20台ほどあった鉄製の織機はすでに供出していて、付帯設備をすべて失い、大学進学の道が断たれる。 50年、伯父の工場に入る。その後、佐々木元吉、野口勇三の元に通い、オパール加工を習得する。絹、綿、ウールなどの天然繊維による制作の傍ら、金銀糸織物の開発に励み、多くの新技法を開発し、特許権および実用新案種を取得。60年、第1回化学繊維グランドフェアで、61年度春夏用として開発した「ビーズ織」で通商産業大臣賞を受賞。60年代は、群馬大学教授・石井美治の研究所に約8年通い、オパール加工、バーンアウト(炭化除去)、メルトオフ(溶解)などの技法について研究する。66年、テキスタイルプランナーとして独立。72~87年にかけては山本寛斎、三宅一生等、国内外のデザイナーのコレクションのための素材制作を行う。83年、第1回毎日ファッション大賞特別賞、84年、第8回上毛芸術文化賞(上毛新聞社)を受賞。同年、日本民藝館の館展審査委員長に就任し、2006(平成18)年までつとめる。 80年代以降は精力的に国内外への展覧会への出品し、個展を開催する。83年、初の個展「新井淳一織物展」(ギャラリー玄/東京)を開催。特に海外への出品が続き、「Junichi Arai Textile Exhibition」(1992年、テキスタイル美術館/トロント)等数々の展覧会へ出品する。2000年以降も、「新井淳一 進化する布」(2005年、群馬県立近代美術館)等が開催され、国内外での評価が高まる。12年には、これまでの活躍をまとめた『新井淳一―布・万華鏡』(森山明子著/美学出版)が刊行される。 13年、81歳の時には国内において「新井淳一の布 伝統と創生」(東京オペラシティアートギャラリー)が開催され、足利市立美術館、町立久万美術館に巡回する。 後進の育成にも尽力し、大塚テキスタイルデザイン専門学校、多摩美術大学、宝仙学園短期大学等や、国外でもロードアイランド造形学校、パーソンズ美術大学(ニューヨーク)、中国人民大学除悲鴻芸術学院(北京)、建国大学校(韓国)、東亜大学(釜山)などで講義を行っている。また、伝統工芸の分野にも尽力しており、結城紬技術アドバイザー、群馬県桐生織の技術アドバイザーも歴任。同氏は文筆家としても活動しており、「天衣無縫」(『WWD for Japan』/全148回)等が著名である。また、染織品コレクターとしても知られている。 これらの活動が認められ、英国王室芸術協会(British Royal Society of Arts)から名誉会員に推挙され、Hon.R.D.Iの称号、またHonorary Doctoratesを03年にロンドン・インスティテュート(現、ロンドン芸術大学)、11年には英国王立芸術大学院(Royal College of Art)より授与される。 作品は地元の大川美術館をはじめ、FIT(ニューヨーク州立ファッション工科大学)、クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館(ニューヨーク)、ロードアイランド造形大学、ニューヨーク近代美術館、フィラデルフィア美術館、V&A・ミュージアム(ロンドン)等多くの国内外の博物館・美術館に収蔵されている。

徳川慶朝

没年月日:2017/09/25

読み:とくがわよしとも、 Tokugawa, Yoshitomo*  写真家の徳川慶朝は9月25日、心筋梗塞のため水戸市内の病院で死去した。享年67。 1950(昭和25)年2月1日、静岡県静岡市瀬名(現、静岡市葵区)に生まれる。徳川慶喜直系の曾孫にあたり、父慶光は貴族院議員を務めた旧華族(公爵)。父方の伯母は高松宮宣仁親王妃喜久子。母和子は幕末の会津藩主松平容保の孫。 生後まもなく東京・高輪に移り同地で育つ。小学校から高校まで明星学園に学び、72年成城大学経済学部を卒業。中学校で写真部に入るなど、早くから写真に関心を持ち、大学在学中には写真学校に通って技術を修得した。大学卒業後、本田技研工業系列の広告制作会社、東京グラフィックデザイナーズに入社、カメラマンとして自動車の広告写真の撮影などに従事し、約20年同社に勤務した後、フリーランスの写真家となった。 写真を学ぶようになっていた学生時代に、自家に伝わる徳川慶喜ゆかりの幕末・明治期の写真に関心を持つ。慶喜自ら明治期に撮影した写真も多数遺されており、慶喜が使用した写真機材とともに、その整理、保存に努め、のちに『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』(朝日新聞社、1986年)を監修、出版した。同書の刊行をきっかけとして、松戸市戸定歴史館に慶喜ゆかりの史料類を寄託、幕末明治の徳川家をめぐる調査研究に協力するようになる。またフリーランスになってからは、徳川家ゆかりの建造物や遺構、また徳川慶喜家伝来の遺品や史料類の撮影などをてがけるようになった。 著書に『徳川慶喜家にようこそ』(集英社、1997年、のち文春文庫、2003年)、『徳川慶喜家の食卓』(文藝春秋社、2005年、のち文春文庫、2008年)、『徳川慶喜家カメラマン二代目』(角川書店、2007年)がある。また静岡文化芸術大学で非常勤講師を務めた。 食全般に関して造詣が深く、自ら焙煎を手がけたコーヒー豆の販売や、飲食店の経営などにも関わった。2007(平成19)年には茨城県ひたちなか市に移住し、有機農法の稲作などにもとりくんでいた。

村形明子

没年月日:2017/09/05

読み:むらかたあきこ、 Murakata, Akiko*  京都大学名誉教授、元日本フェノロサ学会長の村形明子は9月5日、膵臓がんのため京都市内の病院で死去した。享年76。 1941(昭和16)年1月21日、札幌で生まれる。64年に東京大学教養学部教養学科を卒業後、米国へ留学しスミス・カレッジを経て、ジョージ・ワシントン大学で日本美術の収集家ウィリアム・スタージス・ビゲローの書簡研究により71年にPh.Dを取得。京都国立博物館を経て、78年に京都大学教養部に着任、同大学助教授、教授として研究を進める。2004(平成16)年に京都大学を退官し名誉教授となる。 村形は、日本における本格的なアーネスト・フランシスコ・フェノロサ研究の道を拓いた一人である。とくにハーヴァード大学のホートン・ライブラリーが所蔵するフェノロサの遺稿群について、美術史家隈元謙次郎の依頼によりその整理・編集・邦訳を行い、75年1月より『三彩』等の誌上で紹介、さらに『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵フェノロサ資料Ⅰ~Ⅲ』(ミュージアム出版、1982~87年)にまとめた功績は大きい。その後も『アーネスト・F・フェノロサ文書集成―翻刻・翻訳と研究 上・下巻』(京都大学学術出版会、2000・01年)を刊行するなど、フェノロサに関する基礎研究の確立に貢献した。 また78年11月に大津市、大津市教育委員会、園城寺の主催で開催されたフェノロサ来日100年記念展および記念講演会を機に学会設立の機運が高まると、村形も世話人の一人として尽力。80年に日本フェノロサ学会が創設されると幹事として、2003年より09年まで会長として同学会の発展に寄与した。同学会誌『LOTUS』の誌名は1903年にボストンで刊行され、フェノロサも寄稿した同名の雑誌に因んで村形が提案したものである。

鬼原俊枝

没年月日:2017/09/04

読み:きはらとしえ、 Kihara, Toshie*  日本絵画史研究者の鬼原俊枝は9月4日、大腸癌のため、兵庫県神戸市の病院で死去した。享年65。 1953(昭和28)年9月2日、兵庫県に生まれる。72年兵庫県立兵庫高等学校を卒業し、72年立命館大学文学部へ入学。76年同大学を卒業し、その後、79年大阪大学文学部美学科美術史学専攻へ3年次編入学、81年同大学を卒業し、楠本賞を受賞。同年同大学院文学研究科前期課程芸術学専攻へ進学。83年から1年間ハーヴァード大学へ留学し、85年に大阪大学大学院へ修士論文「「比叡山三塔図」〓風に関する一考察」を提出し、前期課程を修了。86年から福井県立美術館学芸員として勤務し、88年同館を退職。1990(平成2)年大阪大学大学院文学研究科後期課程芸術学を単位取得退学し、93年同大学院へ博士論文「探幽様式の成立」を提出。同年よりプリンストン大学客員講師を務める。94年大阪大学で博士(文学)の学位を取得し、95年より文化庁美術工芸課文化財調査官として勤務。98年『幽微の探究 狩野探幽論』(大阪大学出版会、1998年)で第10回國華賞を受賞し、翌99年には島田賞を受賞。その後、文化庁で16年間勤め、2011年に文化庁を退職。同年より京都国立博物館列品管理室長として勤務し、14年に定年退職、その後も再雇用で同館での勤務を続け、15年3月再雇用任期満了につき退職する。 専門分野は、大阪大学へ提出した博士論文や、國華賞を受賞した『幽微の探究 狩野探幽論』に代表されるとおり、狩野探幽や江戸時代絵画史を中心としたが、文化庁での勤務以降は、文化財指定に関わった作品研究も多く、その範囲は広く絵画史全般に及んだ。とりわけ、文化庁や京都国立博物館では、数多くの国宝や重要文化財の修理を指導監督し、同庁や東京文化財研究所で長年文化財保護行政にたずさわった渡邊明義の理念を継承して、文化財の保存や修理の記録を美術史研究に積極的に取り入れた点は重要な業績である。こうした文化財修理への高い関心は、修理に対する厳しく真摯なまなざしへとつながったが、その背景には、阪神大震災の直前に文化庁へ入庁し、東日本大震災の直後に文化庁を退職するなど、自然災害から文化財を保存する必要性を如実に実感してきた経験や、高松塚古墳壁画の問題に直面してきたという経緯もあろうか。 一方、ハーヴァード大学へ一年間留学したり、プリンストン大学で客員講師を勤めた経験から、海外との交流にも意欲的で、福井県立美術館の学芸員として担当した展覧会では、アメリカのサンフランシスコ・アジア美術館から日本の〓風の里帰り展を企画したほか、文化庁の海外展に果たした功績も大きい。フリア美術館などが世界中から優れた東洋美術史研究者を選んで二年に一度表彰する島田賞の受賞も、国際的な活躍を顕著に物語る。 もちろん、国内でも「遠澤と探幽―会津藩御抱絵師加藤遠澤の芸術―」(福島県立博物館、1998年1月~3月)や、「開館記念特別展 上杉家の至宝」(米沢市上杉博物館、2001年9月~11月)、「生誕400年記念 狩野探幽展」(東京都美術館、日本経済新聞社、2002年10月~12月)、「徒然草 美術で楽しむ古典文学」(サントリー美術館、2014年6月~7月)、「国宝 鳥獣戯画と高山寺」(京都国立博物館、2014年10月~11月)などの図録に論考を寄せるなど、展覧会への関与も多い。 なお、主要な業績には、著作の『幽微の探究 狩野探幽論』のほか、「伝狩野宗秀筆「韃靼人狩猟・打毬図」〓風について」(『MUSEUM』450、1988年)、「天台宗儀礼における座の〓風」(『待兼山論叢』23、大阪大学文学部、1989年)、「長谷川等伯筆 山水図〓風」(『國華』1130、1990年)、「狩野探幽筆「学古帖」と流書手鑑」(武田恒夫先生古稀記念会編『美術史の断面』清文堂出版、1995年)、「狩野探幽の水墨画におけるふたつのヴィジョン」(『美術史』137、1995年)、「旧円満院宸殿障壁画中の探幽画と画風変革開始の時期」(『國華』1284、2002年)、「南禅寺大方丈障壁画の修理から―柳に椿図襖の図様改変について―」(『月刊文化財』476、2003年)、「平成十五年度海外展報告 オーストラリアにおける日本美術展「日本美術における四季展」―日本の四季を異文化に伝える―」(『月刊文化財』487、2004年)、「国宝出山釈〓図・雪景山水図三幅対と「道有」の鑑蔵印について」(『月刊文化財』525、2007年)、「特集 高松塚古墳レポート―石室の解体事業― 壁画の修理にあたって」(『月刊文化財』532、2008年)、「南蛮屏風と阪神大震災」(『京都国立博物館だより』174、2012年)、「彭城百川旧慈門院障壁画と雪竹図襖について」(『学叢』35、京都国立博物館、2013年)、「国宝「鳥獣人物戯画」の保存修理―文化財保存、及び美術史的観点から」(高山寺監修・京都国立博物館編『鳥獣戯画 修理から見えてきた世界―国宝 鳥獣人物戯画修理報告書―』勉誠出版、2016年)などがある。

柳澤孝彦

没年月日:2017/08/14

読み:やなぎさわたかひこ、 Yanagisawa, Takahiko*  建築家の柳澤孝彦は8月14日、前立腺がんのため死去した。享年82。 1935(昭和10)年1月1日、長野県松本市に生まれる。県立松本深志高等学校を経て、54年東京藝術大学美術学部建築科に進学し、吉田五十八、吉村順三、山本学治ら錚々たる教授陣の指導を受けた。卒業後、竹中工務店に入社、28年間一貫して設計部に籍を置き、同社を代表する建築家の一人として活躍した。86年第二国立劇場(仮称、現、新国立劇場)国際設計競技の最優秀賞を機に独立、TAK建築・都市計画研究所を設立し、大型の文化施設を中心に数多くの建築設計を手がけ、1995(平成7)年「『郡山市立美術館』及び一連の美術館・記念館の建築設計」に対して日本芸術院賞が贈られた。 柳澤の仕事はなんといっても新国立劇場(1997年)に象徴される。通商産業省東京工業試験所跡を中心とした工業地に計画された新国立劇場は、大中小の異なるタイプの劇場を総合する難解な設計条件に加え、劇場としての敷地や立地の適性の問題があり、また複雑に絡みあった法規制や多種多様な舞台関係者の存在など、設計競技の段階から建設時の困難が予想されるものであった。完成するまで12年間の紆余曲折を経ながらも、隣接する民間街区の東京オペラシティ(1999年)を含めて「劇場都市」という壮大なコンセプトでプロジェクトをまとめ上げたその手腕は、竹中工務店時代に培われた柳澤の卓越したマネージメント能力の賜物といえよう。 柳澤が手がけた建築はゼネコン出身の建築家らしく、総じて作家性を前面にださない堅実な作風を示すいっぽう、有機的かつ明快な平面計画と重層的かつ濃密な空間構成にきわめて独創的な特徴をもつ。たとえば新国立劇場では、外観は飾り気のないオーソドックスなデザインでまとめながらも、各劇場をつなぐ共通ロビーはリニアな吹抜け空間に大階段やバルコニー、トップライトなどを巧みに配置することで欧州都市の広場的な空間をつくり出し、劇場建築に求められる祝祭性を十二分に獲得している。真鶴町立中川一政美術館(1988年)、郡山市立美術館(1992年)、窪田空穂記念館(1993年)、東京都現代美術館(1994年)、上田市文化交流芸術センター・上田市立美術館(2014年)など、日本芸術院賞を受賞した美術館・記念館建築をもっとも得意としたが、竹中工務店時代の身延山久遠寺本堂(1982年)や有楽町マリオン(1984年)、独立後のひかり味噌本社屋(1997年)や軽井沢プリンスショッピングプラザ・レストラン(2004年)など民間建築の佳作も多い。 吉田五十八賞(真鶴町立中川一政美術館、1990年)、日本建築学会賞(新国立劇場、1998年)ほか建築関係の受賞多数。松本市景観審議会長を務めるなど故郷の振興にも貢献した。 著書に『柳澤孝彦の建築:平面は機能に従い、形態は平面に従い、ディテールは形態に従う』(鹿島出版会、2014年)、共著に『新国立劇場=New National Theatre Tokyo:Heart of the city』(公共建築協会、1999年)がある。

白田貞夫

没年月日:2017/08/12

読み:しろたさだお  シロタ画廊主の白田貞夫は8月12日、都内の聖路加国際病院で肺がんのため死去した。享年84。 1933(昭和8)年6月26日山形県生まれ。学業修了後、日産自動車に務める。もの書きを目指すうち、武蔵野美術大学油絵科卒業の英子夫人と知り合い、66年3月15日、中央区銀座3丁目5番15で開廊。版画は小さなスペースでも数多く扱えるため、版画を中心に扱うこととした。画廊のマークは具体のメンバーでもあった岡田博による。70年、常設展示のスペースを確保するため、銀座7丁目10番8に移転する。以後、国内外の作家が発表を行なってきた地下の空間は、版画家だけでなく、若手を含め多くの作家の寄りどころとなってきた。69年の福地靖の詩画集の刊行以来、2003(平成15)年までプロデュースした版画集は45集にのぼり、美術界に着実な軌跡を残してきた。画廊で発表をしてきた作家に、日和崎尊夫、中林忠良、司修、島州一、黒崎彰、柄沢齊、多賀新、坂東壮一、小林敬生、山中現、丹阿弥丹波子、李禹煥らがいる。特異なところでは現代美術家の加賀谷武の個展を定期的に行なっている。76年日本現代版画商組合が設立されると理事として活動、85年から91年まで同組合理事長を務め、その後も理事、名誉理事として版画界に貢献した。16年6月には作品や記録写真による「シロタ画廊50年の歩み展」が開催された。19年には生前から企画に関わってきた『李禹煥全版画1970―2019』が刊行された。画廊は白田没後、英子夫人とスタッフにより運営されている。

岩田信市

没年月日:2017/08/06

読み:いわたしんいち、 Iwata, Shin’ichi*  1960年代に前衛芸術集団「ゼロ次元」を結成し、街頭裸体パフォーマンスで話題となった画家、演出家で元劇団「スーパー一座」主宰の岩田信市は8月6日に大腸がんのため死去した。享年81。 1935(昭和10)年8月8日、名古屋市中区大須に生まれる。43年白川国民学校入学。疎開により愛知県海部郡勝幡(現、愛西市勝幡)に疎開。45年、終戦で大須に戻り、大須小学校に転入。52年旭丘高校に入学。同年、中部日本美術展奨励賞受賞。学外の左翼サークルに入り活動、戦後三大騒乱事件の一つといわれる大須事件に参加。55年同校美術課程卒業(出席日数不足のため「仮卒業」との記録もある)。60年頃、グループ「0次現」を結成。62年、第14回読売アンデパンダン展に出品、翌年も出品。63年、加藤好弘らとというコンセプトで「ゼロ次元」を結成、同年1月の公開儀式「はいつくばり行進」を皮切りに数々のパフォーマンスを行う。64年、関東から福岡までの広範な地域から反芸術パフォーマンスを行ってきた作家たちが結集した日本超芸術見本市(愛知県文化会館美術館、平和公園他)で、のちの「全裸儀式」の原型となるパフォーマンスを実施。65年、アンデパンダン・アート・フェスティバル(現代美術の祭典、通称岐阜アンパン)にてゼロ次元として河川敷に見世物小屋風テントを設営し儀式「尻蔵界(けつぞうかい)曼荼羅祭り」を行う。日本万国博覧会(大阪万博)が行われる前年69年には、秋山祐徳太子、告陰、ビタミン・アート、クロハタなどとともに反万博団体「万博破壊共闘派」を立ち上げ、京都大学講堂屋上にて全裸のパフォーマンスを行うなど社会を賑わす。70年に愛知県文化会館美術館で起こった「ゴミ作品撤去事件」を発端とする芸術裁判の支援活動を行い、「ゴミ姦団」を結成。この頃より活動の中心をゼロ次元から、ゴミ姦団、頭脳戦線等のグループに移行。73年、全国のヒッピー代表として名古屋市長選に立候補。79年、劇団スーパー一座を旗揚げ、主宰として演出を担当、2008(平成20)年の劇団解散まで数回のヨーロッパ講演、ロック歌舞伎、大須オペラ等を演出を手掛け、古典や伝統の再解釈と超克を試みた。引退後も画家として作品制作を継続した。 新作を含む回顧展としては「岩田信市的世界」(犬山・岩田洗心館、1995年、企画=三頭谷鷹史)、パブリック・コレクションに「ランニングマン」(1965年頃、名古屋市美術館蔵)、「ウォーキングマン」(1969年、愛知県美術館蔵)、「ファイティング・ビューティ(キック)」(1981年、名古屋市美術館蔵)、著述集に『現代美術終焉の予兆』(スーパー企画、1995年)がある。また60年代の反芸術パフォーマンスを体系的にまとめた研究書、黒ダライ児『肉体のアナーキズム』(グラムブックス、2010年)では、「ゼロ次元」として一章が設けられその活動が検証され、15年8月に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴとAsia Culture Center(韓国・光州)との共同事業として岩田の聞き取り調査を行った(聞き手は細谷修平、黒ダ、黒川典是)。歿後、芸術批評誌『REAR』第41号(2018年)において岩田の特集が組まれ、友人、同志、研究者、遺族といった様々な立場から追悼文が寄せられた。 60年代に肥大していったマスメディアと都市という社会制度をフィールドとして、既存の美術システムを大きく越えた過激な表現活動は、カウンターカルチャーの政治的・社会的意義を読み解く視点からも近年その活動が再評価されている。

中路融人

没年月日:2017/07/18

読み:なかじゆうじん、 Nakaji, Yujin*  日本画家の中路融人は7月18日、ホジキンリンパ腫で死去した。享年83。 1933(昭和8)年9月20日、京都府京都市に生まれる。本名、勝博。46年、京都市立第一商業学校に入学。同年、学制改革に伴い京都市立洛陽高等学校付設中学校に転入、49年に同校を卒業する。同年、京都市立美術工芸高等学校絵画科に入学。同校は同年4月に京都市日吉ヶ丘高等学校美術科となった(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校)。 52年に高等学校を卒業、デザイン会社に就職し、テキスタイルデザイナーとして勤務をはじめる。同時に、須田国太郎が主宰する独立洋画研究所でデッサンを学び、作品制作に打ち込む。54年、第10回日展に三人の漁師を描いた「浜」を出品、落選。同年から山口華楊が主宰する晨鳥社に入塾する。翌年には、「牛」を第11回日展に出品。落選であったが、2頭の牛を俯瞰した大胆な構図は、師の強い影響を感じさせる作品として知られる。 56年、第12回日展で風景画「残照」が初入選する。この作品から以後、おもに湖北の雄大な風景をテーマにした作品を発表した。同年に晨鳥社の研究会、あすなろを結成。62年には、第15回晨鳥社に「郷」(個人蔵)を出品し、京都府知事賞を受賞する。そして、同年の京展に「樹林」を出品し、京都市長賞を受賞。若手の日本画家として頭角を現す。ついに同年の第5回日展において「郷」(株式会社石長蔵)が特選・白寿賞を受賞する。63年の第6回日展からは無鑑査出品となり、「薄暮」を発表。そして、66年には、第1回日春展が開催され、中路も同展に参加した。68年の第3回日春展では、「待春」が入選、外務省買上となる。この時期までの作品は、力強く大胆な色彩による色面構成で描かれている。 73年、雅号を勝博から融人と改める。同年に新雅号の御披露目もかねた初の個展を京都大丸で開催。75年に第7回日展に「冬田」を出品し、二度目の特選となる。この作品を境に作風が大きく変化し、静謐で穏やかな風景画を描くようになる。79年には、京都〓島屋、日本橋〓島屋、滋賀県立長浜文化芸術会館において個展を開催。また、同年から日展新審査員を務める。83年には、京都府主催の個展が開催され、京都、東京、滋賀を巡回。86年には、第18回日展に「爛漫」を出品、文化庁買上となる。87年に東京と京都で個展を開催。同年に日春会運営委員に就任する。1992(平成4)年に新現代日本画家素描集『中路融人―湖北賛歌』(日本放送出版協会)を刊行。95年に第27回日展で「輝」が文部大臣賞を受賞。それに伴い文部大臣賞受賞記念中路融人素描展を東京と京都で開催する。また、同年に京都府文化功労賞を受賞した。 そして、97年に前年の日展出品作「映象」が日本芸術院賞を受賞した。同年に日展理事、晨鳥社会長に就任。98年に京都市文化功労者、99年に五個荘町の名誉町民となる。2001年に日本芸術院会員に任命。02年に日展常務理事となる。06年には、滋賀県文化賞を受賞。また、同年の第38回日展では、審査主任を担当する。10年に奈良県立万葉文化館にて「平城遷都1300年記念特別展 中路融人展」を開催。12年に文化功労者、14年に日展顧問、15年に東近江市名誉市民となる。16年には、東近江市に中路が寄贈した作品を展示する東近江市 近江商人博物館・中路融人記念館が開館した。

乾由明

没年月日:2017/07/17

読み:いぬいよしあき、 Inui, Yoshiaki*  近現代陶芸や西洋近代美術史の研究者・評論家として活躍し、京都大学・金沢美術工芸大学名誉教授を務めた乾由明は7月17日肺炎のため死去した。享年89。 1927(昭和2)年8月26日大阪市に生まれる。生家はかつて大阪市内や兵庫県・甲陽園に店舗を構えた高級料亭「はり半」で、谷崎潤一郎の「細雪」にも登場する料亭であり、美術品や古美術に囲まれて育った。51年京都大学文学部西洋近代美術史専攻卒業後、同大学院美術史専攻を修了した。前京都国立近代美術館長で美術評論家の今泉篤男のもと、63年開館した国立近代美術館京都分館(現、京都国立近代美術館)の学芸員として勤務、その後母校である京都大学の教授となる。フランスを中心とする西洋近代美術の研究・紹介に務める一方で、日本の近・現代美術について活発な評論活動を繰り広げ、現代美術批評の最前線に立つ。また、現代陶芸研究者としても活躍、「前衛」、「オブジェ」などの新しい陶芸分野に注目した。富本憲吉、楠部弥弌などの日本の陶芸家のみならず、バーナード・リーチ、ルーシー・リーやハンス・コパーなど海外の陶芸家とも親交を深めた。 1989(平成元)年第10回小山冨士夫記念賞受賞。92年には、『日本の陶磁 現代篇』(中央公論社)の責任編集者として、明治時代から現代に至る現代日本の陶芸を代表する名匠を選出。第1巻では、板谷波山、富本憲吉、北大路魯山人、楠部弥弌、加藤土師萌、六代清水六兵衛、近藤悠三を紹介した。2003年、陶芸界の巨匠重要無形文化財保持者(通称「人間国宝」)の集大成として、『人間国宝の技と美 陶芸名品集成(1) 陶器』(講談社)を平山郁夫と共に監修した。陶器編、磁器編、併せて計3巻を刊行。 兵庫陶芸美術館設立にあたり基本構想・計画策定委員を務め、05年の開館と共に初代館長に就任。古陶磁のみならず、現代陶芸家の展覧会も積極的に開催。バーナード・リーチ展や三代徳田八十吉展などを企画。 編著作に『抽象絵画』(保育社、1965年)、『近代の美術5浅井忠』(至文堂、1971年)、『世界の名画 6 モネと印象派』(中央公論社、1972年)、『日本の名画 20須田国太郎』(中央公論社、1976年)、『巨匠の名画 2 ルノワール』(学習研究社、1976年)、『日本のやきもの 現代の巨匠4 河井寛次郎』(講談社、1978年)、『現代日本陶芸全集 やきものの美 3 富本憲吉』(集英社、1980年)、『現代陶芸の系譜』(用美社、1991年)、『眼の論理 現代美術の地平から』(講談社、1991年)、『古備前を超えて 森陶岳』(東方出版、2000年)、『ルーシー・リー&ハンス・コパー 二十世紀陶芸の静かなる革新』(六耀社、2013年)他多数。

大塚英明

没年月日:2017/07/17

読み:おおつかひであき  日本大学文理学部教授の大塚英明は、7月17日に死去した。享年69。 1948(昭和23)年1月12日、千葉市に生まれる。76年3月、日本大学大学院文学研究科日本史学博士課程単位課程を修了し、同年4月より同大学文理学部史学科にて助手をつとめた。78年4月文部省に文部技官として任官し、文化庁文化財保護部美術工芸課歴史資料部門に勤務した。84年4月に同部門文化財調査官、1997(平成9)年4月に同部門主任文化財調査官に任ぜられた。この間93年から96年にかけて文化財管理指導官を併任した。2001年4月には独立行政法人文化財研究所東京文化財研究所の協力調整官に転じた。03年に文部省を退官し、日本大学文理学部教授となり、死去の前月まで教鞭を執った。 この間、文化審議会文化財分科会第一専門調査会委員(2004年~14年)、文化審議会文化財分科会委員(2015年~17年)等文化財行政や、日本生活文化史学会理事・常任理事、千葉県郷土史連絡協議会常任理事等の学会関係の委員等をつとめた。 大学院生、助手時代は、吉田松陰を主たる研究対象とし、「吉田松陰の思想系譜をめぐって」(『史叢』18、日本大学史学会、1974年)、「吉田松陰と蘭医青木研蔵ー蘭学摂取の一過程をめぐって」(『近代日本形成過程の研究』雄山閣出版、1978年)等複数の論考を発表した。 文化庁では、歴史資料部門に23年間所属し、同部門の草創期以来の文化財保護行政を長年担った。同部門は75年の文化財保護法改正により新たに誕生した部門で、歴史上重要な人物又は事象に関する遺品のうち学術的価値の高いものを対象とした。文化財保護行政上の歴史資料の概念は独特のもので、絵画・彫刻等従来の美術工芸品の分野とは質を異にし、一括資料を含む幅広い分野の文化財の調査・指定・修理・防災等に従事した。96年の文化財保護法改正では、科学技術分野を加えて近代の文化財も保護の対象となり、時代、分野ともに保護の対象が拡大した。同部門における仕事のありようは「歴史資料の指定調査と保存修理をふりかえって」(『月刊文化財』、2007年11月)に詳しい。 この間、重要文化財の指定調査の成果等を反映し、「内閣文庫保管・国絵図、郷帳一管見」(『三浦古文化』33、三浦古文化研究会、1983年)、「林靖と『寛永諸家系図伝』編纂の周辺」(『MUSEUM』508、1993年)、「『寛永諸家系図伝』編纂における延引について」(『日本歴史』559、1994年)、「万延元年遣米使節、随行医師・川崎道民の海外帰国報告―道民自筆本『航米実記』の紹介をめぐって」(『MUSEUM』546、1997年)、『羊皮紙に描かれた航海図』(至文堂、2002年)等の多分野にわたる論考を発表した。また、歴史資料部門における近代の文化財保護行政の端緒を担ったことから、「近代の歴史資料の保存・活用と課題」(『文化庁月報』346、1997年)、「日本の科学、産業遺産の保存と活用」(『産業遺産―未来につなぐ人類の技』東京文化財研究所、1999年)等、当該分野における文化財保護の基本的な考え方を述べた著述がある。 一方、文化財の管理や公開、重要文化財公開施設の建築・設備の指導にあたる文化財管理指導官をつとめた経験から「公開施設の在り方-文化財の保存と活用をめぐって-」(『設備と設計』オーム社、1995年)等がある。また、同官在任中の95年に阪神淡路大震災が発生し、被災文化財の保護、文化財防災対策の充実に携わった。 大学では、文化財学・博物館学を担当し、文化財に即した仕事を一貫して続け、日本大学文理学部資料館の設立(2006年)とその後の運営にも尽力した。没後「大塚英明先生の逝去を悼む (博物館学・文化財学特集号)」(『史叢』日本大学史学会、2018年)が刊行された。

三谷吾一

没年月日:2017/07/12

読み:みたにごいち、 Mitani, Goichi*  漆芸家の三谷吾一は7月12日、肺炎のため死去した。享年98。 1919(大正8)年2月13日、塗師であった父・忠作の五男として石川県輪島町(現、輪島市)に生まれる。本名・伍市。1930(昭和5)年、輪島男児尋常高等小学校尋常科在学中、赤十字社が募集したポスター展に応募し、パリで開催された世界展に展示される日本代表6名のうちの一人に選ばれる。三谷の家の近くには、後に重要無形文化財「沈金」保持者、いわゆる人間国宝に認定される前大峰が住んでいた。この頃帝展で特選を受賞した前が、三谷の通っていた小学校で講演を行い、その話に感銘を受けたことから三谷は沈金作家を志すようになる。33年、同校高等科卒業後、前大峰の兄弟子であった沈金師の蕨舞洲の下で5年間修行を積む。38年、年季明けの後、さらに2年間前大峰に師事し、41年に独立。翌42年、「沈金漆筥」で第5回新文展に初入選。戦時中の徴用のため、輪島航空工業株式会社に部品検査官として勤務しながらの制作であった。45年、第1回現代美術展に出品し、以後2014年まで毎年出品を重ねる。49年、デンマーク船エルセメルクス号など豪華客船の壁面装飾を制作。戦後は、自身で「スランプ状態」と語るように連続して展覧会に落選するなど、長い試行錯誤の時期を乗り越え、62年に第1回日本現代工芸美術展に初入選。65年、沈金パネル「飛翔」で第4回日本現代工芸美術展で現代工芸大賞・読売新聞社賞を受賞。66年、第9回日展で「集」が特選北斗賞受賞。60年代半ばの作品は、複数の色漆の塗り重ねと沈金の線彫り・点彫りの技法を高度に組み合わせたもので、沈金の技を駆使した抽象的な自然の風景を特徴とした。70年、第2回改組日展で特選北斗賞を受賞。78年、石川県美術文化協会理事となる。83年、日本現代工芸美術家協会理事となる。84年、北國文化賞を受賞。87年、石川県輪島漆芸技術研修所講師となる。88年、第44回日本芸術院賞を受賞。1989(平成元)年、日展理事となる。90年、紺綬褒章受章(以降、5回にわたって受章)。91年、石川県文化功労賞を受賞。93年、勲四等旭日小綬章受章。94年、中日文化賞を受賞。99年、日本現代工芸美術家協会顧問、輪島塗技術保存会会長、日展参事となる。2002年、日本芸術院会員、03年、日展顧問、輪島市名誉市民となる。04年、第60回現代美術展に出品し、第1回展より60回連続出品を果たす。 三谷はとりわけパウル・クレーの抽象的かつ詩情豊かな色彩に影響を受け、色粉の研究に基づく新しい沈金表現を確立したことで高く評価された。黒、朱などの限られた色数の漆に顔料や金銀粉を組み合わせた従来の伝統的な沈金は、色の多彩さという点においては他の漆芸技法に比べて制約が大きい。三谷は繊細な諧調表現を可能にするプラチナ箔、アルミの粉に着色を施したエルジー粉、酸化チタンや酸化鉄を用いて雲母を着色したパール粉など、ややもすると人工的で俗っぽい印象を与えかねない新素材の金属粉を、沈金の絵画的表現に大胆に取り入れた。十数年の研究のうちに、金属粉同士の組み合わせや、線彫りと点彫りを重ねる工程を工夫することで、豊かな中間色による明るく柔らかな表現を行うことが可能となり、油彩とも版画ともまったく異なる、沈金ならではの独自の世界を展開した。そのモチーフには、幼い頃の記憶にある身近な動植物や草花、貝、魚、鳥などが一貫して多く用いられるが、80年代の作品を中心に見られる黒漆による地と着色金属粉による発光するような明るい色彩のコントラストを強調した幻想的な作風は、90年代半ば以降はさらに一つの色面の中でも複雑な色の重なりが彫りによって表され、2000年代後半には切り箔や堆漆板による効果を組み合わせるなど、常に沈金の可能性を拡げ続けた。15年、文化功労者顕彰。没後の17年末、彫刻家である長男の三谷慎の編集により『GOICHI MITANI-三谷吾一作品集』が刊行される。

辻茂

没年月日:2017/07/02

読み:つじしげる、 Tsuji, Shigeru*  東京藝術大学名誉教授の辻茂は、7月2日、肺炎のため、イタリア、オルヴィエートの病院で死去した。享年87。 1930(昭和5)年3月29日、旧満州国南満州大石永昌街に生まれ、福井県敦賀市で育つ。53年3月に東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。4月に同大学美術学部助手として採用される。55年4月に日伊協会事務嘱託(西洋美術史研究)となり、56年9月にイタリア政府給費留学生としてローマ大学文学部美術史学科に留学。57年10月からはヴェネツィア中亜極東学院で日本語講師を務める。60年4月に東京藝術大学美術学部非常勤講師を委嘱され、64年9月には同大学音楽学部講師として採用される。68年3月に同大学美術学部講師に配置換えされ、69年4月に同学部助教授、78年4月に教授に昇任。87年4月から1991(平成3)年4月まで同大学附属図書館長も務め、85年4月以降は同大学評議員でもあった。97年3月に同大学を定年退職、同年6月に名誉教授の称号を授与された。 大学において教育・研究・大学運営に尽力する一方で、文部行政関連委員を歴任し、70年4月に教科用図書検定調査審議会調査員、86年2月に学術審議会専門委員(科学研究費分科会)、同年7月から2期続けて大学設置審議会専門委員(大学設置分科会)、及び87年9月から4期続けて大学設置・学校法人審議会専門委員(大学設置分科会)に任命された。また、日伊協会の常務理事、『日伊文化研究』編集委員長などを務めた。 研究の業績は多岐にわたるが、特にイタリアのゴシックおよびルネサンス美術史の分野において、国際的に評価の高い研究成果を数多く発表した。とりわけ顕著な業績としては、ジョルジョーネ研究、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の初期壁画研究、技法史研究、そしてその一環としての遠近法に関する研究を挙げることができる。 ジョルジョーネ研究に関しては、76年に『詩想の画家ジョルジョーネ』(新潮社)を刊行した。この本では主題に関して諸説紛糾する「嵐」を中心に据え、先行研究と同時代史料を検証しつつ、当時のヴェネツィアの文化状況、とりわけプロットよりも情景描写を重視する同時代のヴェネツィアの文学との関連を考察することで、独自の結論を提出した。また、古文書に記された「夜の絵」に関する章は、71年に発表した論文を土台としたものであり、「キリスト降誕図」とする従来の研究に対して、夜景図とする解釈を打ち出した。研究の成果は79年にイタリア、カステルフランコ・ヴェネトで開催された生誕五百年記念ジョルジョーネ国際学会においても、イタリア語で発表された。 アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の壁画研究に関しては、日本人の美術史・建築史研究者および画家によるチームを組織して聖堂下堂壁画の現地調査を行い、78年に『アッシージのサン・フランチェスコ聖堂――建立初期の芸術』(共著、岩波書店)を出版した。サン・フランチェスコ聖堂の壁画のうち、下堂にある13世紀のそれはほとんど調査・研究のなされていなかったものであり、撮影・測量・模写によるこの基礎研究は、画期的なものとなった。 技法史に関しては、論文ではなく彫刻の制作によって学部を卒業したことが示す通り、もともと制作に大きな関心を有したことが根底にある。美術史研究においても作品制作に根差した作品理解や、制作プロセスを重視する姿勢は、おのずと技法の探求へと自らを導いた。フレスコ画の技法研究はアッシジの壁画調査においても行われたが、その後も研究を深め、成果を内外で発表した。論文を発表する一方で、ヴァザーリの『芸術家列伝』中の技法論を中心とする箇所を翻訳し、それらは1980年に『ヴァザーリの芸術論』(共訳、平凡社)に収録された。また、チームを組織してチェンニーノ・チェンニーニの古典的な技法書『絵画術の書』の翻訳作業を地道に進め、1991年に岩波書店より刊行したことは、特筆すべき業績である。 研究の興味が技法史研究から遠近法研究へと向かうのは自然の流れであった。特に遠近法の発明者ブルネッレスキの遠近法研究を深め、図学的な作図方法に基づいて発明がなされたという従来の見解に対して、史料調査と実験にもとづき、カメラのような「暗箱」を用いて作図したという斬新な説を提出した。研究の成果はイギリスの著名な学術誌『Art History』(vol.13,no.3、1990年)誌上に発表され、また遠近法研究の集大成として『遠近法の誕生――ルネサンスの芸術家と科学』(朝日新聞社、1995年)が出版された。翌96年には、ほとんど数学の領域に踏み込んで中世末期からルネサンスにかけての遠近法理論の歴史を解説した、『遠近法の発見』(現代企画室、1996年)を出版した。 大学退官後はイタリア中部の町オルヴィエート近郊に移住し、ローマやフィレンツェに通いつつ研究を続けた。2011年秋に瑞宝中綬章を受章した。

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