本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年9月21日

 九月二十一日 月 朝八時頃ニ伊藤源が来中丸が来和田が来又岡田が来合田が来そうして合田 岡田の三人で昼めしを食た 午後ニ為つて佐野が来久米が来て白馬会展覧会ニ付ての用をした 関如来と云読売の記者が来て其人ニ我会ニ付ての委しい事を話した 佐野 合田 菊地 佐久間と赤阪の米福でめしを食ひ新宿迄散歩した 今夜ハ十五夜で非常ニいゝ月夜だ

1896(明治29) 年9月22日

 九月二十二日 火 朝磯ケ谷が来又小林が来た 手本も今日はやつて来たから仕事をした 昼めし後も二時頃から少しかいてかへした 夕の六時頃ニ合田が来た 母上と三人で日本橋の菊住ニ飯食ひニ行た 八時頃ニ久米と吉岡がやつて来九時頃ニ佐久間文吾が来た 母上ハ帰宅されオレ等ハ十二時頃まで遊で月ハよしぶらぶら歩て内へ帰つた

1896(明治29) 年9月23日

 九月二十三日 水 朝学校ニ行た 白馬会の展覧会の願一件が一寸やかましく為つて絵画協会の岡本氏と一緒ニ博物館などニも行た 精養軒で昼めしを食ひ直ニ久米の処ニ走り又合田の工場で久米 合田 佐野 小代等と相談して願の事を極め小林萬吾ニ頼で岡本迄返事した それから五人連で溜池のすし屋ニ這入未だ足らぬと云次第で京橋の松家ニ行て食た 芸者一人を相手ニ十二時過までお庭の木が十本だの頭と手をかくして足だせなどした

1896(明治29) 年9月24日

 九月二十四日 木 堀江松華君が京都からやつて来た 昼めし後ニ菊地が来てそれから一緒ニ出てオレハ橋口家へ行き又清秀の家ニ立寄り四時過ニ内へ帰た それから小督の画ニ手をつけ五時半頃ニ合田が来たので一緒ニめしを食ひぶらぶら出かけて山王山ニ登り Toyo を呼で話の相手ニした 又おそく為つてから例の Riz が小さな手下を一人連て来た 十二時近く為つて帰る

1896(明治29) 年9月25日

 九月二十五日 金 朝学校ニ出 昼めしハ精養軒で藤島の御馳走ニ為る 帰りがけニ藤島の下宿ニ寄り面白い水絵を沢山見一時間程遊で帰る 五時前迄小督の画をかきそれから合田の処ニ行た 菊地ニも出逢つた 三人連でオレの今度の手本の内ニ雇賃を払ひニ行 菊地ニ別れて合田と二人ニ為りバンブウ的家でめしを食ひ十二時過までゆつくりして帰る かなり甘く出来上つた nom de plus dans mes souvenirs.

1896(明治29) 年9月26日

 九月二十六日 土 終日内ニ居て勉強した 朝吉岡が一寸て今夜万安で堀江君へ御馳走するから来ないかと云ので夕方から出かけた 丁度出る時ニ佐野が来て白馬連が今夜集る事を知らした 万安に八時頃まで居てそれから連中の処ニかけつけた 今夜の集合ハ山王山の楠本だ 岩村 小代 佐野 久米 合田等

1896(明治29) 年9月27日

 九月二十七日 日 美術学校の生徒平子某が八時半頃ニ来 それから長原孝太郎 比留間賢八 菊地 吉岡 堀江等が来た 堀江 吉岡の二人と東京倶楽部で昼めしを喰ひ三時頃まで話した 帰りがけニ磯谷ニ寄つて縁の催促をした 内へ帰つて居た処ニ Papa が見へたから家を建て直す事の話をした 合田が来て夕めしを Maman と合田とオレと三人で食つた 食後合田と散歩ニ出かけ赤阪をぶら付た末山王山ニのぼり十二時頃迄話した 帰り途ニ面を知て居る芸姐二人ニ出逢た

1896(明治29) 年9月29日

 九月二十九日 火 朝八時ニ久米が来 展覧会の話をしそれから学校ニ出た 昼めしハ合田 藤島と一緒ニ食た 食後会場ニ行き和田なんかと皆で布張りの下知などして夕方近く為りかゝつた 松阪屋ニ又布の注文ニ行き藤島ニ別れて合 和の二人と三人連で鉄道馬車で銀座まで来て合田の親類の内ニ一寸立寄り遂ニ紅葉の出見世で晩めし 地蔵の縁日の植木を冷かし又箱館屋で水をのみぼつぼつ帰つた

1896(明治29) 年9月30日

 九月三十日 水 雨 北蓮蔵が一寸来伊藤が建築の事で来て昼めしを食て帰る 三時半頃ニ久米が来一緒ニ出懸く 今日ハ白馬会員の寄合を芝浦の大野屋でやらかす 総勢二十人計で大ニ賑かだつた 内へ帰つたのハ二時に近かつた

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