本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





堀文子

没年月日:2019/02/05

読み:ほりふみこ  伝統に縛られない日本画を目指して戦前から活躍し、晩年まで旺盛な創作活動を続けた日本画家で元多摩美術大学教授の堀文子は2月5日、心不全のため神奈川県平塚市の病院で死去した。享年100。 1918(大正7)年7月2日、歴史学者の堀竹雄の三女として東京都麹町区平河町(現、千代田区平河町)に生まれる。少女時代は科学者に憧れるも、画家を志すようになり1936(昭和11)年女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学、日本画を専攻。在学中の39年、私淑していた福田豊四郎が組織した新美術人協会の第2回展に「原始祭」を出品し初入選。翌年女子美術専門学校を卒業、新美術人協会会員となる。福田豊四郎を介して柴田安子と知己となり、その卓越した才能に刺激を受けながら、日本画の因襲的な様式を脱して、自然の形象を幾何学的に捉えた力強い造形の作品を発表。また40年から約二年間、東京帝国大学(現、東京大学)農学部作物学研究室で農作物を観察し記録する職を得、微細に植物を観察し緻密にスケッチを行なう経験から徹底した観察眼を養う。戦後、46年に外交官の箕輪三郎と結婚。48年に新しい日本画の創造を標榜して発足した創造美術の第1回展から出品、「廃墟」「朝」「収穫の風景」「稲束の群れ」が奨励賞、続いて翌年の第2回展でも「八丈島風景A」「八丈島風景B」が奨励賞を受賞、50年に会員となる。51年創造美術が新制作協会日本画部となり、会員として参加。その年の新制作展に出品した「山と池」により、翌52年、優れた女流日本画家を対象とする上村松園賞を受賞する。新制作展でも力強い線と色彩で画面を構成した作品を発表。60年に夫を亡くし、傷心の状況から抜け出すべく61年から62年にかけてエジプト、ギリシャ、フランス、アメリカ、メキシコを歴訪。帰国後はメキシコでの様々な印象をデカルコマニーの手法を用いて作品化し、個展や新制作展で発表する。67年、都会を離れて生きることを決意して神奈川県大磯に転居すると、それまでの強い造形や色彩構成に対する意識は後退し、日本の四季や風景を繊細な筆づかいと色調で描くようになる。一方で1950年代から70年代にかけて、絵本や挿絵の仕事を精力的に手がけた。56年に創刊された『こどものとも』(福音館書店)で「ビップとちょうちょう」を担当。69年には前年に手がけた絵本『き』(谷川俊太郎詩、至光社)で第16回サンケイ児童出版文化賞を受賞。72年第9回ボローニャ国際絵本原画展で絵本『くるみわりにんぎょう』(学習研究社)がグラフィック賞を受賞。絵本作家としても人気を博すが、日本画の制作に支障をきたすことを危惧し、70年代以降は絵本制作から離れることとなる。74年、多摩美術大学教授となる。同年、創画会結成に会員として参加(1999年退会)。79年、厳しい自然の中での暮らしを志向して長野県北佐久郡中軽井沢にアトリエを建て、大磯と行き来する生活を始める。また87年よりイタリアの古都アレッツォ郊外にアトリエを構え、1992(平成4)年まで日本とイタリアを往復して制作。95年、植物学者の宮脇昭に同行してアマゾンの熱帯雨林、メキシコのタスコ、マヤ遺跡を訪ねる。80歳を過ぎて幻の高山植物ブルーポピーをたずねヒマラヤ山麓を取材。99年よりほぼ毎年、銀座の画廊ナカジマアートで「現在(ルビ:いま)」と題した新作展を開催するようになる。2001年に解離性動脈瘤で倒れるも奇跡的に回復し、その後は顕微鏡を用い、プランクトンやミジンコ等のミクロな世界に生命の美しさを見出した作品を発表。2004年、生命科学者の柳澤桂子が般若心経を現代語にした画文集『生きて死ぬ智慧』(小学館)で作画を担当、同書は約55万部のベストセラーとなる。また同年より雑誌『サライ』(小学館)に絵と文を連載、身近なモティーフを平明な筆づかいで描き、その時々の心境や思いを綴った連載は反響を呼び、その名を一層世に知らしめた。14年、堀が原画(2001年作)を描いた陶板壁画「ユートピア」が福島空港に設置。「群れない、慣れない、頼らない」を信条とする、自由で個性的な生き方は多くの人に愛された。90歳を過ぎてから美術館での個展が相次ぎ、18年までナカジマアートでの個展も継続して開催、名もなきクモや雑草の生きる姿にひかれて制作した作品を発表していた。

村松秀太郎

没年月日:2018/11/21

読み:むらまつひでたろう  日本画家で元創画会会員の村松秀太郎は11月21日に死去した。享年83。 1935(昭和10)年1月5日、静岡県清水市(現、静岡市清水区)の材木商の家に11人兄弟の末っ子として生まれる。横山大観の「夜桜」に感銘を受けて日本画の世界を志し、56年東京藝術大学に入学、61年同大学美術学部を卒業し、同大学専攻科に入学する。この年、卒業制作で60年の安保闘争に取材した裸体群像「六月」が再興第46回日本美術院展に入選、また「人体A」が第25回新制作協会展に入選し、以後同展に毎年出品する。63年東京藝術大学日本画専攻科修了。63、68、71年に新制作展新作家賞、63、64、73、74年春季展賞受賞。新制作展に引き続いて創画展に出品し、76年春季展賞および第3回展の創画会賞、77年春季展賞を得て、翌78年創画会会員となる。一方で73年に市川保道、大山鎮、滝沢具幸、戸田康一、松本俊喬とグループ展メガロパを結成、78年までに5回の展覧会を開催した。人間群像を大画面に繰り広げ、生と死、男女の業といった根源的なテーマに取り組んだ村松は、油彩画のような重厚なタッチやマチエールの作風でありながら、箔押しの技術を導入し、カオスを感じさせる大胆な表現のうちに日本画のリアリティを追求した。また64年にカンボジアのアンコールワットを訪ねて以来、世界各地へ精力的にスケッチ旅行に出かけ、とりわけアンコールワットやインドのカジュラーホーで出会った官能的な人体表現は、性愛を主題とした制作に大きな影響を与えている。81年には山形県金山町役場大壁画「団結、力、調和」、83年清水市新市庁舎陶板大壁画「海の子讃歌」、87年立教高等学校図書館陶板壁画「騎馬民族説」といった公共施設の壁画を制作。90年代には中国の桂林や黄山に取材した山水画を手がけ、個展で発表。また1995(平成7)年9月から1年余にわたり『日本経済新聞』に連載された、渡辺淳一による小説「失楽園」の挿絵を担当し、97年『失楽園』挿絵石版画集を刊行。この間、96年に茨城県近代美術館で開催の「交感する磁場―6つの個展」でエネルギッシュに活躍する作家の一人として作品8点が展示される。98年には日本橋高島屋にて新旧の大作を交えた自選展を開催。同年から2002年にかけて岡村桂三郎、斉藤典彦といった世代の異なる作家とともにMETA展を開催、全5回の展覧会に毎回出品する。99年東京芝の増上寺中広間の襖絵「双龍と天女」および天井画「牡丹」を完成させる。2006年美術年鑑社より『村松秀太郎画集 愛と生の讃歌』を刊行。07年創画会を退会。09年、14年に市川市芳澤ガーデンギャラリーで「村松秀太郎展」を開催。75~81年多摩美術大学講師、88年筑波大学助教授、92~98年同大学教授、2000~04年千葉商大政策情報学部講師、00~08年大阪芸術大学教授を務めた。

岩倉壽

没年月日:2018/10/11

読み:いわくらひさし  日本画家で日本芸術院会員、日展顧問、京都市立芸術大学名誉教授の岩倉壽は10月11日、敗血症性ショックのため死去した。享年82。 1936(昭和11)年6月30日、香川県三豊郡山本町(現、三豊市山本町)に生まれる。旧姓門脇壽。55年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)美術学部日本画科に進み、在学中の58年、第1回新日展に「芭蕉」が初入選する。59年同大学美術学部日本画科を卒業。同年晨鳥社に入塾して山口華楊に師事。61年京都市立美術大学美術学部日本画科専攻科修了。63年京都市立美術大学日本画科助手となる。同年の第15回京展で「里」が京都市長賞を受賞、以後71年まで同展に出品を続ける。この間、70年に京都市立芸術大学の講師となる。72年第4回改組日展で「柳図」、76年第8回改組日展で「山里」が特選を受賞。この間、73年にフレスコ壁画の日本画材による摸写研究のためイタリアへ出張、トンマーゾ・ダ・モデナの「聖オルソラ物語」連作(トレヴィーゾ市立美術館蔵)等を摸写。75年に京都市立芸術大学助教授となる。77年京都市芸術新人賞を受賞。82年日展会員となり、88年第20回改組日展で「沼」により日展会員賞、1990(平成2)年第22回改組日展では「晩夏」が内閣総理大臣賞を受賞。この間、87年に京都市立芸術大学教授となる。96年第9回京都美術文化賞、98年京都府文化賞功労賞を受賞。2002年に京都市立芸術大学を定年退官し、同大学名誉教授となる。03年「南の窓」(第34回改組日展出品)により日本芸術院賞受賞。同年日展理事に就任。04年京都日本画家協会理事長となる。同年京都市文化功労者として表彰。06年日本芸術院会員となる。07年日展常務理事に就任。17年京都府文化賞特別功労賞受賞。風景や花鳥を対象として、中間色を主とする微妙な色調で表現。微細な筆触により創出された画面は澄明な精神性を宿し、確固たる存在感を放つ。京都画壇日本画秀作展には85年第1回展より毎年招待出品。他に79、83年昭和世代日本画展、97、98、01年日本秀作美術展出品。個展としては09年高島屋美術部創設百年記念「岩倉壽展」、10年笠岡市立竹喬美術館「岩倉壽」、11年京都・ギャラリー鉄斎堂「岩倉壽・エスキース展」、15年京都府立堂本印象美術館「京都現代作家展Vol.5 岩倉壽 エスキースと日本画」が開催されている。また11年には笠岡市立竹喬美術館館長の上薗四郎の監修により作品集が刊行された。

川﨑春彦

没年月日:2018/10/02

読み:かわさきはるひこ  日本画家で日展顧問の川﨑春彦は10月2日、老衰のため死去した。享年89。 1929(昭和4)年3月17日、東京都杉並区阿佐ヶ谷において、日本画家の父川﨑小虎と母清子の間に、5人兄弟の末子として生まれる。曾祖父は明治時代の大家として知られる川﨑千虎。また4歳上の兄鈴彦は日本画家で、長姉澄子は40年、春彦11歳の折に東山魁夷に嫁している。41年3月に東京府豊多摩郡杉並第一尋常小学校(現、杉並区立杉並第一小学校)を卒業、4月には日本大学第二中学校に入学する。同年12月には太平洋戦争がはじまり、道路工事や立川飛行機工場での作業に従事。44年12月には一家とともに山梨県中臣摩郡落合村へ疎開した。45年3月に日本大学第二中学校を卒業すると東京美術学校(現、東京藝術大学)予科へ進学。食糧難や社会情勢への不安などから、学校へはたまに行く程度であったといい、終戦後も疎開先に留まり、父小虎や兄鈴彦、義兄の東山魁夷らと山梨の山野を写生して歩き、絵を描く喜びを覚えたという。46年4月東京美術学校日本画科に入学。48年7月には父とともに東京へ戻り、50年3月、東京藝術大学を卒業した。同年4月第10回日本画院展に「山の湖」「十一月の頃」が初入選、10月には自宅近くに取材した「阿佐ヶ谷風景」が第6回日展で初入選を果たした。日本画院展ではその後、第11回展(1951年)で奨励賞、第12回展(1952年)で日本画院賞第一席、第13回展(1953年)で魚菜園賞、第14回展(1954年)で友の会賞、第15回展(1955年)でG氏賞を受賞し、第16回展(1956年)では日本画院賞受賞とともに、同人に推挙されている。51年3月には東京美術学校日本画科第60回卒業生10名による研究発表会「縁日会」の結成に参加、同年の第1回展から54年の第4回展まで毎年出品する。また同年6月には小虎塾の有志が研究会「森々会」を結成、その第1回展へ「四月の頃」「森」「高原」「丘」を出品した。同会へはその後も、56年まで毎年出品している。この頃から川﨑は全国の山や森林を写生して回るようになった。57年3月17日上田陽子と結婚。59年12月には長女麻子が誕生した。61年4月、兄鈴彦との二人展を文藝春秋画廊で開催。同年6月には栃木県会館で「川﨑春彦日本画展」を開く。さらにこの年の第4回新日展では、丹沢山麓でスケッチした、台風前の強風に揺れ動く森のようすに着想を得た「風の森」で特選・白寿賞を受賞した。この頃の作風は大量の写生をもとにした写実的なもので、ごまかしがきかないと自ら語る枯れ木をモチーフにした作品をしばしば手掛けている。62年には第5回新日展に「冬愁」が入選、同作は翌63年2月の第4回みづゑ賞選抜展に招待出品された。また63年には日展無鑑査となり、64年にはインドネシアに取材した「孤島」で再び特選・白寿賞を受賞、65年からは出品委嘱となる。「孤島」は暗く荒れた海と低く垂れこめた雲で構成された作品で、これ以降、川﨑は風や雲を中心テーマとして制作をするようになっていく。69年6月「空をテーマに―川﨑春彦近作展」(フジ・アート・ギャラリー)を開催。73年には日展会員となる。74年11月には「風をテーマに―川﨑春彦展」を日本橋・髙島屋にて開催。同展はさまざまな風の姿を描き分けようと、日本や外国で出会った風のスケッチをもとにした作品で構成された。76年10月の改組第8回日展には、雲間から射す光に照らされた富士を描いた「燿く」を出品。この頃より川﨑は富士山を描きはじめるが、写生だけでは絶対に描けないと、心で見た富士の姿を描き出していった。78年5月、横綱昇進した若乃花(二代)の化粧まわしをデザイン。80年5月には日展評議員となる。83年10月の改組第15回日展では英国に取材した「野」で文部大臣賞受賞。87年の改組第19回日展には富士山を背に勇ましい姿を見せる龍を描いた「天駆ける」を出品。翌年にかけて龍を描いた作品を複数制作する。これ以降、それまで自然の厳しさを表現してきた川﨑の作風が、1990(平成2)年の改組第22回日展へ出品された「天」のように、自然の優しさや美しさを感じさせるものへと変化していった。90年には日本相撲協会より横綱審議委員会委員を委嘱され(2003年まで)、95年に貴乃花が新横綱となった際には、明治神宮での奉納土俵入りに出席。その化粧まわし「日月赤富士」をデザインした。99年に若乃花(三代)が横綱昇進した折には、下保昭とともに化粧まわしのデザインを行い、2000年9月の断髪式には3番目にはさみを入れた。04年改組第36回日展に「朝明けの湖」を出品、翌05年6月同作に対して、恩賜賞・日本芸術院賞が贈られた。同年日展理事となり、06年12月には日本芸術院会員となった。07年には日展常務理事に、09年には同顧問となる。18年5月旭日中綬章受章。没後の10月27日には従四位に叙された。 長女の川﨑麻児も日本画家として活躍している。

下保昭

没年月日:2018/08/07

読み:かほあきら  中国や日本の自然を題材にした幽玄な水墨画で知られる日本画家の下保昭は8月7日、肺がんのため京都市の病院で死去した。享年91。 1927(昭和2)年3月3日、富山県東砺波郡出町神島(現、砺波市神島)の裕福な農家に生まれる。絵心があり旅絵師とも交流があった祖父の影響で画家を志す。43年、44年と京都絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)を受験、学科と実技は合格するも、正科であった軍事教練の成績が悪かったため不合格となる。44年隣町にある呉羽航空に徴用。45年の終戦を機に京都と富山を頻繁に行き来し、家人の知り合いであった石川県松任出身の日本画家、安嶋雨晶を訪ねる。46年第1回富山県展に出品した「白木蓮」が最高賞の富山市長賞を受賞し、これを機に画家として身を立てることを改めて決意。翌年の第2回展に出品した「かぼちゃ」でも市長賞、その後第4回展、5回展、6回展で第二賞、7回展で第一賞、53年の第8回展に出品した「河岸」で三度目の富山市長賞を受賞。この間48年に京都へ出て下宿するようになり、第4回京都市美術展に「雪どけ」が入選するが、同年の第4回日展と翌年の第5回展に出品した「斜陽」は落選。この時期、京都市内の博物館や美術館へ行き池大雅や浦上玉堂、富岡鉄斎等の作品に接する。49年安嶋雨晶の紹介で西山翠嶂の画塾青甲社に入る。画塾で開かれる月一回の研究会に出席する傍ら、大阪釜ヶ崎のドヤ街や横浜、長崎、鹿児島等の港町を転々とし、終戦後の貧民街や場末の風景をスケッチする。50年第6回日展に「港が見える」が初入選、イギリスの画家ベン・ニコルソンの感化による構築的な作風により、以後入選を重ねる。54年第10回日展「裏街」、57年第13回日展「火口原」がともに特選・白寿賞を受賞、61年第4回新日展「沼」で菊華賞を受賞。翌年日展審査員をつとめ会員となった。この頃より大自然と対峙し、そのエネルギーを孕んだ心象風景を描くようになる。62年に日本橋高島屋で初個展を開催。67年第10回新日展で「遙」が文部大臣賞を受賞し、69年には日展評議員となる。この間、63年第7回日本国際美術展、64年第6回現代日本美術展に招待出品。街並みを描いた初期の構築的な作品からモノトーンの風景表現を経て、水墨を基調とした幽玄の画趣深い山水画へと移行し、現代の水墨表現の可能性を追究していく。81年より何必館・京都現代美術館において度々個展発表を行なうようになり、82年、前年の「近江八景」連作(個展、何必館)により第14回日本芸術大賞を受賞。また同年第1回美術文化振興協会賞を受賞。83年中国の壮大な自然に触発された「水墨桂林」連作、翌年には「水墨黄山」(ともに個展、何必館)を発表し、85年新鮮な水墨画の開拓を試み、力と生彩に富む独自の表現をつくり上げたとして芸術選奨文部大臣賞を受賞した。85年画集『中国水墨山水―江・黄山』(新潮社)が刊行、また東京・大阪(〓島屋)、京都(何必館)で「中国山水・下保昭」展が開催された。87年富山県立近代美術館で回顧展を開催。88年画業に専念するため日展を退会、無所属となる。1989(平成元)年京都府文化賞功労賞を受賞。90年には前年の何必館個展で発表した「冰雪黄山」の連作に対して第3回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。91年京都市文化功労者となる。92年笠岡市立竹喬美術館で「下保昭1981―1991 水墨画の可能性を求めて」展開催。93年に作品100点が何必館・京都現代美術館の梶川芳友館長より富山県へ寄贈され、99年に開館した富山県水墨美術館に常設展示「下保昭作品室」が設置、同館では2000年、03年、10年にその画業を紹介する展覧会を開催している。2000年、大津市本堅田にある海門山萬月寺浮御堂に八面の襖絵「紫気東來」を奉納。01年茨城県近代美術館で「時代を超える日本画 山水新世紀―下保昭・色彩七変化―川﨑春彦」展が開催。同年ビジョン企画出版社より画集『下保昭』が刊行。02年京都府文化賞特別功労賞を受賞。03年、北京の国立中国美術館にて「日中平和友好条約締結25周年記念 下保昭画展」が中国文部省の主催で開催される。04年旭日小綬章を受章。岳父は日本画家の小野竹喬。

北野治男

没年月日:2018/07/29

読み:きたのはるお  日本画家で日展理事の北野治男は7月29日、転移性肝がんのため死去した。享年71。 1946(昭和21)年12月5日、大阪府に生まれる。70年京都教育大学特修美術科卒業、71年同専攻科修了。同大学で西山英雄に学び、在学中の67年第10回日展に「フラミンゴ」が初入選、以後入選を重ね、73年改組第5回日展「赤い月」、翌74年「森の中」が連続して特選、同年日春展「幻映」で奨励賞を受賞。この間70年に京都の若手日本画家によるグループである真魚(MAO)を結成、同会の中心的存在として活躍。鳥をモティーフとし、71年に初めて北海道西別の原野を訪れ、大自然に生きるカラスの群れを見て衝撃を受けて以来、北海道の原野に題材を求める。カラスをメインモティーフとした夢幻的な作風から、写実を基調とした表現に変化しながらも、大自然の神秘、生命に対する畏敬の念と共感に根ざした作品を描き続けた。76年第1回京都市芸術新人賞受賞。77年京都・朝日画廊で初個展開催。84年日展会員となる。80年代よりアメリカ南部を度々訪れ、とくにテネシーの風景を描くようになる。2004(平成16)年「道」で第36回日展会員賞受賞。05年日展評議員となる。10年「樹」で第42回日展内閣総理大臣賞を受賞。13年には京都府立堂本印象美術館で「テネシーへの想い 北野治男素描展」が開催される。13年日展理事となる。16年第34回京都府文化賞功労賞を受賞。17年京都市文化功労者として表彰された。

中路融人

没年月日:2017/07/18

読み:なかじゆうじん  日本画家の中路融人は7月18日、ホジキンリンパ腫で死去した。享年83。 1933(昭和8)年9月20日、京都府京都市に生まれる。本名、勝博。46年、京都市立第一商業学校に入学。同年、学制改革に伴い京都市立洛陽高等学校付設中学校に転入、49年に同校を卒業する。同年、京都市立美術工芸高等学校絵画科に入学。同校は同年4月に京都市日吉ヶ丘高等学校美術科となった(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校)。 52年に高等学校を卒業、デザイン会社に就職し、テキスタイルデザイナーとして勤務をはじめる。同時に、須田国太郎が主宰する独立洋画研究所でデッサンを学び、作品制作に打ち込む。54年、第10回日展に三人の漁師を描いた「浜」を出品、落選。同年から山口華楊が主宰する晨鳥社に入塾する。翌年には、「牛」を第11回日展に出品。落選であったが、2頭の牛を俯瞰した大胆な構図は、師の強い影響を感じさせる作品として知られる。 56年、第12回日展で風景画「残照」が初入選する。この作品から以後、おもに湖北の雄大な風景をテーマにした作品を発表した。同年に晨鳥社の研究会、あすなろを結成。62年には、第15回晨鳥社に「郷」(個人蔵)を出品し、京都府知事賞を受賞する。そして、同年の京展に「樹林」を出品し、京都市長賞を受賞。若手の日本画家として頭角を現す。ついに同年の第5回日展において「郷」(株式会社石長蔵)が特選・白寿賞を受賞する。63年の第6回日展からは無鑑査出品となり、「薄暮」を発表。そして、66年には、第1回日春展が開催され、中路も同展に参加した。68年の第3回日春展では、「待春」が入選、外務省買上となる。この時期までの作品は、力強く大胆な色彩による色面構成で描かれている。 73年、雅号を勝博から融人と改める。同年に新雅号の御披露目もかねた初の個展を京都大丸で開催。75年に第7回日展に「冬田」を出品し、二度目の特選となる。この作品を境に作風が大きく変化し、静謐で穏やかな風景画を描くようになる。79年には、京都〓島屋、日本橋〓島屋、滋賀県立長浜文化芸術会館において個展を開催。また、同年から日展新審査員を務める。83年には、京都府主催の個展が開催され、京都、東京、滋賀を巡回。86年には、第18回日展に「爛漫」を出品、文化庁買上となる。87年に東京と京都で個展を開催。同年に日春会運営委員に就任する。1992(平成4)年に新現代日本画家素描集『中路融人―湖北賛歌』(日本放送出版協会)を刊行。95年に第27回日展で「輝」が文部大臣賞を受賞。それに伴い文部大臣賞受賞記念中路融人素描展を東京と京都で開催する。また、同年に京都府文化功労賞を受賞した。 そして、97年に前年の日展出品作「映象」が日本芸術院賞を受賞した。同年に日展理事、晨鳥社会長に就任。98年に京都市文化功労者、99年に五個荘町の名誉町民となる。2001年に日本芸術院会員に任命。02年に日展常務理事となる。06年には、滋賀県文化賞を受賞。また、同年の第38回日展では、審査主任を担当する。10年に奈良県立万葉文化館にて「平城遷都1300年記念特別展 中路融人展」を開催。12年に文化功労者、14年に日展顧問、15年に東近江市名誉市民となる。16年には、東近江市に中路が寄贈した作品を展示する東近江市 近江商人博物館・中路融人記念館が開館した。

鎌倉秀雄

没年月日:2017/03/14

読み:かまくらひでお  日本画家の鎌倉秀雄は3月14日、呼吸不全のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年10月27日、東京・麹町に生まれ、その後すぐ田端へと転居する。父は73年に型絵染の重要無形文化財保持者に認定された鎌倉芳太郎、母は帝展洋画部で活躍した山内静江で、幼少期より院展や帝展、戦争画展などに親しみ、独学で武者絵などを描いていたという。43年東京市桃園第三国民学校卒業、東京都立石神井中学校(現、東京都立石神井高等学校)へ進む。戦後の46年夏、父の故郷である香川県を訪れた帰り、奈良の斑鳩で古寺をめぐり、阿修羅像を見て感動を覚えた。同年11月には朝日新聞の美術記者遠山孝の紹介で大磯の安田靫彦を訪問、持参した作品を見せ、入門を許される。鎌倉は東京から大磯へ毎週通い、写生を見てもらったり、天平時代の乾漆像の話などを聞いたりしたという。また、靫彦の勧めで若手の勉強のために開設された一土会に参加。新井勝利、加藤陶陵、森田曠平、沢田育、松田文子、宮本青架、友田白萠らと研鑽を積んだ。47年東京美術学校の受験に失敗、師靫彦の助言で進学を止め、中学校も退学、画道に邁進する。49年には火燿会に入会。また、44年まで東京美術学校助教授であった父の関係で、自宅によく来ていた里見勝蔵、清水多嘉示らから西欧美術について教示を受け、彫刻家の川口信彦から裸体デッサンやエジプトのレリーフなどについて教えを受けた。 51年師靫彦の許しを得、第36回院展に自宅の黒い犬を描いた「黒い犬と静物」を出品、初入選を果たし、以後も入選を重ねる。一土会解散後は靫彦門下の有志とともに青径会を結成、吉田善彦、郷倉和子、小谷津雅美、吉澤照子、小市美智子、西川春江らと研鑽を積む。鎌倉の交友関係は院展内部にとどまらず、日展系の作家にまで及び、戦後のさまざまな新しい傾向を会得していった。61年には第46回院展へ「天河譜」を出品して奨励賞を受賞、翌年の第47回展でも「月花」が奨励賞となる(第60、62、64、65回展でも受賞)。72年はじめてインドへ旅行し、同年の第57回院展に「熱国の市」を出品、特待に推挙される。以後もインドを主題とした作品を出品し、78年第63回院展の「乳糜供養」が日本美術院賞となった。またエジプトにも訪れ、81年の第66回院展へ古代エジプト墓室内の王妃と侍女を描いた「追想王妃の谷」を出品、2度目の日本美術院賞受賞。同年11月24日付で同人に推挙された。この頃より鎌倉は日本美術家連盟の委員を務めている。その後も「奏」(第67回院展、1982年)、「回想」(第68回院展、1983年)、「望」(第69回院展、1984年)、「砂漠へ」(第70回院展、1985年)、「樹精」(第41回春の院展、1986年)などエジプトを主題とした作品を次々に発表するが、87年からは一転して日本の伝統的な美へと目を向けるようになった。87年の第72回院展へは奈良・興福寺の阿修羅像を描いた「阿修羅」を出品、文部大臣賞を受賞。鎌倉はこの年の1月より、東京国立博物館で行われていた「模造古彫刻」の展観に出ていた阿修羅を連日写生し、興福寺へも実際に足を運んで出品作の制作にあたったという。同作は翌88年3月、文化庁の買い上げとなった。1989(平成元)年には第74回院展へ出品した「鳳凰堂」で内閣総理大臣賞を受賞。同年11月には日本橋三越にて個展を開催する。92年の第47回春の院展には鼓を打つひとりの舞妓を描いた「豆涼」を出品し、秋の第77回院展にもふたりの舞妓で構成した「豆千鶴・豆涼」を出品。鎌倉は舞妓の姿に、幼少期に見た歌麿の美人が重なるとして、以後も「豆涼・如月」(第48回春の院展、1993年)、「豆涼・新緑」(第78回院展、1993年)、「春宵豆涼」(第51回春の院展、1996年)、「豆千鶴」(第53回春の院展、1998年)などを出品している。一方で引き続き、古寺や仏像をテーマにした作品にも取り組み、「大仙院雪色」(第49回春の院展、1994年)、「法華堂内陣」(第79回院展、1994年)、「平等院阿弥陀如来像」(第80回院展、1995年)などを制作。96年の第81回院展には、5年来描き続けてきた京都・浄瑠璃寺の集大成として、「緑風浄瑠璃寺」を出品した。この間、94年6月には日本美術院監事となり院の運営にも尽力する(のち常務理事、業務執行理事)。99年の第54回春の院展には再び舞妓を描いた「豆菊・春陽」を出品、2003年頃まで「羅浮梅少女」(第84回院展、1999年)や「木花之佐久夜毘売」(第85回院展、2000年)、あるいは唐美人を描いた「胡楽想」(第87回院展、2002年)など、古典的な女性像の表現に取り組む。さらに06年からは第91回院展へ出品した「この実に裕美」のように、日本の現代女性を題材に作品を制作。晩年には梅や椿に猫を配した作品を多く展覧会へ出品した。 幼少期から抱き続けた天平というテーマを軸としつつも、インドやエジプトに取材した作品や、さまざまな女性像など、多彩なモチーフを手掛けた画家であった。

不動茂弥

没年月日:2016/12/15

読み:ふどうしげや  日本画家の不動茂弥は12月15日、呼吸不全のため死去した。享年88。 1928(昭和3)年1月11日、昭和3年1月11日兵庫県三原郡賀集福井(現、南あわじ市)に生まれる。父、栗林寅市、母、この。父方の叔父は日本画家の栗林太然。生後間もなく母方の叔父で、当時京都画壇で活躍していた淡路島出身の日本画家、不動立山の養嗣子として迎えられ、以後京都で育つ。44年、京都市立絵画専門学校(45年に京都市立美術専門学校と改称。現、京都市立芸術大学)に入学。戦時中、東京近辺の陸軍の諸学校へ教材用掛図の作成に学生の勤労動員として派遣される。敗戦後の47年、学内で行なわれた作品展への出品をきっかけに三上誠や山崎隆、星野眞吾らと新たな絵画運動を唱えるグループ結成に向けて話しあうようになる。48年同校日本画科を卒業。同年3月には三上、山崎、星野、不動、田中進(竜児)、日本画に席を置きながら洋画を描いていた青山政吉、陶芸の八木一夫と鈴木治を含めた8名によるグループのパンリアルを結成し、同年5月に京都の丸善画廊でパンリアル展を開催(この時には不動と田中は作品未完のため不出品)。7月には八木と鈴木が陶芸の前衛グループ走泥社を結成するため脱退。メンバーを日本画に絞り、新たに大野秀隆(俶嵩)や下村良之介らを交え、翌年、日本画壇の旧弊打破と膠彩表現の可能性追求を掲げてパンリアル美術協会を結成、5月に京都の藤井大丸で第1回展を開催する。不動は第1回展から74年の同会退会まで出品を続けた。戦後の混乱した社会状況を捉えた「物語」(1949年)や「机上の対話」(1950年)等の人物情景にはじまり、50年代後半から布、セメント、砂、焼板等を取り入れたアッサンブラージュによる作品「自潰作用」(1957年)や「焚刑」(1962年)、古い浄瑠璃本を曼荼羅のようにコラージュした「籠城」(1966年)等を発表。67年作の「落ちる文字」以降は、日本画の特質は描線・色面・記号性にあるとする自論に基づき、エアブラシやアクリルも積極的に取り入れる。パンリアル美術協会退会後は中村正義の呼びかけに応じて75年の東京展、また星野眞吾の从展に非会員として出品する以外は、無所属で個展による発表を続ける。日本を擬人化して変容する文明の渦中にある都市をモティーフとした「極地」(1985年)、「望郷」(1987年)、「何処へ」(1987年)、記号の象徴として専ら“→”を採用し、20世紀末の世界の混迷をテーマとした「情報化時代」(1991年)、「都大路の菩薩様」(1994年)、「落ちた偶像」(1995年)を制作、一貫して日本画の現代性を追究した。 制作の一方で72年に三上誠が結核で没した直後より、星野眞吾、批評家の木村重信、中村正義と4人で編集委員会を立ち上げ『三上誠画集』(三彩社、1974年)刊行に奔走。また晩年の三上の遺志を受け、80年代には福井県立美術館学芸員の八百山登らの協力も仰ぎながら、パンリアル美術協会設立時の記録を編集、88年に『彼者誰時の肖像 パンリアル美術協会結成への胎動』を自費出版し、同協会創成期の証言者としての役割を果たした。 没した翌年の2017(平成29)年には、京都国立近代美術館で追悼展示が行なわれている。

後藤純男

没年月日:2016/10/18

読み:ごとうすみお  日本画家の後藤純男は10月18日、敗血症のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年1月21日、千葉県東葛飾郡関宿町木間ヶ瀬(現、野田市木間ヶ瀬)の無量寿院に、真言宗住職であった父幸男、母喜代の間に8人兄弟の次男として生まれる。32年12月埼玉県北葛飾郡金杉村(現、松伏町)へ転居。36年金杉尋常高等小学校(現、松伏町立金杉小学校)へ入学、小学校時代より絵を描くことを好み、休み時間には校庭で白墨や〓石で絵を描いていたという。42年真言宗豊山派の豊山中学校(現、日本大学豊山中学校)へ入学。同校在学中に真言宗僧としての修業を開始する傍ら、画家になることを考え始める。45年埼玉県立粕壁中学校(現、埼玉県立春日部高等学校)へ転入。美術部に入り、美術教師の松田、長坂、また近所に住んでいた日本画家、伊藤青郊に絵の手ほどきを受ける。46年3月同校卒業後、東京美術学校を受験するも失敗。青郊の師、川崎小虎の紹介で山本丘人に師事し、本格的に絵の勉強をはじめる。47年再び東京美術学校を受験するも失敗、学制変更により受験資格を失い進学を断念する。4月には埼玉県川辺小学校の教員となり、翌年より3年間埼玉県葛飾中学校教師を務めた。その傍ら、49年師である丘人の紹介で日本美術院同人の田中青坪に師事。翌50年4月第5回日本美術院小品展に「田園風景」で初入選を果たす。しかし秋の院展では落選がつづき、52年9月第37回院展に「風景」で初入選を果たした。この間、埼玉県北葛飾郡宝珠花村立宝珠花中学校、千葉県川間村立川間中学校(現、野田市立川間中学校)などで教鞭を執ったが、院展入選を機に画家として身を立てる決意をし、教師生活を終える。54年3月第9回小品展出品の「残る雪」で奨励賞受賞(10、18、21、24~27回でも受賞)。9月の第39回院展へは「灯ともし頃」を出品し院友に推挙される。この頃の作品は田園や村落など、身近な風景が題材とされた。55年頃からは関西や四国の真言宗寺院などへ繰り返し写生旅行に出かけ、入念なスケッチを積み重ねる。また60年頃からは北海道各地へ写生旅行に出かけ、約10年にわたり同地へ通い続けた。60年11月田中恂子と結婚。62年9月第47回院展出品の「懸崖」で奨励賞受賞(51~53、55、57、58回でも受賞)。63年4月第18回春季展へ「宵」を出品、この頃より北海道の層雲峡を中心とした渓谷や滝の連作が開始される。色数を抑え、ゴツゴツとした岩や鋭く刺々しい樹木など、やや抽象化されたモチーフで画面が構成され、神秘性や峻厳さの感じられる作風を示した。65年9月第50回院展へ「寂韻」を出品、日本美術院賞受賞(54回でも受賞)。特待に推挙される。69年4月第24回春季展へ「閑影」を出品。以後奈良や京都の古寺を題材に、大気や光の変化によって見せる表情を捉えた作品を発表する。70年9月第4回現代美術選抜展に「淙想」(第54回院展、1969年)が選抜される(以後も7、11、21回に選抜)。74年2月日本美術院同人推挙。76年9月第61回院展へ出品した「仲秋」で文部大臣賞を受賞。10月にはギャラリーヤエスにて初の個展を開催。79年7月中国へ巡回した「現代日本絵画展」の代表団のひとりとして初めて訪中、以後毎年のように中国へ出かける。80年2月日本美術院評議員に推挙。3月第2回日本秀作美術展に「晩鐘室生」(第64回院展、1979年)が選抜される(以後4~15、18、20、22回にも選抜)。82年9月第67回院展へ北京の天壇祈年殿を描いた「雷鳴」を出品、以後中国の広大な自然や田園、民家などをモチーフにした作品を発表する。同年中国・西安美術学院名誉教授となる。86年9月第71回院展へ出品した「江南水路の朝」で内閣総理大臣賞受賞。87年12月福岡教育大学(美術学科)の非常勤講師となる(12月~1988年3月、同年10月~89年3月まで)。88年4月高野山真言宗東京別院の落慶を記念し、襖絵24面を制作、奉納する。また1993(平成5)年には奈良・長谷寺、99年には東京・高幡不動尊金剛寺の襖絵も揮毫した。88年10月東京藝術大学美術学部の教授となり、97年3月退官、2016年名誉教授となる。91年6月日本美術院監事。92年3月第47回春の院展へ「斑鳩立秋」を出品、この頃より再び日本の風景を題材とした作品が多くなる。とりわけ2000年代以降は大和の古寺が見せる四季折々の表情を多く描いた。95年5月フランス・パリにて個展(三越エトワール)開催。97年9月北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。00年4月日本美術院理事となる。また同年3月には埼玉県北葛飾郡松伏町より名誉町民の称号が、11月には北海道空知郡上富良野町より社会貢献賞が贈られる。01年1月中国・西安美術学院に後藤純男工作室落成。06年旭日小綬章綬章。16年6月「大和の雪」(第97回院展、12年)で第72回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。また同年には北海道空知郡上富良野町特別名誉町民、千葉県流山市名誉市民となった。

大森運夫

没年月日:2016/09/29

読み:おおもりかずお  日本画家で創画会会員の大森運夫は9月29日、老衰のため死去した。享年99。 1917(大正6)年9月23日、愛知県八名郡三上村(現、豊川市三上町)に農家の長男として生まれる。1937(昭和12)年愛知県立岡崎師範学校(現、愛知教育大学)を首席で卒業し、小学校教員となる。その後、40年広島高等師範学校(現、広島大学)に進むが、翌年肺結核のため中退。帰郷して療養生活を送った後、再び郷里で教鞭をとるようになるが、50年、当時新進作家として脚光を浴びていた中村正義と出会い、その影響で日本画を描き始める。翌年中村正義、平川敏夫、星野眞吾、高畑郁子らと画塾・中日美術教室を開設。51年第15回新制作展に「校庭」が初入選、また同年第7回日展に「稲荷前」が初入選するも、以後は新制作展で入選を重ね、骨太な筆致で風景や人物を描く。58年中部日本画総合展で最高賞を受賞。61年には教員を退職、翌年神奈川県川崎市に移り住んでいた中村正義の宅地内に転居し、画業に専念。同年第26回新制作展で、東京の山谷周辺を根城にする日雇労務者や浮浪者を題材とした「ふきだまり」三連作が新作家賞を受賞。66年第1回神奈川県展で、“オッペシ”と呼ばれる漁婦を主題とした「九十九里」が大賞を受賞、その賞金でフランス、スペイン、モロッコ、スイス、イタリア、ユーゴスラビアの6カ国を巡り、ロマネスク美術に啓発されて人物表現のデフォルメを押し進める。66年第30回新制作展「九十九里浜」二連作、67年第31回「モロッコ」三連作、70年第34回展では山形県庄内地方に伝わる黒川能に取材した「灯翳」「爾宴」が新作家賞を受賞し、71年新制作協会会員となった。以後も同展に「能登神雷譜」二連作(第36回展)、「佐渡冥界の譜」(第37回展)等、土俗的な郷愁を宿した作品を発表する。75年第3回山種美術館賞展で「山の夜神楽」が大賞を受賞。74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、以後会員として活動。土俗祭儀、東北地方の“おばこ”、人形浄瑠璃、ロマネスク美術等、そのモティーフは変遷を辿るが、一貫して人間の根底にひそむ強い生命力や祈りをテーマとし続けた。85年には当時の創画会中堅作家であった池田幹雄、上野泰郎、小野具定、小嶋悠司、滝沢具幸、毛利武彦、渡辺學とともに地の会を結成、その第1回展から最終回の第12回展(1996年)まで毎回出品する。1992(平成4)年豊橋市美術博物館で初の回顧展を開催。96年には求龍堂より『大森運夫画集』が刊行。晩年には作品を豊川市桜ヶ丘ミュージアムに寄贈し、2010年に同館にて受贈記念展が開催される。亡くなる年の春には百寿を記念し、豊橋市のほの国百貨店で新作を中心とした個展が開催されたばかりであった。

松尾敏男

没年月日:2016/08/04

読み:まつおとしお  日本画家の松尾敏男は8月4日、肺炎のため死去した。享年90。 1926(大正15)年3月9日、長崎県長崎市今籠町(現、鍛冶屋町)にて、石鹸会社を経営する父稲吉と母スエの間に、9人兄弟の末っ子として生まれた。1929(昭和4)年に父親の会社倒産のため一家そろって上京、淀橋区(現、新宿区)大久保に居住する。32年東京市大久保尋常高等小学校(現、新宿区立大久保小学校)入学。在学中には東京市の図画コンクールで学校代表となった。38年東京府立第六中学校(現、東京都立新宿高等学校)へ入学、体操に熱中し大会でも活躍するが、病気を機に画家を志すようになる。43年3月に同校卒業後は、技法書をたよりにしばらく独学で学ぶ。そのかたわら、美術雑誌に掲載されていた堅山南風の«雨後»(第2回新文展、1938年)に感銘を受け弟子入りを決意、隣家の美術ジャーナリスト垣見泰山の紹介で同年10月その門に入った。自由な方針の南風塾では古画の模写をとおして運筆を学び、また写生にも勤しんだ。47年3月第2回日本美術院小品展に「春容」が初入選するも、秋の本展では落選が続き、49年9月第34回院展へ出品した「埴輪」で初入選を果たす。なお47年より52年までは「泉華」と号した。50年第5回小品展の「牡丹」で奨励賞受賞(12回でも受賞)。51年9月第36回院展へ「森の自画像」を出品し、日本美術院院友に推挙された。58年12月斎藤愛と結婚。60年9月第45回院展へ同年1月に生まれた長女由佳にちなんだ「森の母子像」を出品。この頃までは花や鳥、人物を主題に構成的な画面をつくり上げていたが、以降はモチーフが単純化、抽象化され、幻想的な画面が展開された。また、自らが人間的にもっている不安感、あるいは生と死といったイメージを画面に描き出すようになる。62年9月第47回院展の「陶土に立つ」で奨励賞受賞、以後4年連続で受賞し、65年日本美術院特待推挙。この間、63年11月に次女麻里誕生。また64年11月に師南風が依頼を受けた日光・輪王寺本地堂(薬師堂)の鳴龍復元にあたり助手を務めた(1966年7月完成)。師の制作を間近で観察し、絵の具は塗るのではなく描かなければと考えを改め制作した「廃船」を66年9月の第51回院展へ出品、日本美術院賞を受賞する(68年、70年にも受賞)。67年6月北海道の積丹半島へ取材旅行、68、71年にも北海道を訪れる。この頃より各地へ旅行し、そこでの体験や感動をもとにした制作が行われるようになる。69年には「北限」(第54回院展)で奨励賞受賞。70年9月第55回院展へ「樹海」を出品して3度目の日本美術院賞受賞、作品は文化庁買上となり、翌71年2月日本美術院同人に推挙された。同年1月「今日の日本画―第1回山種美術館賞展―」へ「翔」を出品、優秀賞受賞。10月初の個展を彩壺堂サロンで開く。72年3月には「海峡」(第56回院展、1971年)で昭和46年度芸術選奨新人賞受賞。73年5月日本橋三越にて個展開催。穏やかな色彩による花鳥画にて新境地を見せた。75年1月初めてインド・パキスタン旅行へ出かけ、4月の第30回春の院展へ「デカン高原」を出品する。以後78年まで毎年インドへ旅行し、「サルナート想」(第63回院展、1978年、文部大臣賞、昭和53年度日本芸術院賞)などを制作。この間、75年9月の第60回院展では「燿」で文部大臣賞受賞、78年4月日本美術院評議員に任命される。79年秋には初めて中国を訪れ、翌80年3月第35回春の院展へ「出土」を出品。82年以降毎年中国を訪れ、「連山流水譜」(第67回院展、1982年)をはじめ数々の作品を制作した。80年3月第2回日本画秀作美術展に「篝火」が選抜される(以後25回まで16、20回を除き毎回選抜)。82年6月日本美術院監事。85年3月イタリアへ取材旅行に出かける。同年7月高山辰雄、稗田一穂らと結成した日本画研究会「草々会」の第1回展を資生堂ギャラリーにて開き、「ヴェネチアの聖堂」など3点を出品。86年3月ギリシャ・トルコへ取材旅行に出かけ、9月の第71回院展へギリシャのミコノス島で出会った神父を描いた「ミコノスの聖堂」を出品する。87年多摩美術大学美術学部絵画科日本画専攻教授となり、96年3月退官。その後客員教授となり、99年4月名誉教授となる。87年11月回顧展「花のいのちを描く―松尾敏男展」(伊勢丹美術館ほか)を開催。1994(平成6)年12月日本芸術院会員となる。95年湯島天神天井画に白龍を揮毫。翌96年パリの三越エトワールにて個展を開く。98年4月勲三等瑞宝章受章。2000年9月第85回院展へ「月光のサンマルコ」を出品、以後もイタリアに取材した作品を多数描いた。同年10月文化功労者。09年12月日本美術院理事長就任。10年2月には「画業60年松尾敏男回顧展」(日本橋三越ほか)が開催される。12年11月文化勲章受章。13年4月には長崎市特別栄誉表彰を受け、同年10月長崎名誉県民の称号が贈られた。歿後、従三位に叙せられた。

小嶋悠司

没年月日:2016/06/07

読み:こじまゆうじ  創画会副理事長で日本画家の小嶋悠司は6月7日、脳幹出血のため死去した。享年72。 1944(昭和19)年3月12日、京都市に生まれる。御所や寺社の造営に関わる石工であった祖父の影響で幼い頃より彫刻に関心を示し、また自宅近くの教王護国寺(東寺)で平安期の密教美術に親しんだ。中学・高校時代にはピカソや須田国太郎を知り、63年4月京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)日本画科に入学。秋野不矩や石本正に指導を受ける。父親が友禅の図案家という環境で育つも、はんなりとした花鳥画などは保守的だとし、人物画を志す。66年4月新制作日本画部春季展(京都)に「人体」「風景」が入選。翌67年9月には第31回新制作協会展に「群像―詩II」で初入選を果たす。さらに翌年9月の第32回展では「群像K」「群像L」にて新作家賞受賞(34、35、36回でも受賞)。60年代には人間をテーマに造形力のある空間構成を目指し、ロダンやセザンヌ、レオナルド・ダ・ヴィンチにジョット、あるいは村上華岳や松本竣介等から表現や構成を学ぶ。69年3月京都市立美術大学専攻科日本画専攻修了。同年11月石本正らとヨーロッパへ旅行、約2ヶ月間の行程でオランダ、イギリス、フランス、スペイン、イタリアなどをめぐった。70年9月第34回新制作展に「群像3-A」を出品。アッシジのサン・フランチェスカ聖堂にあるチマブーエの「キリストの磔刑」のような絵を、平安仏画のような色彩で表現したいとして描いた作品で、フレスコ画のような厚みを出すため支持体に麻布を用い、卵テンペラの技法(デトランプ)を併用した。またこの頃より、人間性という意識やそれを支える理性をじっと凝視する存在を、画面内に表すようになる。72年6月彩壺堂にて個展開催。73年1月第2回山種美術館賞展で「群像」が優秀賞を受賞する。同年9月第37回新制作協会展へ「群像’73―凝視」を出品、同会日本画部会員に推挙された。70年頃より画面には頭や手足の無いトルソや、骨をむき出しにした人体が表されるようになるが、そこには人間のもつ理性の根源を問いたいという意識があったという。74年5月新制作協会日本画部全会員が同協会を退会し、新に創画会を設立。小嶋も会員として参加し、同年9月の第1回展へ「群像―’74」を出品した。75年11月より1年間、文化庁在外研修員としてフィレンツェに滞在。古代エトルリアの彫刻や墓石彫像を精力的に写生する。帰国後はそれらの写生をもとにした作品を制作、79年10月の第6回創画会展へ出品した「大地―穢土’79」は、エトルリアの柱頭をもとにした人物や母子像で構成され、当時世間で頻発していた幼児置き去りに対する衝撃から、人間本来の愛情の回復を祈って描かれた。一方で小嶋は、イタリアでみた古代文明の明るさから、人類の未来に明るい自信を持って帰国したといい、ロマネスク彫刻の写生をもとに、無垢な子供を抱く理性的な人間を描いた「人間」(第6回京都春季創画展、1980年)などを描いている。以後、現実や現世、穢れた世界という意味をもつ「穢土」という言葉をタイトルにした作品や、「愛」や「人間」といったタイトルを持つ作品を制作、地獄にも似た現世をありのままに見つめながらも、そこに希望を見出そうとする意識の見られる絵を描きつづけた。85年4月それまで講師を務めていた京都市立芸術大学日本画科の助教授となる(1995年教授、09年名誉教授)。同月、池田幹雄、上野泰郎、大森運夫、毛利武彦、滝沢具幸、渡辺学、小野具定と結成した地の会の第1回展を資生堂ギャラリーにて開催(10回まで出品)。88年6月第10回日本秀作美術展に「凝視」(個展出品作、1987年)が選抜される(11~13、15回にも選抜)。同年10月の第15回創画会展へは、動物と人間、母子像で構成された画面に光を表し、救いのある空間を描いた「地(習作)」(のちに「地」と改題)を出品。同作ではそれまでと異なるテンペラ風の技法が用いられた。またこの頃より、モチーフがそれまで以上に抽象化されるようになり、90年代には高尾曼荼羅のような深く力強いマチエールの色価(バルール)に惹かれ、ものの形を借りずに色によって自らの思想を語ることを目指す。1990(平成2)年1月第1回京都新聞日本画賞展で「穢土」が大賞受賞。97年2月京都府文化賞功労賞受賞。99年5月第12回京都美術文化賞受賞。2000年7月には京都市美術館で回顧展「京都の美術 昨日・きょう・明日28 小嶋悠司―凝視される大地―展」が開かれる。01年3月平成12年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。翌月には練馬区立美術館にて「時代と人間への凝視―小嶋悠司の創造展」開催。00年代にはモチーフが再び具象的な姿をとるようになり、画面も次第に明るくなっていった。17年4月豊田市美術館の常設特別展として、「追悼 小嶋悠司」が開催された。

郷倉和子

没年月日:2016/04/12

読み:ごうくらかずこ  日本画家の郷倉和子は4月12日、心不全のため死去した。享年101。 1914(大正3)年11月16日、日本画家の郷倉千靱とその妻蔦子の長女として東京市谷中に生まれる。幼い頃は千靱の写生のため各地を転々とし、21年三軒茶屋に転居。1927(昭和2)年3月駒沢尋常高等小学校(現、世田谷区立駒沢小学校)卒業。同年4月三輪田高等女学校(現、三輪田学園)に入学。在学中竹を描いた作品が皇太后の献上画に推薦され、図画担当の赤堀千代子より女子美術専門学校(現、女子美術大学)への進学を勧められる。32年4月同校日本画高等科へ入学。この頃の作品は「高原の秋」のように、花鳥を写実的に描いた繊細な画風を示すものであった。35年3月同校を首席で卒業。翌36年9月第23回院展に「八仙花」で初入選を果たす。この頃安田靫彦に入門。39年9月第26回院展へ「庭の春」を出品、日本美術院院友に推挙される。42年倉光博と結婚。44年戦局悪化にともない、新潟県妙高市の赤倉へ疎開、出産や育児のため48年まで院展出品を見合わせる。49年9月第34回院展へ「庭つゝじ」を6年ぶりに出品。52年頃よりマチスやピカソへの憧れから半具象的作風を模索しはじめる。また千靱の門下生であった馬場不二の新しい感覚に惹かれ、写実から半具象への省略や形態の方法を学ぶ。55年9月の第40回院展へ出品した「春」では、きわめて単純化された桜花や強い色調による画面構成を見せ奨励賞受賞(41、44回展でも受賞)。以後60年まで毎回受賞し、同年9月の第45回院展へ出品した「花苑」で2度目の日本美術院賞受賞、日本美術院同人に推挙された。この間、56年10月馬場不二が亡くなり、岩橋英遠に指導を受けるようになる。また59年1月朝日新聞社主催の第10回選抜秀作美術展に「夕陽」(第43回院展、58年)を招待出品する(翌年も出品)。61年には4月から5月にかけて父千靱と連れ立ちインドへ旅行、帰国後「熱国の幻想」(第46回院展、61年)などを制作、この頃より作品が幻想的な傾向を帯びはじめる。63年4月上野松坂屋で初の個展開催。69年片岡球子、三岸節子、荘司福、雨宮敬子らと日本画、洋画、彫刻、工芸にわたる女流総合展「潮」を結成、3月に第1回展(銀座三越)を開催する(以後毎回出品)。70年9月第55回院展へ「榕樹」を出品し、文部大臣賞受賞。この頃、幻想を突き詰めると抽象になってしまうとし、半具象へと戻すために現実と幻想の組み合わせを模索するものの、70年代後半にはそれにも行き詰まりを感じはじめ、ひたすら自然を観察し、写生と素描を繰り返す。80年第1回現代女流美術展へ出品(以降毎回出品)。同年紺綬褒章受章。81年5月日本美術院評議員に推挙される。84年9月の第69回院展には、悩みに悩んで何度も描きなおしたという「閑庭」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。翌85年4月の第40回春の院展へは湯島天神の梅を描いた「古木に出た紅梅の芽」を、9月の第70回院展には寒中のつめたさを表現しようと胡粉と墨を主とした「暮色白梅」をそれぞれ出品、この年より梅の連作に取り組む。86、87年には「気」(第71回院展)などモノトーンの作品を発表するが、88年の「窓辺」(第43回春の院展)では一転して明るい画面が試みられる。1989(平成元)年の「春望」(第44回春の院展)では瓦屋根と梅が描かれ、以後も連作として展開された。90年6月前年の「静日」(第74回院展)で平成元年度日本芸術院恩賜賞受賞。翌91年5月日本美術院監事となる。同年6月第13回日本秀作美術展に「陽だまり」(第75回院展、90年)が選抜された(24回にも選抜)。92年4月勲四等宝冠章受章。9月の第77回院展には松島瑞巌寺の紅白梅を描いた「縹渺」を出品、遠近感のある空間に梅樹を配す画面構成がとられ、以後の作品でも試みられた。94年6月日本美術院理事。97年世田谷区文化功労賞。同年12月日本芸術院会員に任命される。2000年1月「郷倉和子展 梅花の調べ」(日本橋高島屋ほか)開催。02年11月文化功労者。同年父千靱の故郷である富山県小杉町(現、射水市)の名誉町民となる。03年10月女子美術大学名誉博士。09年10月「感謝をこめて 郷倉和子日本画展」(日本橋三越ほか)開催。13年9月「白寿記念 郷倉和子展―心の調べ」(富山県立近代美術館)開催。00年以降も梅をテーマに作品を描き続け、「春日蜿々(紅梅)」(第85回院展、2000年)など画面を梅の枝で埋め尽くした作品、「水辺の春光」(第91回院展、2006年)などの雀や鴛鴦、鯉、うさぎなどと梅を組み合わせた作品、「献花(白梅)」(第62回春の院展、2007年)など仏像に梅を取り合わせた作品と展開。最晩年には空を意識した青い画面に、瓦屋根や鴛鴦、鯉などと梅を添景のように配した連作を発表、16年3月の第71回春の院展へは青い空にかかる虹と白梅を描いた「宙のかがやき」を出品した。歿後正四位に叙され、旭日重光章を授与された。

石本正

没年月日:2015/09/26

読み:いしもとしょう  伝統や規範にとらわれず、自らの心を通して作品を描き続けた日本画家、石本正は9月26日、不整脈による心停止のため死去した。享年95。 1920(大正9)年7月3日、島根県那賀郡岡見村(現、浜田市三隅町岡見)に生まれる。本名正(ただし)。幼少期には豊かな自然の中で小さな生き物と触れあい、素直な感性を培った。1927(昭和2)年岡見尋常小学校へ入学。2年生のときにおじから油絵の具を贈られ、担任の先生と使い方を試行錯誤する。33年島根県立浜田中学校(現、島根県立浜田高等学校)入学。この頃映画や音楽、文学に興味を持ち、独自に油絵も描いていたが、画家になろうとは考えていなかった。38年同校を卒業。40年京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科予科へ入学するが、伝統的な円山四條派の形式に則った授業に馴染めなかった石本はあまり授業に出席せず、関西美術院や華畝会の研究所などへ通い、石膏や人物のデッサンを学んだ。2回生への進級制作の折には、伊藤若冲の絵に触発され軍鶏を描いたという。44年同校を繰り上げ卒業し、学徒動員で気象第一連隊に配属、翌年復員。47年から大阪の高校で美術教師を務めながら作品を制作し、ボッティチェリの「春」をイメージした「三人の少女」で第3回日本美術展覧会(日展)に初入選を果たす。このときの作品は福田平八郎に激賞され、以後第5回展まで入選を重ねた。49年9月には京都市立美術専門学校助手となる。 50年京都市立美術大学の先輩画家・秋野不矩の勧めで発表の場を創造美術展へ移し、同年「五条坂」「踊子」が入選。翌51年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、その第15回展へ「影」「旅へのいざない」を出品して新作家賞受賞、同会の会友に推挙され、以後第37回展(73年)まで出品した。「踊子」「旅へのいざない」はいずれも女性群像で、石本が50年にパブロ・ピカソの「青の時代」に出てくる女性によく似たモデルと出会ったことから生まれた作品であるという。しかしこの時代の作品は当時、古くさいとして画壇に受け入れられず、石本は次第に自らの愛するロマネスク美術の壁画に見られる太い線を用いた作品を描くようになる。 53年第17回新制作展へ、いずれも太い線を用いて描いた「高原」と「女」を出品、新作家賞を受賞する。作品は高く評価され、55年頃までこうした作品を描き続けるが、迎合的な制作に納得のいかない思いを抱いていた石本は、56年以降従来の花鳥画とはまったく異なる、擦り付けるような強い筆触を感じさせる鳥の絵を次々に発表する。同年の第20回展へは、木下順二脚本の舞台「夕鶴」を見て描いた「双鶴」、さらに「野鳥」の2点を出品し、同会日本画部の会員に推挙され、翌年の第21回展へは自ら編み出したペインティングナイフを用いる技法で描いた「樹根と鳥」を出品。いっときその技法が若い画家たちの間で流行したという。またこの頃より、石本は舞妓や芸妓を描こうと思い、祇園に通い始めた。58年京都の土井画廊で初の個展を開催。59年12月、加山又造・横山操らと轟会(村越画廊)を発足させ、「横臥舞妓」「鶏」「丘の木」を出品、以降も第15回展まで出品した。60年10月村越画廊・彌生画廊主催「石本正個展」(文藝春秋画廊)開催、出品作の「桃花鳥」が翌年1月、文部省買上となる。また60年には京都市立美術大学講師となった。 64年はじめての渡欧を果たし、憧れつづけたヨーロッパの中世美術に触れ、規範にとらわれない自由な美的感覚に共感。同年の新制作展から舞妓を題材とした作品を毎回発表する。石本は田舎出の娘が煌びやかに着飾った、華やかな中に孤独な翳りを見せる舞妓を描きたいとし、顔や手の黒い舞妓を発表、きれいごとではないリアリティがあるなどと評された。67年の第31回展へは、横たわる三人の裸の舞妓を描いた「横臥舞妓」を出品。68年5月「石本正風景展」(彩壺堂)を開催。70年には舞妓の作品ばかりを並べた「石本正人物画展」(彩壺堂)を開催した。このときの「横臥舞妓」などが「日本画における裸婦表現に一エポックを画した」として、翌71年第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を受賞。同年3月舞妓をテーマとしたシリーズで第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を受賞するが、以後はすべての賞を辞退した。この間、65年に京都市立美術大学助教授(70年教授)となり、69年11月には学生等とともにイタリアへ研修旅行に出かける。以後この旅行は慣例となり、ヨーロッパや中国、インドなどを訪れた。 74年、新制作協会日本画部会員全員が同会を退会し、新たに創画会を結成。9月の第1回展へ石本は「鶏頭」を出品、以後毎回出品する。この頃から石本の女性像は舞妓ではない裸婦が中心となり、アンドレア・マンテーニャの「死せるキリスト」に触発されて描いた83年の「夢」(個展、東京セントラル絵画館)頃から背景に絨毯を描きこむようになった。86年3月京都市立芸術大学教授を退任し、同大学名誉教授となる。1989(平成元)年11月兼素洞にて花の作品ばかりを集めた「石本正「花」展」を開催。この頃から石本は物語性のある作品を描くようになり、映画の舞踏会シーンを思い浮かべて描いたという「牡丹」(89年、第16回創画展)や、花火をイメージしたという「菊」(94年)、また平泉・中尊寺の古面を思い出して描いたという「空蝉」(94年)など、対象を通して得たイメージを画面に表現するようになる。96年には初の本格的な展覧会となる「石本正展―聖なる視線のかなたに―」を開催、92年以降の近作37点と素描50点が展観された。2001年故郷である島根県那賀郡三隅町(現、島根県浜田市三隅町)に石正美術館が開館し、名誉館長となる。この開館を機に、石本はふるさとを意識した作品を描くようになり、創画展へも「幡竜湖のおとめ」(02年、第29回展)などを出品。03年10月には画一的な表現しか認めない当時の画壇に新風を吹かせたいという思いから、石本がはっきりと感動を覚えた作品のみを集めた「日本画の未来」展を開催。09年石正美術館の塔に長年の念願だった天井画を老若男女592人とともに制作する。また06年以降、創画展へは牡丹や薊などの花を描いた作品を中心に発表していたが、14年の第41回展へは薄物をまとい横たわるふたりの裸婦を描いた「裸婦姉妹」を出品、翌15年10月の第42回展へは舞妓を描いた「舞妓座像」が未完のまま出品された。

近藤弘明

没年月日:2015/09/13

読み:こんどうこうめい  東洋の仏教的真理を幻想美によって現わし、視覚に語りかけてくる作品を目指し描き続けた日本画家、近藤弘明は9月13日、肺炎のため死去した。享年90。 1924(大正13)年9月14日、東京市下谷区龍泉寺町(現、台東区龍泉3丁目)に生まれる。本名弘明(ひろあき)。家は天台宗寺門派三井寺(園城寺)の末寺にあたる天台宗龍光山三高寺正宝院で、江戸七不動のひとつ、飛不動とも呼ばれた。父・近藤教圓は仏画をよくし、近藤は幼いころから絵の具溶きや絹張りの手伝いをしていたという。1930(昭和5)年、6歳のときに得度受戒し僧籍に入る。36年3月下谷区立龍泉寺小学校を卒業。中学時代には川端画学校のデッサン教室へ通い、一時洋画家となることも考えたという。41年3月文京区の駒込中学校卒業、大正大学師範科に入学する。その一方で当時東京美術学校教授であった常岡文亀に植物写生を習い、43年大学を中退、東京美術学校(現、東京藝術大学)日本画科へ入学した。44年陸軍軽井沢航空教育隊に志願し入隊、八ヶ岳山麓にてグライダー訓練を受ける。訓練中に見た小さな高山植物が強く印象に残り、後の作風に影響を及ぼしたという。その後罹病、陸軍学校を点々とし、終戦後は兄が大僧正となっていた滋賀県大津の園城寺法泉院に滞在、療養に努めるとともに、兄から天台哲学を学ぶ。この頃一時文学を志し、志賀直哉のもとへ通うが、「文学よりも絵に向いている」との助言から、47年画業に専念するため上京、翌年4月東京美術学校に復学した。49年3月東京美術学校を卒業し、以後も同校助教授だった山本丘人に教えを受けた。 50年第3回創造美術展へ「街裏」を出品、初入選を果たす。翌年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、同年の第15回展へ「木馬館」「六区高台」を出品、以後第37回展(1973年)まで毎回出品し、新作家賞を4度受賞、63年には会員となる。また同会の春季展や日本画部研究会へも積極的に出品し、受賞を重ねた。54年第18回新制作展へ「夜の華」など4点を出品。この頃から異形ともいえる幻想的な花や鳥をモチーフとした作品が制作されるようになる。翌年12月尾崎光子と結婚。59年1月、初となる個展(画廊ひろし)開催。60年1月第11回秀作美術展に「月の華」(1959年)が選抜出品され、第15、17回展(1964、66年)にも選抜される。同年7月第2回みづゑ賞選抜展に「解脱」「迦陵頻伽」を出品。この頃より仏教的な世界観に基づくものと考えられる作品が描かれ始める。62年5月第5回現代日本美術展へ「慈母」(のちに「天上の華」と改題)「飛翔」を招待出品、翌年5月第7回日本国際美術展へ「善と悪の園」を招待出品する。以後も前者には第8回展(1968年)まで、後者には第9回展(1967年)まで出品、65年の第8回日本国際美術展では、「寂光」がブリヂストン美術館賞となる。66年第5回福島繁太郎賞受賞。60年代半ば頃より、各モチーフが徐々に具象的となり、画面が遠近法に即した広がりを見せる風景として構成されるようになる。また「幻影」「寂園」(1968年、個展・彩壺堂)など、具体的な菩薩の姿を描いた作品が表れはじめる。71年「今日の日本画―第1回山種美術館賞展―」へ「清夜」を出品、優秀賞となる。74年新制作協会日本画部会員全員が同会を退会、新たに創画会を結成し、9月の第1回展へ「黄泉の華園」を出品、第13回展(1986年)まで出品した。75年6月「一つの神秘的空間を示す画業にたいして」第7回日本芸術大賞が贈られる。76年12月東京・杉並から神奈川県小田原市にアトリエを移転、寂静居と名付けた。82年3月第4回日本秀作美術展に「幻桜」が選抜される。同展へは1990(平成2)年の第12回展に「幻秋(秋の七草)」で再び選抜されて以降、第25回展(2003年)までに10回選抜された。83年10月第10回創画展へ「霊桜」を出品。この頃より描かれるモチーフが現実の草花となり、日本の伝統的な花鳥画を思わせるような構図の画面となっていく。85年第21回神奈川県美術展の審査員となり、以後第31回展(1995年)まで務め、第32回から第39回展(2003年)までは顧問を務めた。86年2月、師である山本丘人が没し、翌年の第13回春季創画展を最後に創画会を退会、以後無所属となる。91年4月紺綬褒章受章。93年9月、初期作品から最新作までを集めた回顧展「華と祈り 近藤弘明展」開催。2000年4月二度目となる紺綬褒章を受章。同年7月には「サンクチュエール日光 近藤弘明展―聖地の神秘を描く」が開催された。

村瀬雅夫

没年月日:2013/06/20

読み:むらせまさお  美術評論家、日本画家の村瀬雅夫は6月20日死去した。享年74。 1939(昭和14)年1月16日、東京市世田谷区(現、東京都世田谷区)経堂に生まれる。間もなく、千葉県に移住し、幼年期、少年期を千葉市で過ごす。千葉県立第一高等学校を卒業後、59年、東京大学文学部入学。在学中に横山操、石崎昭三に師事して日本画を学ぶ。61年、62年に青龍社展に出品したという。63年東京大学文学部東洋史学科卒業、読売新聞社に入社。福島支局勤務を経て、長く本社文化部で美術担当記者として務める。85年から読売新聞夕刊で連載「美の工房」(全50回)を担当。在職中から無所属の日本画家として、銀座・飯田画廊、ニューヨーク・日本クラブギャラリー、東京セントラル画廊などで生涯18回の個展を開催した。1989(平成元)年、50歳の年に、読売新聞社の文化次長で定年退職を迎える。明治大学講師、福井県立美術館館長、渋谷区立松濤美術館館長を歴任。著書に『野のアトリエ』(桃源家、1989年)、『美の工房―絵画制作現場からの報告』(日貿出版社、1988年)、『横山操』(芸術新聞社、1992年)、『「芭蕉翁月一夜十五句」のミステリー 『おくのほそ道』最終路の謎』(日貿出版社、2011年)、『庶民の画家南風』(南風記念館、1977年)、編著書に『川端龍子 現代日本の美術13』(集英社、1976年)、『川端龍子 現代日本の美術4』解説(集英社、1977年)、『現代日本画全集 第14巻 奥田元宋』(集英社、1983年)、『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 5 平山郁夫/前田青邨』(瀧悌三と責任編集、集英社、1986年)がある。

牛尾武

没年月日:2012/12/31

読み:うしおたけし  日本画家の牛尾武は12月31日、虚血性心不全のため死去した。享年57。 1955(昭和30)年3月3日、兵庫県神戸市に生まれる。本名武司。神戸芸術学林日本画科で学び76年卒業、神戸在住の日本画家昇外義に師事する。76年兵庫県展優秀賞、78年兵庫県日本画家連盟展県知事賞、79年兵庫県日本画家連盟展最優秀賞を受賞。79年に上京し、84~87年上野の森美術館絵画大賞展、85・88年東京セントラル美術館日本画大賞展に出品。85年の第3回上野の森美術館絵画大賞展では「澄秋」で特別優秀賞を受賞。1989(平成元)年には茨城県石岡市の華園寺本堂障壁画を制作。90年の銀座・資生堂ギャラリー個展では、北海道に取材した風景を中心に発表、繊細な線描と墨を主とする淡い色彩による豊かな画趣が一躍注目を浴びた。さらに91年第11回山種美術館賞展で「晨響(銀河と流星の滝)」により優秀賞を受賞。同年東京を離れ和歌山県田辺に居を移し、熊野をテーマに紀伊半島の自然美や風景を描く。95年には四曲一双屏風を中心とする大作による「牛尾武新作展 遥かなる原郷」を箱根・成川美術館で開催。99年には田辺市高山寺の薬師堂障壁画を制作。2004年から空海をテーマに高野山や四国、京都、奈良、さらには中国に至るゆかりの地に取材し、04~13年の4度にわたり成川美術館で作品を発表。10年には世界遺産熊野本宮館、11年には南方熊楠顕彰館で「残響の熊野」と題して田辺と熊野の風景作品を発表。同地域の芸術・文化振興に大きく貢献したことが評価され、没後の13年に田辺市文化賞が贈られた。

松本哲男

没年月日:2012/11/15

読み:まつもとてつお  日本画家の松本哲男は11月15日、石川県立美術館での第97回院展オープニングに出席するため金沢市に滞在中、呼吸不全のため死去した。享年69。 1943(昭和18)年7月29日、栃木県佐野市に生まれる。61年栃木県立佐野高等学校を卒業後、日本画家の塚原哲夫に絵を学ぶ。はじめは東京藝術大学建築科を志望、2年間浪人の後、宇都宮大学教育学部美術科に入学。68年同大学を卒業後、栃木県立那須高等学校に美術教師として赴任、那須の自然の魅力にうたれて本格的に日本画を描き始める。72年には栃木県立今市高等学校に異動し、79年まで高校教師を続けながら制作に励んだ。69年第54回院展に「冬山」が初入選、以後院展に出品を続ける。72年第57回院展に「叢林」を出品、院友に推挙され今野忠一に師事、74年第59回院展で「山」が日本美術院賞・大観賞を受賞、特待に推され郷倉千靱に師事。75年第1回栃木県文化奨励賞を受賞。76年第61回院展で日光の金精山をテーマに山岳風景を心象化した「巌」が二度目の日本美術院賞・大観賞を得る。一連の山岳シリーズでは、山肌や樹林を細密に描写して独自の画風を示した。77年には第4回山種美術館賞展で「山」が人気賞を獲得。その後79年「壮」、80年「天壇」、81年「トレド」、82年「山水譜」、83年「大同石仏」と連続して院展奨励賞を受賞し、83年日本美術院同人に推挙。「大同石仏」は84年に芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。87年「悠久の宙・中国を描く―松本哲男展」が西武アートフォーラムで開催。1989(平成元)年第74回院展で「エローラ(カイラ・サナータ寺院)」が文部大臣賞、93年第78回院展では「グランド・キャニオン」が内閣総理大臣賞を受賞。那須の自然に始まりスペイン、ネパール、中国、アメリカの大自然を題材に、繊細な筆線で画面を埋め尽くし、モティーフの感触を確かめながら自然に近づく制作態度を一貫して保つ。93年に東北芸術工科大学芸術学部助教授(95年より教授)となって後進の指導にあたり、2006年から11年まで学長を務めた(11年には同大学名誉学長に就任)。94年、栃木県文化功労者として表彰。同年にパリ・三越エトワールで「地と宙へ 松本哲男展」を開催。05年には、90年代半ばより取り組んでいた世界三大瀑布(ナイアガラ、ヴィクトリア・フォールズ、イグアス)のシリーズを完成させ、宇都宮美術館で記念展を開催。08年には同シリーズにより第16回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。この間06年には日本美術院理事となる。没後の13年から14年にかけて、佐野市立吉澤記念美術館にて師の一人であり終生親交を結んだ塚原哲夫との二人展が開催されている。

室井東志生

没年月日:2012/10/05

読み:むろいとしお  日本画家で日展理事の室井東志生は10月5日、胃がんのため死去した。享年77。 1935(昭和10)年2月25日、福島県下郷町に生まれる。本名利夫。中学時代より日本画に憧れ、高校卒業後に上京して東京都内の美術学校に通うも身体を壊し帰郷。中学教師を勤める傍ら県総合美術展覧会(県展)に出品、審査員の大山忠作と交流を深め再び上京、大山の紹介で58年橋本明治に師事する。60年第3回新日展に東志生の雅号で応募した「緑蔭」が初入選し、以後毎年入選。67年法隆寺金堂壁画再現模写で橋本明治班に加わり11号壁の普賢菩薩像模写に従事。69年には橋本明治の助手として皇居新宮殿正殿松の間杉戸絵「桜」制作に携わる。69年改組第1回日展で「家族」が特選・白寿賞、78年10回展で「女人」が特選を受賞。83年日展会員となる。85年には院展の高橋常雄、大矢紀、日展の中路融人とともに異歩騎会を結成。1995(平成7)年「夢結」で第27回日展会員賞受賞。99年日展評議員となる。2004年第36回改組日展で舞妓と孔雀を描いた「青曄」が内閣総理大臣賞を受賞。12年日展理事となる。気品のある中に妖しさをはらんだ作風を追究、舞妓や、五代目坂東玉三郎、五代目柳家小さんら著名人をモデルとした作品を発表し人気を博した。

to page top