本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





加藤東一

没年月日:1996/12/31

読み:かとうとういち  元日展理事長で文化功労者の日本画家加藤東一は12月31日午後零時2分、肺炎のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年80。大正5(1916)年1月6日、岐阜県岐阜市美殿町1番地に生まれる。6男5女のうちの五男、第9子で生家は漆器商を営み、三男の兄栄三は後に日本画家となった。昭和9(1934)年岐阜県立岐阜中学を卒業し、画家を志しながら家業の手伝いをすることとなる。同12年千葉県在住の叔父宅に寄宿し、柏市の広池学園で道徳科学を学ぶ。同15年12月東京美術学校を受験するため千葉県市川市に住んでいた兄栄三を頼り上京し、翌16年同校日本画科に入学する。結城素明、川崎小虎らに師事。同17年応召し、同20年復員。同21年東京美術学校に復帰し、小林古徑、安田靫彦らに師事する。同22年同校を卒業。同年より高山辰雄を中心とする「一采社」に参加し同第6回展より出品を始める。また、同年第3回日展に「白暮」で初入選。以後同展に出品を続ける。翌23年より山口蓬春に師事。同27年第8回日展に「草原」を出品し特選となる。同30年第11回日展に「砂丘」を出品して特選・白寿賞を受賞し、翌年より日展出品委嘱となった。同32年山口蓬春の勧めにより大山忠作らと研究団体「三珠会」を結成し、展覧会を開催する。同33年日展が社団法人として発足したのちも同展に出品を続ける。同36年日展審査員となる。同38年5月から7月まで大山忠作とともにギリシャ、エジプト、スペイン、フランス、イギリス、アメリカ等を巡遊。同42年12月、日本縦断を主題に1年を費して制作した「津軽風景」等8点の新作を兼素洞で発表する。同43年末から翌年1月中旬にかけて兄栄三、大山忠作らとともにインド、ネパールへ旅行する。同45年第2回改組日展に「残照の浜」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。同50年日展理事に就任。同52年第8回改組日展に「女人」を出品して第33回日本芸術院賞を受賞。同54年同監事となる。同55年日本放送出版協会から現代日本素描集第15巻『長良川流転』が出版される。同59年9月東京銀座松屋で「加藤東一展」(日本経済新聞社主催)が開催され、昭和24年以降の日展出品作を中心に回顧展的な展観が行われた。同展は岐阜県美術館、大丸心斎橋店(大阪)に巡回した。平成元(1989)年日展理事長となる。同3年岐阜市に加藤栄三・東一記念館が開館。同7年文化功労者となった。昭和44年サカモト画廊、同45年彩壷堂、同47年名古屋松坂屋、同54年北辰画廊、同57年日本橋高島屋など、画廊、百貨店での個展を数多く開催し、作品の発表を続けた。一貫して風景、人物等に取材した具象画を描き続けたが、昭和30年代の一時期、抽象表現を試みたのち、色面や形体の構成に緊密の度を増した。日展での受賞作のほか、5年の歳月をかけて平成5年に完成させた金閣寺大書院障壁画などが代表作として挙げられる。この壁画を展示する「加藤東一金閣寺大書院障壁画展」が平成8年1月4日から29日まで東京の伊勢丹美術館で開催された。

北岡高一

没年月日:1996/12/18

読み:きたおかこういち  機織りに用いる竹筬の製作者で国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の北岡高一は12月18日午後10時、心筋こうそくのため京都市上京区小川通寺之内下ルの自宅で死去した。享年62。昭和9(1934)年2月20日京都市上京区小川通寺之内下ル射場町577番地に生まれる。生家は天正9(1581)年創業と伝えられる京都の筬(おさ)屋で、京都の重要な地場産業である絹織物のための機織り道具である筬(おさ)を製作し続けてきた。筬は縦糸の配列を整えるとともに織幅を一定に保ち、さらに縦糸と緯糸の打ち込みを堅固にするための櫛のような機能を持つ。材料により金筬と竹筬に分類され、また用途によって絹織物用の絹筬と綿織物用の綿筬等に分けられる。絹織物に用いられる竹筬は密度が高く、曲尺一寸に120枚もの羽が入る精巧なもので、金欄や爪掻き綴など濡緯(水で濡らした緯糸)を用いる高度な織物には絹筬が必須である。北岡高一は幼少時から父忠三に師事して伝統的な絹筬の製作、修理を学び、京都第一工業高校(現洛陽高校)を卒業後、家業の絹筬製作に専念した。平成3年(1991)年京都府選定保存技術筬製作の保持者として京都府教育委員会の認定を受け、同8年5月に国の重要無形文化財(筬製作・修理)保持者(人間国宝)として認定された。精緻な絹筬製作に高度な技術を示し、また、破損した筬の修理も併せて手がけ、伝統的な絹織物制作のために尽力した。

藤松博

没年月日:1996/12/01

読み:ふじまつひろし  前衛的な作品で知られた洋画家の藤松博は12月1日午後2時35分、脳こうそくのため東京都新宿区の東京医大病院で死去した。享年74。大正11(1922)年7月12日、長野県に生まれる。昭和20年東京高等師範学校を卒業。瀧口修造と交友し、同27年読売アンデパンダン展に「手相」を出品。翌年同展に「花火」「玉のり」などを出品し、前衛的な作風で注目される。同31年渡米し、36年までニューヨークに滞在して活動する。帰国後、切り紙風のシルエットのような人体像や色斑による人体像を描き、抽象表現に学んだ具象画で注目された。代表作に「月(ひとがた)」や「旅人」の連作などがある。

鹿島一谷

没年月日:1996/11/23

読み:かしまいっこく  布目象嵌の技術を伝承する金工家で区に指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の鹿島一谷は11月23日午後零時20分、老衰のため東京都台東区池之端の自宅で死去した。享年98。明治31年5月11日、東京都下谷区に生まれる。父一谷光敬、祖父一谷斎光敬と金工を家業とする家の長男で本名栄一。同45年下谷高等小学校を卒業。父、祖父より布目象嵌を、後藤一乗、関口一也、関口真也父子に彫金を学び、父が早世したため20歳で独立する。昭和4(1929)年第10回帝展に一谷の名で「焔文様金具」で初入選。同7年第13回帝展に栄一の名で「朧銀布目水鴛文盆」を出品する。同24年第5回日展に「金工水牛文花器」で特選受賞。同30年社団法人日本工芸会の創立に参加し同会正会員となる。同32年3月文化財保護委員会により、記録作成等の措置を投ずるべき無形文化財布目象嵌の技術者として選択される。同39年、唐招提寺蔵国宝金亀舎利塔保存修理、同40年山形県天童市若松寺重要文化財金銅観音像懸仏保存修理に従事する。同54年国指定重要無形文化財保持者の認定を受ける。同59年、東京都日本橋三越本店で初めての個展を開催し、その後同じく日本橋三越本店で同63年、平成5、7年に個展を開催。平成2(1990)年には日本橋三越本店で「人間国宝 音丸耕堂・鹿島一谷」展を開催した。

久保貞次郎

没年月日:1996/10/31

読み:くぼさだじろう  美術評論家で跡見学園短大学長、町田市立国際版画美術館館長をつとめた久保貞次郎は10月31日午前11時30分、心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年87。 明治42年5月12日、栃木県足利市に、父小此木仲重郎、母ヨシの次男として生まれる。昭和3年4月日本エスペラント学会に入会。同8年東京帝国大学文学部教育学科を卒業して同大大学院に進学する一方、同年4月より一年間、大日本聯合青年団社会教育研究生となる。また、同年11月結婚により久保家の婿養子となり、久保と改姓する。同10年、日本エスペラント学会の九州特派員として九州各地をまわり、宮崎で後に瑛九となる杉田秀夫に出会い、現代美術への興味を深め、以後瑛九を通じてオノサト・トシノブなどの作家たちと交遊を持つにいたった。同13年4月栃木県真岡町小学校校庭に久保講堂が竣工し、その記念事業として児童画展が行われるに伴いその審査員をつとめ、同年8月児童美術ならびに美術の研究のため北アメリカ、ヨーロッパへ渡り翌14年5月に帰国する。同19年秋、真岡に航空会社を設立。戦後の同26年瑛九を中心にデモクラート美術協会が結成されると、会員とはならずに外部から評論家として支援。同27年創造美育協会設立に参加した。評論家、収集家として主に現代版画の振興に尽くし、瑛九のほか、北川民次、利根山光人、泉茂、吉原英雄、池田満寿夫、小田㐮、深沢史朗、木村光佑らと交遊が深かった。同41年にはヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表をつとめる。同52年10月跡見学園短期大学学長に就任し、8年間その任にあたった。また、同61年9月から平成5年3月まで町田市立国際版画美術館館長をつとめた。著書に『ブリウゲル』(美術出版社)、『シャガール』(みすず書房)、『児童画の見方』(大日本図書)、『児童美術』(美術出版社)、『子どもの創造力』(黎明書房)、『児童画の世界』(大日本図書)、『ヘンリー・ミラー絵の世界』(叢文社)、『久保貞次郎 美術の世界』全12巻(叢文社)などがある。平成4年6月、町田市立国際版画美術館で「久保貞次郎と芸術家展」が開かれ、その業績が回顧された。

鈴木良三

没年月日:1996/10/19

読み:すずきりょうぞう  元日展審査員の洋画家鈴木良三は10月19日午後9時3分、肺炎のため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年98。明治31(1898)年3月29日茨城県水戸市東台665に下市病院院長鈴木錬平(とうへい)の三男として生まれる。県立水戸中学校を卒業して大正6(1917)年東京慈恵医大に入学。同年、叔父の幼なじみであった画家中村彝を訪ね、以後彝に師事。慈恵医大に在学しながら同年から川端画学校にも通学し、同11年平和記念東京博覧会に「夕づける陽」を出品する。同年慈恵医大を卒業するが、中村彝周辺の画家たちとともに「金塔社」を結成して活動し同年6月に第1回金塔社展を開催する。また、同年第4回帝展に「秋立つ頃」で初入選。この後も帝展に出品したほか光風会展、太平洋画会展などにも出品。昭和3(1928)年5月に渡仏し、同5年12月に帰国。この間、栗原信、永瀬義郎、中西利雄らと交遊し、また、スペイン、イタリア等を旅行している。滞欧中にパリから第11回帝展に「微睡」を、翌昭和6年の第12回帝展に「グラス風景」を出品。同7年芸術使節団の一員として東南アジアを訪問。同11年12月、有島生馬、石井柏亭、木下義謙、安井曽太郎らによって一水会が創設されると、同展に出品し、以後同展に出品を続ける。同14年第3回一水会展に「手術」「若き母」を出品して、具方賞を受賞。また、同年に行われた第1回聖戦美術展に「鉄道員の活躍」を出品する。同18年陸軍参謀本部と日本赤十字の依頼により従軍画家としてビルマ方面に赴く。戦後の同21年一水会会員となり、同27年同会委員となる。戦後の制作には海をモティーフとした作品が多く、海景の画家として知られた。同49年フランス、スペインなどを写生旅行。同56年茨城県県民文化センターで「画道60年記念鈴木良三展」が開催され、同60年東京セントラル美術館で「米寿記念鈴木良三海姿百景展」が開かれた。また、平成3(1991)年茨城県近代美術館で「鈴木良三・佐竹徳展」が開かれており、年譜は同展図録に詳しい。その作風は中村彝が「鈴木良三君があの素直で平明な観照のもとに、美しき自然の諸相を描き」と評したように、簡略化した形態把握と豊麗な彩色を特色とした。

青山義雄

没年月日:1996/10/09

読み:あおやまよしお  洋画家青山義雄は、10月9日午前9時34分、膀胱がんのため神奈川県茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会総合病院で死去した。享年102。明治27(1894)年1月10日、現在の神奈川県横須賀市に生まれ、父の転勤にともない三重県鳥羽、北海道根室で幼年時代をすごし、同39年に根室商業学校に入学した。しかし同41年、画家をこころざして同学校を中退し、講義録をもとに絵を独習しはじめた。同43年に上京、翌年1月に日本水彩画会研究所に入所し、大下藤次郎に師事し、同年10月に大下が没すると、永地秀太に指導をうけた。大正2(1913)年、根室にもどり、水産加工場、牧場、小学校の代用教員など、さまざまな仕事をしながら制作をつづけた。かねてより外国に渡る意志をもっていたが、同10年にフランスに渡った。パリでは、はじめアカデミー・ランソン、ついでグラン・ショーミエールでデッサンを学び、また日本人会の書記として、館に住み込みで働くようになった。また、この年には、はやくもサロン・ドートンヌに初入選し、翌年にも「二人の男」が入選した。この日本人会において、林倭衛、土田麥僊、木下杢太郎、大杉栄、小宮豊隆などパリに滞在する多くの日本人画家や文化人と親交した。同14年、喀血したため、医師のすすめで南仏カーニュに転居した。翌年、ニースの画廊に委託していた自作が、アンリ・マティスの眼にとまり、その色彩表現を賞賛されたことが機縁となり、その後マティスに作品の批評を受けるようになった。また、翌年、マティスを介して福島繁太郎を知り、その後福島からは物心にわたる援助を受けることになった。一方、フランスで制作をつづけるかたわら、昭和3(1928)年の第6回春陽会展から出品し、同9年の第12回展まで出品をつづけ、会員となっていたが、この年に同会を辞した。また、同年には、和田三造の紹介により、商工省の嘱託となり、ヨーロッパ各地の工芸事情を視察した、その結果を報告するために同10年に帰国した。帰国の翌年には、梅原龍三郎の勧誘をうけて国画会会員となった。同12年には、第1回佐分真賞を受賞、翌年には、第2回新文展の審査員として、幼年時代をすごした北海道根室に取材した「北洋落日」を出品した。同27年、フランスに渡り、ニースに住むマティスに再会、カーニュにアトリエをかまえて制作をつづけた。同32年には、63才にして運転免許をとり、ヨーロッパ各地を取材旅行するようになった。その後は、平成元(1989)年に帰国するまで、日仏間を往還しながら、旺盛な制作をつづけ、国内では個展において新作を発表していた。同5年、中村彝賞を受賞、同7年には茨城県近代美術館において中村彝賞受賞記念して初期から近作にいたる約120点からなる回顧展が開催された。南仏特有の明るい陽光からうまれた、その鮮やかな色彩表現は、終生衰えることはなかった。

鈴木健二

没年月日:1996/10/08

読み:すずきけんじ  美術評論家で滋賀県立陶芸の森館長、元九州芸術工科大学教授の鈴木健二は、10月8日午後10時、肝硬変のため福岡市南区の病院で死去。享年67。昭和4(1929)年9月27日山形県に生まれる。同30年東京芸術大学美術学部芸術学科を卒業し、同35年に京都大学大学院文学研究科博士課程を修了。同38年国立近代美術館京都分館(現・京都国立近代美術館)文部技官となり、特別展「現代の陶芸―カナダ・アメリカ・メキシコと日本」(昭和46年)などを担当。その後同館主任研究官、九州芸術工科大学教授、佐賀県立有田窯業大学校長などを経て平成5(1993)年滋賀県立陶芸の森館長に就任。近代以降の陶芸を中心にした工芸が専門。とくに戦後の陶芸の動きに積極的に発言し、九州の現代作家についても活発に評論活動をした。『現代日本の陶芸』(講談社)を編集。

内山正

没年月日:1996/09/29

読み:うちやまただし  元国立西洋美術館長、元文化庁次長の内山正は、9月29日午後10時28分、肺炎のため川崎市宮前区の病院で死去した。享年79。大正6(1917)年4月1日、佐賀県に生まれる。東京大学を卒業後、昭和25(1950)年大分県教育委員会、同29年岡山県教育委員会を経て、同35年文化財保護委員会無形文化課長、同38年文部省調査局国語課長となる。同42年に同省文化局審議官、同43年文化庁文化財保護部長、同47年奈良文化財研究所長、同49年文化庁次長、同51年国立劇場理事となる。同54年には国立西洋美術館長に就任、同57年まで務めた。同62年勲二等瑞宝章受章。

高見堅志郎

没年月日:1996/09/16

読み:たかみけんしろう  美術評論家で武蔵野美術大学教授の高見堅志郎は、9月16日午前2時50分、肺水腫のため千葉県市川市の国府台病院で死去した。享年62。昭和8(1933)年兵庫県に生まれる。同32年早稲田大学文学部卒業。同36年同大大学院修士課程(美術史学専攻)修了。同38年より武蔵野美術大学で教鞭をとり、後に武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン学科教授、早稲田大学文学部講師を務める。主な著書に『近代世界美術全集 第11巻 近代建築とデザイン』(共著 社会思想社 昭和40年)、『ヴィヴァン 第22巻 シャガール』(講談社 平成7年)、監修に『世界の文様』(青菁社 平成元年)など近代美術・近代デザインに関するものが多い。昭和62年から雑誌『武蔵野美術』の責任編集者。武蔵野美術大学が運営する「ギャラリーαM」の企画にも関わる。平成6年からは市政顧問(館長予定者)として、新設される宇都宮美術館の構想・企画・作品収集などに従事していた。

土屋幸夫

没年月日:1996/09/04

読み:つちやゆきお  洋画家で、武蔵野美術大学名誉教授の土屋幸夫は、9月4日午前8時36分、肺気しゅのため東京都多摩市の日本医大多摩永山病院で死去した。享年85。明治44(1911)広島県尾道市に生まれ、昭和6(1931)年に東京高等工芸学校を卒業、翌年第2回独立美術展に「イゝグラの坂路」が初入選した。以後、独立美術協会には、同8年の第3回展に「尾道風景」、同十年の第5回展に「出帆」、同11年の第6回展に「静物(母性的果実)」、同12年の第7回展に「歪められたる静物の印象」、同13年の第8回展に「飛翔の幻想」が入選した。一方、同8年には、郷里の尾道市商工会議所において最初の個展を開催、同11年には、銀座紀伊国屋画廊でも個展を開いた。同12年には、糸園和三郎、斎藤長三等が同9年に結成した前衛美術グループ「飾絵」の同人として参加、この年の第4回展に出品した。この当時の作品として残されている「仮装」(1936年)では、抽象表現を試みており、また「人形の行進(鬼)」(1937年)では、写実表現ながら、幻想性をつよく感じさせ、シュルレアリスムからの影響をしめしている。しかし、このグループは翌年4月に解散し、同月に結成された創紀美術協会に創立同人として参加した。同年7月の同協会京都前哨展に「果てなき嗜食」、翌年の第1回展に「哺乳の海邊」、「錯覚する者」、「苛める」を出品した。同14年には、美術文化協会創立にあたり同人として参加、翌年の第1回展に「蒐集狂的散点模様」、「睡れる提琴」、「小児季記憶のあらはれ(瀬戸内海の島々)」を出品した。同17年の第4回展まで会員として出品し、応召と戦後の復員までの中断をはさんで、同24年の第9回展まで出品をつづけた。また、戦後の同22年には、日本アヴァンギャルド美術家クラブ結成に参加し、同26年にはタケミヤ画廊で個展を開催した。同32年には、武蔵野美術大学に赴任し、後進の指導にあたるようになり、また同50年から同56年まで、現代芸術研究室を設け、ここを会場に自身の個展を開催するとともに、多くの新人にも作品発表の機会をあたえた。平成7(1995)年には、パルテノン多摩市民ギャラリーを会場に、「土屋幸夫1930ー1995展」を開催、初めての回顧展として初期から近作までを出品した。戦前の前衛画家として出発した土屋は、戦後も、アンフォルメルなど現代美術の潮流から影響をうけつつ、絵画や立体作品に、一貫した独自の造形感覚を示しつづけた。

大野昭和斎

没年月日:1996/08/30

読み:おおのしょうわさい  国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の木工芸家大野昭和斎は8月30日午前5時36分、肺炎のため岡山県倉敷市の倉敷平成病院で死去した。享年84。明治45(1912)年3月4日岡山県総社市八代244番地に大野斎三郎の長男として生まれる。本名片岡誠喜男(かたおか・せきお)。大正9(1920)年、一家で倉敷市西阿知町に移住し、同15年西阿知尋常高等小学校を卒業して同年より父に木竹工芸の手ほどきを受ける。昭和10(1935)年文人画家柚木玉邨より「昭和斎」の号を授受。同12年中国四国九県連合展に「松造小箱」を出品して特賞受賞。同13年より岡山県工芸協会工芸展に出品し同14年同会評議員となる。同38年日本工芸会中国支部展に「桑盛器」を出品して支部長賞受賞。同40年第12回日本伝統工芸展に「欅香盆」で初入選し、以後同展に出品を続け、同43年第15回同展に「拭漆桑飾筥」で日本工芸会会長賞を受賞して、同年日本工芸会正会員となる。同49年「木創会」を創立し、伝統工芸の保護と後進の指導にあたった。同52年岡山県重要無形文化財の指定を受け、同59年には国の重要無形文化財「木工」保持者となった。また、同年日本工芸会参与となる。同60年人間国宝認定記念展として「大野昭和斎-木のこころ」展が倉敷市主催により市立美術館で開催される。平成4(1993)年『人間国宝大野昭和斎の木工芸』が至文堂より刊行され、また同年その出版記念として「傘寿 人間国宝大野昭和斎木工芸展」が倉敷三越百貨店で開催された。指物、くり物、木象嵌、すり漆等の諸技術を総合的に駆使し、伝統技術を現代の器に生かす試みを続け、木目に金箔を擦り込む「杢目沈金」の技法を創出して知られた。

野口園生

没年月日:1996/07/25

読み:のぐちそのお  衣裳人形作家で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の野口園生は7月25日午後5時10分、心不全のため静岡県伊東市大室高原の自宅で死去した。享年89。明治40(1907)年1月23日東京府下谷区谷中清水町1番地に生まれる。大正13(1924)年、東京市立女子第一技芸高等女学校(現・東京都立忍岡高校)を卒業。昭和12(1937)年堀柳女人形塾に入門し、翌13年申戌会芸術人形展に「みぞれ降る日」を出品。同14年童宝美術院人形展に「家路」を出品して奨励賞、同15年同展に「遊山」を出品して優秀賞を受ける。同18年戦時下にあって堀人形塾が解散したため、しばらく制作を中断するが、戦後再開し、同22年第3回日展に「宴の途」を出品。同23年第1回東京都工芸協会展に「秋の草」を出品して二等賞、翌年の同展には「港町」を出品して同三等賞を受賞した。同25年人形塾を開き、また同年の現代人形美術展に「雨後」を出品して朝日新聞社賞受賞。同28年の現代人形美術展では「霧の朝」で努力賞を受賞する。同30年より蒼園会を主宰し銀座松屋で展覧会を開催する。同31年日本伝統工芸展に入選して以後同展に出品を続け同34年日本工芸会会員となった。同37年日本伝統工芸展新作展に「寂秋」を出品して奨励賞受賞。以後も日本伝統工芸展、同新作展に出品を続ける。同59年喜寿記念『ごくらく一寸のぞきみ』を刊行。同61年国指定重要無形文化財保持者(衣裳人形)に認定され、同年『野口園生人形作品集』が刊行された。同62年より平成5年まで人間国宝新作展に小品の出品を続けた。日常生活に根ざした季節感、自然の情趣を大胆にデフォルメした人体によって表現し、独自のフォルムと詩情を持つ作風を示した。

新藤武弘

没年月日:1996/07/21

読み:しんどうたけひろ  跡見学園女子大学教授で東洋美術史研究者の新藤武弘は、7月21日午後10時、多臓器不全のため千葉県君津市の玄々堂君津病院で死去した。享年62。昭和9年(1934)4月25日、東京に生まれる。同35年(1960)3月、東京大学文学部美学美術史学科を卒業、大阪市立博物館の学芸員となり、翌年京都国立博物館学芸課文部技官、その後、同38年ハーヴァード燕京協会奨学金でアメリカへ留学、ハーヴァード大学でマックス・ラー教授に師事、同41年6月同大学大学院修士課程を修了。翌年、サンフランシスコ・アジア美術館に勤務。同43年には大阪万国博美術館副参事を務める。同49年4月に跡見学園女子大学文学部文化学科の専任講師となり、52年4月に助教授、56年4月から教授。この間、昭和51年(1976)4月から60年3月までは、新潮社嘱託として、現在最も基本的な美術辞典である『新潮世界美術辞典』の編集に関わった。研究対象は幅広く、巨然から石涛・八大山人までについての論攷がある。専門の中国絵画史以外にも、蕪村についての研究があり、詩と歌・中国と日本・夢と現実など様々なものを淵源とするイメージが、俳諧と絵画の中に自在に立ち現れる様を描いている。その視野には、異なるメヂィア・異なる文化の中でのイメージの往来というより大きな問題があった。英語・中国語に堪能で、マイケル・サリバンやジェームス・ケーヒルの主著の翻訳があり、米国・中国でも多彩な研究活動を行った。主要研究業績『山水画とは何か-中国の自然と芸術』福武書店 1989年「八大山人と石涛の友情について」『跡見学園女子大学紀要』9、1976年「巨然について-北宋初期山水画における南北の邂逅」『跡見学園女子大学紀要』17、1984年「都市の絵画-清明上河図を中心として」『跡見学園女子大学紀要』19、1986年「石涛と≪廬山観瀑図≫」『跡見学園女子大学紀要』21、1988年「蕪村小考-計画論的-考察」『日本絵画史の研究』1989年翻訳マイケル・サリバン『中国美術史』新潮社 1973年ジェームズ・ケーヒル「中国絵画における奇想と幻想」『国華』978~980、1975年ジェームズ・ケーヒル『江山四季-中国元代の絵画』明治書院 1980年王概編『新訳芥子園画伝』日貿出版社 1985年ジェームズ・ケーヒル『江岸別意-中国明代初中期の絵画』明治書院 1987年

木下義謙

没年月日:1996/07/16

読み:きのしたよしのり  洋画家で、一水会創立会員、女子美術大学名誉教授の木下義謙は、7月16日午後7時47分、心不全のため東京都世田谷区の吉川内科小児科病院で死去した。享年97。明治31(1898)年、現在の東京都新宿区四谷に生まれた。両親とも和歌山県出身で、父友三郎は、法政局参事官から明治大学の校長、学長を歴任した。大正4(1915)年、学習院中等科を卒業、同年東京高等工業学校機械科に入学、同7年に卒業、翌年から同学校助教授となった。油彩画は独学ではじめたが、同学校を辞職した同10年の第8回二科展に「兄の肖像」が初入選した。このとき、やはり油彩画を独学していた兄孝則(1894~1973)も、「富永君の肖像」が初入選した。その後は、二科展に出品をつづけ、同15年の第13回展では、「N氏の肖像」等7点を出品、二科賞を受賞した。また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加、同12年の第1回展から同14年の第4回展まで出品した。同15年に結成された1930年協会の会員として、昭和2(1927)年の第2回展、翌年の第3回展に出品した。同3年から7年まで渡仏、パリで制作し、サロン・ドートンヌなどにも出品した。帰朝した年の第19回二科展には、滞欧作品36点が特別陳列された。同11年、二科会会員を辞退し、石井柏亭、安井曽太郎、兄孝則とともに一水会を結成した。戦後になると、ひきつづき一水会や日展に出品するとともに、同22年からは女子美術専門学校(現在の女子美術大学)の教授となり、後進の指導にあたった。同25年、前年の第5回日展に出品した「太平街道」により、芸能選奨文部大臣賞を受賞、またこの年より陶芸制作をはじめた。その後、しばしば一水会展に油彩画とともに陶芸作品を出品するようになり、同33年には、硲伊之助とともに同会に陶芸部を創設した。同51年には、平明な自然観照にもとづいた誠実な画風からなる初期作品から近作にいたる油彩画87点と陶芸作品11点から構成されたはじめての回顧展として「木下義謙作品展」が、和歌山県立近代美術館において開催された。同54年に、勲三等瑞宝章を、翌年には和歌山県文化功労賞を受賞した。同57年には、画業50年を記念して油彩画、水彩画65点からなる「木下義謙展」を日動画廊において開催した。

本阿弥日洲

没年月日:1996/07/13

読み:ほんあみにっしゅう  刀剣研ぎ師で国指定重要無形文化財保持者の本阿弥日洲は7月13日午前7時35分、急性心不全のため東京都大田区上池台の自宅で死去した。享年88。明治41(1908)年2月23日、東京に生まれる。本名猛夫。名研ぎ師と言われた父平井千葉に幼少のころから家業の刀剣研磨・鑑定を学んだ後、本阿弥琳雅に師事して刀剣鑑定法を修練した。昭和3(1928)年本阿弥家の養子となって室町時代から続く名家である本阿弥家を継いで第23代当主となった。戦前は内務省神社局の命により伊勢神宮内陣や明治神宮内陣の宝刀の研磨を行う一方、軍刀審査員となり、また文部省の命により神社仏閣等の国宝、重要文化財刀剣の研磨に従事した。戦後は長く刀剣登録審査委員をつとめ、研師の立場から日本刀の姿、平肉の置き加減、帽子の形、焼刃の処理などについて現代刀匠の刀剣制作に助言を与え、伝統的作刀の技法を継承することに寄与した。古刀から現代刀に至る幅広い時代の刀の研磨に通暁し、特に相州物、山城物などの各伝の刀剣類の研磨を得意とした。海外に所蔵される日本の刀剣の調査、保存にも寄与し、昭和47年には米国のメトロポリタン美術館、ボストン美術館にある日本の刀剣の調査を行っている。砥石の選択、刀身の砥石への当て方、刀身の押し引きの調子、鍛造及び下地の仕上げ、拭いの材料の作り方等に卓抜な技量を示し、同50年に国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定された。上古刀をはじめ、美術刀剣類の研磨、刀剣鑑定に優れ、後進の指導に尽力した。

三橋兄弟治

没年月日:1996/06/17

読み:みつはしいとじ  水彩画家で、水彩連盟理事長の三橋兄弟治は、6月17日午前9時40分、結腸がんのため、神奈川県茅ヶ崎市の自宅で死去した。享年85。明治44(1911)年1月22日、神奈川県茅ヶ崎市に生まれ、大正15(1926)年小学校高等科を卒業し、同年神奈川県師範学校に入学した。在学中の昭和4(1929)年、第6回槐樹社展に「妹の像」が初入選し、また同会同人の金沢重治を知り、以後指導を受けるようになった。翌年、同学校を卒業して小学校教員になるが、画家志望の念が強まり、翌年には教員をやめて上京、独立美術研究所などで学んだ。その間、同10年の第4回旺玄社展に「サナトリウムの一角」等が、また翌年の第23回二科展に「浴衣のルーちゃん」がそれぞれ初入選した。以後、再び教員となりながら、制作をつづけ、同15年の第9回旺玄社展に出品した「港」により第一賞をうけ、翌年には同会同人に推挙され、また紀元二千六百年奉祝展に「芝生に憩う少女」が入選した。戦後になると、創元会、日展、水彩連盟展などに出品をつづけ、同28年には、水彩連盟展の会員となった。しかし同30年には創元会会員を退き、同時に日展への出品も以後とりやめた。また、同27年頃より、水を使わずに絵具を堅い筆で紙にこすりつける描法をとりいれ、静物画や肖像画において点描風の温雅な画面をうみだすことに成功した。しかし、次第に構成的な表現に変化し、同33年頃からは、いわゆる「熱い抽象」の影響をうけて、抽象表現を試みるようになった。茅ヶ崎市の中学校の教員を辞した同39年から翌年にかけて、はじめてヨーロッパ旅行をした。この旅行を契機に、ヨーロッパの景色、風物に惹かれるようになり、同43年からは、ふたたび具象的な表現にかえった。その後は、たびたびスペイン、南仏を中心に取材旅行におもむき、その収穫として静謐な古都市の風景画の多くを水彩連盟展や個展で発表しつづけた。同63年、水彩連盟展の初代理事長に選出され、その翌年には60年におよぶ画業を記念して新宿小田急本店グランドギャラリーで回顧展が開催され、また平成2(1990)年にも、茅ヶ崎市、横浜市において約100点からなる「三橋兄弟治の世界展」が開催された。

谷口良三

没年月日:1996/06/07

読み:たにぐちりょうぞう  日展評議員の陶芸家谷口良三は6月7日午後6時15分、肺がんのため京都市上京区の京都府立医科大病院で死去した。享年70。大正15(1926)年3月8日京都市東山区五条橋東6丁目に生まれる。昭和17年京都市立第二工業高校窯業科を卒業。同20年日本製鉄に勤務する。同22年四耕会を結成。翌23年京都陶芸家クラブに加入し六代清水六兵衛に師事する。同31年第5回現代日本陶芸展に「白釉線花器」を出品して第一席となる。同36年第4回日展に「線花器」を出品して北斗賞特選受賞。同39年国際陶芸展に「赫釉方壷」を招待出品する。同40年第9回日展に「碧象」を出品して菊華賞受賞。同47年ヨーロッパ、中近東に研修旅行し、同49年フランス、イタリア、スペインに赴く。同51年第62回光風会展で辻永記念賞受賞。同年東京日本橋三越本店ではじめての個展を開催する。同56年、平成3年にも同店で個展を開催。この間同52年岡山高島屋、同53年京都朝日画廊、同59年高砂市福祉センターなどで個展を開催。同56年京展に「樹想」を出品して須田賞受賞。平成元(1989)年京都府文化功労賞受賞。同2年日展評議員となり、同7年第27回日展に「夕照」を出品して内閣総理大臣賞を受賞した。同年高砂文化センターで個展を開催している。碧彩と呼ばれる独自の色合いの陶磁器を制作し、京焼に新風を吹き込んだ。昭和50年より60年まで新潟大学非常勤講師、同51年より平成6年まで金蘭短期大学非常勤講師をつとめ、後進の指導にあたった。

菅井汲

没年月日:1996/05/14

読み:すがいくみ  現代美術家の菅井汲は、5月14日午後1時35分、心不全のため神戸市の六甲病院で死去した。享年77。大正8(1919)年3月13日、神戸市東灘区御影町に生まれ、幼少時、心臓弁膜症と診断され、病床生活を送り、そのため中学進学の時期にも遅れたため、昭和8(1933)年知人のすすめで大阪美術学校に入学した。しかし、病後の回復も充分ではなかったことから退学し、同12年から20年まで、阪急電鉄の宣伝課に勤務し、商業デザインの仕事に従事した。自作の油彩画を吉原治良から批評してもらいながら、独学していたが、二科展などには落選しつづけた。同27年にフランスに渡り、同29年には、パリのクラヴェン画廊と契約して、最初の個展を開催した。翌年には、リトグラフを試みるようになった。1950年代後半から60年代前半には、重厚なマチエールと単純化された土族的なフォルムによる抽象絵画を制作していた。同32年には、第1回東京国際版画ビエンナーレにリトグラフを出品、同年の新エコール・ド・パリ展(ブリヂストン美術館)にガアッシュを出品、これが日本での最初の作品紹介となった。また、同33年には、カーネギー国際美術展(ピッツバーグ)、翌年には第2回ドクメンタ展(カッセル)、第3回リュブリアナ国際版画展など、国際展に出品をかさね、フランス国内から国際的にも高い評価をうけるようになった。同35年、第2回東京国際版画ビエンナーレ展に出品、東京国立近代美術館賞を受けた。同42年、ヴァカンスの帰路、自動車事故をおこし、頚部骨折の重傷を負い、完治まで数年を要した。同44年、東京国立近代美術館から依頼された壁画「フェスティバル・ド・トーキョウ」が完成し、その取付に立ち会うために、渡仏以来、18年ぶりに帰国した。制作面では、「オート・ルート」シリーズなど有機的なフォルムと明るい色彩による抽象表現から、70年代以降は、「フェスティヴァル」シリーズなど道路標識をおもわせる無機的で、規格化されたフォルムと明快な色彩によって構成された平面作品を制作するようになった。戦後、欧米を中心に活躍しはじめた日本人作家としては、もっとも早い位置にあり、国際的な評価を得た画家であった。同58年から翌年にかけて、初期作品から近作まで80点によって構成された国内で最初の回顧展「菅井汲展」が東京の西武美術館、大原美術館を巡回した。平成3(1991)年には、芦屋市立美術博物館で、翌年にも大原美術館でそれぞれ個展を開催した。画集には、『菅井汲作品集』(昭和51年、美術出版社)、『SUGAI 菅井汲』(平成3年、リブロポート)などがあり、また吉行淳之介、原広司等との対談集『異貌の画家・菅井汲の世界』(昭和57年、現代企画室)を残している。

小高根太郎

没年月日:1996/04/28

読み:おだかねたろう  日本美術史家、富岡鉄齋研究者で元鉄齋研究所所長、鉄齋美術館名誉館長の小高根太郎は、4月28日午前11時56分、心不全のため、東京都世田谷区内の病院で死去した。享年87。小高根は明治42(1909)年4月23日、福岡県久留米市に生まれた。本籍は東京都世田谷区世田谷4の656。旧制東京府立第一中学校から、父の転勤に伴って昭和2(1927)年旧制大阪府立北野中学校卒業。昭和5年旧制大阪高等学校卒業。昭和8年東京帝国大学文学部美術史科を卒業して同大学院に進み、昭和10年6月文部省所管、帝国美術院美術研究所(現・東京国立文化財研究所)嘱託となり、同17年5月まで勤めた。その後、文部省国民精神文化研究所、さらに同研究所の改編により教学錬成所(現・国立教育研究所)に勤務した。戦後は東京都立大山高校教員のかたわら、東京国立近代美術館調査員、東京工業大学非常勤講師を勤めた。また、昭和50年4月から同58年3月まで鉄齋研究所長を勤め、平成5年2月から没するまで鉄齋美術館名誉館長であった。早くから富岡鉄齋の研究に取り組み、美術研究所時代に「富岡鉄齋・公私事歴録」(『美術研究』65号、昭和12年5月)、「富岡鉄齋詩文集上・下」(『美術研究』70、71号、昭和12年10月、11月)、「富岡鉄齋の旅行記について 富岡鉄齋旅行記 公刊」(『美術研究』82号、昭和13年10月)を発表し、昭和19年2月には、今も鉄齋研究の基本文献である『富岡鉄齋の研究』(藝文書院)を刊行した。その後も、『富岡鉄齋』(養徳社 昭和22年)、『人物叢書・富岡鉄齋』(吉川弘文館 昭和35年)、『鉄齋』(朝日新聞社 昭和48年)、『鉄齋大成』全5巻(講談社 昭和51年)など生涯に鉄齋に関して約40点の編著書、論文を著わした。中でも昭和44年から没するまでの28年にわたって『鉄齋研究』(全71号)に、鉄齋作品約2000点について、賛文を読み起こし、その出典を和漢の浩瀚な書籍を博捜して明らかにし、訓読し解釈した作業は、鉄齋研究における金字塔であり、余人の追随できないもので、その業績は永く鉄齋研究の基礎となるものである。その作業を通じて、小高根は鉄齋旧蔵の稀観書を少なからず発見し、それらの一部は鉄齋研究所の収蔵に帰した。また、小高根は鉄齋作品の鑑識にもすぐれ、清荒神清澄寺法主坂本光聡、富岡鉄齋嫡孫富岡益太郎とともに鉄齋作品の再発見に貢献した。主要編著書・論文富岡鉄斎「公私事歴録」 『美術研究』65(昭和12年5月)富岡鉄斎詩文集 上      『美術研究』70(昭和12年10月)富岡鉄斎詩文集 下      『美術研究』71(昭和12年11月)従軍画家としての寺崎廣業『美術研究』75(昭和13年3月)富岡鉄斎の旅行記に就いて富岡鉄斎の旅行記 公刊 『美術研究』82(昭和13年10月)菱田春草 (美術資料第九輯)(美術研究所 昭和15年3月)アーネスト・エフ・フェノロサの美術運動    『美術研究』110(昭和16年2月)アーネスト・エフ・フェノロサの美術運動(二) 『美術研究』111(昭和16年3月)富岡鉄斎 (養徳社 昭和22年3月)平福百穂 (東京堂 昭和24年8月) 无声会の自然主義運動   『美術研究』184(昭和31年4月)富岡鉄斎 人物叢書56 (吉川弘文館 昭和35年12月 新装版 昭和60年11月)富岡鉄斎 (日本美術社 昭和36年8月)富岡鉄斎・日本近代絵画全集第14 (講談社 昭和38年3月)鉄斎 (座右宝刊行会編 集英社発行 昭和45年5月)鉄斎(共著) ( 朝日新聞社 昭和48年12月)鉄斎・文人画粋編第20巻 (中央公論社 昭和49年10月)富岡鉄斎・日本の名画   (中央公論社 昭和50年5月)菱田春草 (大日本書画 昭和51年1月)鉄斎大成:全5巻(共編著) (講談社 昭和51年9月―57年6月)富岡鉄斎・現代日本絵巻全集第1巻 (小学館 昭和57年1月)鉄斎研究・全71号  (鉄斎研究所 昭和44年12月―平成8年6月

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