浅野孟府

没年月日:1984/04/16
分野:, (彫)

昭和初期、前衛美術運動に参加し活躍した彫刻家浅野孟府は、4月16日午後2時10分、肝硬変のため大阪市東区の上二病院で死去した。享年84。明治33(1900)年1月4日東京都に生まれる。本名猛夫。大正7年東京美術学校彫刻科に入学し塑造を学ぶ。北村西望に師事。在学中の同9年9月第1回未来派美術協会展に出品、同11年第9回日本美術院展に石膏像「頭」を出品する。同年10月神原泰らとアクションを結成。同12年第10回二科展に「肖像」、翌13年同展に「顔」を出品し、まだ出品数の少なかった二科展彫刻部の草創期に名をつらねる。同13年、アクション、未来派、マヴォなどが合同して三科造型美術協会を結成。同15年第1回聖徳太子奉讃美術展に「造型彫刻立像」「造型彫刻顔」を出品、受賞する。昭和2年、東京美術学校を中退。同3年第1回プロレタリア美術展に「レーニン像」、同5年同展に「習作」を出品する。同5年大阪へ移住し、翌年大阪プロレタリア美術研究所を設立。同12年陶芸研究のため野崎村に窯を開き移住する。同15年徴用されて、松下飛行機工場、東宝映画に勤務する。戦後、二科会の再編に参加して会員となるが、同30年野間仁根鈴木信太郎らによる一陽会に創立会員として参加し、植木力とともに彫刻部の指導的立場にあって出品を続ける。同45年、ギリシア旅行。同47年大阪彫刻家会議初代会長となる。同48年大阪芸術賞を受賞。肖像彫刻ではモニュメンタリティを加えつつ写実的作風を示したが、自由な制作においては写実にとらわれず、対象の形を簡略化、理想化した。初期作品にはアーキペンコの影響が強く見られる。
 一陽会出品作 昭和31年(第2回)「テラコッタの馬」、同32年「女」、同33年「無題」、同34年「立像」、同35年「裸婦」、同36年「裸婦」、同37年「方形婦女」、同38年「裸婦」、同39年「姉妹」(レリーフ)、同40~43年出品せず、同44年「裸婦立像」、同45年「中沢良夫先生」、同46年「無題」、同47、48年出品せず、同49年「大阪(習作)」、同50年以降出品せず。

出 典:『日本美術年鑑』昭和60年版(247頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「浅野孟府」『日本美術年鑑』昭和60年版(247頁)
例)「浅野孟府 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9938.html(閲覧日 2024-04-20)

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