富山秀男

読み:とみやまひでお  近代日本美術の研究者で、京都国立近代美術館、ブリヂストン美術館の館長を歴任した富山秀男は12月20日、胃がんのため死去した。享年88。 1930(昭和5)年7月26日、東京に生まれ、53年に東京教育大学教育学部芸術学科を卒業、同年国立近代美術館(1967年に東京国立近代美術館に改称)に研究員として採用された。76年4月に国立西洋美術館学芸課長に異動。82年8月に東京国立近代美術館次長となる。1992(平成4)年4月、京都国立近代美術館長となる。98年まで同美術館に勤務した後、同年6月にブリヂストン美術館長となる、2001年には、勲三等旭日中綬章を受ける。02年から13年まで、式年遷宮記念神宮美術館長を務めた。 東京国立近代美術館に在職中は、今泉篤男、河北倫明、本間正義という歴代3人の次長から薫陶を受けた。とりわけ河北倫明とは、その晩年まで親交があり、多くの影響を受けたといわれる。89年に河北倫明夫妻が、若手研究者と美術家を顕彰する目的で公益信託として設立した倫雅美術奨励賞では、20年以上にわたり同賞の運営委員長を務めた。 研究面では、岸田劉生の研究が特筆される。没後50年にあたる79年にあたり、画家の遺族ならびに各界の劉生愛好者と研究者によって企画された、劉生芸術顕彰を目的とする展覧会開催、全集、画集の刊行の計画と実施にあたっては、いずれにも深く関与した。国立西洋美術館に勤務していた79年に、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館において「没後50年記念 岸田劉生展」が開催された折には、調査の面で協力を惜しまなかった。また、『岸田劉生全集』全10巻(岩波書店、1979年から80年)にあたっては、編集のための委員となり、84年に刊行された東京国立近代美術館監修『岸田劉生画集』(岩波書店)では、編集委員を務めた。これらの成果をもとに86年には、単著として『岸田劉生』(岩波新書)を刊行した。同書は、今日まで岸田劉生を知るための入門書であり、実証的な評伝として高く評価されている。 その他、主要なものを下記にあげるように画集等の編著が多数ある。 岡鹿之助共著『世界の名画 第6巻 ルソー・ルドン』(学習研究社、1965年) 『近代の美術 第8号 岸田劉生』(至文堂、1972年) 山崎正和、高階秀爾共著『世界の名画 第7巻ルノワール』(中央公論社、1972年) 『日本の名画41 国吉康雄』(講談社、1974年) 『日本の名画21 岸田劉生』(中央公論社、1976年) 『近代の美術 第42号 安井曾太郎』(至文堂、1977年) 『原色現代日本の美術 第7巻 近代洋画の展開』(小学館、1979年) 『日本水彩画名作全集4 岸田劉生』(第一法規出版、1982年) 『近代日本洋画素描大系3 昭和1 戦前』(講談社、1984年) 原田実共編著『20世紀日本の美術14 梅原龍三郎/安井曾太郎』(集英社、1987年) 浅野徹共編著『20世紀日本の美術15 岸田劉生/佐伯祐三』(集英社、1987年) 『日本の水彩画17 萬鉄五郎』(第一法規出版、1989年) 『昭和の洋画100選』(朝日新聞社、1991年) 『日経ポケットギャラリー 佐伯祐三』(日本経済新聞社、1991年) 安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生をはじめとして、大正、昭和期の洋画家の中心とする実証的な美術史研究が中心であったが、実際に接してきた巨匠といわれる画家たち、あるいは画家を直接知る多くの関係者との間で生まれた豊富なエピソードの数々は、残された多くの画家論のなかで巧みに織り込まれている。そして草創期の国内の主要な美術館に勤務し、しかも館長としてその運営にあたった一貫した美術館人であった。

水沼啓和

読み:みずぬまひろかず  千葉市美術館学芸員の水沼啓和は12月20日死去した。長く人工透析を続けるなか、自身が担当した展覧会「1968年 激動の時代の芸術」が開幕したのちの逝去であった。享年55。 1965(昭和40)年8月1日生まれ。1992(平成4)年慶應義塾大学文学部哲学科卒業、同大学大学院文学研究科修士課程入学、94年修了。修士論文は「マルセル・デュシャンと展示制度:1913―68における言説と実践の推移」。同年4月、財団法人千葉市文化財調査協会(千葉市美術館開設準備室担当)学芸員となる。翌年11月、千葉市美術館にともない開館、同館に赴任、日本と欧米の現代美術に関する展覧会を担当、その研究発展に貢献した。精緻な調査をを反映した論考、資料編による充実した展覧会カタログを数多く出版した。担当したおもな展覧会に、「ジョゼフ・コスース 1965―1999 訪問者と外国人、孤立の時代」(1999―2000年)、「ダン・グレアムによるダン・グレアム展」(2003―04年)、「瀧口修造とマルセル・デュシャン」(2011年)、「須田悦弘展」(2012年)、「赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで」(2014年)、「杉本博司 趣味と芸術―味占郷/今昔三部作」(2015年)、「見立ての手法―岡崎和郎のWho’s Who」(2016年)、「小沢剛 不完全―パラレルな美術史」(2018年)、「1968年 激動の時代の芸術」(2018年)がある。「赤瀬川原平の芸術原論展」は、2015年、第27回倫雅美術奨励賞を共同受賞。また「1968年 激動の時代の芸術」は、18年、美連協大賞を共同受賞。 論文に「ジョゼフ・コスースとアド・ラインハート:1960年代後期におけるコンセプチュアル・アートと絵画に関する一考察」(千葉市美術館研究紀要『採蓮』2、1999年)、「ダン・グレアムの«連結する三つのキューブ/ヴィデオ上映スペースのためのインテリアデザイン»について―コンテクストの介入からコンテクストの仲介へ」(『採蓮』8、2005年)、「不要になったら捨てられるアート―ニューヨークのコンセプチュアル・アートとエフェメラ」(『セログラフィーと70年代:Xerography and 70s』富士ゼロックス、2005年)、「ダン・フレイヴィンとコンセプチュアル・アート」(『採蓮』13、2010年)等がある。 没後、『千葉市美術館ニュース「C’n」』96号(2020年)において、同館長河合正朝が、美術館での水沼と美術家や同僚、後輩との交友、あるいは担当展や美術館の将来への向き合い方等をエッセイにまとめ、「美術が大好き、展覧会には持てる全力を尽くす、何事にも策を弄することのない真っ直ぐな性格の、わが社中の快男児」と評した。

服部峻昇

読み:はっとりしゅんしょう  漆芸家の服部峻昇(本名・俊夫)は7月29日、肺炎のため死去した。享年75。 1943(昭和18)年1月6日、白生地屋を営む父・正太郎と母・うのの三男として、京都府京都市下京区に生まれる。中学校時代の美術教師の勧めで、58年に京都市立日吉ヶ丘高等学校(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校)美術工芸課程漆芸科に入学、同校で指導していた漆芸家の水内杏平、平石晃祥らの指導を受ける。61年の卒業作品である漆パネル「佳人」は教育委員会賞を受賞。同年、京都市内の中村デザインスタジオに入り、65年まで勤務の傍ら作品制作を続ける。62年、第14回京展に漆パネル「おんな」で初入選、以後毎年出品を重ねる。63年、第6回新日展に漆パネル「夜の演奏者」で初入選。64年、第17回京都工芸美術展に初出品、以後毎年出品。同年、現代漆芸研究集団「朱玄会」の会員となり、漆パネル「翔」を出品、以後毎年出品。朱玄会を主宰していた番浦省吾に漆芸を学ぶ。65年、上原清に弟子入りし、蒔絵を学ぶ。69年、第22回京都工芸美術展に「漆卓」を出品、優賞受賞。70年、第22回京展に二曲屏風「花象」で市長賞受賞。またこの年、京都で活動する若手の漆芸家によるグループ「フォルメ」を伊藤祐司、鈴木雅也(三代鈴木表朔)らとともに結成、創立同人となる。「フォルメ」では60年代から70年代にかけて隆盛した前衛美術の影響を受けて、とりわけアクリルやカシュー漆などの新素材を漆芸表現に積極的に取り入れた。78年の解散まで、新たな素材との融合から漆工芸のあり方を模索する意欲的な制作を行う。72年、第4回日展で二曲屏風「陽の芯」で特選受賞。75年、文化庁在外研修員として1年間欧米に留学し、スウェーデンのコンストアカデミーやフランスのS.W.ヘイター氏の版画工房などでエッチングを学ぶ。79年、創立第1回日本新工芸展に二曲屏風「パトラスの月」を出品、審査員を務める。80年頃までの作品は、主に太陽や月などをモチーフに、抽象的かつ幾何学的な心象風景と明快な色彩の対比を特徴とした大型のパネルや屏風などの平面作品を中心とした。帰国後は、ギリシャの港町パトラスで見た月夜を題材にした作品シリーズに着手。この一連の作品は、その後「現代の琳派」と評されるようになる作風へと繋がってゆく転換点となる。82年、京都市芸術新人賞を受賞、また第14回日展で飾棚「潮光空間」が特選受賞。服部は以前から螺鈿を用いていたが、この頃より、南方のメキシコやニュージーランドの海で採れる螺鈿(耀貝)を作品制作の主要な素材として用い始める。耀貝のゆらめくような輝きは、波や光、風の移ろいなどの五感に訴える自然現象を表現する際の手法として生かされた。作品は次第に具象的傾向を強め、四季の草花や鳥などのモチーフに耀貝の光沢を組み合わせた情趣豊かな飾棚や飾箱が制作の中心となる。84年、日本新工芸展で耀貝飾箱「曄光」が日本新工芸会員賞受賞。87年、第40回京都工芸美術展で耀貝飾箱「潮文」が大賞受賞。88年、本名の「俊夫」から「峻昇」に改名する。1992(平成4)年、第4回倫雅美術奨励賞(創作活動部門)を受賞。95年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世に謁見、漆の典書台を献上。97年、京都府文化賞功労賞受賞。98年、紺綬褒章受章。99年、第12回京都美術文化賞受賞。玉虫採集家との出会いから、緑色に光る玉虫の翅を手に入れ、2004年から作品制作に取り入れる。05年、京都迎賓館主賓室の飾棚「波の燦」および調度品を制作。06年、京都市文化功労者。12年、第22回日工会展で文部科学大臣賞受賞。日展理事、日工会代表、京都府工芸美術作家協会理事などを歴任。京都に受け継がれた漆芸の伝統を受け継ぐとともに、さまざまな種類の螺鈿の光沢、さらに晩年は玉虫ならではの独特のきらめきを新たに組み合わせ、漆芸の素材に由来する光や質感を大胆に対比させた装飾性の高い日本的風景に独自の世界観を示し、その表現を追求した。

濱本聰

読み:はまもとさとし  下関市立美術館長で、美術史研究者の濱本聰は、3月13日に死去した。享年60。 1954(昭和29)年8月1日山口県萩市に生まれる。岡山大学大学院文学研究科修士課程(日本近現代美術史専攻)を修了後、84年に下関市立美術館学芸員に採用される。1992(平成4)年11月には、第4回倫雅美術奨励賞の「美術評論・美術史研究部門」において、展覧会「日本のリアリズム 1920s-50s」の企画及びカタログ中の論文によって、共同企画者である大熊敏之とともに受賞した。97年、同美術館学芸係長に昇任。2004年に館長補佐、10年から館長となった。同美術館在職中は、香月泰男をはじめとして地域出身の美術家の回顧展等を企画担当して顕彰につとめ、美術、文化振興のために美術館の運営にあたった。近代美術の研究にあたっては、岸田劉生、香月泰男、桂ゆき、殿敷侃等の作家研究を中心に、作品に対して冷静な観察と的確な分析に基づく論考を多く残しており、これらは今なお参考にすべき業績である。主要な研究業績並びに担当した展覧会は下記の通りである。主要論文並びに担当展覧会:「岸田劉生と草土社」(「岸田劉生と草土社」展、下関市立美術館、1985年)「香月泰男-1940年代の作品から-」(「香月泰男」展、下関市立美術館、1987年)「長谷川三郎とその時代概説」(「長谷川三郎とその時代」展、下関市立美術館、1988年)「日常的な呼吸の中の版画」(『香月泰男全版画集』、阿部出版、1990年)「桂ゆきの作品をめぐる螺旋的な記述の試み」(「桂ゆき展」、下関市立美術館、1991年)「新しいリアリズムへ―1940年代以降の展開」(「日本のリアリズム 1920s-50s」展、北海道立近代美術館、下関市立美術館巡回、1992年)「殿敷侃・現代の語り部」(「殿敷侃展 遺されたメッセージ・アートから社会へ」、下関市立美術館、1993年)解説「宮崎進-透過する眼差し-」(「宮崎進展」、下関市立美術館、笠間日動美術館、平塚市美術館、三重県立美術館、新潟市美術館巡回、1994-95年)「香月泰男の造型的模索―1950年代の作品を中心に―」(「香月泰男展」、愛知県美術館、下関市立美術館、そごう美術館(横浜)巡回、1994-95年)「『初年兵哀歌』が語るもの」(「浜田知明の全容」展、小田急美術館(東京新宿)、富山県立近代美術館、下関市立美術館、伊丹市立美術館巡回、1996年)「岸田劉生試論-静物・風景・人物- 所蔵油彩作品を中心に」(『研究紀要』8、下関市立美術館、2001年)「作品解説-画風の展開とその特質-」(『香月泰男画集 生命の讃歌』、小学館、2004年、同書では安井雄一郎とともに編集委員をつとめる)「下関の戦後美術(洋画篇)」(「戦後美術と下関」展、下関市立美術館、2005年)「香月泰男・1940-50年代の展開~モダニズムから新たな地平へ~」(「没後35年 香月泰男と1940-50年代の絵画」展、下関市立美術館、2009年)「桂ゆきの眼差し-その批評精神をめぐって-」(「生誕百年 桂ゆき-ある寓話-」展、東京都現代美術館、下関市立美術館巡回、2013年)

河北倫明

読み:かわきたみちあき  美術評論家で文化功労者の河北倫明は10月30日午前3時45分心不全のため、東京都文京区の順天堂病院で死去した。享年80。大正3(1914)年12月14日福岡県浮羽郡山春村に生まれる。久留米市立篠山尋常小学校を経て、昭和6(1931)年福岡県立明善校を修了。同10年旧制第五高等学校を卒業して京都帝国大学文学部に進学し、同13年同大哲学科を卒業して同大学院に進学する。同18年帝国美術院付属美術研究所(現・東京国立文化財研所)助手となり、日本近代画家の調査・研究に取り組む。戦後、同23年ころより日本近代美術史に立脚した現代美術評論活動を盛んに行うようになった。同23年同郷の洋画家青木繁の調査・研究成果として『青木繁』(養徳社)を刊行。また、同年『近代日本画論』(高桐書院)を刊行して、個々の作家、作品についての調査・研究に基づぎながら、史的流れのうえにそれらを位置づける日本近代絵画史の新たな方向を提起した。同27年国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)事業課長となり、日本で最初の近代美術館の運営に尽力。また、美術評論の分野でもその活性化と相互の連絡を目的として同29年美術評論家連盟を結成し、事務局長に就任した。同38年3月東京国立近代美術館次長となる。同42年5月美術交流展覧会のためソヴィエト連邦を訪れる。以後も、美術による国際交流のため中国、西欧、アメリカ、南米等を訪れる。同44年2月京都国立近代美術館館長となって、関西方面の美術館活動にも深く関わるようになり、同45年大阪万博では同博覧会美術館委員をつとめた。同57年美術館連絡協議会理事長に就任し、歿するまで全国の美術館運営、学芸員の調査・研究の奨励に寄与した。同61年10月より平成6(1994)年まで美術評論家連盟会長をつとめる。昭和61年京都国立近代美術館館長を退き、京都芸術短期大学の設立に尽力して翌62年6月同大学学長となった。平成元(1989)年1月より同4年6月まで横浜美術館館長をつとめ、この間同3年より同7年3月まで京都造形芸術大学学長をもつとめた。また、平成元年私財を投じて全国の若手の美術館学芸員、美術研究者の活動を支援すべく「倫雅美術奨励賞」を創設。同5年より式年遷宮記念神宮美術館館長、同7年より京都造形芸術大学名誉学長となった。主要著書に『日本の美術』(昭和33年 社会思想研究社出版部)、『大観』(同37年 平凡社)、『村上華岳』(同44年 中央公論美術出版)、『坂本繁三郎』(同49年 中央公論美術出版)、『河北倫明美術論集』全5巻(昭和52-53年 講談社)、『近代日本絵画史』(高階秀爾と共著 昭和53年中央公論美術出版)、『河北倫明美術時評集』全5巻(平成4-6年 思文閣出版)がある。

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