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文化遺産の価値に映し出される歴史観

ベトナムの首都ハノイの都心に社会主義国家建設の父の遺体を安置したホーチミン廟があることはよく知られていると思います。一方、その広場を挟んだ真向かいにタンロン皇城遺跡という古代から中世にかけての大越国の皇帝の宮殿跡があるのをご存知の方はそれほど多くないかもしれません。

そこに現存している建物の大半はフランス植民地時代にインドシナ軍司令部として建てられたものですが、実はその地中に各時代の宮殿の基壇や濠などの考古学的遺構と宮廷生活を物語る大量の貴重な遺物が眠っていることがわかったのは、2002年と、つい最近のことでした。その後、東京と奈良の両文化財研究所を中心に日本人専門家チームを結成して調査研究への協力が行われました。そして、このことも功を奏して、この遺跡は2010年にユネスコ世界遺産に登録されるに至り、国を挙げて祝福されることとなりました。実は、千年にわたる中国支配を脱して大越国が建国されたのが西暦1010年だったので、それからちょうど一千年目にあたるこの年に世界遺産登録を実現することは、ベトナム政府にとって至上命題とも言える目標となっていたのです。

一方、日本がこの遺跡の調査に協力することになったきっかけの一つは、タンロン城の下層から出土した、さらに古い時代の遺構が中国支配期の安南都護府の一部と推定されたことにありました。この役所の長官をいっとき務めていた人こそ、遣唐使として唐に渡り、「天の原」の百人一首でも知られる阿倍仲麻呂でした。これにより、タンロン遺跡の発見は、日本ともゆかりの深い出来事として国内でも大きく報道されることとなったわけです。ところが、ベトナムの人々にとってみれば、民族自立の原点ともいうべきタンロン城が中国の支配拠点を改造したものというのは、決して素直に受け入れられる説ではありませんでした。そして実際、この大越建国以前をベトナムでは「大羅期」と呼び、タンロン遺跡におけるその時代の遺構の性格に触れることは今も、研究者の間ですら半ばタブーのようになっています。

ある地域やそこにある文化遺産は長い歴史と多様な価値を有しています。これは当たり前のことのように思えますが、この例のように、その中から特定の側面だけがクローズアップされたり、逆にある部分が意図的に無視されたりするのは、決して珍しいことではありません。それどころか、客観的にみれば非常に重要性が高いはずの文化遺産が、現在の国家や民族の価値観とそぐわないために放置されていたり、極端な場合には破壊されてしまったりする事例は、世界中で、そして今日でも、枚挙に暇がありません。当然ながら、日本もその例外ではなく、戦前には明治天皇にまつわる多数の「聖蹟」が文化財指定され、戦後にGHQによって指定解除されたことや、同じく戦後の民主化の流れの中で民家の文化財指定が一気に進んだことなどは、文化遺産に国がお墨付きを与えるという行為が持つ政治性を示す一例と言うことができるでしょう。私たちが過去から残されてきた遺産を調査研究するにあたっては、対象物そのものに真摯に向き合い、科学的な態度をもってその歴史資料としての実像を明らかにしていく姿勢が求められていることを、改めて自覚しなければなりません。

(友田正彦)

トップ画像:千年祭で賑わうタンロン城正門

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発掘で出土した宮殿の基礎遺構

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