青褐(靑褐)

「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」(『徴古雑抄』)

撰述日

天平19年(西暦747年)2月11日付

記事

(前略)
 合袈裟壹拾壹領 陰脊肆領
   裳壹腰 坐具玖枚
  丈六分袈裟貳領 一領綿納
   壹領白牒[高五尺 廣八尺三寸 蘇比色、大唐玄奘三蔵者、]
  佛分袈裟伍領[一領、麻七條、一領、赤色、 一領、紫羅綾、 二領、橡七條、]
   陰脊壹領 坐具参枚[二枚、紫結幡、一枚、赤錦、]
  弥勒佛分麻納袈裟一領
  聖僧分坐具貳枚[一枚、紫綾、 一枚、表緑綾、裏赤綾、]
  通分坐具貳枚[一枚、表碁磐科子錦、裏赤錦、 一枚表雲幡、裏縹、]
  木叉分坐具貳枚[二領、黄褐、 一領、青褐七條、 ]
   陰脊参領[一領、黄褐、 一領、紫羅綾 一領、青褐、]
    裳壹腰[鳩染色]
    坐具貳枚一枚、橡、在中氈、一枚、紅染
(後略)

出典

『大日本古文書』2(578頁~624頁の内596頁~597 頁)(『徴古雑抄』文学博士小杉榲村所蔵)

「經紙出納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)

記事

 八月七日納色紙漆伯漆拾捌張
     金薄敷青褐紙百四十七張[八巻金光明料]金薄敷白紙二百六張[法花経并理趣経料]
     金薄敷滅紫紙百七十九張[最勝王経料]銀薄敷紅紙二百張[十輪経料]
     銀薄敷青褐紙四十六張[弥勒経并薬師料]
      右為奉寫八巻金光明経一部 法花経一部 最勝王経一部
      十輪経一部 理趣経一巻  弥勒経一部 薬師経一巻料
                     収呉原生人 他田
   十二日納縹紙三十二張[三嶋宗方万呂奉寫六十花厳経一部表紙料従内裏所請者]
                     収呉原生人
   十三日納凡紙廿七[七部経端継料]
   十四日自内裏納紙三百九十九張
     麻紙二百張[寫八十花厳経第二帙料]
     檀紙伯九十九張
      右依善光尼師宣為故信勝尼師奉寫法花経一部
        奉宣大蔵判官
                     知他田水主

出典

『大日本古文書』3(594頁~616頁の内594頁~595頁)(『正倉院文書』小杉本紙筆外2)

「經紙出納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)

記事

天平勝寳五年
 正月十二日納敷金縹紙拾張[七部内最勝王経表紙料]
                      収上馬甘
 二月八日納色(敷金)紙肆伯伍拾捌張[三百十八張青褐 百四十張滅紫]
       右依飯高笠目天平勝寳五年二月七宣奉寫最勝王経一部
       仁王経一部 解深密経一部之料
                      収呉原生人
                      上馬甘
 以二月廿日進返内裏色(敷金)紙壹伯伍拾張[九十八張青褐 五十二張滅紫]
       右依次官佐伯宿祢宣進返如前[付秦原守工石主]
                      知呉原生人
   廿四日納色紙貳伯伍拾参張
     深緑十一張 深縹廿張  浅縹廿張  浅緑廿張
     蘇芳廿張  深紅廿張  浅紅廿二張 白廿張
     浅皮自四十張 深苅安廿張 浅苅安廿張 胡桃廿張
      右奉寫種々(依善光尼師宣)観世音経廿一巻判者
                      受呉原生人
    又納深紅(金敷)紙壹伯拾伍張
      右依錦部内侍天平勝寳五年二月七日宣奉寫楞伽
                      収上馬甘

出典

『大日本古文書』3(594頁~616頁の内597頁~599頁)(『正倉院文書』小杉本紙筆外2)

「經紙出納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)

記事

 七日納靑褐紙壹伯陸拾張[敷金]
       右奉寫法花経一部料
                        収上馬甘

出典

『大日本古文書』3(594頁~616頁の内601頁)(『正倉院文書』小杉本紙筆外2)

「經紙出納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)

記事

 十七日納敷金靑褐紙肆拾張[忍海廣次寫法花料所欠料]
                        収上馬甘

出典

『大日本古文書』3(594頁~616頁の内601頁)(『正倉院文書』小杉本紙筆外2)

「經紙出納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)

記事

 合  廿一日納敷金【靑褐】緑紙壹伯伍拾張[辛浄足之奉寫花嚴料 自紫微中臺来]
                      知上馬養
                      呉原生人

出典

『大日本古文書』3(594頁~616頁の内604頁)(『正倉院文書』小杉本紙筆外2)

「經紙出納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)

記事

七月
     廿五日納色紙參伯參拾陸張
       縹二百卅六張[二百廿九敷金 七張敷銀]
       靑褐一百張
       穀紙參仟玖佰伍張 外凡紙參伯玖張
        右奉為 太皇太后依飯髙命婦宣奉寫梵網経一百部料収納
        如件
                        上馬養
                        呉原生人

出典

『大日本古文書』3(594頁~616頁の内605頁~606頁)(『正倉院文書』小杉本紙筆外2)

「經紙出納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)

記事

八歳
  四月五日納靑褐紙三百〓≪よんじゅう≫四張
    十二卷灌頂経一部料用一百五十張
    殘一百九十四張[付便使進納]
       右依三井命婦宣奉寫頂灌経一部料
                      呉原生人

出典

『大日本古文書』3(594頁~616頁の内610頁~611頁)(『正倉院文書』小杉本紙筆外2)

「經紙出納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)

記事

寳字元年九
    廿日自中臺来紙四千一百七十張
      二千六百張波和良    一千五百四張靑紙
      五十三張雜色紙     十八張長麻紙
    凡紙二百卅張
         右依内相今月十九日宣為奉寫金剛壽命陀羅尼経一千卷納
         如件
                          上馬養

出典

『大日本古文書』3(594頁~616頁の内611頁~612頁)(『正倉院文書』小杉本紙筆外2)

「東大寺獻物帳」(『正倉院御物』)

撰述日

天平勝寶8歳(西暦756年)6月21日

記事

   臈纈屏風十疊[各六扇 髙五尺五寸 廣一尺九寸 碧〓≪あしぎぬ≫背 染木畫帖 漆鐵打揩布袋]
     一疊[面背紅<「(附箋)白橡」>臈纈縁紫山納接扇]
     二疊[並面背紅臈纈縁紫山納接扇]
     一疊[面紅臈纈縁背青<「(附箋)褐」>臈纈縁紫山納接扇]
     一疊[面背青臈纈<「(附箋)面白橡臈纈背靑褐臈纈」>縁紫山納接扇(五字付紙)]
     一疊[面背緋臈纈縁紅臈纈接扇]
     二疊[並面背緋臈纈縁紅臈纈接扇]
     一疊[面紫臈纈縁背青<「(附箋)褐」>臈纈縁紅臈纈接扇]
     一疊[面背□<(付紙)><「(附箋)白橡」>臈纈縁<「(附箋)紅臈纈」>接扇]
     白練綾大枕一枚[着夾纈羅帶三條]

出典

『大日本古文書』4(121~171頁の内169~170頁)(『正倉院御物』)

「雙倉北雑物出用帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶8歳(西暦756年)10月

記事

天應元年八月十二日出
大小王真跡書一卷[黄紙半張表裏書両端黏青褐紙 納白葛筥一合]
  「(別筆)八月十八日旦返納十二卷」
書法廿卷[納平脱箱一合 其装具及紙行數詳於獻入帳]
  「(別筆)八月十八日返納了」
又時々御製書四卷[其装具及紙行數詳於獻入帳 納白黒葛筥一合]
   右、進於内裏、
檢校使藤原朝臣 家 依
    健部朝臣 人 上
               造寺司次官桑原公 足 床
                  大判官佐伯宿祢 福 都 理
                  少判官林忌寸 稻 麻 呂
                  少判官大伴宿祢 水 通
                  主 典 多 朝 臣 鷹 養
三綱
  上座大法師           大都那恵瑤
  寺主 善 季

出典

『大日本古文書』4(186頁~205頁の内199頁~200頁)(『正倉院文書』御物目録)

「雙倉北雑物出用帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶8歳(西暦756年)10月3日

記事

天應二年二月廿二日返納
  大小王真跡書壹卷[黄半紙面有大王書 九行七十七字背有]
   小王書十行九十九字両端黏青褐
          □□□(長方形後半抜け)水情(精)軸
使藤原朝臣 鷹 取
  健部朝臣 人 上
              造寺司長官吉備朝臣 泉
                  □□□(大判官)槻本連 蓑 麿
                  少判官大伴宿祢 夫 子
                  主 典 廣 井 連 嶋 人
                  主 典 多 朝 臣 鷹 養
□(三)綱
   寺主大法師 善 季       大都維那僧 恵 瑤

出典

『大日本古文書』4(186頁~205頁の内203頁~204頁)(『正倉院文書』御物目録

「法隆寺縁起資財帳」(『法隆寺東院縁起佛經并資財條』所収)

撰述日

天平寶字5年(西暦761)10月1日

記事

障子壹枚[表紫綾裏縹 高七尺 廣三尺五寸]
合袈裟參領
  壹領二百納
  壹領靑褐
  壹領蓮褐
  黒紫紗〓≪≫壹條
    並法華経講複師料、
  銀〓≪≫鉗壹具[重七兩三分]
  金塗銅花瓶壹口[鏤在口三]
    右、奉納、 大僧都行信師、

出典

『大日本古文書』4(510頁~519頁の内516頁~517頁)(大和国法隆寺所蔵)

「寫經疏間紙充装〓≪さんずい+黄≫帳」『正倉院文書』

撰述日

天平19年(西暦747年)12月2日~天平勝寳7年12月15日

記事

(前略)
勝寶三年十月十四日胡桃紙一千二百張 充能登忍人
四年九月二日上七百張[収呉原生人]
  十月十二日上四百張[収生人]
五年五月廿【七】九日上六十七張[欠十三収馬甘]
  六月十二日胡桃上一千張        充能登忍人
  九月二日上四百張[収生人]
  十月十二(日脱)上六百張[収生人]
  八月廿四日充上三百六十張[二百張檀] 受能登忍人
  以九月二日上二百張[檀紙] 又十月一日上一百六十張[収水主]
  八月十日充靑褐紙百〓≪よんじゅう≫七張[「*七部」]白紙二百九張[「*七部」]受能登忍人
  九月二日造上
  八月十二日縹紙五張[六十花嚴經初帙表紙料] 受能登忍人
   十九日紅紙二百張[「*七部」]滅紫紙百七十九張[並受春日虫万呂「*七部」]
  以九月六日上如先員[収生人]
  九月十五日縹紙五張[六十花嚴經初帙表紙料] 受能登忍人
   十六日色紙卅張[先繼了雜經三卷料者]     受能登忍人
                                 知水主
以五年二月十【二】一日上如先員[収員人]
   廿日金敷綠紙一百九十七張[六十花嚴經料者] 受能登忍人
                                 知水主
(後略)

出典

『大日本古文書』9(515頁~536頁の内518頁~519頁)(『正倉院文書』續々修28帙9)

「寫經疏間紙充装〓≪さんずい+黄≫帳」『正倉院文書』

撰述日

天平19年(西暦747年)12月2日~天平勝寳7年12月15日

記事

(前略)
  勝寶五年正月十三日充金薄敷縹紙五張[最勝王經一部之表紙料「*七部」]受能登忍人
                                                知上馬甘
   二月八日充靑褐金薄紙二百十張[最勝王經一部仁王經一部料]     受能登忍人
   以三月十五日造上如先員[収生人]                       知上馬甘
    又同日充滅紫紙八十張[解深蜜經一部料]                 受能登忍人
    [依先員、造上如前]                               知生人
    廿五日充深紅紙百十五張[楞伽經一部料]    受能登忍人 上馬甘
    以六月廿七日造上百十三張[一張用法花品所欠 又一張充竹志]   収上馬甘
   三月八日充靑褐紙六十張[六十花嚴料 造上如員]  受能登忍人 上馬甘
     十五日充麻紙一千九十二張[法花經八部 无量義(經脱)八卷料] 受春日虫万呂
(中略)
   廿六日充麻紙一千六百張[法花經并无料義經料]             受能登忍人
(後略)

出典

『大日本古文書』9(515頁~536頁の内520頁~521頁)(『正倉院文書』續々修28帙9)

「寫經疏間紙充装〓≪さんずい+黄≫帳」『正倉院文書』

撰述日

天平19年(西暦747年)12月2日~天平勝寳7年12月15日

記事

(前略)
    四月六日打界上廿卷[春日虫万呂]収生人 又同日上五十二卷[春日虫万呂]収上馬甘
     又同日充九十五張  受春日虫万呂  上馬甘
     以八日打界上了[収馬甘]
     同日充黄紙七十二張[十六部法花經表紙料]受春日虫万呂 呉原生人
   七月九日金薄敷紫紙伍張[綠紙花嚴表紙料] 受能登忍人 檢充呉原生人
    十一日紫紙二張[心經表紙料] 受能登忍人  呉原生人
    十六日色紙八十張[觀世音經料] 受川原繼万呂 呉原生人
    十七(日脱)色紙八十張[觀世音經料]受小治田人君 山部針間万呂
   八月七日靑褐紙壹伯陸拾張[法花經一部料] 受能登忍人
    十七日充靑褐紙〓≪よんじゅう≫張[受能登忍人] 呉原生人 上馬養
    以十九日繼打界上了[収上馬甘]
(後略)

出典

『大日本古文書』9(515頁~536頁の内522頁)(『正倉院文書』續々修28帙9)

「寫經疏間紙充装〓≪さんずい+黄≫帳」『正倉院文書』

撰述日

天平19年(西暦747年)12月2日~天平勝寳7年12月15日

記事

(前略)
能登忍人
(中略)
四月七日<充>一千四百五十張
  十五日充金塵<緑>【靑褐】紙百五十張[花嚴料]又十九日充緑紙肆拾漆張[花嚴料上五月十四日]
  十六日充黄紙一千九百張[少僧都花嚴經二部料
[「(異筆)以天平勝寶七歳正月十九日造上一千四百張上馬甘廿日上五百張収生人]」
  廿二日充表紙<二>百張
五月十八日充百七十張[廿六日上了]
(後略)

出典

『大日本古文書』9(515頁~536頁の内526頁~527頁)(『正倉院文書』續々修28帙9)

「經疏間校帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶元年(西暦749年)8月13日

記事

(前略)
最勝王經一部十卷[靑褐紙] 用紙三百〓≪よんじゅう≫八張
  上馬甘百七 工石主九十二 飽田石足卅 己世万呂八十三 村山首万呂卅六張
                二月廿八日上馬甘
(後略)

出典

『大日本古文書』11(16頁~39頁の内24頁)(『正倉院文書』續々修二十六帙七)

「裝■紙納充帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝宝3年(西暦751年)10月14日

記事

 八月十日充能登忍人 靑褐紙百〓《よんじゅう》七張 白紙二百九張

出典

『大日本古文書』12(165頁~166頁のうち165頁)(『正倉院文書』續々修28帙13)

「裝■紙納充帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝宝3年(西暦751年)10月14日

記事

(前略)
十月十二日<胡桃紙>一千張[受能登忍人] 出充生人
金薄敷<緑紙>三張[充忍人 六十花嚴料者依大藏(萬里)判官宣用]
  右十二仏(名脱カ)經等表紙料且充如前知生人
金敷緑紙二張[六十花嚴料]
  右依大藏判官宣爲十二仏名等表紙、所充如前
                   十一月廿八日他田
金薄敷緑紙五百五十張[六十花嚴料]    受能登忍人
  五年五月<廿九日>上二百張  收生人 
                       十二月九日呉原生人
檀紙六百八十六張[■九卷藥師經料]     受能登忍人
                       十二月十一日呉原
銀薄敷<淺>緑紙■張[弥勒經一部藥師<經>一卷料]  受能登忍人
十二月十八日呉原「生人」(自署)
縹紙廿五張[■九卷之藥師<經>表紙料]      受能登忍人
                            廿三日充上馬甘
五年正月十三日充金敷縹紙五張[最勝王經一部之表紙料]受能登忍人
                                  上馬甘
二月八日充靑褐金敷紙二百廿張[最勝王經一部 仁王經一部料]受能登忍人
                                           充上馬甘
  以三月十五日造上如先數      收生人
  又同日充滅紫紙八十八張[解深密經一部料]   受能登忍人
   「依先員造上如前」                    知生人
  廿五日充深紅紙百十五張[楞伽經一部料]    受能登忍人
  以六月廿七日造上百<十三>張[一用法<張>花普門品 又充一張中務]   收上馬甘    知上馬養
三月八日充靑褐紙六十張[六十花嚴經料造上如員] 受能登忍人 上馬養
  十五日充麻紙一千五百九十二張[法花經八部无量義經八卷料]受春日■万呂
(後略) 

出典

『大日本古文書』12(167頁~168頁のうち167頁)(『正倉院文書』續々修28帙13)

「裝■紙納充帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝宝3年(西暦751年)10月14日

記事

(前略)
同日黄麻紙七十二張[受春日■万呂]
右十六部法華經表紙料                      呉原生人
<七月九日>金薄敷紫<紙>[緑紙花嚴表紙料]   受能登忍人
■充呉原生人
十一日紫紙二張[心經表紙料]            受能登忍人
呉原生人
十六日色紙八十張[觀世音經料]           受川原繼万呂
呉原生人
十七日色紙一千二十張[觀世音經料]          受小治田人君 山部針間万呂
十八日卅八張儲料[仁王經殘者]           受小治田人公
呉原生人
八月七日靑褐紙壹伯陸拾張[法花經一部料]         又十七日充靑褐紙■張
呉原   上馬養
以九日繼打界上了 收上馬甘
廿八日穀紙一千五百五十張[之中五十張凡紙 端繼料]
以九月二日造上三百廿張[收馬甘]又四日百六十張[收馬甘]呉原生人
九月二日充紅紙■張[趣理一卷料]
呉原  上馬甘
七日充滅紫紙六張[解深密經料者]              受能登忍人
呉原生人
九月六日上六卷[百廿張]花嚴料                 收呉原生人
八日上百張                              收呉原生人
十一日上二百張                           收呉原生人
十四日百六十張                           收呉原生人
十七日六十張                            收上馬甘
十八日八十張                            收上馬養
十九日六十張                            收上馬甘
廿二日充穀紙百廿張[注■羅■集經一部奉寫料]受能登忍人
呉原  上馬養
廿九日充深紅紙十三張[楞伽經料]            受能登忍人
以十月一日打界上了[收上馬甘]                上馬甘

出典

『大日本古文書』12(170頁~172頁のうち170頁~171頁)(『正倉院文書』續々修28帙13)

「自所々請來經帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)5月16日

記事

(前略)
(紙繼目)
灌頂經一部十二卷[靑褐紙淺縹表綺緒繪軸]■帙一枚[淺緑綾裏錦緑拾組帶]
  納漆函一合[敷白綾褥] 漆机一前  敷褥一床[袷纈表 細布裏]
  白羅印文覆一條[二副]   五色丸組四條
   右以天平勝寳八歳五月六日自内裏請來
                收納上馬養
(紙繼目)
梵網經一卷[複上下 白紙及表紙 綺白帶 水精軸]納管三箇[二箇榲並塗末香一箇赤橿繼中在蓋]
  納紫細布袋一口 着丸組緒四条[二条紫糸 二条白橡麻]
以前奉施衆僧十八物中物平章献大仏如前
借收經所
            八歳五月廿日付上馬甘
             判官上毛野君(眞人)
             主典葛井連(根道)
(紙繼目)
(後略)

出典

『大日本古文書』12(290頁~291頁のうち290頁)(『正倉院文書』續々修15帙8)

「寫書所充文造裝〓《さんずい+黄》帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)7月2日

記事

法花經一部八卷[靑褐] 用百七十八張  受能登忍人
              【八】九月

出典

『大日本古文書』12(317頁~319頁の内319頁)(『正倉院文書』續々修27帙4)

「間經并疏文造充裝〓《さんずい+黄》帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)7月2日

記事

 九月二日法花經一部八卷[靑褐]用百七十八張  受能登忍人
                    知呉原生人  上馬甘

出典

『大日本古文書』12(319頁~332頁の内321頁)(『正倉院文書』續々修28帙16)

「間經并疏文造充裝〓《さんずい+黄》帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)7月2日

記事

 二月廿八日充最勝王經一部十卷[靑褐紙]用百七十四張 受能登忍人
                       呉原  上馬甘

出典

『大日本古文書』12(319頁~332頁の内323頁)(『正倉院文書』續々修28帙16)

「間經并疏文造充裝〓《さんずい+黄》帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)7月2日

記事

九月二日法花經一部八卷[靑褐紙〔用百七十八張〕] 充能登忍人
                 知呉原   上馬甘

出典

『大日本古文書』12(319頁~332頁の内331頁)(『正倉院文書』續々修27帙4)

「經紙并軸緒納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)7月12日

記事

二月八日納靑褐滅紫紙合肆伯伍捌張[三百十八靑褐百〓《よんじゅう》張滅紫]
  右依飯高笠目天平勝寳五年二月七日宣奉寫最勝王經一部仁王經一部〈解深經一部〉之料
                    收呉原生人
                     上馬甘

出典

『大日本古文書』12(333頁~342頁の内336頁)(『正倉院文書』續々修37帙5)

「經紙并軸緒納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)7月12日

記事

靑褐紙九十八張 滅紫紙五十二張[楞伽經薩遮尼〓《朝の偏+礼の旁》(乾)子經〈料〉依欠返上者]
  右依次官佐伯(今毛人)宿祢宣以二月廿日返進内裏[使秦嶋守工石主]
                   呉原生人

出典

『大日本古文書』12(333頁~342頁の内336頁)(『正倉院文書』續々修37帙5)

「經紙并軸緒納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)7月12日

記事

 七日納靑褐紙壹伯陸拾張[金敷]
   右奉寫法花經一部料
                  呉原 上馬養

出典

『大日本古文書』12(333頁~342頁の内341頁)(『正倉院文書』續々修37帙5)

「經紙并軸緒納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)7月12日

記事

 十七日納靑褐紙肆拾張[金敷 忍海廣次之奉寫法花經一部之所欠料者]
                   受上馬甘

出典

『大日本古文書』12(333頁~342頁の内341頁)(『正倉院文書』續々修37帙5)

「七部經色紙注文」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)8月7日

記事

合色紙八百六十張
  金薄敷靑紙百〓《よんじゅう》七張
   右可用八卷金光明經一部料
  金薄敷白紙□□□(長方形抜け)張
   右可用法花經一部理趣經一卷料
  金薄敷滅紫紙百七十九張
   右可用最勝王經一部料
  銀薄敷紅紙□□□(長方形抜け)
   右可用十輪經一部料
  銀薄敷淺緑紙〓《よんじゅう》六張
   右可用弥勒經一部藥師經一卷料
可遺百八十二張
  靑褐紙百八十張[卅八張敷金銀薄 卅三張敷銀薄 百九張无敷物]
  縹紙二張[敷銀薄]
           天平勝寳四年八月七日

出典

『大日本古文書』12(350頁~351頁)(『正倉院文書』續々修38帙3裏)

「七部經紙所餘注文」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)8月7日類收

記事

七部經紙所餘
法華經〈理趣經〉料白紙儲料七張
最勝王經殘滅紫紙二張
金光明經料靑褐紙儲一張
十輪經料紅紙儲三張
藥師經 弥勒經料靑褐紙可餘八張

出典

『大日本古文書』12(351頁~352頁の内352頁)(『正倉院文書』續々修42帙3)

「奉寫經并請雜物注文」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳5年(西暦753年)2月20日類收

記事

楞伽經一部四卷[深紅紙]解深密經一部五卷[滅紫紙見寫三卷]
仁王經一部二卷[靑褐紙寫訖] 已上奉寫山邊諸公
法花經一部八卷[白紙] 最勝王經一部十卷[滅紫紙奉請内]
理趣經一卷[白紙] 藥師經一卷弥勒經三卷[靑褐紙已上寫訖]
十輪經一部十卷[深紅紙見寫九卷]八卷金光明經一部[靑褐紙見寫二卷]
  已上奉寫筑紫常人
應請表紙軸又深紅紙廿張[先請水精軸十枚最勝王經料又先請敷金縹紙十枚 着五張最勝王經表紙]
法花經一部[靑褐紙敷金見寫五卷]奉寫忍海廣次
應請綺緖軸并表紙

出典

『大日本古文書』12(416頁~418頁)(『正倉院文書』續々修27帙4)

「造東寺司紙筆墨軸等充帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶5年(西暦753年)8月17日

記事

政所符   經所領等
靑褐紙肆拾張[金敷]
  右 奉寫今帝御 願法華經 付上馬養 充遣如件
次官佐伯宿祢「(自署)今毛人」
         天平勝寳五年八月十七日

出典

『大日本古文書』13(1頁~18頁の内2頁)(『正倉院文書』続々修37帙7)

「造東寺司紙筆墨軸等充帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶6年(西暦754年)7月25日

記事

充經所 
  色紙參伯参拾陸張
   縹二百卅六張[二百廿九張敷金 七張敷銀]
   靑褐一百張[不敷金銀]  
穀紙参仟玖伯伍張 凡紙参伯玖張
  右 奉爲 太皇太后(藤原宮子娘) 依飯高命婦宣 奉寫梵網經一百部料 充如件     
                判官上毛野君
                   石川朝臣「(自署)豊麻呂」 
         天平勝寳六年七月廿五日付上馬甘

出典

『大日本古文書』13(1頁~18頁の内10頁~11頁)(『正倉院文書』続々修37帙7)

「寫經料紙用殘帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶5年(西暦753年)8月24日~6年(西暦754年)7月30日

記事

弥勒經一部三卷 薬師(經脱)一卷料<銀塵>靑褐紙〓≪よんじゅう≫六張[七部内]
  用〓≪よんじゅう≫【四】三張[〓≪よんじゅう≫一張正用 二張破]
  殘四(三カ)張[二張進慈訓師所 一張用法花品所欠]
                   八月廿四日上馬甘
                        呉原「(自署)生人」

出典

『大日本古文書』13(23頁~28頁の内23頁)(『正倉院文書』続々修26帙7裏)

「寫經料紙用殘帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶5年(西暦753年)8月24日~6年(西暦754年)7月30日

記事

法花經一部八卷料<金塵>青褐紙貳伯張[間]
  用百八十【四】張[百七十八張正用 二張破]
  殘廿張
               九月二日上馬甘
                    呉原

出典

『大日本古文書』13(23頁~28頁の内23頁~24頁)(『正倉院文書』続々修26帙7裏)

「寫經料紙用殘帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶5年(西暦753年)8月24日~6年(西暦754年)7月30日

記事

金光明經一部八卷料<金塵青褐紙>百〓≪よんじゅう≫七張[七部内]
  用百卅六張[百卅四張正用 二張破]
  殘十一張[四張用法花品料所欠之中二破]
楞伽經一部四卷料深紅紙伯拾伍張
  用百十一張[百九張正用 二張破]
  殘四張
                  検呉原「(自署)生人」

出典

『大日本古文書』13(23~28頁の内24頁~25頁)(『正倉院文書』続々修26帙7裏)

「寫經料紙用殘帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶5年(西暦753年)8月24日~6年(西暦754年)7月30日

記事

最勝王經一部 仁王經一部料<金塵>青褐紙貳伯貳拾張
  用二百十七張[百七十七張〓勝王經一部正用 卅三張仁王經一部正用 三張空四張破]
  殘三張
                  二月廿八日上馬養
                   呉原「(自署)生人」

出典

『大日本古文書』13(23頁~28頁の内26頁)(『正倉院文書』続々修26帙7裏)

「敷金銀塵雜色紙用殘注文」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶5年(西暦753)8月24日類収

記事

請敷金銀<塵>雜色紙用并殘數事
合参仟参伯【捌拾参張】七十九張<欠四>[九十九張表紙料 之中五十三張金塵紫紙 六張銀塵縹紙 〓≪よんじゅう≫張金塵縹紙 三千二百【八】七十九張見寫料]
    用三千【八】百〓≪よんじゅう≫【九】【七】三張[二千六百【卅四】【五十三】五十三張見所寫 九十一張用表紙 八十八張破 十【四】五張空 二百九十六張進慈訓師所之中【三】卅張表紙料]
    殘【五百卅四】二百卅五張
   縹紙三百【卅】六張<二百九十六張銀塵>[〓≪よんじゅう≫<十四>張金塵「(追筆)表」]
   金塵滅紫紙四百廿九張
   金塵靑褐紙一千八百五十七張
   【銀】「*金」塵白紙二百六張
   銀塵靑褐紙〓≪よんじゅう≫六張
   銀塵紅紙二百十七張
   金塵深紅紙一百十五張
   金塵白橡紙〓≪よんじゅう≫三張
   銀塵淺緑紙六張[表紙料]  
   金塵【表】縹紙卅張[表紙料]
金塵【紫】紙五十三張[表紙料]
   金塵色紙卅張
   銀塵淺蘇芳紙〓≪よんじゅう≫張
   九十九張表紙料[六張銀塵浅綠 卅張金塵縹紙 五十三張金塵紫紙十張金塵綠]
合奉寫經廿六部一百卅【九】八卷
   用<紙>二千八百〓≪よんじゅう≫七張[二千六百五十三張見所寫 九十一<「*六」>張用表紙 十五張空 八十八張破]
   最勝王經一部 仁王經一部料銀塵縹紙二百九十六張
    用二百八十七張[一百七十七張最勝王經料 卅三張仁王經料 六張表紙 【一張用勝】 一張用勝鬘經表紙 一張用法花品 五十一張用瑜伽表紙 四張用法花經表紙 十四張破]
   殘九張
  法花品四篇料金塵色紙卅八張[卅張自内裏来 八張花嚴(「*法花」) 薬師 金<光>明経等料]
   卅五張見所寫[三張破]
  最勝王經一部料金塵紫紙一百七十<九>張[七十七張見所寫]
  [百]七十七張見所寫[二張破]
  十ニ仏明經三巻 華嚴脩慈分三巻 〓[壹+皮]音聲陁羅尼經三卷料【金】
   金塵綠紙九十八張
   用八十五張[八十四張見所寫 一張用勝鬘經表紙 五張破]
   残八張
  法花經一部 理趣經一巻料金塵白紙二百六張
   用二百【五】【六】五 [一百七十〔(擦消)九〕八張法花經一部料 廿張理趣經一卷料 七張破]
   殘一張[用法花品]
  薬師經一卷 弥勒經三卷料銀塵靑褐紙〓≪よんじゅう≫六張
   用〓≪よんじゅう≫五張[〓≪よんじゅう≫張見所寫 二張依定戒尼師宣進慈訓師所 一張用法花品 二張破]
   殘一張
  八卷金光明經料金塵靑褐紙一百〓≪よんじゅう≫張
  十輪經一部料銀塵紅紙二百十七張
   用二百十二張[一百九十一張見所寫 二張進山田命婦所 十五張破 四張空]
   殘五張
  法花經一部料金塵靑褐紙ニ百張
   用一百八十張[一百七<十>八張見所寫 二張破]殘廿張
  解深經蜜一部料金塵烕【縹】(マゝ)紫紙八十八張
   用八十六張[八十五張見所寫 一張用法花品]殘二張 
  楞伽經一部料金塵深紅紙一百十五張
   用一百十一張[一百九張見所寫 二張破]
(以下紙背連書)
   殘四張
  最勝王經一部 仁王經一部料金塵靑褐紙ニ百廿張
   用ニ百十七張[一百七十七張最勝王經一部料卅三張仁王經一部料 三張空 四張破]
   殘三張
  寶星陁羅尼經一部料金塵滅紫紙一百六十二張[欠四張]
   用一百五十【七】八張[一百五十四張見所寫 【三】張破]
   【殘一張】
  梵網經一部料白橡紙〓≪よんじゅう≫三張
   用〓≪よんじゅう≫【三】二[〓≪よんじゅう≫一張見所寫 一張破]
   殘一張
  六十花嚴經一部料金塵靑褐紙一千ニ百九十二張<廿二張〈九十二張〉>
   用七百七十六<一千五十七>張[七百〓≪よんじゅう≫張見所寫 五張十二仏【明】名經表紙 二張用法花品 廿二張破 七張空 ニ百八十一張【進】慈訓師所 【之中十五張表紙】]
   殘四百十六<一百五十>張[ニ百六十六張進慈訓師所 【留一百五十張】]
  表紙料九十九張[六張銀塵淺綠 卅張金塵縹 五十三張金塵紫 十張金塵綠]
   用五十八<八十八>張[紫紙<十五張>辛浄足寫花嚴經卅卷 又十六張着筑紫常人寫雑經等 一張着梵網經 浅綠紙五張着最勝王經表紙<十五張着大原魚次寫花嚴經卅卷> 縹紙六張着最勝王經一部 仁王經一部 【十五】卅張慈訓師所]
   殘【〓≪よんじゅう≫一張】十<五浅緑>[【紫紙十五】六【張】 【縹紙十五張進慈訓師】所 【留十一張緑五張】]
  一百五十張[九十八張金塵靑褐紙 五十二張金塵滅紙(マゝ)]
   右<依>薩遮尼乾子經料【依】欠 【少進返<【内〓≪鍋蓋+冂+一≫】内裏>如件

「(追筆)合殘金塵紙漆拾捌張」

出典

『大日本古文書』13(28頁~34頁)(『正倉院文書』続修31裏)

「寫經料紙注文」(首欠)(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶5年(西暦753年)

記事

仁王經最勝王經一部靑褐紙二百廿張
解深蜜經一部料滅紫紙八十八張

出典

『大日本古文書』13(34頁)(『正倉院文書』続修31裏)

「華嚴經紙并軸宮進帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶6年(西暦754年)2月6日

記事

華嚴紙并軸宮進帳
紫微中臺牒  造東大寺司
  留本經卅卷[六十花嚴經第四帙 第五帙 第六帙 審詳師]
  寫未装經七巻
  紙七百廿一張
   打波和良紙六百卅六張
   打靑褐紙〓≪よんじゅう≫一張
   〓≪衣偏+票≫料金敷紫紙十五張
   〓≪衣偏+票≫料縹紙廿九張[就中十五張金敷]
  蘇芳軸七十枚
  繪辛櫃一合[布敷]
  白木机一前
以前 所留本經并紙軸如前 故牒
           天平勝寶六年二月六日
              「(自署)少疏高丘連比良麻呂」 

出典

『大日本古文書』13(45頁~50頁の内45頁~46頁)(『正倉院文書』続々修16帙14)

「華嚴經紙并軸宮進帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶6年(西暦754)2月6日

記事

敷金青褐紙四卷[八十張 並打界了]
  右 依臺今月十八日牒 付便使舎人舎人(マヽ)遨 進上如前
            天平勝寶六年二月十八日上馬養
                       呉原「(自署)生人」

出典

『大日本古文書』13(45頁~50頁の内46頁)(『正倉院文書』続々修16帙14)

「華嚴經紙并軸宮進帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶6年(西暦754)2月6日

記事

廿日金塵靑褐紙壹伯伍拾張  六十花嚴第五帙第二巻
   右 付大友蓑万呂奉送如前
                  呉原生人

出典

『大日本古文書』13(45頁~50頁の内49頁)(『正倉院文書』続々修16帙14)

「写経料紙注文」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝宝5年(西暦753)2月

記事

仁王経最勝王経一部料青褐紙二百廿張
解深蜜経一部料滅紫紙八十八張

出典

『大日本古文書』25(60頁~61頁)(『正倉院文書』続修30 1裏)

「孝謙天皇施入勅」(『正倉院文書』)

撰述日

天平宝字2年(西暦758)6月1日

記事


献東大寺
 大小王真蹟書一巻[黄半紙、面有大王書九行七十七字、背有小王書十行九十九字、両端粘青褐紙、又胡桃褐紙〓≪果+衣≫、着紫綺帯、水精軸、]
右書法、是〓≪亦+廾≫世之伝珎、
先帝之玩好、遺在篋笥、追感瞿然、謹以奉献
盧舎那仏、伏願、以此妙善、奉翼冥途、高遊方廣之通衢、恒演円伊之妙理、
           天平宝字二年六月一日
           紫微内相従二位兼行中衛大将近江守藤原「(自署)(仲麻呂)朝臣」

出典

『大日本古文書』25(229頁)(『正倉院文書』)