白薄紙

「寫疏所解」(『正倉院文書』)

撰述日

天平19年(西暦747年)12月7日

記事

 (紙端)
  黄麻紙廿張[打界端切了] 寫令直回明論料者
   右、依十九年七月四日高屋令史宣、進上如件、
                同月五日他田水主
                    志斐
  又黄紙七張 先紙欠料 以同月十六日、付【小月】舎人犬甘進上如前、
                知伊福部男依 他田水主
  又一張 先紙欠料 以同月十七日、付舎人火道引進上、
                知伊福部男依 他田水主
  白薄紙十二張 寫卅二相八十種好料[造仏長官所仰一通、 為宮二通、]
           十九年十二月七日知志斐万呂 他田水主
(紙端)

出典

『大日本古文書』2(719頁~720頁)(『正倉院文書』正集1裏書)

「疏紙充装〓≪さんずい+黄≫帳」『正倉院文書』

撰述日

天平18年(西暦746年)閏9月1日~天平勝寳6年10月30日

記事

以天平十八年潤九月一日始疏紙充粧(装)〓≪さんずい+黄≫帳
潤九月一日白鹿紙一千張[受玉屋公万呂更充端繼料廿五枚]八日更充一千張[受玉屋公万呂]
廿三日充一千十張[受玉屋公万呂十帳者端繼料]十一月四日充一千張[受玉屋公万呂]
(中略)
【十一月十九日丈部曾屋万呂充黄紙六百張[先一切經料便用間]】

天平廿年二月十一日受紙四千百五十張[二千五十張斐紙二千百張白厚紙]凡紙百〓≪よんじゅう≫四張[端繼〓≪果+衣≫紙料]
                    同日充装〓≪さんずい+黄≫丈部曾祢万呂
                       知他田水主
二月廿九日充黄表紙六十張[受丈部曾祢万呂]自玉祖公万呂之手?受者
四月九日充五百六十四張[黄紙二百十二張三百五十二張白薄紙]自玉祖公万呂之手校受者[受丈部曾祢万呂]
天平勝寶二年五月三日納肥紙三千八百張 凡紙百卅三張[端繼等料]
                   検知史生
                      他田水主
三年五月廿一日納黄麻紙六百張[自政所請來?欠十張]
   右、先奉宮一切經料紙所欠之料所請者、
                       検受他田水主
                           呉原生人
(後略)

出典

『大日本古文書』9(271頁~274頁)(『正倉院文書』續々修28帙8)

「寫一切經紙檢定帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平19年(西暦747年)5月29日~天平感寳元年閏5月12日

記事

六卷鈔九部料受<筑紫>四千四百張[四千四百張從宮來白薄紙]
   用               [三千六百五十張空十一枚 表紙] 破〓≪よんじゅう≫五張
   所殘六百九十四張[見五百八十四張欠百十]           装(〓≪さんずい+黄≫脱カ)公万呂
               十九年五月廿九日 酒主
                            志斐
                            伊福部
又六卷鈔一部料受白薄紙六百五十<七>張[七張表紙料]
   用五百六十張破卅<五>張 空五枚
          殘五十張[表紙殘四張用佐伯掾私書表紙]
               十九年五月廿九日 酒主
                            志斐
                            伊副部
又二部料受白薄紙
   用                       装〓≪さんずい+黄≫公万呂
               十九年五月廿九日 酒主
                            志斐
                            伊福部
(後略)        

出典

『大日本古文書』9(370頁~380頁の内373頁~374頁)(『正倉院文書』正集40裏書)

「本經疏奉請帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寶元年(西暦749年)7月28日

記事

梵網經疏一部二卷[白薄紙梨軸黄表赤白斑綺緒]
  右、依長官王天平勝寶二年六月廿六日宣、奉請西宮、使調呰万呂、
      「(異筆)返了」           知他田水主
                        三嶋「(自署)宗麿」

出典

『大日本古文書』11(9頁~16頁の内12頁)(『正倉院文書』續々修十五帙二)