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6月5日
小野真由美(文化財情報資料部 日本東洋美術史研究室長) 「歌人としての狩野常信―詠歌・鑑定・絵画をめぐって―」
本発表は木挽町狩野家の基盤を築いた狩野常信(1636–1713)について、従来重視されてきた御用絵師および古画鑑定家としての側面に加え、「歌人」としての活動に着目し、その画業を再検討するものである。常信を歌人として捉え直すことは、徳川政権下における「古典」を基盤とした文化的権威の形成、すなわち和歌漢文・古画・儀礼的教養を媒介とする王権象徴の体系化を考察するうえで重要な視座を与えるものではないだろうか。
従来、常信は探幽様式の継承者として、また模写や粉本、さらに「常信縮図」をのこした鑑定家として理解されてきた。他方で、若年期から壮年期にかけての活動は、障壁画制作の序列や僧位叙任の遅れなどを根拠に、不遇な時期として語られることも少なくなかった。しかし、近年明らかとなった歌会記録およびその知的背景に注目することで、常信が若年期に文化的権威を支える言語と知識への接近を果たしていたことが明らかとなる。そしてそれは幕府体制において絵師に求められたものでもあった。
本発表では、歌会記録、『國史館日録』、和歌画巻制作などを手がかりとして、常信の詠歌活動と人的交流を検討する。そこから、常信が絵師として大成する以前から和歌を中心とする文芸的文化圏の内部に位置していたことを指摘したい。常信は堂上歌壇の中院通茂に師事するのみならず、松永貞徳・山本春正ら地下歌壇との接点を有していた。さらに寛文五年には飛鳥井雅章の和歌を伴う大規模な和歌画巻を制作するなど、公家との接点を有していた。また、林鵞峯の『國史館日録』には、林家のみならず大名・永井尚庸、儒官・人見竹洞らとの交流が記され、絵画・和歌・漢詩・儒学が交錯する知的環境に身を置いていたことが確認できる。寛文八年八月十五日条にみえる「西湖十景」制作の記事からは、常信が『西湖志』(田汝成『西湖遊覧志』)を参照しつつ、漢詩と和歌が応酬される宴席に参加する姿がうかがえ、和漢両様の文芸的素養を備えた存在としての常信像が浮上する。
こうした素養は古画鑑定とも密接に関わっていたことは『新井白石日記』『金渓雑談』からもうかがえる。鑑定とは単なる真贋判定ではなく、画題・題跋・詩文・来歴を総合的に理解する営為である。常信は、和歌・古典に関する知識と、探幽から伝授された古画様式への理解を結びつけることで、高度な鑑定能力を形成したと考えられる。
以上より、のちの木挽町狩野家の繁栄は制度的上昇にとどまらず、常信が詠歌・鑑定・絵画を横断する文化的実践を通じて形成した知的基盤と人的交流に支えられていたことを指摘する。すなわち、常信を歌人として再定位することにより、絵師と文芸・鑑定との相互関係を再考し、幕府政権下における古典重視という文化的背景に新たな視座を提示する。
コメンテーター:松島仁(静岡県富士山世界遺産センター)
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