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2026年度の研究会

令和8年度(2026)
【第1回】
4月24日

田良島哲(文化財情報資料部 客員研究員)
「大正期の帝室博物館経営と総長森鷗外―展示と「国際化」を中心に―」

大正6年12月に鷗外森林太郎が帝室博物館総長に就任したころ、博物館は時代遅れの「高等物置」と揶揄され、運営の「積弊」が指摘される状況にあった。既往の研究は、鷗外によるいくつかの博物館改革を語るが、文学を中心とした多くの論考では、改革の成果を鷗外個人の資質に帰しており、当時の政治・社会・文化における博物館のあり方や、組織としての博物館の動向と関連付けた考察は少ない。根本史料である鷗外の日記「委蛇録」は、記述が極端なまでに簡潔で、その背後にある事実を読み解くには、かなりの困難を伴う。分野にとらわれない幅広い史料の突き合わせが必要である。

報告者はこれまで博物館在任中の鷗外の事跡を研究してきたが、本報告では、博物館本体の業務のうち主に2つの要素を対象として検討する。第一は展示の改革で、過去の研究でも取り上げられてきた「陳列替」と呼ばれる常設展示のリニューアルと、特別展覧会の刷新を同時代の人々の証言をもとにたどってゆく。第二には、この時期顕在化してきた海外諸地域に関連する事業で、西欧美術、東洋工芸、科学技術資料といった新しい分野の資料収集や、海外研究者などとの人的な接触に関する事例を素材とする。以上の検討を通じて、この時代の博物館に期待された変化と、それに対する総長鷗外の果たした役割や彼の仕事を可能とした諸条件について手がかりを得たい。

【第2回】
6月5日

小野真由美(文化財情報資料部 日本東洋美術史研究室長)
「歌人としての狩野常信―詠歌・鑑定・絵画をめぐって―」

本発表は木挽町狩野家の基盤を築いた狩野常信(1636–1713)について、従来重視されてきた御用絵師および古画鑑定家としての側面に加え、「歌人」としての活動に着目し、その画業を再検討するものである。常信を歌人として捉え直すことは、徳川政権下における「古典」を基盤とした文化的権威の形成、すなわち和歌漢文・古画・儀礼的教養を媒介とする王権象徴の体系化を考察するうえで重要な視座を与えるものではないだろうか。

従来、常信は探幽様式の継承者として、また模写や粉本、さらに「常信縮図」をのこした鑑定家として理解されてきた。他方で、若年期から壮年期にかけての活動は、障壁画制作の序列や僧位叙任の遅れなどを根拠に、不遇な時期として語られることも少なくなかった。しかし、近年明らかとなった歌会記録およびその知的背景に注目することで、常信が若年期に文化的権威を支える言語と知識への接近を果たしていたことが明らかとなる。そしてそれは幕府体制において絵師に求められたものでもあった。

本発表では、歌会記録、『國史館日録』、和歌画巻制作などを手がかりとして、常信の詠歌活動と人的交流を検討する。そこから、常信が絵師として大成する以前から和歌を中心とする文芸的文化圏の内部に位置していたことを指摘したい。常信は堂上歌壇の中院通茂に師事するのみならず、松永貞徳・山本春正ら地下歌壇との接点を有していた。さらに寛文五年には飛鳥井雅章の和歌を伴う大規模な和歌画巻を制作するなど、公家との接点を有していた。また、林鵞峯の『國史館日録』には、林家のみならず大名・永井尚庸、儒官・人見竹洞らとの交流が記され、絵画・和歌・漢詩・儒学が交錯する知的環境に身を置いていたことが確認できる。寛文八年八月十五日条にみえる「西湖十景」制作の記事からは、常信が『西湖志』(田汝成『西湖遊覧志』)を参照しつつ、漢詩と和歌が応酬される宴席に参加する姿がうかがえ、和漢両様の文芸的素養を備えた存在としての常信像が浮上する。

こうした素養は古画鑑定とも密接に関わっていたことは『新井白石日記』『金渓雑談』からもうかがえる。鑑定とは単なる真贋判定ではなく、画題・題跋・詩文・来歴を総合的に理解する営為である。常信は、和歌・古典に関する知識と、探幽から伝授された古画様式への理解を結びつけることで、高度な鑑定能力を形成したと考えられる。

以上より、のちの木挽町狩野家の繁栄は制度的上昇にとどまらず、常信が詠歌・鑑定・絵画を横断する文化的実践を通じて形成した知的基盤と人的交流に支えられていたことを指摘する。すなわち、常信を歌人として再定位することにより、絵師と文芸・鑑定との相互関係を再考し、幕府政権下における古典重視という文化的背景に新たな視座を提示する。

コメンテーター:松島仁(静岡県富士山世界遺産センター)

【第3回】
6月25日

石崎尚(愛知県美術館学芸員)
「中部日本美術展と県展研究」

中部日本美術展(中美展)は1947年から56年まで、愛知県名古屋市で開催された公募展である。戦後間もない時期に始まったこの展覧会は、文化の復興を掲げると同時に、関東と関西に挟まれたこの中部圏において、独自の郷土文化の確立を主眼に置いた。また展覧会の開催と並行して美術館建設運動を行い、それが実を結んで愛知県美術館の前身である愛知県文化会館美術館が誕生した。このように、中美展とそれを組織した中部日本美術協会は中部圏の戦後美術史において極めて重要な存在でありながら、目録などの一次資料の不足が長らく本格的な研究を阻んできた。今回は筆者の資料調査の経過報告を行うとともに、中美展終了後の中部の美術状況も交えながら、地方における公募展の果たした役割について再考してみたい。同時に、今後来るべき横断的な県展研究会のための問題提起を行いたい。

【第4回】
7月30日

村田隆志(大阪国際大学教授)
「日本近代の墨梅図―専門の南画家と余技の愛好家の関与をめぐって」

南画を学ぶ際の最も基本的な画題「四君子」の一つである梅は、作品の伝存事例が相当に多い。漢詩と共に表現された意義深い作例も少なくない。本発表においては、安田老山、田能村直入、松林桂月などの事例についてまず論じ、近代の南画の墨梅図の本流の様相を紹介する。あわせて森脇雲渓などの作例を検討することで、かつては画家の技量を密画だけではなく、粗画の筆致をも合算して計ろうとする美意識が存在していたこと、その場合、墨梅は筆勢や気格の高さを表現しやすい画題であったと目されることを指摘する。
また、近代において南画は、専門の画家が描くだけではなく、余技として広く愛好され、嗜まれるものでもあった。明治初期に重視された漢籍詩文の教養、通常の筆墨硯紙のみで制作できる南画の簡便性などが招来した状況である。この時期には、相当数の墨梅を含む手本が印刷によって流布し、独学や講習会参加、通信教育によって地方でも学べる状況が整えられた。この大衆化の中で、墨梅図の表現はどのように変容していったのか。松田霞城や小室翠雲らの事例を検討しながら考察する。

安原大熙(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)
「永坂石埭の墨梅と墨梅に題した詩群について」

明治時代の漢詩人であり、森春濤門下の四天王の一人と称された永坂石埭(弘化二年~大正十三年)は、純粋な漢詩人ではなく本業は医師であり、また漢詩だけでなく書家、画家としても活動しており、詩書画三絶三高と評されていた。彼の詩と画の双方において梅花は重要な地位を占めており、特に彼の描く「墨梅」は文人間の交流において重要な役割を果たしていた。
墨梅自体は、北宋の花光和尚に始まり古い歴史があり、また墨梅に題した詩も南宋以降多く見られる。しかしながら、永坂石埭の墨梅と墨梅に題した詩には文人論の観点から独自の位置付けが可能ある。本発表では、永坂石埭の墨梅に彼自身が題した詩、そして森槐南など彼以外の詩人が題した詩群の分析を通じて、彼の墨梅と墨梅に題した詩を当時の文人の圏域、近代という時代においてどのように位置付ける事ができるか考察していきたい。
その際に重要となるテクストは、名古屋市の蓬左文庫に所蔵されている『石埭翁詩稿』十三冊ならびに漢詩結社檀欒会のメンバー(江木冷灰や森槐南、岩溪裳川など)の詩が収められた『檀欒集』である。特に前者に関して、発表者は今年二月に蓬左文庫を訪問し、『石埭翁詩稿』十三冊全ての複写を入手した。その上で調査・整理を進め、有力な用例を集める事ができた。本発表は、その調査成果の報告を兼ねるものである。