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2024年度の研究会

令和6年度(2024)
【第1回】
4月30日

米沢玲(東京文化財研究所文化財情報資料部文化財アーカイブズ研究室 室長)
「研究滞在の報告―セインズベリー研究所とイギリス国内の視察―」

イギリス東部のノリッジに所在するセインズベリー日本藝術文化研究所(Sainsbury Institute for the Study of Japanese Arts and Cultures/SISJAC) は1999年にロバート・セインズベリー氏の遺産によって開設された、日本文化・美術に特化した学術研究所です。東文研とは平成25年(2013)に共同研究の覚書を交わし、研究交流を続けてきました。発表者は令和5年(2023)10月16日から6年(2024)2月28日までの約4か月半、セインズベリー研究所に客員研究員として滞在しました。滞在中にはイーストアングリア大学(University of East Anglia/UEA)に付属するセインズベリーセンターやロンドン大学東洋アフリカ学院(University of London The School of Oriental and African Studies/SOAS)で講演会やギャラリートークを行ったほか、作品調査やイギリス国内各地の美術館・博物館、図書館やアーカイブ施設の視察を行いました。今回の研究会ではセインズベリー研究所と視察した各施設をご紹介し、イギリスにおける文化施設の社会的役割や立場について日本との違いに注目しながらお話ししたいと思います。

【第2回】
5月14日

山永尚美(東京文化財研究所文化財情報資料部アソシエイトフェロー)
「行政機関で作成された映像資料とその関連資料の管理と利用可能性について」

映画ないし映像資料を長期に保存し、利活用するにあたっては、媒体それ自体と共に、製作関係者、実演家、著作権、肖像権、使用楽曲、シノプシスなどの関連情報を一体的に保存することが不可欠となる。そうした情報源のひとつに、制作関連資料をまとめたプロダクションファイルがある。政府機関が活動の過程で作成した映画(government films)の体系的な保存を実現してきた米国では、1934年に国立公文書館が設置されると、映画フィルムそれ自体と共に、関連資料を案件ごとにまとめたプロダクションファイルの移管を受入れてきた。これらはこれまで原資料が利用に供されていたが、近年ではその一部がデジタル化されてオンライン上で公開されるなど、新たな形での利活用が実現されつつある。一方の日本では、1971年に開館した国立公文書館で映画それ自体の受入が十分進まなかったこともあり、関連資料についても体系的な保存は実現していない。
発表者は2022年8月に米国を訪問した際、レコードグループ(RG)単位で管理されているこれらのプロダクションファイルの一部を閲覧した。本発表では、この時の調査成果を報告の上、連邦政府の職員が活動の過程で作成・取得した映像資料とその関連資料の管理の在り方について考察する。その上で、日本における同種の資料の管理状況との比較を試みる。映像資料とそのコンテクスト情報が記録された関連資料を一体的に保存し、利用に供することは、目録やメタデータの作成など、種々の領域に便益をもたらす。

【第3回】
6月25日

井内佳津恵(北海道立三岸好太郎美術館 上席専門員)
「「戦前期朝鮮半島美術家・作品・記事データベース」の成り立ちについて(報告)」

本発表は、発表者が任意団体「日韓近代美術家のまなざし」展研究会代表として維持してきた「戦前期朝鮮半島美術家・作品・記事データベース」について、データベース構築の経緯と、維持の状況、今後の展望について、口頭報告するものである。
【構築の経緯】本データベースの基礎となったエクセルデータは、ソウルの国立中央図書館で複写した『京城日報』(1922~43)の美術記事。記事中の朝鮮半島旅行者や在住者の略歴・現存作品等を追跡調査し、「美術家と『朝鮮』-『京城日報』の記事を通して」と題し、北海道立美術館『紀要』(2007-09)に紙ベースで発表したものである。これと並行して展覧会企画を練り、新潟、神奈川、横須賀、岐阜、都城、福岡の学芸員と研究会を結成し、前記のエクセルに加え、戦前の朝鮮半島で活動歴のある所蔵作家についての全国アンケート結果、雑誌等の記事複写を加え、ポーラ美術振興財団から助成金を受け(2012~14)、データベースを構築。研究会員のほか要請のあった日韓の研究者に限定して公開した。
【維持の状況】展覧会終了後、研究会員との連絡が途絶えがちになったこと、発表者自身が調査研究に手が回らない状況となったことなどにより、年に1回維持費を支払って物理的に維持しているという状況が8年間続いた。昨年、株式会社シアンスのアカウントを離れ、独自アカウントを取得したことを機に、公的機関へのデータベース寄贈を本格的に検討しはじめた。

【第4回】
7月23日

後藤亮子(文化財情報資料部 客員研究員)
「余紹宋と近代中国の書画史学」

書画書録解題』(1931)は、中国の書画関係文献に関する初の専門解説書でありながら定論の地位を占めている。本発表は、その著者である史学家、収蔵家、書画家の余紹宋(1883-1949)の近代中国における位置づけを探るものである。
発表者は大村西崖の中国旅行に関する研究に参画して1920年代の日中美術交流史の諸相を知ったが、この時期は中国美術史学の発展において重要であり、中国画の実践においても、伝統文化に対する批判の中で書画家のネットワークが形成され、上海で「国画復活運動」が模索されるなど、中国の美術界が大きく動いた時期である。その中で、日本に留学して法学を学んだ余紹宋も、美術界に足跡を残すようになった。
本発表では、20世紀前半の中国社会および美術界の動向を踏まえ、近代の日本と中国における中国美術史学の成立過程を概観する。また、北京や上海で展開された美術家のネットワーク形成についても取り上げる。その上で特に余紹宋に焦点を当て、その生涯と画学研究、書画の実践について検討する。検討材料として、余紹宋の著作『画法要録』(1926)、『書画書録解題』、美術報『金石書画』(1934-37)を取り上げる。

【第5回】
9月6日

吉田暁子(東京文化財研究所 文化財情報資料部 研究員)、藏田愛子(東京大学 大学院人文社会系研究科文化資源学研究専攻 助教)、品川欣也(東京国立博物館 学芸企画部 海外展室 室長)、笹倉いる美(北海道立北方民族博物館 学芸主幹)
「織田東禹《コロポックルの村》をめぐって」

織田東禹による水彩画《コロポックルの村》(1907年、東京国立博物館 ※東博特集展示「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」〈特別室Ⅰ・Ⅱ、~10月20日〉に展示)は、「三千年前石器時代日本」を舞台とする「先住者部落の生活状態の図」として描かれたことが、その裏面に記されている。制作にあたり、織田は人類学者の坪井正五郎や小説家で考古愛好家の江見水蔭などに取材し、考古遺物などの資料や古代人の習俗について学んだこと、また大森貝塚付近を入念に写生したことなどが知られる。織田は本作を東京勧業博覧会に「美術品」として出品することを目指したものの、同部門での審査を拒絶され、本作は「教育、学芸」の資料として展示された。
考古資料や実景に基づく写実的描写に拠りながら、当時の学説を参照し古代の日本を想像して描かれた図であり、また作者の意図に反して美術品とは認められなかった絵画であるという本作の複雑な位置づけについては、藏田愛子氏の近著『画工の近代 植物・動物・考古を描く』第8章「明治四十年代における『日本の太古』」(東京大学出版会、2024年、309-331頁)で詳述されている。
研究会では、藏田氏に本作の総合的な位置について、品川欣也氏には本作に描かれた土器や石器と東京国立博物館所蔵の考古資料との関連について、笹倉いる美氏には本作に描かれた人物の習俗と世界の北方民族の習俗との関連について発表頂き、吉田は本作と同時代美術との関連について発表する。領域横断的に《コロポックルの村》を読み解き、この異色作についての理解を深めることを目指す。


【第6回】

10月29日

小野真由美(東京文化財研究所 文化財情報資料部 日本東洋美術史研究室 室長)
「江戸時代初期における袁宏道『瓶史』の受容について―藤村庸軒の花道書の紹介をかねて―」

『瓶史』とは萬暦28年(1600)に著された挿花論である。著者の袁宏道(1568~1610)は湖北省公安県の出身で、字は中郎といい石公と号した。袁宏道とその兄弟は、王世貞(1526~90)のような古文辞派に対抗して、堅苦しさを払拭した清新な表現を試みて「公安派」と呼ばれた。袁宏道のテキストはいくつかの全集に編纂され、わが国には遅くとも寛永6年(1629)には舶載されており、さらに和刻本については瑞光寺元政上人の校訂とも伝わる元禄9年(1696)刊行の『梨雲館類定袁中郎全集』がある。しかし『瓶史』の本格的受容は江戸時代後期(18~19世紀)とみなされてきた。この時期、『本朝瓶史抛入岸之波』(1750)、『瓶史述要』(1770)、『袁宏道瓶史』(1781)、『瓶史国字解』(1809、1910)と矢継ぎ早に『瓶史』関連文献が刊行された。
さて藤村庸軒(1613~99)は、17世紀を代表する茶人のひとりである。京都の呉服商十二屋藤村家の長男として誕生した(異説あり)。十二屋は藤堂家の御用商人であり、父宗佐は藤堂高虎のお伽衆のひとりであった。庸軒も藤堂家に仕え、藤堂家家臣であった三宅亡羊(1580~1649)に漢学を学んだ。さらに庸軒は、藪内真翁および小堀遠州に茶の湯を学び、ついには千宗旦(1578~1658)の高弟となった。すなわち宗旦と亡羊に学んだ庸軒は、漢詩に秀でた当代一級の茶人であった。その功績は茶会記『反古庵茶之湯之留書』、茶書『茶話指月集』、漢詩集『庸軒詩集』等からうかがい知ることができる。また庸軒関連史料は香や挿花にも秀でた人物でもあったことを伝える。
先述のとおり『瓶史』のわが国における本格的受容時期は18世紀とみなされているが、じつは庸軒に関する史料をひもとくと、庸軒が『瓶史』を精読して袁宏道に私淑し、挿花の一流派を築いたことを知ることができる。よってわが国における『瓶史』の受容時期は、じつはもっと早く江戸初期17世紀と考えるべきといえよう。そこで本発表では、これまでほとんど着目されてこなかった庸軒による『瓶史』受容について再検討し、さらに新出の花道書『古流挿花口伝秘書』(写本)を紹介することで、庸軒の漢詩への探求および多彩な茶歴が相まって形成されたであろう「庸軒の挿花」について考察してみたい。

コメンテーター:山本嘉孝(国文学研究資料館 研究部 准教授)

【第7回】

11月29日

荏開津通彦(山口県立美術館 副館長)
「長谷川等哲について」

『岩佐家譜』は、岩佐又兵衛の長男・勝重の弟が、長谷川等伯の養子となり、長谷川等哲雪翁と名乗って、江戸城躑躅間に襖絵を描いたことを記録する。この等哲は、『長谷川家系譜』に載る「等徹 左京雪山」、また『龍城秘鑑』が江戸城躑躅間の画家として記す「長谷川等徹」と同人かとされる。その作品としては早くから「白梅図屛風」(ミネアポリス美術館蔵)が報告されていたが、遺作・文献いずれも乏しく多くを知られることがなかった。本発表では、長谷川等哲筆と考えられる作品を相当数追加し、近江国・聖衆来迎寺の寺史『来迎寺要書』に同寺の「御相伴衆」として長谷川等哲の名が現れること、また、備前国・宇佐八幡宮の「御宮造営記」に、歌仙絵筆者として長谷川等哲の名が記されることを紹介する。さらに、又兵衛派の画家の一人で「三十六歌仙図屛風」(安芸市立歴史民俗資料館蔵)の作者である「雲翁」印の画家とこの長谷川等哲との関係について検討する。

コメンテーター:戸田浩之(皇居三の丸尚蔵館)・廣海伸彦(出光美術館)

【第8回】

12月18日

月村紀乃(東京文化財研究所 文化財情報資料部 研究員)
「長尾美術館に関する基礎的研究―美術研究所との関わりの解明に向けて―」

長尾美術館とは、わかもと製薬の創業者である長尾欽弥(1892-1980)・よね(1889-1967)夫妻が、昭和21年(1946)、夫妻の別荘である「扇湖山荘」(神奈川県鎌倉市)内に開いた美術館である。その所蔵品は、夫妻が戦前に売立などを通じて入手した、書跡、絵画、仏像、茶道具、刀剣、染織など幅広い分野にわたっており、現在では国宝や重要文化財の指定を受ける作品も多い。しかし、やがて所蔵品は少しずつ手放されていき、昭和42年(1967)頃には、美術館は解散状態に至った。事実上の閉館から半世紀以上が経つが、美術館としての運営実態やコレクションの全体像はいまだ明らかになっていない。
一方で、長尾夫妻は、作品の購入や展示に際して、美術史研究者、なかでも美術研究所の所員と深い関わりを持っていたらしい。たとえば、研究所の所長を務めた矢代幸雄や田中豊蔵は、長尾邸によく招かれていたといい、また、矢代の学生時代からの友人で、嘱託職員として研究所に勤務した児島喜久雄は、長尾美術館の初代館長に就任している。さらに、研究所に拠点を置いた「美術懇話会」や「東洋美術国際研究会」では、長尾欽弥が理事として参画し、その所蔵品を研究者へ紹介する機会を得ており、当時の資料が東京文化財研究所に残されている。
本発表では、長尾美術館に関する研究の第一段階として、その基礎情報を整理するとともに、現段階で判明している美術研究所との関わりについて紹介し、今後の研究の可能性を提示する。

【第9回】

1月21日

金素延(韓国・梨花女子大学校美術史学科 教授、東京文化財研究所 来訪研究員)
「金剛山を描く―韓国近代期における金剛山の認識変化と視覚化」

朝鮮半島の東側、江原道に位置する金剛山は韓国を代表する名山であるが、『華厳経』に登場する宗教的聖地でもあり、民族的霊山として機能してきた。そのため誰もが一生のうちに一度は訪問したいと願う遊覧空間となり、金剛山探勝の長い歴史とともに文学や美術における重要なテーマとなった。
金剛山は、主峯である毘盧峯を境として、内陸側(西側)が「内金剛」、海側(東側)が「外金剛」に区分される。このうち外金剛は、海岸地域の絶景である「海金剛」を含む領域である。ふたつの領域をめぐっては、内金剛が「蘊藉優雅」で女性的、外金剛が「雄健秀特」で男性的、とよく比較されて語られるが、このような意識は20世紀前半に形成されたものである。20世紀前半に金剛山は観光地として「名勝」化し、朝鮮総督府の主導下で鉄道が敷設されるなかで、金剛山へのアクセス利便性が画期的に向上した。かつて朝鮮時代において、金剛山の遊覧といえば、主に漢陽(現ソウル)と近かった内金剛に限られていたが、岩山で険しい外金剛の領域がクローズアップされるようになるのである。この過程で外金剛を中心に新たな名勝が誕生し、また外金剛に男性的なイメージ、内金剛に女性的なイメージが投影されるようになった。
本発表では、金剛山にまつわる絵画を残した韓国人および在朝日本人、そして韓国を旅した日本人の絵画作品に加えて、写真絵はがき、旅行案内書なども併せて考察しながら、金剛山図、そして金剛山イメージの新たな局面を考察するものである。

通訳:田代裕一朗(東京文化財研究所 研究員)

【第10回】

2月17日

発表者(1):徐胤晶(明知大学校人文大学美術史学科 教授)
「安堅と東アジアの華北系山水画―伝称作、偽作、そして唐絵のなかの朝鮮絵画」

本発表は、朝鮮時代前期を代表する画員画家である安堅について、東アジア華北系山水画の拡散と展開という文脈のなかで考察するものである。安堅は、書画の収蔵家であり書芸家でもあった安平大君(1418-1453)と交流しながら、朝鮮時代前期山水画の規範を定立させた。また王室の書画コレクションや図画署画員の役割・身分に関する研究の端緒を与えた点でも、重要な人物といえる。安堅は安平大君が収集した中国書画を通して、北宋・郭熙(c.1020-c. 1090)の画風を受容し、これを朝鮮的山水画様式に昇華させた。代表作と評される《夢遊桃源図》は、北宋山水画の構成と筆致を反映した作品で、安堅の画風とイメージを形成するうえで大きな役割を果たしている。
現存する安堅の伝称作は、様々な過程を経て形成され、朝鮮と日本で異なる評価を受けてきた。朝鮮では生前から作品が王室と宗親の主要な収蔵品となり、また18世紀には既に多くの偽作が流通していたことが窺える。いっぽう日本では安堅の伝称作が、郭熙風山水画として鑑定されて唐絵の範疇で解釈され、独自の朝鮮画風というより、中国絵画との関係のなかで理解されてきた。
本研究は、まず文献および様式分析により安堅伝称作の形成過程を検討し、朝鮮と日本でどのように作品が解釈されたのか分析するものである。さらに伝称作・偽作・模写をめぐる問題を通して、東アジア華北系山水画の系譜と変容を再考し、日本の唐画に包摂された朝鮮絵画を再発見する意味について考察するものである。

発表者(2):金貴粉(国立ハンセン病資料館 主任学芸員)
「近代朝鮮における書の専業化過程とその特徴 ―官僚出身書人の動向を中心に―」

朝鮮時代末期から植民地期に至るまで、旧来の官僚たちと書の関係は政治状況の変化とともに大きく変化した。1894年には実質的に図書署や写字庁は廃止され、能書を官途の要件としてきた従来の観念に転換を強いることになった。また、官僚出身者には能書家も多く、その一部は政治的な背景から海外との交渉を活発化させる中で、書の交流を盛んにし、自身の進むべき方向を探っていた。
植民地期に入ると、展覧会制度の導入や印刷技術の向上、書画売買システムの確立など、書をとりまく様相も近代化された。報告者は作家活動を中心とする現代的意味における職業書家ではなかったにせよ、植民地期には鑑識家や研究者等の立場で書を生業とする職業書家に近い者が存在し、その嚆矢は植民地期以前において政治的な活動も伴う官僚出身者を中心とする書人の活動の中に認められるのではないかと考える。
本報告では、代表的な官僚出身の書人である呉世昌(1864~1953)、金圭鎮(1868~1933)を中心に、彼等が近代朝鮮において、どのように書を専業化させていき、そこにいかなる特徴が認められるかについて当時の書画を取り巻く時代状況についても視野に入れ、考察する。

発表者(3):田代裕一朗(東京文化財研究所文化財情報資料部 研究員)
「関野貞の朝鮮絵画調査と朝鮮人蒐集家-東京文化財研究所所蔵の調査資料をもとに―」

東京文化財研究所には、関野貞(1867〜1935)が実施した朝鮮絵画調査の資料群がある。1930年から33年にかけておこなわれた調査の成果は、その後、朝鮮名画展覧会(1931年3月22日~4月4日、東京府美術館)、『朝鮮古蹟図譜』14巻(1934年)に結実している。
関野がこのような一連の朝鮮絵画調査に着手した切っ掛けのひとつとして、呉鳳彬(1893〜?)との邂逅がある。1930年10月、関野は、呉が京城・東亜日報社で開催した「古書画珍蔵品展覧会」を観覧した。関野は、ここで朝鮮名画展覧会を着想し、以後朝鮮人蒐集家との関係を深めていく。
東京文化財研究所が所蔵する資料群に含まれる調査メモには、李秉直、李漢福、林尚鐘、劉復烈、張澤相、金容鎮、朴栄喆、朴在杓といった同時代の著名な朝鮮人蒐集家を訪ねた際の記録を確認できる。作品の移動史を検討するうえでも重要な資料といえるこの調査メモをもとに、本発表は関野貞の朝鮮絵画調査と朝鮮人蒐集家について考察する。

通訳:田代裕一朗(東京文化財研究所 研究員)

【第11回】

2月25日

発表者(1):江村知子(東京文化財研究所文化財情報資料部 部長)
「酒呑童子絵巻の魔力」

発表者(2):並木誠士(京都工芸繊維大学 特定教授)
「狩野派と酒呑童子絵巻」

発表者(3):小林健二(国文学研究資料館 名誉教授)
「響き合う能と絵巻」

2022年度から開始した基盤研究B「酒吞童子絵巻の研究」が終了するのに際し、成果報告を行う。この研究課題では2017年に初めて見出された住吉廣行筆「酒吞童子絵巻」(ライプツィヒ・グラッシー民族博物館所蔵、以下ライプツィヒ本)を中心に共同研究を進めてきた。研究の過程でライプツィヒ本の完全な形の下絵が確認され、この絵巻のテキストは幕府の文官であった成嶋和鼎・峰雄という父子が新たに物語を編んだもので、それにあわせて住吉廣行が「新図」したものであることが判明した。国内外の酒呑童子絵巻の諸本の調査を通じて酒呑童子の物語が流派を超えてどのように絵画化され、変遷、受容されてきたかについて考察を進める過程で、古典を学びながらも新しい物語として転生していく事例を確認してきた。酒呑童子の物語は、文学、美術、演劇が互いに影響し合いながら文化の乗り物となってきたのである。この研究会では研究代表者および分担者による発表を行って研究成果を報告し、研究協力者からのコメント、研究討議を通じて今後の展開について考える機会としたい。

討議: [司会] 江村知子、[コメンテーター] 上野友愛 (サントリー美術館 副学芸部長)

【第12回】

2月26日

発表者:万木春(中国美術学院 副教授)
「王詵《漁村小雪図》について」

王詵『漁村小雪図』(北京・故宮博物院)を中心に、雪景、漁村などのモチーフで構成される一群の絵画について論じる。『漁村小雪図』をその系譜に位置づけたうえで、その絵画言語について検討し、いかなる部分が一般的な特徴であるのか、またどこが個性的な表現であるかを考察することにより、北宋の画家たちの視点に立ち返って、この作品およびこの類型の絵画についての更なる理解を目指す。

通訳[逐次]:後藤亮子 (東京文化財研究所 客員研究員)

【第13回】

3月6日

発表者:住田常生(高崎市美術館 主任学芸員)
「「清宮質文資料」について」

このたび繊細な彫りと摺りによる木版画や、ガラス絵などで知られる清宮質文(1917-1991)の遺した資料のうち、主に自筆資料が東京文化財研究所へ寄贈された。日記、制作控、画題控や雑記帖とよばれる手製の手帳など、内面をうかがわせる貴重な資料であり、作家活動を始める前後の1940年代後半から没する1990年代までの期間に渡る。みずから「表現形式に「絵」という方法をとっている詩人」と記し、「イデー(想念上のイメージ)」の実現を目指した清宮は、近代以降の日本絵画史でマイナーポエトである。しかし2000年代以降『全版画集』や『ガラス絵作品集』編纂を通じ伝記事項の研究が進む一方、木版画制作者による制作面の研究も進んでいる。この双方の研究成果を結び、検証しうる価値について、改めて寄贈資料を紹介しつつ、実例に即して可能性を述べる。

コメンテーター:井野功一 (茨城県近代美術館 美術課長)