令和5年度(2023) |
【第1回】 |
4月28日
江村知子(文化財情報資料部長)
「酒呑童子絵巻の研究―調査中間報告」
ライプツィヒ民族学博物館に所蔵されている、住吉廣行筆「酒呑童子絵巻」(6巻)(以下、ライプツィヒ本)は、前半3巻が伊吹明神の子として生まれた少年がいかにして酒呑童子と化していったかを語り、後半3巻が狩野元信筆「酒傳童子絵巻」(サントリー美術館)のおおよその内容や描写が共通することが認められる。ライプツィヒ本は、天明6年(1786)に徳川将軍家から紀州徳川家に輿入れした種姫の婚礼調度として住吉廣行が制作したと考えられ、その概要と詞書は、『美術研究』435に掲載した。
今回の研究会では、令和4(2022)年度より、科学研究費助成事業・基盤研究Bとして行っている「酒呑童子絵巻の研究」の中間報告として発表を行う。ライプツィヒ本および酒呑童子絵巻の諸作例を研究することにより、狩野派・住吉派といった流派を超えた絵画表現の広がりと変遷、住吉派による絵巻物制作の実態、酒呑童子物語の受容と改変、詞書の変遷、婚礼調度における絵画の役割など、多くの問題に新たな光をあて、具体的事例として捉えることができる。令和4年度に調査を行った国内の酒呑童子絵巻の諸本について報告を行い、今後の研究計画を提示したい。
コメンテーター:並木 誠士 氏(京都工芸繊維大学・美術工芸資料館・特定教授)
小林 健二 氏(国文学研究資料館・名誉教授)
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【第2回】 |
5月30日
田代裕一朗(文化財情報資料部 研究員)
「在朝日本人と韓国朝鮮美術史の形成について(予察)」
本発表は、発表者が今後取り組もうと考えている研究テーマ「在朝日本人と韓国朝鮮美術史の形成」について、研究に至った経緯と今後の展望を口頭報告するものである。
植民地期(1910-45)の朝鮮半島に滞在・居住していた在朝日本人には、美術工芸の行政・研究・教育・収集・制作(製作)に関わった人士が少なからず存在した。しかし朝鮮半島で没した例、日本引き揚げ後に活動をやめた例も多く、戦後その活動が振り返られる機会は少なかった。上記研究テーマは、美術史とその周辺分野で活動した在朝日本人を対象とし、①彼らによって形成された枠組み(歴史観、価値評価)と②人的ネットワークを分析し、1945年以後の韓国朝鮮における美術史認識にどのような影響を及ぼしたのか、解明を目指すものである。
発表の構成として、まず陶磁史研究に取り組んでいた発表者が、「在朝日本人」について関心を持つ契機となった朝鮮白磁の評価史研究(『美術史学研究』294号、韓国美術史学会、2017年)について紹介する。そのうえで陶磁史研究と並行して取り組んできた在朝日本人の資料調査(『美術研究』436号、東京文化財研究所、2022年など)で得た知見を紹介する。さらに2023年に入って実施した濱田義徳・美勝資料(1月)、斎藤実資料(3月)の調査成果を報告したのち、これから取り組む韓国絵画調査写真(東京文化財研究所所蔵)のデータベース化事業について概要を説明し、今後の展望について述べる。
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【第3回】 |
6月27日
小山田智寛(文化財情報資料部 主任研究員)
「デジタルデータの長期保存について」
デジタルデータの長期保存についての関心は技術面に終始しがちであるが、これはデジタルに関わる機器やサービスがいまだに過渡期であることの反映と考えられる。実際にデジタルデータの長期保存を目指すには、やや矛盾めいているが、デジタル記録メディアやファイルが十分に利用可能なうちに新しいメディアへの複製やファイルの変換等を行うこと、すなわちマイグレーションというデータの運用が欠かせない。
ではメディアやファイルが十分に利用可能な期間とは、どの程度の期間が想定できるだろうか。メディアに関しては、デジタルデータを光ディスクにて長期に保存・管理するための規格であるJIS
Z6017:2013に準拠し、数十年から数百年の寿命をうたう製品も発売されている。しかし、同規格では5年を目安とした定期品質検査や、正副セットでの光ディスク作成といった運用が定められている。メディアの動作の確実性を一定期間でも保証することは難しく、長期保存は、やはり運用によって担保されると考えなければならないのだろう。
本発表では、デジタルデータの長期保存に関わる技術面と運用面の現状と課題を確認し、最後に運用によって長期保存を担保するシステムの私案を提示する。
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【第4回】 |
7月25日
安永拓世 (文化財情報資料部 広領域研究室長)
「桑山玉洲の旧蔵資料に関する復原的考察」
桑山玉洲(1746~99)は、江戸時代の中期に和歌山で活躍した、紀州を代表する文人画家の一人である。絵は、ほぼ独学だったようで、みずから収集した中国絵画などから多くを学んだほか、京都の文人画家である池大雅(1723~76)や、大坂の文人である木村蒹葭堂(1736~1802)との交流を通して、独自の画風を確立した。また、『絵事鄙言』などの優れた画論の著作があり、大雅から学んだ絵画理論を世に示した意義も大きい。
この玉洲の子孫にあたる和歌山の桑山家には、玉洲ゆかりの資料類が伝来していたことが知られるが、売立などによってその一部が売却されたほか、残っていた資料も、戦後、一時行方不明となり、近年、桑山家の縁戚筋にあたる家から再発見された経緯がある。これらの再発見された桑山家旧蔵資料は、画材道具や印章をはじめ、玉洲旧蔵の中国書画などを含んでいる点で、きわめて貴重な資料群とみなされよう。加えて、東文研には、昭和19年(1944)に桑山家において資料を調査した際の写真が残されており、桑山家旧蔵資料の一部が散逸する前の状況を、より復原的に概観することも可能となる。
本発表では、現存する桑山家旧蔵資料の中から、玉洲旧蔵資料と思しきものを抽出し、その位置づけについて考察するとともに、現在は失われてしまった桑山家旧蔵資料を、東文研の調査写真や売立目録などから補うことで、東文研アーカイブ活用の可能性と展望についても探りたい。
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【第5回】 |
9月22日
田中知佐子(大倉集古館)
「1930年「羅馬開催日本美術展覧会」開催を巡る諸相」
「羅馬日本美術展覧会」(通称ローマ展)は、1930年(昭和5)に大倉財閥二代目の大倉喜七郎男爵の全面出資により、ファシスト政権下のイタリア・ローマで開催された、空前絶後の規模による海外における日本画の大展覧会である。
これまで、ローマ展に関する研究は、主に横山大観の著述を論拠とする日本美術院側からの視点から語られて来たが、イタリアの外交文書研究者Paolo
Massa氏や、日本の日伊関係史研究者・石井元章氏らによって、1928年(昭和3)にEttore
Violaが東京で開催した「イタリア名作絵画展覧会」に端を発したものであるとの見方が、最近示されるようになった。そこで、発表者は2022年度にポーラ美術振興財団助成を受けて、大倉集古館に保管されてきたローマ展関連の手紙や資料などの文書を整理・調査し、また同時に行ったイタリアでの現地調査の成果も併せて、ローマ展開催に至るまでの複雑な経緯を詳細に知り得ることが出来た。
本発表では、ローマ展に出品された絵画を改めて概観するとともに、1,ローマ展の開催決定までの推移、2,出品画家の選定と官展派と院展派の対立、3,Aloisiの思惑とViola排除の経緯、4喜七郎はなぜローマ展に行かなかったか、の4つの観点から、この問題に関する考察を述べてみたい。
吉井大門(横浜市歴史博物館)
「大倉集古館所蔵「羅馬日本美術展覧会関係資料」について」
昭和5年(1930)4月26日から6月1日までイタリア・ローマにおいて日本美術展覧会が開催された。この羅馬日本美術展覧会については、すでに開催経緯から作品制作依頼、ローマへの輸送状況、展示会場設営された床の間、出品作品と床の間の展覧会終了後の所在など草薙奈津子氏によって本研究会で取り上げる関係資料をもとに明らかにされているが、その全体像は詳らかではない。ゆえに本研究会では、大倉集古館に所蔵される、展覧会開催前後にやりとりされた関係資料の全体像を概観することを目的とする。次に、今回の調査により、開催に至るまでに開かれた打合せ議事録、報告書簡、表具屋とのやりとりを検証することで見えてきた、開催に至る経緯や動向の詳細を報告する。そしてこれらの基礎資料から今後の羅馬日本美術展覧会研究ひいては、帝展、院展作家が集い初めて海外で開かれた日本美術展覧会の画家達の様相について一視座を供するものである。
篠原聰(東海大学ティーチングクオリフィケーションセンター/松前記念館)
「日本画シンドローム 羅馬日本美術展覧会における鏑木清方の作例を中心に」
明治以降、日本画、洋画を問わず、日本の画家たちは西洋の美術を意識し、受容しながら独自の表現を追求した。そんな画家たちにより、異国の地・イタリアローマにて現代日本美術の展覧会が開催された。自らを日本画家と称する画家たちが主役である。官展系54名、院展系26名の総勢80名の日本画家が出品した羅馬日本美術展覧会は、昭和初期の日本画の傾向を端的に示すと同時に、日本から海外に向けても発信できるような現代美術としての日本画、ひいては日本美術のモチベーションが、当時、一体どこにあったのかを示唆する重要な展覧会である。
日本画は、文展、帝展、金鈴社などの官展系や再興日本美術院、京都の国画創作協会などの活動にみるべく、国内的に大正から昭和初期にかけて百花繚乱の時代を迎えた。そんな日本画を、床の間などの日本的建築空間(展覧会場)とパッケージで海外輸出したのが羅馬日本美術展覧会であると言い換えてもよい。他者(西洋)の視線に晒されることを前提とした時、出品画家たちは日本画をどのように意識したのか。
本研究会では、羅馬日本美術展覧会における①画壇の地政学的傾向と表現志向を概観した上で、②鏑木清方の作例と浮世絵派の海外戦略について報告する。また、清方を含む一部の画家が、日本画シンドロームとも言える、ある種の表現的傾向に異常なまでに執着をみせていたことについても言及する。
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【第6回】 |
11月28日
黒﨑夏央(文化財情報資料部 アソシエイトフェロー)
「菩薩像における条帛の着用・非着用の問題について ―薬師寺金堂薬師三尊像に関する考察の手がかりとして―」
条帛とは、主に菩薩像や明王像において左肩から右腋(その逆もある)に向けてたすき状に懸けられる布製の着衣であり、日本の菩薩像では七世紀後半の作例にその使用例が確認でき、八世紀以降ではほとんどが着用する。その起源はインドにあると考えられるが、日本において条帛が定着する具体的な時期やその背景については積極的に議論されてきたとは言い難い。
発表者は、薬師寺金堂薬師三尊像について検討するなかで、その両脇侍像(以下、薬師寺像)が条帛を着けないという点に着目するに至った。従来、薬師寺像と比較されてきた作例として法隆寺金堂壁画や宝慶寺石仏群などがあげられるが、それらはいずれも条帛を着けている点で薬師寺像とは異なる。日本において、条帛を着けない菩薩像は、隋代美術の影響が指摘される比較的古い造形の作例に見られることから、条帛の有無という点にのみ着目すれば薬師寺像の形式は古様を示すといえるであろう。薬師寺像において、同時代の定型を外れてあえて古い要素が選択されたことには、何らかの思想的・歴史的背景を想定することもできるように思われ、薬師寺像への理解を深める手がかりとして、まず条帛の着用・非着用の問題について考察する必要があると考えた。
本発表では、薬師寺像の制作背景や制作年代に関する考察を見据えて、主に日本の塼仏およびそれに関連する中国・朝鮮半島の作例を取り上げ、条帛が定着する時期や様相について検討を加え、条帛の着用と非着用の問題について考えてみたい。これらの考察は、日本における唐文化の受容、あるいは「インド風」について考えるうえでも、ひとつの手がかりとなりうるのではないだろうか。
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【第7回】 |
12月11日
片倉峻平(東北大学史料館)
「郭店楚簡の用字避複調査に関する中間報告」
上古中国の文字資料には「用字避複」が散見される。用字避複は「一定範囲内に用字が重複した場合にそれらの字形の差異化が認められる現象」であるが、まだ十分な研究の蓄積が無く、その発生理由は判然としていない。様相を探るためには様々な文字資料を対象に調査を進める必要があるが、今回は貴重な一次資料として近年発見の相次ぐ出土資料の中から「郭店楚簡」に関する調査の中間報告を行う。
調査にはテキストデータを援用した。調査対象となる文字資料は現在用いられている楷書体とは性質の異なる古漢字(戦国文字)で記されているため、まずその解読情報を楷書体のテキストデータとして記述し直し、コンピュータで一定範囲内の文字の重複を網羅的に探り出した上で、重複箇所の避複の有無を目視で確認した。従来の用字避複調査は論者が挙げる個別例に従って議論されてきたが、このようにコンピュータを利用することで定量的な数値に基づき考察が可能となるため、新たな角度からの発見があることを期待してこの手法を採用している。同様の定量調査は他の出土資料「清華大学蔵戦国竹簡」「包山楚簡」で既に進めているため、これまでの調査結果と今回のものを比較検討することで、郭店楚簡の用字避複の特徴を探りたい。
今後も時代・地域の異なる各文字資料に対して同様の調査を進めそれぞれの結果を総合することで、用字避複に対する体系的な説明を見出すことを計画している。
コメンテーター:宮島和也(成蹊大学法学部・准教授)
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【第8回】 |
1月17日
金素延(梨花女子大学校)
「韓国近代の女性美術 韓国近代になぜ女性美術家はいなかったのか」
本発表は、リンダ・ノックリンの「なぜ偉大な女性美術家はいなかったのか」という問いを、韓国近代美術の状況を踏まえて、再び問い直すことから始まる。現在、韓国美術史の叙述において、女性が占める比重はきわめて低い。もちろん男性と比べて教育の機会が少なく、また社会的な活動にも制約があり、相対的に女性美術家の活動が盛んではなかったことは周知の事実である。しかし実証的証拠をもとに考えても、女性美術家に対する認識と位相、存在感はあまりにも不足しており、実情との乖離が大きい。
このような状況を踏まえて、本発表は、近代韓国で活動した女性美術家の存在と活動を考察しつつ、同時に美術史の叙述のなかで女性の役割が矮小化されている状況を議論するものである。具体的には、第一に作家としての妓生(芸妓)の位置付けを考察する。女子美術教育を最初に享受した女性は、妓生が圧倒的に多かった。閉鎖的な20世紀前半の韓国社会において妓生は、先進文化に最初に触れる新女性として、専門教育機関で教育を受け、さらに官展でも活動した。しかし妓生という身分は、結局「限界」として作用するほかなかった。また四君子を題材にした作品が多いという点において、美術という新概念の範疇に書芸および四君子画を比定しなければならなかった近代画壇の苦悩と衝突が窺える。第二に日韓両国で専門的な美術教育の機会を得ながらも、活動期間が短かったために注目されなかった女性美術家について考察する。とくに本発表では相対的に注目されなかった東洋画家に注目し、さらに近代女性の人気を集めた刺繍芸術を再考する。近年韓国の美術史学界では、女性と美術に関する研究が断続的に展開しており、鄭燦英をめぐる研究を代表例に挙げることができる。最後に範囲を拡張し、同じ空間を共有した在朝鮮日本人女性画家の存在を取り上げる。朝鮮美術展覧会において、日本人女性画家の特選と入選を確認できるが、彼女たちは韓国で美術教師を務め、あるいは画塾を運営して弟子を育て、グループを形成した。現存作品が少なく、また在朝鮮日本人、そして女性という経済的な位置付けから注目されてこなかったが、今後日韓の研究協力が可能な分野と思われる。
上記のような手順のもと、韓国近代女性画壇を再考するとともに、本テーマと関連する韓国の新たな研究の動向を共有する契機となることを願っている。(翻訳:田代 裕一朗)
司会:塩谷純(東京文化財研究所 上席研究員)
コメンテーター:田所泰(実践女子大学香雪記念資料館)
逐次通訳:田代裕一朗(東京文化財研究所 研究員)
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【第9回】 |
1月23日
小林公治(東文研特任研究員) ウルリケ・ケルバー氏(リスボン新大学研究員) 翻訳代読:倉島玲央(保存科学研究センター研究員)
「ポルトガルで「発見」された2基のキリスト教書見台について ―桃山・江戸初期の禁教実相と日葡関係を映す新出資料―」
近年ポルトガルのリスボンにて、南蛮漆器および南蛮漆器に文様が類似する2基のキリスト教書見台が新たに「発見」された。
このうち南蛮漆器書見台は、前面全体を幾何学文で飾り17世紀第2四半期の年代が想定されるものであるが、通常イエズス会の表徴である「IHS」紋が表される背板中央の丸窓部分は黒漆地で松樹図が描かれている。しかしこの部分は明らかに上から塗り重ねたものであることから、何らかの理由により当初のIHS紋を隠す目的で塗り重ね描き変えたことが推測される。
もう一方は、これまで沖縄や中国での製作が推測されてきた南蛮漆器類似の漆塗り箔絵螺鈿書見台であるが、背板表裏面には多数の漢字が墨書で書かれ、その一部にはマカオの中国名である「澳門」が確認できる。このことから、これらの文字は同地を拠点としたポルトガルのキリスト教関係者に近い地元の人物によって16世紀末頃に書かれた当時の中文であり、こうした器物の装飾がマカオ地域で行われていたことを示す資料だと考えられる。
本発表では、これまで発表者2名が進めてきたこれら書見台2基についての研究成果について紹介するとともに、この度実施する諸調査研究の成果についてもできるだけ盛り込んだ速報的な報告ともしたい。
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【第10回】 |
3月7日
塩谷純(東文研上席研究員) 「山口蓬春と大和絵―“新古典主義”の見地から」
日本画家・山口蓬春の昭和戦前期の画業を、当時の日本画壇を席巻した、いわゆる“新古典主義”的作風の見地から検討する。大正15(1926)年の帝展に出品した《三熊野の那智の御山》が帝国美術院賞を受賞し、新興大和絵会の同人の中でも注目を集めるようになった蓬春だが、昭和に入ると《木瓜》(昭和4年作)のような余白を生かした淡麗な色調の作風が目立つようになる。この時期、蓬春は小林古径や安田靫彦といった院展の画家の作品を、現代に古典を再生させたものとして高く評価していた。『雙杉』第3号(昭和8年12月)に掲載された「大和絵の話」でも、大和絵を「一切のものを現在の客観として自分の見たもの感じたものとして描い」た画風であるとして、師の松岡映丘や新興大和絵と並んで古径や靫彦ら院展の画家の作品を現代の大和絵の例に挙げている。このような蓬春の大和絵観が、自身の制作にどのように反映されているのかを考えてみたい。
コメンテーター:笠理砂(山口蓬春記念館副館長兼上席学芸主任)
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【第11回】 |
3月26日
小野真由美(東京文化財研究所文化財情報資料部日本東洋美術史研究室 室長) 「新出の野馬図について―旧日光院障壁画との関連から―」
小野美香 (東京国立博物館学芸企画部企画課 アソシエイトフェロー) 「原六郎コレクションの新たな展開―三井寺旧日光院客殿障壁画研究を契機として―」
「新出の野馬図について―旧日光院障壁画との関連から―」(小野真由美)
古来、神馬や絵馬、厩図や競馬図、さらに駿馬を列挙した百馬図、野に遊ぶ馬を描いた野馬図や群馬図などが描かれてきた。ことに17世紀以降、近世武家政権成立の気風を反映したかのような雄大な大画面の野馬図がいくつも描かれた。なかでも三井寺旧日光院客殿障壁画の「野馬図」八幅(公益財団法人アルカンシエール美術財団蔵)は、草原に遊ぶ馬の姿が伸びやかな筆致で描き出されたもので、狩野派による野馬図の代表作といえる。
2021年2月に原家所蔵の古美術作品等の調査・仕分け整理を実施された。その際に三井寺旧日光院客殿「野馬図」八幅(以下、八幅本とする)と一具とみなされる二幅がみいだされた。箱書から以前は六幅であったことがわかり、中ノ間北側六面に相当する可能性がある(小野美香氏発表参照)。本発表では新たに見出された二幅について、その筆者と制作時期を考えたい。
この新出の「野馬図」(以下新出本とする)は紙本墨画で各縦168.3cm、横81.5㎝の掛幅装である。引手跡があり、かつて襖であったことがわかる。新出本は八幅本とは明らかに別筆であることがわかる。新出本の馬の肢体は八幅本よりも胴から腰への曲線が緩く、脚は比較的細く短く、目の輪郭は濃墨主体で描出されている。そこで新出本を他の馬図と比較したところ、狩野孝信筆「牧馬図屏風」(個人蔵、『國華』1505号所載)に、きわめて近似した描写をみいだすことができた。例えば孝信筆「牧馬図屏風」の母と仔の姿形は、新出本の同図様にほぼ一致することがみてとれる。よって、慶長年間(1596~1615)に活躍した狩野孝信と同時期の三井寺の歴史的背景や関連する絵師について、三井寺勧学院障壁画および光浄院障壁画もふくめて考察する。そこから新出本の筆者と制作時期について、一試論を提示したい。
「原六郎コレクションの新たな展開―三井寺旧日光院客殿障壁画研究を契機として―」(小野美香)
旧日光院客殿障壁画は、かつて三井寺(園城寺)の塔頭・日光院客殿(滋賀県大津市)を飾った狩野派による障壁画群である。現在、四十七幅の掛幅と六曲一双屏風に改装され、公益財団法人アルカンシエール美術財団に原六郎コレクションとして所蔵されている。
実業家の原六郎氏(1842~1938)が、日光院客殿を三井寺より建物ごと買い取り、明治25年(1892)、私邸の建つ御殿山(東京都品川区)に移築再建したことにはじまる。移築後、「慶長館」と呼ばれた客殿は、昭和3年(1928)、音羽の護国寺(東京都文京区)に寄進され、境内に再移築されたが(建物は月光殿と改称されて現存)、障壁画は床壁に貼付けられたままの「楼閣山水図」一面を残し、原家が所蔵していた。
本障壁画群が研究者の間で広く知られるようになるのは、昭和55年頃のようである。鈴木廣之氏が「護国寺月光殿ならびに原コレクション所蔵同殿旧障壁画調査報告」(未刊)を文京区へ提出された。今回は、その後の西和夫氏による建築史学の研究成果や河合正朝氏による美術史学の研究成果をはじめ、旧日光院客殿の建築とその障壁画のこれまでの研究を振り返るとともに、障壁画群の現状について報告する。
令和3年(2021)1月の原美術館閉館後、4月より原美術館ARCとしてスタートすべく、2月に原家所蔵の古美術作品等の調査・仕分け整理を実施した。その際、「永德筆 馬 六幅之内/慶長館附属」との書付のある箱に収められた、「野馬図」二幅が新たに見いだされた。既存の旧日光院障壁画と同じく「慶長館附属」と記され、かつて客殿を飾った六幅のうちの二幅であることが知られる。この「野馬図」は中ノ間北側に配されると考えられ、中ノ間東西を飾る「野馬図」八幅の作者を検討するうえでも重要な障壁画といえよう。中ノ間に配される十幅の配置について改めて考察する。
また「野馬図」を含む原家所蔵品は多数あり、仕分け整理後、公益財団法人アルカンシエール美術財団へ111点寄贈された。十分な調査に至っていないが、美術史的に重要な作品も多く含まれる。些少の報告となるが、明治時代の美術品の受容を考えるうえでも、今後のコレクション研究が深まる契機としたい。
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