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2022年度の研究会

令和4年度(2022)
【第1回】
4月27日

大谷優紀(文化財情報資料部 研究補佐員) 「早稲田大学會津八一記念博物館所蔵「べしみ」面に関する一考察」

早稲田大学會津八一記念博物館・富岡重憲コレクションには豊後国臼杵藩主稲葉家旧蔵の能面が三点所蔵されている。そのうち「べしみ」と呼ばれる面には「酒井惣左衛門作/為盛(花押)/天文九庚子五月三日/奉納/白山妙理権現/願主戊辰歳」という刻銘が確認できる。ここから、本作の制作者は酒井惣左衛門であり、天文九年(一五四〇)五月三日に為盛という人物によって白山妙理権現に奉納されたことが明らかになる。
本面に関連する作例として、岐阜・長滝白山神社所蔵の翁面と広島・厳島神社所蔵の翁面が挙げられる。これらの面は銘文から天文十一年(一五四二)と天文十三年(一五四四)に為盛によって奉納されたことがわかり、「べしみ」面と奉納の時期が近接していることや願主が同一名であることが注目される。また、刻銘の内容から二点の翁面の作者は「酒惣」という人物であると考えられている。これは「べしみ」面の銘文中の「酒井惣左衛門」を略した呼称であるとみられ、三点の制作者は同一人物であると推測される。
二点の翁面と同じく「べしみ」面は室町期に制作された奉納面であり、当時の作柄を示す貴重な作品であると考えられる。ただ、これまでその存在はほとんど知られておらず、能面研究史上でも言及されてこなかった。本発表では関連する作例との比較や面の造形に対する考察を通し、「べしみ」面が有する資料的価値について考えてみたい。

小野真由美(文化財情報資料部 日本東洋美術史研究室長) 「『兼見卿記』にみる絵師・扇屋宗玖について」

「兼見卿記」は京都・吉田神社の祠官・吉田兼見(1535~1610)の日記で、『史料纂集 兼見卿記』(金子拓・遠藤珠紀校訂、八木書店)として刊行されている。本発表は、16世紀末の公家や武将などの交流を伝える同日記のなかに十数回登場する「扇屋宗玖」という絵師に着目するもので、狩野姓を名乗る絵師が、扇面画制作を主体として活動し、建仁寺宗印なる僧を介しながら、兼見と親しく交流した様相を確認するものである。ここから、16世紀における公家周辺での絵師の姿を読み解き、さらに扇屋という生業や意義について考える。

【第2回】
5月30日

原浩史(慶應義塾志木高等学校)
「神護寺薬師如来立像の造立意図と八幡神」

京都・神護寺金堂に安置される木造薬師如来立像は、平安初期を代表する彫刻作例として知られる。同像はいわゆる道鏡事件後、八幡神の神願を果たすため和気清麻呂によって建立された神願寺の旧仏と考えられており、その個性的な相貌は、長く道鏡やその怨霊と対峙するためのものと解釈されてきた。しかし、文献史学の先行研究をふまえて『類聚国史』及び『類聚三代格』天長元年(824)9月27日太政官符や『続日本紀』などの基本史料を精読すると、清麻呂と道鏡の対立は史実とは考え難く、後世に創作されたものと考えざるを得ない。また、奈良時代の八幡神は隼人伐殺の軍神として信仰されており、太政官符が語るようなか弱き神ではない。そのため、神護寺像を、道鏡と対決する八幡神の神威を仏力によって増すための仏像とみる皿井舞氏の説(『美術研究』403)には同意できない。
一方、神護寺像の造形は、桓武天皇周辺の造像とされる京都・宝菩提院菩薩坐像や大阪・道明寺十一面観音立像とは隔たりが大きく、皿井氏の指摘通り、国家的な目的ではなく清麻呂が私的に造像したものと考えられる。清麻呂と八幡神には道鏡事件後も接点があり、神護寺像の造立は清麻呂による八幡神の奉為の造像と捉えられる。八幡神は天平勝宝元年(749)に入京した際、東大寺大仏を拝する前に僧とともに悔過しており、像の相貌は、軍神でありながら仏教に帰依した八幡神が悔過を行なうために作られたことと関わる可能性がある。本発表はこれらをふまえて、清麻呂が神護寺像造立に込めた願意について、あらためて考察したい。

コメンテーター:皿井舞(学習院大学)
司会:米沢玲(東京文化財研究所)

【第3回】
6月28日

小山田智寛(文化財情報資料部 主任研究員)
「総合検索のリニューアルについて」

「東文研 総合検索」は東京文化財研究所で公開している複数のデータベースを横断検索できるシステムとして開発された。2014年の運用開始以降、検索対象データベースやデータの追加は行っているがシステムの大幅な改修は行っていない。元来、「東文研 総合検索」は、異なるシステムで運用している「研究資料データベース」との連携を行っていることもありプログラムの記述が入り組んでいる。開発当初に想定していなかったデータやデータベースの登録については、部分的な処理を追加する形での対応を行ってきたが、近年、メンテナンス性が悪化しセキュリティアップデートにも不安を抱える状況になってしまった。そこで改めて運用の条件を整理しリニューアルの準備をしている。本発表ではその方針と進捗について報告する。

【第4回】
7月25日

小林公治 (東京文化財研究所 特任研究員)
「螺鈿の位相―理智院蔵秀吉像厨子から見る高台寺蒔絵と南蛮漆器の関係―」

桃山から江戸初期(16世紀末~17世紀前半)に京都で造られた輸出品「南蛮漆器」の装飾特徴は、秋草といった平蒔絵文様に螺鈿を加えて装飾することにある。こうした装飾の成立経緯については、これまでも高台寺蒔絵や朝鮮系螺鈿技術との関係性が指摘されているが、いまだ明確でない点も多い。
一方、大阪府岬町理智院に伝世する豊臣秀吉像蒔絵螺鈿厨子は、戦国大名桑山重晴による秀吉崇敬追慕のため、1600年前後に造られたことが確かなものであるが、三種の高台寺蒔絵文様それぞれに螺鈿が取捨選択されており、この時期の平蒔絵文様と螺鈿の関係を実証するきわめて貴重な存在である。
本発表では、この秀吉像厨子文様の分析により、蒔絵文様の歴史伝統的な位置の違いが螺鈿との関係性に差を生んだ可能性を指摘し、平蒔絵と螺鈿で装飾する南蛮漆器文様が出現した背景への理解を進めたい。さらにまた、南蛮漆器に時折見られる不整形貝片をランダムに配置する螺鈿の姿は、料紙装飾に影響を受けて創意工夫・発案された新規の螺鈿装飾技法であり、螺鈿制作技術の未熟さを示すというこれまでの見方とは真逆の解釈を提示したい。

コメンテーター:小池富雄(静嘉堂文庫美術館)、小松大秀(永青文庫)

【第5回】
9月15日

発表者:近藤壮(共立女子大学文芸学部 准教授)
    早川泰弘(東京文化財研究所 副所長)
    安永拓世(東京文化財研究所 文化財情報資料部 広領域研究室長)

総合タイトル:桑山玉洲と岩瀬広隆の絵具・絵画作品における彩色材料分析と絵画表現

江戸時代に和歌山で活躍した画家である桑山玉洲(1746~99)、真砂幽泉(1770~1835)、岩瀬広隆(1808~77)の三者は、いずれも、彼らが使用した画材道具を残している。これらの画材道具には、さまざまな絵具類が含まれており、江戸時代の絵具としての彩色材料が具体的に明らかになる点できわめて意義深い。また、彼らが描いた絵画作品も多く現存し、実際の絵画作品に用いられている彩色材料と、画材道具に含まれる彩色材料を比較できるという意味で、貴重な研究対象となる。彼らが活躍した18世紀中ごろから19世紀中ごろは、江戸時代中後期の彩色材料の変遷を知るうえでも重要な時期である。加えて、玉洲は江戸や京都で絵を学んだ文人画家、幽泉は京都で学んだ狩野派の絵師、広隆は京都や大坂で絵を学んで浮世絵師から大和絵師へ転向しており、その絵画学習の地域や画派も異なっている。すなわち、彼らが使用した彩色材料を比較・分析することにより、江戸時代中後期における彩色材料の使用事例について、時代や画派や地域を考慮にいれた、より具体的な解明が期待できるといえよう。
本発表では、三者のうち玉洲と広隆の二者を取り上げ、これまで分析してきた二者の絵具と絵画作品についての中間報告をおこなう。まず、早川泰弘が、二者の彩色材料に関する蛍光X線分析や可視反射分光分析の結果を報告し、二者の彩色材料の分析によって明らかになった白色顔料における胡粉と鉛白の併用など、新知見や課題を提示する。そのうえで、安永拓世は、玉洲の絵画表現や、玉洲が典拠とした作品との比較について、近藤壮は、広隆の絵画表現との関連性について検討し、画家の絵画表現が彩色材料の選択とどのように結びついているかについて、今後の見通しを示したい。

タイムスケジュール
◇14:00~14:20(20分)
   安永:概要説明
◇14:20~15:00(40分)
   早川:桑山玉洲と岩瀬広隆の絵具・絵画作品の材料調査
◇15:00~15:10(10分)
   休憩
◇15:10~15:50(40分)
   安永:彩色材料分析から浮かび上がる桑山玉洲の絵画制作
◇15:50~16:30(40分)
   近藤:彩色材料分析から浮かび上がる岩瀬広隆の絵画制作
◇16:30~16:40(10分)
   休憩
◇16:40~17:30(50分)
   ディスカッション・質疑応答

【第6回】

11月28日

黒﨑夏央(文化財情報資料部 アソシエイトフェロー)
「菩薩像における条帛の着用・非着用の問題について ―薬師寺金堂薬師三尊像に関する考察の手がかりとして―」

条帛とは、主に菩薩像や明王像において左肩から右腋(その逆もある)に向けてたすき状に懸けられる布製の着衣であり、日本の菩薩像では七世紀後半の作例にその使用例が確認でき、八世紀以降ではほとんどが着用する。その起源はインドにあると考えられるが、日本において条帛が定着する具体的な時期やその背景については積極的に議論されてきたとは言い難い。 発表者は、薬師寺金堂薬師三尊像について検討するなかで、その両脇侍像(以下、薬師寺像)が条帛を着けないという点に着目するに至った。従来、薬師寺像と比較されてきた作例として法隆寺金堂壁画や宝慶寺石仏群などがあげられるが、それらはいずれも条帛を着けている点で薬師寺像とは異なる。日本において、条帛を着けない菩薩像は、隋代美術の影響が指摘される比較的古い造形の作例に見られることから、条帛の有無という点にのみ着目すれば薬師寺像の形式は古様を示すといえるであろう。薬師寺像において、同時代の定型を外れてあえて古い要素が選択されたことには、何らかの思想的・歴史的背景を想定することもできるように思われ、薬師寺像への理解を深める手がかりとして、まず条帛の着用・非着用の問題について考察する必要があると考えた。
本発表では、薬師寺像の制作背景や制作年代に関する考察を見据えて、主に日本の塼仏およびそれに関連する中国・朝鮮半島の作例を取り上げ、条帛が定着する時期や様相について検討を加え、条帛の着用と非着用の問題について考えてみたい。これらの考察は、日本における唐文化の受容、あるいは「インド風」について考えるうえでも、ひとつの手がかりとなりうるのではないだろうか。

【第7回】

12月23日

塩谷 純(上席研究員)
「中井宗太郎「国展を顧みて」を読む」

美術史家の中井宗太郎(1879~1966)は、大正7(1918)年に発足した国画創作協会の鑑査顧問として、同協会を思想的に支えたことで知られている。同協会やそのメンバーである日本画家についての著述もいくつか知られているが、本発表では大正14年1月刊行の『中央美術』第11巻1号に発表された「国展を顧みて」に注目したい。「国展を顧みて」は大正13年から翌年にかけて東京と京都で開催された第4回国画創作協会展(国展)を受けて、中井が同協会、そして日本画の進むべき方向を示した一文である。それ以前の中井の著述と比較しながら、大正11年から翌年にかけての渡欧体験のあとを読みこみ、さらにその後の日本画界における“新古典主義”的作風の展開を見据えつつ、「国展を顧みて」の位置について論じることとする。

コメンテーター:田中修二(大分大学)、田野葉月(滋賀県立美術館)

司会:吉田暁子(文化財情報資料部 研究員)

【第8回】

1月31日

田村彩子(文化財情報資料部 研究補佐員)
「年史編纂資料の研究活用に向けた記述編成 ―東文研史資料を例として―」

文化財情報資料部が管理するアーカイブズのうち、東京文化財研究所の歴史資料である「東文研史資料」を取り上げる。文化財アーカイブズ研究室では、2021年度より東文研史資料群の移動整理、利活用のための目録作成を行っている。資料群の中核を成すのは『東京文化財研究所75年史』編集委員によって収集・作成された資料群であり、東文研の成り立ち、事業、調査研究を歴史的に辿る上で重要な一次資料や、関係機関との交流、関連性を示す資料が多く含まれている。年史執筆のために活用された後は、内部資料として利用されて来たが、保管場所の移動を機に、所内外の研究者が広く活用できるよう、一般公開を目指して目録を作成中である。
2030年に設立100年を迎えるにあたり、今後ますます東文研史資料群の需要と利用価値が高まると思われる。発表では、資料整理の過程、目録作成とその公開への課題を、資料紹介を交えて報告する。

司会:橘川 英規(文化財情報資料部 文化財アーカイブズ研究室長)

【第9回】

3月2日

二神葉子(文化財情報資料部 文化財情報研究室長)
「漆工専門家三木栄のタイでの活動―同時代の資料を中心に―」

19世紀末のタイでは、行政制度の整備や運用にあたる外国人が多数雇用され、それらの外国人には日本人も含まれた。1911年に挙行されたラーマ6世王(1881-1925)の戴冠式に日本仏教徒代表の一人として参列した来馬琢道は、その著書『南国順礼記』(1916)に、戴冠式の玉座制作に携わった日本人として鶴原善三郎(日英博覧会に出品され近年里帰りした、増上寺の徳川霊廟模型制作にも従事)のほか、東京美術学校卒業生の三木栄の名を挙げている。
三木栄(みきさかえ、1884-1966)は、東京美術学校漆工科を1910年3月に卒業、タイ政府から専門家推薦の依頼を受けた正木直彦に推薦され翌年タイに渡航、第二次世界大戦終了まで現在のタイ文化省芸術局などに在籍し、漆工の専門家や教育者として活動した。
三木は、母校である東京美術学校の校友会機関紙『東京美術学校校友会月報』(以下、『校友会月報』)に、東南アジアの漆工技術や山田長政などに関する論考のほか、自身の日常に関する文章を数多く寄せている。三木のタイでの仕事については、三木が日本の蒔絵技術を披露せず、タイ固有様式の建築技術の監督やタイ漆芸の教育に従事したとする論考がある。しかし、『校友会月報』に投稿された随筆からは、三木が日本の材料や漆工技術を用いて、国王の日常使いの品物や王室の儀式用の道具を仕上げていたことが読み取れた。また、2019年に文化省芸術局に寄贈された三木の道具箱にも多くの蒔絵に関する道具が収められており、『校友会月報』の記述を裏付けている。
まだ考察に不十分な点も多くあるが、この機会に三木栄について紹介したく報告する。

【第10回】

3月15日

研究会「ユートピアとしてのアーカイブ:松澤宥と瀧口修造」

発表者:久保仁志(慶應義塾大学アート・センター)
    富井玲子(美術史家)
    土渕信彦(瀧口修造研究)
    橘川英規(東京文化財研究所)

概要:
松澤宥(1922-2006)は、「日本のコンセプチュアル・アートの創始者」といわれる作家で、その作家活動の端緒を詩におき、その後、絵画、メール・アートやコンセプチュアル・アート、行為による芸術などジャンルを越境し、多くの人物と交友したことでも知られています。その表現や思考の痕跡を、作品のほかに原稿、書簡、写真、映像フィルム、カセットテープといった多様なメディアに遺し、これらを自宅に集積し、壮大なアーカイブを築きました。この〈松澤アーカイブ〉は、作家自身の活動・思考のみならず、作家が関わった同時代の表現分野、とりわけ前衛芸術家による表現共同体の動向を知りうる貴重な資料群といえます。科学研究費助成事業基盤研究(C)「ポスト1968年表現共同体の研究:松澤宥アーカイブズを基軸として」において、松澤宥ご家族、一般財団法人松澤宥プサイの部屋の協力を得て、その整理と分析に取り組んでまいりました。
本研究会では、松澤アーカイブと関連機関が所蔵する資料・作品などから歴史の紐解きを実践しておられる専門家をお招きし、美術評論家・瀧口修造という「補助線」を用いて松澤宥の作品・活動についてご発表いただきます。その発表を踏まえて、松澤と瀧口の制作活動における往還、松澤アーカイブの意義を確認し、その研究資料としての利活用、そして保存・継承のあり方についてディスカッションを行ないます。

発表:
久保仁志「松澤宥「ψの部屋」と瀧口修造「影どもの住む部屋」:制作現場とアーカイヴ」
富井玲子「作品と資料のあいだで―アーカイブから考える松澤宥のユートピア的作品性」
土渕信彦「オブジェの店とプサイの部屋―瀧口修造と松澤宥のユートピア観を探って」
橘川英規「虚空間状況探知センターから「世界蜂起」へ:松澤宥アーカイブからみる1970年代の表現共同体の構築の試み」

意見交換・ディスカッション:(司会:塩谷純・橘川英規)