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2020年度の研究会

令和2年度(2020)
【第1回】
6月23日

田中潤(文化財情報資料部客員研究員)
「近代の大礼と有職故実」

本報告は本邦における油彩技術の変遷をたどるとともに、従来考えられてきた油彩画の歴史的な評価について再考するものである。  膠で描く伝統的な日本画に対し、油彩画は洋画ともよばれる。名前からも明らかなように、従来油彩画を日本の伝統的な絵画に位置付けることは難しいと考えられてきた。もっとも近代の油彩画が江戸幕末から明治期に蕃書調所の画学局や工部美術学校で行われた西洋画研究によってスタートしたことを考えれば無理もないと思う。しかし油彩画を“乾性油を展色材として顔料と混ぜた絵具を用いて描いた絵”と定義すれば、古くは仏教伝来期の飛鳥時代の漆工技法から日本にもその作例を見出すことができる。  作品が制作された時代背景や技法的特色をもとに、技法に特徴が現れる時期を区分するなら、仏教伝来期を1期、キリシタン時代のセミナリオやその周辺の人々によって描かれた初期洋風画を2期、長崎出島を通しオランダからもたらされた知識によって描かれた幕末洋風画を3期、江戸末から明治にかけ、蕃書調所画学局や工部美術学校で学んだ高橋由一らの絵画を4期ととらえることができるかもしれない。  報告者は東京芸術大学在学中に同大学美術館所蔵の明治期油彩画の光学調査に携わったことをきっかけに、初期洋風画と幕末洋風画を光学調査と技法の再現によって研究してきた。先の区分に従えば、研究は近代4期からのスタート、その後の中心は主に2期と3期の初期洋風画と幕末洋風画だった。先学者らの報告する通り、それぞれの油彩画技法には大きな隔たりがみられ、当初は断絶があるものとして研究を進めた。しかし日光東照宮陽明門で2013年に発見された壁画の修復をきっかけに、時代や分野の隔たりを超えて俯瞰する必要性を認めた。その理由として江戸中期作のこの壁画が、漆地に乾性油で練った絵具で描かれていた事があげられる。また修復直後の研究で、東照宮の創立時にキリスト教信者であった狩野派の中枢の絵師が関わったと判明したことも大きい。油彩画だけでなく、現代における分野の概念を超えて日本画や漆工技法、建築塗装に目を向けることで、油彩技法が形を変えて継承された様子を確認できると考える。この継承と変遷について1期から4期までを通史的に振り返りながら具体的に示し、従来の油彩画の歴史的評価を検証したい。

【第2回】
7月28日

小野真由美(文化財情報資料部主任研究員)
「江戸初期狩野派史料の研究―探幽縮図を中心に―」

江戸時代初期の狩野派に関する史料のなかでも「探幽縮図」は、当時どのような絵画が受容され、その価値はいかなるものであったかを知ることのできる貴重な史料である。本発表では、現存する「探幽縮図」のなかから、東京国立博物館所蔵「梅竹菓子図巻」をとりあげ、探幽が鑑定した中国絵画などの鑑定内容と所蔵者などについて読み解く。 さらに、探幽の没後、狩野派の主流を担った狩野常信が、元禄11年の寛永寺根本中堂障壁画制作において、島津家執事職・禰寝清雄とどのような交渉を行ったのかについて、東海大学附属図書館所蔵「常信書状」を読解し、障壁画制作の背景の一端を紹介する。

【第3回】
8月25日

山梨 絵美子(東京文化財研究所副所長)
「ゲッティ研究所が所蔵する矢代幸雄と画商ジョセフ・デュヴィーンの往復書簡」

東京文化財研究所の前身である帝国美術院付属美術研究所の設立に深くかかわった矢代幸雄(1890.11.5-1975.5.25)は、1921年から25年までヨーロッパに留学し、ルネサンス美術研究者バーナード・ベレンソン(Bernard Berenson 1865.6.26-1959.10.6)のもとで学んで英文の大著『Sandro Botticelli』(Medici society 1925年)を刊行した。矢代が教えを請いに訪れたころ、ベレンソンはルネサンス絵画研究の大家としてフィレンツェ郊外にある広い庭園付きのヴィラI・Tattiに住んでいたが、その経済的成功は画商ジョセフ・デュヴィーン(英国国籍Joseph Duveen 1869.10.14-1939.5.25)との契約によるものであった。デュヴィーンは父が1877年にロンドンに設立した美術商を継ぎ、ニューヨーク、パリ、ロンドンに店舗を持って、ヘンリー・クレイ・フリック(Henry Clay Frick 1849.12.19-1919.12.2)、ジョン・ロックフェラー(John D. Rockefeller 1839.7.9-1937.5.23)、アンドリュー・メロン(Andrew Mellon 1855.3.24-1937.8.27) など、アメリカの富豪がヨーロッパの古典絵画のコレクションを持つことに寄与したほか、英国においてはテート・ギャラリーにデュヴィーン・ウィングを設立することに寄与している。
矢代がベレンソンの弟子としてボッティチェリに関する著作を為すに当たり、作品を実際に調査すべく、作品の所蔵者を訪ねたであろうことが予測されたため、ゲッティ研究所が所蔵するデュヴィーンに関するアーカイブを調査したところ、矢代とデュヴィーンの往復書簡があることがわかった。
本発表では、ゲッティ研究所が所蔵する矢代とデュヴィーンの往復書簡を紹介するとともに、それらから得た新知見について小考を加える。
【第4回】
10月8日

丸川 雄三 (文化財情報資料部客員研究員)
「近代美術研究における関係資料の発信と活用」

近代美術研究に関する資料をインターネットで公開する取り組みは緒についたばかりである。時代の浅さゆえの難しさもある中で、何をどのように発信するのがよいのだろうか。東京文化財研究所と国立情報学研究所が共同で開発した「『みづゑ』の世界」は、明治期に刊行された美術雑誌『みづゑ』の誌面をデジタル化し公開している美術研究資料の公開サービスである。当初は閲覧を中心としたウェブサイトであったが、制作者情報の統合を目指す研究の一環として、発表者がその後に検索機能を拡張したデータベース版を開発した。
本発表ではデータベース版「『みづゑ』の世界」を例として、美術研究資料のデジタル化とデータベース化がもたらす発信と活用の可能性について考える。
【第5回】
11月24日

武田 恵理 (東洋美術学校非常勤講師)
「初期洋風画と幕末洋風画、形を変えた継承―日本における油彩技術の変遷と歴史的評価の検証―」

本報告は本邦における油彩技術の変遷をたどるとともに、従来考えられてきた油彩画の歴史的な評価について再考するものである。
膠で描く伝統的な日本画に対し、油彩画は洋画ともよばれる。名前からも明らかなように、従来油彩画を日本の伝統的な絵画に位置付けることは難しいと考えられてきた。もっとも近代の油彩画が江戸幕末から明治期に蕃書調所の画学局や工部美術学校で行われた西洋画研究によってスタートしたことを考えれば無理もないと思う。しかし油彩画を“乾性油を展色材として顔料と混ぜた絵具を用いて描いた絵”と定義すれば、古くは仏教伝来期の飛鳥時代の漆工技法から日本にもその作例を見出すことができる。
作品が制作された時代背景や技法的特色をもとに、技法に特徴が現れる時期を区分するなら、仏教伝来期を1期、キリシタン時代のセミナリオやその周辺の人々によって描かれた初期洋風画を2期、長崎出島を通しオランダからもたらされた知識によって描かれた幕末洋風画を3期、江戸末から明治にかけ、蕃書調所画学局や工部美術学校で学んだ高橋由一らの絵画を4期ととらえることができるかもしれない。
報告者は東京芸術大学在学中に同大学美術館所蔵の明治期油彩画の光学調査に携わったことをきっかけに、初期洋風画と幕末洋風画を光学調査と技法の再現によって研究してきた。先の区分に従えば、研究は近代4期からのスタート、その後の中心は主に2期と3期の初期洋風画と幕末洋風画だった。先学者らの報告する通り、それぞれの油彩画技法には大きな隔たりがみられ、当初は断絶があるものとして研究を進めた。しかし日光東照宮陽明門で2013年に発見された壁画の修復をきっかけに、時代や分野の隔たりを超えて俯瞰する必要性を認めた。その理由として江戸中期作のこの壁画が、漆地に乾性油で練った絵具で描かれていた事があげられる。また修復直後の研究で、東照宮の創立時にキリスト教信者であった狩野派の中枢の絵師が関わったと判明したことも大きい。油彩画だけでなく、現代における分野の概念を超えて日本画や漆工技法、建築塗装に目を向けることで、油彩技法が形を変えて継承された様子を確認できると考える。この継承と変遷について1期から4期までを通史的に振り返りながら具体的に示し、従来の油彩画の歴史的評価を検証したい。
【第6回】
12月21日

野城 今日子(文化財情報資料部アソシエイトフェロー)
「屋外彫刻を中心とした「文化財」ならざるモノの保存状況についての報告と検討―シンポジウム開催を見据えて―」

わが国には、屋外彫刻が全国さまざまな場所に設置されており、彫刻作品が人々の生活に溶け込んで存在している。しかし、その多くは博物館や美術館で管理されておらず、ましてや各彫刻の設置状況や保存状態の全容を把握している中央的な組織や、明確な評価基準も存在しない。また、屋外彫刻の中には重要文化財、国宝指定されている作品もない。そもそも、屋外彫刻自体、「文化財」として認識されていないのが現状である。
そのため、屋外彫刻の設置と撤去には、専門家の評価や指導が行き届いていないケースがほとんどである。定期的なメンテナンスが行われず、耐震や構造体の劣化といった問題を抱えた作品が撤去される例があり、時代を象徴する重要な作品でさえもその存続に危機が迫っている。また、当然ながら、近年多く見られる自然災害に対しての防災対策というのも行われていないケースが多い。このような「文化財」と認識されていないモノがおかれている過酷な状況は、屋外彫刻だけではなく、建築など様々な分野においても問題となっている。
そこで今回の研究会では、まず発表者から屋外彫刻を中心に、作品の撤去の事例や保存活動における問題点をまとめた報告を行う。この報告では、建築や近代文化遺産での事例も取り上げたい。そして、どのように多くの人とこの問題と共有し、解決できるか、ディスカッションで意見を募りたい。
なお発表者は、今回の本研究会の議論をもとに、今後、問題解決に向けたシンポジウムの開催を企画したいと考えている。
【第7回】
1月28日

大西 純子(神奈川大学国際日本学部非常勤講師)
「上野直昭資料について—日本美術史との関係を中心として—」

東京文化財研究所元研究員の上野アキは、東京美術学校最後の校長で東京芸術大学最初の学長上野直昭の次女であった。アキは2014年秋に亡くなり、その後遺族からの連絡で、アキ資料は東文研に直昭資料とひさ資料は東京藝術大学の美術学部と音楽学部にそれぞれ2015年7月に寄贈された。 直昭はこんにち、美術史家としてよりも芸術大学の運営方面の業績によって知られ、美術史家としての側面はほとんど取り上げられていない。今回は、直昭資料中の直昭が受講した中川忠順や大塚保治の講義ノート、あるいは大量の書簡や刊行された随筆などから、直昭が美術史家となったそもそもの始めについて紹介する。

田代 裕一朗(五島美術館学芸員)
「上野直昭資料から発見された高裕燮直筆原稿について」

現在韓国において美術史研究の父と位置付けられる高裕燮(1905~1944)は、京城帝国大学在学時に上野直昭のもとで学んだ経歴をもつ。本発表は、1943年1月10日消印の書簡に収められた高裕燮直筆の直筆原稿 (「朝鮮の石塔について」「開城遊覧記」) について、①現在資料がほとんど残されていない京城考古談話会の資料として、また②高裕燮がとくに力を注いで取り組んだ石塔研究の発展過程を示す資料として、その資料的価値を検討するものである。さらに高裕燮直筆原稿と併せて、朝鮮総督府の始政25周年(1935年)を記念した幻の総合博物館構想に関する文書について補足的に資料紹介を行い、上野直昭資料が韓国近代美術史研究において重要な意義を持つことを指摘する。
【第8回】
2月25日

米沢 玲・安永 拓世(文化財情報資料部)
「片野四郎旧蔵の羅漢図について 」

本発表では、港区・某寺院が所蔵する羅漢図の概要を紹介する。本図はすでに明治28年(1895)の『國華』誌上に掲載されており、当時の所有者が美術鑑定家で帝国博物館美術部に勤めた片野四郎(1867~1909)であったことが分かっているが、その図様や表現については十分な検討がなされていない。 図様は、画面中央に坐す羅漢と、その左右に従者と菩薩らしき人物をそれぞれ描き、上方には迦陵頻伽と共命鳥をあらわした特異なもので、管見の限りでは類例が見当たらない。経年によって画絹には傷みが目立ち、何度かの修復を経ていると見られるが、緻密な筆遣いや立体感のある人物表現から、大陸で制作された可能性が高い。光学調査によって得られた高精細画像や赤外線画像を交えながらその表現技法を確認し、制作年代や制作地を検討していきたい。 発表では、安永が旧所蔵者である片野四郎の事績を紹介し、米沢が図様と表現についての考察を深めたい。
【第9回】
3月25日

山梨 絵美子(東京文化財研究所副所長)
「白馬会の遺産としての『日本美術年鑑』編纂事業」

1893年に9年間にわたるフランス留学を終えて帰国した黒田清輝は、1895年に京都で開催された第4回内国勧業博覧会出品作品「朝妝」が裸体画論争の引き金になるなど、日仏間における美術をめぐる環境の違いに直面し、日本美術界の改革に取り組み始める。1896年に画友久米桂一郎、岩村透らとともに結成した洋風美術団体「白馬会」で、フランスで学んだ絵画の新潮流や展示方法を紹介したのは、その試みのひとつであった。 黒田、久米、岩村らにとって二度目となった1900年パリ万博に際しての渡欧は、彼らにフランスの美術を取り巻く環境を再認識させ、日本に不足しているものをより具体的に把握する機会となったと思われる。 岩村が「巴里の美術学生」で活写したように、フランスには美術館や画廊があり、美術作品がいつでも展示されていて誰もが見ることが出来、美術批評が新聞や雑誌をにぎわし、人々が日常会話に美術の話題を取り上げる環境があったが、日本にはそれらが欠けていた。白馬会の主要メンバーは、それらを日本に調えるために、それぞれの特性を活かして取り組んだと言える。自費で『美術週報』を編集発行した岩村透は美術批評の確立に尽力したが、一方で美術活動の記録を継続的に残す『日本美術年鑑』の編纂を提唱した。現在、東京文化財研究所が編纂を続けている『日本美術年鑑』はそれを引き継ぐものと言ってよく、その意味で白馬会の遺産と位置づけることができると考える。
本発表では黒田の「朝妝」が引き起こした裸体画論争など当時のフランスと日本の美術をめぐる環境の違いを具体的に概観し、岩村透が『日本美術年鑑』を構想した背景、それを継続する今日的意義について私見を述べたい。