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2017年度の研究会

平成29年度(2017)
【第1回】
4月25日

山村みどり(日本学術振興会特別研究員)
「「おいしい生活」第三次産業への転換期の日本の文化を考察する」

「おいしい生活」とは、第二次産業から第三次産業への転換期の世情を鋭く捉えた 1982年の西武百貨店の広告文案である。社長で文筆家の堤清二は、新左翼思想に基づき、文化を通して人を育み、情報化社会で「自立した消費者」=有権者を作ることを目的に、池袋西武本店に同時代の美術、音楽、文学を紹介する一大文化ゾーンを設置。80年後半に活動を始めた作家達でセゾン文化の恩恵を受けなかった者は少ない。中でも森村泰昌や日比野克彦らは、万博への反動で専門化が進んだ「現代美術」とは一線を画した、「アート」を大衆に向け発信。大衆に向けた文化発信は、政府が日本万国博覧会(EXPO '70)で奨励したところでもある。しかし、前衛作家達が情報産業や都市化を無批判に受け入れた万博は批判の対象となり、現在では日本前衛美術が「武装解除」した場とも言われている。
本発表では、1970年以降に台頭した芸術の大衆化傾向と第三次産業との関係とを、政府とセゾンがそれぞれ奨励した文化モデルに基づき検証し、周辺の評論家・作家たちの文章も参照しながら、それらの分析を中心に、90年以降より深刻さを増すことになる第三次産業のもたらす問題点と、それに対するアーティスト達の反応とを明らかにしたい。
【第2回】
5月30日

安永拓世(文化財情報資料部)
「呉春筆「白梅図屏風」の史的位置」

呉春(1752~1811)は、与謝蕪村の弟子として活躍した後、円山応挙の画風を継承し、四条派と呼ばれる画派を築いた画家としてよく知られている。彼の代表作「白梅図屏風」(逸翁美術館蔵、重要文化財)は、浅葱色に先染めした粗い裂の上に、わずかな土坡と、枝を広げる三株の白梅を描いた、きわめて幻想的な作品である。本屏風は、梅の枝を描く付立技法や、署名の書体より、天明7年(1787)から寛政年間(1789~1801)初年ごろの制作とみられるが、これは、ちょうど呉春が蕪村風から応挙風に画風を変化させた時期にあたる。本発表では、「白梅図屏風」を中心に、その作画契機における応挙画風の摂取、さらに特殊な背地表現における蕪村画学習と呉春の文人交流との関連性について考察したい。
【第3回】
6月27日

田中純一朗(井原市立田中美術館)
「橋本雅邦の人物表現―東洋大学蔵《四聖像》をめぐって」

本発表では、橋本雅邦(1835~1908)の《四聖像》を取り上げる。《四聖像》は明治期の哲学者・教育者であり、「妖怪博士」の異名で知られた井上円了(1858~1919)の依頼で制作され、現在は東洋大学井上円了研究センターが所蔵している。ここでいう「四聖」とは、釈迦・孔子・ソクラテス・カントの四人であり、円了の哲学観を直接的に反映した作品である。本発表において、雅邦の人物表現における《四聖像》の位置、その思想的背景を明らかにしつつ、明治期の聖人表象についても検討する。
【第4回】
7月25日

小勝禮子(実践女子大学ほか非常勤講師)
「日本の美術史研究・美術展におけるジェンダー視点の導入と現状」

日本の美術史・美術批評、美術展は、1970年代から本格化し、深化を遂げた欧米のフェミニズム、ジェンダー理論をどのように受容し、実践したのだろうか。ジェンダー理論の日本の美術史への導入は、1990年代に若桑みどりや千野香織、鈴木杜幾子らによって先鞭を付けられ、同じく90年代後半に、報告者を含む、主に女性学芸員を企画者としたジェンダーの視点によるいくつかの展覧会が開催された。しかしこうした美術史学と美術展の新しい地平に対して、アカデミズムとジャーナリズム双方からジェンダー論批判が表明され、1997-98年にかけて「ジェンダー論争」と呼ばれる一連の議論の応酬がなされた。
本発表は、今は知る人も少なくなったこの「ジェンダー論争」を振り返り、2004-2006年、行政の規制によって社会問題となった「ジェンダーフリー・バッシング」を経て、現在の日本の美術史・美術展におけるジェンダー論の導入の現状について総括する。
【第5回】
8月7日

綿田稔(文化庁美術学芸課)
「橋本雄「雪舟入明再考」に寄せて」

橋本雄「雪舟入明再考」(『美術史論叢』33号、2017年)は、対外関係史と禅宗史を専門とする文献史学研究者による試論である。拙著『漢画師―雪舟の仕事』(ブリュッケ、2013年)が盛んに批判されているわけであるが、橋本はここで呆夫良心「天開図画楼記」と「玉澗様山水図」(通称「破墨山水図」、東京国立博物館蔵)の雪舟自序というふたつの重要史料について、いずれも驚くべき史料解釈を提示した。
これらの解釈が成立し、同時に従来の解釈が完全に誤りであることが証明されなければこの試論も成立しない構造になっているので、まさに論文の生命線と言える。その正否は今後の雪舟研究に重大な影響を及ぼすので、本発表ではこれらの解釈が可能性としてありえるのか(発表者の解釈を含めて従来の解釈が可能性としてありえないのか)について検討を加え、反論に代えることとしたい。
【第6回】
9月5日

齋藤達也(当部客員研究員)
「フランスにおける近代美術関連資料——美術館・図書館・アーカイヴ・インターネットリソースの紹介と活用例」

フランスの各種機関における近代美術関連資料の保存・公開の状況を紹介します。フランス国立図書館、国立美術史研究所、国立公文書館、オルセー美術館などの中心的な機関が果たしている主な役割を確認しつつ、近代美術の調査に必要となる各種デジタル・アーカイヴおよびデータベース、出版物やアーカイヴ資料の検索エンジンを見渡した上で近年の資料デジタル化の流れを追います。随時具体的な活用例も提示したいと思います(1890年大浮世絵展の復元、1879年印象派展出品作の同定、原田直次郎の国立美術学校入学書類、黒田清輝のサロン出品作への批評の収集など)。
【第7回】
9月22日

Pierre Terjanian(ピエール・テルジャニアン)(メトロポリタン美術館武器武具部門長)
「メトロポリタン美術館が所蔵するヨーロッパの武器武具と甲賀市水口に伝わるレイピアの検討」

滋賀県甲賀市水口(みなくち)に所在し、水口藩の祖である戦国武将加藤嘉明を祀った藤栄神社には嘉明の遺品と伝えられるいくつかの品々が遺されている。このレイピア(十字形洋剣)もそうしたものの一つであり先年より東文研を中心とするメンバーで調査を行ってきた。この西洋式細形長剣は、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで流行し多く製作されたレイピアとまったく同形同大で、ヨーロッパ製の作例と比較しても遜色の無い出来栄えであるものの、柄や鞘金具は日本独自とも思しき文様で全面が飾られているなど、本品の出自や製作技術などについてはいまだ不明点が多い。
そこで昨年度第10回研究会に引き続く今回の研究会では、多数のレイピアコレクションを持つメトロポリタン美術館武器武具部門の長でありヨーロッパの武器研究研究を専門とされるピエール・テルジャニアン氏に、この洋剣を実見いただいた上でのご見解を発表いただくと共に、この謎めいた洋剣をめぐっての討議を行う。
【第8回】
10月24日

津田徹英(文化財情報資料部長)
「資料紹介 滋賀・浄厳院蔵 木造 釈迦如来立像」

浄厳院は、織田信長が安土城下において近江国守護職・佐々木氏代々の菩提寺であった「慈恩寺」を取り崩し、跡地に本堂、本尊・阿弥陀如来坐像(ともに重文)を近隣寺院から強制移転させて創設した浄土宗の巨刹である。
その浄厳院本堂本尊脇の厨子内には鎌倉後期から南北朝期(14世紀)とみられる五尺の清凉寺式釈迦如来立像(以下、本像)を安置する。これを近世の地誌類では慈恩寺旧本尊と伝える。このことに関して、佐々木氏頼(1326~1370)三回忌に猶子・京極高詮によって作文され読み上げられた「表白」(紀伝道の儒者・東坊城秀長〈1338~1441〉の日記『迎陽記』収載)には、氏頼建立の「慈恩寺」についての言及とともに「南都一派之律院」、「模尊像於清涼寺」を明記する。ちなみに明徳二年(1391)に編まれた奈良・西大寺(真言律宗)の『諸国本末帳』の近江国の項には「佐々木 慈恩寺」が確認できる。
このようにみるとき、浄厳院に伝来した本像は、これまで顧みられることがなかったが、佐々木氏頼が発願・建立した慈恩寺の本尊がそのまま伝世していた可能性が浮上する。
本像はこの春、二ヵ年にわたる文化財修理を完了したが、その過程で後補と思われていた両手・両足先が当初のそれを伝えていたことが判明するなど、保存状態は頗る良好である。
本発表は、本像について関連史料とともに資料紹介を行うことを目的とし、あわせて、その造形について、いささか思うところを
述べてみたい。

佐藤有希子(日本学術振興会特別研究員(RPD))
「京都・青蓮院伝来の二体の毘沙門天立像に関する一考察」

本発表では、京都・青蓮院に伝来した二体の毘沙門天立像について考察する。
この作品に関する研究上の主な問題点は、どちらの像がいつ、どの堂宇で供養されたのか、先行研究において見解の相違がある点である。この問題は、鎌倉時代の神将形彫刻の造形上の展開を考える上で、また同時代の毘沙門天信仰と造像を辿る上で非常に重要といえる。
本考察ではこの問題点を念頭に置きながら、造形上の特質について同時代の神将形像と比較を行う。加えて、青蓮院吉水蔵聖教中の青蓮院毘沙門天像に関する新史料を紹介する。当時青蓮院での供養を担当した慈円(1155〜1225)の毘沙門天信仰と造像についても確認し、二体の毘沙門天像の制作背景について考察したい。
【第9回】
11月21日

高田知仁(サイアム大学)
「タイにおける螺鈿工芸の変遷とその意味」

タイの螺鈿工芸の起源についてはまだよくわかっていない。今までのところ年代が記された最も古い資料は18世紀中頃のもので、それ以降もかなり限定的な制作と使用であったようである。また種類としては、高坏・鉢の蓋・経箱・経の蓋・経厨子や寝台・玉座、また寺院の扉があるが、こうした現存作品の多くは寺院へ寄進するために製作されたものと言ってよい。
これらは技法的には「厚貝漆地螺鈿」に分類され、器物では籐や竹の籃胎・捲胎が、扉では木胎が用いられるが、タイの螺鈿工芸あるいは漆工芸においていつから籃胎漆器や木胎が始まったのかは重要な論点である。螺鈿漆器に使われているタイの漆液は、ミャンマーからタイ、ラオス、カンボジアにかけて分布するマンゴー樹と近縁の樹木から採られ、螺鈿貝片を素地に貼る接着剤となるほか、作品の表面を美しく仕上げるためのコーティング材としても重要な役割を果たしている。またタイの螺鈿では主に夜光貝が使われていると推測される。かつてはおそらく鉄線に鏨で歯をつけた糸鋸を使って解体し、厚さ1㎜前後にまで砥石で研ぎ減らし、その後やはり糸鋸で細かな文様ピースに切り抜き、それを多数組み合わせて文様全体を表現した。こうした貝片ピースはバナナ葉などの炭粉と漆とを混ぜたサムックによって器物に貼り付けられる。貝が厚いので間隙はサムックで埋めていく。
タイ螺鈿の文様モチーフは、扉を例にとると、仏教の宇宙観を表現したもの、王家と関連の深い文学『ラーマキエン物語』を主題としたものがあり、またハス・ボタン・リス・龍など、中国由来の装飾文様が唐草文に現れる。このほか、国王が下賜する勲章メダルとリボンが写実的な文様として採用されている例がある。
本発表では、以上の様な特徴を持つタイの近世近代螺鈿工芸の文様モチーフや技法などにどのような変遷が認められるのかを検討し、タイ螺鈿工芸美術の傾向を明らかにするとともに、さらにそうした変遷の源泉には王室を中心としたタイの外交関係といった歴史的な文脈を伺うことができることを示したい。
【第10回】
12月26日

近松鴻二(文化財情報資料部客員研究員)
「黒田清輝関係文書書翰類の解読」

東京文化財研究所所蔵の黒田清輝関係史料のうち、主として清輝宛の書翰類(封書、葉書、電報、メモ)の釈文(解読文)を作成しました。該書翰類は差出人により黒田家、橋口家、樺山家、島津家、杉家、篠塚家に分けられていました。黒田家は実父の清兼、養父の清綱が大半を占めています。橋口家は清輝の養姉の千賀子の嫁ぎ先、樺山家は千賀子の夫君橋口文蔵の叔父の養子先とその一族です。島津家は旧主君筋、杉家は清輝の畏友(?)杉竹二郎のみの、篠塚家は黒田家の家令篠塚兼當差出の書翰類です。これらの書翰類を時系列に再排列の上、目録を作成し若干の参考資料を付しました。また、美術に関する部分を抽出し、目録を添えました。

田中淳(文化財情報資料部客員研究員)
「岸田劉生における1913年から16年の「クラシツク」受容について」

『美術研究』422号掲載の「岸田劉生研究―「駒沢村新町」療養期を中心に」において、デューラー等の当時劉生の手元にあって目にしていたであろうヨーロッパ古典絵画の画集を推察し、この療養期(1916年7月―17年2月)の作品制作について論考した。これにつづき、本発表では、「駒沢村新町」療養期以前、すなわち1913(大正2)年から1916(大正5)年の間、いわゆる劉生の代々木在住の時代に焦点をあてて、劉生のヨーロッパ古典絵画の受容の面から作品を検証したい。それによって劉生の写実表現の形成過程の内実を考察したい。
【第11回】
1月30日

小川絢子(国立国際美術館特定研究員)
「美術館における現代美術の保存と修復」

美術館において、収蔵する現代美術作品の保存修復について考えるとき、保存に向けた取り組みは作品の収蔵時から始まる。素材、形態、コンセプトが多様化する現代美術においては、将来発生する修復を想定した作家へのインタビューや、展示指示書の作成といった作業が不可欠になる。国立国際美術館が収蔵する映像インスタレーション作品や、2017年に初めて収蔵したパフォーマンス作品などを例に挙げながら、受入から展示にいたるまでの取り組みなどを紹介する。
一方で、現代美術においても修復に必要な素材が入手困難になりつつあるなど、従来の文化財修復と共通する問題も多く存在している。共通する問題を比較しつつ、今後の修復のあり方を考察する。

平諭一郎(東京藝術大学Arts & Science LAB.特任准教授)
「保存・修復の歴史において現代はそんなに特別か」

近年、国内で現代美術や複合素材の保存・修復をテーマにしたシンポジウムが開催されている。美術や美術館と同様に西洋から輸入されたその保存・修復理念は、作品の素材、技法、形態の多様化に対する科学的アプローチ、作家やその周辺による再制作、再演、改変の事例を、現代においてもなお欧米から参照し続けている。確かに、美術館や展覧会の現場では、いま、どうするかを判断し実行していかなくてはならないだろう。一方で、文化財という視点での保存・修復のあり方や、その長い歴史の中で培った日本特有の理念から現代を眺めてみてはどうだろう。欧米からの移行だけではなく、そろそろ歴史からの参酌を考えてみたい。
【第12回】
2月27日

増田政史(文化財情報資料部)
「 中宮寺文殊菩薩立像に関する一考察 」

奈良・中宮寺文殊菩薩立像(東京国立博物館寄託。以下、本像。)は、類例少ない紙製の像としてつとに知られている。像の基本構造をなしていた経巻類や冊子本等は昭和修理時に取り出され現在別置されており、それらの銘記によれば、本像は文永6年(1269)、中宮寺ないしその周辺で造像されたことが分かる。
本発表ではこれらの納入品を改めて検討し、当時の中宮寺の状況や同寺長老・信如の行実を踏まえながら、主に本像の教義面の背景に関して及んでみたい。あわせて、本像の図像表現が儀軌に説かれていない立像の五髻文殊であることに着目し、鎌倉時代の類似作例に触れつつ検討していきたい。
【第13回】
3月16日

研究会テーマ:「美術雑誌の情報共有に向けて」

日本では近代以降、“美術”という概念が西欧よりもたらされ、制度やメディアを通じて浸透していきます。なかでも近代化の進んだ印刷技術を背景に、陸続と刊行されていった美術雑誌が果たした役割は大きいものでした。図版を多用しながら定期に刊行される美術雑誌は、美術関係者や愛好家にとって視覚的かつ即時的な情報発信/供給源として機能していきます。美術家たちの集う諸団体においても、そこで発行される同人誌の類は彼らの絆を確かめあい、また喧伝する場としての役割を果たしました。

当研究所では、昭和7(1932)年より始められた明治大正美術史編纂事業の一環として、美術雑誌を含む明治以降の日本近代美術資料の収集に努めました。さらに昭和11年から編纂を開始した『日本美術年鑑』においても、「美術文献目録」の項目を設けて、新聞や雑誌に発表された美術に関する文献を目録化し、活用の便宜を図ってきました。

もとよりインターネットが普及した今日では、その蓄積された情報をより効率的に発信することが求められるでしょう。一方で経年による、もしくは戦時中の粗悪な紙使用による原資料の劣化という、保存をめぐる切迫した問題にも直面しています。美術雑誌という豊かな情報源を現在に生かすには、どのような手立てが考えられるのか――今回の研究会「美術雑誌の情報共有に向けて」では、明治~昭和戦前期の美術雑誌を具体的に取り上げ、あらためて美術史研究資料としての意義を検証するとともに、その情報の整理、公開、共有のあり方について検討する機会としたいと思います。


塩谷純(文化財情報資料部)
「東京文化財研究所の美術雑誌 —その収集と公開の歩み」

東京文化財研究所には、その前身である美術研究所の昭和5(1930)年開設以前に刊行された、明治・大正期の美術雑誌が数多く架蔵されている。これは昭和7年より開始された明治大正美術史編纂事業に負うところが大きいだろう。本発表では、同事業や『日本美術年鑑』(昭和11年創刊)編纂との関連から、当研究所での美術雑誌収集の歴史をひもとき、さらに近年におけるウェブ上での公開の事例を紹介することにしたい。

大谷省吾(東京国立近代美術館)
「『日刊美術通信』から見えてくる、もうひとつの昭和10年代アートシーン」

『日刊美術通信』をご存じだろうか。昭和10(1935)年に創刊し、昭和16年に『美術文化新聞』と改題して昭和18年まで続いた、いわゆる美術業界紙である。B5サイズ表裏2ページ(ときに4ページ)という実にエフェメラルな体裁のため、所蔵する機関がほとんどない。しかしここには、『アトリヱ』や『みづゑ』といった主要誌からはこぼれてしまうような情報が満載である。いくつかの事例を挙げながらその重要性を指摘するとともに、今後の有効活用について提言したい。

森仁史(金沢美術工芸大学)
「「美術」雑誌とは何か ―その難しさと価値をめぐって」

日本では、「美術」も「雑誌」も新来の概念であった。このため、近代以前に培った芸術的領域の流儀や文字情報の伝達手法をそれぞれヨーロッパの型枠に流し込まねばならなかった。そこで生ぜざるを得なかった齟齬や日本の「美術」の現場は同時代的のメディアとしての美術雑誌に反映され、記録された。現在の美術研究はこうしたアマルガムをあるがまま分析対象ととらえ、そこから日本美術の存在意義を紡ぎだそうとしている。

ディスカッション、質疑応答
塩谷純、大谷省吾、森仁史、司会:橘川英規(文化財情報資料部)