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2015年度の研究会

平成27年度(2015)
【第1回】
4月21日
 
二神葉子(東京文化財研究所企画情報部)
「世界遺産委員会における諸課題とその解決、及び世界遺産条約の文化財保護への活用に向けての試論」

1972年に成立した世界遺産条約は、現在では締約国は191カ国を数え、最も成功した国際条約のひとつともいわれる。なかでも、世界遺産一覧表への記載に対する関心は極めて高く、記載が決まれば、記載された物件に多くの観光客が押し寄せる事態となる。一方で、世界遺産に関する刊行物はそのほとんどが個別の文化遺産や自然遺産に関するもので、世界遺産条約の実施について決定する場である世界遺産委員会で何が行われており、何が課題となっているのかについて具体的に示す日本語の論考は少ない。
発表者は2008年から世界遺産委員会を傍聴し、2012年からは日本代表団に加わって代表団の動向も目にしてきた。現場での動向の観察、会議録の作成や事前配布資料の分析からは、これまでほとんど共有されたことのない課題が見えた。一方で、課題はあるとはいえ、世界遺産条約の枠組みは文化財保護や関連の国際協力を行ううえで活用可能であると考えた。これまでにも、発表者は世界遺産委員会での議論に関して何度か報告を行っているが、公開の場では指摘できなかった課題もある。ここでは、そのような点も含め、世界遺産委員会に関連した課題やその解決、あるいは国際協力への活用に関して現時点で考えていることを簡単に述べる。また関連して、世界遺産委員会で発表者や日本代表団が何をしているのかについても紹介したい。
【第2回】
6月4日
 
安永拓世(企画情報部)
「伝祇園南海筆「山水図巻」(東京国立博物館蔵)について」

伝祇園南海筆「山水図巻」(東京国立博物館蔵)は、和歌山から中辺路・本宮・新宮を経て那智滝へと至る、熊野の参詣道を描いた江戸時代の画巻である。画中には署名や款記はないが、天保13年(1842)に記された跋文から、絵の筆者は祇園南海(1676~1751)と伝えられる。江戸時代の初期文人画家である南海については、近年、新出作品がいくつか発見されるなど、その画業や画風について徐々に解明されつつある。本発表では、こうした研究成果を生かしつつ、従来、紹介される機会が少なかった「山水図巻」の描写や表現の分析をおこない、地理的にかなり正確な熊野の描写と、表現の特徴から、南海筆の可能性について探りたい。

 
富澤ケイ愛理子(セインズベリー日本藝術研究所)
「在外コレクションにみる近代日本画家とその作画活動―メトロポリタン美術館所蔵「ブリンクリー・アルバム (近代日本画帖)」の成立と受容を中心に」

本発表では、メトロポリタン美術館所蔵 チャールズ・スチュワート・スミスコレクション「ブリンクリー・アルバム」をとりあげる。
「ブリンクリー・アルバム 」は7名の有名・無名の作家(河鍋暁斎、橋本雅邦、川端玉章、渡辺省亭、関袖江、岡田梅邨、大出東皐)による約100枚の日本画で構成され、アメリカ人実業家チャールズ・スチュワート・スミス(1832–1909)が1892年に日本に行った際に、フランシス・ブリンクリー(1841–1912)から購入したものである。現在では認知度にばらつきのある作家たちが、何故、どのようにこの画帖を作る事になり、メトロポリタン美術館のコレクションに収まったのか。この画帖が作り上げられた背景には、当時の美術展覧会、美術教育システム、陶磁器をはじめとする美術工芸品の輸出、北米美術市場と日本画の受容、それを担う画家、ディーラー、教育者の存在が複雑に絡み合っていたことが注目される。制作の経緯、近代日本画家とその作画活動並びに関連作品を確認し、再評価することによって、北米における近代日本美術コレクションの形成と受容の一端を明らかにしたい。
【第3回】
6月30日
 
Matthew McKelway(コロンビア大学)
「南紀下向前の長沢芦雪:禅林との関わりをめぐって」

長澤蘆雪は、天明六年(1786年)から天明七年にかけて南紀へ下向し、数ヶ月の間に串本、白浜、田辺などの禅寺で襖絵を大量に制作したことは、日本の近世絵画史における重要なエピソードである。しかし、南紀へ旅する前の蘆雪の画家としての存在は、いまだ明らかとなっていない点や謎が多く残る。例えば、南紀で描かれた襖絵の画題とその典拠はどのように考案されたのか、南紀以前の禅刹との関わり、などである。本研究会では特に妙心寺の塔頭にいた禅僧との関係、そして妙心寺で蘆雪がどのようなものを見たかについて発表し、まだそれほど知られていない蘆雪作品の再紹介を兼ねて、南紀以前の画家としての蘆雪の姿を考えてみたい。
【第4回】
8月31日
 
高山百合(福岡県立美術館学芸課学芸員)
「黒田清輝宛岡田三郎助書簡 翻刻と解題」

本発表では、岡田三郎助から黒田清輝に宛てた書簡11通の翻刻を主としながら、とりわけ重要であると考えられる内容について解題を行い、その内容を明らかにする。また、岡田三郎助の書簡については、そのほとんどが代筆であると考えられる。そのため、本発表で扱う書簡資料を、その筆跡の類似や差異から岡田三郎助筆とそれ以外に分類し、その代筆者として推定されうるのは誰かということについても、それぞれの書簡が発行された当時の人間関係や居住地から検討を加えることとしたい。

 
松本誠一(佐賀県立博物館・佐賀県立美術館副館長)
「岡田八千代の小説から見た岡田三郎助像」

岡田三郎助書簡のほとんどは代筆によるとされている。そのことは、岡田の身近にいた大隅為三や古沢岩美、その他仲間の美術家たちにはよく知られていたが、そうした代筆者の一人が、小説家・劇評家であった妻八千代であった。今回調査した黒田清輝宛書簡類の中には、八千代が代筆したと思われる書簡3通が含まれていた。本発表は、これら八千代の代筆と見られる書簡の内容を紹介し、あわせて、「一字も字を書かない」(小山内薫『絵の具箱』序)画家に嫁いだ妻として、当時芳しくない評判を得ていた八千代から見た岡田三郎助像について、新出の小説原稿などをもとに辿ってみたい。
【第5回】
9月29日
 
志村明(絹織製作研究所)
コメンテーター:秋本賀子(絹織製作研究所)
「絹生産における在来技術について」

私たちが絹生産技術について何らかの考察をする場合、〈伝統工芸〉と指定されているものを対象とする。このなかに幕末以前へと繋がる技術体系を感取できればよいのだが、残念ながら絹生産技術には見るべきものがない。なぜなら、明治以後、手工業が近代工業の技術を自らの技術と多分に置き換えて成り立ったものを現在〈伝統工芸技術〉と位置付けているからである。この点を認識していないと、近代工業技術の概念で手工業技術を解釈することになり混乱のもとになると考えている。研究会では、まずこれらの点についての整理をしたい。
つづいて上の認識を基に、『大徳寺伝来五百羅漢図』に掲載された一見すべてが異なって見える170点の絹目画像を資料として、織設計技術の観点からこれらの画絹を分類し得る可能性について所見を述べたい。
【第6回】
11月24日
 
加藤弘子(日本学術振興会特別研究員)
「徳川吉宗が先導した視覚と図像の更新について―岡本善悦豊久の役割を中心に―」

本発表は、第8代将軍の徳川吉宗(1684-1751)が先導した画事を分析し、当時の視覚と図像が更新された可能性を探るものである。吉宗は革新と復古の両方を兼ね備えた為政者として知られる。彼は宋元絵画とオランダ絵画、明以前の名画模写画帖の輸入とともに、諸大名が所蔵する古画の模写や珍しい禽獣の写生を命じた。
「板谷家絵画資料」には、同朋格として吉宗に仕えた岡本善悦豊久(1689-1767)と彼の後継者らによる約270点の彦根家旧蔵資料が含まれ、善悦が果たした役割の一端を窺える。善悦は絵画制作や名画の模写、写生を行うだけでなく、将軍の意向を狩野家・住吉家などの御絵師に伝えて指導する重要な役割を担った。膨大な絵入り書籍や名画を集め、見つめ、写させた吉宗の視覚は更新され、新たな図像が粉本として蓄積され、共有されたことによって、当時の視覚と図像が更新されたのではないだろうか。
【第7回】
12月22日
 
石井恭子(東京文化財研究所保存修復科学センター)
「「紅白芙蓉図」改装の可能性と受容について」

李迪筆国宝「紅白芙蓉図」(東京国立博物館蔵)は中国・南宋時代に描かれた花卉画である。室町時代に日本へ舶載されたと考えられるが、伝来については不明な点が多い。
本発表は、2011年に行われた「紅白芙蓉図」の熟覧および科学調査の結果を報告し、絵を描く立場から見た本作品についての所見を述べる。調査では新た に、特異な損傷があることが明らかになった。損傷の情報を整理することで見えてきた、本作品の画面形態及び表具形態の改装の可能性を示す。さらに、「紅白芙蓉図」に関連する作品、文献資料を通して、本作品が日本でどのように受容されたのか考えたい。
【第8回】
1月13日
 
山梨絵美子(東京文化財研究所企画情報部)
「ベレンソンと矢代幸雄をつなぐ両洋の美術への視点」

近代主義への懐疑を踏まえて、近年、世界美術史(World Art History/Global Art History)の可能性について議論されている中で、ボッティチェリ研究を専門とする西洋美術史家として出発し、帰国後は日本東洋美術史研究に軸足を移した矢代幸雄は興味深い存在と言える。矢代は1921年に留学してバーナード・ベレンソンに師事し、ボッティチェリの作品の持つ東洋的優美さに着目して英文の大著Sandro Botticelliを刊行し、西洋美術史家としての地歩を築いた。1925年に帰国すると美術研究所(現:東京文化財研究所)の構想に関わり、ベレンソンの方法論を日本東洋美術史研究に応用する試みを行った。その試みの背景には、ベレンソンが初期イタリア・ルネサンス絵画に東洋美術に通ずるものを感じていたこと、また、矢代が留学前に原三渓のもとで質の高い日本東洋美術品に親しんでいたことがある。ベレンソンはハーヴァード大学の学生時代にボストン美術館に通い東洋美術に親しんでいた。
原三渓もボストン美術館もともに、日本で最初の官製美術史『稿本日本帝国美術略史』の著者である岡倉天心との縁が深い。ベレンソンと矢代の日本東洋美術への興味が、ともに岡倉天心とつながる点は興味深い。本発表では、ベレンソンと矢代が両様の美術に親しんでいたことを紹介し、矢代の比較美術史的視点の背景を探る端緒としたい。

 
ジョナサン・ネルソン(ハーバード大学ルネサンス研究センター)
「東洋人の眼から見たサンドロ・ボッティチェリ―矢代の1925年のモノグラフ」(逐次通訳付)

1922年、ローレンス・ビニヨンに宛てた手紙に若き矢代幸雄は著書サンドロ・ボッティチェリで目指したのは「西洋と全く異なる芸術的雰囲気の中で育った私がボッティチェリをどのように感じるかを明らかにすることです。それは西欧の鑑賞者が全く、あるいはほとんど指摘していないボッティチェリの一面なのです」と記した。矢代独自のアプローチ、日本人によるアプローチとはなんであったのか。この点に、初版に対する6つの書評全てが関心を示している。バーリントン・マガジンに掲載されたロジャー・フライによるものを除く5つの書評は本書に好意的であったが、19世紀の定型化された「オリエンタル」な視点を反映してもいる。
美術史学史と異国間対話に大きな関心が寄せられている今日においても、矢代の『サンドロ・ボッティチェリ』は「三位一体」を初めて公にしたということ以外にはほとんど言及されることがない。本発表では、まず、同書が矢代の同時代人たちによって革新的、貴重、そして著者の独自の経歴を反映していると評価された美しさと部分写真の豊富さについて検討する。第二に、矢代の普遍的価値についての主張が20世紀初頭の日本での議論から生まれたことを指摘したい。それはボッティチェリ研究者に向けたものではなく、矢代の非常に影響力の大きい業績となった東洋美術の研究に基盤を与えるものであった。

 
越川倫明(東京藝術大学)
「矢代幸雄著『受胎告知』を再読する」

矢代幸雄の『受胎告知』は、1927年に初版(警醒社)、戦後の1952年に改訂二版(創元社)、晩年の1973年に現代仮名遣いによる三版(新潮社)が刊行された。本書は、ボッティチェッリ研究と並行して1921―25年の滞欧中に行なわれた研究の成果であるが、英文『ボッティチェッリ』とは非常に異なった性格の著作といえる。矢代は1952年の改訂版刊行後、かなり逡巡したのち、1955年に同書をベレンソンに送り、その後タッティでの補充調査を経て英文版を刊行する意図をもらしているが、結局その考えは実現されなかった。しかし、第二版の刊行を手伝った摩寿意善郎、三輪福松をはじめ、後続の西洋美術史研究者に大きな影響を与えた書物であることは疑いえない。
この発表では、発表者が同書を最近再読した所感として、以下の二つの論点を抽出してみたい。第一に、同書がベレンソンの通常の方法論とはまったく趣を異にし、むしろ日本における西洋キリスト教美術のイコノグラフィー研究の先駆的事例であったこと。第二に、そうでありながら、同書の基底をなしている美術へのアプローチは、ウォルター・ペイターの審美主義を直接的に受け継ぐものであること、である。

 
髙岸輝(東京大学大学院人文社会系研究科)
「矢代幸雄の絵巻研究」

大正五年(一九一六)ごろから原三溪のもとで東洋古美術と親しく接するようになった矢代幸雄は、そのころ新作絵巻流行のさなかにあった日本美術院の画家たちとも交流しつつ東洋美術に対する関心を温めた。欧州留学から帰国後、美術研究所の設立とともに進められた日本・東洋美術研究の中で、絵巻は重要な一角を占める。昭和七年(一九三二)のハーバード大学招聘の際には、日本美術の「本質に触れる問題を含み」「特色を最も明瞭に示すもの」として絵巻を講義テーマとし、このころボストン美術館が購入した「吉備大臣入唐絵巻」の研究を進めた。やがて中国画巻から日本絵巻への流れを、西洋美術の構図と比較しつつ概観した「画巻芸術論」(一九四〇年)へと展開する。絵巻の特殊な画面形式を世界の美術の中にどう位置づけるか、という点に矢代は強い関心を示した。戦後、大和文華館のコレクション形成にあたり、三溪旧蔵品から選んだのが「寝覚物語絵巻」であった。本発表では昭和戦前期に注目し、同時代の絵巻研究における矢代の果たした役割を再考してみたい。

 
塚本麿充(東京大学東洋文化研究所)
「矢代幸雄と1930-45年代の中国美術研究」

辛亥革命(1911)以降、中国美術研究の大きな経験は、その研究の主体が中国から日本、アメリカ、ヨーロッパへと拡大していったことにあると言える。矢代幸雄はそのただなかにあって、1935-36年のロンドン中国芸術国際展覧会を経験し、欧米の中国美術ブームと日本における唐物研究を折衷させる中国美術史観を確立させた。その間、中国では滕固(1901-1942)らによる中国独自の様式論受容の歩みがあり、アメリカではボストンを中心にその東アジア美術理解は日本から中国へと力点を移そうとしており、ローレンス・シックマン(1907-1988)らが出現していた。本発表では、非中国地区における中国美術研究の歩みを、植民地主義や影響・被影響という文脈でのみとらえるのではなく、異なる地域間の学的競合、つまり中国、日本、アメリカ、ヨーロッパという異なる文化伝統を背負った地域同士がそれぞれのコレクションを近代の美術制度のなかに組み込み、その言説を成立させていく大きな過程として積極的にとらえることで、それぞれの地域の中国美術史家がどのような課題を背負って交流をおこない、近代の「中国美術史」像を形成していったのかを考察していきたい。
【第9回】
2月23日
 
江村知子(東京文化財研究所文化遺産国際協力センター)
「光琳の「道崇」印作品について−尾形光琳の江戸滞在と画風転換」

尾形光琳(1658-1716)の現存作品は、元禄14年(1701)の法橋叙任以後の制作であるものが大半で、画中に捺される印章は年代によって変遷があることが先学の研究で指摘されている。光琳の比較的初期の代表作と見られる「燕子花図屏風」(根津美術館)には「伊亮」印、晩年の代表作である「紅白梅図」(MOA美術館)には「方祝」印が捺されている。この2作品の制作時期は十数年ほど離れており、この間に光琳は数度にわたり江戸に滞在するなど、画風転換期と考えられている。宝永元年(1704)より使用されるのが「道崇」印で、この印を有する作品には、宝永2年(1705)の軸芯墨書のある「四季草花図巻」(個人蔵)、「波濤図屏風」(メトロポリタン美術館)、「躑躅図」(畠山記念館)などがある。この時期とその前後で光琳の画風にどのような変化が見られるのか、作品と文献資料から考察し、光琳の画業における「道崇」印作品の位置づけを行いたい。
【第10回】
3月29日
 
山下善也(東京国立博物館)
「狩野山雪筆「武家相撲絵巻」一巻について」

両国・相撲博物館蔵の全長12メートルを超える標記の絵巻は、美術展出品の機会が無く、美術史研究者にほとんど知られずにいた。2013年春、私が企画した京都国立博物館の特別展覧会「狩野山楽・山雪」に出品、多くの方々にご覧いただいた。生き生きとした人物表現、ことに面貌描写が山雪の筆と直感したからである。しかも、山雪の嗣子永納による奥書に、筆者は山雪、注文主は東本願寺第十三代の宣如、と明記された重要作品である。山雪には珍しい和の画題であり、漢画題の作品で形成されてきた山雪のイメージを変える作品でもある。この絵巻の内容を改めて詳しく紹介しつつ、山雪の支持層の問題、山雪の人物表現、群像表現について考えたい。