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2014年度の研究会

平成26年度(2014)
【第1回】
4月21日
 
戦暁梅(東京工業大学准教授)
「廉泉の大村西崖宛書簡について」

清末の上海で出版社「文明書局」の経営や「東文学社」の創設に携わり、書画コレクター、そして詩人としても活躍していた近代中国の文人廉泉(1863―1932)は、生涯に数回にわたって来日した。日本の文化界と交流を深めながら、その厖大な扇面コレクションを展覧紹介し、『小萬柳堂劇蹟』などの図録の出版も積極的に行ったことは、すでに諸先考によって明らかになっている。本発表では東京芸術大学に寄贈された大正三年五月から大正十一年にわたっての、廉泉の大村西崖宛の書簡三十四通の内容を中心に紹介し、そこから明らかになった、廉泉の扇面コレクションをめぐる新しい事実は、その日本滞在中の活動や廉泉・呉芝瑛夫婦の人物像を知る上で大きな手がかりとなる。
【第2回】
5月22日

「『かたち』再考」研究会
 
藤川哲(山口大学)
「現代美術におけるかたち―国際美術展を中心に」
 
佐藤直樹(東京藝術大学)
「かたちをめぐる日本美術史の可能性―西洋美術史からの視点」

国際シンポジウム「『かたち』再考-開かれた語りのために」(2014年1月10日~12日)では、現状の美術史学における成果と問題意識とを共有し、これからの展開を予期させるテーマが多く挙がってまいりました。たとえば新たな試みの方向として、テクスト/コンテクストの二項対立の再検討(インターテクスチュアリティ等)、作品個々の自立性を前提とすることの再検討(作品が置かれる場、使われる場の問題等)などが浮かび上がってきています。
そこで、3月13日に行ったシンポジウムの反省・統括会に引き続きブレインストーミングを行い、さらに多様な視点を模索してみたいと思います。そうして提示された様々な方向性から次への歩みを検討し、「かたち」をテーマにこれから何ができるか、具体的な課題を絞り込んでいきたいと思います。
【第3回】
6月24日
 
ミラー・アリソン(カンザス大学美術史学部)
「貞明皇后のイメージ:二十世紀初頭の日本社会における「女らしさ」の変遷」

この発表は、貞明皇后(1884-1951)の肖像画の政治的意義を、特にジェンダーと階級に焦点を置き検証します。日本女性の新しいイメージが多くの雑誌や広告等に登場し、時としてそれらが論議を呼んだ二十世紀初頭、貞明皇后は公務において様々な役割を担い、マスコミに頻繁に取り上げられています。このようなメディアに見る皇后のイメージは、一方において従来の型にはまった皇室女性として、また日本社会における「女らしさ」の理想のモデルとして、錦絵や写真によく登場しています。それと同時に、皇后のイメージには、「控えめ」という伝統的な日本の女性像のみならず、活動的で進歩的な側面も見受けられ、それは当時の女性の社会的地位の変化と呼応していると考えられます。本発表では、貞明皇后のイメージの変遷を考察し、またこれらのイメージを錦絵、石版画、絵葉書、写真、雑誌、新聞など大衆的なメディアに見られる新しい女性イメージと比較・検証します。

 
田中修二(大分大学)
「彫刻家・新海竹太郎の遺した資料について」

明治~大正期の官展を代表する彫刻家・新海竹太郎(1868~1927)の遺した資料が、その遺族のもとに伝えられている。明治20年代から昭和2年に没するまでの長期間にわたる、自筆ノートや作品写真、制作に関わる写真や書類、書簡、平子鐸嶺のノート、同時代の他の彫刻家の作品絵葉書など、近代日本美術史を研究する上で価値の高い資料である。
本発表では、それらの全容とともに、明治30年代後半の美学者大塚保治、心理学者松本亦太郎の大学での講義の新海による聴講ノート、晩年の出納ノートといった重要な資料の概要を紹介する。また大正後期に彼が制作した銅像を取り上げ、それらの資料から浮かび上がる彫刻家の活動について考察する。
【第4回】
7月29日
 
津田徹英(東京文化財研究所企画情報部)
「平安木彫像における内刳りの始源をめぐって」

一般に、平安初期の木彫における内刳りは背面から長方形の窓状に刳り窓をあけ、(さらに、坐像の場合は像底からも)内刳りを施し、蓋板が当てられる。その目的も、干割れの防止を目的とした木芯の除去にあったとされる。しかし何故、平安初期に遡る作例ほど背刳りが細長い長方形を厳守しているかについては今一つ明快な解答がなかったように考える。ここで着目したいのは奈良時代末頃の木心乾漆系の作例に目を転じてみるとき、法隆寺伝法院東の間安置の中尊阿弥陀如来坐像やその左脇侍立像が像内に内刳りを頭体に及んで施し、像内に構造材が組まれていることである。同様の仕様は、承和六年(839)に開眼をみた東寺講堂不動明王坐像においても行われていることが近年知られるようになっており、これらについて像内を中空にして構造材を組み込む技法に脱活乾漆造の手法との近似性が指摘されていることは留意されよう。さらに発表者が知り得た事例として、奈良時代に造像が遡るとみられる滋賀・菅山寺十一面観音立像において、X線透過画像に拠れば、後頭部と背面からそれぞれ長方形の刳り窓を開けて、像内に深く内刳りを施し、蓋板を当てている。その手法はまさしく脱活乾漆造における中土除去の手法に通じている。そうとみるとき、興味深いのは奈良時代末の福島・能満寺虚空蔵菩薩坐像(奈良・東大寺伝来という)が、体幹部において木芯を前方に去った芯去り材を用いながら、背面(木表側)から縦長に窓を開け(像底からもあわせて)内刳りを施すことである。必ずしもその始源にあって内刳りが木芯の除去を目的に行われていなかったことの一端を示唆するのではなかろうか。すなわち、平安木彫像の背面にわざわざ長方形の刳り窓を開け、像内の内刳りを施し、蓋板を当てる手法とその始源に、奈良時代の脱活乾漆造の中土除去の技法が反映されていたことを考えてみたい。そして、このような長方形の刳り窓をあけての内刳りの技法は、純木彫系の作例では奈良・新薬師寺薬師如来坐像、元興寺薬師如来立像などに認められ、薄く表面に乾漆を施す作例では、東寺講堂の四菩薩坐像、観心寺如意輪観音像などに認められる。とすれば内刳り技法の普及に奈良時代以来の官営工房の系譜をひく工人たちが果たした可能性を視野に入れることも一案であろう。ちなみに、平安初期の福島・勝常寺薬師如来坐像では両耳後ろで前後に割って内刳りを施すが、同様の手法は既に奈良時代末頃の東京・池田家旧蔵の菩薩立像において認められる。このことを思うと、このような割矧ぎによる内刳りの手法も、やはり脱活乾漆造の中土除去の技法を反映する可能性があろう。
【第5回】
8月6日
 
吉田千鶴子(東京藝術大学)
「黒田清輝宛外国人留学生書簡 影印・翻刻・解題」

東京文化財研究所所蔵黒田清輝宛て書簡中には明治期に東京美術学校(美校)西洋画科に入学した留学生の書簡6通が含まれている。最初の中国人留学生であった黄甫周、2番目の李岸(叔同)、および汪済川(洋洋)、厳智開らと2番目の朝鮮人留学生高羲東の書簡である。
美校には合計239人の外国人留学生が在籍した。出身地別の数は中国103人、朝鮮89人、台湾30人、その他諸外国17人である。留学状況の概要は美校の記録文書や東京芸術大学大学美術館所蔵卒業制作自画像、同大学附属図書館所蔵卒業制作写真アルバムその他によって把握することができるが(拙著『近代東アジア美術留学生の研究―東京美術学校留学生史料』2009年、ゆまに書房、参照)、個々の留学生についての史料が乏しいため、留学の実態については闇の中の状態であった。したがって、上記6通の書簡は闇の一角を照らす光のように価値の高い資料であると言えよう。その内容を紹介し、簡単に解説を試みる。
 
児島薫(実践女子大学)
「藤島武二からの黒田清輝、久米桂一郎宛書簡について」

東京文化財研究所には、藤島発の書簡、黒田宛36通と久米宛1通が保管されている。また東京国立博物館には藤島から黒田宛ての書簡4通と久米宛7通がある。東文研書簡は、三重県立美術館、そごう美術館で開催された「藤島武二・岡田三郎助展」(2011年)の際に田中善明氏が一部を紹介し、三重県の研究会「あさけ会」の方々によって全て読み下しされている。発表者はそれをご教示いただき、二、三の訂正を加えるのみであるが、これを東博書簡と付き合わせて紹介したい。書簡の日付は1894年から1921年にわたるが、主に藤島の白馬会から留学を経て帰国した頃までの時期に集中している。特に藤島が津から東京美術学校に呼び寄せられた時期の手紙は、既に陰里鉄郎氏も一部紹介されているが、藤島の心境がよく表れていて興味深い。藤島留学後の手紙からは二科結成の頃の緊迫した様子が伝わる。全体を通じ藤島と黒田、久米の関係が次第に変化していく様子を知ることができる。
【第6回】
9月30日
 
山梨絵美子(東京文化財研究所企画情報部)
「黒田清輝『昔語り』再考」

黒田清輝筆『昔語り』は1893年夏にフランスから帰国した黒田が同年秋に初めて京都へ旅行し、静閑寺を訪れた折に着想を得、1895年に西園寺公望から話があって本格的な制作を始めた作品である。1896年の第1回白馬会展に画稿・下絵が出品され、1898年に完成作が第3回同展に出品された後、西園寺の弟住友春翠の所蔵となったが、昭和20年戦災により焼失した。本作は19世紀のフランス画壇で最も格の高い絵画と位置づけられていた物語主題による大コンポジションを日本の主題で試みたいわゆる「構想画」と位置づけられており、その主題については、『平家物語』の「小督」にまつわる静閑寺の由来を語る僧の話に感銘を受け、人が話をするところを描こうとした、という画家自身の言葉によって解釈がなされ、構図についてはピュヴィス・ド・シャヴァンヌ筆「休息」との関連が指摘されている。本発表では画中の男と舞妓のポーズと黒田の師ラファエル・コランによる『ダフニスとクロエ』(ロンゴス著、ジャック・アミョー訳、1890年ロネット社刊行)の挿絵の一部との共通点を指摘し、コランの挿絵と対応する物語を手がかりに、「昔語り」の主題について再考を試みる。
 
田中淳(東京文化財研究所企画情報部)
「岸田劉生と古屋芳雄 ― 劉生の「駒沢村新町」療養期を中心に」

本発表では、岸田劉生(1891-1919)の芸術全体を考えるために、「駒沢村新町」における療養期(1916年7月~1917年2月)に焦点をあてることにする。これまで劉生の生涯と芸術の研究においては、概ね「代々木時代」、「鵠沼時代」、「京都時代」等とよばれるように、彼の居住した場所に因んだ区分をもとに考察されてきた。そうした中で、劉生が居住した「駒沢村新町」の時期は、「肺結核」と診察されたことからの療養期であり、時間的にもわずかに7カ月間にすぎない。したがって、「時代」というには短期間であることから、時期として前後にあたる「代々木時代」(1913年10月~1916年7月)、「鵠沼時代」(1917年2月~1923年9月)のいずれかに含まれて論じられてきた。しかしながら本発表では、療養のためという短い在住期間ながらも、「古屋君の肖像(草持てる男の肖像)」(1916年9月)をはじめ、密度の高い創作をしており、その芸術の転換点となったと考えるところから、「駒沢村新町」療養期としてこの時期の意味を再考したい。
【第7回】
12月9日
 
小林公治(東京文化財研究所企画情報部)
「南蛮漆器書見台編年試論」

桃山時代、来航したポルトガル人やスペイン人らの発注を受けて数十年間という短い期間に京都で制作され、主に南欧にむけて輸出されたいわゆる「南蛮漆器」については、成立の経緯や開始年代、キリスト教禁教令との関係など、未だ明らかとなっていない問題点が少なくない。またそうした問題を検討するための論拠として重要なのはより確実な編年と実年代観かと思われるが、残念ながらこれについてもまた確定的な共通認識が持たれているとは言い難い現状にある。
発表者はこの数年、日本国内やヨーロッパに伝世する南蛮漆器のうち、日本ではほとんど知られていない高台寺蒔絵様式を持つものなど42点ほどが遺存している書見台を中心に実見調査を実施して来た。今回その形態・文様様式などの諸項目について検討を行なった結果、南蛮書見台が初期・前期・中期・後期・末期の5期に細分でき、おおよその流れについても見通しを得るに至った。本発表ではこうした編年案の詳細について具体的に述べると共に、その実年代について検討を進めることにしたい。

 
小林達朗(東京文化財研究所企画情報部)
「東京国立博物館蔵 国宝・普賢菩薩像の表現-附論 仏画における「荘厳」」

東京文化財研究所企画情報部では、東京国立博物館との「共同調査」として、博物館の所蔵する平安仏画について、研究所の城野誠治氏の画像技術をとおして、その微細な構造を探る調査を行っている。昨年度は、博物館の所蔵品を代表する、国宝・普賢菩薩像の調査を行った。得られた画像からは、発表者の予想を超えた技法や表現性に深く関わる構造が伺える。それらの諸点について、既に調査した作品との比較も踏まえ、江村知子氏の御助力によりできたzoomifyの画像により紹介する。加えて、発表者自身も漫然と使ってきた、仏画における截金や彩色による「装飾」という概念が、玉蟲敏子氏が指摘したとおり、近代以降に私たちが捉われた問題を含むものであることを振り返るとともに、「仏教美術における装飾」といった矮小な意味に陥ってしまった、「荘厳」という概念が、これに対していま一度考え直されるべきものではないか、という可能性について画像も踏まえつつ提起してみたい。
【第8回】
1月27日
 
川口雅子(国立西洋美術館)
「美術文献情報をめぐる最近の国際動向─米国ゲティ研究所と「アート・ディスカバリー・グループ目録」を中心に─」

昨年5月、美術史分野で新しい文献情報探索システム、「アート・ディスカバリー・グループ目録」(http://artlibraries.worldcat.org/)が登場した。60を超える世界の美術図書館蔵書と14億件もの雑誌記事情報を一括で検索可能にするもので、インターネットを通じて無償で利用できる。このシステムが革新的なのは、単に規模や国際性だけではなく、日本語版インターフェースを備えて、東京文化財研究所『美術研究』収載論文(1948年刊147号以降)など邦語文献も検索できる点であろう。システムの中心的担い手は欧米諸国の美術図書館であるが、なぜこうしたことが可能になったのか。これを理解するには、文献情報に関する情報学的要素を踏まえつつ、同システム登場の背景にある米国ゲティ研究所の活動状況などの美術書誌をめぐる国際動向を把握する必要がある。本研究会ではそのご紹介を試みつつ、併せて今後の日本からの貢献の可能性を探りたい。
【第9回】
2月17日
 
稲葉真以氏(光云大学校)
「韓国の「東洋画」」

韓国には「東洋画」というジャンルがある。東洋画とは、そもそも日本の植民地時代に持ち込まれたものであるが、美術大学の学科名には、今もなお「東洋画科」という名称が残っている。一方で「韓国画科」という名称を使用している大学も少なくない。名称は違えど、いずれも膠・顔料をしようした彩色画及び水墨画(コンテンポラリーも含む)などの絵画を指す。作家も自らを東洋画家あるいは韓国画家と、人それぞれに使い分けて自称しているが、東洋画の方が一般化している。解放後、韓国美術のアイデンティティーを確立しようとする、いわゆる「東洋画論争」が巻き起こったが、結局、東洋画という名前は残ることとなった。本発表では、東洋画が韓国に導入された経緯、及び東洋画論争の展開などを中心に、韓国の「東洋画」について考察する。
【第10回】
3月24日
 
河合大介(東京文化財研究所企画情報部アソシエイト・フェロー)
「反芸術・脱主体化・匿名性―山手線事件と赤瀬川原平を中心に―」

1960年代の美術における国際的な傾向として、伝統的な美術のあり方に対する批判的実践が挙げられる。その主要な特徴のひとつに、作品から作者の痕跡を抹消すること―作品の〈脱主体化〉―がある。アメリカの場合では、ポップが既存のイメージを流用し、ミニマル・アートが単純な形体を用いたことに、この特徴をみることができる。
日本においても、1960年の「反芸術」やネオ・ダダに象徴されるような伝統的な美術からの離脱を目指す動きがあり、そのなかにも脱主体化という特徴がみられる。しかし、もちろん日本とアメリカでは成立した背景が異なる以上、両者は同じものではありえない。本発表では、山手線事件(1962年)およびその影響をうけた当時の赤瀬川原平の活動に関する資料を分析し、それらの背景に、脱主体化の一形態としての〈匿名性〉という考えがあることを示したい。ただし、それが名の有無という二元論に還元されることなく、そのどちらでもない曖昧な領域に留まる点も、のちの赤瀬川の活動を特徴づけるものとして注目したい。
 
橘川英規(東京文化財研究所企画情報部アソシエイト・フェロー)
「観光芸術多摩川展パノラマ図を観る――富士山、機関車、少女、井戸」

観光芸術研究所は、1964年に中村宏と立石紘一(のちのタイガー立石)の二人の画家によって結成されたもので、「反芸術」の動向が盛り上がる1960年 代前半にあって、あえてタブローの可能性を追求した作家グループとされている。このグループが最初に行った発表は、多摩川の河川敷で行われた野外イベント で、これは「観光芸術多摩川展」と名付けられている。本発表では、まず東京文化財研究所が所蔵するドローイング「観光芸術多摩川展パノラマ図」と映像作品 「Das Kapital」を用いて、このイベントの実態を確認する。さらに、このイベントで展示されたオブジェ(富士山、機関車、少女、井戸など)が、ふたりの作家活動のなかで、どのように位置づけられるものかを、それぞれの作品や言説で検証したい。
なお本発表は、昨年9月に、ニューヨークで開催されたPoNJA-GenKon(Post-1945 Japanese Art Discussion Group / Gendai Bijutsu Kondankai.)設立10周年記念シンポジウムで行った発表内容に加えて、その後の調査で得た知見をもとに構成するものである。