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2012年度の研究会

平成24年度(2012)
【第1回】
4月10日

前田環(東京藝術大学 日本国際交流基金ビジティング・スカラー)
「20世紀初期に於ける日中美術交流史の断面:内藤湖南を中心に」

20世紀初期、特に1911年辛亥革命以降、中国から大量の書画が放出された。その多くは日本に到来し、絵画に限っても数千幅を下らず、日本史上最大規模の中国美術品輸入であったと考えられる。こうした「新舶載」と呼ばれた絵画は日本帝国期の東洋美術史の概念にどの様な変化を持たらしたのだろうか?また、日本で編まれた東洋美術史は中国での美術史学とどう結びつくのだろうか?
この発表では、「古渡り」に対し「新舶載」を推進した京都帝国大学東洋学者内藤湖南の美術史観を中心に、近代日本と近代中国における東洋美術史の発展を考察する。加えて、同時期の東京に於ける中国絵画の受容、日本絵画史上における「新舶載」の意味についても可能な限り触れてみたい。
【第2回】
5月29日

二神葉子(企画情報部情報システム研究室長)
「国宝文化財建造物の地震対策と課題-地震動予測地図との連携の可能性-」

確率論的地震動予測地図の文化財地震防災への活用のため、国宝文化財の所有者等へのアンケート調査を実施し、その結果から読み取れる改善のための方策について検討した。

発表内容は、地震ジャーナル52号42ページ(PDFのページ番号は44ページ)に基づいて行われます。

当日は、大部になりますので、紙媒体での配布資料とはいたしません。各位におかれましては、上記リンクから資料をご覧いただき、必要に応じてご利用いただきますようお願いもうしあげます。
【第3回】
6月26日

金子牧(カンザス大学美術史学部アシスタント・プロフェッサー:東京文化財研究所来訪研究員)
「 「国民的画家」の表出:アジア・太平洋戦争期と戦後の「山下清ブーム」」

山下清(1922-1971)は、知的障害を持つ画家として「日本のヴァン・ゴッホ」「イディオ・サヴァン」「昭和の国民的画家」など様々な名称で親しまれている。
本発表は、山下が初めて主要メディアに登場した1938年からの約二年間、そして山下が全国規模で有名となった1950年代半ばの「山下清ブーム」を検証する。二つの「山下清ブーム」の裏側、即ち仕掛け人の存在や売り出し戦略、その倫理的問題に関しては既に詳細な先行研究が存在する。
発表者が主眼とするのは、そうした売り出し戦略やその妥当性ではなく、特定の社会・政治コンテキストの中で山下清が担わされていた役割を再考することにある。日中戦争勃発から一年を経た1938年、そして「もはや戦後ではない」と謳われた1950年代半ばという特定の時期に、山下清という芸術家像が表出・消費されたことは決して偶然ではないと発表者は考える。即ち前者は「芸術家」・「知的障害者」という二つの社会的アイデンティティーが総力戦体制構築の過程で大きく揺らいだ時期であり、一方後者は敗戦から10年以上を経て戦争の記憶が様々な形で戦後社会に蘇った時期にあたる。
本発表は、日本のナショナル・アイデンティティーが大きく揺れまた強化されていく政治背景の中で、「芸術家」と「知的障害者」が複雑な形で絡み合い「国民的画家」像を形成していく過程を再検証するものである。
【第4回】
7月17日

キム・ヨンチョル:KIM Yongcheol(韓国・全州大学校学術研究教授)
「近代の日本人による高句麗古墳壁画の調査と模写、そして活用」

近代の日本人が高句麗古墳壁画をめぐって行った調査と模写、そして活用はオリエンタリズムや植民主義的見方からは充分に説明され得ない。もちろん、関野貞の例に見るように高句麗古墳古墳を調査した日本人学者は植民地朝鮮の文化遺産としてそれらを捉えており、模写画を制作した小場恒吉の場合も部分的には関野と認識を共有していたと思われるが、小場の場合は高句麗古墳壁画に対して深く、魅了されていたようである。
その後高句麗古墳壁画についての情報が広まるにつれて日本人の画家や工芸家たちがそれに影響され、その結果は各自の作品に現れた。たとえば、小林古径、安田靫彦、吉村忠夫、畠山錦成、などの画家たちと何人かの工芸家たちがそうであった。そこには二つの原因があったと思われるが、まずは、高句麗古墳壁画の造形的な迫力であり、もう一つは古代日本と高句麗の間の影響関係という歴史的事実である。これらの例を近代日本における‘高句麗趣味’と名づけたい。
【第5回】
8月3日

塩谷純(東京文化財研究所)
竹上幸宏(国宝修理装こう師連盟)・荒井経(東京藝術大学)
平諭一郎(東京藝術大学)
小川絢子・三宅秀和(永青文庫)
林田龍太(熊本県立美術館)
佐藤志乃(横山大観記念館)
野地耕一郎(練馬区立美術館)
「『美術研究作品資料 横山大観《山路》』刊行に向けての研究協議会」

近代日本画の巨匠、横山大観が43歳のときに描いた《山路》(明治44年、第5回文展出品)は、発表当時、西洋の印象派と南画の融合と評されたタッチを多用することで、明治30年代に大観らが試みた朦朧体を脱し、大正期に流行した“新南画”の先駆けとなった重要な作品である。《山路》の修理にあたり、同作品を所蔵する永青文庫と当研究所で共同研究を立ち上げ、多角的な調査研究を行なってきた。その成果を東京文化財研究所企画情報部が逐次刊行してきた『美術研究作品資料』の第6冊としてまとめ、修理の過程や顔料調査の結果、発表当時の批評等、《山路》にまつわる諸情報の集成をめざす。
【第6回】
9月25日

太田彩(宮内庁三の丸尚蔵館主任研究官)
小林達朗(東京文化財研究所主任研究員)
城野誠治(東京文化財研究所専門職員)
「宮内庁三の丸尚蔵館所蔵春日権現験記絵共同調査の中間報告」

宮内庁三の丸尚蔵館所蔵「春日権現験記絵」20巻は、14世紀初頭、藤原氏一門の西園寺公衡によって企図され、高階隆兼が絵を担当して描かれたものであることは夙に知られている。20巻という大部の絵巻が欠巻なく今日まで伝えられていること、当初の状態をよく伝えていること、そして何よりその筆致が卓抜したものであることをあわせ、わが国絵画史上きわめて貴重な作品といえる。この春日験記絵は平成16年度よりおよそ15年の計画で、宮内庁による解体修理が順次行われているところである。 東京文化財研究所と宮内庁三の丸尚蔵館はこの修理事業にあわせて共同調査を行っており、修理前の作品について順次、種々のデジタル画像・光学調査の結果を得ている。 今回は、この事業の中間報告として、1.修理事業の概要、2.現在まで得られた画像の紹介および美術史の観点から評価されること、3.デジタル画像調査の内容、履歴とその問題点などについて報告を行い、関係者間の認識と情報の共有を図りたい。
【第7回】
11月15日

田中伝(成城大学大学院)
「吉川霊華筆≪離騒≫の主題と典拠に関する一考察」

吉川霊華(1875〜1929)の代表作《離騒》(1926)の典拠は従来、画題の通り中国古代の詩集『楚辞』に収録される屈原の詩「離騒」であると見なされてきた。しかし画面内容を詩の文言と対照すると、本作が典拠としているのは、同じ『楚辞』に収録される「九歌」中の「湘君」「湘夫人」であることが判明した。『楚辞』の注釈書や関連文献を精査することで、この事態が、本作の画題《離騒》の語義をめぐる作者と受容者間の認識の齟齬に起因することを明らかにする。その上で本作の成立背景を、当時の出版状況や作者の人的関係から考察し、本作の史的位置を改めて検討する。

相澤正彦(客員研究員・成城大学教授)
「石山寺縁起絵巻の絵師再考」

石山寺縁起絵巻は1巻から3巻までを高階派が描き、その他の巻も土佐派をはじめとする複数の絵師によって時代をこえて描き継がれたという希有な絵巻である。発表者はかって土佐光信筆と言われてきた第4巻を土佐家の別人絵師、また筆者不明であった第5巻を粟田口隆光とする試論を唱えた。このたび滋賀近代美術館の「石山寺縁起絵巻の全貌展」開催に協力することで、調査し得た新知見をふまえ、この筆者問題を再度検証したい。  さらに高階派の第1巻から3巻までについては、精細な図版データを使用しての考察が行われてこなかった。このたびの調査では、数人の絵師の参画が認められるほか、彩色などに多くの補修や料紙の欠失等を確認するに至った。本発表では、これらの1巻から3巻までの新たな問題点を紹介し、今後の高階派の研究に資すべき石山寺縁起絵巻の最新の情報を提供することとしたい。
【第8回】
12月25日

吉崎真弓(国立情報学研究所連想情報学研究開発センター特任研究員)
「『萬朝報』投稿漫画欄「端書ポンチ」(1907-1924)の研究」

「端書ポンチ」は、1892年に創刊された新聞『萬朝報』紙上において、1907年1月から1924年6月までほぼ毎日掲載されていた投稿漫画欄である。本発表では、全掲載数6,262点のうち、掲載数が多く、かつ描き方に特徴のある投稿者(掲載者)の「端書ポンチ」に焦点をあて、彼らの人物像および画風を中心に考察する。また、主題の傾向や画面内に登場する「国民」の増加と変貌について歴史的背景をふまえながら検証し、投稿者たちによる表現方法の変遷や意見、要求を具現化する「端書ポンチ」の史料的な可能性を指摘する。


三上豊(客員研究員・和光大学表現学部教授)
「マンガを学生にどう伝えるか」

大学でここ10年日本マンガ史の講義を行ってきているが、現在の学生世代にマンガの何を伝えていくかは、いつも考えていることである。ほぼ戦後のマンガの流れを体験的に味わってきた自分との世代ギャップがある。今回は、悩みつつ講義をすすめている自分が、メディアとしてマンガの特徴的な表現についてどう捉えているかを発表することで進めていきたい。そのうえでマンガがヴジュアルメディアとして、どうテキスト化されていくかを考えてみたい。とりあげるのは白土三平『忍者武芸帳影丸伝』、手塚治虫『大洪水時代』、ちばてつや『あしたのジョー』ほか。
【第9回】
1月29日

津田徹英(企画情報部)
「研究資料 滋賀・十輪院 木造地蔵菩薩立像」

本像は滋賀県下の琵琶湖の東(「湖東地方」)の野洲市駅前の十輪院に本尊として伝来した。像高112㎝。木造、寄木造・玉眼陥入の彩色像である。ちなみに、かの十輪院は琵琶湖にそそぐ一級河川・野洲川の畔、中山道沿いに宝形造の仏堂を構えおり、並走するJR琵琶湖線において野洲川を通過する際に琵琶湖寄りの車窓から仏堂が臨める。その本尊である本像の存在については、18年ほど前に「野洲町立」時代の銅鐸博物館での展覧会において、はじめて寺外で公開され、ポスターに堂々たる威容を飾った。発表者が存在を知り得たのも、その折のことである。像は作風から判断して鎌倉時代後半に遡るようであり、保存状況も良好で当初の彩色をよく留めていることがポスターから十分に窺えた。当時、さっそく展覧会に出かけてガラス越しに対面を果たした。三上山の麓といういささか交通アクセスの悪いところに立地する銅鐸博物館へと、それでも本像との対面を一目でよいから果たしたい気持ちを駆り立てるだけの魅力を、この未見の尊像に見出した訳である。ところが、展示解説には江戸時代の制作とされていた。しかしどう見ても鎌倉時代に遡るように思われた。以来、本像は展覧会等に出陳されることもなく、彫刻史研究者の話題に上がることもなかったのも事実であるが、発表者にとっては、ずっと気になっていた尊像であった。昨夏、科研「近江の古代中世彫像の基礎的調査・研究」の一環として、思い切って管理者に連絡をとり、数度にわたる交渉の末、漸く調査の機会に恵まれることとなった。実査時に、調査に参加した8名に及ぶ滋賀県ゆかりの彫刻史研究者との合同調査においても、本像は鎌倉時代13世紀末から14世紀初頭に遡る作例とみることで一致した所見となった。しかしながら、滋賀県下の諸作例を多く知る彼らをしても本像に近い作例は県下には思い当らないというのが一致した見方であった。その点こそ、実は発表者が本像を注目する所以でもある。実査に際しての私見では、近年、実査を通じて少しずつではあるが(発表者が)紹介をしてきた当代の京都・三条仏所(円派)の作例に通じるようにも思われた。そこで本発表では、本像の概要を紹介するとともに、さほど多くは遺例が確認されるには至っていない鎌倉後期の三条仏所(円派工房)での造像の可能性に及んでみたいと思う。


寺島典人(大津市歴史博物館学芸員)
「快慶・行快の造った耳と長浜市浄信寺像について」

仏師の個性が表れやすく、作者判定の有力な手段といわれている耳について、特に鎌倉時代の仏師、快慶と行快師弟の造ったものを比較すると、快慶作とされる像のなかでも行快と同じ形の耳がみられる。今回はまず、これらの耳を分析し、快慶工房の分業の様子を考えたうえで、近江でも近年作例が新発見されている行快法橋時代の作例である、大津市・西教寺像と長浜市・浄信寺像をみていき、快慶在世時の行快の作風をみていきたい。
【第10回】
2月26日

大谷省吾(東京国立近代美術館)
「靉光《眼のある風景》をめぐって」

靉光(本名:石村日郎、1907-46)の《眼のある風景》(1938年、第8回独立美術協会展出品、発表当時の題名は「風景」/東京国立近代美術館蔵)は、今日、一般的には日本におけるシュルレアリスム絵画の代表作と位置づけられる。しかしその影響関係が具体的にはどのようなものだったか、あるいはそもそも何が描かれているのか、不明な点は多い。
2010年にこの作品について東京文化財研究所による反射近赤外線撮影および透過近赤外線撮影が行われ、これにより制作プロセスをある程度推測することが可能となった。これをふまえ、作品を読み直し、さらに美術史的な位置づけについても、新たな提案を行いたい。
【第11回】
3月19日

綿田稔(東京文化財研究所文化財アーカイブス研究室長)
「ギメ本大政威徳天縁起絵巻について」

本作品はいわゆる北野天神縁起で、全6巻41段からなる。現在フランスの国立ギメ東洋美術館が所有し、在外古美術品保存修復協力事業で平成16・17年度に修復を行った。巻6末に奥書と裏書があり、天文7年(1538)に開田天満宮(長岡天満宮の前身・長岡京市)の神宮寺とおぼしき「薬水場寺」の什物として、破損した「古本」に替えるために、中小路宗綱ほか山城国乙訓地域の有力者たちを動かして作られたことがわかる。
詞書の特徴は近郊の上宮天満宮(高槻市)所蔵本(1459)と一致し、図柄は佐太天満宮(守口市)文明本(1481)と近しい関係にある。絵の様式は諸派入り混じったもので、素人絵の要素も取り込んだ一種独特なものとなっている。図柄に狩野派や土佐派の影響は少ないが、岩の描法や樹木の形態など一部に狩野派の影響も見られる。
本発表ではこの絵巻の概要を、制作環境を含めて紹介する。とくに北摂から西山城にかけての地域において開田天満宮の「古本」が持っていた求心力に注目したい。


水野裕史(奈良文化財研究所特別研究員)
「近世初期における鷹狩図の流行-「野行幸」と『鷹書』-」

本発表は、近世初期において数多く描かれた鷹狩図の制作背景について考察するものである。特に「野行幸」と鷹狩の故実書『鷹書』をキーワードにその流行の背景について迫ってみたい。
「野行幸」とは、鷹狩のために天皇が京都近郊の野に行幸することで、古代から中世にかけて「野行幸絵」として絵画化された。中世の作例は残っていないものの、近世初期には絵巻として幾つか制作されたことで知られる。また中世末期以降には絵入りの『鷹書』が数多く出版され、中には狩野派による模本が確認できるものもある。
発表ではまず鷹狩図における「野行幸絵」と『鷹書』の影響関係について指摘する。加えて近世初期の王朝文化や享保期の出版事情など様々な文化史的環境から鷹狩図が流行した背景について考えてみたい。