平成23年度(2011) |
【第1回】 |
5月11日
土屋貴裕(東京国立博物館)
「メトロポリタン美術館所蔵「聖徳太子絵伝」について」
諸宗派におけるいわゆる「太子信仰」の隆盛を受け、中世には多くの掛幅本聖徳太子 絵伝が制作された。全四、六、八、十幅といった大部の作例が多い中で、メトロポリ タン美術館所蔵「聖徳太子絵伝」は全二幅により太子の生涯を描くものとして注目さ れるが、これまで本格的に紹介されることはなかった。
メトロポリタン美術館本は鎌倉末から南北朝期成立と推察され、同じく二幅から成る 奈良大蔵寺本との類似が指摘されるが、描かれた事績には若干の異同も確認される。 本発表では、今年二月に行なった調査での知見を踏まえ、メトロポリタン美術館本の 紹介を兼ねつつ、同本の中世聖徳太子絵伝の中に占める位置について考えてみたい。
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【第2回】 |
5月25日
マシュー・マッケルウェイ氏(コロンビア大学)
「最大の洛中洛外図―制作環境と年代仮説」
近年、未知の近世初期風俗画が相次いで出現する傾向を示している。洛中洛外図や その一種とも呼べる洛外名所図屏風、聚楽第行幸図屏風などはその好例であり、この たび課題とする「洛中洛外図」(個人蔵)はそれらの中でも特に注目すべきものであ る。八曲一隻という大画面であることをはじめ、描かれた要素や様式などから受ける 印象により、特別に注文された絵画と言うことが出来よう。
本発表では先ずこの屏風が出現する経緯を辿り、描かれた内容を紹介し、そして発 注された時代と環境について仮説を述べることを目的とする。
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【第3回】 |
6月29日
留啓群(国立台湾師範大学美術研究所 東邦美術史組 博士後期課程在学・当部来訪研究員)
「日本統治時期における台湾伝統書画のアイデンティティーへの模索」
日本統治時代における台湾の伝統的な書画界は、台湾を訪れた日本人南画家や台湾在留の日本人の書画家あるいは中国大陸からの書画家によって複雑に形成され統合されていった。 本発表では、台日交流に焦点を絞って議論を展開する。様々な時期に台湾を訪れた日本人南画家の活動を分析するとともに、台湾在留の日本人書画家と台湾の伝統的な文治との交流を調査することを通じて、台湾伝統書画界が文化的アイデンティティーを どのように自覚したのか、また異文化を受容することでそのアイデンティティーはどのように変遷したのかを探る。
南明日香(相模女子大学教授)
「ジョルジュ・ド・トレッサン(1877-1914)の室町期絵画評価」 |
【第4回】 |
7月27日
相澤正彦(成城大学)
「浄瑠璃本「かるかや」の画風」
最古の浄瑠璃本と言われる「かるかや」(サントリー美術館 冊子2冊 十六世紀)の挿絵49図は、他に類例を見ない特異なものである。辻惟雄氏が「稚拙美」「素朴美」と名付けられ、いち早く注目されたものである。が、美術史研究の中では、往々にして御伽草子絵の持つ平俗なもの、素人的なもの、という見かたの中で埋没させられてしまい、実は底に流れる様式性が追求されることが無かった。とはいえそのことを跡付けるのは、類例が全くため一筋縄ではいかないが、その類推のきっかけだけでも提示したい。 その他、この「かるかや」と同じく、日本絵画史の中で極めて異質な様式を持つ作例を紹介しつつ、それらの源流も合わせ考えてみたい。
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【第5回】 |
8月30日
フランク・フェルテンズ(コロンビア大学大学院博士課程・企画情報部来訪研究員)
「琳派と能の関係についての再考」
琳派と能楽の相関関係は日本美術研究で重要性が認識されながらも検討の余地を残してきた。ジャンルの範囲を越えること、つまり静的(スタティック)な絵画や工芸(イメージ)などと動体的でダイナミックな演劇(パフォーマンス)を結びつけるのは大事な研究題目であるが、同時に様々な問題が生じていると言える。江戸時代前期において、能がますます洗練された趣味や社交的な要素になったということが多数な資料から判明し、教養人の考え方に深く浸透していため、謡曲の主題と能の美学が意識的にも無意識的にも芸術活動に反映された可能性は十分に考えられるのではなかろうか。河野元昭氏の1994年の論文「光琳と能」は光琳の絵画と謡曲の関係を最初に本格的に取り上げ、光琳の代表作である「燕子花図屏風」が能「杜若」、「紅白梅図屏風」が能「東北」にインスパイアされて制作された作品であることを指摘した。発表者はさらに絵画に限らず、工芸、装束、謡本などについても考慮する必要があると考える。具体的な作品において、江戸時代における能に関係ある文献資料、または空間構図の分析やパフォーマンス理論を応用しながら琳派の芸術を解釈してみたい。 |
【第6回】 |
9月20日
河合大介(企画情報部 研究補佐員)
「ミニマル以後のアート―内藤礼の近作をめぐって」
内藤礼(1961-)の近作には、最小限の仕掛けによって、その場に前もって存在していながら意識されていなかった光や風、空間などを可視化する作品がある。(《このことを》(直島家プロジェクト「きんざ」、2001)、《母型》(入善町下山芸術の森発電所美術館、2006)、《精霊》(神奈川県立近代美術館、2009)など。)そこでは、何かを再現したり、作者の心的状態を表現したりするのではなく、外的な条件を主要な構成要素として取り込み、知覚可能にすることが作品の主眼となっている。このような方法は、現代アート一般にみられる特徴のひとつであり、とりわけ、ミニマル・アートの実践と理論を通じて定着したといえる。本発表では、モダニズムを乗り越える過程でミニマル・アートにおいて正当化された「意味の外在性」(R・クラウス)について検討する。そうして獲得された視座から内藤礼の近作について、初期作品との違いを明らかにしつつ、その意味について考察する。 |
【第7回】 |
10月18日
塩谷純(東京文化財研究所 企画情報部)
「大村西崖と朦朧体」
明治30年代前半の大村西崖は、日本美術院の一派とは対立する美術批評家として知られる。橋本雅邦周辺の画家による観念的な傾向を、自ら主宰する美術雑誌『美術評論』や『読売新聞』『東京日日新聞』紙上で痛烈に批判し、とくに菱田春草らの編み出した新たな表現に「朦朧体」の名を与え、揶揄したのはまさしく西崖であった。しかし朦朧体以前の西崖の批評を読むと、日本画の線や筆法に対する忌避感を露わにし、あたかも朦朧体に連なるかのような論調であることは注目される。本発表では、朦朧体の語義に関する先行研究もふまえながら、明治30年代前半における西崖の言説と春草らの試みを近代日本画の流れの中であらためて捉え直すことにしたい。
大西純子(東京芸術大学 美術学部)
「大村西崖撰『支那美術史雕塑篇』について(資料紹介)」
大正4年6月に刊行された大村西崖撰『支那美術史雕塑篇』は、中国の雕塑全体を網羅した最初の資料集である。その資料的な価値は、当時のみならず今日なお多くの中国雕塑史の研究者がこの書を参考にし、あるいは引用しているところからもわかるように高い。「大村西崖資料」中に残る、本人の校訂本、手記など、西崖が行った実際の調査および本書編纂の経過を窺うことができる資料を紹介する。
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【第8回】 |
12月20日
「諸先学の作品調書・画像資料類の保存と活用のための研究・開発―美術史家の眼を引継ぐ」科研中間報告会
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【第9回】 |
1月24日
森下正昭(当部客員研究員)
「東日本大震災被災地における文化財救済活動調査―オーストラリア学会における発表報告とインタープリテーションの重要性」
本発表は、2011年3月11日に発生した東日本大震災において被災した有形文化財 (動産)救済活動に関して、発表者が同年8月から10月にかけて実施した調査と、その後、11月15~18日にオーストラリアのパースにおいて開催された学会At the Frontier 2011 Conference: Exploring Possibilitiesにおける調査結果の発表と 他の参加者との議論を通じて得た成果を報告するものである。
この調査では、東京文化財研究所が事務局を務めた「被災文化財等救済委員会」 (2011年4月・文化庁が呼びかけ)の活動に焦点を当て、その現状を掌握し問題点を明らかにすることを目的とし、被災地では気仙沼・大船渡・陸前高田の3市、さらには東京・神奈川・京都の救済活動関係者全11名に直接面会しインタビューを実施した。
調査の結果は論文にまとめられ、11月のオーストラリア学会At the Frontier 2011の基調講演の一つとして発表され、非常に有意義な意見交換をすることができた。有意義であった理由として、第一に、この学会は、全国規模の2つの学術団体−オーストラリアの博物館協会に相当するMuseums Australiaと国立公園・博物館・史跡における解釈の問題を扱うInterpretation Australia—が初めて共催した年次総会であり、さまざまな専門家が一堂に会していた。したがって、大学教授から国立公園のガイド、さらには史跡の標識製作を専門とするコンサルティング会社の代表まで、さまざまな人々の見解を聞くことができた。第二の理由としては、学会最終日(18日)の発表者の基調講演後に開催された、自然災害と文化財保護に関する事例報告とパネルディスカッションである。事例報告においては、まだ記憶に新しいクライストチャーチ地震(2011年2月、ニュージーランド)をはじめ、ブラック・サタデー・ブッシュファイア(2009年2月、オーストラリア)、ローリストン・ケルムスコット・ブッシュファイア(2011年2月、オーストラリア)、ハリケーン・アイク(2008年9月、テキサス州)における被害状況と、その後の文化財救済・地域文化復興活動への取り組みがそれぞれ紹介された。
本発表では、特に上記学会の主催団体の一つが専門分野として掲げる「インタープリテーション」について考察したい。この日本ではなじみの薄い学術概念は、今後の文化財救済活動、さらには有形・無形の文化財を利用した地域復興にとって非常に重要な役割を果たすと考えられる。
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【第10回】 |
2月28日
綿田稔(企画情報部広領域室長)
「『御絵鑑』について」
『御絵鑑』は、前半に絵具の調合法などを記し、後半を画譜とする簡単な画法書である。 初刊本と思しきものの上巻のみが萩博物館の田中助一氏旧蔵資料中にあり、これはおそらく もともと繁沢家(雲谷等爾の末裔)ないし雲谷派の子孫の家のいずれかに伝来したものと思 われる点で貴重である。また刊行年次かどうかは定かではないものの文末に元禄13年(1700) の刊記があり、この手の情報としては比較的古い部類に属する点でも注目される。 本発表では同一内容の静嘉堂文庫本および国会図書館本とあわせて当書を紹介する。
津田徹英(同文化財アーカイブズ研究室長)
「佛光寺本『親鸞伝絵』をめぐって」
『親鸞伝絵』は本願寺覚如によって制作がなされたものが基本となる。その一類本として知られる真宗佛光寺派の本山に伝わった「親鸞伝絵」は、ながらく非公開が原則であったため、非常に色あいをよく伝えている。基本的には本願寺覚如の制作した「親鸞伝絵」を踏まえて制作されているが覚如による根本奥書を欠く一方で、詳しくみるとき、本願寺本にみない文章が散見する。
そのなかで最も顕著な点は、越後流罪ののち京都に一たん戻って、伊勢神宮に参拝してから、東国に下向したと伝えることと、鎌倉において幕府主催の一切経の校正作業に従事したなどである。これらは覚如の関与した『親鸞伝絵』には存在しないものである。このうち、後者については事実を反映したものであることを発表者の手により近年明らかにしたが、前者については、ことに本願寺系では承認されていない。しかも、最近になって、改めて詞書の内容を検討して、本願寺系の学者から江戸時代の制作と最近では断じられ、江戸時代の制作というのが宗門の見解である。ところがその絵相は江戸時代まで下るとは到底考えられないのである。私見では14世紀末ごろと考える。そこで、今回の発表では改めて佛光寺本「親鸞伝絵」を眺めなおし、本絵巻のもつ問題点と制作年代に関する展望についてさぐってみたい。
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【講演会】 |
3月5日
メラニー・トレーデ(ハイデルベルク大学教授、ミシガン大学トヨタ客員教授)
「「文化的記憶」としての八幡縁起の絵画化―その古為今用」
2007年、サンフランシスコ・アジア美術館で展示された康応元年(1389)の八幡縁起絵巻が、一部の韓国人および韓国系アメリカ人のコミュニティーを刺激し、物議を醸すというスキャンダルが生じる。それは歴史の妥当性、イメージの真実性、そして展示の政治性について問題を提起するものであった。
方法論上の探究を手始めとして、本講演では、14世紀から19世紀にかけて影響のあった八幡縁起の歴史とその視覚化について検証することにしたい。
「文化的記憶」という概念のレンズを通して、元亨2年(1322)、永享5年(1433)、そして寛文12年(1672)に描かれた三巻の異なる八幡縁起絵巻を視ることで、その物語が見直されるたび生じた宗教的、歴史的、美的な決裂についての綿密な検討が可能となろう。モノの社会的ライフと美的ライフといった人類学のアプローチや、絵巻の物質性に関連する問題が議論されなければならない。1870年代から80年代にかけて八幡縁起は政治的、視覚的な復活をみるが、そのことは主要な論点を明らかにしてくれる。すなわち繰り返されるテキストと絵画の改造こそが「文化的記憶」の構築を支え、内なる他者と外なる他者に向けてのアイデンティティを強化したのである。
プログラム
14:00-16:00 講演会 「文化的記憶」としての八幡縁起の絵画化―その古為今用
16:15-17:30 トレーデ氏を囲んでのディスカッション
コメンテーター
土屋貴裕(東京国立博物館学芸研究部調査研究課絵画・彫刻室研究員)
塩谷純(東京文化財研究所企画情報部文化形成研究室長)
司会
津田徹英(東京文化財研究所企画情報部文化財アーカイブズ研究室長)
逐次通訳
高松麻里(明治大学非常勤講師)
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【第11回】 |
3月27日
岡田健(保存修復科学センター・副センター長)
芹生春菜(東京芸術大学大学美術館・助教)
「敦煌壁画の制作材料と制作技法に関する研究 ―莫高窟第285窟壁画の復原的考察―」
莫高窟第285窟は、敦煌石窟早期窟で唯一、西魏大統4年、5年(538、539)の年号が認められ、その多彩な内容と豊かな色彩によって、莫高窟芸術を代表する貴重な洞窟、という評価を得ている。今回の調査研究は、まず単純に壁画の状態を調べることに主眼を置き、以下の4項目を調査の柱とした。
1.各壁の詳細な劣化状態調査
2.写真撮影による光学的画像データを用いた観察
3.携帯型観察機器を用いた理化学的分析調査
4.環境に関する調査
これらの研究を通して、これまで認識されていなかった有機色料の存在や、巧みな色の塗り重ねによる豊かな色彩表現がかつて存在していたことが明らかになりつつある。ところが、今回の調査を通じて、同一の材料を用いた同一のモチーフの絵画が、洞窟内の位置の違いによって変色、褪色の程度や内容を異にする状況が分かってきた。その要因として、洞窟内の環境の違いが作用しているのではないかという推測が生まれ、環境が壁画にどのような影響を与え、現在の変色、褪色に結びついたか、という視点での研究を行っている。
言うまでもなく、この研究は壁画制作当時、作家や寄進者がどのような表現を求め、それを実現するためにどのような材料や技法の選択が行われたか、という問題に迫ることを目的としている。また、その考察を通して、各壁の造営過程や造営に関わった寄進者の背景など、多岐にわたる研究課題を解決する糸口が見えてくるものと考えている。
本発表では、
•研究の概要(岡田)
•北壁および東壁に描かれた仏菩薩像の造像題記に関する考察(芹生)
について報告を行う。
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