ブックタイトル「鉄構造物の保存と修復」日本語版

ページ
26/120

このページは 「鉄構造物の保存と修復」日本語版 の電子ブックに掲載されている26ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

「鉄構造物の保存と修復」日本語版

り替えされたものである。建設後約80年が経過した1902年にはチェインケーブルを補強する目的で、最上段に鋼ワイヤーケーブルが1本追加された(写真16)。近年の劣化状況としては、2007年に、チェインケーブルとの連結部付近で複数のハンガーケーブルの破断が発見され、橋は通行止めとされた。破断はチェインのリンク部でハンガーを吊り下げる金物近傍で発生しており、破断箇所は、応急的な措置として撤去されたリンク部に、仮の定着金物でロッドを固定する仮ハンガーに取り換えられ、荷重制限付き(車両1台のみ通行可)で交通への供用が再開された(写真17、18、図2)。2008年12月には、イングランド側のアプローチで地滑りが発生し、再び橋は通行止めとされた。結局橋の閉鎖は、1年以上におよび、この間各種の調査が実施された。この結果、創建200年近くになるユニオン吊橋が、今後も自動車荷重の通行を安全に継続するためには、抜本的な対策が必要であることが分かった。本橋の存続には賛否両論あり、2013年には、歴史的な橋梁ではあるが、修復のための財政的な課題も大きく廃橋の提案もあった。しかし、歴史的橋梁の修復への地元の意欲は高く、建設200周年を迎える2020年までに本格的な補修工事を実施する計画も進められている10。補修工事の実施については、2018年4月時点ではまだ資金的な目途がついていないが、予定されている補修計画では、全面的な補修、補強によって将来的な供用継続を保証し、絶滅危惧の文化財のリストからの抹消を目的としている。応急的な措置がされているハンガーケーブルについては、新規の恒久的なハンガーケーブルに取替える。この他の切断していないハンガーについても健全度を確認するが、原則として新規のハンガーケーブルに取替えを実施する。主チェインケーブルのアンカレッジについては、補強工事を実施して吊橋主構造の耐力を高める計画である12。同時に、1902年に最上段に追加されたワイヤーケーブルおよびこれに関係するハンガーケーブルは撤去する計画である。1902年に最上段に追加されたワイヤーケーブルは、チェインケーブルの補強としての効果がかねてより疑問視されていることや、ハンガーロープがオリジナルの部材に損傷を与えていることから、全面補修を機に撤去をする。これについては、過去の保全の歴史を物語るものとして構造機能は無いが歴史価値を有することから存続する判断もありうる13が、ユニオン吊橋では、実用性の観点から撤去をする計画である。チェインケーブルのチェイン、リンク、ピン、ハンガーのキャップも損傷の程度に応じて、取替えを行う。チェインケーブル、ハンガー、その他メタル部分は再塗装を実施する。木製床版については、これまで取替えや補修がされてきているが、床版の支持部材として追加された鋼部材は腐食で断面欠損が進んでいることから新規に取替えるほか、木床板、木横桁も損傷状況に応じて新規材に取替えをする(写真19)。高欄も損傷が進んでおり、部分的に補修、取替えを行う。石造塔については、塔頂部のサドル付近の石積みの補修を行う(写真20)。この他、道路面の歩車境界については、減速を促すために車道幅を狭めるとともに、幅員両側に車いす、歩行者の歩行帯幅を確保する計画である。ユニオン吊橋の事例は、道路橋としての実用の効果を安全に継続することを目指しつつ、同時に歴史的建造物としての価値の継続のための取組を考える上での貴重な参考情報を提供する。2.2錬鉄構造物(1)クリフトン吊橋Clifton Suspension Bridge(写真21)クリフトン吊橋は、イギリス西部の大西洋に面したブリストルの郊外のエイボン川に架かる。現在、ブリストルとロンドンは、1時間半ほどの中距離鉄道路線であるが、大鉄道時代の19世紀前半に当時7フィートの広軌軌道を採用したグレイト・ウェスタン鉄道として建設された。新大陸との交易拠点の港町ブリストルと首都ロンドンを結ぶ産業政策上の重要な路線であった。この鉄道路線とともに、クリフトン吊橋の設計を行ったのが、I.K.ブルネルというビクトリア時代の典型的な英雄的エンジニアであった。現在では、クリフトン吊橋は地方道の橋であるが、自動車交通のある現役の道路吊橋である。全長は211m(702ft.3in.)、橋面から川面までの高さは、72mあり、完成当時は世界最長の橋であった。このクリフトン吊橋は、ブルネルが25歳の時に、設計デザインの競争に参加して優勝した、いわばエンジニアとしてのデビュー作品であった。工事は1836年に着工されたが、資金不足で中断され、完成したのは彼の死後1864年のことであ24第2章イギリスにおける鉄構造物の保存修復からの教訓