狩野勝川院雅信《龍田 (Tatsuta) 図屏風》ジュネーヴ  バウアー・コレクション

塩谷 純

 本稿ではスイス、ジュネーヴにあるバウアー・コレクション中の六曲一隻屏風一点を紹介し、同屏風が 1867 年開催のパリ万国博覧会に徳川幕府が出品した屏風一双の片隻である可能性を提示したい。バウアー本屏風は画面寸法が縦 238.4cm ×横 532.0cm と、通常の本間屏風をはるかに越える巨大なもので、各扇とも継ぎ目のない絹本の大画面には紅葉に彩られた龍田川の光景が極彩色で丹念に描かれている。その筆者だが、画面左下の落款・印章から木挽町狩野家の奥絵師で、狩野芳崖や橋本雅邦といった近代日本画の革新に重要な役割を担う画家を育成したことで知られる狩野勝川院雅信の法印時代の作であることがわかる。ただし同屏風の外装や付属書類は一切なく、屏風自体を除けば同コレクションにはその伝来を知る手がかりは残されていない。

 いっぽう前記の 1867 年開催パリ万博は、徳川幕府が公式に参加した最初で最後の博覧会として知られている。その時の文書を翻刻した『徳川昭武滞欧記録』によれば、幕府が同万博のために調進した絵画は屏風、掛物、画帖、額絵(油彩画)の四種、そのうち屏風は吉野山・龍田川をモティーフとした絹本極彩色、狩野勝川院雅信の手になるものだった。また記録が示す屏風一隻の大きさは表具を含めて 265.1cm × 95.4cm で、バウアー本のそれ( 266.5cm × 95.6cm )に近似し、金襴を用いた縁、桜と唐草文様による飾金具という記述もバウアー本と矛盾しない。調進された屏風は「格別念入微密之彩画」と賞賛されたが、大画面ながら丹精をこらしたバウアー本は、まさしくその言葉に相応しい出来といえるだろう。

 榊原悟氏が著書『美の架け橋―異国に遣わされた屏風たち』( 2002 年)で述べているように、日本では古来より屏風が異国への贈答品として多く用いられ、徳川幕府においても朝鮮通信使の来日、あるいは幕末期の欧米列強との関係強化といった局面で、御用絵師の揮毫した屏風が度々贈呈された。バウアー本と同じく狩野勝川院雅信の筆によるライデン国立民族学博物館所蔵の六曲一双《鷹狩図屏風》も、 1856 年に幕府がオランダ国王ウィレム 3 世へ贈った屏風十双のうちのひとつと考えられている。さらにそれをはるかに凌ぐ大きさで制作された 1867 年パリ万博出品屏風は、万国博覧会という、世界各国の人々の目にふれる一大イヴェントに幕府の威信をかけた作であったにちがいない。バウアー・コレクションの屏風がまさにその屏風の片隻であるとするなら、今後はその来歴を確信させる吉野山を描いた屏風一隻の出現を期待することにしたい。