フランス人エマニュエル・トロンコワと明治中期の洋画壇

クリストフ・マルケ

  フランスにおける日本学の先駆者のひとりエマニュエル・トロンコワ( Emmanuel Tronquois ) ( 1855 ? 1918 )は明治 27 年( 1894 )、日本美術の研究を深めるため初来日し、明治 43 年( 1910 )までに二度にわたり通算 13 年間日本に滞在した。トロンコワは、絵画・絵入り本・画譜などの重要な日本美術コレクションを蒐集したり、 1900 年パリ万博のために岡倉天心が構想し、福地復一などを中心に編纂された『稿本日本帝国美術略史』を仏訳したりしたが、彼の関心は、古美術のみにはとどまらなかった。画伯ラファエル・コラン( Raphael Collin )の紹介によって出会った洋画家の黒田清輝、久米桂一郎 \ 、版画家の合田清等と交友を持ち、日仏美術交流に貢献した日本の文化人・芸術家との交流を盛んに行い、外国人としては珍しく日本の洋画家の活動を積極的に支援した。若い頃画家をめざしていたトロンコワは黒田清輝と特に親しくなり、明治 28 年( 1895 )の第四回内国勧業博覧会における《朝妝》の出品をめぐる「裸体画問題」が生じると黒田の立場を弁護した。また、同年五月に東京美術学校で「欧洲に於ける美術教育の組織及精神」という連続講演を行い、日本の美術行政・美術教育のゆくえについて指導的な意見を述べたりした。そして、明治 28 年( 1895 ) 10 月に明治美術会第7回展の詳細な展評を『佛文雑誌』に発表し、油絵のみならず水彩画や彫刻も高く評価し、印象派の影響を受けた外光派と旧派との画風的な対比を意識しながら、さらに本質的な問題である裸体画の研究、歴史画の重要性を強調した。トロンコワは日本の洋画壇がさまざまな困難に遭いながらも、フランスからの新しい画風の洗礼を受けた 19 世紀末の革新期の様子を紐解く鍵となる重要な人物であるにもかかわらず、その存在は忘却の彼方へと追いやられていた。本稿は、トロンコワと日本の近代洋画壇についての埋もれていた資料を発掘し明治中期における日本とフランスの美術交流史のなかでの彼の業績を正しく位置づけることを試みたものである。