明治時代にはじまる「美術」「美術史学」の生みだした諸制度は、現在でも美術史研究の大枠を決定している。例えば「古美術」と「近代美術」の分離は、それに従った研究者の構成を生み、両者の断絶によって「近代」に流れ込んだ「前近代」の問題は放置されたままとなった。言うまでもなく、研究者のおかれる「現在」の枠組みは、研究対象となる「過去」の再構成の仕方を決定づける。「近代」における「美術史学」の形成過程が明らかになりつつある今、議論は、その中で自己形成をおこなってきた私たち自身の立場、現在の美術史を問直す方向へも向かう必要があろう。
現実に「美術史」をなりわいとする私たちにとって、美術史的思考の枠組みは、意識化されない制度としてどのようにはたらいているのだろうか。また、それを自覚したとき、私たちは、どのように「過去」と向き合い、どのように「語る」ことができるのだろうか。様々に提示される新たな方向性や研究方法は、どのような展望を示しているだろうか。
このセッションでは、「語る者」と「語られるもの」との関係を強く意識しながら、いくつかの具体的な問題を取り上げて、美術史の内包する問題点と可能性について議論したい。
さて、美術史の枠組みの基礎となるのは、まずその対象である。この問題へ鋭く斬り込んだのは、言うまでもなく近年の近代美術史研究で、第一セッションで討議されたように、日本における「美術」と「美術史学」の成立のプロセスに考察を加え、明治期に形成された美術や美術史という制度が、国民国家の形成にあたって最大限に利用されたことを指摘した。やや議論が一面的な点には、初日・二日目の議論でも批判があったが、美術史研究者たちに自分の足元を見直させるという点で大きなインパクトとなったことは間違いない。このシンポジウムの震源地も、五年ほど前、当時は同僚だった佐藤道信氏(東京芸術大学)の「なぜ、うちの研究所が今のようになっているのか?」という問題提起と、それに対する近代美術史研究からの解釈にあった(佐藤道信『「日本美術」誕生―近代日本のことばと戦略』講談社、一九九六年参照)。
当然ではあるが「何が美術であるか」を規定するのは、社会的・歴史的要因で、「もの」自体が美術であることを主張しているわけではない。そのせいもあって、近頃ではカギカッコ付きの「美術」と書くのが流行っている(面倒なので以下カギカッコはつけない)。ふつうに考えれば学の対象にカギカッコがついてしまう、というのはゆゆしき事なのだが、アート自体はとっくに旧来の枠をはみだしてしまっているから、美術史研究がそんな枠から解き放たれたのは遅ればせながら、という感もある。象徴的な出来事を挙げれば、昨年の美術史学会で行われたシンポジウムのテーマは「漫画」だったし、東京都の現代美術館でも「マンガの時代」展がひらかれた。これは「美術」を享受することが極めて特権的だった時代から、映画やテレビなどの多様なメディアを手に入れ、古美術の展覧会にも多くの人々が集まる、という圧倒的な大衆化情況とも対応しているのだろう。
このセッションでは「いま」にポイントを置く立場から、こちらの方面の実践者である山口昌男氏と木下直之氏をお招きした。山口昌男氏は、いまさら紹介するまでもない学の領海侵犯のプロフェッショナル。近著『敗者の精神史』(岩波書店、一九九五年)では、正統なる美術の形成期に、その周縁でうごめいていた人々の姿を描き出している。木下直之氏は、兵庫県立近代美術館で、いくつもの面白い現象を展覧会というメディアを用いて「見せて」きた。『美術という見世物』(平凡社、一九九三年)『ハリボテの町』(朝日新聞社、一九九六年)などの著書がある。お二人とも、前記の近代美術(史)批判など関係なしに、軽々と境界を越えて行く、というタイプである。
発表では、山口氏は、美術史家の眼が見逃してきた人々に焦点を当て、木下氏は、石器などの「もの」が、原始美術として美術史へと取り込まれる様相を明らかにした。美術史の大枠を決定する、作られた「もの」と、それを作る「人」の両面からの問題提起だったと思う。
次に問題となるのはジャンル。これは、私たちの現実に実に大きな影響力をもっている。研究者が、ジャンル別に編成されてきたからだ。そのもとには、欧米から持ち込まれた美術・美術史学によって、基本的には信仰の場で生きてきた仏像や仏画、調度の一部でもあった襖絵、茶の趣味を反映した数寄道具などが一括りに「美術」とされ、「絵画」「彫刻」「工芸」…といった西欧流のジャンルに再配分された、という事情がある。そして、それは近代における美術史の言説の構成にも、大きな影を落としている。シンポジウムの前の玉蟲氏との議論でも、琳派と室町水墨画では、語り口の成り立ちがずいぶん違うことに気づかされた。玉蟲氏の研究対象である琳派は、近代の眼によって発見された部分が大きく、モダニズムの影響が強いのだが、私の専門とする室町水墨画のように、古くから権威づけられ、語り次がれたジャンルでは、極端に新しい語り口は出て来づらい。もともとがたちの違うものを「どちらも絵画じゃないか」と無理矢理くっつけたのだから、当然といえば当然なのだが、それが「琳派をやっている人」と「室町水墨画をやっている人」の現実にはねかえっていることは、あまり気づかれていないのではないだろうか。後でも触れるが、美術史研究者が言葉を共有しているように見えて、実はそうではない、というのはこのあたりにも根っ子がありそうだ。とりあえずは、ジャンル毎の語りをこまめに点検する必要がある。
ジャンル全体のもつイメージについては、タイモン・クリーチ氏に浮世絵の話をお願いした。『大江戸異人往来』(丸善ブックス、一九九五年)や『江戸の人体を開く』(作品社、一九九七年)に見られるように、一見したところではテーマと関係なさそうな史料からも情報を読みとり、それらをつづり合わせてある時代の認識の構造を組み上げる。今回の発表では浮世絵を「江戸時代を代表する芸術」とすることが、江戸時代さらに西欧のコンテクストでも誤解というか一面的であることを指摘した。フランスで、「俺の日本の木版画(浮世絵)を見に来い」というのが、不法なセックスへの誘い文句、というのは確かに象徴的だ。
そして、前記の言説・用語の問題。今回の発表で、それに取り組んで頂いたのは、玉蟲敏子、ジョシュア・モストー、長岡龍作の三氏である。玉蟲氏は、琳派の専門家だが、その範囲をぐっと広げた論考を発表しており、また靜嘉堂文庫では三菱の岩崎家という旧財閥系のコレクションの成り立ちを含めて、これまで注目されなかったテーマを発掘し、野心的な展覧会をいくつも催している。今回は「装飾性」という、常にやり玉に上がりながら、使い続けられている用語の歴史と問題点を明らかにした。ジョシュア・モストー氏は、様々な方法論に通じた理論家。私にとっては、欧米事情の貴重な情報源である。国文学の方から、テクストとヴィジュアル・イメージの関係を追求しており、小倉百人一首の歌と絵についての著作がある。今回は王朝美を語るのに用いられるキーワードとしての「みやび」が、実は戦時中に生まれたもので、天皇制イデオロギーと密接に結びついていたことを明らかにした。長岡龍作氏は、仏教彫刻の専門家。コンテクストをはぎ取られて美術になってしまった仏像を、もとの場へと置き戻す試みを、民俗学などの手法をも取り入れて行っている。今回は、専門とする貞観彫刻についての語りを検討し、「自分の国の彫刻だから私たちのもの」というなれ合いをせずに、むしろ「異文化」として対象化する必要を提言した。
これら、美術史の言説の問題は、発表後の討論でも話題になったが、これについては後で紹介しよう。ただ一言付しておけば、言説の歴史、自分たちにつづく歴史としての研究史が、いかに書かれていないか、ということは実感した。
最後に、ジェンダー論という方法論で、従来の美術史に挑戦している千野香織氏。ジェンダー論で「美術史のすべてがかわる」と明快に展望を語る研究者として、また欧米のニューアートヒストリーを日本の古い美術にも適用する動きの代表としてお招きした。千野氏は、ジェンダー論を単に方法論として紹介するのではなく、これを日本絵画に適用した論攷を発表している。今回の報告でも、旧来の男性性中心の美術史を批判し、南禅寺方丈・鳴滝の間の障屏画へのジェンダー論的解釈を行った。
欧米の概念を導入して成り立ったとは言いながら、無理矢理それに合わせて再編されたことに違和感もあってか、東洋美術史研究に欧米の方法論が直接に適用されたことは少ない。しかし、この頃ではジェンダー論だけでなく、記号論・他者論などを東洋の美術に適用した研究も見られるようになった。ただ、過去数十年の欧米の蓄積が一時に使われだしたという感じで、例えばテクストの内部へ向かう精緻な分析と、オープン・テクスト化が同時進行するなど、やや混乱をきたしているようだ。厳密な意味でのモダニズムを経過することなく、一気にポスト・モダンに突入してしまった、とでも言えばよいのだろうか。
このような傾向には、批判もあるだろう。シンポジウムを覆うディコンストラクションの色彩を含めて、なんだかんだ言っても欧米の風潮に流されているんじゃないか。要するに、日本人が古来慣れ親しんだ「外来文化の影響」あるいは「導入」であり、明治以来連綿と続く「西洋かぶれ」の分脈にあるのではないか。
しかし、それを単純に批判するのも、それに漠然と身をゆだねるのも議論の発展を妨げるだろう。受け売りは論外だが、有効なものは使えばよいし、直接使えないなら仕立て直せばよい。例えば、第二セッションの「内なる他者としての東アジア」も、古来中国由来の文化を内に抱いてきた日本を考えるためには、西欧にとってのオリエンタリズムを単に横滑りさせただけではだめだ、という問題意識に基づいている。千野氏が提唱するジェンダー論にしても、日本絵画史への適用については検証過程の最中というところだろう。いづれにしても、とかく欧米の方法論の紹介にのみ終わりがちな傾向(例えば、ソシュールを起点と見る構造言語学。「考え方」としては大流行したが、これを日本語に適用した研究者は数少ない。)に対して、実際に使ってみることは重要だと思う。むしろ、欧米の美術史の動向にあまりにも無関心だったことの方が問題なのではなかろうか。
さて、発表後の討議は冒頭に触れたような始まり方をした。どうも結論が最初に語られたようなかたちになったのだが、結果として大きな部分を占めたのは、「装飾的」「みやび」などを中心とした美術史の用語や語りの問題だった。頂いた質問のすべては紹介できず、またもっと深化したはずの議論をコーディネートできなかったのは私の不手際、申し訳なく思っている。討議の内容を一つの物語に仕立て上げる力は私にはないが、提言され重要と思われる問題点を整理し、発言の要点を抄録しておこう。テープを聞き直しての要約なので聞き違いもあると思うがお許し願いたい(「レトリックというのは私たちのなりわいであり、言説は私たちを知るリトマス試験紙」(辻)という言説を論じるときの基本的立場については、冒頭で触れたので省略する)。
大きな話題の一つは「美術史が排除し隠蔽してきたもの」だった。従来の言説によって隠されてきたものがあり、それが何故かということを確認しつつ語り出さねばならない、という主張は複数の論者から提出された。
「言説を問題にするときに何が見えなくなっているかをえぐり出す必要がある。桃山の障屏画についてデコラティヴといったことによって、絵のもつ意味や部屋の構成などが覆い隠されてきた。この種の言葉は、使っているうちに自然化して、知らぬ間に共犯者として再生産することになる。だからこそ、自分たちがどこに立って、何を語っているか、という主体性の問題が重要だ。」(大西)をはじめとして、「使用禁止作品、あるいは語られなかった作品」(稲賀繁美・国際日本文化研究センター)、「人種問題−例えば東京国立博物館では、アイヌはその現代に至るまで先史室に入れられてしまっている」(木下)等、美術・美術史のシステムによって隠蔽され、また不当な扱いを受けているもののいくつかが顕在化された。
大西発言にあった主体性に関しては、シンポジウムの内容に対する批判もあった。「単なる用語や言説の歴史の紹介が多い。作品に即して各自の捉え方を提示した上で、近代以降の美術史学者の見方を紹介した方が分かりやすい。」(中村修也・文教女子大学)「今、日本の美術史学をふりかえる」というテーマに、どうしても美術史研究者の内輪の話、という色彩がつきまとっていたのだろうか。
そして、私たちの使う「ことば」は、思考の枠組みと裏腹の関係にある。「日本語の文脈にすんなり入ってこない、宙ぶらりんの言葉を使っていると、いつもそこで議論が止まってしまうおそれがある。個々の作品が、どうして生まれてくるのか、作品の作られたコンテクストを考えるときに、「装飾的」と言った途端に思考停止に陥る。」(玉蟲)「歴史的な言葉を用いて、時代概念を表象させるのは危ない。」(モストー)というのは、もっともな意見。一つのキーワードで、分かった気にさせるのも、その気になるのも危険だ。ただし「これを「放送禁止用語」にするのですか?」という問いに対して、玉蟲氏は「注意深く使っていきたい」と答え、山口氏から「(例えば装飾という)言葉にも、悪しき意図のみ隠されているのではない。過剰に飾る=祝祭空間というようには使える」(山口)という指摘もあった。特定の用語を封印するのではなく、その生き生きとした使い方を考える方がよいだろう。その際には「一九五八年のパリとロンドンの日本美術展で「桃山の障壁画は装飾的」というのをデコラティヴと翻訳したら、西欧の人は、こんなもの自分たちにとってはデコラティヴではないと言う。妙な言葉を使わないように、テルミノロジーを考える必要がある。」(秋山光和・日仏会館副理事長)、翻訳語なはずなのに、元の文脈にもどすと話しが違ってしまうというような、ことばを取り巻く状況は、きちんと把握する必要がある。
さらに用語の問題では「ターミノロジーの問題は深刻だ。西欧でも反省されつつあるが、あちらの場合には美術の制度の自己確認。気がついてみたら日本の場合には用語が他人のものだったわけで、これからは、江戸時代の博物学や国学などの中に(用語を)探していく必要があるかと思う」(鈴木道剛・岡山大学)という意見があった。これに対しては、「気が付いたら借り物だったというのはよく分からないし、すべてが近代に生まれたというのはおかしい。」(木下)という反論があった。
これに関連する根本的な問いかけとして「今回「美術史がいかに・どのように」ということは語られたが、「誰のために、どうしこのようなものが語られ始めなければならかったのか」ということが語られていない。」(丹尾安典・早稲田大学)という批判があった。これに対しては、日本人ではないフェノロサについての「半分はお金をもうけるため」(ステファン・タナカ)という発言は別として、日本あるいは日本人としてのアイデンティティーを求めて−要するに「日本人であるための証明学」というような答えが多かった。
この議論は、第二セッションの後にも話題になった「日本の美術史の始まり」へと戻っていった。「五五〇年くらい前に、日本の美術史が始まったと思う。国学によって、日本とは何かという問題が考えられ、また日本の美術を集め調べることが行われる。いづれにしても日本美術史がいつ始まったかをはっきりしないと、何のためということも分かりようがない」(スクリーチ)という江戸起源論、また「美学という趣味/「美しい」ということを言わねばならなくなった明治の知識人のありようが重要だ」(加藤哲弘・関西学院大学)という意見が出た。ただ、両氏とも議論を一面化しようとしているのでないことは前提で、スクリーチ氏の著書にもそれは滲み出ているし、加藤氏は第一セッションの議論でも「美学」について重要な提言をしている。こちらのセッション報告も併せて読んでいただきたい。
両氏は「日本の美術史がいつ始まったか」という問題を論じるための材料を提供している。ただこの問題は「何が美術史か」という定義にも関わって、水掛け論に陥る危険性をもっている。これについては、第二セッションのセッション報告で井手氏が論じているので詳論は避けるが、私は、歴史という不断の再編過程の中で、何がどう再編されたかをこまめに見てゆく方が有効だと思う。明治維新を体験した人々は、前の時代をも生きていたわけで、彼らの意識がある日を境に突然すべて変わってしまったとは思えない。西欧流の新たな制度を作るに当たって、どんなファクターがどのようにせめぎ合ったのかを観察する必要があるだろう。それは決して、一面化できるような過程ではない、との推測はつく。山口氏の『敗者の精神史』が、ほとんど列伝体に近い記述形式になっているのも、それを反映しているような気がする。「美術史は何時々々に始まった」という言説は、すっきりしていて分かり易くはあるが、こういう一面化された記述形式で「ものごとが分かった」ような幻想を創り出すのも、近代の学の悪しき伝統ではなかろうか。
ついでに言えば、流行のカギカッコの問題も出た。「カギカッコで相対化」(長岡)「ナラティヴと権力との関係をカギカッコで見せる」(モストー)というカギカッコ利用派と、「読みにくいし、嫌い。自覚的な用語は大事だが、むしろ問題を引き出すアプローチの方が重要」(木下)という反対派もいた。私もたくさん使う方だが「いわゆる」(またつけてしまった)という意味合いで使っている。確かに目障りだから、無いにこしたことはないが、素直に使える言葉が減ってしまったことも事実だろう。
さて、討論の中では「紀行文を寄稿しようとしたら、美術全集の編集者に拒否された」(辻成史・第一セッションのセッション報告も参照)、「美術全集に対話編で書いたら、編集者に土足で踏み込んできた、と言われた。」(大西)という、何とも言いようのない現実的な事例も報告された。「まじめな文章じゃない」ということなのだろうが、「論文の歴史なんて百年たらずのことに過ぎない」(大西)。
結局のところ、山口氏の冒頭の発言、「まず内側の敵というものをね、よく認識しておく必要があるのではないか。」というところへ戻りそうだ。漠たる感想を述べれば、様々なことが「日本美術史学」を自立させよう、という過程で起きたような気がする。だいたいにおいて「学問の自立」は排除の傾向をもつ。まずは「学」とそうでないもの、対象になるものとならないものを区別せねばならない。「こんなもの美術じゃない」「こんなもの論文じゃない」。そのような中で、ある種の「もの」や語りが除外されてゆく。美術史学と美術評論は違う。美術史学者と美術評論家・古美術商・鑑定家は違う……。さらに学のジャンルとしても独立せねばならない。主として歴史学との差異を示すため、「美」が強調されて、研究対象は主に美術の内的世界へと向かってゆく。結果として美術史研究は、テキストの内部に閉じ込もりがちになる。あまりに大ざっぱな記述で恐縮だが、そんな流れもあったのではないか。
シンポジウムの中では「こんなシンポジウムをしても、明日からもとの職場に戻って同じ仕事をするんじゃないか」「これで明日から何が変わるんだろう?」という呟きも漏れた。確かに実感ではある。私自身、シンポジウム後の一年を、小役人としても生きている。しかしこの実感は、「学」なるものが日常の現実を越えたところにある、という幻想が依然として存在することの反映だろう。学が抽象的な論理体系として、それ自体として存在し得るというのが、近代の「学」の幻想である。それに対して、ここ数十年の間に明らかにされてきたのは、言説は世の中の仕組みを産み出し、世の中の仕組みは言説を規定する、というインタラクディヴな関係性だ。言説の問題が「制度」と無縁ではないことは、第一セッションでも明らかにされている。だから、言説も制度も、どちらかだけ単独で変わるわけにはゆかないし、一気に変化することも期待できない。まさしく「こんなシンポジウムをしても、明日から職場で同じ仕事をするんじゃないかという話もあったが、そういう仕組みを点検中なのではないか。直ちに「これからどうしよう」という風になるのだろうか。」(木下)「言葉にだけ関心があるのは困る。そこには実際の行為の問題も入ってくる。」(山口)である。このシンポジウムが、近代的な学の祝祭空間であることは間違いない。そんな祭りの後に帰ってくる日常。問題は主体へと立ち戻る(ただし「私は」と強調することで主体性を確保したと思い込むのも幻想だ)。そこでは「意識されない制度」を認識するための「目に見えない努力」も必要だろう。私自身も、ささやかな努力を続けるつもりである。
さらに「用語の問題は深刻だ。用語の選択は研究者の責任である。ジェンダー・人種・民族という問題は、ポスト構造主義とは違う。真実は冗談でしか語れない(山口)という発言があったが、笑いによって隠蔽されるものがあるし、そういうことをできるのは誰か、というのも問題である。ナラティヴと権力の問題を考えなければいけない。」という千野さんの意見があった。ジェンダーの問題については、議論する時間的余裕がなくなった。繰り返しになるが、これは私の不手際による。これについては、稲賀氏の批判に始まり、若桑みどり氏(千葉大学)の反論へと続く論戦が『あいだ』誌を中心にたたかわされた(巻末文献参照)。率直に言って、ジェンダー論のもつ意味についての認識を深めつつ批判する、という方向には行かなかったようだが、こちらも参照して頂きたい。
三日間の議論を聞いての率直な感想は、やはり美術史はある種の拡散状況にある、ということだった。参加して下さった方々の間でも、漠然とは問題意識を共有されているように見えて、実は相互にかなりの違いがあるように見えた。一例を挙げれば、先に見た用語についての議論には、それぞれの発言者の言葉に対する見方−大げさに言えば言語観の違い−が如実に現れていたように思える。何となく議論が噛み合わないのも、そのせいだろう。さらに一歩引いて見れば、ニューアートヒストリーだの国民国家論だのを極めて重大な事件と思っているのは一部の跳ね上がり者、という見方もあるだろう。美術史研究者という「私たち」は、もうすでにいないのかも知れない。しかし、裏返して言えば、それは問題意識と研究方法の多様化が、極めて具体的に現れてきているわけで、これはボジティヴに捉えるべきものだろう。
また、すでにお気づきのこととは思うが、このシンポジウムでは抜け落ちたものも色々ある。発表した美術史研究者は、ほとんどが東アジアの絵画・彫刻の専門家で、工芸や建築、そして日本における西洋美術史研究は含まれていない(東アジアの問題については第二セッションのセッション報告参照)。だから「今、日本の美術史学全体をふりかえる」ことにはなっていない。以前、書の研究者から「日本美術史学会というのは、美術史学会じゃなくて、日本絵画彫刻史学会だよ。」という批判を受けたことがある。今回のシンポジウムにも、そんな状況が反映していることには反省を含めて自覚的でありたい。
もう一つ、美術史の歴史を自分たちの現在へと連続させるには、「戦後」という大きな空白が残されている。今回の発表の中でも、第二・第三セッションの中で、それに触れるものはあった。例えば、モストー氏は、戦中に天皇との関係でイデオロギッシュに用いられた「みやび」という言葉が、戦後にいったん姿を消し、あるインターバルを措いて再登場する様を描き出した。そこには、想定される一つの端的な構図、あの忌まわしい戦前・戦中戦争の記憶にとりあえず蓋をして、そこで使われていた概念を無徴化して復活させる、という流れが垣間見えた。しかし、戦後の問題については、まだ語られていない問題の方が多い。私のような戦後生まれの者にとっては、それは極めて大きな問題だ。もう一度、同じようなシンポジウムを企画するときには、そのあたりがテーマになるのだろう。
最後に美術史研究の今後について。「美術」の枠が崩壊しつつあり、美術史が対象を広げつつあるのは基本的に好ましいことだ。ただ、この現象は恐らくプロフェッショナリズムの問題と関わってくる。人生には限りがあるから、古文書も物語も漢文も読めて、能にも歌舞伎にも通じ、絵にも造詣が深く、ついでに西洋事情にも明るい、などということは不可能だ。それを目指せば、どうしても個々のものに対する「こだわり」は薄まってくる。そして、美術の枠がはずれかたらといって、美術史が突然「見えるものすべて」を相手にできるはずはない。まずは、その周縁にあるものを取り込んでゆく、というのが自然な流れだろう。「美術」の枠を取り払った後に残る最も広い範囲は、論理的には「見えるものすべて」を対象とするヴィジュアル・イメージ学のようなものだろう。それは視覚心理学などとも隣接する。しかし、美術史研究の根本には「見ることによる感動」がある。「高尚な感動」と「低俗な感動」を峻別し、前者を「真の美」と呼ぶような美術史は終った。ポスト・モダンの教訓は「私が素晴らしい」と思うことには「私を取り巻くすべて」が関わっている、ということであり、それとは裏腹に「素晴らしさ」を一般化することなどはできない、ということだ。しかしなお、特定の造型を前にして多くの人が感動(言葉は何でも良いが)するという現象は否定のしようがない。それは「もの」と人との関係の問題である。美術史が相手にして来たのは、そんな人間臭いヴィジュアル・イメージなのであり、それと向い合うことを続けたいと思う。
さて、私たちは何にこだわってゆくのだろう。「美術」?「史」?「美」?「美術館」?……。それらが、拡散したままになるのか、再度まとまってくるのかは知りようもないが、石塚氏の「シビアーな問題だけれども明るく語りましょう」という言葉を思い出し、少なくともポジティヴに語り合える場は維持してゆきたいと思う。