この書物は、1997年12月、東京国立文化財研究所が主催して開催された「今、日本の美術史学をふりかえる」と題する国際シンポジウムの報告書としてまとめたものである。
このシンポジウムは、過去十年ほどの間に、近代美術史の分野が先導するかたちで行ってきた日本における美術史学の成立に関する真摯な議論にその端緒を求められる。そこでは、明治20年前後に誕生した日本の美術史学が、近代国家として認知されようとする明治以来の国情を背景に、その成立当初から美術をめぐる制度やさまざまな機構の整備と密接な関係を維持し、日本の文化的ナショナル・アイデンティティやナショナル・ヒストリーを形成する上で、大きな一翼を担ってきたことが明らかにされてきた。
そもそも美術という言葉自体が、翻訳語であり新たに移入された概念であったように、美術史学で日常的に使われる用語や分類・思考の枠組み自体は、明治以来、西洋近代の翻案と過去の再構築をめざすなかで、新たにつくられたものである。そして何よりも、美術史上の言説のなかで、それらが意識化されない制度として今も大きな影響力を働かせていることは、美術史にたずさわる研究者が広く認識すべき重要な課題であるといってよい。
このような問題意識に立って、近代美術史ばかりでなく、さまざまな時代と地域の美術史研究の現場から、さらに日本史・思想史・美学・文化人類学・文学などの他領域にわたる内外の研究者も交えて、多角的な視点から日本における美術史学の歩みをあぶりだしてみよう、というのがこの国際シンポジウムの主旨である。
シンポジウムは、「近代と美術/近代と美術史」、「内なる他者としての東アジア」、「語る現在、語られる過去」という三つのセッションに分かれ、各セッションが独立性を保ちながら相互に補完しあうなかで三日間のシンポジウムの全体像を構成するかたちをとった。第1セッションでは、明治以降における「美術」と「美術史学」の制度化ならびにその役割の検証、第2セッションでは、美術史学の側からみた近代以降の日本と東アジアとの関わり、第3セッションでは、「古美術」の今日的な語りの可能性が、議論の中心に置かれている。このような構成がとられたのは、多様な広がりをもつと同時に相互に関連する問題に筋道を立て、順次、各セッションが議論を橋渡しすることで、三日間にわたるシンポジウム全体の論点を浮き上がらせてみたいという目論見があったからである。
今回、報告書を刊行するにあたり、各セッションごとに章立てをはかり、各章の冒頭にセッションの主旨を掲載している。各セッションにおける討論の内容は、シンポジウムの報告書という本書の性格上、そのまま記録して全体を報告すべきかもしれない。しかしながら、討論の内容が多岐にわたるほか、時間的な制約のなかで行われた当日の討論が必ずしも予想された検討すべき課題を網羅しているわけでもない。そこで各セッションの担当者が、発表の概要と討論の内容を踏まえた上で、今後に残された課題を抽出し、三つの各セッション報告としてまとめることにした。「今、日本の美術史学をふりかえる」と題したシンポジウムの報告書を、『語る現在、語られる過去―日本の美術史学100年』という書名のもとで刊行することにした経緯は、あとがきに触れられているので、あわせてお読みいただきたい。
なお、この場をかりて、活発な議論を展開してくださった発表者・司会者・参加者の皆様、会場をご提供いただいた東京国立近代美術館、日英語同時通訳の方々、第2セッションの討論で韓国語通訳としてお手伝いいただいた鄭于澤氏、当日配布した冊子に掲載したシンポジウムの主・発表要旨の英訳を引き受けてくださったタイモン・スクリーチ氏とマーサ・マクリントク女史、シンポジウムの準備と当日の裏方として奔走していただいた中村節子さん(情報資料部資料室)をはじめ学生諸兄姉に対し、心より御礼申しあげたい。