第21回文化財の保存に関する国際研究集会
今、日本の美術史学をふりかえる
発表要旨
1997年12月3日−5日
於:東京国立近代美術館
| 近代と美術/近代と美術史 趣旨と報告 |
| 高木博志 |
日本近代の文化財保護行政と美術史の成立 |
| 北澤憲昭 |
日本美術史の枠組について |
| 加藤哲弘 |
近代日本における美学と美術史学 |
| 馬渕明子 |
1900年パリ万国博覧会とHistore de l'art du Japonをめぐって |
| ステファン・タナカ |
見いだされたもの:日本と西洋の過去としての日本美術史 |
| 金子一夫 |
近代日本美術教育の出発と風景画 |
| 山梨絵美子 |
日本近代洋画におけるオリエンタリズム |
日本近代の文化財保護行政と美術史の成立
高木博志(北海道大学)
戦前日本の文化財保護法は三つだされた。国家がつくった規範である、「歴史ノ証徴、又ハ美術ノ模範」となる文化財を所有する社寺を、一本釣りした1897年の古社寺保存法。遺蹟・景観をもはじめて保護した1919年史蹟名勝天然紀念物保法。個人が所有する文化財へも保護の網の目がおよんだ1928年国宝保存法、である。(もっとも文化財という言葉自体は日中戦争後に使われだし、1950年に交付された文化財保護法で定着する)。
明治20年代に九鬼隆一は、ヨーロッパの教会の宝物を聖職者が勝手に売却できない理由として、文化財とは、私的なものではなく国家の財産であり、公共性があるからとする。同様に、日本の寺院の文化財にも公共性があり、僧侶が私的に売ることはできないし、帝国博物館に「寄託」する義務があると論じる。立憲制の形成期において、美術あるいは文化財は、私的なものから公的なものへと国家によってその性格が変えられる。そして、昭和期の国宝保存法にいたって、公共性の網の目が個人のコレクターにまでおよぶこととなる。
また文化財の公共性を視覚化するものとして、帝国博物館(1900年には帝室博物館)が成立するが、日本の博物館の性格は歴史博物館ではなく、あくまで美術博物館であった。このことは、古社寺保存法が、宗教行政ではなく、美術行政としておこなわれた、初発の文化財保護行政の性格と不可分であろう。
本報告では、1897年の古社寺保存法にいたる、明治20年代において、はじめて体系的になされる九鬼隆一、岡倉天心らによる文化財保護行政、とくに帝国博物館や臨時全国宝物調査局の活動があくまで美術行政に主眼が置かれていたことを指摘し、さらに日本美術史の成立との連関を考えたい。
江戸期から明治10年代までの画師画人伝はたとえば松平定信の『集古十種』にみられるごとく、肖像・扁額といったジャンルごとの作品の羅列であった。それに対して、今日につながる、明確な時代区分と、アジアをはじめとする国際的な視角を有し、政治あるいは社会的時代背景を叙述し、おのおのの「時代の精神」を問う、美術史の成立は、岡倉天心が1890年から東京美術学校で講義した「日本美術史」をまたねばならない。
こうした「日本美術史」が成立する前提として、岡倉天心も委員として加わった、臨時全国宝物調査局の活動があった。同局で1888年5 月から1897年10月までにだされた鑑査表は215091点にのぼっており、帝国博物館に残された。この宝物調査において、奈良県でいえば、国だけでなく郡・県の協力のもとに、網羅的に社寺が調査され、作者・年代・ジャンル・等級などが画定されていった。こうした基礎データの上に、岡倉天心の「日本美術史」と、それに続いて、はじめて活字として現われたパリ万国博覧会向けの『稿本日本帝国美術略史』(1901年)が編纂される。さらに報告では、東京国立博物館所蔵の書類をもとに、臨時全国宝物調査局における、国家が定める美の規範=等級の確定作業において、どういった点が議論となったかについても言及したい。
(参考、高木博志『近代天皇制の文化史的研究─天皇就任儀礼・年中行事・文化財─』1997年、校倉書房)
日本美術史の枠組について
北澤憲昭(跡見学園女子大学)
歴史は一定の枠組に従って探究され、記述される。具体的には、ジャンルや国家が枠組とされるか、あるいは、これらの枠組の組み合わせによって記述される場合が多い。また、そこに時代区分の限定が加えられる場合も少なくない。
「日本美術史」というのは一国史とジャンル史の組み合わせによって構成される枠組だが、ここで歴史を限定する「日本」と「美術」という概念は互いに包摂しあう関係にある。すなわち、各国史は、それぞれ諸ジャンルの歴史を含むし、ジャンル史は各国史を越え、それらを含み込む広がりをもつ。日本美術史というのは、日本の歴史から美術というジャンルだけを切り取り、また、美術史から日本という地域だけを取り上げることで叙述されるわけだが、これは特殊性と普遍性の関係として捉えることもできる。明治初期に西洋語から翻訳された「美術」は、造型の特殊性を越えて鑑賞的価値の普遍性を保証するシステムとして機能してきたのであり、一方、「日本」は、インターナショナルな関係性において自らの文化の特殊性を示す語として用いられてきたのっであった。
要するに、「日本美術」史の叙述というのは、ナショナルな特殊性を、普遍的なシステムを介してインターナショナルな関係性のなかに改めて位置づけようとする−−−いってみれば「万国公法」的発想による「日本」の表象化の企てなのだ。あるいは、これを「国際通貨制度」的発想といってもよいだろう。
日本美術史の枠組を構成する「日本」や「美術」は、政治的地理的領域と文化上のジャンルとを限定する枠組として、しばしば歴史の彼方に措定されるが、しかし、以上のように「美術」は近代化ともに受容=形成のプロセスを歩んだ概念であり、「日本」も、「万国公法」的ないし「国際通貨制度」的発想から「美術」と結びつけられるかぎり決して鎖国体制下の日本ではありえない。それ当然ながら国際性を前提とする近代国家としての「日本」であらねばならない。ということは、つまり、日本美術史が依拠する枠組は、政治と文化にかんする近代の分類体系に基づくものだということにほかならない。
また、日本美術史の実態は、「美術」そのものの歴史ではなく、絵画史、彫刻史、工芸史といったジャンル史の合成にすぎないが、これらのジャンルも、「美術」に統合されてあるかぎり、近代の分類体系に属するというべきだろう。
「日本美術」という概念の構成要素である「日本」は、「美術」ともに近代史の所産であり、日本美術史の起源は、したがって、原始や古代ではなく、近代にあるということができる。「日本美術」という眼鏡を通して造型の歴史を眺めるようになった時点こそ、その起源なのである。
これまで日本美術史は、こうした自らの起源を省みることなく、近代化の過程で設定された枠のなかで、ひたすら実証的研究にいそしんできた趣がある。しかし、近代的な分類体系の根底的な見直しが必至となりつつある現在、ひとり美術史のみが超然としていられようはずもない。すでに始まっている分類闘争は、必ずや美術史をも巻き込まずにはいないだろう。
近代日本における美学と美術史学
加藤哲弘(関西学園大学)
日本の大学では、美術史の研究者や学生が文学部の哲学科や美学科に所属するというケースは、それほど珍しいことではない。その理由は、学科としての美術史学が成立するまでの歴史的経過を追跡してみれば、すぐに理解することができる。
記録によれば、東京大学で、日本ではじめての「審美学」の講義が行われたのは、1881年(明治14年)のことだとされている。この講義名は、1889年(明治22年)に「審美学美術史」となり、さらにその2年後の1891年(明治24年)には、「美学美術史」と改称された。その後、1893年(明治26年)に「世界で最初の」美学講座が文学部に設置されたのちも、美術史関係の講義の多くがここで開講され、1914年(大正3年)に美学第2講座として美術史学講座が創設される基礎となったのである。
じつは、美学のなかから美術史学が誕生するというのは日本にかぎったことではない。美学や美術史学の母国と考えられているドイツ語圏の諸国でも、大学の学科に関するかぎり、同じような事実を確認することができる。
ドイツの場合、講座として独立するのは、美学よりも美術史学のほうが早かった。しかし、1860年に最初の美術史学の講座がボンの大学に開設されるまで、芸術作品への学問的関心を長いあいだ多くの大学で引き受けていたのは、哲学部の教授たちである。彼らは、当時の国家が求めていた人文主義的教養の中心となる古典語学の教育や研究との関連から、おもに古代の芸術を講義の対象にした。そして、そのなかには、美術史学よりもはるかに早く正教授職を手にしていた美学の教授たちも多かったのである。
では、日本とドイツのちがいはどこにあるのか。それは、一言でいえば、ドイツの大学における美術史学講座の成立が、「あれかこれか」の選択の結果だったという点にある。ドイツの場合、講座としての美術史学科の成立は、いわば哲学部内のさまざまな競合勢力、とくに美学に対する激しい分離独立運動の成果だった。じっさい、美学の正教授職を廃するかたちで勝ち取られた美術史学の講座も少なくない。
これに対して、日本の大学では、美学との平和的な共存関係が、その後も続いていく。もちろん、重要なのは、美学美術史学という学科の名称を共有するかどうかということではない。どのようなかたちであれ、美術史学は、美術という対象を扱う以上、それに対する研究姿勢、つまり、なんらかの美学を含むことは避けられない。問題は、日本の美術史学が、フェノロサをはじめとする先駆者たちが導入した観念論的な美学との関係をどこまで断ち切っていくことができたかどうかである。「美術」の存在を自明で普遍的なものとみなすこの美学は、古美術や泰西名画を芸術として愛好し、それらに関する知識を教養として身につけた人材の養成をめざしていた大学や国の政策に支えられて、日本の美術史学の特徴を決定してきたといえるのではなかろうか。
1900年パリ万国博覧会と Histoire de l'Art du Japon をめぐって
馬渕明子(日本女子大学)
Histoire de l'Art du Japon (Paris,1900) は日本が国際社会に初めて自国の美術を紹介した書物である。それまでに作品を出品したケースは1867年のパリ万国博覧会以来幾度もあったが、このように体系的にまた、多くの紙数を費やして、文字によって紹介したのは、初めてのことであった。
これは帝国博物館が日本政府(農商務省)の命(実際には1900年パリ万国博覧会日本側事務局からの委嘱という形になっている)を受けて編纂・出版したものだが、実際には万国博の話が持ち上がる以前の1891年頃から準備が始まっていた。
周知のように、「美術史」という学問は、開国以前の日本には存在していなかった。存在していたのは、辛うじて画人伝の類のみである。しかし幾たびかの万国博覧会への参加、あるいは西欧での日本美術の人気、ジャポニスムの流行などを経験するにつれて、「日本美術史」というものの必要性を痛感するようになった政府=美術行政当局は、1900年というパリ万博の年に刊行することを決定し、編集・執筆を急がせたのである。
この準備の時点ですでに刊行されていた、全般的な日本美術史に関する書物は、2点であった。いずれも外国語によるものだが、ひとつは Louis Gonse
L'Art Japonais 2vols,Paris 1883、もうひとつは William Anderson The Pictorial Arts
of Japan, London 1886 である。これらは日本人が資料収集、情報提供に参加したとはいえ、あきらかに西欧人の眼によって見られ、彼らの美術史の概念に従って書かれていた。また、これらは前者が『日本美術協会報告』という雑誌に明治26(1893)年3月号より、27年4月号にわたって抜粋の翻訳が掲載され、後者もまた末松兼澄訳・補による『日本美術全書』という形で抜粋の翻訳が明治29(1896)年に刊行された。すなわち、これら二書は完全な訳ではないにしても邦訳もあり、日本が自国の美術書を出版するに当たって、肯定的にせよ否定的にせよ何らかの参考になったはずである。
発表者は、これらの二書がどのように Histoire de l'Art du Japon の編集に影響を与えたのか、外国人によって書かれたそれらへの反発と賛同(とくにゴンスの書は、アーネスト・フェノロサによって厳しく書評された)、もしくはそこに記された概念や評価の導入を検討し、日本が自らの「美術史」を構築した時点での、「編集姿勢」を明らかにしたい。
Histoire de l'Art du Japon は刊行の翌年、『稿本日本帝国美術略史』として、日本語版が出版された。この内容の分析と出版経過に関しては、高水博志氏がすでに論文を発表済みである。氏の見解によれば、この書物の編集責任者であった九鬼隆一の方針は、当初の編纂主任岡倉天心の継承であり、彼の美術観が随所に見られる。岡倉はフェノロサから日本美術の見方とその重要性を学んだことはよく知られており、このような書物の刊行はフェノロサの意をも汲んだものと言えるかもしれない。
一方、1900年のパリ万国博覧会にも、日本の美術史をある程度概観できるような日本古美術展が開かれた。パリでは事務官長の林忠正が指揮を取り、展示の構成などに、西欧諸国と並んでも恥ずかしくないような内容を盛り込み、Histoire にも「読者へのあいさつ」として、序文を書いている。林忠正は浮世絵を中心とした日本美術商として、1878年のパリ万博以来活動してきた人物で、先のゴンスの書物にも多くの情報を寄せているし、日本では明治美術会に参加して、油彩画の発展に貢献してきた、いわば欧化主義の立場にあった。1890年代には、実際には岡倉や九鬼らの日本画擁護派とは対立関係にあるが、国を挙げての行事では、協力関係にならざるを得なかった。このHistoire
の林の序文は、『稿本』から外され、林の名前は跡形もなく消えている。林のような民間の商人をも利用し、日本の国威の発揚に貢献した1900年万博という国家的大事業が、日本美術と日本国家を世界にどのように位置づける役割を果たしたのかも、再検討したい。
見いだされたもの:日本と西洋の過去としての日本美術史
ステファン・タナカ(カリフォルニア大学サンディエゴ校)
この発表では、近代の国民国家のもつ基本的な命題のひとつにせまってみたい。つまり、近代の資本主義社会の特色は、社会と経済の双方の領域での絶え間ない変化と変容にあるのだが、その一方で、そもそも国民国家には不変で信頼できるものが求められる、という点である。日本美術史はなによりも、この不変のものを示すという役割を果たしてきた。それは、過去の造形物のなかに固有の精神とイデアを見出し、過去を「永遠なるもの」に結び付けてきたのだ。
そこで問題になるのは、日本の場合、それはいったい誰の過去なのか、ということだ。日本美術史は(対概念としての「東洋」を抱えたままの)西洋の諸概念そのものと、国民の期待する日本の理想とをふたつながらに不変のものとしているのではないか、と思う。しかしここには美術史そのものがもつ困難な問題がある。美術史は過去のさまざまな感性のあり方を具体化してみせるのだが、同時にそれ自体で自己完結し、美術をそれぞれがもつ生成過程から切り離してしまう。いいかえれば、美術史が評価するのは、社会とともに変化する美術史よりも、美術史が生まれたその時点で確立された、いわば空想上の理想の方なのだ。西洋と日本、双方の過去としての側面を日本美術史が担わされてきたとするなら、美術史のもつ問題がまさに日本のなかで折り重なっているといえる。
近代日本美術教育の出発と風景画
金子一夫(茨城大学)
近代日本の美術教育は、西洋の美術教育制度を参考にして出発する。当然ながら、西洋の美術教育が盲目的に導入されたのではなく、意識的・無意識的に日本独特の選択変形が行われた。明治期の近代化・西洋化は、江戸末からのナショナリズムを基礎にしている。美術や美術教育も例外ではない。従来の研究では明治期美術及び美術教育におけるナショナリズムは十分に検討されていなかったと言える。
工部美術学校の目的の最後には、西洋の優秀な美術学校と同等の地位まで到達させたいという壮大な気概が述べられていた(…漸ヲ逐フテ吾邦美術ノ短所ヲ補ヒ真写ノ風ヲ講究シテ欧州ノ優等ナル美術学校ト同等ノ地位ニ達シセシメントス)。そこで学んだ小山正太郎は国家有用の画家を理想とした。その国家有用の内実は、1.西洋を圧倒して国威を発揚する、2.精神高邁で人々の模範となる、3.実業等で実際的役割を果たす、という順序になると思われる。ナショナリズムを国家主義、国民主義とした場合、明治中期からのいわゆる日本美術再興運動よりも明治前期の西洋画運動の方がナショナリズムに該当する。
具体的な日本的選択・変形の例として、本発表では美術教育における風景画優先を取り上げる。工部美術学校の画学教師となるフォンタネージと明治政府の契約書には、教育内容として「景色・油画形象并絵ノ具混合・遠近画術・画薬調合等ノ術」とある。そこに風景(景色)はあるが、西洋美術アカデミーの基本であった人体の項目がない。それに西洋美術を導入するのに、浪漫的風景画家を教師として招いたこと自体がおかしい。やはりそこには日本的選択があったと見るべきであろう。浪漫的風景画家を教師として迎えた工部美術学校生徒達にとっても幸運であった。生徒達のほとんどは、山水画を価値ある画題とする士族階級の子弟であったからである。
また、普通教育の美術教育(図画教育)は西洋の図画教育制度を参考にした。ただ西洋各国政府が推進していたのは、装飾図案を中心とする図画教育であった。ところが日本が図画教科書の図として導入したのは、西洋の民間(特に英国)で普及していた素人画家や婦女子相手の手本の図であった。それは幾何形から始まるものの器物、植物、動物、人物、そして風景で終わる描写的絵画であった。
日本近代洋画におけるオリエンタリズム
山梨絵美子(東京国立文化財研究所)
幕末以降、「脱亜入欧」が社会のスローガンとなった日本では、東洋に対して近世までとは異なったまなざしが生まれたと考えられる。この発表では明治期から昭和初期まで日本の官立の展覧会に出品された油彩画を中心に、そこに描かれた東洋、日本に関わるモティーフに着目し、その増減と内容の変遷について考察を試みたい。
概ねの傾向として以下のことが指摘できるであろう。
明治10年代後半から同20年代に中国などに関するモティーフを避け、「日本」の故事や風景、風俗を描くことが多くなっている。明治23年の第3回内国勧業博覧会出品作「羽衣天女」「和気清麿奏神教図」「鷺沼平九郎」「清少納言詣初瀬図」「武者試鵠」などがその例としてあげられる。
明治26年、黒田清輝が仏国から帰国し、外光派の風景表現を紹介したことにより、名所絵から脱却した新たな日本の風景美の表現が多数試みられた。既に指摘されているように、それは志賀重昴の『日本風景論』の刊行と機を一にしている。
明治32年、読売新聞で「東洋歴史画題」の募集が行われるが、「建速須佐之男命が所命給へる国を知らさずして御■(女へんに比)の国根之堅洲国に罷らんと欲ほして哭き給ふ状」「鬼神の徳−西行法師 伊勢大神宮参拝の図」といった日本の神話が一二等を占め、仏教関係の画題、中国の故事などよりも日本に限定した主題が重視されている傾向がうかがえる。
しかし、明治30年代後半にかかると、日本画の分野で中国に関わる主題が復活しはじめ、文展に出品された絵画の主題にも次第に中国、朝鮮、台湾、満州などにかかわる主題が増加していく傾向を認めることができる。それは、日本がそれらの地域に軍事的な力を及ぼして行った時期と重なる。朝鮮美術展、台湾美術展、満州美術展などが日本の強力な指導のもとに行われ、日本の官展作家たちがその審査に出かけている時期でもある。本発表では、こうした主題の選択と時代背景、およびそれらの絵画作品のどのように受容されたかに注目し、従来とは異なる作品解釈を試みたい。また、従来の近代美術史学に見られる作家の言葉を作品解釈に直結させる傾向についても再考したい。
世界観の再編と歴史観の再編
佐藤道信(東京芸術大学)
日本の美術史研究での「東洋美術史」と「日本美術史」は、「日本東洋美術史」としてほぼ一体的な領域としてある。しかし一般教育の歴史科目では、東洋史は日本史ではなく世界史に編入されている。日本にとっての「東洋」とは、内なのか外なのか、あるいは"内なる他者"か、"外なる自己"なのか。
日本での「日本美術史」「東洋美術史」「西洋美術史」(歴史認識としての)は、いずれも近代に形成された。ここでその大前提となったのが、「西洋」「日本」「東洋」という、新たな地理的・文明論的世界観の成立だった。その枠の上に各歴史観が構築されたわけだから、近代日本における新たな歴史観と世界観の再編は、表裏一体の関係にあったといえる。同時にそのために、歴史観も世界観の再編を促した国際的な政治力学から無縁ではありえなかった。
「和」「漢」「洋」という東アジア中心の世界観から、「西洋」「日本」「東洋」というよりグローバルな世界観へ。近世から近代へのこの再編過程で、日本の対外観の中心は、中国から西欧へと転換された。つまり日本での「東洋美術史」は、その中心たるべき中国が、西欧列強の進出によって逆に東アジアの中心としての求心力を失った時期に、構築されたのだった。その結果、日本での「東洋美術史」は、次のような特徴を持つにいたる。
まず第1に、その「東洋美術史」構築の理念的支柱となったのが、「日本美術史」と同様、国家主義と天皇制を背景にした皇国史観だったことである。対象は東アジアの歴史だから、本来皇国史観とは関係ないはずなのだが、日本の場合、日清・日露両戦の勝利によって"東洋の盟主"となった日本が、国威発揚の一環として「東洋美術史」を構築したのだった。実際の過去の交流からしても関係の深い「日本美術史」と「東洋美術史」が、一体的な領域として形成されたのには、ともに皇国史観を軸にしたことが強く作用している。
第2に、歴史体系構築の具体的作業である古美術保護(鑑定、指定)や美術全集の図版掲載でも、中国美術は日本美術と同様に、積極的に扱われていることである。本来"内なる他者"であるはずの中国美術も"自己化"されていくのであり、のちに大東亜共栄を唱える時期の東洋美術史研究では、むしろ"外なる自己"を創り出そうとしているようにも見える。
第3に、観古美術会出品から指定、図版掲載にいたるまで、その対象となった中国美術品は、すべて国内所在作品だったことである。過去にすでにいったん日本の趣味のフィルターを通った国内作品で「東洋美術史」が構築されたわけだから、当然それは中国での自国美術史とはかなり異なるものになっている。ちょうど、ジャポニスムにおける日本美術(史)観と同じような現象が、ここで生じていると考えられる。
第4に、日本での「東洋美術史」の中で、朝鮮美術はあいまいな位置づけに置かれていることが多いことである。そこには意図的な"内なる自己"化、あるいは秘められた"内なる他者"の意識がうかがえるように見える。
こうした近代日本でできた「西洋」「日本」「東洋」という枠組が、意識としても研究体制としても、基本的にほぼそのまま現在に持ちこされている。現在の「歴史」観の再検討は、各歴史観の実態や関係性、さらに世界観を含めた枠組そのものを問い直そうとしているのだと考えられるが、こうした問題意識自体は、こんどは冷戦構造崩壊後の世界再編という、まさに現在の世界状況に根ざしていると思われる。とくに皇国史観が排された第2次世界大戦後の対「東洋」観は、黙視のままに凍結されてきた感が強いが、今それも重要な転機を迎えているように見える。
龍門石窟への足跡−岡倉天心と大村西崖−
岡田健(東京国立文化財研究所)
仏教美術が遠くインドに発して東へ伝わり、それがやがて日本へももたらされた。いわば河の流れの河口に位置する日本人にとって、その源流を遡り日本仏教美術の成り立ちを考察したいと思うのはごく自然のことである。しかし、日本美術の成り立ちという視点で中国や朝鮮半島の個別の地域、個別の作品を取り上げたとき、同じ視点をもたない中国や韓国の研究者との間に議論の架け橋は存在しない。
中国仏教彫刻への視点は、明治時代前半の、まだ中国の仏像を日本の誰もが見たこともなかった時点から、すでに日本の仏教彫刻を生んだ母体であり、日本の仏教彫刻はそれと「ほとんど同じ」とも自覚されていた。しかし、具体的な作例が全く知られていない当時にあって、これを美術史として記述する手がかりは実際にはなかった。岡倉天心が帝国博物館の日本美術史編集計画の一環として明治26年(1893)に中国へ出張し、日本の美術史家として初めて洛陽・龍門石窟を訪れたのは、以後の「日本人による」中国彫刻研究の象徴的なスタート・ポイントとなった。
彼のすでに十数年におよぶ関西を中心とした古社寺宝物調査の成果や、東京美術学校において講じた日本美術史の体系的骨組みが彼にとっての最大の判断基準となり、天心は驚くほどの的確さで龍門の仏像を把握した。薬師寺金堂薬師三尊像、法隆寺金堂釈迦三尊像、それらが基準作として機能していたのである。同時に天心は、それらを生んだ中国彫刻を発見していた。
だが、天心の思いは再び日本彫刻へ戻る。中国の仏像を知った上でなお喜ばしいのは、日本の美術の秀麗なるところである、と天心は言う。天心は中国の仏像を日本彫刻史というフィルターを通してながめ、そしてまた、日本の仏像を思い出すのである。ここに、中国人の視点の入り込む余地はない。日本人としての中国仏教彫刻に対する視点がある。ただ天心のこうした中国彫刻に対する意識は、その後彼自身によって繰り返し述べられたわけではない。彼のことばや考えが直接に人々の記憶に残ったとは言いがたい。
げんに中国の仏像があるから日本の仏像もあるのだ。日本人が、自分の知っている日本の仏像を出発点として中国の仏像を知りたいと思うのは自然なことである。日本人としての中国仏教彫刻への視点は、天心が始めたからではなく、こんにちにおいても自然にわれわれの中に生まれてくる。
いっぽう、大村西崖が大正4年(1915)に出した『支那美術史雕塑篇』は、中国の北方・南方を視野に入れ、仏教のみならず日本美術とは直接関係をもたない道教や古代の銅器・玉器にいたるまで、写真や拓本そして金石文字を集大成し、古文献の資料を駆使して中国雕塑芸術の概要を論述した。天心による中国訪問から20年。この本では天心以後に中国を現地調査した伊東忠太、関野貞など建築学・仏教学・美術史学の専門家による成果が取り入れられ、龍門石窟についても概況説明と様式論が展開されている。この本は徹底的に中国雕塑を題材とし、日本からの視点や日本への視点が意識されていない。
もちろん西崖自身にも京都・奈良における古美術調査の経験があり、本書の中でも日本の飛鳥様式に言及する箇所はある。西崖の中国仏教美術研究への動機にも日本からの視点があったことは否定できないが、彼はここではその視点を離れ、できる限り客観的視点から中国雕塑史を語ろうとしたのだった。
ところが、この本には当初から「大きな編纂物にすぎず」という評価があった。西崖の意図は、中国雕塑のありとあらゆる要素を採りながらそれらを一体として捉えようとするものであった。そのような大きな論が成されているにもかかわらず、評価されなかったのである。
本発表では、天心と西崖それぞれの龍門石窟へのアプローチの仕方を通してこんにちにいたる日本の中国仏教彫刻史研究のあり方を考える。そして現実の発表者自身の日本人としての視点を認めた上で、日本彫刻をも中国彫刻をも大きく包み込んで総体を理解する、その大きな視点を獲得するための作品に即した研究こそが、いま敢えて求められるべきであると指摘する。
近代日本のなかの中国画研究
宮崎法子(実践女子大学)
従来、追慕し続けた中国文化に対する日本人の眼差しは、明治維新を境に大きく様変わりした。「西洋」を前提とした「東洋」という言葉が新たに用いられ、それまで培われてきた中国を中心とした世界観は、西洋中心の世界観に取って代わられた。日本を西洋に対峠させようとするとき、かつての中心であった中国はどこへ、収まりどころを与えられたのだろうか。
西洋的学問としての美術研究は、日本の近代化の一環として始められた。その先駆者、フェノロサ、岡倉天心、大村西崖たちは「東洋美術」を西洋的視点で語り、その美を「再発見」し、絶賛した。この流れに沿った「近代的」な「東洋美術」研究は、東大や東京美術学校を中心に進められた。
この時代にはまた、中国との人や文物の盛んな交流によって、それまでとは大きく異なる事態が起こった。日本人が中国へ出かけていってそれまで、目にすることのでなかった美術品を実見することが可能になり、やがて、清朝末の混乱のなか、数多くの中国文物等に書画(文人画)の優品(偽物をとりまぜつつ)、市場を求めて日本に流入したのである。中国美術は、日本が西洋の眼差しによって、再発見し、中国に代わり保存し研究する対象となった。
そのような中で、絵画に関して言えば、長く中国絵画の中心であり、中国文化を象徴する文人画は、西洋的な方法で簡単に歯が立つ相手ではなかった。フェノロサ達は、文人画をあまりに文学に寄りかかりすぎているとして評価せず、無視した。しかし、中国の作品が大量に流入した結果大正期には、文人画ブームが起こる。その中心を担っていくのは、かつて文人画批判を行った大村西崖や、京都大学の内藤湖南らであった。
京都では、清朝の亡命学者の周辺で、中国学がきわめて盛んであったが、それは新たに伝わった清朝考証学に基づき、本国で滅びようとしている中国文化伝統のよりよい(西洋の方法論も知った上での)発展的な後継者たらんとするものであった。そのような学風のなか、伝統的な文人学者の守備範囲であった中国書画(特に文人画)も注目され語られた。内藤湖南、青木正児の仕事がその代表としてあげられる。
この文人画のブームは、かつてのフェノロサ・天心の主張とは大きく隔たるもののように見えるが、その深層には、中国文化の「再発見者」として、あるいは失わつつある伝統の正しき継承者として、日本を現実の中国より優位に位置付けるという、近代日本の中国観が共通して認められる。
以上のような、近代日本ではじめて実現した中国正統の文人画作品の流入は、いささか時宜を逸した僥幸でもあった。それらの絵画(書画)は日本人がそれまで知っていた中国画とはかなり違った、なじみの薄い、手強い中国文化そのものであり、日本はそれを十全に理解する受け皿を持ち合わせてはいなかった。また、かつてのように時代の先頭を走る画家がそれを取り入れようとすることはなかった。それの作品をすでに日本にあった中国画のように、なめらかに従来の日本文化に内在化させることも、難しかった。結局、文人画はその後の美術史学の対象にはなりきれず、学問に付随する中国旧来の文人趣味の域を多く出るものにはならなかった。
よって、新たにもたらされた作品も、かなりの数が日本を素通りして欧米や台湾に落ち着くことになった。日本に残った作品と日本に残らなかった作品には、総体として日本人の旧来からの好みが反映されたものといえる。見慣れないものは排除され、見慣れたものが好まれた。やがて中国との交流は再び閉ざされ、日本に古くから伝わる作品とそれらの新しい作品を主な対象として、「近代的」な様式論にもとづいた日本の中国絵画研究が行われることになる。
日本の中国絵画の収蔵が長い歴史をもち、しかも中国本土とはねじれた関係にあったため、日本の中国絵画研究は、欧米とも中国とも異なったものになった。本土には伝わらず日本に伝わった作品に基づいて、作品の取捨が行われ、新たなコレクションが出来上がり、再びそれらを通じて、様式論に基づく「近代的な」研究が行われてきた。
発表では、このような流れに沿いながら、我々が学んできたような美術史の枠組みが、いつ頃誰によってどのように作られたかについて、少し詳しく探ってみたい。
雪舟に対する認識をめぐって
山下裕二(明治学院大学)
今の多くの日本人にとって、雪舟はどう認識されているのか。室町水墨の研究者にとってとか美術史学会において、ではなく、まず、このレベルから話をはじめたい。この姿勢は、「今、日本の美術史学をふりかえる」というテーマにとって有功なはずだ。
雪舟の名前はかなり有名である。少なくとも、十六世紀以前の画家としてもっとも知られていることは疑いない。江戸時代の浮世絵師や明治以後の大家に比べて、どの程度その名前が一般に浸透しているのか、ここで確かなデータは示せないが、「歴史上の人物」「偉人」としての認識はかなりのものだろう。そして、多くのは場合、この認識は「涙でねずみを描いた人」という逸話とセットになっている。水戸黄門や一休さんと大差はない。
幸か不幸か、雪舟はテレビ・ドラマの題材にはなっていないから、水戸光國や一休宗純ほど、ゆがめられ、脚色されたイメージが浸透してはいない。だが、その名前に対するロジカルな認識と、描かれた絵に対するヴィジュアルな認識の極端なギャップは、もっと意識されるべきだ。専門家になればなるほどこのギャップには鈍感になるから、自戒をこめて、ここで再認識したい。宗達の風神雷神図や光琳の燕子花図、歌麿の美人画や者樂の役者絵、近代の画家の「代表作」が、少なくとも複製図版を通じて、多くの人に対してかすかな「実感」を増幅しているのに対して、雪舟の名前ではなく、絵そのもの(の必要?)イメージの浸透度は、きわめて貧弱だと思う。美術全集にともに1ページ大で掲載される慧可断臂図と秋冬山水図の大きさの違いを実感している人がどれほどいるのか。山水長巻の水面の藍の質感や、十六メートルという長さを確かめた人がどれほどいるのか。黄色くなるか青くなるかがおちのカラー写真というメディアを通じた嘘臭いリアリティーは、相当頼りないが、妙に幅をきかせている。
では、なせこんな現状ができあがったのか。このシンポジウムの発表者、聴衆の多くは、近代の「美術史学」がつくりあげてきた幻想の矛盾を指摘することを期待するかもしれないが、雪舟の場合、この最近流行している言説はそんなにきれいにはあてはまらない。天橋立図一点に関しては、確かに「近代の眼」が選びとった「代表作」という指摘はあたっている。「中国に留学した水墨画家」というイメージが、「パリに留学した洋画家」のイメージと重ねられてきたことは確かだろう。だが、明治以後の「美術史学」は、少なくとも雪舟の絵そのものに対する評価を過大に増幅してはこなかったと思う。桃山時代に雪舟の画系に連なることを喧伝した長谷川等伯の事跡や、江戸時代の換金性のある大名道具としての雪舟の偽物の流通、画伝類の雪舟に対する「特別扱い」をみれば、近代以前に、雪舟に対するあらゆる意味での「過大評価」の構造は確立していたように思う。その構造をすっかり明らかにすることは容易ではないが、少なくとも、近代の「美術史学」が、それまで特権階級のきわめて限られた、しかしある意味では誠実な「実感」に立脚して形成されてきた認識をより「一般化」するために、クロノロジカルな「美術史」の中に雪舟の絵を取めようとしたことは確かだろう。この作業はいろいろなひずみを生んできた。「我が国が誇る画聖雪舟」、「東アジア絵画史の正統に連なる雪舟」という、一見相対立するかの見える語り口は、実は、いずれも自国と東アジア全体との関係を相対化できていないステレオ・タイプの言説ではないか。五百年後に勝手に「ふりかえる」ような賛辞はかなり気ままに絵を描いた雪舟にとっては迷惑だと思う。
私は、このような経緯と現状を憂いており、五百年前の雪舟の気持ちと直接交感できる、というような妄想を抱いているから、いくばくかの是正に向けた提言をしたい。たとえば、雪舟の絵のうちで、国宝は五点。すべて山水画である。もっと大きくて、もっと雪舟らしくて、もっと多くの人をあっと言わせる絵が、いくつかある。「国宝展」といううたい文句につられてたまたま雪舟の絵に出会う人の多くは、「涙でねずみの絵を描いた人」だと思っているから、この「客観的評価」など信じてはいないが、この価値体系が微妙な鑑識の問題にまで影を落としていることは否めない。それを再点検することから、雪舟を見直す作業を始めたい。
「境界」美術のアイデンティティー―請来仏画研究の立場から―
井手誠之輔(東京国立文化財研究所)
今日、東アジア世界を視野にいれて、中国・朝鮮半島・日本における近代以前の美術の動向を検証しようとする研究の必要性が問われている。一般に「東アジア美術史」という名で語られるこの研究動向は、近代における国民国家の成立とともに体系化されてきた自国美術史の枠組みを、近代以前の東アジア文化圏で共有されていた造形の関係性のなかから相対化し、歴史の実情にそくした美術史を再構築する意味で、ひとつの大きな指針となっており、少なからざる成果がうまれている。
日本における「東アジア美術史」のなかでとりわけ絵画史は、主として「書かれた歴史」を中心とする中国絵画史のメインストリームと日本絵画のそれとの対峙を基本的な構図としながら、その相互関係を比較・検証するなかで、さまざまな有効な言説をうみだしている。しかしながら、そこでは、「日本美術史の自律的展開」という言説を虚構として再考を促す一方、中国絵画史の「書かれた歴史」に収斂しない作品群が、正当な理解の外側へと置かれてしまう嫌いがないわけではない。
日本には、中世以来、唐本あるいは宋本として大陸から請来され、中国画人の名のもとで鑑賞されてきた多くの着色仏画が現存している。その大半は、中国の浙江省・寧波の画家が制作したことを銘記する狭義の寧波仏画や数多くの高麗仏画がしめているが、そのほかに狭義の寧波仏画の範疇に属さない中国の仏画や、中国なのか朝鮮半島なのか、あるいは日本の可能性をもふくめ、その国籍について議論のわかれる作品もすくなくない。作品によっては、時として中国絵画史のメインストリームの一隅に位置づけられ、あるいはその位置を奪われて別の国籍が付会されることもある。また国籍を再発見された高麗仏画のなかには、近年における研究の進展にともない、中国や日本で制作された可能性が高い作品があることも認識されつつある。請来仏画の一群は、中国絵画史の「書かれた歴史」と日本美術のメインストリームという日中双方の狭間における概念上の「境界」美術として、きわめて不安定な位置をしめているようにみえる。
もともと、個々の作品のアイデンティティーを問いかけることは、作品の国籍を問うことと同義ではない。個々の作品のアイデンティティーを形成する特定の時代・地域における社会的・文化的文脈が等閑視され、それぞれの造形の質に中国・朝鮮半島・日本という三国の国籍が貼りつけられ固定化されてしまうとき、「東アジア美術史」の語りは、当初の目論見とは逆に、それぞれの自国美術史の体系を安易に補強する言説をうみだす危険も内包している。また、特定の時代における日本や朝鮮半島という枠組みにたいして、容易に収斂しないマクロな広がりをもつ中国という枠組みが、いつも比較の枠組みとして有効に機能するか否かについて、十分な議論がなされているわけでもない。
この発表では、このような問題意識にたって、いわば「境界」に位置づけられた請来仏画を研究する立場から、逆に「東アジア絵画史」の有効な語り口を探るための構図を考えてみたい。
韓国美術史研究の観点と東アジア
洪善杓(韓国美術研究所)
近代的な学問体系の方法に依拠した自国美術史に対する研究と叙述は、国民国家の成立とともに台頭した国家主義イデオロギーの影響をうけながら育成された。しかし、近代の国民国家への自主的転換が、諸与件の欠如とともに日本の強占によって挫折を余儀なくされた韓国における自国美術史は、関野貞をはじめとした官学派と柳宗悦などの民芸派によって研究がはじめられ、植民主義イデオロギーを拡張させる役割を果たした。
官学派は、植民統治の合理化と正当化を目的として政策的に誘導された植民史観によって、韓国美術史を他律性と停滞性の観点からみたのである。関野貞は『朝鮮美術史』などで、韓国美術が中国の植民地文化である楽浪美術から発生し、仏教美術の発達によって統一新羅時代に最盛期に至ったが、高麗時代以後は、事大主義と儒教主義の影響をうけて退行し衰微したと述べている。
民芸派は、学問よりも愛好趣味の次元で、美術史よりも美学的側面から、韓国美術の特質を探求した。当時にあって、退落の時代と否定されていた朝鮮朝の工芸品のような下手物に心酔した柳宗悦は、『朝鮮とその芸術』などで、その美術の特質を“悲哀の美”や“無作為の美”などと礼讃し、韓国美の典型と規定したが、それが被抑圧状態の民族に宿命的・順応的な心象を固定させるのに大きな影響をおよぼしたものと思われる。
このように日本の官学派と民芸派によって助長された韓国美術史と韓国美術に対する否定的・退嬰的観点は、江戸時代以来の国学派によって形成されていた朝鮮観とヨーロッパで東洋に対する知的・文化的支配の談論として展開された西欧中心の神秘的な異国趣味であり、さらに帝国主義イデオロギーであるオリエンタリズムの再生産、すなわち「日本的オリエンタリズム」の反映でもあったと思われる。とくに西洋という主体が東洋を対象化させ、化石化した古代の一時期を肯定し、それ以後は退行と停滞であると考えるなど、西欧讃美と東洋とのオリエンタリズム的認識構造(西洋/東洋=近代・文明・優越/前近代・未開・劣等)は、大陸進出の帝国主義的な膨張主義の談論である“日本的オリエンタリズム”の本質を構成しながら、韓国美術史研究の基本観点になったように思われる。
このような観点にしたがって、韓国美術史研究は、植民地の朝鮮学と朝鮮趣味の一部として官学派の考古歴史学者と民芸派の工芸家たちによってはじめられ、そこでは仏像や石塔・寺院などの仏教美術品と陶磁器をはじめとする工芸品が主な対象とされた。また、朝鮮朝を通じてめざましく発達をみせた絵画に関する研究は、植民史観から朝鮮朝の主導文化自体が否定されたために排除されてしまい、その結果、韓国美術史の展開を発展的に認識することは困難となってしまった。さらに、被支配下で愛国啓蒙運動と民族文化運動を主導した韓国の国学派たちも、植民地へと転落した亡国の原因が朝鮮朝にあったと認識していたので、古代史の光栄と古代美術の優秀性・固有性を通して、国粋主義史観による民族魂の再生を追求し強調することにとどまっていた。したがって、朝鮮朝の絵画史研究は、関心をひくことなくさらに不振におちいり、このような傾向は解放以後の1960年代までつづいた。
韓国美術史研究が植民地時代の観点から脱皮しはじめたのは、歴史学界の植民主義史観の批判とその克服の方案として台頭した内在的発展論を受容し、朝鮮朝絵画史に対する研究が本格化した1970年代からである。この頃より韓国美術史研究は、他律性と停滞性論のような植民主義史観を克服するため、全時期における韓国的な樣式的特徴の把握とともに、朝鮮朝後期の真景山水画や風俗画などについて、それが自主的で近代的な側面をもつ点を大きくとりあげたり、さらには変化の要因を思想史的な脈絡などの内在的契機を通して究明しようとする観点が主流をなした。とりわけ、この傾向は、絵画史研究によって主導されていた。しかし、民族主義と近代主義イデオロギーに基盤をおくこのような内在的発展論の観点は、植民地時代の史観を克服するのには有効であったが、韓国美術史の実態を客観的に把握するには、すくなくない問題点を内包していたのでないかと思われる。すなわち、内在的発展論もまた、近代国家主義と西欧の近代主義イデオロギーを基礎としながら、韓国美術史の独自性を強調し、同時に発展過程を西欧の発展段階にあわせて認識しているからである。
このように韓国美術史における研究の観点は、これまでナショナリズムとオリエンタリズム、モダニズムのような、属性上からみると主観的貫徹性がつよい近代イデオロギーの支配による歪曲と偏見のなかにあって、その実態に対する客観的かつ明確な認識が欠如してきたのである。このような近代イデオロギーの観点を克服し、韓国美術史研究が科学的学問として成熟をふかめ、事実と符合するより正しい韓国美術史像を定立するためには、まず近代以前の韓国美術史の世界体制であった東アジア的視覚の回復が緊要であると思われる。
東アジア的視覚というのは、中国中心の中華主義と日本中心の大東亜主義のような覇権主義的イデオロギー、または各国の影響関係を確認する伝播論的観点ではなく、相互関連をむすびながら共同してつくりあげられた東アジア文明圈の美術伝統を理解することの可能な一般理論をあらたに樹立し、その普遍的発展法則を摸索する方向のなかで、再認識されねばならない。このような東アジア的視覚の回復は、西欧美術史の普遍性と自国中心の特殊性の強調によって存在してきたこの地域の各国美術史の実態に関する客観的理解と東アジア美術の普遍史構築のためばかりでなく、世界美術史の均衡のとれた認識のためにも、きわめて重要な課業なのである。
中国を見せる
スタンリー・ケンジ・アベ(デューク大学)
私は最近アメリカ合衆国で開かれ、アメリカにおける"other"(他者)としてのチャイナの概念をそれぞれに示した三つの展覧会について述べようと思う。一つめは、ニューヨーク・アメリカ博物館の「アジアの人々」ホールにおける「中国の人々」の常設展示。もう一つは1996年にニューヨークで開催された"Splendors
of Imperial China"(中国帝国の輝き)展。そして三つめは現代中国美術の展示、徐冰(Xu, Bing)による"Tian Shu"(天書)である。一つめの展示は、中国の血族関係について人類学的にながめるもの。二つめは大規模な国際的な美術作品による展覧会。三つめは一人の中国人アーティストによるインスタレーションであった。それぞれの展示は、それぞれに異なるチャイナをアメリカの観衆に見せている。チャイナという"other"(他者)はそれぞれの展示ではどのようにして観衆に理解されるように説明されているのだろうか。同時に、これらの展示は"other"(他者)が形づくられる過程について何を私たちに語ってくれるだろうか。ひとつの"other"(他者)としての違いは、大多数の側のアイデンティティーをどのように強めるだろうか。"other"(他者)の展示の目的は何であろうか。
近代日本における画家のアイデンティティ
山口昌男(札幌大学)
モチーフの点から言っても表現の媒体から言っても絵画の概念は益々、散しつつある。抽象画の成立によってタブローという一点を除いては絵画という可視的なかたちによる表現は崩れさってしまった。具象的な絵画概念が崩れた後に残るものは美術はともかくとして絵画概念の解体であると言える。こうした焦点の移行に伴い、芸術・美術の領域全体の再検討が必要になって来ている。北澤憲昭氏の明治における美術という用語の再検討の提唱、木下直之氏の美術と美術でないものの境界の撤廃の試みは、美術史研究のみならず、近代日本の精神史研究に大きな影響を及ぼしつつある。
限定的な美術の定義の崩壊に伴って、美術の専門家の定義も大いに変わりつつある。そこでこの報告では、明治以来固定された美術家の周辺にどのようなセルフ・イメージ(自己についての)が成立していたのかという点について、いくつかの例を挙げる。そうすることによって美術と言われているものと社会の再定義を試みてみよう。
1)画家と写真家−横山松三郎とか下岡蓮杖といった写真術を開拓した人物たちは同時に双方のジャンルに出入り自由の状態に身を置いていた。その上で淡島椿岳のように見世物師、僧をも兼ねる趣味人たちとゆるい連合を形成していた。
2)初期のジャーナリズムとのかかわり−錦絵は初期の絵入り新聞を賑わしていたが、小林清親や久保田米僊は、ポンチ絵や時事的な挿絵によって社会的現実を加工してイメージに仕立て上げた。1)の場合と同じようにこれらの人々は、同時代のピラミッド的な社会圏の外で生きる方法を見出した。小林清親の場合は原胤昭の十字屋とのつながりから自由民権の運動と奇妙な関係にあった。久保田米僊ははじめは京都にあって京都版「圓珍新聞」である「我楽多珍報」の連中と滑稽を主旨とするグループを形成した。その関係から初期(明治三十年代)の三越の知的グループにも息子の米斎ともども加わった。更に「仲間二連」好みの性格により、インディペンデントな根岸党(幸田露伴など)にも加わった。
3)小山正太郎の影響下にあった政治漫画の描き手たち−小杉未醒を中心とする雑誌寄稿家たちはスポーツを通して同時代に加わっていった。特に未醒はポプラ倶楽部という田端を拠点とする同好会を作り倉田白羊、山本鼎、藤井浩祐と共に押川春浪を中心とする天狗倶楽部と交流し、博文館、興文社、アルスなどの出版文化と多面的にかかわり合い、同時代(明治から大正にかけて)に刺激を与えた。(cf.「方寸」)
4)未来派の残党−渋谷於寒・田河水泡などの「マヴォ」の残党達は「グロテスク誌」を出していた梅原北明と組んで震災後の都市文化にエロ・グロ・ナンセンスと呼ばれたいたずらを主な手段とする挑発を行って活性化した。
5)1930年代の新帰朝者たち−フォーヴの洗礼を受けて帰って来た宮田重雄をはじめとする画家達は吉本興業の雑誌「ヨシモト」の表紙にサーカス及び道化を描くことによって庶民文化へのつながりを確認しようとした。
6)以上の他に限定された絵画の伝統から出る試みとして挿絵という重要な問題があるがこれは酒井忠康・橋秀文「描かれたものがたり−美術と文学の共演」(岩波書店)において論じられているので敢えて触れない。
日本美術における「みやび」
ジョシュア・S・モストウ(ブリティッシュ・コロンビア大学)
近年、「みやび」という用語が、日本美術史の言説の中で使われるようになってきている。そこでは「みやび」という用語が、「王朝の美」、「王朝美」、さらには「王朝貴族の美意識」などという関連用語と一緒に用いられている。しかし、美学的な概念として「みやび」という用語を使うことそれ自体は、1940年代に、国文学の領域で新しく始まった現象なのである。その上、この概念をつかい始めたことと、戦争中の天皇崇拝とは、強く関わり合っていた。
ここでは、遠藤嘉基、岡崎義恵、池田勉、渡部実、秋山虔、などの国文学研究者諸氏の著作の中で「みやび」という概念がどのように展開してきたか、簡単にたどってみることとしたい。そしてその後、平安時代の現存する美術作品が概念化される時、また、それらが提示される時、「みやび」という概念がどのように作用してきたか、検討してみることとする。「みやび」を強調すると、つぎのような二つの結果が引き起こされる。つまり、一方では、日本の中で、平安時代という時代を一括りにまとめて女性化してしまうことになり、また他方では、天皇制を中心とする、一種の文化的ナショナリズムを強化してしまうことになるのである。平安時代の女性化は、さらに、現代の日本で、文化や教育が幅広く商品化されていることにも関わっている。そのような商品化が当て込んでいるのは、女性の消費者だからである。そしてまた、天皇を中心とする美術史は、さまざまな点で、明治時代以来の帝国主義的な美術史を受け継ぐものだということができる。
「日本美術の装飾性」という言説
玉蟲敏子(静嘉堂文庫美術館)
日本美術は装飾的である、あるいはその特質は装飾性にある、という語り方はあまりに常套的に行われていて、あたかも自明の事柄のように受け止められている。確かに「装飾」という言葉は、中国文において古くより用いられていることが諸橋「大漢和辞典」「中文大辞典」「漢語大辞典」などにみる『後漢書』『玉篇』等、古文献の用例より知られるが、江戸時代までの邦文における用例はそれほど多くない。造型物に適用された例としては、1『玉洲画趣』(寛政二年・1790、桑山玉洲著)、2『長崎画人伝』(天保元年・1830以前、渡辺秀實著)、3『厳島宝物図会』(天保13年・1842、岡田清著)程度であり、各々壁画・屏風・掛幅(1)、刀剣の刀剣の外装(2)、経巻の装■(3)に関する語彙である。
これに対して、幕末から西欧語のDecoration等の翻訳語として「装飾」の語が登場し、明治時代におけるスペンサー・ヴェロン・ハルトマン等、西欧の美学あるいは美術批評の活発な受容のもとに、「装飾」の語の多用かが始まり、また特定の日本美術や作家の作風についても「装飾」が用いられるようになる。その傾向を促した人物として、岡倉天心・大村西崖ら美術史学の先覚者の名が挙げられるが、大きな背景としては、19世紀後半の西欧における装飾芸術(decorative
art)の流行と彼らが日本美術を純粋美術に対する応用美術として理解し、その特性を装飾的( decorative)としたことが誘因となっている。ルイ・ゴンスら西欧の美術批評家によって、1880年代に装飾的とされた作家は尾形光琳に代表されるが、その見解が翻訳され日本語の文脈の中にさまざまに適用されていくに従い、1900年代初頭の大著、『東洋美術大観』において、藤原時代の仏画・経巻、豊臣時代の金碧障壁画、そして徳川時代の光琳は(琳派)の作風に、「装飾」「装飾美」「装飾画」の語が頻出するに至り、ここに以後の適用範囲がほぼで揃った。
大正時代は、「装飾」の語義の拡大が図られ、<桃山絵画は「装飾的に帰る」ことによって大和絵の復興を果たした><我国芸術の最も本色なる精髄と認められる特殊の装飾的芸術>(ともに1915、福井利吉郎)、<日本の装飾は繊細優美にして軽快な自然主義を取る>(1918、中井宗太郎)という肯定的な見解が語られる一方で、「写実」の対立概念とする考えも現れるようになり(1919、瀧精一・1927、福井利吉郎)、昭和前半の1930ー40年代には、日本美術の「装飾性」そのものを否定する議論も登場し(1943、瀧精一)、肯定的な立場の論者もまた「装飾精」に「象徴性」「感傷性」といった主観的、心情的な語を付加して、その語意に「精神的」な深みを補完しようとした(1943、矢代幸雄)。
日本美術を「装飾的」と評することで、その造型における色彩や金銀の多用はもちろんのこと、平面性・非相称性、あるいはジャンルの包括性といった近代以前には指摘すらなされなかった特性が明るみに出たのは事実であるが、西欧における装飾芸術の低い位置付けはまた日本の美術家をして、自己の肯定と否定の複雑な相克を招いた。西欧風に言えば、自然主義と装飾主義、中国風に言えば真と美が矛盾することなく共存している日本美術に対して、このように明治中期以来の「装飾的」の評語を今後とも適用していくことは、結局はその重要な側面を見落とし続けていくことになるであろう。それは、例えば、「かざる」という言葉が「かざす」という言葉と同じ語源グループに属しながら、漢語の「飾」「餝」「錺」「荘」等の訓読に当てはめられることによって、その根源的な意味(生命力を身につける)を次第に失っていった過程にも似て、すでに冒してきた自己疎外の歴史を、さらに無自覚に敷衍していくことに他ならないからである。
浮世絵の善と悪
タイモン・スクリーチ(ロンドン大学)
浮世絵は、日本美術のもっとも優れた表現のひとつとして、賞賛されている。西洋においてそれは、一般に、日本美術を代表するものとしてみなされており、また、日本においてさえも、浮世絵を、「土着の美」を複雑に形成すると見なされるもののひとつとしてあつかう傾向が増えつつある。浮世絵が印象派の画家によって好まれたことは、しばしば語られるが、いくつかの意味で、浮世絵は、日本における、印象主義と同等なものとして形作られている。これらの二つの動きはともに、大衆、遊廓、あるいはいかがわしいテーマに専心し、また鮮やかな明るい色を用いることによって、意図的に、古典芸術の規範を否定するという志向をもっている。この二つの動きの重要性(議論はまだ続いているが)は、障害となるアカデミズムを壊すことで、民衆の芸術的精神が解放されたとされる点にある。
浮世絵に対するこのような解釈は、たいへんひろく広まっているので、一般にはあたかも事実のように受け取られている。しかしながら私は、それは誤り、いやむしろ非歴史的であると主張したい。私は、浮世絵が、それ自身の時代に、どのような意味をもったのかということを知ることが(印象主義については、私の能力外の問題であるため、取り扱わないことにする)、それ自体のコンテクストを剥奪し、ナショナリズムの道具に変貌させることよりも、より重要であると気付いた。我々が、本来の意味でのアカデミックな客観性を浮世絵研究にもたらさなければならないのは、まさに、浮世絵(そして印象主義)によって作り出された表現に対する思考方法が、今日もなお強固に残っているためである。
私は、浮世絵を、オリジナルな社会的背景の中に置き直したいたいと思う。それによって、我々は、浮世絵を理想的なものであると考えることはできないことを知るだろう。実際、その時代の多くの思索家は、浮世絵に対して強い不快感をいだいていた。浮世絵は、純粋に「日本的」な、あるいは攻撃的ではない、何者かに変貌させられてきたが、それ自身の時代にあっては、うさんくさく、危険なものとさえ思われていた。公許を得たものではあったが、社会に対して何の役割のモデルを提供しないと考えられていた、遊廓の文化を吹き込まれたものが、浮世絵であった。
私は、浮世絵に対して批判的な幾人かの人々の評言を紹介することによって、我々の近代的な読みを訂正したいと思う。そうすることで、浮世絵の真の政治的な影響が前面に出てきて、それはより重要な、あるいはより重要ではないものとして立ち現われるだろう。18世紀に、浮世絵をはじめて見たものたちにとっては、それは善であると同時に悪でもあったのである。
「仏像の語り方」の境界
長岡龍作(東京国立文化財研究所)
明治20年代半ばから蓄積され始める「日本美術史」に関わる言説の中で、とりわけ「仏像」は、たえず多くの言葉を投げかけられた対象であった。それは仏像が、いくつかの文脈で称揚され、「日本美術史」の主要な部分として位置づけられていた古代美術を象徴していたためである。その文脈とは、ヘレニズム東漸説に代表されるような、ヨーロッパ古代と連続性をもった普遍的な美を有している、あるいは、律令制という古代日本の国家システムの完成と呼応する理想的な美をあらわしている、あるいはまた、当代の技術家が範とすべき優秀な技術を残している、というような語り方にあった。そして、このような初期の言説にあらわれた傾向やその歴史的背景、あるいは、後の和辻哲郎の周知の例のような、明治末年以降の作家・知識人によって語られた仏像への憧憬については、近年特に関心がもたれ、分析が加えられている。
しかしながら、これらの文脈に沿うものとして認識されていたのは天平彫刻を頂点とする奈良の彫刻であり、現存遺例の大多数を占めるそれ以外の仏像についてではない。平安や鎌倉時代の彫刻が対象の中心となった今日の研究動向とは、やはり隔世の感があるといえよう。初期の言説がその後の語りの大きな枠組みを作り上げ、それが今日までも一般に流通していることは確かだが、彫刻史研究の現場から「仏像の語り方」を問題とする場合には、奈良の仏像をめぐるこれらの語りの外側へも配慮する必要が生まれてくる。
本発表では、その例として、「貞観彫刻」あるいは「弘仁彫刻」としてくくられてきた平安初期彫刻をとりあげることにする。このカテゴリーはしばしば天平彫刻と対比的に語られていることに加え、今日的立場から見た場合、この中には制度化された「美術」の外側を例示するのに好個な作例が含まれることがその理由である。
まず、代表的な言説を辿り、この範疇の仏像に対する語りの枠組みの成立を見る。初期の言説の中では、これらの仏像は唐風を伝えるとされながらも具体的作品の例示は乏しいが(岡倉天心「日本美術史」〈明治24年度東京美術学校講義緑〉、『日本帝国美術略史稿』
明治34年、『真美大観』 明治32年〜明治41年)、明治末年に至り、かなり詳しい記述が加えられるようになり、例示される作品も飛躍的に増える(『特別保護建造物及國寶帳』
明治42年)。そこでは、晩唐あるいは印度との関係が強調され、木彫の技法が檀像彫刻との関係で語られている。例えば神護寺薬師如来像については、「肥満」「剛荘雄健」とする様式と、「躍舞」する「運刀」という彫法に対しての評価がなされている。このように見ると、ここには、この範疇の仏像に対するその後の評価軸の基本的なものは出揃っている感がある。また、先に天平彫刻に見た三つの文脈のうち、「普遍性」、「技術の優秀性」は、ややかたちを変えながらもここにも共通して現われている。残る「理想性」における差が、この後、天平彫刻と貞観彫刻の違いとして強調されてゆくといえよう。
言説を辿りながら確認できる、平安初期彫刻の語りの枠組みに対して、その外側というものを構想した場合に、何を考えられるかというのが本発表の最も関心ある課題である。そこには、第一に、その中で語られなかったものは何かという点と、第二に、語られたものを観点を変えて語るとどうなるかという点が含まれる。第一については「仏像」がおかれる「場」の問題を、第二については仏像の「素材」の問題を、「美術」の外側の問題として考えてみたい。
日本の美術史言説におけるジェンダー研究の重要性
千野香織(学習院大学)
今回の私の話は、現在の日本の美術史研究の状況が息苦しいと感じている人々へ向けての、ひとつのメッセージです。私たちが関わっている美術史学という学問は、近代になってから作られた一つの言説です。したがって日本の美術史学には、それを作ってきた時代の思想や価値観が、抜き差しならないかたちで絡みついています。もし、私たちがそれに気づかないまま従来の美術史学を続けるなら、私たちは、過去の思想や価値観を、自分にも、他人にも、無意識のうちに押しつけていることになるのです。
いま、私たちが自らの時代の学問を行おうとするなら、階級または身分、人種または民族、そして何よりジェンダーの問題に、無関心でいることはできません。これらは相互に関連し合っているものですが、私は今回、ジェンダーの問題を中心に取り上げることにしました。その理由は、美術史学に限らず日本の学問全般の中で、ジェンダーの問題がほとんど無視されており、その重要性がまったく認識されていないと思われたからです。
では、ジェンダーの問題を考慮に入れると、美術史学の何がどう変わるのでしょうか。答えは、すべてが変わる、ということです。ジェンダーの問題に気づけば、これまでの美術史学が扱ってきた対象やテーマはみな、一部の異性愛男性の価値観によって選ばれたものに過ぎなかったということがわかります。そして、それを「普遍的な」「主流の」美術史だと信じてきた私たちの信仰も、根本的に間違っていたことがわかるのです。それがわかるだけでも、私たちが感じている息苦しさの半分は、解消されるのではないでしょうか。なぜなら、私たちの領域でも、従来とは違う、もうひとつの、新しい美術史学を作っていくことが可能なのだと思えるようになるからです。ジェンダーの視点からの検討は、これまでの美術史ヒエラルキーに何かを付け加えようとすることではありません。そうではなく、そのヒエラルキーそのものを無効化し、新たな学問の可能性を切り開いていこうとするものなのです。
今回の発表では、具体的な例をひとつ挙げることにします。取り上げる作品は、南禅寺大方丈鳴滝の間の障壁画です。これまでは、いつ、どこで、誰のために描かれた作品であるか、まったく不明だったのですが、近年の建築史研究の進展によって、その詳細が初めて明らかにされたというものです。この作品を、ジェンダーの問題をふくめて分析し、日本美術史の分野でも、新しい美術史学の実践が可能なのだということを示したいと思います。
日本美術の始まり
木下直之(東京大学)
美術史にかぎらず、およそ歴史を語ろうとすれば、かならず始まりと終わりがある。未来までを語る行為については、ここではふれずにおこう。日本美術史研究者で、未来を専門領域だと称する人物にはまだお目にかかっていないから。
さて、語り始めはともかく、語り終えることはいとも簡単に見える。現在までを語ればよいからだ。しかし、いざ日本美術史を編もうとして、最後の頁に誰の何を載せればよいかと考えるなら、現在をそのまま歴史に登録することは容易ではないと気が付くはずだ。「現代美術」という伸縮自在なことばが、いかに便利で居心地よいかがわかる。「現代美術」に関する発言者の多くは、美術の現在を、場合によっては未来をも発言しているのであり、しばしば美術の終焉を論じるにせよ、美術史の終わりを問題視するわけではない。
一方、美術史の始まりを論じることは、さらに大きな困難を伴うだろうと想像はつくものの、正直いえば、それは視野のはるか彼方にある。そのうえ、現代美術の場合と比べれば、美術史の始まりにかんする発言者の数は皆無に近い。大半の研究者は、始まりと終わりの間を細かく分割したうえで自分の専門領域を設定しており、幸いにも、その両端を意識せずに済んでいる。宇宙の果てを気にせずに暮らしているようなものである。
最新の日本美術史『日本美術史館』(1997年・小学館)は、旧石器時代の打製石器に始まり、高松伸の「植田正治写真美術館」で終わる。同じ小学館が1970年に出版した全集『原色日本の美術』では、第1巻『原始美術』を縄文時代早期の岩偶で始めていた。わずか27年の間に、日本美術の始まりが数千年(?)さかのぼってしまったことに、われわれはあまりにも鈍感である。
改めて考えると、岩偶や土偶を起点に日本美術史を語り始めるという合意がいつの間にか出来上がっていた。おそらく、その理由は岩偶や土偶が人の姿をしているからで、そこに絵画と彫刻を基軸とした、そして人間像中心の西欧の美術史が投影されたことは明らかだ。次いで、縄文土器が視野に入った。おそらく、それは道具を美術ととらえる思考がもたらしたものに違いない。そのすぐ先に石器はあるはずだが、これらは明治初期の博覧会に早くから展示され、博物館に収蔵はされたものの、美術史には参加できずにきた。
1900年のパリ万国博覧会参加を機に編まれた『稿本帝国日本美術史』は、古墳時代の壁画と石人から始まり、岡倉天心は東京美術学校での講義「日本美術史」(1890〜92年)を奈良時代の仏教美術から始めるというぐあいに、この百年間に日本美術の始まりは加速度的に過去へとさかのぼってしまったことを確認したうえで、次の問題を指摘したい。
第1に、日本美術が土偶や土器に始まるという暗黙の了解は、戦後の日本美術全集の相次ぐ出版がもたらしたものである。第2に、長く石器が視野に入らなかったのは、単にそれが美術でないからではなく、必ずしも日本民族の手になるものではないがゆえに日本美術ではないと判断された結果でもある。第3に、日本美術の始まりを論じるとき、「原始美術」というカテゴリーがいったん必要とされた。このカテゴリーは現代アフリカ美術までをも含めるという時間軸上の歪みをはらんでいて、それは今も解消されたわけではない。以上の観点から、日本美術史で石器がどのように無視され、また扱われたかを考察する。