今泉篤男渡欧米

1951年09月

美術評論家の今泉篤男は各国の美術施設及び美術界の視察研究の目的をもつて二六日午前七時三〇分羽田発渡英した。約半年で仏、伊、スペインの各地を巡つたのちアメリカ経由帰国の予定。

仏から科学美術使節

1951年09月

フランス政府の科学、美術使節としてこのほどハノイ大学講師、理博シモーヌ・ハタムが来日、二八日から一週間、日仏会館でパステル画展を開くとともに二八日「絵画の技法」と題する美術講演を行つた。化学、博物学を専攻、余技の画とピアノも玄人の域に達した多芸多能の婦人である。

正倉院新宝庫着工

1951年09月

学界未調査の宝物を完全に保存するため奈良市の正倉院に予算二千万円で新宝庫がつくられることになり、一四日着工式が行われた。これは現宝庫の校倉作りをそのまま近代化した構造だとのこと。

文化切手に菱田春草

1951年09月

郵政省では画家菱田春草の暗青紫色の肖像入り文化切手(八円)を春草の誕生日二一日から全国の郵便局で売出した。尚、発売当日春草遺墨展覧会が開かれる飯田市で郵政大臣から遺族に切手の初刷り第一号が贈られた。

新制作派と創造美術が合同

1951年09月

洋画の「新制作派協会」と日本画の「創造美術」が合同、新たに会名を「新制作協会」として発足すると一〇日午後声明書を発表した。

日本宣伝美術会結成

1951年09月

宣伝美術の向上と宣伝美術家の職能地位の確立擁護を目的として日本宣伝美術会が結成された。所謂商業美術よりも社会的、文化的事業などの宣伝に力を注ごうとするもの。一〇日から一七日まで銀座松坂屋で第一回展を開いた。

川島理一郎帰朝

1951年08月

一五日朝八時横浜入港のフランス船ラ・マルセイエーズ号で芸術院会員川島理一郎は約六カ月間パリ画壇を視察して帰朝した。

ピカソ作品展ひらく

1951年08月

マチス展につゞく読売新聞社主催のピカソ作品展は東京高島屋において二六日から九月二日まで開催された。陳列は未発表の近作を含めて油絵一六点、グアーシユ、クレヨン、水彩画一三点、デツサン一七点、陶器一五点、彫刻一〇点、石版画二五点。

サンフランシスコ日本古美術展開く

1951年09月

講話会議で沸きたつサンフランシスコの日本古美術展覧会はデ・ヤング博物館において五日午後五時半から開かれた。ロビンソン・サンフランシスコ市長があいさつし、原田治郎の日本美術紹介講演があつて開会式をとじ、六日から一般に公開された。日本の美術使節団は(団長)高橋誠一郎(顧問)原田治郎(専門指導官)野間清六、金子重隆、山辺知行、松原正業、西岡銀次郎で、国宝級古美術品一七七点が出品された。

福島県で「戒壇」発掘

1951年08月

福島県教育委員会では国立博物館学芸部長石田茂作博士の指導で三日から同県最古の寺院耶麻郡磐梯村恵日寺跡を発掘、調査中のところ、七日に至り予想通り「戒壇」のあることが発見された。

環状列石の発掘調査終る

1951年08月

本欄七月既報の秋田県大湯町郊外にある遺跡環状列石に対する国営発掘調査は八日終了したが、多数の出土品について列石の年代及び使用目的を究明するため考古学、地質学、人類学、先史学、歴史学の各方面から科学のメスが加えられた結果、遺跡の年代は奈良朝時代説がくつがえり、石器時代(約三五〇〇年前)と確認され、列石の使用目的については依然墳墓説が有力だが、確証が上らず、資料を東京に持ち帰つて更に検討することになつた。

ブラジルで書道展

1951年08月

尾上柴舟、柳田泰雪、豊道春海ら現代書家三一名の揮ごう三一点がこのほどブラジルのサンパウロ市で開かれる展覧会に出品のため送られることになつた。

張英超日華の文化交流に

1951年08月

日華の文化交流をはかるため来朝した中国江南派画壇の中心人物で前中国芸術専門学校校長張英超は七日、南画の芸術院会員松林桂月を訪ね、持参した自作の南画数点を中心に歓談、「これを機会に中日の文化的提携をはかりたいと思う」と語つた。又、一三日より一八日迄、日本橋丸善で個展をひらいた。

伊から「チベツト絵図」贈らる

1951年07月

三一日、イタリアの日伊協会長トッチ博士(ローマ大学教授)から外務省あてにチベツト文化史絵図を収めた豪華本三巻を送つて来た。これはさきに中央アジア史の研究家である同博士の依頼で外務省が「東邦考古学叢刊」五巻「遼金時代の建築とその仏像」二巻を送つたお礼だという。外務省はこれを日伊協会を経て東京芸術大学へ寄贈する。

ブラジル国際美術展出品作の内示会

1951年08月

一〇月一日から三ヵ月間、ブラジルのサンパウロ市で開かれる同地近代美術館主催の第一回国際美術展に日本からも出品するよう六月末国際文化振興会に依頼があつたが、同会では現在第一線で活躍している美術家達に依嘱、出品作を用意し、九日横浜出港の長崎丸で送るに先だつて一日より五日まで日本橋三越で全作品の内示会を開いた。出品は日本画では伊東深水山本丘人吉岡堅二東山魁夷ら一四名、洋画は宮本三郎猪熊弦一郎ら一七名、彫刻は山本豊市ら七名、版画は恩地孝四郎ら八名の作品。

秋田環状列石遺跡の調査始る

1951年07月

十和田湖の南、大湯町郊外にある環状列石遺跡に対し“埋蔵文化財の保護とその学問的解明”を結論付けるため長谷部言人博士以下各大学考古学関係教授など文化財保護委員会一行三〇名は二六日午前一〇時のクワ入れ式で国営第二回の発掘を開始した。この遺跡は世界でも珍しいもので、注目されて居り同委員会ではこの学術発表をユネスコ等を通じ米国はじめ世界各国の諸大学に紹介発表のてはずをとゝのえている。

伊の博物館へ日本陶磁器

1951年07月

イタリヤへ送られ、ファエンツァー博物館に入れられる現代日本陶器の代表作一五点は三〇日午後港区三田イタリヤ代表部で文部省宇野芸術課長代理、博物館小山富士夫技官からイタリヤ大使B・L・ダエタ侯爵に贈られた。

都美術館に「友の会」

1951年07月

都教育庁ではこのほど都民の美術愛好家のため“美術館友の会”をつくり、作品の鑑賞、製作、講演会などを行い、都民への美術普及と便宜をはかることになつた。

第一回文化功労者決る

1951年07月

わが国文化の発達に多年貢献した文化功労者を顕彰する「文化功労年金法」が三月末国会を通過したので文部省では選考審査会を設け授与者の審査を行つていたが、二一日午前一〇時から審査会を開き最終的に決定、初の年金支給者は文化勲章帯勲者中現存の者全部三二名と一般から植物学の牧野富太郎博士と長島愛生園長光田健輔の二人を加え合計三四名となつた。実際に年金が伝達されるのは八月中旬の見込で支給額は一人五〇万円(税込)。

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