工芸美術批評家協会結成

1938年10月

大山広光、大島隆一及び柴崎風岬の三名は「厳正なる工芸美術批評確立のため」十月十九日工芸美術批評家協会を結成した。

台湾美術展改組

1938年10月

台湾美術展は昭和二年以来台湾教育会の主催として開催して来たが、総督府では新に之を官設展として経営することになり、台湾総督府美術審査委員会規程及び同展覧会規程を設け、その第一回展を十月二十二日から十月三日まで開催した。

石井柏亭帰朝

1938年10月

海軍省嘱託として、約一ヶ月上海にあつた石井柏亭は十月二十二日長崎入港帰朝した。海軍館を飾る壁画として「支那方面艦隊」並に「海軍陸戦隊の奮戦」の二作に従事下図を完成した。いづれも百号位のもので完成は来年になる予定。

図案関係技術官会議

1938年10月

商工省主催第三回図案関係技術官会議は、十月十二日より四日間丸の内帝国鉄道協会で開催、本省その他の関係官十余名、全国技術官百余名出席、新興代用品の工芸的利用と戦時下の工芸品輸出振興方策を中心として協議を重ねた。

傷痍軍人感謝絵はがき

1938年10月

傷兵保護院では石川寅治吉村忠夫及び広川松五郎の三名に委嘱して傷痍軍人感謝絵はがき三種を作製し、先般同院が全国小学生から募集した傷痍軍人感謝標語当選者並に各道府県市町村及び及教化団体へ十月十八日配布した。

能の海外紹介

1938年10月

「能を中心としたる日本文化史」を講ずる為、外務省文化事業部の斡旋で野上豊一郎が渡英することとなり、能面十五面、装束十枚を持参、十月二日靖国丸で神戸を出発した。面及び装束は金剛家及び細川侯爵家等の蔵品中から選ばれたものである。

文展審査員招待会

1938年10月

文部大臣の文展審査員招待会は十月七日午後六時から上野精養軒で開催、荒木文相初め内ヶ崎、伊東両次官以下関係官、細川侯爵等美術顧問及各部審査員等出席、文相は文展開催に関する抱負を述べ、藤島審査員の挨拶があつた。

銅像建設一部許可

1938年09月

銅使用制限令の為銅像は建設中のものも製作困難に陥つてゐたが、九月三十日東京府ではこの制限を緩和し、建設中のものの中余儀なしと認むるものを認可した。

日支合同油絵展覧会

1938年09月

北支方面に従軍した石井柏亭等の主唱で、主として従軍の洋画家等と支那の洋画家とが合同し日支双方五十点宛の作品を出品、九月十九日から二十五日迄北京中央公園で、第一回中日美術家合同油絵展覧会が開かれた。

ヒトラーユーゲント招待

1938年09月

来朝して各方面見学中のヒトラー・ユーゲント一行を招待して朝日新聞社主催の午餐会が九月二十七日上野精養軒で行はれ、同社幹部の外日本美術院から横山大観堅山南風斎藤隆三等出席、大観は「日本画の真髄」と題する講演をなし、南風は揮毫によつて日本画の実技を紹介した。

代用品発明懸賞募集

1938年09月

大阪朝日新聞社では商工省及府市後援の下に代用品奨励の為その発明考案の懸賞募集を発表、十一月展覧会を開くこととした。服装用品、事務用品及運動具、家庭用品、容器及包装用品、飲食用品、機械工具及部分品、建築材料、再生回収及廃物利用、代用資源の九部に分ち、各部夫々一等千円の賞金を提供、別に最優秀作品に野村奨学会奨励金五千円を贈る。

防空ポスター献納

1938年09月

全日本商業美術聯盟では、防空に関するポスター原画百四点を製作し、九月八日東部防衛司令部に献納した。同司令部では之を利用して同十二日からの防空演習期間中市と聯盟の共同主催で、日本橋白木屋で展覧会を開いた。

建築部分品代用品協議

1938年09月

金属の建築資材部分品はすべて代用品におかるべきであるといふ趣旨から、商工省が肝煎りで九月二日鉄道協会に関係官庁、建築関係諸団体の代用品製造業者の各代表等を集めて第一回建築資材部分品金属代用品協議会を開催、その普及徹底を図ることとなつた。

文展第二部審査員

1938年09月

文展第二部審査員のみ決定が遅れてゐたが、旅行中の石井柏亭が九月五日帰京、安井曽太郎と共に辞退したので、その他の人選を決定同七日発表した。尚第三部では平櫛田中が辞退したので、同部のみは十四名で審査に当ることになつた。

東亜文化協議会創立

1938年08月

我が政府と中華民国臨時政府との協力により、日支文化の聯絡機関として東亜文化協議会が設立され、我が国からは学界の権威三十名を代表として派遣、支那側では行政委員長王克敏、教育部総長湯爾和、議政委員会委員長周作人を初め北京大学教授等が代表として出席し、八日三十日北京懐仁堂で盛大な発会式があげられた。引続き九月二日迄人文科学、自然科学の両部門にわけて会議を開き事業の方策に関する協議が行はれた。

東亜研究所設立

1938年09月

東亜新建設の国策遂行に当り、その基礎的調査機関として東亜文化の一大綜合研究所設置の必要が認められ、企画院に於て外務、陸、海軍、大蔵当局等各方面と連絡して具体案作製中であつたが、愈々成案を得、官民協力の財団法人組織として東亜文化研究所を設置することとなり、九月一日首相官邸に於て開所式があげられた。

一水会文展不参加

1938年08月

一水会会員は依然文展に参加せぬことになり八月二十九日左の声明書を発した。 「去二十八日都下諸新聞に一水会も文展に合流するが如き発表有之候へ共事実は本月初旬文部省より其の交渉を受けたるに付慎重協議の結果本会は依然中立持続に態度一決、之を去る十五日共の筋へ通達を了せり、従つて今回の記事は一般並に出品者諸君に多大の御迷惑を相掛け候次第に付右誤解なき様御含み被下度候 八月二十九日 一水会」

文展開催要項発表

1938年08月

文部省では今秋開催の文展に関し、出品点数寸法等を改めた要項を七月三十日官報で発表した。

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