名古屋汎太平洋平和博覧会

1937年05月

三月十五日から五月三十一日迄名古屋市主催の下に、同市臨港地帯十五万坪に名古屋汎太平洋平和博覧会が開催された。出品物は産業、交通、教育、科学、歴史、国防資材、電気、機械、土木、建築、社会、衛生、体育、観光、美術、工芸等に関する凡有る部門を含み、本邦領土、委任統治地、租借地、並に太平洋沿岸諸国、其の他同市と密接な関係ある諸国を出品区域とし、参加国は三十二に達した。直接経費三百万円、陳列館二十六、外国特設館七、内国特設館二十二、附属館四、特設物及び附帯施設十五等で、建築は特設館を除き同市建築課の設計監督になる。

巴里万国博覧会参加

1937年05月

フランス政府がパリ市と協力して主催する「近代生活に於ける芸術及技術に関する一九三七年巴里万国博覧会」に関し、昭和九年末同国政府より我が政府に対し参加方勧誘あり、商工当局に於て考究の上政府は五十四万円の予算を以て参加を決定し、同十一年六月其の旨を先方に回答、爾来商工省内に於て其の事務を主宰し準備を進めた。一方民間側としては日本商工会議所日本産業協会、国際文化振興会の諸団体を中心として巴里万国博覧会協会を設立政府援助の下に同博覧会本邦参加出品に関する事務の処理に当つた。 同博覧会はパリ市中セーヌ河畔約二十四万坪を主会場とし、仏国政府支出金及パリ市分担金十億五千万法並に寄附金一億法の予算を以て計画され、参加国四十二箇国、世界の主要国を殆ど網羅し、各国は特設館を建設、自国文化と国力の宣伝に努めた。会期は四月より六箇月間の予定であつたが、同国に於ける労働運動等の為遅延し、五月二十四日未完成の侭開場式を行ひ、十一月二十五日閉場式を行つた。日本館の開館は六月十八日であつた。 今回の万国博覧会は単なるお祭騒ぎ或は見本市の如きものとは全く趣旨を異にし、其の名称に示す如く「近代生活に採り入れられた芸術と科学」或は「工芸と機械力、美と実用、進歩と伝統の調和」等を主題とし、摸倣因襲を排して芸術的斬新性を有する出品を目的としたもので本邦参同方針も此の趣旨に基き、約三、五〇〇平方米の敷地に日本趣味を探り入れた現代様式二階建の日本館(有蓋建築面積延一、〇七六平方米、建築費約二十五万円、設計監督坂倉準三)を建設、出品は館内を左の四部に分けて陳列することにした。 一、家庭生活部(応接室、婦人室、喫茶室) 二、商店部(布帛類、食器類、工芸品類) 三、科学部(新発明、考案等、なるべく実演操作を示す) 四、文化宣伝部(文化宣伝と観光宣伝を含み、産業、文化の状況と風光の紹介に努む) 出品に就ては従来の如き一般観誘を廃し、建物、出品物、陳列方法に一貫した綜合計画を保つ為、当局に於て指定製作又は指定出品の方法を取つた。出品者は三府二十県に亙り二百名、出品点数は約千四百点、其の大部分は二月十四日横浜出帆の榛名丸で発送した。又本邦参同事務処理の為政府より商工書記官菅波称事同技師池部宗薫の二名並に協会側より三名の係員を派遣した。 尚発送に先だち新な試みとして、一月二十一日より同二十七日迄日本橋高島屋で出品物国内展示会を開いた。

内閣更迭

1937年06月

内閣総辞職の為後継近衛内閣が六月四日成立、安井英二が文部大臣に任ぜられた。

朝鮮童宝芸術院創立

1937年05月

津田信夫、西沢笛畝、鮮銀重役大塚源二郎等を顧問とし、松田黎光、宇野光恵其他を役員として朝鮮童宝芸術院が創立された。朝鮮に於ける人形の発達を図り年一回展覧会開催の予定。

「回顧七十年」出版記念会

1937年05月

正木直彦は此の程著書「回顧七十年」を学校美術協会から出版したが、有志の発起に依り五月十日夜上野精養軒で其の出版記念会が催され、出席者約二百五十名で盛会であつた。

田能村直入三十周年追薦会

1937年05月

田能村直入逝いて三十周年に当るので、五月十五、十六の両日京都若王寺の画神堂で追薦会を修行、其の他追善の催あり、又恩賜京都博物館では十五日から三十一日迄遺作展覧会を開いた。

満州国美術展

1937年05月

満洲国皇帝の御訪日記念事業として、満日文化協会主催、満洲国文教部後援で、訪日宣詔記念第一回美術展覧会が五月二日から同八日迄新京で開かれ、我が国からは松林桂月藤島武二安井曽太郎の三名が審査を依頼されて渡満した。

オリンピツクポスター及マーク懸賞募集

1937年05月

オリンピツク総務委員会宣伝部では五月五日関係者出席会合を開き、東京大会海外宣伝用ポスター、徽章として用ふる五輪マークの意匠等に就き協議の結果一般から図案を懸賞募集することになり、審査を体育芸術協会に委嘱、賞金等を左の如くすることに決定した。 ポスター一等一千円一名、二等三百円二名 三等二百円三名、マーク一等三百円一名、佳作五十円三名、締切六月末日

昭和洋画奨励賞授賞式

1937年04月

財団法人昭和洋画奨励会本年度受賞者は、春陽会々友森田勝及び昨年文展出品「巌」で選奨された倉員辰雄の二名と決定、四月二十七日午後五時から東京会館で同賞創設者米山梅吉外委員等参列の下に授賞式が行はれた。

文化勲章授与

1937年04月

二月十一日制定された文化勲章最初の拝受者は別記九名と決定、四月二十六日賞勲局より発表され、同二十八日賞勲局総裁室で其の伝達式が行はれた。美術家として此の光栄に浴した者は竹内栖鳳横山大観岡田三郎助藤島武二の四名である。

木、漆、金工関係技術官会議

1937年04月

商工省主催に依る木、漆、金工関係技術官会議は四月二十二日より四日間名古屋市日本陶磁器工業組合聯合会会館に於て開催され、参加者は商工省側西川工業課長外十一名、地方技術官七十八名であつた。

国画会組織改正

1937年04月

国画会では四月二十四日午後東京府美術館に総会を開き、従来会員、会友に分けてゐた区別を撤廃し一様に同人とすることに決定した。尚新同人推薦及び本年度展覧会授賞を決定発表した。

佐分賞授賞

1937年04月

昨年佐分真を記念して制定された佐分賞の第一回授賞者は、四月十三日夜銓衡委員会で人選の結果、国画会々員青山義雄と決定、同二十三日夜赤坂幸楽で関係者出席の下に授賞式を行ひ兼て佐分真の追悼会を催した。

聖徳記念絵画館行幸啓

1937年04月

天皇皇后両陛下には四月二十日午前九時宮城御出門明治神宮に行幸啓御参拝あらせられた後外苑の聖徳記念絵画館に御立寄り遊ばされ明治天皇の御偉徳を偲ばせられた。両陛下共絵画館への行幸啓は今回が御初めてで、河原田内相、徳川家達公、阪谷芳郎男等旧奉賛会関係者、今井絵画館長等の奉迎を受けさせられ、便殿に入御、御先着の旧奉賛会総裁閑院宮殿下に御対面あらせられ、更に諸員に賜謁の後、有馬明治神宮宮司の御案内で約一時間に亙り陳列の絵画を御巡覧遊ばされ、十一時二十五分諸員奉送裡に同館御発宮城へ還幸啓あらせられた。

映画「現代の日本」批判会

1937年04月

前記日本紹介映画「現代の日本」輸出の是非を問題とした美術批評家協会では四月十四日文芸、美術、映画等の関係者を招いて試写会を開いたが、更に同二十三日午後築地小劇場で公開の試写並に批判の会を催し、国辱か否かに関し来会者一般の意見を記名投票に求めた。其の結果は支持するもの七〇票に対し否とするもの三二票で、国辱に非ずとする意見が勝つた。

明治神宮奉賛会解散式

1937年04月

大正四年十月創立以来明治神宮外苑の諸造営完成に不朽の功を遂げた明治神宮奉賛会は、四月十九日午後二時半閑院総裁宮殿下の台臨を仰ぎ、憲法記念館に於て盛大な解散式を挙行した。

明治天皇記念館壁画画題及画家決定

1937年04月

大阪市婦人聯合会の寄附に依る明治天皇記念館壁画に就き、四月六日壁画委員会に於て左の通り画題及び画家を決定した。同壁画は明治元年以来数次に亙る明治天皇大阪行幸を記念し御聖徳を奉頌せんが為、同館陳列室に掲げられる予定である。 日本画 一、明治元年天保山海軍叡覧之図 北野以悦 二、明治五年造幣寮着御之図 川上拙以 三、明治十年難波御堂に於ける学業天覧之図 小川翠村 四、明治十年軍事病院臨御之図 樋口富麻呂 五、明治二十三年皇后宮錦繍堂臨御之図 生田花朝 洋画 一、明治元年大阪行幸之図 赤松麟作 二、明治二十年偕行社行在所着御之図 国枝金三 三、明治三十一年陸軍特別大演習帝塚山御野立所之図 鍋井克之 四、明治三十六年第五回勧業博覧会御挙式之図 新井完 五、明治三十六年築港叡覧之図 林重義

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